猿源氏草紙 福福亭とん平の意訳

猿源氏草紙

 少し昔のことでありましょうか、伊勢の国の阿漕が浦に、一人の鰯売りがいました。元は海老名六郎左衛門と言って、関東の侍でありました。妻に死に別れて、一人娘があったのを長年召し使っている猿源氏という男に嫁入らせて、そのまま鰯売りの職を譲って、自身は京都へと上り、法体になって海老名南阿弥陀仏と名乗って、遁世者として世に知られていました。大名や高家が、南阿弥陀仏を出入りの者としました。
 ある時、婿の鰯売りの猿源氏が上京して、京の町中を、「伊勢の国の阿漕が浦の猿源氏の鰯を買わないか、おーい」と言って鰯売りをしたところ、人々はこれを聞いて、妙な鰯売りだなと言って買ったものですから、猿源氏はすぐに裕福な身になりました。猿源氏が鰯を売ろうと五条橋を渡ったところ、網代を張った輿に出会いました。川風が強く吹いて輿のすだれをさっと吹き上げ、その隙間から輿に乗っている上品な女性の姿を一目見て恋に落ち、朝晩思い暮らして心も上の空になってしまい、一日中五条橋へと出かけて商売に身が入らず、病の床に伏して一首詠みましだ。
  わればかりもの思ふ人はまたもあらじ思へば水の下にもありけり
  (私ほど物思いに沈む人は他にいないと思ったら、水鏡に私の顔が映っていて、水の下にも、もう一人いたよ)
という古い恋歌などをを思い出して、
  命あらばまたもやめぐり見もやせん結ぶの神のあらぬ限りは
  (生きていれば、また巡り会うこともあるだろう、この世に結ぶの神がいる限りは)
と詠んで、見ていられないほど恋い慕う様子は、命も危うく見えるほどでありました。
 舅の南阿弥陀仏は、猿源氏がこのように恋煩いをしているとお聞きになって、猿源氏の家へ行き、様子をご覧になって、「およそ病というのは、冷えか熱の二つの原因から起こって五体を苦しめるのに、その方の様子は何が原因なのか判らず、ただ何かを深く思い込んでいるように見える。気持ちをしっかりと養生しなさい」と、懇切に仰るので、猿源氏は、この人の知恵は世の人よりはるかに優れている、自分の恋を語ったら良い才覚があるだろうと思って、「こんなお話をするのも、舅殿との間ではお恥ずかしいことでございますが、話さずに死んでは、迷いの種となってしまいますので、恥ずかしながら申し上げます。私は、はからずも恋という病に冒されてしまいました。先日、鰯を担いで五条橋を通りましたところ、網代を張った輿に出会いましたが、輿の内に乗った上品な女性を一目見てから、その面影が忘れられず、ふとしたところからこのようになりました」と、恥も忘れて話したところ、南阿弥は高らかにお笑いになって、「鰯売りが恋をしたという話は今まで聞いたことがない。決して決して、人にもらすではないぞ」と仰いました。
 猿源氏は、「これはあなたのお言葉とも思えません。魚売りが恋をした例は、近江の国の堅田の浦の男が、鮒を都で売りに来て、ある時、内裏へ鮒を持って行ったところ、ちょうど、今出川の局という内裏勤めの女房を一目見て、美しさに呆然となって、思いが深くなって、同僚の女房たちを頼んで、『こんなにいやしい身分の者にとっては憚り多い申し状でございますが、この魚を今出川様に差し上げますので、焼いてお召し上がりいただけますれば、この上なく有り難く存じます』と言うと、身分の低い者にしては、雅な気持ちであるとして、その鮒を焼いて差し上げたところ、鮒の腹の中から、恋心を綿々と書いた手紙が出てきました。今出川の君はこの手紙をご覧になって、魚売りの気持ちに同情され、もったいなくも御所を辞して、その魚売りと夫婦になられたということです。そこで、その気持ちを、ある人の歌に、
  古は(いにしへ)いともかしこき堅田鮒包み焼きたる中の玉(たま)章(づさ)
  (昔は、とても恐れ多いこと、包み焼きにした堅田の鮒の腹の中の手紙よ)
と詠んだのも、魚をめぐってのことではないですか」と言ったを、南阿弥がお聞きになって、「さてさて、お前は、昔の例を言うものだな。しかし、それは相手の女性の全身の姿を見ての恋で、一目見ただけの恋は、何とも頼りない話だ」と仰います。
