浮世絵漫歩 28 北斎の絵を七福神と読み解きました

ヤフオク! - 葛飾北斎(画狂老人北斎写)踊り行列図(人物図)木...

 この絵は、画狂人葛飾北斎による摺物で、「踊り図」「踊り行列」などと呼ばれています。これを七福神として読み解きをしてみました。
 この絵には、七人の人物が描かれています。七福神として読み解くと、女性が二人で少々変です。実は、江戸時代の七福神では、寿老人を外して、その代わりに吉祥天や猩々を加えることがあったと事典に書かれています。ですから、ここに女性が二人描かれているのは、弁財天と吉祥天であると読み解きができるのです。一人一人見てゆきましょう。
 さて、画面上の人物から読み解きましょう。頭巾を被っているのは大黒天です。大黒天は常に頭巾を被っていて、今まで誰も大黒天の髪型を見た人はいないのです。この形の頭巾を、大黒頭巾と言います。頭巾ときたら大黒様、は七福神を考える時の定番です。黒い頭巾では全体が暗くなるので、魔除けの赤の色にしたのでしょう。この摺物が、誰かの還暦など長寿の歳祝いの意味をこめて発注されたとも考えられます。
 大黒様が手にしている傘の模様は宝尽くしです。打出の小槌は描かれていませんが、小槌から出た万能薬の丁子、危難から身を隠す隠れ蓑、宝倉の鍵、宝の袋、宝珠が描かれています。手には末広(扇)、笑顔が絶えません。また、大坂の大黒屋で売り出した傘を大黒傘と呼び、江戸では、番傘のことを大黒傘というようになったと、辞書にあります。

 黒い着物の男性は恵比寿と読み解きます。高く伸ばした腕は、釣竿を連想させます。掌を返しているのは、大物が釣れた証と思うと、嬉しくなります。

 笠の人物は福禄寿と読み解きます。着物の模様は丸で、銭を連想させて福徳です。顔を見せずに、笠に二筋の赤い緒を描いたのは、福禄寿と寿老人の二神の合体ともとれます。なお、この踊りは、雀踊りと呼ばれます。

 その下の人物に移ります。帽子のような赤い被り物は、毘沙門天の冠を思わせますから、この人物は毘沙門天に見立てられたのでしょう。格子縞は、弁慶縞や金平縞(坂田金時の息子とされる演劇や小説の中の架空の英雄)という、力強い人物を象徴する縞でもあり、武の神としての毘沙門天を思わせます。

 その下ののんびりと腹を突き出した人物は、肥満体の布袋和尚です。笑顔で唐子と遊ぶ像がよく描かれますが、この顔は、まさに布袋和尚の笑顔です。

 二人の女性は弁財天と吉祥天です。弁財天も吉祥天も、どちらも美しい神様ですから、いずれがあやめ、かきつばた、見分けがつきません。上の顔を見せている女性が、従来の七福神として言われている弁財天のように思われます。なお、毘沙門天と吉祥天は夫婦であるとされています。

  北斎の摺物について、こんな読み解きをしてみました。この作品は、以前、津和野の葛飾北斎美術館にありましたから、現在は、島根県立美術館にあるはずです。おそらく

 

 

浮世絵漫歩 27 豊原国周のこと

 森銑三という碩学の著作集の中に、豊原国周についての読売新聞からの記事が転載されています。豊原国周は三代歌川豊国の弟子で、一時押絵の道にも入っていて、後に豊国の弟子として役者絵の第一人者と言って差し支えがない、幕末から明治期に活躍した絵師です。生まれは1835年(天保6年)、没年は1900年(明治33年)です。
 ここに森銑三著作集続編第8巻の「飯島虚心の浮世絵雑談」から、「故国周の性行」という部分を、表記を現代仮名遣いに改めて引用させて戴くことにします。飯島虚心は、『葛飾北斎伝』など、浮世絵関係の著作が多いことで知られています。この文は、国周が亡くなって半年後に掲載されました。 
 
