古浄瑠璃すみだ川 後編(四段~六段) 福福亭とん平の意訳

すみだ川 後編(四段~六段)

四段目
 梅若様が亡くなられ、土地の人々は梅若埋め若様の御遺言に従って、道の端に塚を築き上げ、墓の標として柳を植え、大勢の人が集まって念仏を唱えて、懇ろに梅若様の菩提を弔いました。今でも三月十五日には多くの人が参詣するということです。一方、酷い目に遭ったということでは、奥様が身を寄せた権の大夫の扱いが最たるものでありましょう。権の大夫は粟津の六郎俊兼の伯父でありましたが、奥様が着いたその夜にじっくりと考えると、吉田是定様から御恩を深くいただいてはいるけれども、春は花に、秋は紅葉にと遊ぶだけで、何の頼りにもならない奥方、さっさと追い出してしまおう重っいぇ奥様に対面して、「さて、奥方様、白川の吉田屋敷にいる松井源五定景のところから必ず討手がやって来ます。夜が明けてからお出になれば、人の噂になるでしょうから、今夜の内にさっさとお出ましください」と、つれなくも追い出します。雨宿りのために頼りとして入った木の下で雨が降り注いで濡れてしまうというのは、このことを表す譬えであるなと思いながら、奥様は泣く泣く権の大夫の屋敷を御出になります。吉田の屋敷から付き添ってきた女房は、あまりのお気の毒さに、途中の御坂までお供をして、「ここから都は近うございます。梅若様のお行衛をお尋ねください」と申し上げて、ここでお別れいたしますと暇乞いをして、名残惜しくも別れました。
 お気の毒に奥様は、醍醐、高雄、八瀬、大原、嵯峨、仁和寺と都の東西南北を見落とすこと無く梅若様の姿を尋ねましたが、その行衛は全く判りません。そのような時に、五人連れの旅の僧に出会いました。「私の子の梅若の行衛はご存じありませんか」とお尋ねになりますと、僧たちはこの言葉を聞いて、「行衛知れずになられたのはいつのことでありましょうか」と訊き返します。奥様は、「昨年の二月の末の頃に行衛が判らなくなりました」と涙を流しながら仰いますと、僧たちはこれを聞いて、「「おお、その二月の末の頃、大津の三井寺の近くで、東国から来た人買いらしい者が一人を連れて東へと通りましたが、その若者のことについては、東の方をお尋ねなされ」と言い捨てて、通って行きました。奥様はこの言葉を聞いて、「それでは梅若は東国へと売られたのであるか、ああ、情けないことじゃなあ」と言って地面に倒れ臥してお泣きになります。奥様が涙を流しながらあれこれと嘆き言を口にされるのは哀れです。それは、「おお、それよ、およそ人間の常として、多くの子を持ったとしても、どの子が可愛いと隔てをする心は持たぬ。この私は多くの子ではなく、可愛い子が二人、その二人ともに行衛が判らず姿が見えぬ。残った母はどうすれば良いのか、。ああ情けない、東へと捜し行こうか、私は年は重ねているが、まだ色香は残っているので、正気を失った女の姿になって出掛けよう」と一人口にして、しかるべき場所に立ち寄って旅の仕度を調えなさいました。
 お気の毒な奥様は、手早く旅仕度をなさいます。髪をあちこちへと乱れた形にして、笹の葉に垂を付けて肩に担ぎ、実の心は少しも狂ってはいませんが、人は気がふれた女と見るであろう形です。この妙な姿は何が原因かと言えば、皆我が子と巡り逢おうためと思えば、口惜しさは全くありません。八重一重、九重の都をいで発って、四条五条の橋の上、はるかに望む王城の鬼門に当たる比叡山、そこの林は祇園殿、祇園の林に群れ集う、浮かれ烏の黒い羽(は)の、飛び立つ時と同じくし、早くも浮かぶ峰の雲、ここは仏の説かれたる教えの花が開くはず。直ぐに我が子に巡り逢う、所の名前も粟田口、その名を聞くも頼もしい。