古浄瑠璃すみだ川 前編(初段~三段) 福福亭とん平の意訳

すみだ川 前編(初段~三段)
初段
 その時をいつかと考えますと、本朝第七十三代の堀河天皇の時代と伺っております。都の北白川に吉田の少将是定様という位の高いお方がいらっしゃいました。是定様は身分が高いことを誇ることはせず、心には五戒を保って、振る舞いは神への信心を大切にしていて、詩歌管絃の多くの芸能にも通じていました。その名声は世に響いています。お子様を二人お持ちです。ご長男を梅若丸と申し上げて、十一歳にお成りです。次のお子様は松若様と申し上げて、九歳におなりです。お二人ともお姿は花のように美しく、一言ごとに仰る可愛らしさはに、ご両親の可愛がりようはこの上ありません。
 あるとき、是定様は奥様をお呼びになって、「これ、そなたよ、お聞きなさい。しみじみと考えると、人grんの一生というものは、風の前の雲と同じで定めないもの、命は火打ち石の火花のように一瞬のものです。そこで、二人いる子どものうちの一人を出家させて、後世の菩提を弔わせようと思うのだが、どうであろう」と仰います。奥様は「仰せはごもっともです。二人の内の一人を出家にとの仰せですが、梅若は長男ですから、吉田の家を継がせましょう。松若よ、そなたはまだ若年であるから、学問をさせるために比叡の延暦寺へと上らせることとする。栴檀は二葉より芳しよ言う通り、ソナタには才があるのであるから、十分に学問を究めて、吉田の家の名を高くせよ」と仰って、山田の三郎安親を世話役としてお付けになりました。山田は松若様のお供をして、比叡山延暦寺が吉田家の縁ある御寺でしたので、日行阿闍梨の一番のお弟子になられて、毎日少しも怠らず学問をなさいましたので、生まれ付き利発なお生まれえしたので、その年の暮れには、仏教にも仏教以外のことがらに通じました。ですから、松若様は伝教大師様の生まれ変わりとしてその才を崇めない人はいません。
 このようなことで松若様は、あらゆる学問に優れていることは比叡山中に知れわたりましたので、いつの間ニか、自分を誇る心が出てきたのか、仏神の罰が当たったのでしょうか、どこからとも判らず山伏が一人やってきて、「さて、どうです、松若殿はきっと連日の学問に心が疲れておいででしょう。私の家に来て、気持ちを休めなさい」と言って、そのまま松若様を摑んで空の彼方へと飛んでしまいました。山の人々は驚いて、様々の議論をいたしましたが、相手は天狗のことですので、その行衛はさらに知れません。日行阿闍梨が驚いて、「どうしたらよかろう」と仰いますと、お付きの安親は「私はまず吉田へと帰って、このことを報告してきます」と言って、阿闍梨に下山の許しを得て、北白川の吉田の屋敷に帰って、是定公にお目に掛かり、比叡山で松若様が攫われた状況をお伝えしました。是定様も奥様も、「これはいったいどうしたことか」と言って、悲しみに叫びました。しばらく経って是定公は、涙の合間に、「松若の定まった運命とは良いながら、こんなことが起こると前もって知っていたならば、松若を比叡山に上らせることはしなかったものを。可哀想な松若よ、恨めしい憂き世じゃなあ」と繰り返し口になさってはお泣きになられました。
 お気の毒な是定様、近頃は風邪のご様子と仰られていましたが、松若様が行き方知らずになったという知らせをお聞きになってから、食事を召し上がることがなくなって、だんだんに体が弱られてしまいました。奥様や梅若様が病床近くにいていろいろと看病をなさいましたが、御寿命となる病気でしたのでしょうか、病は重くはなりますが回復の兆しはありません。是定様がもはやこれまでと思われる時に、弟の松井源五定景、家来の粟津六郎俊兼、山田三郎安親をお呼びになり、「これ人々、我はこの世の縁が切れて、もはやこれまでだ。梅若はまだ幼い。十五歳になったなら宮中へ参らせて、吉田の家を継がせてくだされ。それまでの梅若の養育は弟の定景に任せる。粟津六郎と山田三郎の二人の家臣は定景に力を貸して、梅若を盛り立ててほしい。さて、梅若よ、この父がこの世にいなくても、母に孝行をして立派に成人して、吉田の家の名を挙げてくれよ。今はこれまで、奥よさらば、名残惜しい梅若よ」と言い遺して、一艘声を挙げて念仏を唱えて、はかなく亡くなられてしまいました。
