相生の松 福福亭とん平の意訳

相生の松
 さて、昔から今日に至るまでのおめでたい例として言われることは多いですが、その中で、鶴の雛が巣立つ姿は千年の寿命を見せています。また、池の岸近くに亀が浮かび出るのは、万年の寿命の姿を見せるということです。それにも増して、格別にめでたいのは、冬の夜の嵐の吹きすさびや、、厳しい露や霜に当たっても緑の色を変えない松がそれです。松がいつもその色を変えないということがあるので、長生きの名の長生殿庭には陸奥にあった姉歯の松が移し植えられ、年を取らないという名の不老門の扉の内にはまだ小さい小松が植えられました。異国の唐の例を考えると、赤松子という仙人は、松葉を食べて長生きをしたと言い、また、我が国の昔を尋ねると、三保の松原は富士に近い特別な霊地として、天人がここに下ってきて、天人の袖で撫でても尽きることのないような磐石のという歌が詠まれたように、御門の長命を祝福する千年の寿命を保つ鶴がここの梢に飛び通ってきているということです。
 このような世の中で、生えている草木の種類はさまざまあり、草木それぞれに名が付けられていますが、その草木にも男女の間と同じ情けの道があって、夫婦の契りは永遠に続くものなのです。親しい契りの雌雄、野に広がるつぼすみれにも、男女の情と同じ情が通っているとは申しますが、その中でとりわけ「相生」の名の通りにめでたいことに伝えているのは、播磨の国の高砂の浦のことで、ここに、松が枝姫様というとても顔形の美しい姫神様がいらっしゃいました。この方の御名を松が枝と申し上げるのは、お住まいの庭に姫小松を植えて、いつも色の変わらない松の姿を愛されましたので、この様に名付けたのです。この姫小松は、植えてからだんだん年月が重なるにつれて、枝が伸び、葉が繁って、高砂の浦吹く風に揺られて鳴る枝葉の音が、あたかも琴を弾く音のようで、それを聞くと心が澄み渡ります。松が枝姫はこの松の調べを楽しみ、いつも松の傍においでです。さらに年月は重なりましたが、姫のご容貌はますます若々しく、お年を召す様子はありません。
 さて、ここ摂津の国の住吉の浦に、松高彦の命様という男の神様がいらっしゃいました。この神の名を松高彦と申しますが、そのいわれは、松の緑の色を変えない葉が、高い枝となって繁りあった姿があり、霜の降りる寒い秋から冬にかけて吹く風によっても緑の色が変わらないままで、地に落ち積もる松葉の数が搔き尽くせないほど積もるほどの長い年月にこの松を愛されましたので、松高彦様と申し上げます。
 古く昔のことを申し上げると、畏れ多くも天の神の七代目の伊弉諾尊が日向の国の橘の小戸阿波岐原においでになって、海辺に下って海中に入られて潮を浴びられますと、この潮の中から一柱の神が現れました。そのことがあってから数十万年を過ぎて、神の代から人間の御門の時代になって、神武天皇から第十五代に神功皇后と申し上げる御門が、高麗、百済支那の半島の三韓を平定して我が日本国に従属させようとお思いになった時に、この阿波岐原の波間から出現された神がたちまち姿を現されて、神功皇后にお会いになって手助けをされたので、実はこの三韓への出陣の手順はすべてこの神のお考えによるものでした。こうして、この神は神功皇后が大陸へと出陣される時に皇后の護りとなり、皇后は思いの通りに三韓を攻めて平定して、日本の土地へお帰りなりました。その時にその神は摂津の国へお出でになって、ここが安住するのに良い場所であると仰せになって、その地に神となられて、落ち着かれました。厳かな社を建ててお祀りして、住吉の明神と申し上げます。
 このようにして、長年に渡って霊験が並びなくあらたかですので、国中の人々がこの住吉の明神をありがたく敬って、住吉の浦の浜木綿で幣を作って、多くの人々が参詣に訪れます。
