落語のひととせ 9 秋の部2

   薩摩芋 その1                    (位牌屋、味噌蔵)
 薩摩芋は、琉球から薩摩に伝わり、甘藷先生と呼ばれる青木昆陽が救荒用の食物として全国に広めたものです。当初は琉球芋とも呼ばれました。
 赤螺屋(あかにしや)という商家は、屋号の示す通りとてもけちで、味噌汁に実を入れません。この間珍しく田螺が二つ入っていたので、やれ嬉しやと箸で挟もうとしたが、どうしても挟めません。よくよく見たら、あまりに汁が薄いので自分の目玉が映っていました。番頭が、こういう汁は実なし汁と言って縁起が悪いから、何か実を入れてほしいと言いましたら、主は、長かった山椒の擂り粉木が短くなったのだから、その分が汁の実として入っている勘定だと答えました。
 主は、奉公人が栄養不良で動けなくなるといけないので、仕方なく実を入れることにして、「菜や、つまみ菜」と売りに来たっつまみ菜売りを呼び込みます。呼び込む前に小僧に筵を出させ、枯れた菜が入ってないか、筵の上に全部広げさせます。つまみ菜屋は全部買って貰えると大喜びで広げましたが、主がただ同然に値切るので、激怒して全部をさらって去って行きました。つまみ菜を広げた場所が粗い筵の上、全部さらったつもりでも、あちこちに付いていて、これを丁寧に拾い集めたらざる二杯分になりました。「これで当分味噌汁の実に不自由しない、短気は損気とはこういうことを言うんだ」と主が教えます。
 次に「芋や、薩摩芋」と芋屋が来ました。これは生の芋で、蒸かし芋は「蒸かし立て」、揚げた芋は「お薩のまぁる揚げ」と少し巻き舌で呼んで来ます。小僧が筵を広げようとしたので、主は「芋が筵にくっつくか」と叱りました。主は芋屋を呼び入れ、どこで仕入れる、荷が一杯だと重いだろうと世間話をします。そのうち、荷に目を留めて、「ちょっとお見せ、いい形だね、昔琉球から薩摩様に献上したのはこんな形だったのだろう」としきりに芋の形を褒めます。ついには、床の間の置物にするからと一本巻き上げてしまいます。もう一度同じ世間話を繰り返し、この間に、煙草が切れたと言って芋屋の煙草入れを借り、中の煙草を全部自分の煙草入れに移してしまいます。芋をもう一本巻き上げようとしますが、さすがに芋屋は怒って帰って行きました。今度はおかずをただで手に入れたのです。
 この後、小僧は、主に言われて位牌屋に、かねて頼んでおいた位牌を取りに行かされます。小僧は位牌屋で、褒めて薩摩芋を手にした主の手口を真似て、小さな位牌をただで貰ってきます。さすがの主もこれには怒ります。「こんな縁起の悪いものを持ってきてどうするんだ」「今度生まれた坊ちゃんのになさいまし」。
 この咄とは別に話されているのですが、主の坊ちゃんが生まれた頃の出来事として思い浮かぶ咄があります。味噌屋がありました。ここの主は赤螺屋同様けちで、味噌汁に実が入らないのも一緒です。こんな主でも、世話をする人があって嫁さんをもらいました。婚礼をしても一緒に寝ると子供ができ、物入りになるからと、嫁さんと主は別々の階に寝ます。ところが、寒い夜があり、主は薄い蒲団で寒くて寝られません。嫁さんが暖かそうな蒲団を持って来たことを思い出し、交渉して一緒に暖かく寝ることができました。その暖まりの結果、嫁さんのお腹に暖まりの塊ができました。主は驚き、経費がかかるので嫁さんの実家で産ませるようにしました。
 無事安産の知らせに、主は嫁さんの実家へ行くに当たって重箱を用意させました。「重箱には味噌を詰めて行くんですか」「空の重箱で、ご馳走が出たらそれを詰めて持って帰るのだ」という徹底ぶりです。風が強いので火事には気を付けるように言いつけて、小僧を供に出掛けました。店の者は主の留守にそれぞれ普段から食べたかった物を注文して大騒ぎを始めます。特に、季節の物として木の芽田楽を全員の分注文しました。この勘定は、番頭が帳簿をやりくりしてくれるということで安心です。
