琴腹
後一条院の御治世の時、中宮のお部屋に立てられていた琴の腹に鼠が子を産んだので、お仕えしている人たちが、これは一大事と言い合っていたところ、天皇様も、「このようなことは、先例が多くあることか」と、殿上人たちにお尋ねになりました。「置いてある日常の品でも、めったに手を触れない道具でもたまには気になることがあるから、鼠なども巣を作ることはないのに、それにも増して朝夕にお使いになっている琴でありますのに」というような話をして、あえて騒ぎだてをしないで、ひそひそと話をして過ごしていましたが、当時の第一の位にある大臣の宇治の関白頼通公が昔の例をいろいろとお調べになったものでしょうか、内裏にお出でになって、「昔、孝徳天皇様の御代の白雉年の半ばころ、御厩の優れた馬の尻尾に、鼠が巣を作ったことが古い文書に触れられておりました。そのようなことも何か理由があることと言い伝えております。これは大変な『ことはら』というものでございます」とお仰せになりました。
その後、天皇様のお側に仕えている人々に、「このような珍しい出来事は、上手な歌を詠んでうまく予言をすれば、その言葉に従って災いを転じたという先例がある。それでは、皆々に思い付く限りの歌を詠んでもらって、吉に転じてみよう」との天皇様の御言葉がありましたので、お側の人々は、その目的にかなうような歌を詠んでみようとそれぞれ思いを巡らされたということです。その時に歌詠みとしての評判を得ていた人の中でも、清原元輔の娘の清少納言、大隅守時用の娘の赤染衛門、大江雅致の娘の和泉式部を始めとして、有名な歌詠みたちが、ああ、何か名歌が思い浮かばないかと、いろいろと考えを巡らせましたが、いい加減に平凡な歌を詠み出したら残念なことになるとして控え、ますます深く考え込んでしまったせいでしょうか、誰一人、ほんの少しも言い出さなくなっていました。
誰もが歌を詠み出せないでいる状況を、世間の人は、実に歌詠みとして面目が立たないと思っていました。そのころ、世間に名が知られ、春の花、秋の月の風情ある歌の宴の時には宮中に参上する道命法師が、ちょっとした念願があって伊勢の国ヘと出掛けていましたが、途中で都の人に遇ってこの災いを転ずる歌を詠むということを聞いて、すぐに、思い付いたことがあったのでしょうか、歌を案じ付いたと、都へ手紙を寄越しました。
和泉式部は、伊勢に行っている間に道命が歌を詠んだということを聞いて、とても羨ましく思って、道命が伊勢から帰る途中の宿へ行って道命を迎え、身分の低い遊女の姿に身を変えて、ある夜、暗い中で道命に近付いて、「都の方で評判になっている琴の歌を思い付かれたとのこと」と言って、「お聞きしとう存じます」と口に出すと、道命は「軽々しく口にして楽しむものではばい。都で申し上げて唐のことだ」と言って、相手にしませんでした。それに対して、「もうここは都に近い所でございますよ。都で仰られた後なら、自然に聞こえてくるでしょう。せめて、ここでは、始めの五文字だけでも教えてください」としきりに願ったところ、道命は断ることもできず、「始めの五文字は『いにしへは』という五文字だよ」とだけ言って、その後は何も言いませんでしたので、和泉式部は、ちょっと冗談に聞いただけというように振る舞って、それからすぐに都へと帰り,宮中へ参上して、「このような歌を思い付きました」と言って、
いにしへはねずみ通ふと聞きしかど ことはらにこそ子はまうけけれ
(昔から鼠が通っているのだ聞いていましたが、いつか居ついて琴の腹に巣を作って子を作りました。ちょこちょこと通っているうちに、別の方に子が出来ました)
と申し上げたので、他の人は面目を失い、天皇様は格別にこの歌をおもしろがられました。
前の関白の廉義公の御子様の実資公という方がおいででした。この方も名歌を詠もうと一心にこの「ことはら」の歌をお考えになって、
あふことはいつ手枕の野辺の床たがねずみして生ふるなでしこ
(二人が手枕を交わして逢うのはいつの野辺の床か、誰が通ってかわいい子が生まれたか)
と詠みましたが、前の和泉式部の歌で歌は吉に変わったというのでしょうか、この歌には誰も採り上げることがありませんでした。
それから後に、道命が伊勢の国から帰って、宮中へと出たついでに旅の途中で詠んだ琴の歌を申し上げますと、既に和泉式部が宮中で披露した歌と同じでありました。以前には五文字以外何も言いませんでしたのに。二句以下が全く同じでありましたのは、道命も和泉式部も、どちらも歌道に達した不思議なことでありました。この「ことはら」の和歌の徳なのでしょうか、別の宮様のお腹、つまり「異腹」に後に後冷泉天皇となられるお子様がおできになり、めでたいことであったということです。
