師門物語 下 福福亭とん平の意訳

師門物語 下

 冷泉は、「さあさあお急ぎ下さい」と浄瑠璃御前を促しますが、「次の土地はどこの国のどこか判らないで、ただ『よしみつ寺』と尋ねても、いったいどこの誰がよしみつ寺はどこの国のどの場所だと詳しく教えてくれるのだろうか」とお泣きになりますので、冷泉は、「今からよしみつ寺についてお話いたしますので、お聞き下さい。昔、天竺にいた月(がつ)蓋(かい)長者という者は、並外れてけちで欲張り者でした。僧の誰一人に対しても一切供養をしないで、日々贅沢な暮らしをしています。お釈迦様は、この後に月蓋が無間地獄に堕ちてしまい、決して救われることのないという月蓋の身の上を哀れにお思いになり、仏様の救いの一つの方法をお考えになり、月蓋の莫大な財産を一夜の内に火事で焼け失せさせ、飼っていた牛馬も一家の人々も皆いないようになさいましたので、月蓋は突然貧しい身となってしまいました。月蓋は栄えていた時に上等の衣一万疋と交換して手に入れた立派な升の一部を見付け、それを米五升と交換し、そのうち三升を女房に預けて,残る二升を自分で持って、食事の副菜を買いに町に出てゆきました。その後に釈尊の弟子の阿(あ)難(なん)、舎(しや)利(り)弗(ほつ)、目(もく)連(れん)の三人が月蓋のところへ托鉢に来ましたが、三人を迎えた女房は、この内の一人だけに供養をしては残る二人から受ける恨みが恐ろしいと、三人とも供養しました。月蓋が帰って来た時に、女房はこのことを月蓋に話したところ、月蓋は女房に三度礼をしてその振る舞いを喜び、その夜は何も食べずに寝ました。
 釈尊はこの話をお聞きになって、『それでは、月蓋夫婦は善心になったのであるな』とお喜びになられて、夜に入って車の音、馬のいななきが激しく響き、夜明けに月蓋夫婦が屋敷を見ると、財宝は元通りに満ち満ちていました。
 月蓋夫婦が、財宝が戻ったので元のけちで欲張りに戻ってしまったのを釈尊はとても悲しんで、今度は夫婦に娘一人(如是姫)を授けました。その娘が十三歳になった時に娘は五種の流行病(はやりやまい)を患い、もはや命が危ない様子になってしまった折、月蓋は釈尊の元に来て、『一人娘が流行病を患っていまして、治そうと世界中の医者を求め回ったのですが、一向に回復の様子がありません。この上は釈尊のお助けだけが頼りであるとこちらに参上いたしました』と涙を流して申し上げると、釈尊はお聞きになって、『私はそなたの力にはなれない。この度の難儀は、極楽世界においでの阿弥陀様以外に娘御の病を治す仏菩薩方はいないと思う』とお答えになりましたので、その時に月蓋は、『阿弥陀如来様のことを伺いましたが、この地から十万億土離れた西方浄土の地においでの阿弥陀如来様をどうしたらたやすくお招きすることができましょうか。釈尊のお助けをひたすらお願い申し上げます』と申し上げると、釈尊は『難しいことはない。そなたは、自分の屋敷に帰って、西に向き、他の事は考えずにただ一心に南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依いたします)と三遍唱えると、その間には必ずそなたの屋敷に光が差し、阿弥陀如来が飛び移っておいでになるであろうよ』とお教えになりましたので、月蓋はその釈尊のお言葉を心に刻みました。月蓋は、我が子への愛情だけを心思って、西に向かって『南無阿弥陀仏』と二声唱え、三声目を口にする前に、阿弥陀如来が月蓋の屋敷の垣根を飛び越されると見えたとたん、月蓋の娘の五種の病はたちまちに全快しました。
