説経かるかや 4 福福亭とん平の意訳

かるかや 4

 予次殿はこの奥方様の言葉に、「もうしもうし、旅の奥様、あなた様はこの高野のお山の厳しい禁制をご存じでそう仰せなのですか。ご存じなくて仰っておいでのようですね。そもそもこの高野の雄山は、都を離れること四百里の場所で、女人は決して上ることのできないお山なのですよ、旅の奥様」と申し上げると、奥方様はこの答えに、「それでは、この子石童丸の父重氏殿はこのお山においでなのはこれだはっきりしました。重氏殿は、万一、国元からこのような者が尋ねて来たならば、麓で決して山に上るなとあれこれと言い募って、我々を上らせないようにしてほしいとお頼みになったのであるな。この山を拓いた弘法大師も、木の股や萱の中から生まれ出た出た方でもありますまい。弘法大師も、汚れある女人の腹からお生まれになったのですよ。これこれもうし、予次様よ、私はこの山の弘法大師と七日七夜続けて問答をしても、決して負けることはありませぬ。こう旅先でこちらに宿を取るのは、あなたと親子の親しい仲とも思い、また主とも思って、深く便りになる方と思って宿をお頼みしたのに、何と言うこと、こんな頼りにならない所を宿にするよりは、さあ、石童丸よ参れ、今からお山へ上ろうではないか」と仰いました。
 与次殿はこの奥方様の言葉に、このままこの方を山に上らせれば山の厳しいご禁制に背いてしまう、上らさなければこの旅の女性のお気持ちに逆らうことになると思い、「奥方様にどのようにお話申したらよかろう、弘法大師にまつわる高野の巻とか申す物語を、ほのかに聞いておりますので、、あらましのことをお話申し上げましょう。
 弘法大師の母上と申し上げるお方は、この日本国のお生まれではございません。そのお生まれになられた国と言うのは、大唐国中央の帝の娘御としてお生まれになり、他国の帝に縁付かれましたが、世にまたとない醜いお顔立ちでいらっしゃったので、不縁となって父御の元へ送り返されました。父の帝はこのできごとをお聞きになって、大木を刳り抜いた舟に閉じ込めて、西の海へと尾長氏になりました。その舟は日本に向かって流れ寄って、四国讃岐の国白方の屏風が浦に住む、とうしん太夫と言う漁師が、唐と日本の潮目の境のちくらが沖という場所で舟を拾い上げ、舟の蓋を開いて見ると、この上無い醜い女がいました。この女子が、とうしん太夫の養子になったとも、または下使いの下女としてお使いになったとも申しますが、そのお名前をあこう御前と申します。
 あこう御前は、嫁入りに適した年頃にはならまして、あちこちの山で霞の掛からない山はないように、女子の身と生まれて男から妻にと思いを寄せられない女子もいないのに、私にはいまだに誰からも妻として求められる声が掛からない、それならば、この世を照らす天道に願いを掛けて子を授かろうとお思いになって、家の上に一尺二寸高さの足駄を履いて、三斗三升入る桶に水を入れて頭の上に差し上げて、この夜の月に願いをすれば叶うという二十三夜の月の出をお待ちになりました。その時の夢に、西の海から、黄金の魚があこう御前の胎内に入るとご覧になりました。世間一般の女の人は、身籠もって十か月目になると子をお産みなさると聞いておりますが、あこう御前は三十三か月目になってお子をお産みになりました。生まれた子は、玉を磨き、瑠璃で出来たような美しい男のお子さんでした。では名を付けようと、お子を授かった夢に因んで、金魚丸とお付けになりました。
 このお子さんはもともと人間の種ではありませんので、お母様の胎内にいらした時からお経をお読みになっていました。屏風が浦の人たちは、「とうしん太夫の家に使われている、あこうが産んだ子はずいぶん夜泣きをするよ。夜泣きをする子がいると、七浦七里までが荒れ果てるよ言うことだ。その子を捨ててしまわないと、とうしん太夫諸共に、この浦の平安が守れないであろう」と評判して、子を捨てよとの使者が立ちまして、あこう御前はこのことをお聞きになって、この子一人を得ようとして、ずいぶん色々な苦労や努力をしてきたのだ、金魚よ、私はそなたを決して捨てはしないぞと決心なさって、金魚を連れてとうしん太夫の元を出て、各所を迷い歩かれました。その場所の数は八十八所と伺っております。ですから、四国の巡拝の地は八十八か所と申すのでございます。