 嫁さんの実家で赤子の顔を見た主は、重箱にご馳走を詰めさせて早速店に帰ります。ところが、小僧が慌てて重箱を置き忘れてしまいました。だんだん店が近くなると、どこかで騒いでいる声が聞こえます。店に着くと、騒いでいたのは自分の店、中に入ればご馳走が並んでいます。叱りつけていると、表戸をとんとん、「焼けてきましたよ、焼けてきましたよ」「へえ、どちらから」「横丁の豆腐屋から」、実は、誂えておいた木の芽田楽が来たのです。火事だと思った主が戸をがらりと開けると、味噌の香がぷーん、「しまった、味噌蔵に火が入った」。
 三ぼうの一つの「しわんぼう」の見事に徹底しているようで、どこか抜けている失敗が笑えます。

   薩摩芋 その2                  (大工調べ、真田小僧
 歌川広重の「名所江戸百景」の「びくにはし雪中」という雪景色の絵に焼き芋屋が描かれ、「○やき、十三里」という行灯看板があります。これは、「薩摩芋の丸焼き、栗(九里)より(四里)うまい、足して十三里」の洒落の看板です。こんな焼き芋屋のほかに、どんなところで売っていたかというと、町内の警備や火の番に当たる番太郎のいる番屋で内職に売っていることもありました。それを示す咄があります。
 与太郎は、仕事がなくて家賃を滞納してしまいます。それで、大家に大工道具を差し押さえられていましたが、ようやく仕事が来て、家賃を納めて道具を返してもらうことになりました。ところが、棟梁が貸してくれた金が少し足りません。そこに交渉に行った与太郎の言葉足らずが重なって、話がこじれました。そこで、棟梁が出て行きますが、言葉が少しぞんざいだったために、ますます話がこじれます。とうとう棟梁が怒って、大家の前身を暴きます。この中に、番屋で焼き芋を売っていたことが出てきます。「前の六兵衛番太は人柄が良く、本場川越の芋を厚く切って売るので子供は正直、隣町からもわざわざ買いに来た。それをお前は場違いな芋を薄っぺらに切って、しかも生焼けで売るから、腹を下して幾人死んだか知れやしねえ」と啖呵を切ります。この大家は、先代の番太郎が亡くなったのでその後に入り婿し、番太郎をして焼き芋の売り上げをこつこつ貯めて、大家になったのですから、大した人物なのでしょうが、咄の世界ではこの後お裁きになって、情のなさで奉行からお叱りと罰金刑を受けてしまいます。
 さて、ここに焼き芋が好きな子供がいます。子供は小遣い銭を握って買いに行きます。食べてしまうとまた食べたくなり、子供は父親に小遣いをねだりますが、そんなにやれないとはねつけられました。すると、子供は、父親の留守に、母親のところに白い上着を着て色眼鏡を掛け、杖を突いたおじさんがやって来たという話を始めます。母親はその人を見ると、いそいそとその男の手を取って家の中に迎え入れて障子を閉めたので、そっと覗いて見たら夜具が敷いてあった、とさらに怪しい話が続きます。父親はその男が何者か知りたいのですが、子供は話を少しずつ切って、その都度話し賃を要求します。最後まで聞いてみると、横丁の按摩さんが療治に来ていたもので、白い上着は白衣、色眼鏡は盲人用の眼鏡、杖は白杖でありましたが、ずいぶん払ってしまいました。
 まんまとしてやられた父親は、母親相手に愚痴を言い、自分の好きな「難波戦記」の講釈のうち真田幸村の伝を語ります。幸村は小さいときから知恵が働き、武田の軍に囲まれた時に敵を同士討ちさせて難局を切り抜け、その時の策に使った旗印から、六連銭の旗印を使うようになったという話をします。そんな知恵ある人でも大坂落城で討ち死にしたとも、薩摩に落ちたとも言われる、俺は薩摩に落ちたと思う、と語りました。うちの子供と比べると大違いだ、あいつもそれくらい知恵があればいいのにと嘆きました。