 奥様も梅若様も、是定公の逝去に何もすることができず、是定公を恋い慕い、この上なく涙を流されました。奥様が、「はかないことです。この殿様と美濃の国の片ほとりで出会って親しくなって以来、いつもお傍にいた私なのに、殿様は冥土への旅をとぼとぼとお一人で、さぞ寂しくいらっしゃるでしょう。私も一緒にお連れください」と、亡きがらに抱き付いてお泣きになられました。そうは言ってもできないことですので、遺骸を涙と共に野辺に送って火葬に付して、屋敷へ帰って葬儀を懇ろに弔いました。梅若君の親子の別れに奥様の夫婦の別れが重なって、並々ならないご一家のお嘆きに、奥様と梅若様の心の内は、哀れという言葉だけではとても言い表せるものではありません。

二段目
 是定様が亡くなられた後、奥様や梅若様は是定様の葬儀をされて、七日七日の忌日ごとに菩提を弔われていらっしゃいました。亡くなられたのが昨日のように思われましたが、月日はいつの間ニか過ぎて行き、早くも三年となり、梅若様は早くも十三歳におなりになりました。父上の是定様の菩提を明け暮れ弔われるお気持ちは感心なものでございます。
 お二人はこのようですが、一方、是定公の弟の松井源五定景は、しみじみと将来を考えると、梅若が十五歳になったあんる、家を継ぐ為のお目見えをさせたなら、自分はこの家の家臣として一生日陰の身となって暮らすのも情けない、いっそのこと梅若丸を亡き者にして、この吉田の家を自分が序で、花やかな暮らしを使用との悪巧みをするのは恐ろしいことでございました。松若様のお付きであった山田三郎を近く呼んで、「これ、安親殿、あなたを頼りにすることがござる。お力をお貸し下さるならお話しますが、いかが」と言いますと、山田三郎はこれを聞いて、「どんな事でも承ろう」と言います。定景は喜んで、「格別の事ではござらぬ。梅若丸を殺して、この吉田の家を我が継いで、貴殿にも多くの褒美を与えようと存ずる。山田殿いかが」と言います。山田三郎はこの言葉を聞いて、「お声が高いですぞ、我がお味方仕れば、誰に恐れがありましょうか。若君付きの粟津の六郎俊兼は、大の酒飲みでありますから、酒をたくさん飲ませて我々の考えを細かに申し聞かせて、それを受けないならば、その場で討ってしまえば差し支えがござるまし」とこたえましたので、定景は答えを聞いて、「それなrば、貴殿はお帰られよ。後は私がいたしましょう」と言って、色々な酒の肴を用意して。粟津の六郎に使いを立てます。六郎はすぐさま参って定景に対面します。
 定景は、やってきた粟津の六郎俊兼には何も言わず、まず真っ先に酒を次々と勧めておいてから人払いをして、「これこれのことを考えているから、味方になってほしい」と申します。俊兼は聞いて驚きましたが、そしらぬ様子で、「ああ、恥ずかしいことよ、私がどう思うかを試そうとなさるのか」と言います。定景は聞いて、「なに、どうして噓を申しましょうか。山田三郎殿も同じ気持ちで、たった今お帰りになったばかりですぞ。ご承知いただけませんか」と言います。俊兼は居住まいを正して、「これ定景殿、梅若様はあなた様の甥ではありませんか。この俊兼はそのようなことを聞くも耳の穢れ」と太刀を抜いて定景を斬ろうとします。定景は命からがら逃げます。俊兼は追いかけてここで定景をうとうか、いや待てよ。山田三郎めが後ろから攻めてくるかもしれないから、先に奥様あ梅若様にこのことをお知らせしようと、急いで吉田の屋敷へと帰りました。俊兼はお二人の御前に参って、涙を流しながら、「松井源五定景殿が山田の三郎と心を合わせて、梅若様を亡き者にして、吉田の家を我が物にしようという企みをなさり、私めにまで味方をせよよ言われたましたが、私はその場を蹴って帰って参りました。彼らは必ず夜討ちにくるでしょう。お支度ください」と、ため息混じりに嘆きました。奥様と梅若様は是をお聞きになって、これはいったいどういうことなのかと、気を失うばかりにお嘆きになります。俊兼はお二人のこの姿を見て、自分がしっかりしなければいけないと、まず奥様を逃がしてしまおうとお供をして、西坂本にいる伯父の大夫を頼ってそこにお隠しして、それから吉田の屋敷へと引き返して、侍や中間百人ほどと一緒になって、攻めてくる敵を待ち受けました。