 神前では八人の舞を献ずる乙女と五人の神楽を奏する男性が欠かさず神前に奉仕して、神様のお気持ちを鎮め申し上げています。さつさつとさやかに響く鈴の音が、住吉の松の並木に吹く浦の風の音に重なり、とうとうと鳴る鼓の音が岸に寄せる波音かと思われて、住吉の宮はますます賑わっています。ところで、この住吉の浦と言いますのは、青海原が西に向かって豊かに広がり、四国や九州の果てまでも眼前に見ることができ、手に取れる程の近さに思えます。
 そのためでありましょうか、津守の国夏がこの住吉の浦の見晴らしを詠んだ歌にも、
  朝夕に見ればこそあれ住吉の浦より遠の淡路島山
  (朝晩に見なれているのであるよ、住吉の浦から遥かに見える淡路島の山よ)
とありますのも、この住吉の明神様の御心を推し量り申し上げると、唐から我が日の本を侵略しようとする企みが長年に渡って何度も繰り返されることをかねてからご存じでいらっしゃって、我が国を取り巻く海が賊から犯されることなく穏やかで、国に暮らす人々が豊かに過ごせるようにとの護りの神とおなりくださっていることはありがたいことです。
 さて、先にお話した松高彦様は住吉の浦に出て、浜辺の松の梢を御覧になりました。松の緑はこの上なく色濃く空に溶け込んで、どこへともなく歩みを進められます。海の彼方から吹いてくる風の音の中に、琴の音が混じって聞こえます。松高彦様は不思議にお思いになり、自身で海岸へと出て行き、一艘の小舟に乗って海中へと漕ぎ入り、琴の音を便りとして進んで、どこで弾いているのかと尋ねられます。敷津、高津の浜を過ぎて、難波の御津の浜へと琴の音に導かれて行くと、古来有名な播磨の国の中でも特に名が知られ、松風の音も高く聞こえる高砂の浦、尾上の松の場所にとお着きになりました。
 松高彦様は暫くそこに舟を止めて、琴の音をお聞きになると、かすかに聞こえていた琴の音が生まれている場所はここと聞き定めて、舟から陸に下り立たれ、あちらこちらと歩かれると、少し離れた場所に、風景に溶け込んだ建物で、庭にはどれくらい長い年経っているのかと思われる梢が年を経た姫松がたくさん生えていて、その繁った松の木の色が空に聳えています。その木々に浜辺の風が吹き寄せると、枝葉と触れ合って、まるで琴を弾いているような音になり、第一、第二の絃は伸び上がるように音高く、また静かに退くように音低く鳴り、次の第三、第四の絃は調子を変えるようにも、また高い調子にするようにも鳴り、第五の絃の音は天子様の長寿を祝福する良い譬えとして、「万歳楽」の曲を演奏しているようです。また、国が平和に治まって、国の人々は安楽に暮らせ、五穀は豊かに実って、穏やかな様子を表す「太平楽」の曲と聞こえます。
 松高彦様は立ち止まってこの曲をしみじみとお聞きになり、その琴の音色を深く心にお止めになって帰ることもゎ忘れになります。その日もだんだんに暮れ方になってきて、あたりがすっかり不気味なほどに暗くなってしまいましたので、そこの建物の中にずいとお入りになると、部屋の中には人は少なく、ただ身の回りの世話をする少女一人二人が傍に仕えているだけの、この上なく上品な女性が火を灯させて座っていて、壁に映る女性の影までもが由緒ありげに見えます。
 松高彦様は、この座敷内の女性をご覧になって心が宙に飛んでしまって、落ち着いた思いがなくなって迷いの中に入ってしまって、女性のお付きの少女を呼び寄せ、女性の名をお尋ねになると、少女は、「これは何ということ、姫様のお名前をご存じないのですか、姫は松が枝姫様と申し上げて、日頃は庭の松の中に暮らして、色を変えない松の色をお愛しになられています。松の梢を吹く風の音が生み出す琴の音を親しくお聞きになっていらっしゃいます。この場所は憂き世を離れた尊い仙境で、世間一般の人などは、来て住むことのできる土地ではありません。さっさとお帰りください」と答えます。