 そこへひょっこり子供が帰って来たので、銭を何に使ったかと訊くと、講釈を聞いてきたと言います。それなら何を聞いたか話してみろ、違ったら許さないと言うと、子供は先程父親の語った真田幸村の話をそっくりしました。たった一回聞いただけで覚えちまったと父親は感心します。子供は、六連銭の旗印とはどんなものかと尋ねます。子供が、実地に並べてくれないと判らないと言うので、父親は一文銭を六枚出して並べて教えます。何度か並べ直しているうちに、子供は「ありがと」と言って六文をさらって逃げました。「また講釈を聞くのか」「ううん、これで焼き芋買うんだい」「ああ、うちの真田も薩摩に落ちた」。
 この咄は、「雛祭り」の項で書いた「雛鍔」と構成がほぼ同じです。父親が他の子供と我が子を比べて嘆き、子供はその嘆きを払拭するように実に見事にふるまいます。落ちはどちらも焼き芋を買うことで同じです。二席を続けて聞いたら混乱することでしょう。そんなことがないように、寄席では前座が楽屋帳(根多帳)を付けて、どういう咄が演じられたかを管理して、似た咄が重ならないように気を付けています。
 なお、冒頭の「びくにはし雪中」の絵は、「広重」の署名がありますが、初代広重の作ではなく、弟子の二代広重の作ではないかと言われています。びくに橋は、有楽町駅に近い場所で、そこに焼き芋屋があったのです。同じ絵の「山くじら」については、冬の部6の猪鍋で触れます。

   薩摩芋 その3           (芋くうな、鼠の耳、芋俵、芋食おう)
 女性も薩摩芋が大好物と言われます。上方では女性の好物として、「芋・蛸・南京(南瓜)」と言われています。
 吉原のある店に焼き芋が大好物の花魁がいました。焼き芋を好むというのは、当然の結果として腹が張り、ついお客の前で粗相をするという結果になって評判が悪くなり、客足が遠のいてしまいました。店では迷惑をして注意をするのですが、それでも隠れて食べているようです。ある日、花魁が芋を食べている現場を見つけ、店の者が箒やはたきを振り上げながら取り巻いて、「花魁、芋食うな(うごくな)」。
 歌舞伎で、盗賊を取り囲んだ捕り手たちの姿の見立てになっていて、形を見せる仕形咄です。
 女性と芋の破礼咄を入れます。
 ある商家の後家さん、閨寂しい日々が続いています。そこにさつまいもの到来物、太さといい、長さといい、亡き夫に似ていると、程よい一本を持って寝床へ入ります。楽しんで、芋を入れたまま寝てしまいました。そこへ鼠が出て来て、芋を食べ、中へ入ってしまいました。どうしようもありませんので、権助をそっと呼んで、誘います。権助がお神さんに挑もうとしたら、中の鼠は権助の一物を噛んで逃げて行きました。後家さんは計画通り鼠が出せ、権助に慰謝料を渡して堅く口止めして故郷に帰しました。
 後家さんはこれで済みましたが、済まないのは権助です。故郷に帰って、嫁取りを勧められましたが、「女のあそこには鼠がいる」と言い張って承知しません。それでも無理矢理に嫁を取らせ、いよいよ婚礼の晩に、権助が嫁さんを見るとびっくり、「鼠の耳が出てる」。
 普通の咄にしましょう。現代では、ほとんどの野菜が段ボール箱で流通しています。昔はというと、木箱や俵に入っていました。咄の中には、蜜柑箱や林檎箱を仏壇やちゃぶ台にしてある家庭が登場します。米や薩摩芋は俵に入れて運んでいました。この芋俵を使った咄です。
