落語のひととせ 11 冬の部1

   うどん                       (うどんや、替り目)
 江戸っ子は蕎麦を好み、表立っては饂飩を食べない振りをしました。饂飩は温まりますから、冬の夜にはうってつけなのですが、「饂飩は風を引いたときに口にするものだ」というのが、やせ我慢の江戸っ子の弁です。とすると、「おすわどん」の手討ちになりかけた蕎麦屋さんは、上方の人だったのかな、と疑問がわきます。そこは咄の世界、お蕎麦と饂飩でなければ咄が成立しないのですから、ご海容のほどを願い上げます。
 冬の寒い夜には、温かい饂飩が体を温めてくれます。蕎麦屋さんは喉を使って、「そーばーぅぃ」という感じで呼びますが、うどん屋さんは腹から「なぁべやぁきーうどぉん」と少し野暮ったく太い声を出します。呼び声でも細いと太い、形を表しています。
 今夜は寒いから休みにしたら、というお神さんの忠告もありましたが、寒い方が売れるのではないかと考えて、うどん屋さんは出て来ました。まず一声、早速反応がありました。「うどん屋さん、今ね、子供が寝たとこだから静かにしてちょうだい」です。どこで子供が寝かかっているか知る訳がない、とぼやいて、隣町へと急ぎました。
 今度出会ったのは酔っ払いです。荷につかまって揺すったり、同じ話をくどくどと何度も繰り返したり、火に当たらせろとうるさいのです。水をくれと言うので、「お冷やで」とうっかり言ってしまったので、水とお冷やの呼び方でからまれました。なかなか注文がないので、「お雑煮もあります」と勧めると、「酒飲みに雑煮を勧めるやつがあるか、馬鹿ッ」と怒鳴りつけられ、ようやっと饂飩を売り付けたら、竹筒一本分の唐辛子を使われ、さんざんな目に遭いました。
 もう早仕舞いにしようと思って声を上げたら、商家の裏からかすかな声でお呼びがかかりました。これは、奉公人が主に内緒で食べるのだな、しめたと思ったら、注文は一人前です。さてはまず偵察で、うまかったら店の者が交代で出てくるのだろう、それならこちらも内緒のようにと小さな声で応対をしてと、念入りに作りました。代金を受け取って、少し拍子抜けで歩き始めると、かすれ声で、「うどん屋さーん」「はーいー」「お前さんも風邪を引いたのかーい」。
 うどん屋さんは、この後がっくりと気落ちをして風邪を引かなければいいなと思わせる咄です。女性の勘は大切に受け止めるべきだということでしょうか。
 少し脇道に入りますが、この酔っ払いが断ったのは雑煮の餅ですが、餅というと大福餅や柏餅のような餅菓子を指すことが一般的でした。ですから、酒と餅両方を同時に口にするというのは、辛党でありながら甘党でもあるということで、こういう人を雨風(あめかぜ)と言いました。昔、京都の人から、ぜんざいを肴に飲むと悪酔いをしないので、そうする人が多いと聞きました。今では、血糖値が上がるとして口にしないのではないでしょうか。
 ある家で、亭主が寄って帰って来ました。もう少し飲みたい、おでん屋が出ているから買ってこいとお神さんを行かせます。亭主はその間に燗をつけておこうと思いましたが、あいにく火が消えています。これから火を熾すのも面倒だと思っているところ、表にうどん屋が通りました。
 これはしめた、うどん屋なら火を持ち運んでいるなと呼び込んで、うどん屋に酒の燗を付けさせました。うどん屋は何か注文してくれると思って、言う通りに燗を付けて渡すと、もう用は済んだと言われてしまいました。「うどんを差し上げたいんですがね」「おう、勝手に差し上げて見せてくれ」「いえ、うどんを召し上がっていただきたいんで」「うどんは嫌えだ」「雑煮もございますが」「酒飲みに餅を勧める間抜けがあるけえ」と言われ、あげくのはては、「このあたりで火事が多いが、お前が付けてるんじゃあねえか」と言いたい放題です。