 その遍歴の時に母のあこう御前は、「これ、金魚、よくお聞き。夜泣きをするだけでもうるさいのに、長泣きまで始めたのか。昔から今に至るまで、自分の身を捨てる藪はなくても、我が子を捨てる藪はあると聞いている」と仰いました。そこであこう御前は我が子金魚様をお捨てになられまして、その折に、和泉の国槙の尾の花(か)蘭(らん)和尚という方が讃岐の国の志度の道場で、七日間の説法をなさっておいででした。この道場へあこう御前もお参りになってこの説法を聞きにお通いになっていて、説法が終わって他の人は帰って行きましたが、あこう御前はお帰りになりません。花蘭和尚様はその時に、枝の下がった松の下で何か音がするのでお聞きになると、お経の声がしています。花蘭和尚様がその場所を掘り起こしてご覧になると、玉で出来たような男の子がいました。花蘭和尚様はこの子をご覧になって、これは不思議なことだとお思いになられ、同時にあこう御前が手をすり足をばたばたとして、涙をたくさん流して泣いているのをご覧になって、『これこれ、そこにいる女子よ、何を嘆いているのじゃ』とお尋ねになりました。あこう御前はこのお言葉に、『私はたまたま子を一人授かりましたが、夜泣きを注意する者がやって来ましたのでいたたまれず、ここの下がり松の下に埋めたのでございますが、昨日までは鳴き声がしていました、今日は死んだものやら、声がしませんので悲しくて泣いております』とお答えしました。花蘭和尚はお聞きになり、『それはこの子のことか』と仰って、子をあこう御前にお渡しになりました。あこう御前は嬉しく思いました。『ここで確かにこの子の母親に言い聞かせよう。この子が泣いているのは夜泣きではなくて、お経を唱えているのじゃよ』とお説きになって、それから槙の尾を指してお帰りになりました。
 あこう御前はこの子金魚が七歳になった時に、金魚を連れて、和泉の国槙の尾へと参上しました。いずれも尊い仏性をお持ちの二人の間でございますから、槙の尾の花蘭和尚はすぐお会いになって、金魚を連れて御室の御所へとお移りになりました。何と言っても、金魚は仏の素質を持っていますので、師匠が一字をお教えになられると、十字をお悟りになるのです。学問で不明なことはおありにならず、成長して十六歳という年に、髪を剃って出家され、その名を空海と名告られました。
 空海様は二十七歳という年に、唐に渡ろうとお思いになり、筑紫の国宇佐八幡にお籠りになって、八幡様の御神体を拝みたいと念じると、十五、六歳の美しい女性として現れました。空海様はこの姿をご覧になって、『そのお姿は拙僧の心を試そうとしてのものですか』と仰って、『とにかくご神体をお見せください』と仰います。今度は眷属を率いて仏道の妨げをする第六天の魔王の姿で現れました。『それは魔王の姿である。とにかく御神体を現されよ』と求められると、神社の壇が震動して雷鳴が響き渡り、火炎が燃えて、その奥に『南無阿弥陀仏』の六字の名号を拝むことができました。空海様は『これこそが宇佐八幡の御神体じゃ』と悟って、唐へ行く船の船縁に渡した板にその六字を彫りつけましたので、それを船板の名号と申します。それから空海様は大陸の唐にお渡りになって、七人の帝にご挨拶をされ、その浄土教の善導和尚にお会いになりまして、『では、官位を与えよう』ということで、弘法となられました。