 ここに、少々悪知恵に長けた二人が、大店に忍び込んで泥棒をしようと思いつきました。雨戸や大戸を押し破って入るという大盗賊のような度胸はありません。頭を捻って考えついたのは、引き込みを使う手です。芋俵に仲間を入れて目当ての店の前を行き、先程の芋屋に忘れ物をしたと言って、重い荷物を持って戻るのは大変だからとその店に芋俵を預かってもらおうという方法です。それを取りに行かなければ、店は後で因縁をつけられても困ると店の中に入れて寝てしまう、そこを芋俵から出て、くぐり戸を開けて仲間を引き込むという手順でうまくいくと考えました。担ぎ手が二人、中に入るのが一人足りないと仲間を捜しましたら、少し鈍い与太郎しかいませんでした。
 しかたなく与太郎を呼んで来たら、与太郎は早速、「いたな、泥棒め」と、まだやってもいないのに洒落にならないことを言います。とにかく与太郎に筋書きを話して俵に入れたところ、藁が鼻に入ってくしゃみをしたり、担ぎ出したら俵に隙間を開けてなじみの白犬を呼んだり、筋書きが判っていません。それでも自分たちの町内から離れた目当ての店に来て、台本通りの遣り取りをし、芋俵を預かってもらうまでは順調に運びました。店では、日が暮れても芋俵を取りに来ないので、店内に入れましたが、与太郎は天地逆様に置かれてしまいました。
 さて昔で言う宵の口、現代で言う夜の始め頃を過ぎ、女中さんと小僧さんが居眠り競争を始めました。眠たくても寝ることができないのが奉公人のつらいところで、女中さんは、今日預かった芋俵の中から一本か二本いただいて蒸かして食べようと思いつきました。そんなことはいけないと渋る小僧さんは、女中さんの、あれだけの俵だから一本や二本なくなったって気がつきゃあしないよ、との言葉に納得しました。早速俵に手を突っ込んでみると、生暖かいのです。昼間日向に置いといたからかなと、さらに探ると柔らかいところがあります。それは腐っているんだから、硬いところにしなと女中さんに言われ、小僧さんはさらに探ります。その手が与太郎の腹に当たります。与太郎はくすぐったくても笑うことができないので、腹に力を入れてぐっとこらえると、大きなやつがブウ、「はっ、はっ、はっ、気の早いお芋だ」。
 青木昆陽が薩摩芋栽培を奨励したように、食糧難の時代、薩摩芋は主食代わりにになりました。「おっかあ、今辰んところへ行ったらよ、ここんとこ病気して働けねえんもんだから稼ぎが無くってよ、みんなで芋食ってんだよ。あんまり可哀想だから米持ってってやんだから、出しなよ」「あいよ」。「どうだったい、お前さん」「ああ、辰のやつ喜んでな、涙こぼしてたぜ。ところで腹減ったから、飯にしてくれ」「お前さん、辰っつぁんのとこへ上げちゃったから、もうお米ないよ」「仕方ねえ、芋を食おう」。
 なお、『今昔物語集』や芥川龍之介の作品で有名な芋粥は、まだ薩摩芋が日本に渡来する以前に作られた粥で、自然薯が入れられ、そこに甘葛(あまづら)で甘い味を付けたものです。今日の生活感覚から薩摩芋入りと思ってしまいがちなので、念のため書き添えておきます。

   いが栗                    (いが栗、西行、袈裟御前)
 昔、いが栗を天井裏に置いておくと、棘に怖れて鼠が退散すると言われていました。ハクビシンが天井裏に入ってくる現代では有効なのでしょうか。
 さて、美人で評判が高い娘がいました。その娘のことを、どこで見かけたのか、外を歩いている乞食坊主が恋をしました。何とかして娘に会いたいとの思いが募りましたが、どうにもなりません。坊さんはかわいさ余って憎さ百倍、辻堂に籠もって一心に祈ると、とうとう生き霊となって娘の寝所に浮かび出るようになります。娘は毎晩、「ウーム、ウーム」とうなされて、七転八倒の苦しみを続けます。医者を次々と頼みましたが、皆、これは医者では治せませんと匙を投げます。