逢坂の関の明神伏し拝み、内出の浜へと足は向く、三井のお寺を訪ねれば、宵から未明の時までの絶えぬ読経の声々は、身に沁みいるばかり有難い。鐘楼堂を見上げては、この鐘の音がとうとうと、浪に響いて疾く疾くと、磯千鳥鳴く松本を、すでに過ぎ行きその思い、気は急くばかり瀬田の橋、その唐橋をどしどしと足音高くうち渡り、世を見下ろして鳴く鶴は、子を思うゆえ鳴くのかと哀れに思う母心。立ち寄る木の下袖濡れて、裾には露散る篠原を、はや通り過ぎその姿、見ながら通れ鏡山、誉れは高い武者の名に御咎通ずる武佐の宿、愛知川渡れば千鳥飛ぶ小野の宿、そこを過ぎれば磨針峠、涙流して急ぎ行く。浅い眠りに夢覚める醒が井の寝物語をもはや過ぎ、美濃の国のと名の高い、野上の宿に着きました。
 お気の毒な奥様は、ここで、「とかく人間という存在は、故郷へは錦を着て帰るものという古来の言葉があります。一方私は、子ゆえの闇に理性を失って、このような情けない姿で故郷に帰るというのは情けないことです。おおよそ、この世に生まれて八相を示されて悟りを開かれた釈迦牟尼如来でさえも、子のために迷いの闇に沈み、また訶梨帝母と言う人は千人の子を火持っていましたが、その中の一人と別れる時に、子全員と別れるのと同じ嘆きがありました。およそ人間という存在は、多くの子をもっていても、どの子にたいしても分け隔てないもの、私は多くも子を持ってはいませんが、愛しい子を二人とも行衛知れずとし、この母はこの世でどうなるであろうか判らない、一本だけ立つ松のような便り無い存在です。これこれ、この世に紙も仏もいらっしゃらないのか、生きている内にこの世でもう一度、我が子の梅若に巡り会わせてくださいませ」と深くお祈りをさって、四方に礼をなさって、また身も世もあらずにお泣きになります。実が生るという美濃の国、花が薫るの薰(くん)の字に通う名前の杭瀬川、夏暑とかの熱田の宮、涙の露は置かないと、岡崎の里通り過ぎ、だんだん今は涙がない浪の堤、竹のささらがざざんざと吹く浜松のその風は、袋に収める袋井の紙に祈りを叶えてと、願いを兼ねる金谷の宿、辛い思いを大いに流せ大井川、島田藤枝もう過ぎて、尋ねて聞けば鞠子川、三保の松原清見寺、これこれ我が子梅若を夢になりとも見せよとて、三島の宿から足柄箱根、これらの宿を通り過ぎ、相模の国に名の高い、老いぞと響く大(お)磯(いそ)宿、恥ずかしながら我が姿、宿の名聞けばつまらない、早、藤沢にお着きある。かたびら宿で帷子(かたびら)を、着るではなくて来てみれば、今は夏かと思われて、秋にはすぐになるのかと、先行きそびれる神奈川宿、川崎過ぎて六郷橋、世の中の悪いことがら致しそう、その品川を通り過ぎ、濁ったこの世を離れ行く、厭離穢土とは同じ名の江戸ある武蔵と下総の境を流れるすみだ川、埋め若様の母上である奥様はこのすみだ川にお着きになり、あちらこちらと立ち寄られなさいます。この奥様の御様子は、空しいという言葉だけでは言い表せる者ではございません。

五段目
 お気の毒に母上様は、梅若丸様の行衛を尋ね尋ねして、今はもう、武蔵と下総の国の境にあるすみだ川へとお着きになりました。ちょうど向こう岸へと渡る舟がありました。「もし、船頭殿、私も舟に乗せてくださいな」と声を掛けます。船頭はこの声に、「言葉を聞くと都の人だが、姿を見ると気がふれた者だ。妙なことを面白くやって見せろ、そうしなければ舟には乗せない」と答えます。奥様はこれをお聞きになり、「これこれ、船頭殿、たとえ都離れた東の辺鄙な所であっても、このような風雅な場所にお住みなのだから、優雅な心をお持ちくだされ。