 松高彦様はこの答えをお聞きになり、「ここは有名な播磨潟で、名も松吹く風の音も高い尾上の里と聞いているので、だれの心にもゆかしい土地であります。そのような土地で、とりわけて私の心に深く沁みたのは、松の梢の琴の音で、浦を強く吹き渡る風に乗って摂津の国の私のいる住の江の里まで聞こえたので、その琴の音を導きとしてここまで来ました。今日は日が暮れてしまったので、住の江へと戻る舟路がはっきり判りません。ここまでやってきた一艘の小舟は岸に繋いではありますが、夜が更けて漕ぎ出そうにも、海辺で人々が燃やしているかすかな火では帰りの導きとしては頼りになりません。一つのお願いは、この夜が明けるまで、宿をお貸しいただきたいのです。どうか、お願いいたします」とお答えになります。少女は、建物の中に入り、「以前から伝えられた話があり、外からの訪れる人について気になっていることがあります。お泊め申すのはよろしいのですが、私どもがひっそりと住んでいるこの海辺の粗末な建物は、竹の網戸も隙間だらけで、また褥として敷く物もありません。海辺で集めた海藻などを夜着として、一夜をお明かしなさいませ。それでよろしければ、こちらへお入りください」と言って、中へと案内します。
 松高彦様はとてもお喜びになって、この建物の主に、「私は、ここから遥かに離れた摂津の国の、人々がとても住み良いといわれている住吉の浦の松並木に住む松高彦と申す者です。私は、昔から今に到るまで一筋に浜辺の松を大切にし、遥かに松に吹いてくる風に靡いて揺れる松の枝々や、色変えない松葉の緑を愛してまいりました。そのような折、住の江の浦の岸辺から遥かに遠い所から、吹く風の音に混じって聞こえる琴の音に心が惹かれて舟を漕ぎ出して、舟の進みに任せてご当地までまいりました。そこでこちらのお庭にある姫松のその姿にうっとりとして目が離せなくなり、とうとう日が暮れてしまいました。あなた様が御情け深くいらして、一夜の宿をお貸しくださるとのこと、とてもとてもありがたいことです」と仰られると、この家の主の女性は、「左様でございますか。この私もこの年月、松に心を深く寄せて長いことになります。あなた様はご存じないでしょうが、この高砂の尾上の里と申しますのは、神代の昔から、世の中の並の人は来て住むことの出来ない、とてもとても高貴な土地なのです。私がこの土地に世間から離れて住んでいることなど、知る人はおりません。あなたのような高貴な方にお目に掛かることは、とても恐れ多く恥ずかしいことです。恥ずかしながら、この上は、もう何を御遠慮申しましょう。あなた様はぜひこの土地にお留まりになって、私共々、松を愛し、松が永い年月その深緑の色を変えないように、千代も八千代も変わらない契りを結んで、ここにお住みになってください。
 この様な話がございます。昔、唐の国に、劉(りゆう)虔(けん)という人がいました。山に入って薬を採ろうとした時に、谷に下りて水を汲んでいたところ、水の上に独楽という物が浮かんで流れて来たのが見えました。また、その後から、美しい盃が流れて来ました。劉虔は不思議に思って、これは、この川上に人が住んでいる里があるとみえる、行ってみようとして、水の流れに沿って谷間を上って二十里ほど行きますと、山奥へと入りましたので、梢で鳴いている鳥の声までも聞いたことのないもので、あたりを見回すと、桃の林が茂り合って、花が今を盛りと咲いていて、花の香りはあたち一面に満ちていました。劉虔はしばらく立ち止まって、思いも寄らないこのような山奥に、このような花の咲く場所があったのか、木立はとても鬱蒼としていて、木々に囀る鳥たちのいろいろな声も聞き慣れないものだ、ここはそもそも人間の住む世界ではなさそうだ、これは、常々話に聞く仙人の住む世界に違いないと思い至った時に、とても美しい女性が谷のほとりにやって来て、水を汲んで洗い物をする様子でしたが、劉虔を見付けて、とても喜んで、『あなたのおいでを永年お待ちしておりました。今日からはこの土地に住んで、私と夫婦になって、長生きをなさってくださいませ』と言って家に案内して、深く契りを結んで、二人の仲はこの上ない親しいものでございました。
 
