落語のひととせ 4 夏の部1

  端午 その1                   (菖蒲売り、人形買い)
 井原西鶴の『好色一代男』は、「桜も散るに嘆き、月も限りありて入佐山(いるさやま)」と書き出していまして、いつか季節は移ります。いよいよ夏に入ります。正月から三月が春、四月から夏、ほととぎすは夏の鳥だから春に鳴くのは反則、などという厳密さは野暮というもので、『小倉百人一首』にある持統天皇の歌「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」そのままに、桜の季節が過ぎてそろそろ夏かな、という気持ちです。
 まずは端午の節句です。菖蒲売りがやってきて、人々はその菖蒲を軒に挿して邪気を祓います。武士が道をのんびりと歩いていたら、後ろから「しょうぶ、しょうぶ」と呼びかけられ、腰の刀に手をやって、「何やつッ」と振り返ると、後ろはのんびりした菖蒲売り、「その方、拙者に勝負を挑んだであろう」「どういたしまして、私は菖蒲売りで」「しかし、その方の身のこなし、なかなかのものと見た、下には置けんな」「へへ、軒に上げます」という小咄があります。菖蒲を軒に挿すだけでなく、さらに菖蒲湯に入り、その活力を身につけることは現代でも続いています。
 家の中には人形を飾ります。長屋住まいの神道者に男の子が生まれ、初節句の祝いとして、神道者のところから長屋中に粽が配られました。端午の節句に粽を食べる習慣は、中国の戦国時代、楚の憂国家である屈原が汨羅(べきら)に身を投げ、その屈原を弔うために姉が粽を投じたことから始まると言います。これが紀元前二七七四年といいますから、随分長い間続いていることです。とにかく、その粽をもらった長屋の者には、「砂糖を付けて食べてみたが、うまくねぇもんですね、粽ってものは」と粽は不評でしたが、そこは浮き世の義理、もらいっぱなしには出来ないので、人形を何か見繕って返礼にしようということになりました。こういう時のために、長屋には月番という回り持ちで役員をする制度がありました。先月と今月の月番が一軒いくらと割り前を決めて買いに出ます。せっかく行くのなら人形屋でうまく値切って少し浮かせ、後で役得として一杯やろうと二人の話がまとまって出掛けました。
 人形屋に行ってみると、いいものはやはり高くて手が出ません。やむなく店頭に並んでいる太閤秀吉と武内宿禰(たけのうちのすくね)の人形のどちらかにしようと決め、言い値を思い通りに負けさせました。ここまでは順調に来ましたが、自分たちだけでどちらかに決めて、長屋から苦情が出ると割り前が貰えなくなるといけないということで、両方の人形をを店の小僧に背負わせて帰ってきました。
 帰る道で小僧が気楽に語るのを聞けば、「店頭に出ているのは去年の売れ残りで,蔵の隅で埃をかぶっていて売り物にならないので捨ててしまえと大旦那が言ったのを、こんな物でも出しておけば、どこかの馬鹿が戸惑いをして買わないとも限らないからと若旦那の一言で出しておいたら、今日馬鹿が戸惑いをして……、あれ、聞いていらっしゃったんですか」というひどい代物でした。しかも値段は、「こんなものどうせ捨てるんだから、いくらでもいいんですけど、あなた方はだいぶ買い被った」と、聞かなければ良かったという話を聞かされました。
 長屋では、一番に、うるさそうな講釈の先生の所へ持って行きました。すると先生は「この秀吉公は……」と「難波戦記」の抜き読みをして、秀吉は適当でないということをたっぷり聞かされ、あげくに講釈を聞いたのだからと木戸銭を二人前取られてしまいました。途中で片方が座布団を敷き、そこにあったお茶を飲んだので寄席同様に座布団代、お茶代まできっちりと払わされ、後で一杯飲む分がだいぶ減ってしまいました。「何だって座布団なんか敷くんだよ、お茶なんか勝手に飲んじゃいけねえ」と文句を言っても後の祭りです。