この時刻、今は川水に映る月をご覧なされ。風は波を起こしても、真実を照らす月を曇らすことはできないもの。そのように私の姿はどうあれ、心は狂っておりませぬ。それなのに、妙な振る舞いをせよとはつれない人じゃ。馬に乗らずに来たこの私、もう疲れ果てておりまする。ここは名所の渡し場でそなたは風雅な船頭殿、私は正気を失って騒ぐ様子は見せてはいるが、もはや日が暮れる時なのに、舟に乗れとは言わないで、妙な振る舞いいたせとは、情けを知らぬお人じゃな。とにもかくにも、私が乗れば舟の中が狭くなろうが、そこを何とか乗せてくだされ船頭殿。お頼み申す船頭殿」と頼みます。船頭はこの奥方の言葉を聞いて、「ああ、私が悪かった、お前さん。姿に似た優美さじゃ。今はソナタの力になろう、乗りなされ」と出しかけた舟を漕ぎ戻し手、乗れるようにしましたので、奥様は舟にお乗りになり、向こうの岸を見渡すと、川岸に植えられた木のもとに、人が多く集まっていました。
 奥様は向こう岸の人の集まりを御覧になって、「これ船頭殿、あちらに人が多く集まっているのは、この私を待って、妙な振る舞いをさせて見ようということなのですか」と尋ねます。船頭はこの言葉を聞いて、「あれは大勢の人が集まって念仏を唱える大念仏というものでございます。この舟に乗っている人のほとんどはご存じないでしょう
。この舟が向こう岸に着くまでの間に、あの大念仏の言われ因縁をお聞かせ申しましょう。皆さん、よくお聞きなさい。事が起こったのは昨年の三月十五日、まさに本日に当たっています。年頃十二三歳の幼い人が、とても重い病になって、この川岸に倒れ臥していらっしゃるのを、この土地の人々が集まって様々に看病いたしましたが、ただ弱る一方になってしまし、もう今はの際と思われた時に、『あなたはどの土地のどういう方か、お話しください』と尋ねたところ、、その時に子の幼い日とは苦しそうな息を吐いて、『私は、都の北白川の吉田家の者、名は梅若丸と申します。人買いに攫われてこのような姿になってしまいました。都には母上が一人でおいでですが、この梅若の消息を尋ねてくる人がありましたら、私の身の上を語って伝えてくださいませ。亡き後は、道のほとりに墓の塚を築いて、墓所の標に柳を植えて、名を記した札を立ててくださいませ』と静かに仰って、とても殊勝に念仏を唱えられて、とうとう亡くなられてしまいました。この舟の中に都からの方もおいでのようですな。逆縁ではありますが、念仏を唱えてください、皆様。思わぬ物語をしているうちに舟が着きました。皆様岸へお上がりくだされ」と話しますと、舟の中の人々は、「さても不憫なことなことじゃ。逆縁ではあるが念仏を唱えよう」と言いながら、それぞれ舟から岸へ上がりました。
 お気の毒に奥方様は、舟から上がらずに、舟の縁にもたれて下を向いたまま、ずっとお泣きになっていらっしゃいます。船頭はこの姿を見て、「心優しい女(おな)子(ご)じゃ。今の物語を聞いて、そのように多くの涙を流されるか。皆と一緒に舟から上がってくださいよ」と言います。奥方は顔を上げ、「お尋ねします、船頭殿、今のお話は、いつの出来事。その者の家は何と申された」とお尋ねになります。船頭は、「吉田とかいう家の梅若丸と言いました。あなたも都から来た人ならば、早く舟から上がって念仏をお唱えくださいよ」と話を繰り返しました。お可哀想に奥方様この話をお聞きになって、「これもし船頭殿、これまでその子のことを親類縁者や親が尋ねて来なかったのは当然のことなのですよ。というのは、私がその母親だから、やっと来たのです」と、今にも死んでしまいそうにお泣きになります。通りすがりの人もこの問答を聞いて、なるほどもっとよ、気の毒なと言って涙を流さない人はいません。
