説経かるかや 3 福福亭とん平の意訳

かるかや 3

 ああ、なんとも申しようがございませんが、苅萱殿は高野山へとお着きになり、そこで谷川の水を汲んでは、花を摘んで香を供えて朝夕に念仏を唱えて、仏道に打ち込んでいらっしゃいました。
 ここまでは苅萱道心殿の物語でしたが、これはさておき、ここにまた、哀れを究めたのは、苅萱こと重氏殿のお国元にいらっしゃった奥様で、とてもお気の毒でございました。お話は五年前に遡ります。さて、重氏殿の出奔の夜のことでございますが、お気の毒なことに、奥方様は、重氏殿のお居間においでになって、座敷の襖をさらりと開けて、「重氏殿はおいででしょうか」とお声をかけられますと、重氏殿はおいでがなく、旅仕度をなされた跡だけがありました。
奥様はこの様子をご覧になって、なんと妙なこと、夫重氏殿は今夜の闇に紛れてこの屋敷をお出掛けなされたよな。私がほんの少しでもこのお心を知っていたならば、たとえどこか、どのような地の果てであっても、御一緒に参りますものを、残念なとお思いになり、持仏堂の様子をご覧になると、重氏殿がいつも肌身離さずお持ちになっていた刀と常用の籐の枕に、置き手紙が畳まれてあるのを見て、何の思いもなくすぐさま取り上げて、さっと開いてご覧になりました。
 手紙には、まず一番最初の書き出しに、「そなたの胎内の七か月半の子が生まれて、その子が男であるならば、石童丸と名付けて出家をさせてほしい、また、女の子であるならば、その子の行く末は、どのようにも妻であるそなたに任せる」とありました。「そなたと我とのこの世での縁は薄いけれども、来世では必ず会うことを約束する」と、こt細かく書き留めてあります。奥様は、ああ、私は、この重氏殿の手紙を見るにつけてもとても悲しいこと、いっそのこと、海へも川へも身を投げて死んでしまおうと身悶えしてお泣きになりました。この時、奥様のお側仕えのからかみのお局という女房が奥様に抱き付いて、「これこれ申し奥様、あなた様のように胎内にお子を抱えたままの姿で亡くなられると、救われることのない阿鼻地獄、無間地獄の苦しみの中に沈んで、決して浮かび上がることのできない身となると伺っておりまする。無事に御出産遊ばされたならば、夫の重氏殿の行方をお捜しになろうとも、または海に身を投げてしまおうとも、それはあなた様のお気持ち次第でありなすから、この度の御自害は思い止まってくださいませ、奥様」と申し上げるましたので、奥様は御自害を思い止まられました。
 間もなく妊娠十月となった日の暮れ方に、奥様は無事御安産なさいました。女房たちが集まってお産のお手伝いをして、赤子を抱き取りました。奥様は、「産まれた子は、男か女か」とお尋ねになります。女房たちは「まるで珠を磨き、瑠璃を延べたような美しい若君様でいらっしぃます」とお答え申し上げます。口中をきれに拭って、奥様にお渡ししますと、赤子は、左の手に、極楽浄土を表す安養の珠を握って誕生しました。女房たちが「早くお名前をお付けなさいませ」と促すと、奥様は「おお、それよ、忘れていました。父重氏殿の置き手紙に従って、名は石童丸と名付ける」と仰いました。この石童丸様には乳を与える乳母が六人、お世話をする傅きの人が六人、以上合わせて十二人の人たちが、石童丸様を大事に大事にお育てしました。
 時の過ぎるのは早いもので、石童丸様は、二歳三歳の時は早くも過ぎて、十三歳におなりになりました。
 ああ、お気の毒に、姉の千代鶴姫様は、外の花見へとお出掛けになりまして、一方、おかわいそうに、奥様と石童丸様は、南に向かったお部屋の縁の側へお座りになって、庭の花園を眺めていらっしゃいました。そこへどこからとも判りませんが、ひとつがいの燕が飛んで来て、花の咲いた枝に並んでとまったのを、石童丸様がご覧になって、「ねえ、お母様、あそこにいる鳥は何と言う鳥ですか」とお尋ねになりました。奥方様はこの問いかけに、「ああ、そのこと、あの鳥は、はるか常盤の国から二羽飛んで来た鳥で、その名を燕とも言いますし、またの名は耆婆とも言いますよ。雄の鳥がちちと囀り始めると、『法華経』の五の巻を囀って、とても素敵な鳥なの。あちらにいるのが父鳥、こちらにいるのが母鳥、間に十二並んでいるのは、それ、あの鳥たちの子どもの鳥よ」とお教えになりました。