 こうして劉虔は女性と結ばれて暮らしていましたが、どうしても故郷が懐かしくなって、山奥から元暮らしていた故郷へと帰ってみますと、女性と暮らしたのはほんの三年ほどと思っていたのですが、自分の家には七代目の子孫がいて、劉虔と巡り会ったのでした。劉虔は再び山に入って、以前の女性と会った谷を探しましたが、桃の林はありませんでした。
 このような話を聞いておりますが、この話の桃の林の土地は唐の国の仙人の住む土地でございます。ここ尾上は我が国の仙人の土地でございます。あなた様は平凡な普通の人ではいらっしゃいません。私もこの人間世界の者ではございません。長寿の松に心を寄せて不老不死の悟りを会得して、この世の生の楽しみを十分に味わうのです。今から後は、この土地にお留まりになられて、私と夫婦としての契りを結んで、私にいつまでも情けをお掛けください」と語られました。
 だんだんい夜が更けていくにつれて、松の梢を吹き渡る風も心があるように穏やかに吹き、千鳥の鳴く声が遠く聞こえていたのが、今度は近く聞こえます。これこそ、千鳥の鳴く声に潮の満ち引きが知れるという歌の趣意と合っています。二人は寄り添って夫婦の語らいをしながら添い寝をしていましたが、いつしか夜明けの雲が空に棚引いて朝を迎える時となったので、松高彦様はお起きになって、「このような一夜の添い伏しであっても、二人の契りはいつまでも変わるものではなく、末永く続きます。たとえ住む土地は遠く離れていても、常に親しく通えば、あなたと私との気持ちは決して離れません。あなたは女松という赤松をお植えなさい。私はそれに男松と呼ばれる黒松を植え添え、夫婦としての仲はいついつまでも続きます。二人の仲は何年経とうとも変わらないことを、この男松女松をその証として植えましょう」と仰って、二人で二本の松を植えて、松高彦様は住の江にお帰りになりました。
 それから後は、雨が降る日も雪の日も、たとえ嵐が激しい夜であっても、ひたすらに波を分けて一艘の小舟が雲のきれぎれの合間に見え、まるで人目を忍んで通う男性を見るようで形で、松高彦様は毎夜住の江から尾上の松が枝姫様のもとへとお通いになりました。
 この男女二柱のご夫婦の神がお手ずから植えられた女松男松の二本の松は、年月が経つにつれて同じくらいの若葉が出て、枝が伸び葉が繁ってすくすくと伸び、梢は雲を分け行っています。このように永い年月が経ちましたので、ご夫婦共にお年の寄ったお姿になられて、髪はすっかり白くなってしまいました。「それでは、この松の木の下に立って、若返りの音楽を奏することにしよう」と仰って、錦の褥を広げて、お二方でこの中にお籠もりになります。尾上の風の吹くのに合わせて、楽を奏するための調子合わせの笛の音が清み渡って高砂の浦に響くと、富士山と熊野山と熱田の宮を日本三神仙の山と申しますが、この山の神仙たちが我も我もとこの高砂の浦に集まって来て、その笛の音に合わせて音楽を演奏したので、海中にいる魚たちは音楽のあまりの面白さ、尊さに感動して、浦の岩場や波打ち際に集まってこの音楽を聴くというすばらしいことが起こりました。
 まことにこの不思議な出来事に起きたことは、夜明け方の月の入る西の方から紫の雲が湧いて空に棚引いて、その雲の中から吹き出す強い風が松を揺らして、夫婦二柱の神の体にと吹きかけると、お二人はすぐさま、若い時の御姿に戻られました。
 昔、住吉の明神が、宇治の橋姫にお通いになり、住吉の明神が宇治へとお通いになる時は、宇治川の流れが激しくなり、朝日山の風が激しくなったのがその証拠であると言われ。その通われた折の住吉の明神が詠まれた歌が、
  夜や寒き衣や薄き片そぎの行き合ひの間に霜や置くらん
  (夜が寒い、薄い衣で住吉の社から宇治への通い路に霜が置いているのであろうよ)