 猿源氏は、「一目見て恋をした例は、私に限ったことではありません。源氏の大将は、女三の宮を愛されましたが、しばらくして、気持ちがなくなって、葵の上にお心を移されました。源氏は何を思われたのか、ある夕暮れに宮の車をお招きになって、蹴鞠をなさいました。最後の客人として、柏木の衛門督がおいでになりました。女三の宮は縁近い御簾の所で蹴鞠をご覧になっていましたが、その頃にかわいがって朱の綱でつないでいた猫が、その時に縁側に駆け出ようとしたために、その猫の綱で御簾が上がり、その間から柏木が女三の宮を一目ご覧になりました。それから、柏木の衛門督の心は夢中になって、ちょっとした伝手で手紙を差し上げたところ、女三の宮からの返事があって、それから後は二人の気持ちが深まり、とうとう、御子までご誕生になりました。源氏は、この御子をご覧になって、
  たが世にか種をまきしと人問はばいかが岩間の松は答へん
  (いつの世に種を蒔いたのだと人が尋ねたら、岩間の松は何と答えるのだろうか)
とお詠みになり、その後はもうお通いになることもなくなりましたので、女三の宮は出家なさいました。柏木の衛門督は気鬱になって、すぐに亡くなられましたと、『源氏物語』にあります。
 その話だけではございません。ある年、難波入江に橋の落成供養がありました時に、渡辺左衛門盛遠は、当時の供養の奉行で、その折に身分の高い人も低い人も大勢集まってその供養を聴聞している中に、苫で屋根を葺いた舟が一艘、供養の場の近くに漕ぎ寄せて聞いていましたが、その時、海風が強く吹いて簾を吹き上げたその間から、御簾の中の高貴な女性を一目見ました。それから盛遠はかの女性に恋をして、都へ帰ることもせず、それからすぐに男山、すなわち石清水八幡へと参詣して、『難波の浦で見て恋心を抱いた方の行衛を知らせて下さいませ』と懇ろに祈りますと、有り難いことに八幡様は盛遠の夢枕にお立ちになって、『そなたが恋い慕う女性は、鳥羽の尼御前という人の娘の、天女という者で、今は渡辺左衛門の妻となっている』とお教えになり、盛遠は目が覚めました。
 その後、盛遠は、鳥羽の尼御前の家の門口に毎日寝ていましたので、尼御前は盛遠をご覧になって、『あなたは、どちらからおいでになったどのような人で、どうして私の門前に寝ているのですか』とお尋ねになります。盛遠は、苦しげに息をつきながら、『有り体に申し上げましょう。まことにお恥ずかしいことを申し上げますが、申し上げずに命が絶えたなら往生の妨げにもなりましょうから、申し上げます。先日、難波の橋の落慶供養のありました時に、あなた様のお娘御の天女様のお姿を一目拝見して以来、天女様の俤が忘れられず、このようになってしまいました。せめてこのお宅の門口でお待ちすれば、天女様のお姿を拝見することができようかと存じまして」と話し、さらに、「万一私が身罷りましたら、天女様にこのように慕って死んだとお伝えください』と語りましたので、尼御前はこの盛遠の言葉をお聞きになって、なんとまああきれたこと、我が子にこの思いを伝えれば、貞女の道に背く、またこの男が死んでしまえば、長く怨みを残させることになるであろう、どうしたらよかろうかと心を痛めて悩まれました。そこで、何としても、人の命を失わせることは、仏様が格別にしてはならないと戒められていることであるよ。死んだなら、二度と戻れない遠い黄泉路である。人を助けるのは菩薩の行いであるとお思いになって、尼御前は娘の天女のもとへ風邪を引いたと知らせますと、天女はこの知らせを受けて、早速輿を急がせて尼御前の元へ参上しましたので、尼御前は、急いで盛遠を一間の内に隠れさせ、天女を同じ部屋へとお入れになりました。