 うどん屋はぶつぶつ言いながら出て行きます。そこへお神さんが帰ってきました。火がないのに燗が付いているので訊くと、「うどん屋が来たんで付けさせたんだ」「それで何か誂えたのかい」「しねえ」「こんな寒い日に、可哀想じゃあないか、商人をいじめるんじゃあないよ。じゃ、私が鍋焼きうどんでも頼もう、ちょいと、うどん屋さん、うどん屋さーん」。「おう、うどん屋、あすこの家で呼んでるぜ」「いえ、あすこは行けません、ちょうど銚子の替り目でしょう」。
 お神さんの心遣いは人付き合いの常識ですが、うどん屋はもう一度燗を付けさせられて被害が拡大するのではないかと逃げました。この咄、最近ではおでん屋で何を買うかをお神さんと遣り取りして、亭主が、もうお神さんは出て行ったと思い、それまで威張っていたのが一転低姿勢になって、お神さんへの感謝を言うと、まだお神さんがいて、「しまった、元帳見られちゃった」と切ることが多くなりましたから、なぜ「替り目」という題かわかりにくくなりました。
 ところで、この二つの咄は、屋外と室内との場所の違いはありますが、酔っ払いとうどん屋の間で、水をくれというくだりだけはありませんが、同じ遣り取りがあります。楽屋帳がありますから、同時に聞くことはないので、なかなか重なっていることに気付きません。このようにそれぞれがまとまってしまっていれば、もはや問題になりません。ただし、本筋ではなく他の咄のくすぐりを持ち込むと、楽屋帳には記録されませんので重なりが発生して、後に高座に上がった咄家の不勉強と聞き手に思わせますので、これを「つかみ込み」と呼んで、決してやってはいけないことになっています。

   汁粉                  (石返し、孝行糖、ぜんざい公社)
 字で書けば「汁粉」、「しるこ」ですが、江戸訛りでは「しろこ」です。「る」と「ろ」は通じるようで、風呂敷は「ふるしき」、幕末に来たペリーは外国人の名のせいもあって「ぺろり」で、日本をぺろりと一舐めにしようとして来たと怖れました。葛飾北斎歌川広重の浮世絵に使われて有名なプルシアン・ブルーという藍は、ベルリンで出来たということで、ベルリンの藍が転じてベロリンの藍、縮めてベロ藍と呼ばれています。この藍はぼかしが見事にできて褪色が少ないので多用され、やがてベロ藍を使った浮世絵がヨーロッパに渡ると、ヒロシゲ・ブルーと呼ばれて人気があるという話は、脱線が過ぎました。
 さて、行商は結構安直にできるので、思い立ったその日からできます。叔父さんは、ぶらぶらしている与太郎に汁粉を売らせることにしました。与太郎があちこち歩き回っていたら、ある屋敷で声が掛かりました。「そこまで行くのは大変だから、鍋を下ろす。その中に汁粉を入れろ。代は投げるとどこに行くかわからないので気の毒、ぐるりと回ると門番がいるからそこで受け取れ」と言われ、全部売れることになりました。与太郎は喜んで、言われた通りに下がってきた鍋に汁粉を全部入れ、門番に代を受け取りに行きます。門番に話をすると、「そんなところに人はおらん、おおかた、狐か狸に化かされたのであろう」と言って、とり合ってくれません。あれが狸だったら、あの鍋は、狸の、でも熱くないのかな、などと余計な心配をしながら与太郎は叔父さんのところに帰りました。
 叔父さんに話をすると、「それは狸なんかじゃねぇ。あすこは鍋屋敷と言って、商いの者がだまされて、売り物を取られてしまう場所だ。それをお前に話しておかなかったのは俺の手落ちだ。しかし、商い物を全部取られたのはしゃくだから、仕返しをしよう」と言います。今までの担ぎ屋台の行灯の紙を貼り替えて、うどん屋になり、鍋屋敷へと向かいました。