 それでは武内宿禰の人形を神道者のとろへ持って行こうということになりました。神道者の所へ行くと、「そもそもこの武内朝臣は、神功皇后三韓征伐のみぎり……」と始められました。もう役得が無くなると思った二人、「すいません、お宅の分はお返しから引いといてください」。
 秀吉はよく知られていますが、武内宿禰は今ではほとんど知られていないでしょう。たまに女性と白い髭のお爺さんの人形が飾られていますが、あの白い髭の人物がそうです。いろいろな説がありますが、五代の天皇に仕えて、三百年以上の長生きをしたという伝説の人物で、日本銀行券(お札)にその肖像が採用されています。隣の女性は講釈の中にあった神功皇后で、弟十四代仲哀天皇の皇后、応神天皇の母です。この伝説の人もお札の肖像になっています。大正十五年に長慶天皇が第九十八代天皇として天皇の歴代に加えられて、天皇歴代から外されるまで、第十五代天皇として扱われていました。

   端午 その2             (五月<ごがつ>幟、こいがめ、鯉どろ)
 五月人形には、病魔退散の守りの鍾馗や元気な子供の姿として桃太郎や金太郎も作られています。人形だけでなく、浮世絵にも多く描かれています。鍾馗は、玄宗皇帝の夢に現れて魔を祓い病を治したと言われる中国由来の伝説の人物です。桃太郎は子供向けの物語絵本から生まれた主人公で、鬼退治で有名になります。金太郎は江戸時代には怪童丸という名の方が一般的で、肌は病封じの赤色になっています。金太郎は伝説も多いですが、後に坂田公時となって源頼光の家来になり、武功を立てた実在の人物です。だんだんに伝説が加わり、足柄山の山姥の子であると言われ、さらに発展して金平(公平とも書いて、きんぴらと読みます)という息子が生まれ、その金平が豪傑として活躍するという「金平もの」という物語・演劇まで作られ、親子二代の英雄になっています。
 このような人物の人形のほかに、幟を飾ります。幟には、鍾馗などの姿を描いた武者幟もあり、吹き流しもあります。この吹き流し、細長い色布を輪に付けたものもありますし、鯉幟もあります。鯉が幟になっているのは、中国の黄河の上流に竜門の滝という滝があり、それを登り切った鯉が竜になるという伝説からで、「出世の鯉の滝登り」という言葉もあるほどの、出世の象徴だからです。
 さて、初節句でも子供に人形や幟を買うことができない甥に、叔父さんが援助をしてくれました。ところが甲斐性なしの甥は、人形を買いに行く途中で、全額で買わなくても良かろうと、居酒屋で一杯やってしまいました。飲み始めたら止まらなるのは世の飲み助の常で、気が付いた時には全額がお腹の中に納まってしまいました。甥の頭に、後でどんなのを買ったか見に行くと言っていた叔父さんの言葉がかすかによみがえってきました。
 叔父さんが人形を見に来ました。いよいよ絶体絶命です。「叔父さん、人形は二階に飾ってありますんで」「何もないじゃないか」「まずは二階へお登り(幟)、お登り(幟)で」「お前、酔ってるな」「へえ、この赤い顔が金太郎で、酔いが醒めれば正気(鍾馗)になる」「それじゃあ俺も一つ祝ってやろう」「大きな声だな」「その声(鯉)を吹き流しにしろ」。とんとんと口先だけの端午の飾りです。声の大きい人に対しては、「貧乏人の初節句」という悪口があります。その心は、「鯉(声)さえ大きければいいと思ってやがる」です。

 江戸っ子の気性についてよく言われる言葉に、「江戸っ子は五月(さつき)の鯉の吹き流し、口先ばかり腸(はらわた)はなし」があり、これは、「江戸っ子は口が悪いが、いつまでも根に持っているわけではない、性格がさっぱりしていて良い」という意味だと言いますが、江戸っ子を嫌いな人は、「江戸っ子は軽薄で口ばかり、腹が据わっていない」と悪く解釈します。歌川広重の「名所江戸百景」の中の「水道橋駿河台」は、端午の風景を描いています。青空に泳ぐ鯉幟を大きく描き、遠くに小さく市中の吹き流しや武者幟が見られます。この絵の中の鯉幟は、どこの家でも真鯉一匹だけが泳いでいます。緋鯉が描かれないのが不思議ですが、一説に、緋鯉は突然変異で出来たので、まだ一般的ではなかったからだと言われますが、緋鯉はあったのではないかとも思われます。広重の「名所江戸百景」は、明治維新約十年前の出版で、江戸の風景を描いた資料として扱われることがありますが、この作品の中には、同時代の景色を描いた絵だけではなく、古き良き江戸の景色を思い浮かべて描いた絵もありますから、時代考証の資料として断定をしてはいけないのです。