 船頭は涙をこらえて、「先程までは話を聞いてお泣きになっていると思いましたが、あなたご自身のお嘆きでありましたか。どのようにお嘆きになっても、もう取り返しのつかないことでございますから、御菩提をお弔いなさい」と勧めませと、奥様は泣きながら舟からお上がりになって、塚のところに倒れ伏して、しみじみと語りかけるのがお気の毒でございました。「これ、梅若よ、そなたに逢おうそのために、都からここまで遥々と下って来たのじゃ。それなりに、そなたはもはやこの世に亡く、その墓の標だけを見るのじゃな。ああひどいこと、戦のもめ事に巻き込まれて生まれ故郷を離れ、東国で命を落とし、道のほとりの土となり、この塚の下に埋められている我が子がいる。どうかもう一度、生きていた頃のそなたの姿をこの母に見せておくれ。ああ、何とも思うにまかせない辛い世じゃなあ」と大きな声でお嘆きになります。土地の人達はこの母上の嘆きの声緒を聞いて、「とにもかくにも、念仏を仰いませ。亡き方もお喜びになるでしょう」と叩き鉦を母上に持たせて念仏を勧めますと、母上はやっとのことで起き上がって、逆縁ではあるけれど、それでも我が子の供養のためと聞くのだからと、鉦を鳴らして、「南無阿弥陀仏」と声を上げると、人々も一緒に念仏を上げました。母上はふと鉦を叩くのを止めて、「これ、皆様、幼い者の声で念仏が聞こえたのは、間違い無く塚の中からと聞こえました。ますます念仏を唱えてくださいな」と仰ると、土地の人々はこの言葉を聞いて一斉に自分たちの念仏を止めて、「お母さんだけお唱えください」と答えます。は笛はなるほどもっともなこととお思いに成り、さらに鉦を叩いて、「南無阿弥陀仏」と唱えられると、塚の中から幼い人の念仏の声がして、それと同時に梅若丸の塚の標の柳の陰から、子どもの姿が現れました。
 母上は幼い子の姿が見えたのがあまりに嬉しくて、鉦と撞木をがらりと投げ捨てて、幼い子に抱き付こうとなさいますと、幼い子の姿はすぐさま消えて、何もありません。再びぼんやりと姿が見えましたのを、「そこにいるのは我が子梅若丸か」「母上様か」と、同時に声を掛け合いましたが、あるで陽炎や稲妻、水に映る月のようで、目には見えても手には取れず、手を触れようとすると、姿が現れたり消えたりしています。もはや東が明るくなって夜が明けていきますと、そこにはただ柳だけが残っています。母上はあまりの辛さ悲しさに、柳の木にしっかりと抱き付いて、「この世の名残にもう一度、姿を見せておくれ、やあ梅若よ、梅若よ」と塚の上に倒れ伏して、「私も一緒にそちらに連れて行けよ」とお泣きになられたところ、土地の人々の中から一人のお坊様が進み出て、「お嘆きになるのはもっともですが、お子様の菩提をお弔いなさい」と、優しい労りの言葉をかけました。母上は涙を止めて、「お坊様のお導きはとても有難いことです。今はもう嘆いてもドウしようもありません。亡き子の後世を弔ってやるために、私の姿を変えて尼にしてくださいませ」とお願いします。お坊様は、「たやすいことでございます」と仰って、塚のほとりで母上の豊かで美しい黒髪を剃り落として尼の姿にし、名を妙喜比丘尼と改めました。浅茅が原に庵室を建てて、花を摘んで仏前に供え、香を焚いて念仏を唱えていました。この浅茅が原にある池に月が映るのを御覧になって、この円満な月の姿こそ親子一緒にいる円満な悟りの姿であると一心に思って、西の空に向かって、沈み行く月を見て、梅若よ、さあ、私も一緒に行こうと言ってこの池に身を投げ、とうとう亡くなられてしまいました。この母上の御最期の有様は、ただ哀れとという言葉だけでは表せるものではありません。

