説経かるかや 2 福福亭とん平の意訳

かるかや 2

 ああお気の毒なる重氏殿は、新黒谷にお着きになりましたが、上下さまざまな身分の方がお参りになって混雑しているその中を、雑踏をかき分け、お堂の正面にお参りにおいでになって、「これ申しお上人様、お願いですが、私に仏縁を結んでくださいませ。その縁を確かにいただいてから、髪を剃り、出家の身となさってくださいませ、お上人様」と申し上げますと、お上人様はこれをお聞きになって「お前様のような若い侍が、この寺で紙を剃って、出家を全うした者は一人もいない。そもそも、この寺では出家遁世を志す者は立ち入り禁止なのだ」との仰せになりました。
 重氏殿はこのお上人の言葉をお聞きになり、「ああ、つれないお上人様、そもそも私が国元で伺っているところでは、都は、洛中洛外といってとても広い土地で、そのような広い都の中にあるお寺では、その門前を通る何の信仰心もない人を摑まえて髪を剃って、出家にして世に送り出すのが、お寺の上人様の優れた働きであると伺っておりますが、いかがでございましょう、お上人様」と申し上げると、お上人様はこの重氏殿の言葉をお聞きになり、「これこれ、お若い方、確かに都は洛中洛外と言われるとおり広い所ではあるが、この広い都へ出てくる覚悟の人ならば、国元で親子の絆、その他諸々の絆を断ち切ったり、また、親から勘当を受け、または主からお叱りを蒙った人々が、高野や比叡のお山に上って籠もって、宵には髪を剃って出家をし、夜が明ければ元の身へと還俗をなる習いである。そのように出家をしてすぐさまその戒を破る者がいる時は、髪を剃った僧もその者も、このように語っている私でさえも、二度と救われることのない、阿鼻地獄や無間地獄の底へと沈むのであるよ。それだから、私はそなたの髪を剃るまいと言っているのじゃ。真実髪を剃って出家したいというのであれば、五日も十日もそこに控えていなされ。国元から誰もそなたを尋ねて来ないのならば、その時にわしが髪を剃って出家にして差し上げよう、のうお若い方」と仰いました。重氏殿はこのお上人のお言葉をお聞きになり、「いや、それならば、ここではっきりと申し上げましょう。さて、この私という者は、国を申し上げると大筑紫筑前の者でございまして、国元には親はもはや無く、また子も持っておりませんので、私を尋ねて来る者はございません。お上人様」と申し上げますと、お上人様はこの重氏殿の言葉をお聞きになり、「さあ、そういう事情であるとしても、五日も十日もそこでそのままいなされ。その上で髪を剃って差し上げよう」とお答えになります。重氏殿はこのお上人のお言葉に、「これはつれないお上人様のお言葉じゃ」と仰って、寺の内から立ち去って、門柱の下の敷石を枕として、そのまま門前に横になって寝ました。
 都の修行者はこの重氏殿の姿を見て、「さてさて、ここに寝ている若侍は、昨日もここにおいでだったが、今日もまたここにおいでじゃ。どんな願いが叶えたいのかな、お若い方」と言いますので、重氏殿はこのこれをお聞きになって、「都の修行者様でいらっしゃいますか。こう申す私という者は、故郷を申し上げると、この都よりもはるかに草深い筑紫の国の者でございますが、『このお寺で髪を剃って、出家にしてください』とお上人様に丁寧にお願いを申し上げたのですが、髪は剃っていただけず、もはやこの世には神も仏も無いものなのでしょうか。いっそのこと、殺してくださいませんか」と、修行者に語りました。都の修行者はこの言葉に、「これこれ、そこのお若い方、この寺を申すのは、一日に千人万人のお参りの人々が参られるが、その人々の中に、あなたのように一筋に遁世の思いを籠めている方は他に一人もないでしょう。こちらへおいでください」と、重氏殿をお上人様の所へと伴って、お上人様の御座近くへと来て、「もし、お上人様、あの若侍のようにただ一筋に遁世を願う者の髪を剃っておやりください。お上人様」と申し上げると、お上人様はお聞きになり、「まだ、その若い侍は、まだそこにおいでなのか。昨日私が申した通りに、そなたの髪を剃らないということはいたさぬ。