 鯉の咄をもう少しします。「鯉幟の真鯉と緋鯉はどっちが上だろう」「どっちでもいいんだよ、恋に上下の隔てはねえ」という咄は良く広まっています。
 また、先程の貧乏人の初節句の謎と同じで、「こい」と「こえ」とを通じさせての咄もあります。
 兄貴分が家を新築し、その祝いに何がほしいかと普段世話になっている二人が訊いたら、水がめがほしいとのことで、二人で買いに行きました。この二人、いつものことながら懐具合が悪く、良い水がめには高くて手が出ず、道具屋の店先にある安いのを買ってきました。安いわけは、便所のかめ、すなわち肥がめだったからだと聞きました。二人にとってはまさに掘り出し物でした。新宅へ運んでいる途中でかめが乾いてくると、だんだん臭いが強くなるので、近くの川で懸命に洗って持って行き、先方に着いたらすぐに親切ごかしに水を汲み込んで臭いをごまかしました。
 兄貴分が喜んで、せっかくだから一杯飲んで行けと言われて、喜んで膳に向かったら、出て来たのは冷奴、水の出所は例の水がめなので豆腐は断ちものだと辞退しました。それなら海苔でご飯をと言われましたが、ご飯も水を使っているので遠慮して帰ろうとすると、水がめを見た兄貴分が、「こりゃあひどい澱(おり)だ、今度来る時には鮒を持ってきてくれ」「それには及ばない、さっきまでこい(肥え・鯉)が泳いでた」。ひどいお話です。ついでながら、このかめは江戸で肥(こい)がめ、関西ではかめと言わずに壺で、、雪隠(せんち)壺と申します。

 口直しにもう一席。ある料理屋に盗賊が入り、有り金を全部出せと脅して三百両を奪います。ついでに腹が減ったと料理を出させると、主が、「お泥棒様に申し上げます。あなた様は人の物を盗るのが商売、私どもは料理を出すのが商売、商売のお代は頂戴いたしとう存じます」「うむ、それももっとも、払うぞ」ということで出されたのが鯉料理、たっぷり食べた後に請求したのが盗った三百両、代を払った盗賊が外へ出ると、手下が、「お頭、中の首尾は」「しーっ、鯉(声)が高い」。
 「い」と「え」を混用する訛りは江戸でもよくありました。とても近い発音なのです。「どこへ」は発音すると「どこえ」ですが、「どこぃ」「どけぇ」となります。語の最初の「い」と「え」は混用しないようです。二代目三遊亭圓歌が新潟生まれで、咄の中で「江戸へ江戸へと」と言っているのが「井戸へ井戸へ」と聞こえ、六代目圓生が、「ずいぶん深い井戸ですねえ」と言ったと、歌奴時代から売れた三代目圓歌が「中沢家の人々」の中で話していました。

   川開き                            (たが屋)
 夏になれば川開き、代表的なのは両国です。今は七月に隅田川花火大会が催されていますが、江戸時代は五月二十八日(旧暦)に両国橋の下で花火を上げました。元々は病魔退散と亡くなった人たちへの追悼で始められた行事でしたが、だんだんに屋形船も寄り、人々が出て、華やかになっていきました。この場所、両国橋は、武蔵と下総の二つの国を結んで掛けられたところからこの名が付きました。
 さて、川開きの花火の様子は、大津絵節の「両国」にも、端唄の「縁かいな」(夏の涼みは両国の、出船入船屋形船、上がる流星星下り、玉屋がとりもつ縁かいな)にも謳われています。広重の「名所江戸百景」中にはその様子が「両国花火」という題で描かれています。「両国花火」は暗い夜空に大輪を開かせた花火が描かれていますが、花火の色数も形の種類も今よりは少なかったのですが、それでも皆楽しみにしていました。この川開きの花火を作っていたのが玉屋と鍵屋があり、花火が上がると「玉屋」「鍵屋」と声を掛けました。後に玉屋は自火を出して取りつぶしになってしまいましたが、取りつぶしになっても「玉屋」という声は叫びやすいので、どうしても叫んでしまいました。そこで、「橋の上玉屋玉屋の声ばかりなぜか鍵屋と言わぬ情(錠)なし」という狂歌が残っています。