 月蓋は、娘の重病が治ったことがとても嬉しくて、釈尊に向かって、『阿弥陀如来をこの地にお引き留めしたいです』と申し上げると、釈尊は『阿弥陀如来西方極楽浄土の主でいらっしゃるので、西方へお帰りなさるであろう。百万両という量の閻(えん)浮(ぶ)檀(だ)金(ごん)で阿弥陀如来の御姿をお写しして、その姿を留めるようにしなさい』と仰いました。月蓋は、『どのようにして閻浮檀金百万両を手に入れましょうか』とお尋ねすると、釈尊は、『竜宮へ使いを出して貰い受けよう。その使いは我が弟子の神通第一の目連に行かせよう』と仰いました。目連は使いの役をお受けして、竜宮へと行ってこのことを竜王に申し上げると、『釈尊の仰せのままに従います』と言って百万両の閻浮檀金を渡しました。阿難、目連、迦葉(かしよう)などの弟子たちが集まって、この閻浮檀金を使って阿弥陀如来の御姿を写し留めました。阿弥陀如来西方極楽浄土を指して飛び帰られました。
 その後、釈尊が入滅されたので、この如来像は中天竺へと飛び移り、そこに五百年いて、仏の教えが東に行くという道理に従って百済国に移って七百余年を経、その後、我が国の欽明天皇の御世に摂津の国の難波の里へと飛び移っておいでになりましたので、このお像の姿を見た人はこの像がいったい何なのかと不思議に思ったのでした。如来像はその難波の里で三年を過ごされました。ここに、信濃の国の水(みず)内(ち)の郡の本田善(よし)光(みつ)という侍がいました。その侍にあるお告げがあり、善光はそれに従って、急いで摂津の国の難波の入り江を尋ねて行きました。善光が、「真に夢でのお告げの通り、私と三世の縁があれば、我が袖にお入りください」と入り江に向かって袖を開いて呼び掛けると、如来像はすぐに善光の袖の中にお移りになりましたので、周りの人々は不思議の思いをして、『この如来様は活きていらっしゃるのだ。この如来様は人を呼ぶことをなさったよ』と言い、『仏様招き』と今日まで言うのはこの時から始まったのです。
 本田善光はすぐに如来信濃国ヘとお移しして、自分の屋形へお置きしました。ここは本田善光がお建てした寺ですので、善(ぜん)光(こう)寺(じ)と申します。本田善光は名字を変えて、今は栗(くた)田(だ)と言って、在家のままで善光寺の統括役を勤めています。どうぞ御安心ください」と、冷泉は道中にこの長い物語を浄瑠璃御前に語りながら、険しい道中を過ぎて、奥州の高鞍を出発してから四十八日目に、善光寺の西の大門に着きました。
 二人は本堂に入って善光寺如来にお参りして、若い女性の身で霊験あらたかな仏様にお参りできて罪障が軽くなることができるのも、ひとえに聖となった師門様のおかげだと心を籠めて拝んで、その御祈りの人々のあちこちに目を配って「聖がいらっしゃるか」と探しました。「これだけ大勢の参拝の方の中にどうして聖がいらっしゃらないのか、つらいことではある」との思いを抱きながら本堂から西の大門へと出て行き、近くの宿房に入って、一夜の宿を貸してほしいと願いました。その房のあるじに従う僧が応対して、「宿を貸すのはたやすいことなのですが、この宿房のあるじから、『知らない人には決して宿を貸してはならない』と厳重に言いつけられていますので、それができません。日が暮れないうちに、ほかの院をお尋ねください」と言いました。