   故国周の性行                局外閑人(飯島虚心)
                      (読売新聞・明治33年7月20日)
 余(局外閑人)は国周を知ることが久しい。嘗てその居を訪うたら、国周は頻りに得意の似顔絵を描いていた。一体誰の似顔です。何の狂言をしているのです。私がそう問うたら、誰だよ、という。その狂言は、もう見たのですか、と重ねて聞いたら、国周は微笑して、この芝居は、まだ始まっちゃいない。けれども顔には、こう隈を取るんだ、体のこなしはこうで、衣裳の模様はこうに極まっている。国周は、そういって筆を運ばせた。ほんとうなのかどうか、些か疑わしくも思われるので、その芝居の始まるのを待って行って見たら、果たして国周のいった通りであった。その描くところと実際とは、違っていなかった。
 また一日、芸妓の肖像を描くことを頼まれたところへ行き合わせたが、まずその顔付きを聞いて描き、次には髪の飾りを聞いた。ただそれだけで、その外のことは一切聞かず、流行のこの櫛やこの簪を使うからには、着物の上着は流行の何々だろう。下着は何々で、帯は必ず何々だろう。この帯を締めるとしたら、下駄は必ずこれを履くだろうといって、すべてを描いた。ただ髪飾りだけを聞いて、その外は皆推量して、こうだという。私は国周の頭の働くのに驚いた。
 彩色は、国周の最も得意としたところで、よく歌川派の正伝を守って失わなかった。時としては、二三種の絵の具を配合しただけで、よく六七種の色を使ったかと思われるようなものを描いた。絵の具の数を減らして、却って妍麗なものとした。絵草紙問屋が来て、絵の註文をする時、画料を出すことが意の如くだった場合には、そうした効果的なものを作ったが、画料をはずまないで描かそうなどという問屋には、わざと色数を多くして、費用のかさむようにする。それには問屋達も恐れをなし、国周の意にさからわないようにと、びくびくしていたものだった。これらは皆多年の習練から来ているので、他の画家達の企て及ばぬところであった。国周を以て、近頃の浮世絵師中の一大家と称しても、決して誉め過ぎにはならない。
 明治に入ってから、写真術が盛んになり、役者の写真が大いに行われるようになった。その影響を受けて、似顔絵は忽ちにすたれ、国周以外には、これを描く者が殆どなくなってしまっていたのであるが、今やその国周も死んで、似顔絵はいよいよ滅びることになってしまった。惜しいことだといわねばならぬ。
 国周は、性質が正直だった。それで一途に師匠から受けた画法を守って、他を顧みぬ。風韻雅致などということは、預かり知らぬかのようだった。頗る酒を嗜んで、酔いが廻ると、歌い且つ舞って余念のないこと、恰も小児の如くだった。家計はいつも苦しくて、書画会などもしばしば催したけれども、そうして得たところも、数日中に尽くしてしまう。信越地方へ、しばしば遊歴に出かけたが、帰宅には、懐はもう空だった。
 転居の癖があって、下谷、浅草、神田、本所と移り住むことが、何十回か、数え切れぬほどだった。ところが近年本所に家を定めてから、ひと所にじっとしていることが殆ど三年に及んだものだから、或る人がそれに対して、国周が引っ越しをしなくなったのはおかしい。ひょっとしたら死ぬのではないか、といったのだったが、果たしてその如くになってしまった。(引用了)
 
 この文の中に、国周がまだ上演されていない狂言について役者の姿を推理して描くという記述がありますが、他の絵師でもこれができるとすると、作品の成立について考える時にも影響するのではないかと、専門家の先生に対して、余計な心配をしてしまいます。
 また、明治31年の読売新聞に、「明治の江戸児」という題で、「豊原国周は、歌川豊国の遺髪を継ぎて、似顔絵師の巨擘なり。通称荒川八十八(やそはち)とて、本年六十四歳、三代相伝の江戸ッ子にて、気象面白く、一世の経歴は東錦絵と共に花やかなれども、自体金銀を物の数とも思わねば、今は本所表町の片隅に引き込みて、いといと貧乏に浮世を送れり。彼の家は、熊谷稲荷の東二町ほどの北裏にて、棟割長屋の真中なれども、ちょっと瀟洒の格子を立てて、名札と来状箱を掲げ、一間三尺の靴ぬぎの向こうは、垢つきたる畳の一間なり。いかがの長火鉢を据えて、仏壇をも飾る。奥なるいぶせき二畳は、机取り散らして、斯流の名画がこの所に成れりとも思われず。頭からこれが大画人の住まいと心づくは稀なるべし。彼は炯々たる目にあたりを見廻し、ようよう六七寸に伸びたる白き顎鬚搔い撫でて、江戸ッ子の全盛を語り」という前文から始まる文が掲載されていて、これも森銑三著作集続編第6巻に「国周とその生活」という題で収録されているのですが、全文転載ははばかりがありますので、その存在だけお知らせしておきます。

