説経かるかや 5 福福亭とん平の意訳

かるかや 5

 奥方様は与次殿の話をお聞きになり、「それでは、私はお山に上ることは叶わないのか、悲しいこと、あの子一人で上らせようか。しかしながらあの子はね、私のお腹の中で七か月半の時に重氏殿に捨てられた赤子のことだから、実の父の重氏殿に尋ね会ったとしても、その顔を見知っていないではないか、悲しいことよ。しかし、それでも仕方がない。明日はお山へと上りなさい、石童丸よ」と仰いましたので、石童丸はお聞きになり、「それでは仕度をして上りましょう」と仰いましたが、いたいけなことでございまして、奥方様は石童丸様を近くに呼んで、「これこれ石童丸よ、よく聞きなさい。父重氏殿に尋ね会っても、またはお会いできなくても、お山で二日間尋ねたら、そのまま帰っておいで、石童丸よ。お山にいつまでもいて、この母に心配をかけてはいけません、石童丸よ」と仰いますので、お気の毒なたちあbの石童丸様は、その夜が明けてきた早朝に、旅装束をお着替えになって、高野のお山を指してお上りになりました。
 石童丸様が山に上られると、向こうから五人連れのお坊様が下りておいでになりました。石童丸様はその声を お聞きになり、あの五人のお坊様のその中に、父の苅萱道心がいらっしゃるかをお尋ねしようとお思いになり、だんだんに坂をお上りになりました。「もうしもうし、ここのお聖様、お尋ねを申し上げまする。というのは、この山に仏道修行の方はいらっしゃいますか。ご存じでしたら、お教えください、お聖様」とお尋ねします。五人連れのお坊様たちはこの問いかけに、「なんと、この若者は妙なことを訊くものよ。この五人も皆仏道修行者じゃ」と言って、どっと笑って通り過ぎました。石童丸様は足を早めておいでになると、高野のお山に着きました。
 ああお気の毒なは石童丸様で、一人のお坊様の近くに寄って、山の中の寺院の数をお尋ねします。お坊様はこの問い掛けに、「院の数は七七、四十九院ある。山内にいる坊さんの数はと言えば、お大師様の書き置かれた金の御文という書にも、九万九千人と可掛けている」というお答えでした。石童丸様はこの答えをお聞きになり、「ああ何と大勢のお坊様の数なのだろう、どうやって尋ねようか」とお考えになります。山の中の建物は、大塔・講堂・御影堂があります。また、墓のあちこちに立つ高卒塔婆は、この国々の人々の涙が籠もっています。石童丸様はこの山内を、今日は父上にお会いできるか、また翌日には、今日こそはお会いできるかと思いながら、六日の間お尋ねになりましたが、父上の道心様にはお会いになれませんでした。
 ああ、お気の毒な石童丸様は、ああ、私は忘れていた。麓で待っている母上様のお言いつけには、二日間尋ねて父上に会えても、またはお会いできなくても、二日間尋ねたら、すぐに帰って来いと仰られていたのだ、明日は早くこの山を下って麓へと戻り、母上様にこの様子をお伝えしようとお思いになりました。
 あ、お気の毒な石童丸様、翌朝早く空が白むと、奥の院にへとお参りして、麓においでの母上様にご報告申し上げようとして奥の院にお参りすると、親と子の縁というのでありましょうか、父の苅萱道心様が奥の院から花を肩に載せて下られるのと、石童丸様が奥の院へとお上りになるのと、行きと帰りのある無常の橋の上で擦れ違ってお通りになりました。親はこれが我が子と顔を見知っていません。子もまたこれが我が親とは見知っていません。お二人はそのまま行き違ってお通りになりました。
 ですが、親と子の機縁・契りはなんと深いものでしょう。石童丸様は立ち戻って、父苅萱道心様の袖に縋り付いて、「これもうし、お聖様、お尋ねをさせていただきます。この山に仏道修行をなさる御聖様がいらっしゃいますか。ご存じでしたら、お教えください、お聖様」とお尋ねになります。