と、冬の夜をつらく思ってお詠みになったという話が伝わっていますが、実はこの話は、住吉の明神の宇治へのお通いではなく、松高彦様が住の江の社から松が枝姫様の尾上の社へとお通いになる時の冬の夜の激しい風の音に加えて、住の江へと夜明け前のお帰りの時に神社に霜が置くことをつらいとお思いになって、このようにお詠みになったもので、宇治への通いのことではございません。
 こうして、年月が過ぎ行くままに、お二人の神は飛行自在の身をなられて、天へと上られましたが、夫婦としての深い契りは植え置いた松にお残しになりました。男松女松二本の松は互いに伸びて、ますます枝葉を繁らせましたのを、土地の人々はこれを大切に守って、めでたい話の例として、相生の松と名付けました。『古今和歌集』の序文に、「高砂住の江の松も相生のように」と、高砂と住の江の松が共に仲良く生えているようにという意味で、今日まで連綿と続く御門の治世が、いつまでも続くものであるという譬えに書かれたのは、この二人の神がかつて植えられた相生の松のことであるとかいうことです。

 

参考 「相生松」と「尉と姥」

            (高砂神社<兵庫県高砂市高砂町東宮町190>ホームページ)
 古くから謡曲高砂」の『高砂やこの浦船に帆をあげて…』のめでたき響きによって親しまれている高砂神社は、その昔、神功皇后の命によって創建され、素盞鳴尊とその妃奇稲田姫、その皇子大国主命の三神をご祭神として祀られています。縁結びの象徴として知られた“相生松”が、高砂神社境内に生い出でたのは神社が創建されてまもなくのことでした。その根は一つで雌雄の幹左右に分かれていたので、見る者、神木霊松などと称えていたところ、ある日、尉姥二神が現われ「我は今より神霊をこの木に宿し、世に夫婦の道を示さん」と告げられました。これより人は相生の霊松と呼び、この二神を“尉と姥”(おじいさんとおばあさん)として今日めでたい結婚式になくてはならないいわれになったと伝えられています。
尉姥祭について
 尉姥祭のおこりは、天正年間、豊臣秀吉の三木討伐のどさくさにまぎれて、尉と姥の神像が行方不明になってしまいましたが、二百十七、八年ほどたった江戸時代の寛政七年(一七九五年)に、京都西御所内村の勝明寺という禅寺で、どうやら二神像があるという噂を、高砂の人が聞き込んできました。この寺では、寿命神といって、尊崇しているということでした。そこでさっそく、氏子代表の五十川氏と八木氏とが京都へ旅立ちました。寺僧に神像のいわれを話しましたが、檀家の人たちがうんといいません。それならばおみくじを作り、神様のお考えをお伺いし、神様の御心にお任せしましょうということになりました。このおみくじを引いたところ、再三のおみくじに「私は高砂の本社へ帰ろうと思う」と告げられ、村内の人々も皆、渇いた者が水を切望するように、二神を仰ぎ慕っていたので、間もなくご還座することが決定しました。
 その年の五月二十一日、京都所司代の命により還座祭が執り行われました。このことは世間に広く知られ、恐れ多くも御所から帝と関白殿下、公卿百官までが皆ご拝礼され、ご神像が高砂へ帰る様子は大変な有様であったようです。それより毎年、相老殿において、お面かけ行事が、五月二十一日に行われるようになりました。また、『おまえ百までわしゃ九十九まで共に白髪の生えるまで』と謡われています。“尉と姥”は平和の力と技術を表し、また慈愛と健康長寿の象徴として、結納品にも使われています。現在、高砂では、地域の伝統文化の象徴ともなっています。尉の持つ熊手(九十九まで)は寿福の象徴でもある相生松の松葉を掻き集める道具として、縁起ものになくてはならないものであるし、姥の手にする箒(掃ハク=百)は、清浄にする意味と厄を祓いのける呪術的意味があり、厄を祓い福を招き寄せることを表し、夫婦和合長寿を祈っています。