浮世絵漫歩 26 喜多川歌麿略年譜

喜多川歌麿略年譜
1753 この年生まれるか(一説に1754年)。
   北川氏、幼名市太郎、俗称勇助、勇記。出生地には江戸、川越、栃木など数説あ
   り。
-- 狩野派から浮世絵に転じた鳥山石燕に入門、北川豊章と名乗る。なお、鳥山石燕
   には、栄松斎長喜も入門している。
1775 富本節浄瑠璃正本「四十八手恋所訳」下巻表紙絵を描く。
1776 一枚摺「市川五粒名残り惣役者ほつくしう」「市川八百蔵の五郎時宗」板行。
1777 細判錦絵「芳沢いろはのすしや娘おさと」板行。
1778 黄表紙挿絵の最初作『善光寺/御利生 通鳬寝子の美女』板行。
1779 黄表紙『東都見物左衛門』、洒落本『女鬼産』、噺本『寿々葉羅井』板行。
1780 黄表紙『芸/者/呼子鳥』『振/袖/近江八景』『きつい武左ヱ門』『仇競夢浮橋』
   板行。
1781 黄表紙『身貌大通神略縁起』を蔦屋から板行、本書で初めて「忍岡哥麿」と号
   す。蔦屋重三郎との交流が始まる。上野忍ヶ岡数寄屋町に住す。
1782 秋、歌麿の改名披露の摺物板行か。
1783 この年の序をもつ『狂歌知足振』に筆綾丸(ふでのあやまる)として名を連ねる。
   黄表紙『右通/慥而/啌多雁取帳』『源平総勘定』、洒落本『通神/孔釈/三教色』
   『契情知恵鑑』板行。
   この頃通油町の蔦屋重三郎宅に寄寓か。のち神田弁慶橋久右衛門町、馬喰町三丁
   目に住み、晩年は伝馬町大丸新道に住むか。
1784 『古湊道中記』に初めて「喜多川哥麿」と名乗る。
   黄表紙『従夫以来記』『亀遊書草帋』『他不知思染井』『新田通戦記』、噺本
   『炉開噺口切』、艶本『床   善草』板行。
1785 狂歌双六絵『四六/春興/夷歌連中双六』、黄表紙『蛸入道佃沖』、噺本『百福物
   語』板行。
1786 蔦屋より狂歌絵本『絵本江戸爵』板行。「石燕七十五祝寄書」に勇助名で作画。
1787 狂歌絵本『絵本詞の花』『麦生子』、黄表紙『あの子/どこの子/長者の飯食』、
   洒落本『不二野夫鑑』板行。
   寛政の改革始まる(1793年まで)。
1788 狂歌絵本『画本虫撰』、艶本『歌まくら』、黄表紙『首尾松/見越松/雪女廓八
   朔』『扇蟹目/傘轆轤/狂言末広栄』、洒落本『曾我糖袋』『一向/不通 替善運』
   板行。
   狂歌絵本『潮干のつと』この年か。
   8月3日、鳥山石燕没(77歳)
1789 狂歌絵本『絵本譬喩節』奥付に「自成一家」の印を使用。狂歌絵本『和歌夷』
   『狂歌坊』、黄表紙『冠言葉七目十二支記』『淀屋宝物/東都名物/嗚呼奇々羅金
   鶏』板行。
1790 8月26日、理清信女(母または妻りよ)を浅草専光寺に葬る。
   狂歌絵本『銀世界』『普賢像』『絵本吾妻遊』『絵本駿河舞』『絵本よもぎ
   島』、黄表紙『雄長老寿話』『太平記/吾妻鑑/玉麿青砥銭』『忠孝遊仕事』板
   行。
   狂歌絵本『百千鳥』もこの年か。
   この頃より、栃木の素封家善野喜兵衛との交流始まるか(栃木訪問は少なくとも3
   回)。(「吉原の花」「品川の月」「深川の雪」が順次制作されるきっかけ。)
1791 この頃から美人の半身大首絵を蔦屋から板行する。
   山東京伝『娼妓絹籭』『錦之裏』『仕懸文庫』の三作で筆禍を受け手鎖五十日、
   版元蔦屋は身上半減に処せられる。
1792 美人画の「婦女人相十品」「婦人相学十躰」「姿見七人化粧」など、この頃か。
1794 「当時全盛似顔揃」この頃か。
   東洲斎写楽、この年から翌年にかけて役者絵を発表。
1795 「青楼十二時」「娘日時計」この頃か。
1796 この頃、歌麿美人のもみ上げの毛割が複雑になる。
   狂歌絵本『狂歌晴天闘歌集』を仁義道守と分担執筆。
   8月、一枚絵の中に女芸者・茶屋女などの名を入れることを禁ずる町触れ出る。
1797 5月6日、蔦屋重三郎没(46歳)。
1798 狂歌絵本『男踏歌』、洒落本『石場/妓談/辰巳婦言』板行。
1799 狂歌絵本『似顔/絵本/俳優楽室通』に一図作画。
1800 8月、美人大首絵禁止。
1801 狂歌絵本『絵本四季の花』板行。
1802 黄表紙『延命/長尺/御誂染長寿小紋』『明/花/春為化』『聞/風/耳学問』。
1803 「婦人相学拾躰」「教訓親の目鑑」「咲分言葉花」などこの頃か。
1804 狂歌絵本『吉原/青楼/年中行事』板行。
   この年、『絵本太閤記』に取材した錦絵「太閤五妻洛東遊観之図」が幕府の忌諱
   に触れ入牢三日、手鎖五十日に処せられる。
1806 9月20日死す。浅草専光寺(世田谷区北烏山に移転)に葬る。法名は秋円了教居
   士。

