説経かるかや 6 福福亭とん平の意訳

かるかや 6

 与次殿は、石堂丸様がお山から下られるのと、不動坂で出会いました。与次殿は石堂丸様のお姿をご覧になり、「さて、そこに下りてくるそなたは、昨日母上がお亡くなりになったということがお山まで伝わって、そのために卒塔婆を担いで来たのであるか、そのような仕度ができるものならば、どうして昨日のうちに下りてきて、母上の死に目に会わぬのか」と怒って声を掛けます。石堂丸様はこの与次殿の声に、「いやこれはは笛のための卒塔婆ではありません。では、母上はどうなられたのでございますか」と問い掛けます。与次殿はこの答えを聞いて、「あなたのお母様である奥方様は、昨日の八つの刻にお果てなされましたのじゃ」と言います。石堂丸様はこの言葉に、「なんという情けないことじゃ、ああ、縁起の悪いこの卒塔婆め」と、持って来た卒塔婆を身の左右へがらがらと捨てて、急いで麓の与次殿の方ヘお着きになりました。
 石堂丸様が枕屏風を外して仲の様子をご覧になると、ああ、お可哀想に奥方様は浄土へと向くに北枕で寝かされていまして、石堂丸様はこのお姿に、「これは夢か、覚めてのことか、現実のこの世のお別れなのですね」と奥方様のお体を揺り動かしてはわっと泣き、抱き付いてわっと泣き、顔と顔を押し当てて、あれこれと嘆かれるご様子はお気の毒なことでございました。
 「これこれ、お母様、どうしてこの石堂丸をねえ、勝手を知らないこの山中に、誰を頼りにせよと放り出されて、お亡くなりになられのですか。どうしても行かなければならないあの世への道ならば、どうしてこう言っている私も母上様と一緒にお供をいたしましょう」と止めどない涙を流されて、さめざめとお泣きになられました。
 石堂丸様はあふれる涙を抑えるようになさって、手向けの水を取り寄せられ、母上の引き結んだ口を開いて、小指で水を手向けて、「今差し上げるこの水は、浄土で同じ蓮の上にいらっしゃるルカや様の末期の水です。また、次に差し上げるこの水は、国元筑紫に残って来た姉千代鶴姫の末期の水です。またその後に差し上げるnこの水は、この度お供をして、いても頼りにならなかった石堂丸の末期の水です。そrぞれをよろしく受け取られて、成仏なさってください、あせ」と、繰り返し回向して、ああお気の毒に、石堂丸様は、この土地に頼りになるつてが何もないので、身支度をして、お山へと上られました。
 石堂丸様は高野山の峰にお着きになって、父苅萱の相弟子様に近寄って、「これ、お願い申します相弟子様、麓で待っていらっしゃった母上様が亡くなられてしまいました。お坊様の縁続き、どうか母上の葬儀を行ってくださいませ、相弟子様」と頼みますと、父苅萱殿はこの言葉をお聞きになって、すぐさま、取るものも取りあえず、石堂丸様と御一緒に、蓮華坊へと入り、剃刀一挺を懐に入れて、麓へとお下りになりました。
 苅萱殿は途中の不動坂でしばらく立ち止まり、思い付いたことがある、麓においでの我が妻が、あの子を呼び寄せて、山の様子を細かく聞き取って、あの子がお山でこのようなお坊様にお会いした語っていたならば、奥方がそれを聞いて、それは相弟子ではなく苅萱本人であろう、計りごとで呼び寄せて、謝らせようとしているのだと思われる。これは山を下ってはいけないところだとお思いになり、ひとまず石堂丸様にこしらえごとを仰います。苅萱殿が「これ、筑紫の幼い人よ、山から里へ下りる時には、師匠に許しをもらって下ることになっている。今般はそなたが判る通り、まだ師匠の許しを得ないでくだろうとしているのじゃ。そなたは先に行ってくだされい。私は後からすぐに行こう、若い方」と仰いますと、石堂丸様はこのお言葉に、「決まりを守るのも時によると申します。お坊様の衣の縁に縋ってのお願いでございますから、私が偽りであなた様を欺すようなことはございません」と、苅萱殿の袖をしっかりと押さえました。苅萱殿はこの言葉の様子に、この幼い者がまさか噓は言うまいと判断して、お山の麓へとお下りになりました。