 鍋屋敷が近づき、「甘ーい、お汁粉」「馬鹿、うどん屋だから、鍋焼きうどーん、だ」と早速間違えましたが、幸い気付かれないで、前と同じように注文がありました。鍋が下がってきました。「叔父さん、あれが狸のじゃあないか」「馬鹿を言うんじゃない、いいから鍋を外して、そこらに大きな石があるだろうから、鍋の代わりに結び付けるんだ」「大丈夫(だいじょぶ)かい、そんなことして」「もしわかったって、門まで回ってくる間に逃げられるからいいんだ」と取り替えました。「へえ、どうぞお上げなさって」「ずいぶん入れたな、重いぞ、うーん、何だこれは、石ではないか」「へ、先程の意趣(いし・石)返しで」。
 前に「百川」のところで「しゅじんけ(主人家)」と「しじんけん(四神剣)」の取り違えと書いた「しゅ」と「し」の江戸訛りです。新宿は「しんじく」、千住は「せんじ」で、若い衆は、「わかいし」です。
 この与太郎か別人か、親孝行でお奉行から褒められ、「青緡(あおざし)五貫文」という褒美を下されました。緡に通した銭を五千文で、金額は一両くらいですが、町内にとって名誉なことでした。そこで町内の者がそれぞれ寄付をして、与太郎に商売をさせようということになりました。孝行でご褒美をいただいたのだから二十四孝の老莱子(ろうらいし)にちなんで、その名も「孝行糖」という飴屋をさせました。売り声は、「孝行糖、孝行糖、孝行糖の本来は、粳(うる)の粉米(こごめ)に寒晒(かんざら)し、榧(かや)に銀杏(ぎんなん)、肉桂(にっき)に丁字(ちょうじ)、昔、昔、唐土(もろこし)の老莱子と言える人、親に孝行しようとて、作り上げたる孝行糖。食べてみな、おいしいよ。また売れたったら、嬉しいね」という売り声を覚え込ませました。あちこちで評判良く売れ、小石川の水戸様の門前のところまでやって来ました。ここでは騒いではいけないのに、売り声を上げたため、門番にさんざん殴られました。通りすがり者が謝り、やっと許されますが、与太郎は「痛い、痛い」「どこを叩かれた」「こうこうとう、こうこうと」。
 小石川の水戸様は、今の東京ドームのそばに残っている後楽園という庭園が、かすかに昔の俤を伝えています。
 与太郎が物売りに出る咄はまだありますが、本題の汁粉に戻って、今度は上方の咄に参ります。
 これは、官営で行われた業があった時代のことです。今では民営化されていますが、日本国有鉄道日本専売公社日本電信電話公社という三つの公共事業体が公社と呼ばれていました。このたび、これらの公社に倣って、ぜんざいを官営で扱うぜんざい公社が出来ました。ここで言うぜんざいは、つぶし餡で汁の多い、関東で言う田舎汁粉の上方の呼び方です。
 ぜんざい公社の、「あなたも一日一杯を」という呼び声につられて、一人の男がぜんざい公社を訪れました。立派な建物に圧倒されながら中に入ると、何をしに来たか問われ、ぜんざいを食べに来たと答えると、申請書を書かされます。次に健康診断をして、別の階の会計課で手数料を払い、餅を入れるなら消防署の出張所で火気使用許可をもらえ、また会計課で許可の手数料を払えと言われて、書類を整えて戻ると、ぜんざい代金支払いのために三度目の会計課へと、たらい回しにされます。ようやく食堂に行き、待望のぜんざいを口にすると、汁気も甘みもありません。「このぜんざいは味がありません」「甘い汁はこちらで吸いました」。
 ぜんざい公社は専売公社のもじりです。百年以上前に作られた咄ですが、昔も今も、お役所がらみの仕事には、競争入札では談合をし、随意契約という優先契約を結んだり、受注すれば下請け、孫請けと委託費を中抜きにするなど、甘い汁を吸う手口は後を絶ちませんので、内容はまだ現代に活きています。

風邪
 (葛根湯医者、藪医者、匙医者、水練の医者、嬶取られ、宗漢、風の神送り<二種>)
 うどん屋の咄が続きました。江戸っ子は、うどんなんて風邪っぴきがたべるもんだと切り捨てていますが、うどんを食べれば体が温まり、症状が軽くなったことでしょう。そこで、饂飩に続いて風邪の咄です。