浮世絵漫歩 25 ゴンクールの歌麿評

エドモン・ド・ゴンクール著『歌麿』(1891年6月刊)抄出
           (隠岐由紀子訳、平凡社、2005年12月、[ ] 内は訳者の注)

「深川の雪」について
 肉筆画についての章を終わるにあたり、ビング氏の店で見せられた幅3.5メートル、高さ2.4メートルという巨大な掛け軸にも言及しておきたい。軸いっぱいに26人の女が集う様子が描かれている。そこには、雪をかぶる灌木が植わった庭を前に、一軒の「青楼」内部の廊下の曲がり角が描かれている。素足に豪華な着物をまとった遊女たちは、さまざまに集い、美しく並んで、物憂そうに立ち止まったり、階段を足早に登っていったりしている。小犬と戯れる女、軽食を運ぶ女、欄干に身を乗り出して雄弁な手つきで階下と会話を交わす女たち、階段の支柱に手を回して寄りかかるように立ち、ぼんやりと物思いにふける女、音曲を奏でる女、湯の沸く鉄瓶がかかった火鉢の周りに寒そうにうずくまる女、奥の方に通りかかった女は緑色の袋に入った寝具を背負って運んでいる。
 ここには、歌麿風の優雅な仕草、姿態、女のタイプが認められる一方で、その素早い筆致の中に少々大仰な装飾性や絵具の透明感のなさも感じられる。署名のない作品ではあるが、来歴からしてたしかに歌麿の作と思われる。伝えられる来歴は以下のとおりである。ある諷刺的な版画を刊行した後、投獄されるかもしれない危険を感じた歌麿は、しばらく遠い地方の友人宅に身を潜めた。この巨大な掛け軸は、そこで受けたもてなしの返礼として描いたものだという。                (p.128) この文により、現在岡田美術館に所蔵されている「深川の雪」は19世紀にパリにあったことが知られる。それから約50年、いかなる経緯で戦禍を乗り越えて日本に里帰りできたのか、不思議なことである。また、「吉原の花」は、春峯庵の売り立て目録に、部分の模様が変えられた形で掲載されている。春峯庵の作品を描いた矢田兄弟がどのようにして「吉原の花」の絵柄を入手したのか、贋作制作にあたって、原画は海外にある作品だから発覚しないと安心して下絵としたのか、想像はいくらでも膨らんでしまうのである。