 さて一方、松井の源五定景は、粟津の六郎俊兼に脅されて、まだ震えが止まりません。山田の三郎安親を呼び出して、「俊兼は味方にならなかった。どうしたらよかろうか」と言うと、山田はこれを聞いて、「時が経ってはよろしくない」と、三百余りの軍勢で北白川の吉田の屋敷に押し寄せて、戦始めの鬨の声を挙げました。屋敷の内では、すでに予想をしていたことなので、俊兼が櫓に駆け上がって、「なに、攻め寄せて来たのは定景の軍勢と思うぞ。無駄な戦をいたすでなく、さっさと引き揚げよ」と答えます。その時に、攻め寄せた山田の軍の中から武者が一人進み出て、大声で名告ることに、「ただ今ここに進み出た我を誰と思うか、定景公の家来の兵庫の介とは我のことだ。侍とは主を変えて生き抜く者じゃ。貴様ら降参してこちらに付け」と叫びます。俊兼はこれを聞いて、「お前は三代に渡って大恩受けた主君を忘れて、その方に敵対するとは、狐武者とでも言う者じゃ。この矢を受けてみよ」と言いながら、弓をきりきりと引いて射ます。哀れにも、その矢は兵庫の介の胸にはっしと命中して、兵庫の介ははかなく死んでしまいました。
 この矢を戦の始めとして、敵味方が入り乱れて、激しい戦になりました。とは言っても、攻め寄せた定景方は大勢で、屋敷方は早くも皆討たれてしまいました。俊兼は梅若様のところに来て、「早く落ち延びなさいませ」と申し上げます。梅若様はお聞きになって、「そなたは決して腹を斬って死んではならぬ。早く抜け出て我のもとへ参れ」と仰って、粟津の三郎を引き連れて裏の門から屋敷を出られました。俊兼は櫓に上がり、「これ、寄せ手の奴ども、騒がずに静かに聞け。梅若様も切腹なさたt。勇猛な武者が腹切る様をそなたたちの手本にせよ。腹はこう切るものぞ」と良いながら、鎧の上帯を切って捨て、腹を切るように見せかけて、裏の門から抜け出ようとするところを、大勢が攻め寄せて捕まえられてしまいました。俊兼の心の内は、無念という子四羽だけでは表せないくらいでした。

三段目
 まことに無慈悲なことに松井の源五定景の家来たちは忠義な粟津の六郎俊兼に縄を掛けて、定景の前に引き出します。定景は俊兼を見て、「これ俊兼、貴様は我に心を寄せていれば、このような縄目に掛かることもなかったであろうに。さ、梅若は死んだのか、それともどこかへ逃げ延びさせたか、素直に言ってしまえ。どうじゃどうじゃ」と言いますと、俊兼はこの言葉を聞いて、「なんだ定景、おのれは是定様から受けた御恩を忘れて、このような反逆の悪事を行うのか、この報いはすぐさま貴様に向かうであろう」と言います。定景は大いに腹を立てて、「こやつはとにかく死にたいと見える。さっさとこの世に別れをとらせてやれ」と明治、家来は「畏まりました」ということで、白川のほとりへ俊兼を引き出して首を斬り、獄門に掛けて曝しました。その首に添えられた札には、「この者は悪事を企みしゆえに斬首し、ここに曝すものなり」と書かれましたのは、哀しいことでございました。定景は俊兼の曝し首を確かめに来ました。異議なことにこの首が目を見開いて、「これ定景、悪心など持たないこの我のことをこのように札に書いたが、三年の内に貴様らをこのようしてやろう」と言うや否や、首は天へと上がって行きました。定景はぶるぶると身震いをしながら自分の屋形へと帰りました。
 さて粟津の六郎俊兼のことはここまでです。一方、梅若様は、俊兼の子の粟津の二郎俊光を供として、母である奥様の逃げ延びた西坂本へ行こうと、山道を辿って逃げて行きます。道の暗さは真っ暗で、あちこちと道に迷いましたが、日が昇ってだんだんにあたりが白み始めた明け方に、俊光は風邪を引いたようで、一歩も進むことができなくなって、木の根を枕にして倒れてしまい、もはや最期の様子に見えました。梅若様はこの様子を御覧になって、「これ、俊光よ、そなたの父は生き神様とまで言われた者であるのに、その子がこのように情けない姿になるのか。どうか母上の出でになる所まで、何とかして連れて行ってくれい。そなたが死んでしまたtら、この私はいったいどうなるのじゃ」と、この上なく涙を流されます。時が経ち、もう日が昇り、あたりがはっきり見えるようになりましたので、梅若様は谷に下って水を探して、衣服の袂に水を含ませましたが、谷からもといた峰までははるかに離れていましたので、梅若様は道に迷って獣道に入って迷ってしまって、あちらこちらと歩いていらっしゃいました。そのようなところへ奥州の人買い上人がやって来て、「これ、若君様、私が御案内いたしましょう」と無理矢理梅若様の手を引いて、遥か離れた遠い土地へと足早に立ち去ってしまいました。梅若様のお気持ちはなんともお気の毒でございました。