 風邪には特効薬がないけれど、お医者様にかかります。自らの感染の危険を顧みず医療に従事なさる方ですから、感謝の念を持ちますが、咄に出てくるのは、まだ国家試験のない時代、ほかにすることもないから医者にでもなろうという、でも医者や、医者であった父親が死んで道具も薬も残っていて、もったいないから跡を継いだというような医者であります。
 そんな医者のところに患者がやって来ます。腹が痛いというので、「これは腹痛じゃ」と診断して、その辺にあった粉を渡しました。翌朝見たら、歯磨き粉がありませんでした。
 こちらの医者は、何にでも葛根湯を出します。「どうした、頭が痛い、頭痛だから葛根湯をお飲み、次の者は、腹が下る、下痢だ、葛根湯が効く、目が霞む、そりゃあ葛根湯がいい、その後ろは」「へえ、あっしはこいつの手を引いて来たんで」「疲れたろうから葛根湯をやるからお飲み」。
 普段流行らない医者、珍しく患者があったので、家から飛んで出て、前の道で遊んでいた子供を蹴って駆けて行きました。親はかんかんで、「藪医者め、うちの子を足蹴にしやがって、帰って来たらただはおかねぇ」と怒っていると、年かさの人が、「お前、足で幸せ、あの人の手にかかったら助からない」。
 医者がしきりに匙を拝んでいます。息子が、「お父っつあん、何をしているんだい」「お前もこれを拝め」「どうして」「これがなけりゃ、俺は人殺しだ」。
 ある藪医者、川向こうの村に行き、見立て違いで患者を殺してしまいました。村人から追い掛けられましたが、川に飛び込んで危うく命が助かりました。家に帰ると、息子がしきりに医書を読んでいます。「これ、せがれ、そんな本を読む暇があったら、わしのように水練を習え」。
 息子が具合が悪いと呼びに来たので往診に行ったら、息子を死なせてしまい、自分の息子を取られた医者がいました。夜に、表から、「女房の具合が悪いのでぜひおいでください」との声で、女房に「わしは留守だと言え」「どうしてです」「今度行ったらお前を取られる」。
 貧しくて下男を雇えない医者が、隣村から呼びにきたので、女房を下男の姿にして連れて行きました。遅くなったので先方に泊まることになり、夜具がないので、医者はその家の息子と、下男役の女房は下男と寝ることになりました。翌朝、息子が、昨日の先生は貧しいんだね、褌をしていなかった」と言えば、下男が「お供なんぞ、金玉もなかった」。
 これだけ並べると、咄家はお医者様に何か恨みがあるのかと疑われますが、すまし顔の人をからかうのは世の常です。そろそろ本題の風邪に戻ります。
 明治二十三年ころ、インフルエンザが大流行しました。当時の人々はこれを「お染風邪」と呼び、我が家にはお染の相手の久松はいないから、通り過ぎておくれということで、「久松留守」と書いた紙を門口に貼り出しました。このように、風邪を一つの存在として忌避することがありました。
 風邪が流行りましたので、ある町内では、張りぼてで風の神という形を作り、町内総出で、「おーくれ、送れ、風の神送れ」と囃しながら川へと運んで捨てに行きました。いよいよ川岸で、「おーくれ、送れ」と最高潮、すると、「お名残惜しい」という小さな声が聞こえます。せっかくみんなで気を合わせているのに何やつと見ると、町内の薬屋の親父でした。
 それでも、とにかく放り込んで帰ります。年寄りが、「これからは風の神につけこまれないように、体を鍛えなくちゃいけない、風邪は弱みにつけこむから」と諭しました。張りぼては流れて行きます。川下では夜船を出して網を打って漁をしています。網を打つと大きな物が掛かりました。これは大漁と喜んだら、変な形の張りぼてが入っています。「これは何だ」「俺は風の神だ」「それで夜網(弱み)につけこんだか」。