 弘法様は、ここまで来たならば天竺へ渡ろうとお思いになり、天竺流沙川を渡ってお進みになると、大聖文殊菩薩はこの様子をご覧になって、『日本国の空海よ、何をしようとしてここまで来たのだ』と問い掛けられます。空海様はこの言葉に、『文殊菩薩の浄土へ参る』と答えます。文殊菩薩童子の姿になって、『どうじゃ空海、この川に渡る便宜はないぞ。そこから帰れ』と仰います。空海様はこれに、『川という川で、渡れないところとは決してない、必ず渡れる』と答えられます。重ねて、『小国の空海よ、そこから帰れ』と言います。空海様はこれに対して、『そもそも天竺は、小さな星を象徴する国なので、震旦国と名付ける。大唐の国は、月を象徴する国なので、月氏国と名付ける。日本は小国ではあっても、太陽を象徴する国なので、日域と言うのである。最も知恵の優れた国である』とお答えになります。童子姿の文殊菩薩はこれをお聞きになり、『空海よ、字をどれほど書けるか』とお尋ねになります。。空海様はお聞きに鳴り、『まず童子から書け』とお命じになります。文殊菩薩は、『では書いて見せよう』と仰って、飛び行く雲に『阿毘羅吽欠』という文字をしっかりとお書きになりました。雲の動きは速いものでしたが、字は少しも乱れていません。空海様はこの文字をご覧になって、「ああ、見事に書いた童子じゃなあ。今度は我が書いて見せよう」と仰って、流れている水に『龍』という文字をお書きになります。童子姿の文殊菩薩はこの字をご覧になって、『あの字は、点を打って始めて龍と読めるものだが、龍には点が足りない』ときっぱりと仰います。空海様はこの言葉に、『あの字に点を打つのは簡単なことではあるが、点を打てば必ず急な大事変が起きるのである』とお答えになります。文殊菩薩はこの答えをお聞きになり、『大事が起きても構いますぬ。とにかく点をお打ちなさい』と仰います。空海様は、『では、点を打ってみせもしょう』と仰って点をお打ちになりますと、川の上にある龍の眼のところに筆が当たり、その眼から出た涙が急な洪水になって、空海様も五、六丁ほど流されました。童子姿の文殊菩薩はこの姿をご覧になって、『それ、何とかせよ、空海』と仰ると、空海様は石を呼ぶ印を結んで、川上へとお投げになると、印は五尺ほどの大石となって川を塞き止め、あとは何も無く鎮まりました。
 文殊菩薩はこの様子をご覧になって、乗った獅子に鞭を打って、文殊の浄土である五台山へとお戻りになりました。空海様はこの後に随って、文殊菩薩の浄土へとお参りしました。文殊菩薩空海様のお姿をご覧になって、三十三尋の黄金の卒塔婆を取り出して、『この卒塔婆に文字を書きなさい。我が弟子よ』とお命じになります。この文殊菩薩のお弟子に智計和尚という人がいましたが、この人が自分が書こうと思って卒塔婆の上に乗って書き始めます。空海様はこれはいけない、止めようとお思いになられ、『私の国はとるにたりない小さい国ではありますが、牛や馬に乗ることはいたしますが、供養する卒塔婆に乗ったのは初めて見ました。これはいけない』と仰いました。この言葉に、智計和尚はとても腹を立てて、『そなたの姿を見ると、背は低くて色が黒くて、とても文字の良し悪しが言える姿ではない』と言います。空海様はこの言葉に対して、日本の法を引いてお説きになります。『漆は黒いと言っても、すべての家具に使われるものである。針は小さいとは言っても、あらゆる衣裳を縫うものである。筆は小さいと言っても、どんな書でも書けるものである。だから、それと同じように、たとえ背が低くて色が黒くても、文字の良し悪しについての場に加わることができるのである』ときっぱりと仰いました。
 文殊菩薩はこの空海様のお言葉をお聞きになり、『空海、そなたが書きなさい』とお命じになりました。空海様は『では、私が書いてお目に掛けよう』と言って、三十三尋の黄金の卒塔婆を取り出して、仏の力を集め、満ちたところでその手で卒塔婆を押し立てて、よく手になじむ筆に墨を含ませて、卒塔婆の先端側へと投げ上げると、筆は窟を自在に駆ける獅子の毛でありますので、すらすらと文字を書き記して、空海様の手に戻りました。文殊菩薩はこの光景をご覧になって、「よくまあ見事に書いたものだが空海よ、一字足りない」と決めつけました。空海様はお聞きになって、、「それでは書いてお目に駆けましょう』として、阿字十方三千仏、有(う)一切諸仏、陀字八万諸聖経、皆是阿弥陀仏と念じて、一字を加えると、筆は獅子の毛であります簿で、卒塔婆を上って、再び硯箱の中へと戻りました。『これからは官名を名告るようにせよ』との仰せで、大聖文殊菩薩の『大』の字を戴いて、空海様は弘法大師と名告られました。