 横たわっていた俊光は目覚め、体を起こして当たりをみれば、梅若様はおいでになりません。それでは若君は坂本へとおいでになったのかと、坂本へと急いで行きました。奥様はやって来た俊光の姿を御覧になって、「これ、俊光、梅若丸はどうしたのじゃ」とお尋ねになります。俊光はこの言葉に、「はい、私めは白川から梅若様のお供をしてこちらへ参る途中で風邪気味となって、しばらく横になって眠ったときに、梅若様を見失いました。もしかしたら梅若様は獣道に踏み入れて迷っていらっしゃるのかもしれません。探して参ります」と奥方の御前から下がって、これまで来たの山道を谷底まで隈無く探しましたが、梅若様の行衛は全く判りません。俊光は、このまま梅若様が見付からずに奥様のところへもどれば、奥様はさぞお嘆きになるであろう、梅若様の行衛をどこまでも探そうと考え、そのまま日本国中を探す旅に出てしまいました。その思いは哀れなものでございました。
 徳にお気の毒であったのは、若公梅若様の身の上でございます。商人に連れられて、大津の打出の浜を過ぎて瀬田の橋を渡り、東国を指して足を速めさせられます。梅若様は商人を御覧になって、「どちらへお出でになるのですか。山の中には家来の俊光を置いたままです。あなたは私を西坂本へ連れて行ってくださらないのですか」とお尋ねになります。商人は聞いて、「うるさいことを言う餓鬼だな、早く歩け、急げ」と手を引っ張ります。梅若様はこれを聞いて、「さてはお前は人さらいだな。そんなこととは知らなかった」と行って、腰の刀に手を掛けて切ろうとすると、商人はこの手を取って梅若様を組み伏せて刀を奪い取り、梅若様をさんざんに打ち叩きます。おかわいそうにまだ十三歳の梅若様は、大の男に押さえつけられて、「これ、商人さん、私は都の者なのです。東へと連れて行かないで、亜子へ連れ帰って下くださいよ、お許しください、商人さん」と、涙を流されてひどくお泣きになります。商人は「勝手なことを言う小僧だ」とさんざんに打って引きずって、「さっさと歩け、歩け」と責め立てるのは、地獄で獄卒が罪を犯した亡者をを痛めつけるのと比べても、この商人の邪慳なやり方には及ばないほどです。このようにして梅若様を引き連れて行くと、すみだ川に着きました。
 お可哀想に梅若様は、慣れない旅に加えて、杖で酷く叩かれて、足のあちこちが傷だらけになて、赤い血まみれになってしまいました。もはや一歩も踏み出せなくなってしまいましたので、すみだ川の岸に倒れて横たわっていらっしゃいます。商人はこれを見て、「どうして歩かないのだ、急げ急げ」と引っ張ります。お可哀想に梅若様は、左を下にしてがばと倒れられます。そけぼうとしても声も出ません。商人はますます腹を立てて、死んでしまえとばかり梅若様を叩き伏せて、そのまま放り出して東へと下って行ったのは、つれない仕打ちと見えました。このような気の毒な仕打ちに遭っている時に、土地の人々が集まって、梅若様を見て、「由緒ある方とお見受けします。どちらの方でいらっしゃいますか。お名前をお聞かせください」と言います。梅若様はお聞きになって、この上なく苦しい様子で息を吐いて、「情けある優しい人たちですね。何をお隠しいたしましょう。都の北白川の吉田の少将是定の長男の梅若丸とは私のことです。人買い商人に欺されて、このようになり果ててしまいました。私がここに連れ去られたのだ、都においでの母上様、さぞかしお嘆きのことでありましょう。ですが、今はもうどうしようもありません。私が空しくなりましたら、道のはたに墓を作って、私の墓の標として柳の木を植えて、名を記した札を立ててくださいませ。ああ、お懐かしいお母様」という言葉が、最期の言葉となって、十三歳という年の三月十五日に、はかなくなられてしまいました。この梅若様の御最期は、お可哀想という言葉だけでは言い表せるものではございません。