 天女が同じ部屋に入ってきましたので、盛遠は、夢のような気持ちで、橋供養以来の恋心を細々と語り口説きます。天女は盛遠の言葉をお聞きになり、これは何と言うこと、私は夕顔の上に置く露が消えるように消えてしまおうとお思いになりましたが、また思い返し、しばし考えてみよう、お母様の言いつけに従えば貞女の法に背くことになる、またお母様の思いに背いたなら、親不孝をすることになる、ここはうまく偽って切り抜けようとお思いになり、『さてさて盛遠様、お聞きください。真実私にお気持ちがおありなら、私の夫の左衛門を殺してください。その後ならば、あなたと夫婦の契りを結びましょう。いますぐここでかりそめの契りを結んでは後悔することになるでしょう。夫左衛門をそのままにして、夫がいながら、あなたに心を寄せるならば、貞女としての道に背きます。夫左衛門を殺してくださった後には、心穏やかにあまたと結ばれましょう』と、細々と語りますと、その言葉を聞いて盛遠は喜んで、『それでは、左衛門を討ち取れば私に心を寄せてくださるとか、左衛門を討つのは簡単なことですが、しかし、どうやって討ち取ったらよいでしょうか』と言います。そこで天女の仰せには、『夫に酒をたくさん飲ませで、酔って寝たところを寝所に忍び込んでお討ちなさい』と約束をして、天女は家へ帰りました。
 家に帰った天女は不安に思って、『あなたといつまで添っていられるのでしょうか』というようなことを夫の左衛門に語りましたので、夫は何となく落ち着かない思いで、『尼御前の風邪のご様子はどうだったのですか。五月雨が降り続いて、ホトトギスが不吉な声で鳴く時期は、誰でもそのように寂しく心細くなるものです。さあさあ楽しくやりましょう』と酒の肴をあれこれと揃えさせて、盃の遣り取りをして、夜も更けたので、二人仲良く共寝をいたしました。夫左衛門はすっかり酔って、ぐっすり寝ています。
 その時天女はそっと起きて、夫が着ていた小袖を取り上げて着て、夫の姿になって横になりました。盛遠は、天女と約束をした通りに宵のころから忍び込んで、寝所を見やると、明かりをかすかに灯すと、左衛門らしい者がぐっすり寝ています。盛遠は腰に差した刀を抜いて、確かに首を打ち落としたと思って、そっと家へと帰りました。さて、左衛門は、目覚めて隣を見れば、一緒に寝ていたはずの妻の天女の姿がありません。妙だなと思いながらいつもの寝所へ行ってみると、天女は血まみれで空しい姿で横たわっていました。左衛門はとても悲しく、遺骸に抱きついて『さてさて、この者は天女なのか。誰の企てか少しでも知っていたなら、このような悲しく辛い目には遭わせなかったものを。これは夢ではなかろうか』と、天女を思って悲しみの涙があふれて止まりません。
 盛遠は、天女が死んだということを聞いてすぐ、これは不思議なことだ、左衛門を討ち取ったのに、天女が討たれたというのは不思議だ、ひょっとして天罰が当たって天女を殺したのかも知れないと思って、左衛門の屋敷へ行ってみると、亡くなったのは間違いなく天女でした。盛遠は、天女にだまされたことを口惜しく思い、腹を切ろうと思いましたが、思い直して、夫の左衛門の心中はまことに気の毒だ、どうせ死ぬしかない命、左衛門の手にかかって死のうと思い至りました。盛遠は天女の首を持って左衛門の屋敷に行き、『これ左衛門殿、落ち着いてお聞きください。私めが天女様を手に掛けて殺しました。その訳は、以前、難波の橋の供養の時に天女様のお姿を一目見た時から恋のとりこになってしまい、その後、不思議な縁があってお会いして、私めから、たった一度、願いをかなえてください。願いが叶わなければ、あなたのために命は惜しくありません、ここで死んでしまいましょうと申すと、天女様が、あなたの仰せに従えば貞女の道に背きます。また、だめですと申し上げればあなたの怨念が遺ることになり、あなたはもう死んでしまおうと仰るので、ほかの考えはございません。考え至るところは一つです。現在夫がある身であなたに心を寄せるのはいけないことです。それほどに私に心をお寄せになっているのなら、夫の左衛門を殺してください。その後はあなたと深く夫婦の契りを結びましょうと仰せになりました。