ささやき竹 福福亭とん平の意訳

 『地蔵堂草紙』では、お坊さんも欲望のある人間であると語られていました。同じような笑い話を拾いました。
 
  ささやき竹

 昔、河内国の前の役人で、刑部左衛門(ぎょうぶさえもん)よしちかという裕福な人がいました。年をとっても子供がありませんでした。屋敷の近くに霊験あらたかと人々が参詣する毘沙門様がありましたので、毘沙門様にお願いしたところ、玉でできたようなとても美しい姫が生まれました。大事に大事に育てたところ、何の障りもなくいつしか十三歳になりました。誠に優美な姿で、心ばえも優しく、誠に非の打ち所がありません。詩歌管絃の芸能はすべてに長じ、教養としての古今和歌集万葉集源氏物語狭衣物語伊勢物語もすべてに通じていました。
 時に、春になりましたので、姫様は毘沙門堂へと花見にお出かけになりました。姫様は、あちらこちらとご覧になると、一重の桜、八重桜、藤、山吹というあらゆる花が一斉に咲き誇っていました。その中に、花はなくただ青葉の松の梢を見て、姫様は、一首、
  春べにはいづれの木々も花咲くになど松ひとり青葉なるらん
  (春になるとどの木々にも花が咲くのに、どうして松だけは花が咲かないで青葉の
   ままなの)
と、お詠みになるのを、毘沙門堂別当の坊さんが聞きつけて、すてきな歌だなあ、この世に生きているものすべて、異性と親しく結ばれる縁があり、あらゆる草木までも花が咲き、実がなるのに、この法師だけがどうして一人身なのかと気の毒にとお思いになって、姫様がこの歌をお詠みになられたのだろうと思い込んで、坊さんの心は千々に乱れ始めました。
 そして、坊さんは、自分の部屋に帰り、何とかしてあの姫様と夫婦になろうという計画を、朝晩考えるようになりました。ようやく、良い案を思い付きました。それは、刑部左衛門の屋敷に忍び込んで、竹筒を使って夫婦に毘沙門様のお告げとしてだましてやろうということです。
 夜、坊さんは夫婦が寝ているところに忍び入り、まず、刑部左衛門の耳の傍に節を抜いた竹筒を近づけて、「よく聞け、我は毘沙門天であるぞ。そなたの娘は、十三歳までそなたに預けておいたのである。今すぐ我に返せ。それが不承知ならば、我が祀られている寺の別当の僧を聟として、娘を寺へ送るならば、命はそのままにしておこう」と、夫婦それぞれの寝ている耳にささやき込んで寺へ帰りました。
 刑部左衛門夫婦は目覚めて、これは情けないことになったと嘆き悲しみましたが、どうしようもありません。結局、毘沙門様のお告げに従って娘を寺へ嫁に出すしかないと、別当の僧の所へ使いを出します。僧はうまくいったと、とても嬉しく思いましたが、さりげない様子をして、使いの者の前では、腹の中では笑い、外面では怒りの形相になって、「長い年月清らかに修行を続けてきたのに、その功を打ち消すような、まことに迷惑な毘沙門様のお告げですなあ。とは言いながら、そちらの姫様を迎えなければ、姫様の命に関わります。人を助けるのは人の役目、憚りながら、お迎えをお出ししましょう。こちらも寺のことですから、控え目にお迎えの者を出しましょう」と、若い僧二人に、姫様を乗せる輿の代わりとして大般若経を納める箱を担わせて、刑部左衛門の屋敷へ迎えにと出しました。
 このようなことで、二人の若い僧は刑部左衛門の屋敷に着き、姫様を迎えに来たことを告げます。刑部左衛門夫婦はこの声を聞いて、「ああ、情けない。たった一人の大事な娘なのに、大名や公卿のような家の人を聟にしないで、あんな坊主ごときを聟にするなんて、これも前世の因果なのだなあ」と、親子別れの言葉を言い交わし、娘を二人が担いできた大般若経の箱に入れて、毘沙門堂へと送り出しました。
 途中の野辺を通っていると、刑部左衛門の屋敷から出立の時に振る舞われた酒の酔いが出て来ましたので、「これ、相棒、この芝草の上で一休みしていかないか」「それが良い」との遣り取りをして、二人とも酒の酔いでぐっすり寝込んでしまいました。
 そのところに、同じ河内の国の住人で、上皇様に宮仕えをしている高田の宮内丞という人が、「さあさあ、野に鷹狩りの遊びに行こう」ということで、この野原に来て、鷹を使って鶉や雲雀の小鳥を獲って遊んでいました。刑部左衛門の屋敷へと行った若い僧二人が酔って寝ているところに、馬を走らせて近寄ると、傍に置いてある箱が少し動きました。宮内丞は妙だなと思って、「その箱の紐を解いてみなさい」と家来に命じます。家来たちが「かしこまりました」と蓋を開けてみると、言葉には言い表せないほどの美しい姫様が、なにか沈んだ様子で、涙ぐんでいました。
 宮内丞は、馬から急いで飛び降り、「どういうわけでこの箱に入れられたのですか」と尋ねます。姫様は、「この世に生まれてきて、夢の中に夢を見るような出来事が続き、思いの外のことがあるのです。私は、父母の命で毘沙門堂の僧の元へ送られるのです。親の命に従わないと、五逆の罪に落ちるので従わなければなりません。こんな悲しいことはありません」と涙ながらに事情を話して憂いに沈みます。この姫様の髪の艶やかに流れる様子、美しい容貌、この世の者とも思えません。
 宮内丞は、「ぶしつけな申しようではございますが、私は十八歳になりますが、まだ妻がおりません。あなたを私のところへ妻としてお連れしたく存じます」と申します。姫様は、「私は仰る通りにしたいとは存じますが、親の命に背くことはできません」と答えます。宮内丞は、「それはそうでしょうが、いつかお詫びをする時もあるでしょう」と言って、姫様の手を取って立たせ、馬に乗せました。宮内丞は、そこに放牧されていた牛の子を姫様の代わりに箱の中に入れ、前の通りに紐を結んで、家へと帰りました。
 さて、しばらく経って若い僧二人は目を覚まし、「おい、これ、起きろ」と言って起き上がり、箱を担ごうとすると、中には牛の子が入っているので、牛の子が跳びはねて暴れましたので、僧たちは、「ごもっともです、お酒をたくさん飲ませていただいたもので酔って、ぐっすり寝てしまいました」「困ったな、ずいぶんお怒りだ」「寺に行っても、私らが昼寝をしていたことは、別当様には内緒にしてください」と言い、急いで毘沙門堂へと帰りました。
 別当の僧は待ち兼ねて走り出て、「道中さぞ窮屈でしたでしょう」と言いながら経箱の蓋を開けると、一匹の牛の子が飛び出して、屏風や障子を蹴破って跳ね回りました。別当の僧も若い僧たちもとても驚き、「これはどうしたこと、お姫様が牛になりました」「何とかして捕まえて、もとの姫様になれと祈りましょう」と言い合います。
 僧たちはようやく牛の子をつかめて、護摩壇の柱につないで、七日にわたって昼夜祈りましたが、もとの姫様にはなりませんでした。その後、寺から刑部左衛門のところへ、姫様が牛になったと伝えましたので、刑部左衛門夫婦はこの上なく嘆きました。
  恨むべき言の葉もなくなりにけり恋しき人をうしと見しより
  (恨みを言う言葉ももはやありません。恋しい人を憂し(つれない)なあと思ってか
   らは<恋しい人が牛となったのを見てからは>)
 一方、宮内丞は自分の屋敷に姫様を連れて行き、末々までも添い遂げようという契りを結び、日々を送るうちに、男女七人の子が生まれ、豊かに暮らしました。刑部左衛門にもこのことが伝わり、たいそう喜びました。子孫も無事に栄えたという、めでたいことでございます。