 川開き当日、両国橋の上は人でぎっしり、立ち止まることはできず、押し合いへし合い,、もまれながら動いて行きます。この川開きの雑踏を甘く見て両国橋へやって来てしまったのは、たが屋です。たが屋とは、桶を作る桶屋とは違い、桶のたがが緩んだのを仕掛け直して歩く職人です。たがにする細く割いた竹をぐるぐると輪にしたものを肩にし、仕事箱を持って混雑の両国橋に差し掛かりました。ごった返す人混みに、ようやく永代橋に回れば良かったと思いましたが、なんとか渡り切ることはできるだろうと、たかをくくって雑踏へ足を踏み出してしまいました。人混みの大きな荷物は迷惑で、右に小突かれ、左に突き飛ばされ、稲妻型に前へ前へと進み、橋の中央へとやって来ました。
 誰がやったのか、最後にひどく押されたはずみに留めが外れて、たがが空へと真っ直ぐに延びて行きました。その先には、馬上の武士の笠があり、笠は遥かに飛び、武士の頭の上は丸い輪になった笠の台だけが残りました。間抜けな形になった武士は激怒し、屋敷に連れ帰って成敗すると言います。たが屋は真っ青になって平謝りに謝り、周りの人はたが屋の味方になって口々に応援し、武士には石や履物まで飛んできました。武士はますます逆上して許そうとはしませんので、たが屋は居直りました。武士は人中ではあっても、この場で供の者にたが屋を成敗させてしまおうとしました。ところが供の者は、刀は錆びだらけ、腰は据わっていないというていたらくで、捨て身のたが屋に刀を奪われ、次々と倒されました。とうとう武士とたが屋は一対一になりました。この勝負は一瞬につきました。たが屋が横に払った刀に武士の首が天高く、「上がった上がった、たーが屋ぁー」。
 この咄は、身分制度を意識して、町人が武士に対して笑いの場で対抗していたことを示す例として引かれることがあります。確かに笑いは抵抗の一手段ではありますが、そこまで深読みをすることはないでしょう。また、誰が言い出したものか、昔は武士に遠慮して、たが屋の首が飛び、それで「たが屋ぁー」という落ちなのだという説もあります。ただし、たが屋の首が飛んだ咄の記録は見たことがありません。はたしてどちらでしょうか。

   四万六千日                            (船徳
 隅田川を遡ると、浅草の観音様に至ります。浅草の観音様を正確に言うと、「江戸浅草は金龍山浅草寺に安置し奉る聖観世音菩薩」であると教えてくれたのは、「やかん」の先生でした。このやかんの先生は、魚の名前を決めたのは鰯で、自分のことは何とでも「いわっしい」と言った、とか「やかん」は元は「水沸かし」と言ったとか、森羅万象何でもご存じで、落語国の生き地獄、ではなく、生き字引と言われる方です。この観音様は、推古天皇の御代に、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・武成(たけなり)の兄弟の網にかかった一寸八分のお像で、十八間四面のお堂に納められています。観音様は秘仏で、見た人がなく、秘仏となった理由が、浅草寺の住職が博打に負けて、そのカタに橋場の観音様に取られてしまたっという噂があります。この観音様を引き上げた浜成・武成と観音像のことを二人に諭した土地の文化人の土師真中知(はじのまつち)の三人は、後に三社権現として観音様の隣に祀られ、明治以降は浅草神社と定められました。この神社のお祭りは、三社祭と呼ばれ、観音様が水中から引き上げられたので、祭りの期間中には必ず雨が降ると言われています。