私めはその言葉を真心から出たものと思って、あなたを討つと存じてこのように天女様に騙されたことが残念です。すぐさま私めの首をお打ちになって、天女様の御供養にもされ、またあなた様の怒りの炎を鎮めてください』と言って首を差し出して待っていますと、左衛門はあまりの無念さに、まさに盛遠を討とうとしましたが、刀を振り上げた途中で思い留まり、『これ、盛遠殿、あなたを討ったとしても、天女がよみ返ってくるものでもなく、もはや、あの世に行ってしまった女であるから、その私が菩提を弔わなければ、誰が弔うでしょうか、あなたの命はお助けいたしましょう』と、抜いた刀で髷を切って、すぐさま僧の姿になって天女の菩提を弔いました。
 盛遠もすぐさまその場で髷を切り、天女の菩提を弔おうと同じく僧の姿になりました。この時盛遠は十九歳、左衛門は二十歳でもんしょうと名乗り、盛遠は文覚と言って、世に隠れない善知識になられました。これはつまり、一目見た恋のためでございましょう」と申しましたところ、南阿弥は、この猿源氏の申し状をお聞きになって、「お前さんは、いったいどこの人が言ったことを聞いて、そのような譬え話を言うのですか。その話は全部、その相手がどこの誰と判っての恋です。あなたの恋は、相手の身元も判らず、その家も判らない、五条橋でほんの少しすれ違う時に、御簾の隙間からちらりと見ただけの人を、あてもなく探すような恋をするものだなあ」と仰ると、猿源氏が言うには、「人に尋ねてみましたら、五条東洞院の地においでの蛍火という女性であるということです」ということで、南阿弥はこれを聞いて、「その人こそ、京の都中に隠れもない蛍火という遊女で、日が暮れると光り輝く女性なので蛍火という名が付いた。蛍火とは、光る蛍に燃える火と書くのだ。公家や位の高い寺院ゆかりのお嬢様ならば、いろいろ手段もあるのだけれども、これは高貴な客を相手にする立場の遊女だから、大名や身分の高い家柄以外は相手にしない、お前さんは都中を歩いて知られている評判の鰯売りだから、どうしたら会わせることができるかなあ、いっそのこと、大名の真似をしてしまいなさい」と仰いました。

 そこで猿源氏はその言葉を聞いて、「私めも、以前からそのように思っておりました」と申します。南阿弥が、「武衛(斯波)、細川、畠山、一色、赤松、土岐、佐々木といった大名を始め、畿内や禁獄の大名はみな普段から顔を知られているのでなりすましにくい。関東の侍である宇都宮弾正殿はまだ都上りをしたことがなく、しかも、近々上京されるということを聞いているので、幸いだ。宇都宮殿になりすましてみなさい」と仰るので、猿源氏は「私もそのように存じます。というのは、宇都宮様の家来に親類がいますので、あの殿様の普段の立ち居振る舞いを詳しく聞き知っております」と申します。そこで南阿弥は「それで万事準備が調った。とはいうものの、宇都宮は大名家だから、家来、小姓、同朋、下役、中間に至るまで、お付きの人々がいないと形が整わない」と仰ると、猿源氏は「そのことはご安心なさってください。鰯売り仲間が二、三百人もおりますので、彼らをその役に仕立て上げて、侍にも小者にもいたしましょう。私の東隣の家の六郎左衛門という人は、人柄の良い人ですから、これをまとめ役にいたしましょう」と申しましたので、南阿弥は、「それが良い」と仰いました。
 その後、猿源氏は、始めに五条に行って、「宇都宮様は、京上りとして、近江の国の鏡の宿、守山の宿に宿をお取りになられた」と噂を流させましたので、京中の遊女達が、宇都宮様は大名なので、必ずおいでがあるだろうと、座敷をきらびやかにして心待ちしていました。その後、さらに二三日過ぎて、猿源氏が五条の辺りで、「宇都宮様は早くも京にお入りになって、もう今朝には、将軍様に参った」と噂を立てさせてました。
