師門物語 福福亭とん平の意訳

師門物語

 さて、灯火は消える前に光が増す。人は死ぬ前に悪念が起こる。そのような世の中、朝には精気に溢れて人生を誇っていても、夕暮れには白骨となって野の外れに朽ちる無常の世である。
 さてさて平の将門公は、まことに不思議の力を持った武者です。武具に身を堅めて頰から顎にかけて白い毛並みのある栗毛の馬に乗って敵に向かわれる時には、同じ出で立ちの武者が八騎並ばれるので、どの武者が真の将門公か見分けられません。このことだけでなく、公は矢を一本射られると、一度に八人の武者を射貫くほどの優れた武者でいらっっしゃいます。
 でありまして、関東を征服して、下総の国に新たな都を建て、その屋形に「平新皇」と額を掲げて思いのままに振る舞っておられましたので、公がいくら兵術に熟達されていたと言っても、天皇様の命に従わなかったものですから、将門公はとうとう駿河で討たれてしまいました。
 将門公の御首はすぐさま京へと運ばれ、罪人の首を晒す左の獄門の脇の柱に南向きに八寸の鎹で(かすがい)留められました。ある時この首が「ああ、駿河にいる私の胴体よ、京へ上って来い。そうしたら、この鎹を抜いて胴に飛び付いて、東北の方にお立ちの多聞天がお持ちになっている剣を奪い取って宮中へと乱入して、恨みのある敵どもを撃ち殺すのに」と言って、南に向けられていた首が駿河の地のある東へと向いて、不気味に笑いました。
 この将門公から五代の子孫に平師末という方が、奥州三(さんの)迫(はざま)においででしたが、並ぶ者の無い長者でございました。ですが、このご夫婦の間には嘆くことがありました。それは何かと申しますと、お二人の間に男も女も一人の子というものがありませんでした。ある時奥方が、師末様に向かって、「実に、聞くところによると、塩竃の明神様は霊験あらたかでいらっしゃるそうです、さあ、百日の精進をして明神様にお籠もりをし、子授けをお祈りしましょう」と話をすると、師末様はお聞きになって、「もっともなことである」と仰って、お二人で精進を始めて百日になりましたので、明神様へと出掛けてお籠もりをして、お祈りをしましたが、その内容が素晴らしいものでした。まず第一のお願いには、「金銀で明神様の御姿である鏡を月に七枚ずつ造って、三年間奉納いたしましょう」とあり、さらに、「それがお気持ちに添わないならば、朱の糸でたてがみを編んだ神馬を毎月七頭、三年の間奉納いたしましょう。それでも不足とお思いならば、八人の乙女と五人の神楽奏者とで御神楽を三年の間一日も欠かさず捧げましょう」と深く御祈りをして、早くも九十九夜になりましたが、明神様からのお告げは一向にありません。百日の満願になる夜の夢に、髪を左右に分けて耳のあたりで輪に結った上品な少年がお二人の寝ている枕元に立ち寄って、「そなたたちの願いがまことに気の毒に思い、そなたたちの子種を、上は忉(とう)利(り)天のはて、下は地獄の底の底までの世界中を隈なく捜し回ったのであるが、全く見付からなかった。しかしながら、夫婦の者が一心に願うのであるから、極楽世界の阿弥陀様にお願いして、一子を授けると告げるのである。安心いたすように」と告げて立ち去られると思ったとたん、夢はすぐに覚めました。ご夫婦の喜びはこの上ありません。