 石童丸様はこのお答えをお聞きになり、、「さて、今日は不思議なことがございます。あのような鳥や獣たち、また地を這う動物たちまで、父、母と言って親を二人持つものなのに、どうして姉上の千代鶴姫と私には父と呼ぶ人がいないのですか。ひょっとして、侍としてよくあることで、誰かとの口論、馬競べ、笠を巡っての諍いに負けて亡くなられたのでしょうか、亡くなられたとしたら何時で、御命日は何月何日っでございますか、お母様」とお尋ねになりますと、奥方様はしのお言葉をお聞きになり、「ああ、そのことですか、そなたの父上が二十一歳、この母が十九歳、姉上千代鶴姫が三歳で、そなたは七月半で私の腹の中にいた時に、父上は花が嵐に散るのを見て、急に出家を思い立たれて、都で名の高い新黒谷で僧の形になって、その名を苅萱の道心と変えたと風の便りに聞いたので、私はとても夫の重氏殿が恋しくなったその時は、折々手紙をお送りするのですが、お送りする手紙は受け取りながら、全く返事をいただけないのだけれど、そなたの父上は、この世に生きていらっ書売るのです。石童丸よ」と仰せになりますと、石童丸様は、お聞きになって、「なんと嬉しいお言葉でしょう。さて、今日までは、父上はもうこの世においでではないと、ずっと思っていましたが、お父上は生きていらっしゃるのですね。お父上が生きていらっしゃるのでしたら、姉上の千代鶴姫と私に、少しの間お暇をください。お父上を尋ねて行ってお会いして参りまする。母上様」と仰いましたので、奥方様はこれをお聞きになり、「さて、そなたがそのようなかんがえであるならば、居間の話は、姉上千代鶴姫には決して知らせてはなりません、石童丸よ」と仰って。明日にしようとすると人に知られます。やだ今夜の暗い内に、そっと出掛けようとお思いになり、旅仕度をなさって、そっと屋敷を出ようとなさいましたが、親と子の縁なのでしょうか、両開きの妻戸がきいきいときしむ音が姉の千代鶴姫の耳に入り、千代鶴姫はこの音を聞いて、なんと妙なこと、今音のした妻戸は、お母様の方の妻戸だ。お母様が夜に度々お話をなされたのは、石童丸が成人をしたならば、一緒にお父上を探しに行こうということだったのだが、さては、今夜の内にこっそりとお出掛けなさったのであろうか、この私は、幼い頃にお父上に捨てられたとはいうものの、お母様にまでは捨てられたくはないと、急ぎ裸足で歩いて追い掛けましたら、親子の縁の深さでしょうか、五町の距離を追い掛けて追いつき、母の奥方様の袖に縋って、嘆きながら共につれて行ってほしいと願いを語ります。
 「これ申し母上様。私が違う母の子であるとか、違う父の子であるとかということで、なにか区別をなさるのですか。石童丸だけが、ね、お父様の子なのですか。そもそもここにいる私は、父上の子ではないのですか。石童丸がお父上を尋ねて出掛けるのならば、こう言う私も一緒にお父様を尋ねましょう、母上様」と訴えますと、母上様はこの言葉に、「ああそのことであるか、二人きょうだいで、母違い父違いの仲であるから二人を分け隔てするということではありませんよ、石童丸はそなたの弟で歳若いけれども、男の子なので道中の力にもなるのじゃ、また、そなたは年上の姉ではあるけれど、かよわい女の身であるから、道中の支えにはならないで、むしろ道中の足手まといになってしまうのじゃ。しかも、これから都へと上る道中は、人柄が悪くて、そなたのような美しい姫を捕まえて人買いに売ることがあると聞いている。そなたが売り飛ばされて人買いの手に渡るとなったなら、どう嘆いても取り返しが付かない長い悲しみになってしまうのではないか。そなたは一緒に行くということは思い止まって、この屋形の守りをしっかりとしてくだされ。父重氏殿に尋ね会ったならば、しっかりとお話をして納得していただいて、そなたに一度は会わせましょうよ、千代鶴姫よ」と仰いましたので、千代鶴隙はこれを聞いて、「ああ、なんとうらやましいことよ、石童丸よ。そなたは弟であっても男の子ということで、母上の道中の助けになるということじゃ。また、我が身は年長の姉であっても、女と生まれたのが口惜しいことじゃ。お父上を尋ねることができないのがとても残念じゃ。さてこうなると、お父上にお会いできる良い機会であるのだから、いったい何を母上に父上にお渡しくださいとお願いいたそうか、ああそうじゃ、すっかり忘れていた、父上のためにと思って、暖かい絹の衣を裁ち縫いしておいたのじゃ、これを父上にお渡ししていただこう。これこれ、石童丸よ、そなたが父上に尋ね会ったなら、『これは三歳で捨てられて、今年十五歳になる千代鶴姫が手縫いをした絹の衣でございます。お見苦しい品ではございますが、どうぞお許しの上お受け取りの上、お召しになってください』と言って、お父様に渡してくだされ。これこれ申し母上様、思い切ってお出掛けなさるのなら、お出掛けに障り無く万事うまく運んで、一日も早いお帰りをお待ちしております。早く戻っておいで、石童丸よ」と、別れの言葉を取り交わし、仮の別れとは見えましたが、これが、母と娘の親子、姉と弟のきょうだいの、長い別れになるのでございました。