 その後、文殊菩薩空海様に授けようとなさって、独鈷・三鈷・鈴の三つの宝物を箒に縄を付けその結び目の中に納めて庭をお掃きになられました。空海様は文殊菩薩からこの箒を受け取って、仏法の我が師がお与えくださった箒として、自分が使う箒として手元に掛けておきますと、縄の三つの結び目から金色の光が射しました。空海様がこの結び目を切り開いてご覧になると、独鈷・三鈷・鈴の三つの宝物がそこにありました。空海様はこの宝物に、『そなたたち、日本の土地で巡り会おうぞ』と仰って、文殊菩薩の浄土から日本の地へとお投げになると、独鈷は都の東寺に納まって、女人高野と拝まれるようになりました。鈴は讃岐の国のれいせん寺に納まって、西の高野と拝まれるようになりました。三鈷は高野の山の松に掛かって納まり、この松を三鈷の松と拝まれるようになりました。その後、空海様はこの地で知恵競べ、筆跡競べをなさって、我が国ヘとお戻りになりました。
 これまでは弘法大師様の物語でしたが、一方、大師様のお母上は、この時八十三歳におなりでしたが、大師様に会おうとして、高野山を指してお上りになりましたが、山全体が急に雲に閉ざされて、大地が震動して稲光がして雷鳴が轟きました。大師様はその時、どのような女性がこの山を目指して来ているのか、麓に下りて見てこようとお思いになって出て行かれると、矢立の杉という場所に、八十歳ほどの尼が大地にめり込んでいました。大師様はこれをご覧になって、『どちらのどういう女性ですか』とお尋ねになりました。大師様の母上はこのお言葉に、『私は、讃岐多度の郡、白方の屏風が浦の、とうしん太夫という者の屋敷に住む、あこうという者ですが、わが子がこの山に新たな出家者としておりまして、この者と延暦八年六月六日に別れて以来、今日まで対面することがありませんので、私は、我が子があまりに恋しいために、ここまで尋ねて参りました』と答えました。
 大師様は手を打って、『この私こそが、昔の新たな出家者の弘法でございます。ここまでこの山に御ぼりになられたのはご立派なことですが、この高野のお山というお山は、空を飛ぶ鳥、地を走る獣までも、男子は入ることを許しますが、女子は全く入れること許さない山なのでございます」と申し上げると、母上はそのお言葉に、『我が子がそこにいる山へ上れないとは腹が立つことじゃ』と仰って、傍にある石を捻られたので、その石を捻じ石と申します。そこへ火の雨が降って来たので、大師様が岩の下に母上をお隠ししたので、その岩を隠し岩と申します。母上は、『どんなに偉い大師の者であるとしても、父が種を授け、母がそれを胎内に受けて生んでこの世に生まれたからこそ、世の人々を導く末世の師となるのではないか。この世にたった一人しかない母に対し、急いで我が寺ヘ上れとではなく、里に下れと言うのは情けないことよ』仰って、涙を流されました。
 大師様はその時に、『私は親不孝で申し上げているのではございません』と仰いました。そこで身に着けていた七条の袈裟を脱いで岩の上に広げられて、『この上にお乗りください』と仰せになりました。母上は、尊い袈裟ではあるものの、我が子の袈裟であれば、何の障りもないものよと、ずかずかとその上にお乗りになりますと、四十一歳の時に止まった月の障りが、八十三歳という年なのに、芥子粒となって落ちてきまして、下にあった袈裟は激しい炎となって燃え上がり、点へと上がって行きました。
 その後大師様は、この高野のお山で、現在・過去・未来の三世の諸仏をお招きして、金剛界胎蔵界曼荼羅を作って、七七、四十九日の法事をいたしますと、大師様の母上は、煩悩のある人間界を離れて、弥勒菩薩とお成りになりました。この菩薩様は奥の院から百八十丁下の麓、慈尊院のお寺にお祀りされ、官省符村という免税特権のある二十か村の氏神としてお祀りされています。毎年九月二十九日がお参りの日とされています。
 このように大師様の母上でさえお上りできないこの高野のお山に、昨日や今日の俄発心者の身として、上ろうというのはとんでもないことです」と、与次殿はこの様に話しました。「こうお話をしましたからには、お山にお上りになろうとなるまいと、この上は奥方様のお心次第です」と言いました。