和泉式部 福福亭とん平の意訳

和泉式部

 昔、一条院の御治世、栄える京の都に、和泉式部という優美な女房が一人いました。内裏には橘(たちばなの)保(ほう)昌(しよう)保(やす)昌(まさ)という優美な男性が一人いました。保昌は十五歳、和泉式部は十三歳という年頃から愛し合い、和泉式部が十四歳という春の頃に、一人の男の子を生みましたが、二人がそのような間柄になったのを恥ずかしく思ったのでしょうか、綾の小袖の裏に一首の歌を書いた産衣と、鞘を外した守り刀を添えて五条橋に捨てましたのを、町の人が拾って育てました。
 その子の学問への志が深いので、比叡山に上らせ学問させているうちに、育つにつれて学才の評判が他の寺々に伝わり、評判が高くなりました。この子のことは、比叡山として大切に思うだけでなく、将来一宗を率いる存在になると頼もしく思えました。さらに、詩歌の道にも堪能で、名声は天下に響き、得度を受けた後は、道命阿闍梨として世間で知らない人がいませんでした。
 さて、十八歳になった年に、道命阿闍梨が内裏で法華八講の導師を務めることがありました。法華八講の時に、人の心を惑わすような妙な風が吹いて、女房たちの部屋の御簾をさっと吹き上げた時、年のころ三十歳ほどで、愛嬌も風情もあって、とても優美な女房が、道命の論議を聞いてしみじみと感動している様子でありましたのを、道命は一目見た時から、落ち着かない気持ちになり、学問を修めた身にもかかわらず、その女房にあこがれてしまいました。道命は比叡山に戻っても、一目見た人の面影がまとわりついて忘れられないので、学問に身が入らず、身口意の三業を修めるという三密を守る意識もいい加減になってしまい、もう一度都へと、思いを込めて山を下りました。道命は、なんとかして、一目見た人の姿だけでももう一度見たいと思って、蜜柑売りの姿になって内裏の中へ入って行って、「蜜柑を買ってください」と売り歩きますと、あの人のいる建物から一人の少女が出てきて、「この金で、蜜柑二十個を売ってください」と言いましたので、道命は嬉しく思って蜜柑を二十個数えて売りました。その際に言葉で数えずに、みな恋の数え歌で数えました。
  一つとや、ひとりまろ寝の袖(そで)枕(まくら)袂(たもと)しぼらぬ暁はなし
  (一つとや、一人ごろ寝の肘枕、涙で濡れる袂を絞らない朝はありません)
  二つとや、二重屛風の内にして恋しき人をいつか見てまし
  (二つとや、二重に立て回した屏風の内で、恋しい人をいつか見たいなあ)
  三つとかや、見ても心の慰までなど憂き人の恋しかるらん
  (三つとや、見るだけでは心が慰められない、どうしてつれない人を恋しく思うのでしょ   う)
  四つとかや、夜深に君を返すには枕片敷く袖ぞ露けき
  (四つとや、夜が更けて、あなたを家に帰すことは、枕とした敷いた袖が涙に濡れます)
  五つとや、いつや今やと待つ程に身をかげろふになすぞ悲しき
  (五つとや、あの人がもう来るかと待つうちに、陽炎のようにはかない身にするのが悲しいのです)
  六つとかや、向(むか)ひの野辺にすむ鹿も妻ゆゑにこそなき明しけれ
  (六つとかや、あちらの野に棲んでいる鹿も、妻を恋うるせいで泣き明かすことです)
  七つとや、なき名の立つもつらからじ君もろともに立つと思はば
  (七つとや、あらぬ噂が立つのもつらくはありません、あの人も一緒に噂になると思えば)
  八つとかや、弥生月夜の光をば思はん君の宿にとどめよ
  (八つとかや、弥生三月の月の光を、愛するあの人の宿にとどめましょう)
  九つや、ここにありける人ゆゑに四(よ)方(も)に心を尽(つく)しぬるかな
  (九つや、ここに住んでいる人のせいで、あれこれ心労をすることです)