 そこで、いろいろと見通す力のある修行を積んだ高僧に相談すると、高僧は娘の相を見て、遥か離れた辻堂の中にいる乞食坊主が原因だと判じました。早速その堂を探し当て、父親と高僧が行ってみると、髭も髪も伸び放題のいが栗頭の坊さんが一心に祈っています。そこで、「お前の祈りで娘は死んだ」と告げると、乞食坊主はにっこり笑って死んでしまいました。すべていが栗坊主の祟りで、娘はそれまでの苦しみが嘘のように快癒しました。その晩、ゆっくり寝られると床に就くと、寝付いた娘の部屋からまた、「ウーム、ウーム」という唸り声が聞こえます。父親が驚いて飛んで行くと、娘が「何か痛い物が」と言います。部屋を見回すと、鼠除けのいが栗が天井から落ちています。父親は思わず、「まだいが栗が祟っていたか」。
 食べ物の栗ではなく、娘に恋慕した坊さんを題材にした咄です。同じような形ですと、『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』で桜姫に惚れて髪ぼうぼうになる清水清玄や『隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)』でおくみという町娘を追い掛けて殺される法界坊がいます。
 いが栗とはなりませんでしたが、佐藤義清(さとうのりきよ)という若武者は、染殿内侍という高貴な女性に憧れ、とうとう内侍から「この世にてはあはず、あの世にてもあはず、三世過ぎて人間絶えて後、西方弥陀の浄土にて我を待つべし」という手紙を受け取ります。この世ではお断りとこの手紙を読んでは、恋は叶いません。この文は、「今夜は逢わない、明晩も逢わない、三日目の夜、人々が寝静まってから西の阿弥陀堂で待っていてください」と読み解ける隠し文で、その三日目の夜に義清は思いを遂げることができました。義清が「またの逢瀬は」と訊くと、「阿漕(あこぎ)であろう」との返事で、義清はこの意味が解らなくて出家をし、西行と名乗ったという西行出家伝説です。なお、内侍の答えは、「伊勢の海の阿漕が浦に曳く網も度重なれば顕れにけり」という歌で、たびたび逢えば露見するから、これきりだという意味だと言われています。
 咄では、この後「阿漕」という意味が解らないまま諸国を旅している西行が、ある宿場で、馬子が、「ドウドウ、前の宿で豆を食らい、また豆をほしがる、お前みたいな阿漕な奴はねえな」と言うのを聞いて、「ははあ、二度目の豆が阿漕かしらん」。
 咄に豆という破礼の語が入ってきてしまいました。考え落ちよりも少し生々しい咄になってしまいました。恋慕についてもう一席あります。
 遠藤盛遠という武者は、橋の落成の記念の時に、渡辺渡(わたなべわたる)という武者の妻の袈裟御前(けさごぜん)に一目惚れしてしまいます。盛遠は袈裟御前を我が物にしようと、言うことを聞かなければ渡を殺すと脅しを交えて口説いて、袈裟御前の寝所に行く約束を取り付けました。渡の屋敷に忍び込んだ盛遠は、渡の寝所に行って首を切ってしまいました。盗賊の仕業に見せかけようと首を持った盛遠、血がしたたらないので、おかしいなと首の切り口を手で探るとべっとりと何かが付きます。よく見ると米粒です。「しまった、今朝の御膳(袈裟の御前)であったるか」。
 この咄は『平家物語』などを下敷きに作られています。咄はここまでですが、この後、袈裟御前が渡と寝所を替えてわざと殺されたことを知り、盛遠は出家して文覚(もんがく)と名を改め、神護寺を再興しました。文覚はやがて源頼朝に挙兵を勧めるという、歴史的な役割を果たしました。