六段目
 さて、話は変わって、梅若丸と共に京の北白川の吉田の屋敷を抜け出て、途中の山中で病気になって梅若丸とはぐれてしまった粟津の二郎俊光は、梅若丸の行衛を四国九州へと尋ねましたが、その消息は全く知れません。それでは許に戻って、琵琶湖の大津の港を探してみようと、近江の国を目指して足を速めました。千鳥鳴くという篠宮河原を通りましたら、家を乗っ取った松井の源五定景の家来の山田の三郎安親が小鳥狩をしていました。俊光はこの様子をはっきりと見付けて、これぞ天の与えであると喜んで、急いで安親のいる谷底へと走り下りて、安親の首を討ち落としました。安親の家来たちは俊光を逃がすものかと追い掛けます。俊光があわや討たれるかというその時、山伏が一人やって来て、俊光を摑んで、空中高く飛び去りました。
 俊光を摑んで飛び上がった山伏は、相模の国に名高い大山不動にと俊光を下ろして、「われは四国からの使いである・ここの不動尊に祈って願え」と言い置いて、姿はたちまち消えました。俊光はこの山伏の飛び去った跡を伏し拝んで、「梅若丸様が御存命か否かをお知らせください。それが叶わないものならば、この俊光の命を取ってください」と願って、最初の七日間はその場を去らずに立ったまま祈り、次の七日間は水を浴びて祈り、次の七日間は断食をいたしました。不思議なことに、これらの行の期間が満ちる二十一日目の明け方に、大地が震動し、草木が風に吹き乱れて、愛宕山の大天狗、讃岐の金毘羅大権現、大峰の前鬼一族など、大天狗に天狗たちが行衛知れずになっていた松若様を連れてきて「これ俊光よ、その法、主君に忠義な者であるので、松若を返しつかわすのである。松若の母も兄の梅若も、武蔵と下総両国の境であるすみだ川で亡くなってしまったのである。その方、松若の将来を末永く守護せよ」と言って、天狗たちは天へと上って行きました。お気の毒なのは松若様、この話をすっかりお聞きになって正体なくお泣きになります。俊光が、「づはこれから都へと上り、日行阿闍梨の許へ行ってお願いして宮中へ参内してこれまでのいきさつを申し上げた上出、お家の仇の松井の源五を討ち取って、その後に亡くなられた母上様、兄上様の菩提を弔いなさいませ」と申し上げます。眉若様は俊光の言葉をお聞きになり、「それが良い、そうしよう」と仰って、俊光を共にして、都を指してお出掛けになります。
 松若様ご一行は都に到着され、日行阿闍梨に対面さって、これまでのできごとの伝えると、日行阿闍梨はお聞きになって、涙を流されます。「それでは、このことを申し上げに内裏に参ろう」とおおせになり、松若様を連れて宮中へと出掛けます。天皇様にこれまでのいきさつを細かに申し上げます。天皇様の御言葉が取り次がれ、長い間の艱難辛苦はさぞ残念なことと思うであろう。この度すべてを決着させた時の褒美として、殿上できる四位の位を与え、領地として下総の国を与えられました。松井の源五定景を討伐せよということで、屈強の武者五百騎を与えられました。松若様はこの仰せをありがたいこととして退出し、粟津の二郎俊光を討伐軍の大将として北白川の吉田の屋敷へと押し寄せて、戦始めの声を上げました。屋敷の中の松井源五定景は驚いて山道を指して逃げて行くのを、軍勢はすぐに捕まえて、その首を討ち落として捨てました。そののち、松若様は多くの武者を供として引き連れて、下総を指して下られました。松若様は下総の国にお着きになって、父母のために、また兄の梅若様のためにもと、十分に菩提を弔われました。松若様は下総で大奥の屋形を建て並べて、とても華やかにお過ごしになられ、そのめでたいことでありますと、その素晴らし母簡単な言葉だけでは言いつくせないものでございます。