 お宿となった与次殿は山を下ってくる人を見て、「さて、今まではどなたがお山からお下りかと存じておりましたが、蓮華坊様でいらっしゃいますか。さてさて私は、旅の奥方様に一夜の宿をお貸しして、このようなつらいことに出遭ってしまいました。これからは委細、蓮華坊様にお任せいたします。この方を弔って埋葬して差し上げてください、蓮華坊様」と頼みましたので、苅萱殿はこの与次殿の言葉を聞いて、奥方様の傍に誰もないのは、私にとって嬉しいことと思って、妻戸をきいきいと押し開いて、屏風を拓いて中をご覧になると、ああ可哀想に、奥方様は、北枕の浄土に向かう形で寝かされて、亡くなられていました。苅萱殿は奥方様の亡きがらにがばと抱き付いて、そのお体を揺り動かしてはわっと泣き、顔と顔を押し当てて、さぞやさぞこの世を去られるその時にそなたを置いて出奔したこの重氏のことをお恨みになられたことであろう。どうか、あまりに深い恨みはなさってくださいますな。あなたを愛おしく思う心は決して変わってはいないのです。心変わりはしていない証として、あなたの後生を弔って差し上げましょうと、苅萱殿は懐から剃刀を取り出して、奥方様の阿k身を剃ろうとなさいますが、今を去ること十三年のその昔に、思いを思いを捨てた奥方のことではありますが、その頃の良い思い出があれこれと浮かんできて、とても奥方の頭に剃刀を当てられませんが、それでも心を励まして奥方の髪を四方の仏のいる浄土へ向かえと剃り落として、やっとのことで輿みお載せして、この輿の先棒を苅萱殿が担ぎますと、後棒を石堂丸様が担がれました。野辺の送りを早く致そうとして、、千町が野へと送って、栴檀の薪を積んで奥方の遺骸を焚き上げ、諸行無常まことに無常、この火は、人の心の貪り・怒り恨み・愚かな迷いを消すためとなりと火葬をいたしました。
 悲しみの中で苅萱殿は、石堂丸様に近く寄って、「もし、これ、筑紫の若いお方、このそなたのお母様のお遺骨は、私がお山へ持って上って、納骨堂へ納めることにします。あなたは故郷の国に姉上があるとのことだから、そちらへこのご遺髪を持って行って、お母様の形見とお渡しなさい」と仰って、苅萱殿は心を強く持って話され、この期に及んでもご自分のお名前を仰らずに石堂丸様を突き放されますが、そのおこころの内はお気の毒でございました。
 この苅萱殿の物語はこのあたりにいたしまして、ここでまた、もっとお気の毒なのは石堂丸様が、一番お気の毒でございました。ああお可哀想に石堂丸様は、お母様のご遺髪を首から掛けて、筑紫を指してお下りになります。お可哀想な石堂丸様は、道中で寂しくなった時にはこのご遺髪を取り出して、嘆きごとを申し上げるのは、お気の毒でした。「このご遺髪となられた母上様と御一緒に父上をお探ししたその時は、これほど道中が遠くなかったのに、今一人で帰るこの道の遠いことよ」と、泣いたり嘆いたりをしながら筑紫へとお下りになりました。
 石堂丸様が足を速めて進まれますと、それから間もなく大筑紫へとお着きになりました。石堂丸様は我が屋形の門前にお立ちになって、屋形の様子をお聞きになります。屋形の内からは千部万部のお経を上げる声が聞こえます。石堂丸様はこの声をお聞きになり、「悪事千里を走る」とは、こういうことの譬えを言うのであるか。御両親様が亡くなられた話が、私がここに着くより先に伝わってきて、もうお弔いをなさっている、ああ、嬉しいことよとお思いになり、門の中へとお入りになりました。
 石堂丸様の乳母や身の回りをお世話する人たちは、石堂丸様の左右から抱き付いて、「ああ、とてもご運のよろしいのは石堂丸様、さてさて、御父上様にはお会いになられたのですか。母上様はこちらにお戻りになるのですか。ご不運なのはあなたのお姉上様ですねえ。あなた様とお母上様がご出立なされてからすぐに、『お父様が恋しいよ、お母様が恋しいよ、石堂丸に会いたい』と、恋しい恋しいとおっしゃっていらっしゃいましたが、その恋心が積もりすぎたのでしょうか、それとも御寿命が尽きられたのでしょうか、とうとう亡くなられてしまったのでございます。これが姉上のご遺骨、ご遺髪」と、石堂丸様にお渡しになります。石堂丸様はこの二つの品を見て、「なんとも悲しいことだなあ、何と姉上お一人を親と思って子として慕い、またわが主とも思って、深く頼りにしてお宿として帰って参りましたのに、頼り手が何もないはかない立場はこの我、石堂丸のことであるなあ。もうこの大筑紫の国に留まる気がしない」と仰って、国を一門の人々に預けて、姉上の御遺髪を首から掛けて、高野山を指してお出掛けになりました。