歌麿春画について
 日本の画家は皆エロチックな作品、「春画」を制作している。青楼の画家歌麿も、その画才が花魁や華麗な売春の場にちなんだものだけに、その膨大な作画の中で自由奔放な作品、つまりジュリオ・ロマーノ[1499-1546。ラファエロの愛弟子であったイタリアの画家。ポルノグラフィックな素描集がある]風イメージ、つまり愛の「地獄」を描いた作品群を制作しないはずはなかった。
 しかるに、日本の民族のエロチックな絵画は、高潮した筆致、猛り狂うような性交の激しさ、熱狂など、まさに研究に値するものである。室内の屏風をひっくりかえす発情した男女の転倒、共に溶け合うように絡む体、性交をこばむようで、誘うようでもある神経質に享楽的に動く腕、指をひきつらせて虚空をうつ痙攣した足、むさぼるように口と口とが重なる接吻、地面に逆さに頭をのけぞらせた女の失神、化粧した瞼の下の目を堅く閉じ、顔には「小さな死」の表情を浮かべた女の忘我。さらに陰茎を描く力強い線描は、ミケランジェロ作とされるルーヴル美術館の素描に匹敵する力量を見せる。
 そして、こうした肉欲の動物的営みの熱中の中にあって、人間存在の滋味豊かな精神集中、心穏やかな自己沈潜のようなものが見られるのはなんたることだろう。ここには我々のプリミティヴの画家たち[初期ルネサンスの画家のこと]に見られるような、深くうなじをたれた宗教儀式じみた姿勢、ほとんど宗教的にすら見えるほどの愛の行為が描かれている。
 しばしばこうしたエロチックな作品では、図柄は滑稽なほど奇抜である。たとえば、一人の女の淫蕩な夢を早い筆のタッチで描いた画面では、暑さから布団を体から遠くはねのけて眠っている一人の女が、男根が着物をきて、めいめい大きな扇子をひらめかせながら体をゆらして踊る夢を見ている。自由気ままな時間に画家が筆のすさびとして、頭脳からひねり出したらしい、まさに独創極まる構図である。
 時には、少々怖いような、恐ろしげな作品もある。たとえば、海草で緑色をした岩の上に悦楽で失神し、溺れ死んだのか、生きているのかわからない「死体のような」女の裸体があり、月のかげった部分のように恐ろしげな目をした大きな蛸が彼女の陰部に吸い付いていて、もう一匹の小さな蛸が彼女の口にむさぼるように喰らいついているという図柄もある。[これは北斎の『喜能会之故真通(きのえのこまつ)』下巻第4図のこと]
『えほんきんもずえ[会本訓蒙図彙?]若者のための絵入り百科』と題された奇妙な書物では、モンテーニュの言う、「手に負えない若者を生むような精神が突飛な幻想を生む」類の少々エキセントリックな書物、つまり常軌を逸した観念や並はずれた想像力をもつ作家の書物にある程度通じるような図が描かれている。天文学占星術、生理学などを混合したこの画集は、哲学的かつポルノグラフィックな判じ絵になっており、人間の性が天球儀や地球儀の図として描かれている。男性器が見知らぬ惑星の突飛な風体の人の姿で描かれていたり、女性の陰部が黙示録風の猛禽類や富士山らしき風景になっていたりする。
 歌麿も墨摺りないし多色刷りの何冊かのこの手の図譜の発案者であり、素描家としての技量を発揮しているが、彼の描く素っ裸の遊女たちの体は、私の考えでは、体を覆う長い着物をまとって動き回る歌麿の女の優雅さをもはやもたないように思われる。
 しかしながら、巨匠歌麿にふさわしい作品もある。「女との最初の試み」[『会本妃女始(えほんひめはじめ)』]と題された画帳には次のような魅力的な図様がある。一人の女が伸ばした両腕を愛人の首に巻き付けており、発情期の鳩のように頭を傾けて男の胸に押し付けている。彼女は男のうなじを愛撫し、二人の下半身は性的な睦み合いのうちに接合している。
 「千種の色」[『会本色能知久佐(えほんいろのちぐさ)』のことか? しかし本文に該当する図は『艶多歌羅久良(えほんたからぐら)』の方にある]には、面白い構図がある。一人の女が布団から四本の足が出ているのを見て、手燭を取り落としかけている絵である。四本の足のうち二本は非常に毛深く、女の口から「女一人の布団からどうして四本の足が!」という意味のセリフが漏れている。
 「淫蕩」を表現する、怖いような作品も歌麿は制作している。一人の怪人、青白く血の気の失せた肌に渦巻き状の体毛がびっしり生えた巨大な男が、悦楽のオーガスムに口を醜くゆがめて、若い女の繊細で優雅な体の上にのしかかり、寝そべっている図である[『歌まくら』第12図「南蛮人」のことらしい]。人間の肉の歓びを表現するのに、画家は、ここでヒキガエル的な交合の愉悦を表現しようとしたと思われる。この連作では各画面上方に小さな扇面画を置いて、人が動物の物まねをしている様子を描き込んであり、この場面の扇面は、その姿勢や身振りからして、ヒキガエルになった男を表している。
 この作品は「枕の詩」[『歌まくら』]という題名の画集の一枚であり、すばらしい色の調和と刷りを見せており、繰り返して言うが、どんなヨーロッパの版画も及ばない仕上がりである。画面では、愛戯で散乱した絹の着物の彩りの中に裸の肉体の明るい肌色が輝くように目立ち、かすかなバラ色に染まる女性の白肌に、盛り上がった女陰部分の黄褐色が非常に官能的に浮き出している。
『歌まくら』の第1図は独創的な構図である。歌麿は架空の存在を描くシリーズでは北斎には及ばず、北斎の5点の恐ろしいお化け大首絵[百物語]に匹敵するような作品をもたないが、エロチシズムの領域では以下のように型破りで幻想的な作品を描いた。
 そこには一人の海の女神[海女?]が水面下で両生類風の怪物[河童]に犯されている。彼らの間にもぐり込もうとしながら、小さな魚たちがそれを見守り、小さな島の岸辺にうずくまった若い娘の海女が半裸の姿で、水底の奇妙でやっかいな状況を眺めている。その姿は非常になよやかで、扇情的である。         (P.114~118)
 ゴンクールの文から、ヨーロッパでの歌麿の評価の一端を知ることができます。春画展で多くの人が作品を見ましたが、どのような評価が与えられたのでしょうか。
 歌麿の視線の先がよくわからない作品があり、これは歌麿の拙さなのか、彫師の拙さか、気に掛かっています。