 南阿弥が先に蛍火の遊女宿へ行きますと、宿の主は「お久しぶり、どうして長いことおいでにならなかったのですか。近ごろはどちらへお通いですか。こちらにおいでになるのは、きっとお門違いではないですか」と冗談口を叩きながら、すぐに若い女性を十人ほど座敷へ出して、酒の支度をして、主が、「宇都宮様が御上京という噂がありますが、本当のことでしょうか、どうです」と尋ねると、南阿弥は、「おう、それそれ、私も関東でお目に掛かった方ですので、必ず私方へもお出でになるでしょう。上京は間違いないことですから、おいでになったら、私が対面して、『かねてひそかに御上京のことを承っておりましたので、お宿のご用意をと申しつけておきましたから、こちらへおいでください』とこの家へご案内しましょうから、その用意をしておいて下さい。座敷などの屋敷内の掃除はもちろんですが、ご一行は大勢でいらっしゃるから、お供の小姓、若侍、道具持ちなど、家来衆がみな泊まれる部屋など、仮拵えであってもお建てなさい。座敷飾りもあれこれとご用意なさって、御馳走も十分に上等な品を揃えてください。お相手はどの方々でしょうか」と仰います。この言葉を聞いて、亭主は、「南阿弥様が仰せなら、どのようにもでもいたします。女達は誰がよろしいか、どうせのことなら、南阿弥様がお見立てくだされ」と言って、女性を三十人ほど並ばせて南阿弥に見せましたので、南阿弥はこの女性達を見て、皆々美しい人々でしたが、その中から十人を選びました。この時に門の傍らを見ると、二十二、三歳くらいの男が、梨地蒔絵の鞍を置いた月毛の馬に乗り、白木の弓を握って腰から蟇目の矢をつがえて犬を追いかけて行き、馬を引き返すところでした。南阿弥がこの男を見てすぐさま、「宇都宮様と拝見しました」と言いながら、外へ走り出て見ると、話をしていた宇都宮様当人でありました。南阿弥は「これはこれは、宇都宮様とお見かけいたしました。亭主がお待ち申し上げておりますので、まずまずお寄りください」と言いながら若者の鎧にすがりつきますと、宇都宮は馬からゆっくりと下りて、「仰る通り、かねてからそちらへ伺おうとは存じておりましたが、何かにとりまぎれ、とりわけどのように出仕したらよろしいかを相談しようと存じておりました。そのところへ至急参れとのお言葉があり、二三日前に上京いたしました。ご無沙汰いたしましたことをお許しください。近々お宅へとお伺いして、ご挨拶申し上げます」と言って馬を引き寄せて乗ろうとするところに、この店の蛍火、薄雲、春雨、その他の遊女十人ほどが出て来て、「まあまあこれは何としたこと、あなた様がこの家の前を通りながら、つれなく通り過ぎようとなさるのですか」と言って、この宇都宮の袖にすがって、座敷へと引き入れます。宇都宮は、不本意な様子で座敷に入りました。こうして座敷に導かれた宇都宮は、なんとまあ恥ずかしい、照れくさい、自分は京の今日の町中を鰯を売って歩いていたのに、それに引き換えて今の有様はどうであろうと思うにつけても、南阿弥がどう思っているのだろうと考えるだけできまりが悪くなります。
 さてその間に、この家の亭主は物陰から宇都宮の様子をじっくりと見て、なんと、宇都宮はひなびた地方の武士であるのに、姿形振る舞いはしっかりした人だなと感心しました。そこで亭主は、美しい蒔絵の盤の上に伽羅の盃を載せて持って来て、「さあ、宇都宮様、盃一つお召し上がりになって、あなた様のお好みの者へ盃をお指しくださいませ」と言います。宇都宮はこの盃になみなみと受けて、心の中に、私を一筋に思い焦がれさせた蛍火とかいう女性はどの女だろうかと見回しますが、どの女性も同じように美女揃いなので、ああ、誰が蛍火かわからない、こんなに蛍火が多くいるのだから、必ず蛍火と違う女性に盃を指してしまうだろう。間違えたなら、笑われてしまうのは残念だとますます心が乱れました。一人一人を何度も見回していて、女性の中で一番ゆったりと落ち着いている女性に盃を差し出すと、それが蛍火でありました。蛍火は。面白がって、「ありがたい盃を差されました」と、その盃を受け取って、猿源氏と何度も盃の遣り取りをいたしました。残った遊女たちはこれを見て、ああ、うらやましい蛍火さん、これからついでの盃を受けても何にもならないと、その場を立ち去る遊女もあり、また、その場に残って座敷を盛り上げる遊女もありました。盃の遣り取りをしている時に、南阿弥が「これ申し、宇都宮様、京の町中は、日が暮れると、何が起こるか分かりません。今日のところはひとまずお宿へお帰りください。明日また必ずお出でくださいませ」と言います。宇都宮は、「今日はとても格別に酒をたくさん飲んで、立ちぞびれてしまった。それでは皆さん、ごきげんよう、さらば」と言って、宿へと帰りました。