 高野の山にいらっしゃる父の苅萱殿は、幼い我が子がどのように国を治め保つのであろうか、そっと様子を見て来ようとお思いになって麓へとお下りになると、不動坂で石堂丸様と出会われました。苅萱殿は石堂丸様をご覧になって、なんとこの若い子は国に帰らず、なんともこの地に長居をするものだと呆れ、「どうしてさっさと国ヘくだらないのだ」とお叱りになります。石堂丸様はこのお叱りをお聞きになって、「いえいえ、私は国元へと下りましたが、国元にいらっしゃる姉上様も亡くなられていらっしゃいましとのです、父上の相弟子様」とお答えしましたので、苅萱殿はこのお答えをお聞きになり、それならば、たった今、孤独になったあの子一人に、「我はそなたの父重氏である」と名告って聞かせたいと思いましたが、新黒谷で立てた誓文を破った時の罰の恐ろしさに、ここで我はそなたの父であるとのお名告りはありませんでした。心を強くしてっと堪えきった苅萱殿のお気持ちはとてもお気の毒でございました。
 その後、石堂丸様は、父の苅萱殿の手によって髪を四方浄土へ回向する形で下ろされ、髪を剃って後の僧の名として、道心の道の字を受け取って、道念坊と名を付け、それから道念坊様は谷間の水を汲み、山へ行っては木を伐って、朝夕念仏を唱えて、すっかり修行に打ち込んでいましたが、山内で木を採る法師たちが二人の様子を見て、「蓮華坊と道念はとても仲が良い。その上、道念坊は蓮華坊と実によく似ている」と言って、様々に評判しました。
 父の苅萱殿はこの噂をお聞きになって、まことに人の口は意地悪なもので、万一二人が親子と悟られては、今まで隠し通して後世を願ったことが皆無益になるとお思いになって、道念坊の石堂丸様に作りごとを仰います。「これこれ、道念よお聞きなさい、私は心が生まれた国ヘと向いている。そこで、この寺をそなたに預けて出発する。ひょっとして、この世は定めのないことばかりであるから、万一、私がこれが限りとなって、南の空に紫の雲が立ったなら、この私が亡くなったと思っておくれ。私の旅先で、北の空に紫の雲が立ったなら、私は道念が亡くなったと思おう。この寺を護っておくれ。これでお別れじゃ、道念さらばじゃ」と仰って、高野の山を立ち去られて、新黒谷で百日と時を鍵っての念仏をして、この新黒谷では心が落ち着かないということで、信濃にある、諸国にその名が高い善光寺の奥の御堂に取り籠もって、朝夕欠かさず念仏を上げて、ひたすら修行をなさっておられまして、御寿命はとりわけめでたく長くいらっしゃって、八十三歳の三月二十一日の朝、辰の刻の辰の一点というその時に、めでたく安らかな往生を遂げられました。この時南の空に紫の雲が立つと、高野の山にいらっしゃった道念坊も、六十三歳でしたが、同じ月同じ日、しかも同じ辰の一点という時にお亡くなりになられまして、北の空に紫野雲が立ちました。この時、天から蓮華が降り、かぐわしい香りが漂って、そのありさまは、言葉で表しようがありません。この世に生きている時は、親とも子とも姉弟のきょうだいとも、名乗り合いはなさらかったけれども、来世では親とも子とも呼び合って、一家一門、いっさいの親族、七世の父母に至るまで、皆々一つ浄土に集まられました。
 臨終の時に来迎する二十五の菩薩たちが、亡くなった人を悟りの浄土へと送る船を進ませて、「あのような後生を大切に祈った行者を、さあ、仏としてお祀りしよう」と仰って、信濃の国善光寺の奥の御堂に、親子地蔵としてお祀りしたのは、仏法の衰えた世の人々に拝ませようとするためでございます。このことは現代に至るまで間違いの無いことでございます。このように、親子地蔵の由来の物語を、ここに語り納めるますが、この土地も国もめでたく豊かに栄えるのでございます。