そなたの髪を剃らないということは止めにしよう。そなたが心から髪を剃っての出家を望むのならば、『たとえ国元から親が尋ねてきても、子が尋ねて来ても、対面はしない、顔を見ることもしない、言葉を交わすことも一切しない、二度と会うことはいたすまい、万一会って名告りをするならば、深い無間地獄の闇の底に沈んで、二度と浮かび上がることのない身になろう』という強い誓いを立てなされ。その誓文を聞いた上で、そなたの髪を剃って進ぜよう、若い侍よ」と仰いましたので、重氏殿は、これをお聞きになって、「さてさて、ここの若侍は」と仰るお上人様の言葉が終わらないうちに、「なんとも情けないお上人様のお考えでございますね。そのようなお考えをお持ちでしたなら、昨日私が願ったときに仰せられれば、その場で誓文を立てますものでしたのに。それはともかく、たった今に髪をお剃りださることが嬉しゅうございます」と申して、重氏殿はすぐさま、うがいをして身を清めて、お上人様の御前で、「そもそも私が筑紫の国元で朝夕拝み申し上げるのは、あしての勧請で、この筑紫の国が何事も無く平穏であるようにお守りくださいと朝夕拝んでおります。それ以外にこの重氏は髪や仏にそれ以外のお参りをしたことはありませんが、今ここで誓文としてお誓い申し上げます。
『そもそも上は梵天帝釈、下は四大天王、閻魔法王、五道の冥官、なんかい、下界の地には、伊勢神明天照皇大神宮、下宮が四十末社、内宮が八十末社、両宮合はせ百弐十末社の御神を勧請し、驚かし奉る。忝くも熊野には大小三つの御山、新宮、本宮、那智は飛滝権現、神の倉は竜蔵権現、滝本に千手観音、天のくまの弁才天、吉野にさはらの権現、子守、勝手の大明神、多武の峰は大織冠の、初瀬は十一面観音、三輪の明神、竜田の明神、布留は六社の大明神、大(おほ)大和には鏡作の大明神、奈良には七堂の大伽藍、春日は四社の大明神、天だいに牛頭の天王、祇園は八大天王三社の御神、吉田は四社の大明神、今宮三社、松の尾七社の大明神、北野は南無天満大自在天神、高きお山に地蔵権現、麓に三国一の釈迦如来、鞍馬に毘沙門、貴船の明神、賀茂の明神、賀茂の御手洗(みたらし)、比叡の山に中堂薬師、伝教大師、打下に(うちおろし)は白髭の大明神、湖(うみ)の上に竹生島弁才天、美濃の国にながゑの天神、尾張に津島、熱田の明神、坂東の国に鹿島、香取、浮州(うきす)の明神、出羽の国に羽黒の権現、駿河の国に富士の権現、越後に弥彦、佐渡でほく山、越中立山、加賀で白山、敷地の天神、能登の国に石動の大明神、信濃の国に戸隠の明神、諏訪の明神、越前で五両、五十八社の御神、若狭に小浜の八幡、丹後に切戸の文殊丹波大原八王子、津の国にふり神の天神、河内の国に恩地、枚(ひろ)岡(おか)、誉田の八幡、天王寺聖徳太子、住吉四社の大明神、堺に三の村、大鳥五社の大明神、淡路島に諭鶴羽(いづりは)の権現、淡島権現、備中に吉備津宮、備後にも吉備津宮、備前にも吉備津宮、三ケ国の守護神を勧請し驚かし奉る、忝くも伯耆には大山地蔵権現、筑紫の地に入りては、宇佐羅漢寺、四こ、くのほてん鵜戸、霧島に、志賀、宰ほつ、伊予の国に一勺、五大三の、たけの宮の大明神、総じて神の数が九万八千、仏の数が一万三千四ねん仏、神の父は佐陀の明神、神の母は田中の御前、岩に梵天、木に樹神(こだま)、屋の内に地神荒神、三方荒神、み荒神、土居の竈、(へつつい)七十二社の宅(やけ)の御神に至るまで悉く』の神仏に、誓文としてお誓い申し上げ、こうお誓い申し上げた上は、親が尋ねてきたとしても、子が尋ねてきたとしても、決して会いますまい、言葉を交わしますまい、二度と会うことはいたしますまい。もしも再び親や子に会って言葉を交わすものならば、その罰は、我が身の上は言うまでもなく、我が一家一門も、六親眷属も、さらに七代の父母の身の上に至るまで蒙ることを、すべてこの誓文にお立て申し上げます。この誓いを立てた上で、髪を剃ることに全く未練はございませぬ」と、きっぱりと重大な誓文を申し上げた決心の姿は、はたで見ても、身の毛もよだつばかりのお姿でした。