 観音様の月ごとの縁日は十八日ですが、浅草の観音様の四万六千日は七月十日、観音様の年一回の特別の縁日です。京都の清水寺の千日詣が発展した形と言われますが、この日お参りすると四万六千日、つまり百二十年以上毎日お参りしたのと同じご利益があるそうです。七月十日を今の暦に直すと八月上旬で、とにかく暑いさなかにあたり、お参りする人が減るときに四万六千日を設定した知恵者がいたというのは、げすの勘繰りというものでしょう。この日、観音様の境内では、ほおずき市が開かれます。
 さて、道楽者の若旦那と言うのはよく咄にありますが、ここでは、徳さんこと徳兵衛が主人公で、道楽のあげく勘当になり、柳橋の船宿の二階に厄介になっています。いつかは勘当が許されるのではないかとの期待もありましたが、父親の怒りは強く、仕方なくこの家の船頭になることにしました。若旦那という船頭はないから、徳と呼んでくれと船頭たちの前で言いましたので、これから徳さんで書いてゆきます。「棹は三年櫓は三月」と言いますが、教える方もこれだけ教えたらいいだろう、教わる方もこれだけ教わったらいいだろうと言う気持ちで船を操る稽古をして、徳さんはすっかり一人前気取りになりました。
 そんなことがあって、四万六千日、暑い盛りですから、観音様まで歩いたり狭い駕籠で行くよりは、川風に吹かれながら行けば少しは楽だろうと思う人が多く、どこの船宿も船が出払っている時でした。二人のお客が徳さんの船宿にやって来ました。一人がこの船宿の常連で、もう一人が船は嫌だと言うのを、とにかく埃は浴びないし涼しいから船に乗ろうと説得したところです。船頭は一人もいないと断る女将に、船が一艘あり、そこに若いのがいるじゃあないかと粘るお客です。形だけ見れば一人前の徳さん、何とか船を漕ぎたくてたまりません。「この節は腕がぴゅーぴゅー唸ってるんで、もうこの前のようなことはありませんから」と志願しました。女将は、お客と徳さんに迫られて、とうとう徳さんに船を漕ぐ許しを出してしまいました。
 さて、船を出そうとして、徳さんは棹を突っ張りましたが、まだ舫(もや)ってありました。大川(隅田川)まで出るところで棹を流してしまいましたが、自慢げに川岸の顔見知りのおじさんに「お客を送ってきます」と声を掛けると、「徳さん一人かーい、大丈夫かーい」と返事が来る不安な船出です。船嫌いのお客が、どうして大丈夫かいなどと言われたのかと尋ねると、赤ちゃんを背負ったお神さんを川の中に落としてしまったことを答えました。不安を抱く船嫌い、常連は、もうそんなことはないだろうと徳さんに確かめ、安心させます。しかし、船が廻り始めたり、川岸に大接近したり、とうとう徳さんは汗で前が見えなくなり、船が流されます。それでもようやく船着き場の近くまでは来られましたが、接岸することができません。仕方なく常連が船嫌いをおぶって、客の二人は陸(おか)に上がることができました。徳さんは汗びっしょり、口をきくのもやっとで、船に横たわっています。徳さんがお客に、「すみません、陸に上がったら、船頭一人雇ってください」。
 暑い時、船に乗れば、「吹けよ川風上がれよ簾、中のお客の顔見たや」という歌のように本来なら気持ちよいはずなのに、この素人同然の船頭に苦労させられ、汗も冷や汗もかいたという咄です。この咄、もともとは、「お初徳兵衛浮名の桟橋」という『曽根崎心中』の登場人物の名を借りた人情咄の一部で、素人船頭のおかしみはなく、徳兵衛と芸者お初との咄でしたが、明治時代に三代目三遊亭圓遊が、素人が船頭になる部分を膨らませて滑稽咄に改作しました。明治維新になって、江戸にいた武士が国元に帰り、入れ替わって地方から上京した薩長土肥の侍が寄席にも押しかけて客層が変わってしまい、ただ笑うだけの滑稽咄しか受けなくなった時代の傑作です。
 なお、この「船徳」のもとになった「お初徳兵衛」の、船頭徳兵衛と芸者お初二人が結ばれる場面までを五代目古今亭志ん生、十代目金原亭馬生、六代目五街道雲助で聞きました。

   船遊び その1                       (汲み立て)