 ああおいたわしいこと、奥方様は、日が暮れれば宿を取り、夜が開ければ旅歩きと道中をお急ぎになります。このようにお急ぎになられたところ、出発してから早くも五十二目という日に、花の都の東山にある新黒谷のお寺にお着きになりました。
 お気の毒な奥方様は、新黒谷の寺の門の脇に立ち寄って、石童丸に近づいて、「これこれ、石童丸よ、そなたの父上の苅萱殿が髪を剃って出家なさったお寺は、ここのお寺じゃぞ。本来なら私がこのお寺に入って行って自分で苅萱殿を探さなければいけないのだが、実は私は、筑紫の国で、旦那様が恋しくなった時々には、毎年のようにお手紙を差し上げたのだけれども、お送りする手紙はお受け取りになられても、ご返事のお手紙は一度も無かったのだから、もう私のことは思わず、二人の縁は切れたと思われます。一方、そなたは、血の繋がった親と子のことだからお会いくださることは間違い無い。さあ、早く門内に行って尋ねてきなさい、石童丸よ」と仰いましたので、石童丸様はこの母上の言葉に従って、急いで寺の門の中にお入りになりました。
 「お尋ねいたします、お上人様、さて、私は、生国と申しますと、これからはるか遠い大筑紫の片隅でございまして、細かく申し上げると筑紫の国、庄は苅萱の庄、我が家の父の名を申し上げれば重氏です。さて、私の父上が二十一歳、母上が十九歳の年でございました。姉の千代鶴姫は三歳でした。こうお話申し上げる私めは、まだ母の胎内で七か月半という時でしたが、父上は嵐に花が散るのをご覧になって、突然発心されて、このお寺で髪を剃って、その名は苅萱の道心となったと数の便りに聞いたのでございます。私は、父上が余りに恋しくて、ここまで尋ねて来たのでございます。父上のことをご存じでしたら、どうなさっているかお教えください、お上人様」と尋ねました。
 お上人様はこの言葉をお聞きになって、「ああ、そなたの父上のことでありますか。そなたの父の苅萱の道心は、この寺で髪を剃って、名を苅萱の道心と名告っておいでであったが、そなたの母上とそなたとが尋ねて来るという夢を見て、二度と対面するまい、顔も見るまい、言葉を交わすまいとしてのう、この寺から、女人が上ることのできない高野の山へとお上りにられたのじゃ、あちらをお尋ねなされ」とお答えになられて、お上人様も涙を流されました。
 ああ、お気の毒に、石童丸様は、お上人様においとまをして、急いでこの寺の門を出て、母上様のお傍にお座りになって、「これもうしお母様、実はお父上重氏殿は、このお寺で髪を剃って、お名前を苅萱の道心と名告られていらっしゃるとのことで、母上様と私が尋ねて来るとの夢をご覧になって、二度と対面するまい、顔も見るまい、言葉を交わすまいとお思いになられて、この寺から、女人が上ることのできない小屋の山へとお上りになられたとのことです。さてさて、高野の山とかいう山は、どちらにあるのでございますか、母上様」とお伝えすると、奥方様はこれをお聞きになって、「「そんなに嘆きなさるな、石童丸よ。そなたの言葉を聞くにつれて心が乱れるけれど、父上重氏殿さえ生きていらっしゃるならば、どんな野の端、山の果てででも、または湯や水の底まででも、必ず尋ね当ててそなたに会わせよう。もう出掛けよう、石童丸」と仰って、新黒谷を後にして、四条の橋を渡られて、「あれは五条の橋と聞いている。この旅で都の景色のすばらしい名所旧跡を見せてやりたいとは思うけれども、今回は我慢して、お父上に尋ね遇えたならば、その帰り道にゆっくり見ようではないか」と仰って、石清水八幡のお山にお参りしなさいますが、このお社の神様の本地は、阿弥陀様でいらっしゃいます。夢の端と思いながら、都を離れられて、奥方様は、河内の交野を通る時、狩猟を禁じられた禁野の雉は子を大切にするのに、我が夫の重氏殿は、我が子のことを少しも思わないというのは悲しいことよと、心の中にそっと恨みを抱きながら、さらに道をお急ぎになると、三日三晩のうちに、早くも高野山の麓三里のところにある学文路の宿にお着きになりました。
 ああ、お可哀想な石童丸様は、奥方様が、「どこの場所で良いから探して、宿を取っておくれ」と仰られるのをお聞きになって宿を探し、「お宿は、玉屋という大きな家になります」とお答えになりました。
 おつかれになった奥方様は、玉屋という家にお着きになられ、宿の主の与次殿をお呼びになって、「これもうし、予次様、ここから高野のお山へは、道中何里ありますか」とお尋ねになりました。予次殿は、このお尋ねに、「坂道は三里あるのでございますが、それは険しい道でございますよ」とお答えします。奥方様はこの答えに、「道が険しくても、険しくなくても、明日は早くに山に登って、この石童丸を父重氏殿にお引き合わせできることの嬉しさよ」と仰いました。