道命が都へ上ったということを和泉式部が聞き伝えて、どういう思いなのか、道命へと手紙を送りました。その手紙の末尾に歌を書き付けました。
伊勢の神かけてたづねしいにしへはかよふねずみのあなかしこなる
(神のいます伊勢へと以前尋ねて行って歌を尋ねて盗んだのは、鼠の様に秘かに通う私の仕業で、まことに失礼しました)
こう書いてありましたので、道命がさては伊勢で一夜だけ逢った女性は和泉式部であったのかと知り、やられてしまったと思いました。それを知ってから後、道命は和泉式部にどんどん親しくなって、深く相手を思い、通う道が遠くてもとにかく命を掛けてもと、和泉式部は摂津の国の天王寺詣でや、住吉の浜へのお出掛けという形をとって、天王寺にいる道命のもとへと逢いに通っているのが人々に広まって、二人の仲が知れ渡りました。
この道命阿闍梨は、東三条に屋敷のある関白藤原兼家公のお孫様で、お父様は右大将道綱卿です。道綱卿は生まれながら美男でいらっしゃったので、そのお子の道命阿闍梨も、小さい頃から美男でした。出家をなさった後は、天王寺の別当にお成りになりました。才能もあり、性格も人より遥かに優れて良く、多くの御経を暗誦され、特に声明はとりわけ素晴らしく、経典を上げる声は比べものがありません。それなのにこの道命阿闍梨は、これほど徳を積んでいるのに、色欲が深く、身持ちの悪いことは、この人柄に似つかわしくございませんでした。
また不思議な出来事もありました。道命は昼夜それぞれの時ごとに、御経を欠かさず上げられていますが、天王寺でのある読経の時に、聞き慣れない大きな音がしましたので、道命が「誰じゃ」とお尋ねると、「私は京の五条洞院のあたりに住む老人でございます。毎晩の亥の刻から丑の刻にかけてのお勤めの時には、いつも参上して拝聴しておりますのを、あなたはご存じではありませんでしたか」と答えましたので、道命は、「都からこの天王寺までは随分離れているのに毎晩おいでになっているとのこと、あなたは取り分けお年を取っていらっしゃるように拝見いたしますが、どういうわけでお出でになりますか。お名前は何というのですか」と尋ねると、「少彦名神と申す」と答えて、姿を消しました。それから後、道命が御経を上げる時には、必ず神がお出でになるということです。
ということで、この道命は、このような不思議な出来事がある方でいますが、徳が十分に身に付いているから、朝夕の仏前のお勤めをずっと欠かさずに続けていることが永くなっています。読経も声明もすばらしい音律で、聞く人は皆、素晴らしさが身に沁みます。同じ良さの人もいますが、道命の声より優れている人はいないと人々の評判です。
このようなことで、道命は神の心にも通じていたのでしょうが、ある夜、和泉式部の許へ出掛けて、夜明け頃まで、あれこれと親しくしていた時にも、いつものお勤めとしてしばらくの間、声明を素晴らしく唱えられている最中に、もしかして神様がお聞きになっていらっしゃることがあるかも知れない、我が声明を神も聞きに来ていると言うことを和泉式部にも話して、自分が不思議なことをもたらすのだと思わせてやろうとして、声明の終わりの時に、道命が、「今夜も神様はお出でになっていらっしゃいますか」と声を掛けて尋ねられましたが、全く答えがありませんので、妙だなとお思いになりました。
また、ある時に、道命が陀羅尼を、とても心を籠めてしばらく唱えていました。声の高低が実に見事に調い、聞く人の心に深く沁み込みました。夜明けがたの月の光は住の江の浜の松の木の間に沈んで行って、日の出前の岸の浪は、黄金色に光って岸に打ち寄せていた、その光景がとても趣あるという時に、いつぞやの神様がおいでになっているのでしょうか、室外のほど近いところに人が来たように思われました。そこで、道命が声明を唱え終えて後に、「神様がまたお出でになっていらっしゃいますか」と問いかけると、「今夜は来ている」と、とても厳かなお声で答えがありました。その答えを聞いて、道命が、「先日、都で和泉式部の宅にいた時の夜明けに、、おいでかとお尋ねしました時に、お答えがありませんでしたのが不思議でした。特に、あの時の屋敷は、皇居にも近い場所でありますのに、この天王寺までは随分離れてましておりますのに、それにも拘わらず毎晩お出でになられるということは、どのような訳でございますか」と、尋ねると、少彦名神様は、「そのことよ。都に近い場所は、ますます聴聞に通いたい場所ではあるが、そなたが和泉式部の屋敷にいる時は、そなたは和泉式部と親しくした後なのて清らかではなかった。ほんの少しでもそのようなことがある時には、不浄を嫌って決して近付かないのである」とお答えになりました。
昔は、このような不思議なことがありましたのでしょう。この話は現代までずっと語り伝えられています。