 南阿弥は宇都宮こと猿源氏の宿へすぐにやって来て、「さてさて、今日の宇都宮はよくも化けたものだ。とはいうものの、夕方になると蛍火が尋ねてくるだろう。座敷の模様をすべて大名の座敷のようにしつらえて来るのを待ちなさい。また、使っている者たちに、酔った紛れに『俺も鰯を売り損なった』『わしも今日は元手を損した』などと言わせては、恥をかくことになる。また、寝言を言って、身分の低い者の様子をすると、身元が知れて興ざめになってしまうぞ」などと、懇切丁寧に教えて、南阿弥は自分の家へ帰りました。思った通り、蛍火は黄昏時に、「宇都宮殿のお宿はこちらかえ」と訪ねて来ましたので、出迎えてもてなしました。蛍火は、なんとまあ不思議なこと、宇都宮は大名と聞いていたのに、それに違って、家来や一族の者も侍らずに、ただ一人座敷に出て、すべて町人の様子で、家の中にいる者たちは大声を出して、上下の弁えがないのは妙だなと思いました。そのため、すぐに寝つかずに、あれこれと考えている時に、宇都宮が酒に酔って、寝床の中で手足を伸ばし大あくびをして寝言で、「阿漕が浦の猿源氏の鰯を買わんかね、おーい」と言いましたので、蛍火は、これを聞いて、やはりそうか、最初から何か妙だと見えたのに違わず、鰯売り風情の座敷に出たことの悲しさよ、さてこのことで、我が身はどうなり果てて行くのであろう。このことは隠すことができないから、客とあれば鰯売り風情をも客としてとるという心の卑しさ、生臭い女よと、もう座敷に呼んでくれる方もいなくなるであろうから、髪を下ろして尼となって、これからどこかへと足の向くままに行ってしまおうと思いながらさめざめと泣いている涙が、宇都宮の顔に落ちたので、宇都宮は雨が降ってきたと思って、「やれやれ、雨が降ってきたようだ。若い者どもよ、苫を掛けろ」と言うやいなや、起き上がって周りを見回すと、光り輝く美貌の女性が、さめざめと泣いています。ああ恥ずかしい、しまった、間違いなく寝言を言ってしまったのだと思って、「今、余りに飲み過ぎて、正気を無くして酔って寝て、何を言ったか存じません。あなたはどうしておやすみにならないのですか」と言います。蛍火はこの宇都宮の言葉を聞いて、「何を仰せになりますか。あなたは鰯売りでいらっしゃいます。何と言っても、恨めしいのは、あの南阿弥じゃ」と言います。すると、宇都宮は、「私は、宇都宮弾正とは申しましたが、鰯売りという名は存じません。今初めて伺いました」と言います。蛍火は、一度に全部を言ってしまうと恥をかかせることになるであろうと思って、一つずつ問いかけます。「まず最初に、阿漕が浦という寝言はどういうことですか」と言いますと、宇都宮は、「そのことでございます。私の上洛はこの度が初めてのことでございますので、恐れ多くも将軍様からのお言葉で、『何としても宇都宮をいたわるように。犬追物、笠懸、鹿射、丸的という弓の遊びは珍しくないであろう、今の人々が楽しんでいるのは、詩歌連歌の道である。宇都宮は、格別歌道を好むと聞いている、歌にいたせ』と仰せがありましたので、佐々木四郎、榛谷四郎左衛門が仰せを承って、天下の歌の宗匠へと連絡が行き、人々が一座しようと集まられました。執筆の役は徳大寺様の十三歳になられる弟御で、青蓮院様のお弟子で、書の見事さは世間の人をはるかに越えていらっしゃいます。すでに将軍様が発句をお出しになっていらっしゃるので、それから各々の方から次々にお詠みになり、一座を一回り過ぎた時に、
  暇(いとま)あらずも塩木とる浦