参考1 謡曲『角田川』 以下は新潮日本古典集成(の伊藤正義校注)によります。
登場人物 シテ 狂女、 子方 梅若丸、 ワキ 渡し守、 ワキ連 旅人
構成とあらすじ
・渡し守の登場 隅田川の渡し守(ワキ)が旅人を待ち、また大念仏の行われることを告げる。
・旅人の登場 旅の男(ワキ連)が都より下り、舟に乗ろうとする。
・渡し守・ワキ連(旅人)の応対 男は後方のざわめきが都から来た狂女のせいだと告げ、渡し  守は狂女の到着を待つ。
・狂女の登場 狂乱 狂女が人商人に拐かされたわが子を慕って狂乱、都より尋ね求め て隅  田川に到る。
・狂女・渡し守の応対 渡し守に狂いを求められあ狂女は、川面の都鳥を見て遥かに恋しき人  への思慕の身を業平の東下りに重ね合わせて乗船を懇請する。
・渡し守の物語り 旅の男は対岸のざわめきを不審し、一同を乗せた渡し守は、船を漕ぎつつ、  人商人に拐かされた梅若丸の死とその大念仏のことを物語る。
・渡し守・狂女)応対 船が着岸しても狂女は下船せず、渡し守が語った梅若丸が我が子である  ことを確認して絶望する。
・狂女の詠嘆 塚の前に導かれた狂女は、愛児の無慚さに慟哭し、無常の悲嘆に昏れる。
・狂女の念仏 念仏を勧められた狂女は、人々と共に鉦鼓を打ち鳴らし念仏する。声の中に梅  若丸の念仏の声が聞こえる。
・狂女の嘆き 母ひとりの念仏に亡霊となった子方(梅若丸)が姿を現すが、かき抱くことの出  来ぬ悲しさの中に、草茫々の隅田川の夜明けとなる。

参考2 梅若塚のほとりに梅柳山木母寺があります。同寺のホームページから御案内します。
〇宗旨・天台宗 〇山号・梅柳山 〇寺名・木母寺(別名 梅若寺)
〇本尊・慈恵大師(別名 元三大師) 〇総本山・比叡山延暦寺
 木母寺は平安時代中期の貞元二年(九七七)天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建てられた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。
 当寺に今も伝わる梅若伝説は、平安時代、人買にさらわれて、この地で亡くなった梅若丸という子供と、その子を捜し求めて旅に出た母親にまつわる伝説があります。この伝説を元にして、後に、能の隅田川をはじめ歌舞伎、浄瑠璃、舞踊、謡曲、オペラなど、さまざまな作品が「隅田川物」として生まれていきました。この隅田川物を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣」を行ったことから、芸道上達のお寺として広く庶民の信仰を集めるようになりました。
 毎年、四月十五日は梅若丸の御命日として、梅若丸大念仏法要、古典芸能である「隅田川」の芸能奉納及び梅若忌芸能成満大護摩供を執行します。
 【梅若念仏堂】このお堂は、梅若丸の母、妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設したものであるといわれています。四月一五日の梅若丸御命日として、梅若丸大念仏法要・謡曲隅田川」・「梅若山王権現芸道上達護摩供を開催します。
【梅若塚】能・歌舞伎・謡曲浄瑠璃等の「隅田川」に登場する文化的旧跡です。
 貞元元年(九七六)梅若丸が亡くなった場所に、僧の忠円阿闍梨が墓石(塚)を築き、柳の木を植えて供養した塚です。江戸時代には梅若山王権現の霊地として信仰されていました。