エドモン・ド・ゴンクール 1822-1896、フランスの文筆家・美術収集家、歌麿北斎などの浮世絵を研究。
 弟ジュール・ド・ゴンクール(1830-1870)も小説家。

浮世絵漫歩 24 浮世絵関連事項年表

浮世絵関連事項年表
 
浮世絵の時代背景については、あまり細かいことまでは頭に置かないで、およその時
 代の流れを知れば十分です。
 
 1617(元和3) 葺屋町に官許の遊里、元吉原誕生。
 1652(承応元) 若衆歌舞伎禁止。
 1657(貞享4) 明暦の大火。
        吉原が浅草日本堤へ移転し、新吉原誕生。
 1672(寛文12) 菱川師宣画『武家百人一首』刊行。浮世絵師の署名の初出。
 1681(天和元) 俳書『それぞれ草』に「浮世絵」の語出る。
 1716(享保元) 享保の改革始まる。
        この頃から、紅絵、漆絵出現。
 1722(享保7) 好色本、徳川家康、将軍家に関わること、時事についての出版禁止
        令。
 1745(延享2) この頃より紅摺絵行われる。
 1756(宝暦6) 彩色摺の絵俳書『わかな』刊行。
 1765(明和2) 絵暦交換会流行。鈴木春信ら木版多色摺版画を創始。
 1772(安永元) 田沼意次、老中となる。
 1783(天明3) 司馬江漢腐蝕銅版画制作に成功。
 1787(天明7) 寛政の改革始まる。
 1790(寛政2) 検閲制度開始、改印が使用される。
 1791(寛政3) 喜多川歌麿、美人大首絵を刊行。
 1794(寛政6) 東洲斎写楽、役者大首絵を刊行。
 1802(享和2) 十返舎一九作『東海道中膝栗毛』刊行。
 1814(文化11) 葛飾北斎北斎漫画』刊行始まる。
 1829(文政12) ベロ藍使用の藍摺絵流行。
 1831(天保2) 葛飾北斎富嶽三十六景』この頃刊行。
 1833(天保4) 歌川広重東海道五十三次』(保永堂版)刊行が始まり、翌年正月に完
        結。
 1841(天保12) 天保の改革始まる。