 お二人はすぐさま三迫に帰って、かねての願いが叶ったという思いを抱いて日々を過ごしているうちにいつしか日が経ち、奥方はお子様を宿していつもとは違う様子でありましたが、一人の玉のような男の子を儲けられました。一家はこのお子様を手の内の大切な玉、袖の上の蓮華のように大切な存在として、大事に大事にお育て申したところ、夕方に出た筍が夜の露に育てられて一夜の内に成長するように、ぐんぐんと育って、月日が流れて間もなく十三歳におなりになりました。この男のお子様を十三歳で元服させて、本名が師門となりました。師門様が十七歳の冬の頃に、刈(かつ)田(た)の兵衛様の一人娘の浄瑠璃御前という十七歳で、琴も琵琶の楽器も弾け、みごとな筆跡を書き、和歌も堪能という姫の評判を伝え聞いて、この浄瑠璃御前を妻にと願って迎えました。二人は天にあるならば比翼の鳥、地にあっては連理の枝というように決して離れまいと深く愛し合い、早くも三年という時が経ってしまいました。
 お二人はこのような日々を過ごしていましたが、ある時、浄瑠璃御前が何気なく庭の植え込みを御覧になっているのを舅の師末様がその様子を物陰から御覧になっていまして、しばらくしてからお子様の師門様をお呼びになって、「これ師門、よく聞け。お前の妻の浄瑠璃御前を実家の刈田へ送り返せ」と仰いましたので、師門様はこれをお聞きになって、「ああ、嫌なことを仰いますなあ。まあその仰せ言はどうでもあれ、とにかくそのまま浄瑠璃御前に聞かせましょう」とお答えしたのは、お気の毒なことでございました。師末様が「私の言うことが叶わないのなら、どうしようもない」と仰いました。思えば、この一言こそが、師門様があちらこちらの土地を遍歴されるできごとの発端でございました。
 さて、そのままに時は過ぎて行きましたが、舅の師末様はその身に重病を受けられ、いよいよ臨終が近いという時に、我が子の師門様を呼び寄せて仰ることには、「お前に、浄瑠璃御前を刈田へ返せといつも言っていたのに、承知しないのは残念なことだ。そもそも武者というものは、見目容の優れた美女を妻に持つべきではないのだ。何としても浄瑠璃御前を刈田へ送り返せ」と仰り、これが師末様の遺言となってしまいまして、ご一家の嘆きはこの上ありません。六十三歳が寿命とは仕方のないものではありますが、師末様が亡くなられたことを師門様はとても嘆かれました。
 日々が過ぎ津ゆくにつれて、師末様が亡くなったという悲しみも次第に薄れてゆきます。そして、師門様は十九歳になられました。その力に強いことは七百人力です。弓は五人で張る強い弓、使う矢はこぶし十五を並べる長さで、名馬に黒みがかった飴色の衣で乗るという極めて武芸に達した人でありまして、一族の武者四十八人がこれに従い、一門繁昌なさって、浄瑠璃御前を刈田に戻せとの親の遺言には背いて、栄華を楽しんではいましたが、ここに、師門の身の上に、一大事が降りかかってきました。それは何かと言いますと、この奥州に新たな国司が下ってくると伝わったことでした。その国司の名を二条の中将殿と言います。国司が下るということで、三迫の内の高鞍に国司の屋形を造って、奥州中の大小の領主が皆、国司の元へと出仕して、中将をとても大切に歓待しました。この中将という人の本性は、色好みでありまして、都から連れて来た女房の数は、総勢三十人余りということでありました。ある時、人々が揃って出仕したところに中将が、「皆に申したいことがある。我は花の都を出立して、東のこの奥州の地に下ってきたのであるが、少しも心安まることがない。皆が真にこの私を大切に思うのなら、皆には娘が五人や三人または一人はいるであろうから、その中で一人ずつ我に下さらであろうか」と言い出しました。そこで人々は、都から来た中将を婿にして良い目を見ようと思って、姫を一人ずつ差し出しましたので、中将の所には三十人余りの姫が集まりました。中将は姫の一人一人を見定めて、これはは色黒だ、こちらは色が白過ぎると言い、これは髪が短い、反対に髪が長すぎるのは不気味だ、ある者は琴は弾けるが琵琶が出来ない、こちらは琴は弾けるが和歌が詠めない、また和歌は詠めても字が下手だとか、これは並みの人より背が低いから嫌だ、背が高いのは深山の中の木のようだと嫌って、とうとう三十人余りの姫を二十日の内にすべて元の家へと返してしまいました。