 この文覚は、西行が歌僧として名をなしているので、神護寺に来たら殴ってやると豪語していました。ところが、西行が訪ねてきたら、文覚はもてなしました。弟子たちが、「どうして殴らなかったのですかと文覚に尋ねると、こちらの方が殴られそうだったではないかと答えたそうです。この西行について、続きの咄があり、その部分について少し研究したことがあるので、長くなりますが書いておきます。
 咄では、西行が摂津の鼓の滝に来て一夜の宿を求めます。この家は爺さまと婆さまと娘の三人暮らしで、西行が身の上話のついでに和歌の修行をしていると話すと、どんな歌を詠んだかと尋ねられ、自信満々に「はるばると鼓の滝に来てみれば沢辺に咲けるたんぽぽの花」と答えました。すると爺さまが、この歌はまだ出来上がっていねえ、直してあげましょうと、「はるばると」は鼓の滝の縁で「音に聞く」と直しました。すると、婆さまが、おらもと、「来て見れば」をこれも鼓の縁で「打ち見れば」としました。爺さま婆さまが直されたのなら私もと娘が、「沢辺」を鼓の縁で「川(革)辺」としました。馬鹿にしていた西行は驚き、その夜はそこに一泊しました。翌朝西行が目覚めると家はなく、誰もいません。さては和歌三神が姿を変えて私の慢心を諫めに来たものかと、ますます修行に励んだと言います。ここまでが咄です。
 ところで、鼓の滝という滝は摂津にはありません。室町時代にできた『正徹物語』に「鼓の滝」という語が出てきますが、他の写本では「布引の滝」となっているそうです。鼓の滝と布引の滝が間違われていたことがあるようです。
 それでは、鼓の滝はどこにと調べると、肥後の国にあり、『拾遺和歌集』に「清原元輔肥後守に侍りける時、かの国の鼓の滝といふ所を見にまかりたりけるに、ことやうなる法師のよみ侍りける」という詞書をつけて入っています。また、檜垣嫗(ひがきのおうな)という女性の歌集だといわれる『檜垣嫗集』には「鼓の滝」という題で入っています。歌は二つの集とも、「音に聞く鼓の滝を打ちみればただ山川の鳴るにぞありける」と、下の句が違いますが、鼓に縁のある語が使われています。『拾遺集』の「ことやうなる法師」、つまり変わった法師が西行ならば話はつながるのですが、清原元輔西行では二百年以上時が離れていますから、すべては伝説のままということです。

   松茸   (松茸汁、柿栗松茸、米櫃松茸、松茸屋、壁松茸、赤貝丁稚、赤貝猫)
                              付:禁演落語リスト
 秋の味覚の代表に松茸があります。大勢で筍を食べながら、「この筍も掘らずにおいたら、大きな竹になったかと思うと、もったいないような気がします」という話になり、知ったかぶりが、「あの松茸もとらずにおいたら、どんなに立派な松になったかと思います」。
 近年は松茸が減ったという土地で訳を聞きましたら、松が伸びて日当たりが良くなり、松茸の菌が生育するのに向かない環境になったとのことです。赤松の林も高齢化だそうです。
 秋の山の中、柿が枝から落ちて、下にいた栗にぶつかりました。「おう、柿か、寒いな」「寒いったって、お前はいがの中に入ってて、厚い皮と薄い皮とたっぷり着てるからいいじゃないか、俺なんざ、薄い皮一枚だ。一枚貸してくれ」と話していると、脇から松茸が、「うるせえな、皮一枚でも着ていればまだましだ。俺なんざぁ、まだふんどしも締めねえ」。
 松茸売りが、「松茸屋、松茸」と売りに来ます。「傘の開いた大きいのはいくらだ」「百文で」「そちらの中ぐらいのは」「百文で」「小さい虫の食ってるのは」「百文で」「いいのも悪いのも同じ値というのはどういうわけだ」「松茸は、みんな突っ込みでございます」。