 冷泉はこの僧の言葉を聞いて、「情けないことです。二晩三晩の宿をお願いしたのではないのです。一夜の宿くらい良いでしょうに。人間同士お互いに助け合わないでどうしましょう」と、がっかりしながら言いますと、応対に出た僧がその言葉を聞いて、「たとえこの宿房のあるじからけしからんと思われても、お泊めいたしましょう」と、中へと招き入れました。足を濯いで、食事を出してと、てきぱきと世話をしているところに宿房のあるじが帰ってきて、「あちらの部屋にいる人は誰だ」と尋ねろと、従僧は、二人の事情を詳しく話しました。そこで房のあるじは、「旅の人もお聞きください。『知らない人には決して宿を貸してはならない』と言ったのは、拙僧の物惜しみからとお思いになるかもしれません。この十日ほど前に、年の頃は二十三歳かと見える聖が来て、穏やかな人なので宿をお貸しして滞在をさせたのですが、風邪を引いた様子になり、それから五日目の日になって、はかなく亡くなられてしまいました。親しくしていましたので、とてもお気の毒に思いました。さらに加えてお気の毒なのことは、笠を一つ形見にして、そこに歌一首を書き置いてあったのです。
  笠は置きぬ我が身は何となりなまし哀れはかなき天の下かな
  (笠は遺しておく。私の身はどうなることか。ああ、はかない世の中であるなあ)
と詠んで、今はの際と思われた時に、拙僧が、『もしもあなたを尋ねて来る人があったら、お伝えしましょう。あなたの故郷の国や土地の名を言い置いてください』と申しますと『私には尋ねて来る人も、縁のある人もいません』と答えましたので、『そうでありましょうが、せめて故郷の地の名をお語りなさい』と尋ねますと、とても苦しそうな声で、『それではお伝えします。私は奥州の三(さんの)迫(はざま)出身の者でございます。歳は今年二十二です』と言い遺しました」と話して袖に涙を落としました。その話を聞き、浄瑠璃御前と冷泉は遺された笠を見て、「もうし、お坊様、その聖こそ、私たちが尋ねている人でございます。尋ねるあての人がいなくなり、今から後は誰を心の張りにしたら良いのでしょうか」と、身を投げ出してお泣きになりますので、房のあるじも、「この方のために辛い思いを重ねられましたね」と言って、一緒に涙を流しました。
 浄瑠璃御前はようようのことで涙を押さえ、「その聖は、どこへ葬られたのでしょうか。その場所を見たいです」と仰ると、房のあるじが「夜が明けたなら、この従僧に案内させましょう」と答えました。その夜、人々の悲しみの声は大きく響きました。
 これらの人の嘆きを隣の宿房に滞在していた三人の客僧が聞いて、「何を嘆いておいでですか」と尋ねますので、こちらの宿房のあるじは隣の宿房のあるじと知り合いなので、事情をと語ります。客僧たちはこの話を聞くやいなや、「お気の毒に。身分の上下を問わず、お嘆きは一緒です。それでは、我ら三人の修行の力がどれほどかを試しに、さあ、参りましょう」と言って、隣の宿房へと出掛けました。「我らは代々修行の山伏ですが、こちらのお嘆きの声があまりにお気の毒でここまで参りました。その人はいつ亡くなりましたか」と尋ねると、宿房のあるじは「三日前に」と答えます。山伏は、「それならば、祈りましょう。ただし、亡くなった人を火葬していたら、どのように祈っても叶いませんが」と言いますので、宿房のあるじは、「火葬のための栴檀の薪が揃わなかったので土葬にいたしました」と答えます。山伏は「それは幸いのこと」と言って、聖の墓地へと従僧に行灯を持たせて出掛け、そのほかの浄瑠璃御前、冷泉、宿房のあるじ、その隣の山伏の宿宿のあるじはそれぞれ松明を手にして、山伏の行で現れろ不思議を見ようとして一緒に出掛けて、一行は墓場に着きました。