 父の苅萱道心様はこの問い掛けをお聞きになり、「なんと、この幼い人は、妙なお尋ねをするものじゃ。この高野の山で人を尋ねるには、そなたのような尋ねようはしないものじゃ。この山で人を尋ねる時は、三か所に札を立てるのじゃ、そうすると、尋ねられた者が、会うまいと思えば札を引き抜く、追うと思えば札に札を添えるのじゃ。そこで、札を立ててから、三日の内にその消息が知れる。全体に、この山内にいる者は皆仏道の修行者でいらっしゃるぞ。それはともかくも、そなたの生国を言い、尋ねる人が百姓ならば故郷の所、侍ならば国の出身、名字に俗名、氏素性と位を私に細かく語るのならば、こう話す私もそなたと一緒に尋ねて差し上げよう、お若い方」とお答えになりましたので、石童丸様は、この苅萱殿のお答えに、「ああ、とてもご親切なお聖様ですね、さてそう仰ってくださいますならば、私の先祖を詳しく申し上げましょう。さて、私の国を申しますと、大筑紫筑前の国、詳しく庄を申しますと苅萱の庄で、父の名を申し上げると重氏でございます。加藤左衛門と申します。父の重氏殿は二十一歳、母上様は十九歳でした。姉の千代鶴姫は三歳でした。一方、こう申し上げる私は、まだ母の胎内にあって七か月半のその時に、父の重氏殿は嵐に花が散るのを見て急に仏道への心を起こして
都で評判の高い新黒谷で髪を剃って出家し、名は苅萱の道心とお名告りになっていらっしゃるということを、風の便りに聞きまして、母上と私が新黒谷をお尋ねして、お上人様に事情をお話しすると、父上は、家族と二度と対面するまい、顔も見るまい、言葉を交わすまいとして、この高野のお山にお上りになったと伺ったのでございます。私は父上がとてもとても恋しくて、ここまで尋ねて来たのでございますよ。父上の子とをご存じでしたら、教えてくださいませ、お聖様」と話しました。
 父の苅萱殿はこの石童丸の語るのを聞いて、ああ、このようなことを聞かされると知っていたら事情を聞くこともなかったであろうに残念なこと、我が子の姿を見れば可哀想なと、石童丸に知られないようにと流す涙が止まりません。
 石童丸様はこの苅萱殿の様子をご覧になって、「もしもし、お聖様どうなさいました、私がこのお山に上って七日間父上をお尋ねしましたが、あなた様のように心優しく涙脆いお聖様に出会いましたのは今が初めてです。あなた様はきっと父上のことをご存じなのですね。ご存じでした福岡の御笠川石堂橋橋桁にある苅萱親子像   ら、どうかお教えください、お聖様」と頼みます。
 父の苅萱殿はこの言葉をお聞きになり、なんと賢い子なのだ、私がその父苅萱と悟られてはならぬとお思いになり、とっさに偽りを仰います。苅萱殿が、「これこれ、その筑紫のお若い方、この私の身の上は、そなたの父上苅萱の道心殿とこの私とは、同じ師匠の弟子同士でありますのじゃ。里ヘ下るのも一緒に語らって下る仲であった。このように仲良く過ごしていたのじゃが、苅萱殿は思いも掛けぬ病を受けて、お亡くなりになられてしまったのじゃ。今日はなんと苅萱殿の命日で、苅萱殿のお墓参りをしたところ、縁あってそなたに出会うことになったのじゃ。その不思議な縁に、涙がこぼれるのじゃ、お若い方」と仰いますと、石童丸様はお聞きになり、「父上が亡くなられたとは真のことでございますか。なんとまあ悲しいことじゃ。これは夢か覚めてのことか。今この実の世の別れなのじゃなあ。もしもし、いかがでしょうか相弟子様、私はお父上にお目にかかる気持ちでお墓参りをいたしましょう。地杖のお墓を教えてくださいませ、相弟子様」とお願いしますと、苅萱殿はお聞きになって、自分が建てた卒塔婆はあるが図がなく、旅人が後世を祈ってお建てになった高卒塔婆の所へと石童丸様をお連れして、「これこそそなたの父上の苅萱殿のお墓です」とお教えになりました。
 石童丸様は案内されて、教えられた塚の所に倒れ臥して、「これこれ、お父様お聞きください。ここにおりますのは、母上の胎内で七か月半になった時に捨てられた赤子が、生まれて人となって、ここまで尋ねて参りましたのです。どうかこの塚の下からでも良いから、もう一度『石童丸よ』とお言葉を掛けてくださいませ」と、涙は止めどなく流れて、たださめざめとお泣きになりました。