 こうして買った松茸が見当たりません。女房に、「松茸はどうした」「米櫃にしまってあるよ」「そんな所へしまっちゃあだめだ、松茸は米粒一粒付いたって傷むんだ、早く出しなよ」「そえでわかった、褌に糊を付けない訳が」。
 味覚なのかと思うと、松茸はその形状から男のものを連想させています。
 壁に松茸の絵のいたずら書きがあり、慌てて消すと、大きく描かれました。これも消すともっと大きく描かれます。「消すのよしな」「どうして」「松茸はいじると大きくなる」。
 お付き合いに、赤貝の咄を並べましょう。
 赤貝の活きたのを買ってきて、丁稚が桶に入れて見ていました。貝が口を開けたり閉めたりするのがおもしろくて指を突っ込んだら、貝が閉まって取れなくなりました。あまりの痛さに慌てて医者に駆け込むと、医者が「まだ指でお幸せ」。
 これはれは丁稚ですから、上方の咄です。次は、連作です。
 猫が活きた赤貝に手を出して挟まれてしまいました。慌てて二階に上がっていくと、「誰だ、下駄履いて階段上がる奴は」。二階でやっと外してもらった猫、風呂上がりで浴衣一枚の飼い主の女性の懐に入れてもらって、ごろごろと喉を鳴らしています。飼い主が立ち上がると、浴衣の中から下へ滑り落ちます。猫は何を見たのか、背中を丸めて「フゥーッ」。    
 以上、高座で聞けそうな咄ですが、いかがでしょうか。こういった小咄は対象にはなりませんでしたが、太平洋戦争に突入する前の昭和十六年十月三十日には、時局にふさわしくないと見なされて、はなし塚に自主的に封じた咄が五十三席あります。以下、小島貞二氏の『落語三百年<昭和の巻>』からかぎ括弧を付けて転載させていただきます。
「五人回し、品川心中、三枚起請、突き落とし、ひねりや、辰巳の辻占、子別れ、居残り佐平次木乃伊取り、磯の鮑、文違い、お茶汲み、よかちょろ、廓大学、明烏、搗屋無間、坊主の遊び、白銅、粟餅、二階ぞめき、高尾、錦の袈裟、お見立て、付き馬、山崎屋、三人片輪、とんちき、三助の遊び、万歳の遊び、六尺棒、親子茶屋、三人息子、首ったけ、つるつる、大神宮の女郎買い(廓話)、権助提灯、一つ穴、星野屋、悋気の独楽(妾もの)、紙入れ、つづらの間男、庖丁、氏子中、城木屋、駒長(間男もの)、目ぐすり、宮戸川、不動坊、引越しの夢、にせ金、疝気の虫、蛙茶番(艶笑もの)、後生鰻(残酷もの)」。
 昭和二十一年九月三十日、「世の中の悪しきまがしきことの、大きなると小さきとを問わず、底つ国に吹きはなち物うらないの神、これを受け持ちてありくほどに、ふと物失いに失いて、それよりこの方世の中にまがしきものあらずなりぬると。また日蓮上人曰く、妙とは蘇生の義なりと重々しき石をとり除き、今五十三話神の封印を解きて、卿等を再び現世に喚び戻す所以のものは、山河亡びたる邦国の民に真の笑いを贈り優しみの概あらしめて、再び美国を築かんがためとしかいう。願わくば天地神明及び五十三話神、その本来の徳有を現じ給わんことを」という祝詞によって復活しました。
 その後、マッカーサー司令部の指示によって、演劇と同じように「仇討もの、独裁者もの、征服主義、婦女子虐待もの、宗教の強要」はいけないという規制がされ、昭和二十二年五月三十日に再びはなし塚に二十話が封印されました。
「桃太郎、将棋の殿様、景清、岸流島、高尾、後生鰻、お七、胆つぶし、寝床、宗論、四段目、花見の仇討、袈裟御前、写真の仇討、山岡角兵衛、宿屋の仇討、ちきり伊勢屋、毛氈芝居、城木屋、くしゃみ講釈」。
 この訳のわからない規制に引っかかって、再度禁煙落語に指定されたのが、高尾、後生鰻、城木屋の三席です。いかに規制というのが馬鹿馬鹿しいかという例として、また、二度とこういう時代が来ないことを願って、記録しておきます。