  (暇もなく塩焼きにする木をとる浦)
という句がありましたので、
  塩木とる阿漕が浦に引く網も度(たび)重なればあらはれぞする
  (塩木をとる禁漁の阿漕が浦で何度も網を引くと露顕するように、悪事も度重なれば露顕   するものだ)
という歌の意味を含んで付けようと、何度も思い返し思い返ししているので、『阿漕』という寝言も言ってしまったのでしょう」と言い訳をいたしますと、蛍火が「それだけでなく、『はし』という寝言は何なのですか」と訊きます。猿源氏は、「そのことでございます。
  渡りかねたるかくれがの橋(かくれがの橋を渡るのにためらったよ)
という句がありましたのに対して、ある歌に、
  陸奥(みちのく)のささやきの橋中絶えてふみだに今は通はざりけり
  (みちのくのささやきの橋の中が外れて通れなくなっているように、二人の仲も絶えてしまって、今は手紙さえも送らなくなったよ)
  熊野なる音無川に渡さばやささやきの橋しのびしのびに
  (熊野にある音無川に、ささやきの橋をそっと渡したい。そのように、何の連絡もない人に、そっとささやきを届けたい)
とありますので、この二首のうち一首の心を汲み取って付けたいと思いましたが、いやいや、これは都の上手な歌詠みの方の付け方で珍しくありません。ここに、和泉式部という女性に、藤原保昌(ほうしょう)という人がお通いになって、深く契りを結んでいましたが、そこに道命(どうみょう)法師という人が通って、契りを結びました。保昌はこのことを聞いて、和泉式部に、『私が言う通りに手紙を書きなさい』と言ったところ、和泉式部は、『どんな手紙を書けと仰るのですか』と答えます。保昌が、『保昌も、最近は通って参りません。あなたは急いでおいでください。道命法師様へ、和泉式部より、と書きなさい』と言いますので、和泉式部は赤い顔をして、『これは、思いがけないことを仰るものですね』と言いましたが、致し方なく手紙を書かれましたが、どんな隙(すき)を見つけたのか、箸を五つに折って、手紙に添えて送りました。道命法師はこの手紙を見て、『不思議だな、今すぐ来いとお書きになっているけれど、箸を五つに折って添えてあることは不思議だ。ある歌に、
  やるはしをまことばししてきばししてうたればししてくやみばしすな
  (送った文面を真実のことだと思ってやって来て、ひどい目にあって悔やまないでくださいよ)
と詠まれている。きっとこの意味を含んでいるのであろう。さては、保昌が和泉式部の所においでになっていて、このような手紙になったのだろう』と悟って行きませんでした。命の危険を逃れられたのも、道命が和歌の道を心得ていたためであります。この歌の心持ちで、思い至ることを、この意味でこれまでに知らないような形で付けてみようと思って、あれこれと思いを巡らせていたので、『はし』という寝言も言うことでしょう」と言います。
 蛍火は、「それもそうでしょう。『猿源氏』という寝言は何ですか」と訊きます。宇都宮は、「そのようなことも申しますでしょう。先日、中のきさき様に参上しましたら、神祇、釈教、恋、無常、述懐、懐旧に至るまであれこれと和歌の心に気を配っていた時に、
  怨みわびたる猿沢の池
  (恨んで悲しく思う猿沢の池)
という句があります。これは、昔、ある天皇様の御代に、天皇様が采(うね)女(め)という女性に深く契られたのに、間もなく気が変わってお捨てなさったのを采女が恨んで、夜の闇にまぎれて宮中を出て、猿沢の池に身を投げて死んでしまったので、天皇様はとても悲しくお思いになり、急いで猿沢の池へとおいでになって、すぐさま采女の遺骸を探し出して引き上げさせてご覧になると、あれほど美しかった緑の黒髪も、美しくあでやかだった鬢も、三日月のような細い眉も、やさしかった姿が、池の藻が取り付いて全く変わってしまった姿でした。この姿をご覧になって、天皇様はもったいないことに、