 蛇足
 修行僧も人間なのですが、姫様の和歌が目覚めさせてしまったのか、もともとその気があったのを歌のせいにしたのかと、とにかくお坊さんの欲望を描いた物語なのです。
 ですが、物語についての解説としては、箱の中身が変わっての混乱に重点が置かれています。「(この物語は)町の若者の話に変容して落語『お玉牛』(上方咄)まで続く話型である」と『広辞苑』に解説されています。
 咄の前半は『ささやき竹』には関係ないので省略して、後半のあらすじだけご紹介します。
 堀越村の若者が、お玉という娘を張り合っています。若者の中で、茂平という男がお玉を脅して、夜に自分を迎え入れるように約束をさせてしまいます。お玉が泣いていると、父親がこれを聞き、お玉の寝間に牛を寝かせておきます。夜、暗闇で忍び込んだ茂平は、お玉と思って牛のあちこちを触り、牛に鳴かれて驚いて逃げ出します。昼間、茂平は、若者たちのところで今夜お玉が自分を迎え入れると自慢していました。夜に皆のところに逃げ帰った茂平に、若者が、「お玉をウンと言わせて来たか」「いや、モウと言わせて来た」。
というものです。「モウ」に、若い女性の、「素敵」という意味を掛けていて、少し、艶笑咄の響きのある言葉です。
 『ささやき竹』をそのまま落語に取り入れたのだという咄に「牛の嫁入り」があります。あらすじを紹介しましょう。
 ある金持ちが、娘に良縁を授けてほしいと亀戸天神にお参りします。これを聞いていた与太郎が、天神様になりすまし、「与太郎を聟にせよ」と告げます。
金持ちは与太郎の家を探し出し、早速娘を長持に入れて送り出しましたが、人足が途中で疲れたと言って、長持を置いて飲みに行ってしまいます。そこへお百姓が通りかかり、長持を開けると娘がいるので、事情を聞き、代わりに牛を入れておきます。長持は与太郎の家に着き、与太郎は明かりを消して長持を開け、牛の尻尾を引っ張ったので牛が鳴きます。驚いた与太郎は大家の家に飛び込みます。「どうした」「暗闇から牛を引っ張り出しました」。
 物の識別が出来ないこと、また、動作がのろくてはっきりしないこと、という喩えの慣用句を落ちに使っている咄です。誰が『ささやき竹』を読んだのでしょう。
 もう一話、使いに行った者が途中で荷を下ろして休む咄に出会いましたので報告します。「須磨の浦風」という咄です。
 夏の日、大坂の鴻池善右衛門のところへ紀州の殿様が遊びに来ることになりました。おもてなしに須磨の浦の浦風を長持に入れて取り寄せようということにして、人足たちを行かせます。浦風を長持に入れた人足たち、あまりに暑いので、途中で休み、少しなら良いだろうと長持の目張りを破って涼風に当たります。もう少し、もう少しと当たっているうちに長持は空になりました。人足たちは仕方なく、屁を長持にいれて持ち帰りました。紀州公を迎えた善右衛門が座敷で長持を開けると、とても臭くて、善右衛門は怒ります。すると紀州公が、「怒るな、暑さで浦風が腐ったのであろう」。
 長持に入れた涼風が長持ちしなかった、とは誰も言っていません。
 以上、頼りにならない人足たちのお話になりました。