 従僧が、「これこそあの聖を埋葬した塚です」と言いましたので、浄瑠璃御前と冷泉は、「わっ」と泣き声を上げました。山伏は、「心強く思ってください。我々は大峰に三度、葛城山には数知れず登って仏法修行を極めた者でございます。それでも御心配があろうと存じております。お静かになさってください」と言う言葉が終わらないうちに、一番先に立った山伏が角の張った粒を連ねた数珠をさらさらと押し揉んで祈り始めます。まず「南無帰依仏、南無帰依法仏、南無帰依僧、この行者の思いやりの心を汲んで、また祈るところを憐れまれて、直ちにここに眠る聖を蘇らせる奇特をお見せください」と唱えて、「東方に降三世明王、南方に軍(ぐん)荼(だ)利(り)夜叉明王、西方に大威徳夜叉明王、北方に金剛夜叉明王、中央に不動明王、たらたかんまん、見我身者、発菩提心、聴我名者、断悪修善、聴我説者、徳大智慧、知我心者、即身成仏」と、とても熱を籠めて祈りましたが、一向に祈りが通じる気配がありません。その時に二番目の座の山伏が、「これではまだまだ祈りが足らないのだ」と言って、「一に矜羯蘿童子、二に制吒迦童子、三に倶利迦羅童子、四に蓮華童子を始めとして、三十六童子、願うことは、この我ら山伏の今の祈りにお力を貸してください」と唱えて、「たさくなふまくさらはたたぎやだていひやくさらはほけはひやくさらはらこせんだまかろしやたけんきやきけんきやきさらはびきなやうんたらたかんまん」と半時ほど祈り続けますと、遺骸を埋めた土が二つにぽかりと割れて、聖が目を開き、「宿のあるじ様、水をお与えくだされ」と言いましたので、格別に不思議な気持ちになりました。聖のそばにいた山伏が早速に薬を取り出して聖の口に押し入れると、聖は息を吐いて蘇りましたので、冷泉が、「ここまではるばると浄瑠璃御前と御一緒に参りました。これは現実のことか、それとも夢か、夢ならば、ひょっとして覚めることがあるだろうか」と言って、喜びの涙が止まりません。
 聖はまだ呆然としています。第一の山伏の左脇においでの山伏が「聖よ、これから話すことをしっかりと聞きなさい。ここにおいでの第一の山伏は、もったいなくも熊野の権現様でいらっしゃいます。浄瑠璃御前が熊野権現の御正躰をお招きして、三年の間、身を浄らかにして御祈りを捧げた気持ちが見事であるので、その身の上を憐れんでここにおいでになったのである。また、もうお一人は出羽の羽黒の権現でいらっしゃるが、浄瑠璃御前が三年の間精進の座にいて祈りを捧げたのを憐れんだ熊野の権現様が、脇の山伏としてお招きになったのである。このように申す我は、塩竃の明神である。そなたは、父の師末が子を授けてほしいと我に祈ったので、子を授けるために、天上は忉利天の果てまで、下界は奈落金輪際の地獄の底までを尋ね廻ったのであるが子種が全く見付からず、願いをそのままにしてはおけないので、この閻浮提から十万億土離れた地の阿弥陀如来にお願いして授けた子である。阿弥陀如来が授けた子という縁で、初が崎の阿弥陀如来がそなたの身代わりになられたことも理解せよ。そなたが初が崎の阿弥陀堂から出羽の羽黒山、越後の蔵王堂までを巡るようにと立てられていた卒塔婆は、そなたの父の師末が立てて通った標である。そなたはこれから決して故郷の奥州へと下ってはならぬ。ここからすぐさま都へ上って関白殿へこれまでのことを詳しく申し上げよ。家を立て菩提を弔うという願いは必ず遂げられるであろう。我はそなたの道中に力を添えて、護り神となるであろう。安心しておれ」とお告げになって、夜明けの鳥の声と共に、熊野の権現は紀州を指して飛び立たれました。羽黒山の権現は出羽を指して飛び立たれまして、塩竃の明神は奥州を指して飛び立たれました。