 お上人様はこの重氏殿の誓文をお聞きになり、「出家の望みは遂げさせよう、お若い方、こちらへおいでなされ」と、きれいに磨かれた半挿に湯を入れて、熱湯にぬるい湯を混ぜ合わせて重氏殿の俗世の欲や迷いの心を洗い流させて、額に天台の教えの剃刀を二三度押し当てながら中道実相沙門界おいう分を唱えて、さらにに三度剃刀を当てて、重氏殿の髪を四方浄土へも届けと剃り落とし果て、髪を剃り終わっての僧の名として、もともと苅萱の庄の人であるので、苅萱の道心と授けました。
 こうして出家を遂げた苅萱道心殿は、仏前へと谷間の水を汲み、花を摘んで香を供えて念仏を口にして、仏道修行に打ち込んで日々を過ごしました。
 ここまでは重氏殿が出家を遂げた物語でありますが、その後、苅萱殿は、つい先頃出家を遂げたと思えましたが、早くも時移ってこのお寺で五年のお勤めの月日が流れ、この五年目の正月の初夢に、おいたわしくも悪い夢を見たと言って、お上人様のお居間に参上して、夢の話と懺悔の物語をなさいました。
 「もし、何と申し上げましょうか、お上人様。以前私が、『このお寺に長くお世話になって、出家の道を遂げたいのです』とお上人様にお願い申し上げたその時に、『国元に親は無く、子も無く、尋ねて来る者はございません」と申し上げましたが、実は、その時国元に捨ててきた妻は十九歳でございました。そしてその時私めは二十一歳、娘は千代鶴と申して三歳になるのがおりまして、さらに妻の胎内には懐胎七月半の子がおりましたのを捨てて参ったのでございますが、夢にその子が生まれて成長して、母親と一緒にこの寺ヘと尋ねて参りました。そして、私の衣の袖に縋り付いて、泣き口説いていると見まして、このように夢にでも、夢であっても、心乱れてつらく苦しいものでありますのに、もしもこの夢が正夢にあるならば、この私はどうなるものでございましょう。そこで私は、これから、女人が登ることのできない高野の山へと登ろうと存じます。おいとまをくださいませ、お上人様」と仰いました。
 お上人様は苅萱殿のこの言葉をお聞きになり、「情けないことよ、苅萱よ。高野の山へと言うのは噓で、国元へ帰ると見えるぞよ」とお答えになります。苅萱殿はこのお上人様のお言葉に、「情けないお上人様のお考えでございます。そもそも人の心はほんの少しの言葉の端で知れると申しますが、私もこのお寺にお世話になっとのが、ついこの間と申しますが、もはや五年のお勤めを果たしましたぞ。高野へ登るという言葉に噓偽りの無いことは、この五年の間という時に、深く学問を果たしたとは申せませんが、朝夕しっかりと伺った御経にお誓い申し上げまする。信じてください。お上人様」とお答えしました。
 その時に苅萱殿は、うがいで身を清めて、お上人様の御前で、数珠をさらさらと押し揉んで、「『そもそも御経の数は、華厳に阿含、方等、般若、法華、涅槃に、並びに五部の大御経、観音経にすい御経、薬師御経に弥陀御経、こくみにこ経を尽くされたり。万の罪の滅する御経は、血盆経かさては浄土の三部御経か、俱舎の御経が三十巻、ふんすい御経が十四巻、天台が六十巻、大般若が六百巻、並びに弘法の教えの御経。法華経は一部八巻、文字の並びが六万九千三百八十四字に記されたり。総じて御経のその数、七千余巻に積もられたり。』八万諸聖経に誓って、噓偽りがあるならば、この経文の神罰を受けるものです。私は故郷へとは下るこてゃなく、高野の山へ登ります。お暇をくだしませ、お上人様」と改めて誓文を唱えました。
 お上人様はこの苅萱殿の誓文をお聞きになり、「なんと一途な心を持っている苅萱じゃな。そなたがそのような気持ちを持って持っているのであれば、今すぐここから出る許しを与えよう。高野山へ行っても心が落ち着かなければ、再びこの寺へと参って、しっかりと来世往生を願いなされ。苅萱よ、それでよろしいか」とお仰せになりましたので、苅萱殿はこのお上人様の言葉を聞いて、新黒谷の寺を身一つで出発して、それから三日目の夜になって、高野山の入口である学文路にお着きになりました。さらに苅萱殿が足を早めますと、すれから程なく、高野山でえ名の高い蓮華坊へとお着きになりました。