 風の神送りと同じ発想で、小さな物では人形(ひとがた)、さらに流し雛、大きな物では山車などを使って、すべての罪や穢れや邪気をそこに付け、流したり燃やしたりして物と災厄をすべて消して、祓ってしまうことが今でも続けられています。
 なお、「かぜの神」の漢字表記は、意味からいけば「風邪の神」なのですが、多く「風の神」となっていますので、それに従いました。変換ミスではありませんので、念のためお断りしておきます。

  鍋物 その1                (ふぐ鍋、らくだ、梅若礼三郎)
   ふぐ鍋                  (ふぐ鍋、らくだ、梅若礼三郎)
 風の神送りをして心を整えた上は、風邪を引かない用心に、栄養補給は欠かせません。鍋物に参りましょう。まずはふぐ鍋です。猛毒であるという認識は広くあり、松尾芭蕉には「あら何ともなや昨日は過ぎてふくと汁」の句があります。ふぐに当たったら、首から下を土に埋めると良いという民間療法がまことしやかに伝えられています。
 ある家でお客を呼んでふぐ鍋をしました。美味であるとはかねて聞き知っていましたが、初めて食べるので皆怖がって、手を出そうという人がいません。折から、勝手口に物貰いが来ました。これはちょうど良い、彼らが当たっても誰も悲しまないだろうと、試食をさせることにしました。しばらく経って、物貰いの様子を見せにいくと、変わりなく元気でいました。
 これなら安心、さあ食べようと勇気とともに食欲が出て、たっぷりあったふぐ鍋はすっかり空になってしまいました。食べ終わってくつろいでいると、先程の物乞いが「旦那様にお目に掛かりたい」と勝手口に来ました。主人が出て、「あいにくだね、鍋はもうないよ」と言うと、物貰いが、「あの、皆様は召し上がられましたか」「ああ、すっかり食べてしまったよ」「それじゃあ、俺たちも安心して食べられます」。
 お互いに、古来言われてきた通り、「ふぐは食いたし命は惜しし」でした。
 さてここに、働くことをせず、気に入った物は「借り」にして暮らしている男がいました。本名は馬太郎というらしいのですが、誰もその名を呼ばす、大柄でぬーっとしている様子が、外国から渡ってきて見世物として大評判になった駱駝に似ているところから、付いたあだ名が「らくだ」です。とにかく乱暴者で、逆らうと何をするかわかりませんから、みんな泣き寝入りです。
 このらくだが、ある日、ふぐをぶら下げていました。兄貴分のやたけたの熊五郎が、時季外れだし危ないよと言ったのに、「ふぐなんざぁ、こっちから当ててやらぁ」と豪語して行ってしまいました。
 兄貴分がらくだの家に来ると、らくだは寝ています。いいかげん起きなよ、と声を掛けたら死んでいました。ふぐを手料理で鍋にして、そのままになってしまったようです。兄貴分はなんとかしてやりたいのですが、あいにく一文無しです。 困っているところに屑屋さんがやってきました。屑屋さんは、この長屋では、らくだに声を掛けられるのを恐れて、声を出さないことにしていたのですが、習慣とは恐ろしいもので、つい「くずーぃ」と声を出してしまったのです。
 屑屋というのは、紙屑を入れる籠と天秤秤を持って、町内を歩いて、紙屑や衣類など廃品を買い取る職業です。時には金属類を買うこともあり、掘り出し物に出会うこともあります。最近、ある長屋で仏像を預かり、細川家の武士に斡旋したら、仏像の台座から五十両の金が出て、金を返すのいや受け取らないとの大騒ぎがあり、騒ぎを落ち着かせるための品として仏像の前の持ち主から細川家の武士に普段使いの茶碗を渡したら、その茶碗が今で言う国宝級の「井戸の茶碗」という品であることが判り、殿様に買い上げられたという騒ぎがあったばかりです。