 江戸は八百八町、大坂は八百八橋と言われ、江戸は陸地だらけのように思われますが、水路が発達して、船は交通手段にも、物資の運搬手段にも使われて、現代の自働車と同じ役割を果たしていました。
 交通手段として、一番速く目的地に行けるのは猪牙船(ちょきぶね)で、その名の通り猪の牙の形で、安定感がありません。乗り慣れないとかなり船酔いをしたようで、「江戸っ子の生まれ損ない猪牙に酔い」という川柳があるほどです。船から小用を足す剛の者もいるほどですが、そこまで至るのは、「船で小便千両」と言われるくらい散財を重ねた結果と言われます。江戸っ子になるのも大変で、三代続くこと、水道の水で産湯を使ったこと、という条件が挙げられていますが、そこまで厳密でなくても、咄の中には江戸っ子を自称する者が多くいました。朝湯に行けば、熱いのに「こんな日向水みたいな湯に入れるか、おい、ぬるい湯をかきまわすな」と真っ赤に茹で上がったり、蕎麦を食べるのは、蕎麦の先にちょこっとつゆを付けてさっとたぐり込み、死ぬ前に何か言い残すことはないかと聞かれて、「一度蕎麦につゆをたっぷり付けて食べたかった」と言ったりします。「江戸っ子の生まれ損ない銭を貯め」と言われるのを嫌って、江戸っ子は宵越しの銭は持たねぇと粋がって、「銭が残った、寄席でも行って、咄家にぶつけてこよう」と出掛けもします。ただし、ぶつけられた咄家は一人もいなかったようです。
 江戸っ子で脇道に入ってしまいました。交通手段でもありますが、遊びに使われたのが屋根船、それより大きいのを屋形船と言います。この屋根の付いた船は乗り方にこつがあるもので、乗るときには頭から入ってはいけないのです。屋根の縁に当たって簪を水中に落とすことがあるからで、芸者衆は、裾前を膝に挟んで、お尻の方から入る稽古をしたもので、屋根船と矢立の筆は尻から入るという言葉があります。
 まずは大きな屋形船の咄からです。、町内で音曲を教える稽古屋がありました。女師匠で、ちょいと色っぽいとくれば、町内の若い者が放っておきません。転んだら食ってやろうと狙って、「狼連」と呼ばれるような弟子が寄ってきます。特に夏は暑くて夜なべ仕事ができないので稽古屋に通い、冬には引っ込む蚊に似ている「蚊弟子」が増えてきます。中には万一の僥倖を狙って冬まで居残る「藪蚊」もいます。この師匠が、弟子の一人と親しくなって、他の弟子には内緒で二人きり、船で夕涼みをすることになりました。壁に耳ありで、この師匠の家に同居していた与太郎が、この計画の一部始終を聞いていました。与太郎が外出をしたところ、最近の師匠の様子や、弟子について何か話題にしていないか聞こうと他の弟子が与太郎を呼び止めたところ、与太郎は少々愚かしいところから、問われるままに「町内の有象無象に聞かれるとうるさいから」という内緒話まで全部喋ってしまいました。これを聞いて有象無象連中は黙ってはいられません。みんなに一言の断りも無くそんな仲になるとは許せないと、真っ赤になってを通り越して、真っ黒になって煙を出して怒りました。それならその船遊びを邪魔してやろうではないかと計画を立てます。一方的とは言え、恋の恨みは恐ろしいものです。
 さて、船遊び当日、師匠と色男と与太郎の三人が乗った船が大川に出ると、有象無象の船が後を追います。師匠と色男がいい雰囲気になりかかると、有象無象連中は船を寄せて、雰囲気ぶちこわしの馬鹿囃子を始めます。付いたり離れたり、「いい加減にしろ」と口喧嘩が始まり、罵り合います。「糞を食らえ」「おう、食らうから持って来い」とやり合うところへ、肥汲み船が間に入って来て、「どうだね、汲み立てだが、一杯あがるかね」。
 ちょうど、葛西あたりから肥と交換の野菜を積んで汲みに来た船が、汲み終わって大川を通って帰るところです。囃子の馬鹿囃子も正式には葛西囃子と言います。葛西が当時の江戸の郊外であったころの咄です。

   船遊び その2                   (船弁慶、淀川の鯉)