 宿房のあるじは、この出来事を有難く思い、聖と浄瑠璃御前、冷泉を連れて宿房へと帰りました。これほど有難い神仏のお恵みをなんとかして披露したいと、俗別当の栗田様に申し上げると、まことに不思議なことである、しかも、我が日本には多くの国があるのに、その中で当国信濃善光寺は由緒あるありがたい土地なのだと、すぐさま伊能、こえ、高梨、おおいの村上、そのほか国の有力な豪族の元に使者を立ててこの不思議な出来事を伝えさせました。話を聞いた豪族たちから、「侍という立場は、今日は人の身の上の出来事だと思っていても、明日は我が身の上に不当なことが起きないとも限らない。この聖の身の上は他人事ではない」と同情が集まり、皆々が寄進を寄せて聖を都へと送りました。聖は都へ上って、すぐに関白様に一連の出来事を申し上げたところ、「二条の中納言を奥州の国司として下らせたのは、その地は東の果てであるから、きっと騒動が起こるであるであろうから、それを鎮めよということであったのに、逆に中将が国司の身として許されない乱を起こすという大罪を犯してしまったのであるから、征伐をしなければならぬ」との天皇の命による裁可を下して、この裁可に従って聖を元の師門として還俗させて平の家名を立てさせました。師門様は、急いで逢坂の関を越え、中仙道を下って奥州の入口である白河の二所の関を越えて、軍勢を揃えなさいました。師門様の軍勢は三千余騎で、天皇様の御命令を先に立てて高鞍の中将の屋形へと押し寄せ、すぐに屋形を攻め落として中将を討ち取り、師門様は長年の望みを遂げられました。それだけでなく、その上にさらに天皇様から所領をいただいて、三迫に屋形を造り、以前の戦で中将に討たれた四十八人の家来の一族の人を尋ね出して家臣として抱え、平の一門は繁昌しました。浄瑠璃御前が多くのお子様をお生みにになって、一家繁栄なさったのも、神仏のお気持ちによる恵みからです。
 その後、師門様は紀州熊野権現へと参詣し、またますます塩竃の明神を崇め、あわせて羽黒の権現を尊崇することはこの上ありません。さらに、月王丸の縁者を探し出し、その恩に篤く報いるために一家を継がせるようにして、こちらも子孫繁昌なさったというのも、すべて神仏のお気持ちに叶う振る舞いをしたからであります。

付録 善光寺如来について

 善光寺縁起によると、善光寺如来は日本に渡ってから約百年後、信州長野に運ばれてから十年ほどが立つ頃に自身のお告げにより、お隠れになったとされています。それ以降、七年に一度の御開帳にさえ姿を見せず、善光寺本堂奥の厨子の中に安置されています。御開帳で公開されるのは上の写真の前立本尊といい、ご本尊を模鋳したものです。ですから、善光寺のご本尊は絶対秘仏であり、現在に至るまで参拝者ばかりでなく、善光寺の僧侶でさえ見たことがありません。
 前立本尊とは、信州善行寺御本尊の身代わりともいえるもので、御本尊が忠実に模写されているものとされています。また、前立本尊が作られたのは鎌倉初期であると伝えられています。
 中央の阿弥陀如来の右手の印相(手の形)は、手のひらを開いて前面にかざす「施無畏印(せむいいん)と呼ばれ、衆生の畏れを取り除くことを意味しています。左手の印相には大きな特徴があり、手を下げ、第二指、第三指を伸ばし、他の指を曲げた形をしており、刀剣印(とうけんいん)と呼ばれるとても珍しい印相です。
 左右の菩薩の印相も、梵篋印(ぼんきょういん)と呼ばれ、胸の前に左右の手のひらを上下に重ね合わせる珍しい格好をしています。中には真珠の薬箱があると、善光寺縁起では伝えられています。三尊が立っているのは、蓮の花びらが散り終えた後に残る蕊が重なった臼型の蓮台です。善光寺の前立本尊の大きさは、中尊が四二・四センチ、左脇侍(観音菩薩)が三〇・五センチ、右脇侍(勢至菩薩)三〇・二センチです。御本尊も同じ大きさと考えられますので、そんなに大きなサイズではありません。

           (以上、善光寺のホームページより引用させていただきました)