 らくだの家から声を掛けられた屑屋さん、しまったと思いましたが後の祭りです。しかたなく入ってみれば、らくだは寝ていて、そばに兄貴分と称する男がいました。そこで、兄貴分から、らくだが死んでいるので手を貸してくれと、脅し混じりで言われました。商売があるからと断りましたが、結局道具を取り上げられ、らくだの死を長屋中に知らせに行かされました。長屋中は厄介者がいなくなったと大喜びで、当てたふぐと知らせた屑屋さんに感謝です。祝いに赤飯を炊く分として香典が集まりました。
 屑屋さんは次に、大家さんの所へ酒と煮物を持ってこいという使いに行かされます。「断るなら死人(しびと)にかんかんのうを踊らせる」という脅し付きです。家賃を一度も払わなかったらくだにそんな追い銭が出せるかと大家さんが断りましたので、屑屋さんはらくだを背負わされ、かんかんのうを歌わされました。もちろん大家さんは震え上がり、言われるままに酒と煮物を用意しました。
 この「かんかんのう」というのは、中国発祥で、日本では長崎から始まった踊りで、「かんかんのう、きゅうれんす」で始まる歌詞に合わせて踊り、大流行しましたので、禁止令が出されています。卑猥な意味があるようで、踊りの格好が夜這いの姿に似ているところから、「かんかんのう」は夜這いをいうと『日本国語大辞典』に載っています。
 この後、早桶代わりの桶をかんかんのうの手口で漬物屋からせしめ、通夜の形が整いました。もう商売に出るという屑屋さんに兄貴分は、一杯飲んで体を浄めて行けと飲ませます。飲むほどに屑屋さんの態度が変わり、とうとう兄貴分に指示を出すようになります。
 二人はべろべろになって、らくだを桶に詰め、落合の火葬場へと向かいます。途中で桶の底を抜いてしまって、らくだを落とし、代わりに道で酔って寝ていた物貰いの願人坊主を拾い、火葬場の釜へ入れます。願人坊主は熱がって、「あちちち、どこだここは」「落合だよ、日本一の火屋だ」「何、ひや、冷やでいいからもう一杯」。
 この咄は、上方から東京へ移されましたので、落ちは上方で使われる「火屋」という言葉を「冷や酒」に掛けたままになっています。「火屋」が通じにくくなった現代では、落ちに一工夫あっても良いでしょう。酔った願人坊主を見て、「らくだがとらになった」という落ちを聞いたことがあります。
 ふぐにもいろいろありまして、とらふぐ、まふぐ、しょうさいふぐなどがふぐ科に属します。名前に同じふぐが付いていても、はこふぐは分類上別の、はこふぐ科だそうです。このうち、しょうさいふぐは、漢字を当てると「潮前河豚」で、安価なところから、江戸では高価なとらふぐの代用として使われていました。
 ある長屋のお神さんが、亭主が長の患いで腰が抜けて寝たきりになっているので、働きにも出られず、夜に袖乞いをしています。ある寒い夜、侍の袖にすがると、小判を恵んでくれました。お神さんが早速その小判を使うと、この小判がある商家から盗まれた刻印つきのもので、お神さんは捕らえられました。
 刻印とは、極印(ごくいん)とも言い、盗難防止のために家紋を打つことがあり、元の持ち主を証明するものになりました。「こっくい」とも訛ります。
 長屋の人たちはどうしようもないので後は神頼み、お神さんの無実が晴れるようにと、冬のさなかに両国の垢離場に祈願に行きます。ここは大山参りの時に精進潔斎する場でもあります。水中で祈りを上げ、すっかり冷えてしまった体を、近くの店に入って、しょうさいふぐの鍋で体を温めながらお神さんの話をします。
 このしょうさいふぐの鍋、長屋の人たちが注文し、店では「さい鍋」と略して呼ばれていますから、手軽に注文されたものでしょう。
 神の引き合わせなのか、隣にいたのが能役者くずれの梅若礼三郎という盗人で、まさしくお神さんに小判を恵んだ本人でした。礼三郎は長屋の人に一部始終を聞いて、自ら名乗って出て、お神さんは許されました、という咄です。