  わぎ妹子(もこ)が寝乱れ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき
  (親しいあなた、共寝をした時に見た寝乱れた髪を、猿沢の池の美しい藻として見るのが悲しいよ)
と、采女の亡くなったことを弔う歌をお詠みになりました。あの言葉は、この歌の心を真似たものです。その後、光源氏が、春日大明神へお参りになった時に、猿沢の池をご覧になって、昔の采女がこの池に身を投げたことを思い出されて、当座の和歌会を催して采女を弔われ、その折に、誰かは判りませんが、
  猿沢の池の柳やわぎ妹子が寝乱れ髪のかたみなるらん
  (猿沢の池のほとりの柳は、私のいとしいあの方の寝乱れ髪の形見であろうか)
と詠みましたその歌の意味を心に思って考えていましたので、『猿源氏』などという寝言を言ってしまったのでしょう。ああ、面倒な、早くお休みなさい」と言いました。
 蛍火がまた、「それだけではなく、『鰯買いなよ、おーい』と言った寝言は、どう言い訳をなさるのですか」と言いながら、おかしくなってからからと高く笑うと、その時さすがに、宇都宮は顔を赤くして、もはや鰯売りと決めつけられようとしましたが、心を静めて言います。「そのような寝言も言ったかも知れません。連歌の会で、だんだんと果ての名残の折の裏へと返すと思われるところに、
  男山何を祈りの石清水
  (男山の石清水八幡に何を祈って言うのであろう)
という句がありました。これに人々が言い古したような句を付けるのはおもしろくありません。先程もお話をしました和泉式部が、鰯という魚を食べているところに、保昌が来たので、和泉式部は恥ずかしく思って慌てて鰯を隠したので、保昌はこれを見て、鰯とは思わずに、道命法師からの手紙を隠したと思って、『何をそんなにお隠しになるのですか、気がかりです』と言って、強く問い詰めると、和泉式部が、
  日の本にいははれ給ふ石清水参らぬ人はあらじとぞ思ふ
  (わが国の人々から尊崇されている石清水八幡にお参りしない人はいないと思いま     す。この国で鰯を召し上がらない人はいないでしょう)
と詠んだので、保昌はこの歌を聞いて、機嫌を直して、『肌を温め、特に女性の顔色を良くする薬の魚であるのに、食べたのをとがめてしまった』と言って、ますます二人の仲は深くなったということです。ですから、この意味は珍しいだろうと思いを巡らして考え込んでいましたので、『鰯』という寝言も言ったのでしょう。ああ、面倒なとがめ立てです。もう、どんなにお尋ねになっても、ご返事はいたしますまい」と言いますと、その時、蛍火は、この男が本当の鰯売りならば、このようにさまざまの和歌の道の話を知ってはいないだろう、まことに宇都宮は今般初めて上京したのであるから、御所の中の言葉での交際はあまりに大変で、多くの思いが心の中に積もっているから、それが外に現れてこのように寝言を言うのだろう、それも道理だと思い直して、互いに心を許して、長く夫婦として添い遂げようとの語らいをいたしました。
 このように蛍火と結ばれるようになったというのも、猿源氏が南阿弥に使われながら、いつも歌道に心を付けて学んでいたためで、当座の恥を隠せただけでなく、普通ではとても相手にされないような相手との恋を成就することができたのも、すべていろいろなことを知っている効用であります。ですから、孔子が「蔵の中にある財物は朽ちてしまうことがある。身の内の知識という財は朽ちることがない」と申されたことの意味は、今こそ思い知られることであります。さて、宇都宮に化けた猿源氏はその後、鰯売りであるということを明かしましたが、身分の高い者も低い者も、、恋の道には変わりがありませんので、猿源氏と蛍火は、前世からの深い縁であるとして、伊勢の国阿漕が浦へ一緒に下って行って、富み栄えて、子孫も繁昌いたしましたのも、二人のお互いへの気持ちが深かったからで、また、歌の道への志が浅くなかったからでありますから、人それぞれに学ばれるべきことは、歌の道でありますと、くれぐれも申し上げます。