 次は大阪の咄です。江戸・東京の咄の中での八五郎熊五郎の二人にあたるのが、大阪では喜六と清八です。東京の二人はほぼ同格ですが、大阪の喜六は喜ぃやんと呼ばれて、人が良くて気が弱く、女房の尻に敷かれていますので、人付き合いもまならぬ状況で、割り前が払えずに人のおごりをうけることもしばしばです。そのため、顔見知りの芸者たちからは、「けべんはん」と呼ばれる始末です。「けべんはん」とは聞き慣れない言葉ですが、いつも源義経のお供をしている武蔵坊弁慶を称して「弁慶(べんけ)はん」、さらにそれをひっくり返しての「けべん(慶弁)」とする洒落言葉です。
 さて、夏の暑い日、家でこつこつと仕事をしている喜ぃやんのところに、清八が仲間と一緒に船遊びをしようと誘いに来ました。今回は割前でと言われてびっくりしましたが、女房のお松さんには、喧嘩の仲裁に行くとごまかして出掛けました。途中、清八にくどく言ったのは、今回は割前だから、芸者たちに決して「弁慶」とか「けべん」とは言わせないでくれということでした。清八も、万一誰かがそれを言ったら、割前はいらないと約束をしました。
 川端に着くと、屋形船は川中にありますので、川岸と船の間を往復する通い船で送ってもらいます。船に着くと、口癖とは恐ろしいもので、芸者は「あら喜ぃやんのべ」まで言いかけて、あわてて制止される始末です。いよいよ酒盛りが始まりました。割前なのに遅れて着いたため、皆に追いつこうと意地汚い喜ぃやんは、大きな容れ物でがぶ飲みして泥酔して、清八と二人で裸踊りを始めました。
 一方、女房のお松さんは長屋にいたのですが、暑くてかなわないので、隣の神さんを誘って川端へ涼みに出掛けました。涼み船を見ながら話をしていたら、隣の神さんが一艘の船に目を留め、「あそこで踊っているのは喜ぃやんと違うか」と言います。そんなはずはないと船を見るお松さんの目に、踊っている我が亭主が入ってきました。急いで通い船を呼んで、皆が遊んでいる船に運ばせ、喜ぃやんにむしゃぶりつきます。普段は弱い喜ぃやんは、今は酒と二人連れで強気になり、負けずに大立ち回りです。とうとうお松さんは川中へ落ちてしまいました。すると、何を思ったか、お松さんはざんばら髪になって「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤、平知盛幽霊なり」とやり始めます。喜ぃやんは、「その時喜六は少しも騒がず」と受けて、「船弁慶」の弁慶役をやり始めます。周りの人々は何をやっているかと見て、太鼓持ちと芸者の茶番だから褒めてやらなくてはと「よ、大出来、大出来」「本日の秀逸、秀逸、知盛はんも良いが、弁慶はん、弁慶はん」との掛け声が飛んできます。喜ぃやんはこれを聞いて、「何言っとるんじゃ、今日は割前じゃ」。
 夕涼みの川中には物売りの船があり、ほかに手筒花火を見せる船、音曲や咄を聞かせる船まで出ていました。怪談話を聞かせる船は、今日のお化け屋敷に女性と二人で入る男性の狙いと同様、同船の芸者にしがみつかれようという魂胆のお客に重宝な船でした。この賑わいは、「あたま山」の持ち主ならば、うるさくて睡眠不足になりそうです。また、橋の上から見れば楽しく見る人も、うらやましく見る人もいるでしょう。『船打込橋間白浪(ふねにうちこむはしまのしらなみ)』の主人公鋳掛け松は、両国橋の上からこの様子を見て、「あれも一生、これも一生、こいつぁ宗旨を変えざぁなるめぇ」と言って、鋳掛け屋の商売道具を川へ投げ込み、職人から泥棒稼業へと転身してしまいます。
 船は波の上にあり、板子一枚下は地獄と言われます。これは船に乗るときは禁句で、乗船前なら船に乗せてもらえない、乗船後悪くすると水中に放り込まれる目に遭うかも知れませんから、言ってはいけません。船に乗る時、そんなことは全く忘れてしまい、楽しく遊山をするに限ります。淀川で、船上の楽しそうな人間の遊びの様子を見て、魚の子が、「おとうちゃん、あのお船に乗りたい」「何を言う、板子一枚上は地獄だぞ」。飛び込めば洗いになるか、刺身になるかの運命だぞ、という咄です。