 ある時、中将がおいでの部屋の壁一重を隔てた一間で、伊達の太郎と信夫の二郎が妙なことを話していました。伊達の太郎が、「中将様があれこれ女の選り好みをなさると言っても、刈田の兵衛の一人娘で、今は三迫の師門と夫婦となっている浄瑠璃御前ならば、まさかお嫌いになることはなかろう」と言いますと、信夫の二郎がこの言葉を聞いて、「壁に耳あり、石が物言うと言い、どこに誰が聞いていまいものでもない。めったなことは言うものではない」と言いました。中将がこの会話を聞いて、「二人は何を話していらっしゃるのですか」と言って、「こちらへおいであれ」と言いますので、伊達の太郎と信夫の二郎の二人が中将の御前に来ました。中将は「今の話は本当のことですか。それならば、刈田の兵衛の所へ手紙を出そう」と言って、大至急我が屋形へ来るようにと手紙を遣りましたので、刈田の兵衛は一体何事かと、急いで高鞍にある中将の屋形へと参上いたしました。
 中将はすぐさま刈田の兵衛に面会して、「早速のお出ましで、とても嬉しく存じます。刈田様へのご用事というのは別のことではございません。貴殿に御酒を差し上げて私もお相手をしようということでございます」と言いますと、刈田の兵衛は「承りました」と答えて、洒落た肴で型通りの酒宴を始めました。その後に中将は、「これは都から運ばせた貝の殻でできた盃でございます」と大きな盃を取り出し、家来に、「刈田殿へ差し上げよ」と命じて、刈田の兵衛にその大盃を渡しました。中将が、「刈田殿、その盃でお飲みください」と言うと、刈田の兵衛はひざまずいて受けて、この大盃を三杯まで飲み干しました。中将が喜んで、「もう一盃」と勧めると、刈田はさらに続けて二杯飲みましたので、中将はほくそ笑みながら、家来に「例の物をここへ」と命じて、刈田の兵衛に鞘を梅の模様のある鮫皮で包んだ太刀一振り、金襴の布十巻を贈りました。刈田の兵衛はこれを畏まって受け取りました。
 しばらくして中将が、「刈田殿は浄瑠璃御前という娘御をお持ちというのは確かですか。いまだ世に出ていない師門という男を婿にお取りになったと伺っています。浄瑠璃御前をこの私に下さるならば、この国の出納役すべてをお任せいたしましょう」と言いますと、刈田の兵衛はもともと欲に固まっている者なので、横を向いて一人ほくそ笑んで、「とにかく仰せに従いましょう」と答えましたので、中将はとても喜びましたが、兵衛の長男の刈田の太郎は、刀を引き寄せて、父の兵衛を強いまなざしで見て、「飲み過ぎたのか、それとも年のせいか、一人の娘に二人の婿を取るとということ、都のやり方はどうだか知らぬが、この国は東の果ての国とは言いながらも、これまで聞いたこともないことだ。思うだけでも腹が立つことだ」と言い捨てて、座敷を後にして、親より先に刈田の屋敷へ帰りました。世間の人々は皆、太郎の心ばえを褒めました。