 石童丸様は流れる涙ながらに、懐から暖かい絹で作られた衣を取り出して、塵埃をすっかり払って、その頃を墓標となっている卒塔婆の上に掛けて、卒塔婆に抱き付いて、「もうしもうし相弟子様、お父様に尋ね会ったなら、まずこのようにこの衣をお着せして、お父様に抱き付けたと思えばどれくらい嬉しいことかと思っていましたが、今は形だけ卒塔婆に着せ掛けるだけです。つまらないこと」と言って着せ掛けた衣を卒塔婆から引きはがし、押し畳んで手に持って、苅萱殿に向いて、「もうしもうし相弟子様、この衣は三つで父上に捨てられた、今年十五歳になった姫が自らの手で作った絹の衣です。姉の姫から、『お見苦しい品ではございますが、この衣を父上に差し上げます。どうかお情けにお受け取りになってお召しください』と、父上への伝言がある品ですが、父上はもはやこの世においでにならないのですから、相弟子様に差し上げます。お見苦しい品ではございますが、相弟子様の御情けに、どうぞお受け取りになってお召しください」と仰って、相弟子様に差し上げました。石童丸はこの方を父上の相弟子様と思ってはいますが、姉の千代鶴姫の志は、父上の手に渡ったのでございます。
 ああお気の毒な石童丸様、涙を流されていましたが、ああそうだ思い付いた、この卒塔婆を抜いて麓へ担いで行き、は笛様にこの卒塔婆をお見せしようと、卒塔婆を抜いて担いでいこうとするところを。父の苅萱殿はその独り言をお聞きになり、あの子はなんと賢いことか、卒塔婆を抜いて麓へ持って行かれたら、奥方がこれを見て、『それはそなたの父の苅萱殿の卒塔婆ではない。生前に後世を祈る卒塔婆じゃ』と言われたら、今まで隠しておいたことが全部水の泡となるとお思いになり、重ねて偽りを仰います。「これこれ、もし、筑紫の幼い人、この山で建てた卒塔婆というものは、仏様と同じ台座に建てたのものであるのだよゃ。その卒塔婆を抜いて麓へ下ろす時は、もとの卒塔婆はずいと引き抜かれたと同じで仏様の縁が切れてしまう。どうしても風呂都へ持って行く卒塔婆がほしいのなら、私の所へおいでなさい、卒塔婆を書いて差し上げよう、お若い方」と仰いましたので、石童丸様はこのお言葉を聞いて、なるほどもっともとお思いになり、父の苅萱殿と一緒に、苅萱殿の蓮華坊へとお急ぎになりました。
 ああお気の毒に石童丸様は、今ここにお父上にお会いになっていらっしゃるのに、この方をお父上とはご存じありません。一方父上の苅萱殿は、ここにいるのが我が子石童丸とご存じになっていらっしゃいますが、自分が親であるとは名告られません。ああ気の毒な次第で、苅萱殿も、父であると名告りたいとはお思いになりあmすが、新黒谷でお立てになった誓文を破って一家一門先祖や未来に至るまでに当たる罰の恐ろしさに、石童丸様にそなたは我が子であるとは名告られません。この苦しい父苅萱殿のお心の内のつらさは、とてもお気の毒でございました。
 ここまでは、苅萱殿をめぐる物語で、ここでひとまず擱くとして、ここにまた、とてもお気の毒でありましたのは、麓で待っていらっしゃった奥方様がとてもひどいことになっていました。ああお可哀想に奥方様は、石童丸様がお出でかけになった二日間が待ちきれないで、風がそよそよと吹く音にも、妻戸がきりきりときしむ音にも、あれは石童丸が蹴って来た音か、連れ合いの苅萱殿からのお便りか、石童丸はまだ幼い者のことだから、ひょっとして山道に迷って、どのように山を出たらよいか分からずに迷っていてまだ帰れないのであろうか、悲しいことよ。または父に尋ね会って、恋しいゆかしいとあれこれを語り続けて、父と離れる折を失って、まだ山の仲にいることか、悲しいことよとお思いになっていらっしゃいます。「これこれもうし、与次郎様、さて、私はもう今日限りの命と思えます。私が亡くなりましたなら、身に黄金を付けていますので、それを与次郎様に差し上げます。私を埋葬してくださいませ。それにつけても会いたい見たい、我が子石堂丸よのう。さて、今日の内に、夫についての頼りは聞けなくても、せめてもう一度石堂丸に会いたいものよ」と、恋しい恋しいと仰います。その恋しさが溜まってしまったのでしょうか、または、寿命が尽きたのでしょうか、惜しまれるのはまだ若いお年で、ご年齢を数えれば、明けて三十一歳という年に、朝の露とはかなくなられてしまいました。このお気の毒さはこの上なく、何に譬えることもできません。
 与次殿は奥方の嘆きと最期を見て、あのように子を思う親を持ちながら、親の心を考えず、山から下ってこない子の心の悪さよ、明日になったなら、急いでお山へと上り、あの子を尋ねようと思って、早朝に空が白むと、この宿の与次殿は身支度をして、お山を指して上りました。