  十とかや、鳥(と)屋(や)を離れしあら鷹をいつかわが手にひき据ゑて見ん
  (十とかや、鳥小屋を離れて飛んで行った鷹を手に止まらせるように、あの人を私の所に住まわせてみましょう)
  十一や、一度まことのあるならばいかに言(こと)の葉嬉しからまし
  (十一や、一度でも真実を示してくれるならば、どんなにあの人の言葉が嬉しいでしょうか)
  十二かや、憎しと人の思ふらんかなはぬことに心尽せば
  (十二かや、私のことを憎らしいと思っているのでしょう、叶わないことに心を砕いているのは)
  十三や、さのみ情(なさけ)なふり捨てそ情は人のためにあらねば
  (十三や、そんなに私の気持ちをつれなくなさいますな、私の気持ちは私の真心なのです)
  十四かや、死なん命も惜しからじ君ゆゑ捨つるわが身なりせば
  (十四かや、死ぬ命も惜しくはありません、あなたのために捨てる私の身なのですから)
  十五かや、後(ご)世(せ)の障(さはり)となりやせんこの世はかなく逢はで果てなば
  (十五かや、後世の成仏の妨げになるのではないでしょうか、現世ではかなくあなたと結ばれずに死んだなら)
  十六や、陸(ろく)地(ぢ)の程をめぐるにも君に心はつれてこそ行け
  (十六や、国土のあちこちを巡礼する時にも、心はあの人に寄り添って行くのです)
  十七や、七度とまらで度(たび)々(たび)も君に逢ふかと祈りをぞなす
  (十七や、七度と限らないで、何度も何度もあなたと結ばれるであろうかと祈りを重ねます)
  十八や、恥(はづ)かしながら言ふことを心強くも聞かぬ君かな
  (十八や、恥ずかしいとおずおずと恋心を伝えるのを、頑なに聞こうとしないあなたですねえ)
  十九かや、暮るる夜(よ)(よ)ごとに思ふには袖いたづらに朽ちや果てまし
  (十九かや、毎晩ごとにあなたのことを思っていると、袖はむなしく涙で朽ち果ててしまうでしょう)
  二十かや、憎しと人を思ふまじわれならぬ身も人を恋ふれば
  (二十かや、人を憎いとは思いますまい、自分以外の人も他の人を恋い慕うのですから)
 少女はこの数え歌を聞いて、「無理に蜜柑をほしがるわけではないのですが、歌があまりに面白いので、蜜柑一つおまけしてください」と言うと、道命は蜜柑を一つ添える時に、
  二十一、一(いち)夜(や)の情(なさけ)こめんとて多く言(こと)の葉語り尽(つく)しつ
  (二十一、一夜の出会いの情を大切にしようと、これまで多くの言葉を語り尽くしましたよ)
と詠みました。
 この少女は、道命をじっと見て、「これほど優美な人が、どうしてこのように蜜柑なんか売っているのですか」と言いました。すると、道命が言うことには、「そのことでございます。私は『ふりふりしく』しているもので」と答えましたので、少女は意味がわかりませんでした。この様子を和泉式部は御簾の中から聞いて、「今の商人がどこに帰るかを見なさい」と少女に人を付けて見に行かせます。道命は内裏を出て、今日は日が暮れた、また明日来ようと思い、ある小さな家に宿を取りました。
 少女は道命の宿を見覚えて帰って、これを告げると、御簾の中からの和泉式部の言葉に、「今の商人が言った『ふりふり』という言葉をきちんと言わないから、判らないでしょうね。伊勢が源氏を恋しく思って詠んだ歌の意味なの。
  君恋ふる涙の雨に袖濡れて干さんとすればまたはふりふり
  (あなたを恋しく思う涙に私の袖が濡れて、乾かそうとするとまた雨が降る降る)
という歌の意味を含んでいます。なるほど、これは教養のある人です。深い恋心に身を焦がして、あのような商人の姿の形になったのだと思います。それで、小野小町は若い盛りの時、その美貌によって多くの人に恋われながら、その思いを遂げさせなかったのが計り知れない身の罪になって、その因果から逃れられないで、とうとう小町も在原業平を恋しく思って、その思いの余りに死んでしまったの。だから、