浮世絵漫歩23 名所江戸百景2

名所江戸百景から 日に三つ
「日に三つ散る山吹は江戸の華」と言われます。この三つは千両箱のことで、江戸には日に千両の金が動く場所が三つあったと言うことです。その三つの場所は、魚河岸と芝居町の猿若町と吉原遊廓です。その風景を「名所江戸百景」から抜き出しました。「名所江戸百景」は初代歌川広重による連作で、安政3年(1856)2月に刊行が開始されました。出版にあたっては、当時の版元の月行事に原稿である版下絵を提出して、検閲を受け、承認の印である改印を受けます。これにより、およその出版年月が判ります。
 最初は、魚河岸です。絵の題は「日本橋江戸ばし」(安政4年12月改印)。魚河岸は、寛永年間に日本橋に設けられました。日本橋は、京橋、新橋と並んで、欄干には擬宝珠が据えられている格の高い三つの橋でした。また、この三つの橋の地域は、江戸の中心地として賑わっています。
 この絵は、早朝に魚を魚河岸で仕入れて、ようやく明るみ始めた江戸の町へと売りに出掛ける魚屋の桶に焦点を当てました。桶には、見栄っ張りで初物好きの江戸っ子が女房を質に置いても食べなければと意気込む初鰹が目を光らせて入っています。向こうに江戸橋が見える景です。

 

 次は、芝居町です。絵の題は「猿わか町よるの景」(安政3年9月改印)。早朝から幕を開け夕方まで上演してする芝居町です。江戸では、中村座森田座市村座の順で創設され、三つの座元が幕府による興業許可を得ました。その印として小屋の正面には座の紋を描いた櫓を掲げました。定式幕という引き幕があり、その色配列は、中村座が黒・柿・白、森田座が萌葱・柿・黒、市村座が黒・柿・萌葱です。現代の劇場のように上下する緞帳は、定式幕を許されない格の低い芝居で採用された物で、「緞帳芝居」とおとしめられました。この三座それぞれに経営不振に陥ったときに興業を肩代わりする控え櫓という座があり、中村座に都座、森田座河原崎座市村座に桐座が控えていました。三座は別々の場所で興行していましたが、天保の改革で12年(1841)に中村座、翌年に市村座、翌々年に森田座の順で猿若町に移転してきました。
 この絵は、芝居の終演後、芝居小屋とそれに向かい合わせに立っている芝居茶屋の人々の姿です。芝居帰りの人々目当てに寿司などの屋台が出ています。浮世絵には珍しく、影が描かれています。

 

 三番目は、吉原遊廓です。絵の題は「浅草田甫酉の町詣」(安政4年11月改印)。吉原遊廓は、当初日本橋に作られましたが、だんだんに繁華な土地になり、明暦2年(1656)の大火後に浅草観音の北側の田圃の中に移されました。江戸城からみても北に当たるので北国、「きた」とも通称されました。また、中央の通りの仲の町から、「なか」とも呼ばれています。周りの田圃は浅草田圃、吉原田圃と言われ、「惚れて通えば千里も一里、広い田圃も一またぎ」と謳われました。
 この絵は、十一月の酉の日、吉原に近い鷲(おおとり)神社は、縁起を祝う酉の町詣での人の列を吉原の二階座敷から猫が見ている場面です。西の富士山に残照が残り、人の列の上側には熊手の形が見えます。この日は、紋日・物日と言われる吉原のかき入れ時、遊女は客を呼ばなければなりません。屏風の陰には、もう馴染みの客が登楼しているのでしょうか。

 

 

浮世絵漫歩 22 名所江戸百景1

名所江戸百景 二代広重の絵 
「名所江戸百景」は安政3年(1856)から初代歌川広重によって描かれた118枚の連作です。安政5年(1858)に初代が亡くなった後、安政6年(1859)に二代広重の襲名披露を兼ねたかといわれる「赤坂桐畑雨中夕けい」が追加され、さらに目録1枚が加わって全120枚になりました。二代広重は、初代に特に可愛がられ、初代養女に婿入りしています。
 二代の「赤坂桐畑雨中雨けい」を初代の「大はいあたけの夕立」と並べると、通底する物があることを感じます。

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大はしあたけの夕立           赤阪桐畑雨中夕けい
 
 二代の絵を見ていると、初代の良き片腕であったと感じます。初代の没後に刊行された「富士三十六景」において、色指定を担当したのも、初代の技芸を受け継いでいたからこそできたことでしょうが、結局は初代の影法師から抜け出せずに苦しんだような気がします。二代は、初代の没後に「諸国名所百景」を出し、その腕前を見せますが、この連作は完結したのか、全貌が不明です。