 その後、伊達の太郎、信夫の二郎の両人が、「話がここまで進んでいますので、時が経ってはよろしくないでしょう」と言うと、中将は「私に計略がある」と言って、急いで「明日から七日間の狩を行う」との書状を作りましたので、使者は三迫へと急いで行って師門様に告げます。師門様は、「承知いたしました。改めて御返事をするまでもありません。明日参上します」と仰って、すぐに一族四十八人に、「明日から七日の狩である、用意をせよ」と告げました。夜が明けて、師門様が狩にお出掛けになろうとすと、浄瑠璃御前が師門様の袖を押さえて、「お待ち下さい」と引き止め、「ああ、忘れていました。今日の狩場へのお出掛けは日延べして下さい。なぜかと申しますと、先夜の夢に、あなた様の端に角を付けた頑丈な弓が三つに折れ、あなた様の大鎧が誰も蓋を開けないのに唐櫃から出ているのを、誰とも分からない者がどこへともなく持って行ってしまうとはっきりと見ました。そんことがとても気懸かりになっております。私も路頭に迷うと夢を見ましたが、私のことはともかく、あなた様の御身の上が取り分け気になって心配しております」と、元気のない様子で仰ると、師門様はこれを笑い飛ばされて、「誰が夢の中で酒を飲むと見て、実際に酔うということがありましょうか。私が狩に出掛けてその留守の間の独り寝の寂しさは想像できます。終わったらすぐさま帰って来ますよ」と仰います。そして、師門様は、浄瑠璃御前のお付きの女房たちに、「浄瑠璃御前に琵琶や琴を弾き、御酒を差し上げて、寂しい思いをさせないように」と申し付けてお出掛けになられましたが、神ならぬ身でありますので、これから悲しいことが次々と起こるのをご存じないことで、とてもつらいことでございました。
 こうして中将の狩が始まり、その最中に、伊達の太郎と信夫の二郎は五百騎余りの軍勢を率いて三迫の師門様の屋形へと押し寄せて、矢を入れた箙や鎧の下の草摺を叩いて鬨の声を挙げましたが、屋形の内は驚いて、騒ぐこともできずにしばらくの間ひっそりとしていました。そこで寄せ手が、「我々は刈田殿とのお約束で、浄瑠璃御前のお迎えに高鞍から来たのである」と名告りました。その時屋形の留守を守っていたのは志太の三郎とたからの両人でありましたが、この名告りを聞いて志太の三郎が、「これ、たから殿、我々でどれほどの防戦ができるであろうか。ここはいったん屋形を落ち延びて師門様にこの様子をお知らせして、生き伸びようではないか」と語りかけます。たからの太郎はこの言葉を聞いて、「軍勢が押し寄せたこの時に師門様がここにおいでにないのは幸いのことだ。そなたのことはいざ知らず、正八幡様もお見守りくだされ、ここで立派に討死をする」と言いながら、そこにある唐櫃の蓋を開けて甲冑を取り出してすぐさまてきぱきと身に着け、上帯をきりりと締めて、四尺五寸ある太刀を緒を結んで提げ、中央が黒色の大きい羽が付いた戦闘用の矢を二十四本指し入れた箙を背に負い、三人力で弦を張る強い弓に弦を掛けて、正面の高い櫓へ走り上がって、大声で、「たからの太郎、歳二十七」と名告って、弓を地に突いて堂々と立ちました。
 志太の三郎も、「私は貴殿の気持ちを確かめるためにあのようなことを申した。見事でござる」と言って、畏れ多いことではありますが、大将用の鎧を身に着けようと唐櫃の蓋を開け、肩掛けを載せて調え、上帯をしっかりと締めて、太刀の緒を十文字に結んで身に付け、漆を塗らない竹にくぐいの羽を付けたこぶし十五分の長さの矢を四十八本入れた箙を背中に高めに負い、こちらは五人で張る強弓に弦をきちんと張って、正面の高い櫓へ走り上がって、「志太の三郎、歳二十五」と名告りました。