  言ひ捨つる言の葉までも情あれただいたづらに朽ち果つる身を
  (これまで読み捨てた言葉も情けあれ、ただ空しく死んでゆく身であるよ)
という歌の意味を含んでいて、心はあこがれているのです。人にはいつも懇ろな心をもって接したいものなのですよ」と言いました。そして、和泉式部は考え続けて、少女一人を供にして、黄昏時に内裏を出て、あの道命の宿へ行って、戸をとんとんと叩いて、
  出でて干せ今宵ばかりの月影にふりふりぬれば恋の袂を
  (さあ、出てきて、今夜のようなすてきな月の光であなたの濡れている恋の袂を干しなさい)
道命が、宿の内でこの歌を聞いて、そのまま外へは出ないで、恨みを示すような様子で詠んだ歌は、
  出でずとも、情のあらば影さして心を照らせ山の端(は)の月
  (外へ出なくても、情けがあればあなたの光で私の心を照らしなさい、山の端の月よ)
道命は、こう詠んで、呆然とした様子でありました。
 もともと、和泉式部という女性は、男女の情の満ちには思い入れの深い人で、道明の宿の中に入って、その夜は、道命と一つ床で、深く男女の契りを籠めました。夜がだんだん更けてゆく間に、道命は、守り刀を身から離すまいと気にしている様子なので、和泉式部が、「不思議なこと。守り刀という物は、女の身にとっての物なのに。いままで男が守り刀を持つということはありませんのに」と言いますと、道命は、「そのことでございます。これは曰くのある刀なのです。その訳は何かと申しますと、私は、五条橋の捨て子でございまして、養い親の両親が私を育てて成人させてくれました。この刀は私の身に添えてあった刀でございますので、これを私の実の父母と思って肌身離さず持っているのです」と語ります。和泉式部は不思議に思って、「それでは、あなたは、何歳の時に捨てられて、今は何歳になっているのですか」と尋ねますと、「左様でございます。私は一歳の時に捨てられていたと聞いております。今はもう、十八歳になりました」と語ります。和泉式部が「産衣はどんな品なの」と尋ねますと、道命が「綾の小袖で、その裏に、一首の歌が書かれていました」と答えます。和泉式部が「歌はどのようなもの」と尋ねますと、
  「百年にまた百年は重ぬとも七つ七つの名をばあかすな
   (百年にまた百年を重ねる長い時が経っても、親の名を明かすまいぞ)
という歌です」と答えました。和泉式部も子を捨てた時に、鞘を手元に残してこれを我が子であると思っていましたから、鞘を肌身離さず持っていたのを取り出して刀に合わせると、疑いなくもとの鞘でありました。
 和泉式部は、これは何事だ、あさましくあきれたこと、親子とも知らずに男女の仲になってしまったのも、このような現世に生きているためだと思いながら、この出来事を悟りの道に入る良い導きとして、まだ深夜であるのに都を後にして、尾上の鐘の聞こえる浦伝いに歩き、鐘をなんとしようかと思う飾磨の浦、遥かに霞を通り雲を分け、道を辿って行って播磨の国に至って、書写山に上り、性空商人のお弟子になり、六十一歳の年に往生するとして、書写山の鎮守の社の柱に歌を書き付けました。
  暗きより暗き道にぞ入りにけるはるかに照らせ山の端の月
  (迷いの暗い境涯から暗い道に入ってしまう。遥かに照らして導いておくれ、山の端の月よ)
と詠んで、柱に書き付けたことによって、歌の柱という故事は、播磨の国書写の寺から始まったということであります。和泉式部の出家発心のことはこういう事情でございます。心は思慮なしではいけないということなのです。