 それに対して、伊達と信夫方の五百人ほどが鬨の声を挙げて攻めかかろうとしました。そこへ二人が次々を矢をつがえて射かけたものですから、主立った武者が三十人ほど射倒されて、形勢不利と思ったのでしょう、引き退くところへ、二人は櫓から飛んで下りて「一隊が敗れれば、残りも全滅する。掛かって参れ」と言いながら、正面の門と裏門とを開け放って散々に斬りかかると、その場で五十人ほどを倒しました。殺された者のほか、傷を負った者は数知れません。こうして二人はまた屋形の内へと入り、もはや矢も尽きてしまいましたので、志太の三郎が、「師門様も今ごろ亡くなられていることであろう。この上罪を作っても仕方ない。自害して師門様と共に参ろう」と言って、腹を切って死にました。たからの太郎も同じく自害しました。
 そこで、伊達と信夫の二人は屋形に乱入します。浄瑠璃御前は、我が身は女であっても敵に捕らわれまいとお思いになり、「守り刀を渡すように」とお命じになります。お付きの冷泉が「この場は私にお任せ下さい」と言って止めました。見知らぬ者たちが塵取りの形をした底板と手すりだけでできた粗末な輿で迎えに来ました。浄瑠璃御前は「ここで死のう」と仰いますが、冷泉は「私に考えがございますから」と浄瑠璃御前を無理矢理輿にお載せして、高鞍へ行かせました。浄瑠璃御前を迎えた中将はとても喜んで、浄瑠璃御前に監視役三十人を付けて昼夜見晴らせました。
 その後、三迫では、襲われた時に病気で臥せっていた月王丸という若者が病に床からようやく治って涙を流し、「お気の毒な、この有様を師門様には誰が知らせるのだろうか。それとも、師門様はもう自害されているかも知れぬ。とにかく見付からないように行こってみよう」と言ってひたすら歩いて狩場へと行きますと、師門様は何もご存じなく、普通の鹿の二頭分もある大きな鹿に出会って狙いを付けているところで、月王丸がやって来たのを御覧になって、「そなたは病気であったのではないか。何の用事があってやって来たのだ。しかも馬に乗らずに来て、何かあったのか」と仰ってつがえた矢を外して、月王丸に馬を寄せて御覧になります。すると月王丸は涙を押さえて、浄瑠璃御前が連れ去られた次第を細かに語ります。すると、お気の毒に師門公は言葉も無く呆然とされて、馬を留められましたので、四十八人の一族の人々はあちこちから駆け寄って怒りに顔を赤くしているところへ、一族の中から、かねただが進み出て、「この狩場を引き揚げて、狩装束を脱ぎ捨て甲冑に身を固めて、味方を集めて浄瑠璃御前を取り返しなされ、しかも、狩に使う鏑矢で敵を射ても大した役に立たない」と大声で叫びますと、それが良いという者もいました。松島兵衛が鐙(あぶみ)を踏ん張って馬上に立ち上がり、「さてさて、皆々はこの口惜しい事態をどうお考えか。これは明日まで延ばして良いということではない。とにかうこの狩の装束のままで押し寄せて戦っての討死が最も大切なことだ。少しでも時が経てば、平の家名は地に落ちるであろう。わしが先頭に立って討死しよう」と出撃いたしました。師門様も含めて五、六十騎の人々が高鞍へと向かいましたが、この出陣は「蟷螂が斧を取って隆車に向かう」という言葉の通り、自分の力量を考えずに強敵に向かうというはかないものでありました。
 一行は間もなく高鞍へ着いて、城の堀へと押し寄せ、戦装束ではなく狩装束のままではあっても、武士の習いとして鬨の声を挙げ、互いに名告り合いました。城内は予期していたことでありましたから、一千余の軍兵がしっかりと守りを固めて静まっていて、「ああ、ご立派な侍よ。まことに優美で勇ましい師門のやつが来たぞ。狩に使う鏑矢で射たとて何になるだろうよ。まあ、立ち向かってやろうかい」と馬鹿にしました。師門様は用意した鏑矢を射尽くしてしまい、馬から飛んで下りて、七尺三寸二握り(二メートル余)の大太刀を手にして、「皆は大手門を壊して開けた時に、一斉に刀を振るって中に斬り入るように」と仰るやいなや、幅九尋(十五メートル程度)の二重に掘った広い堀をひらりひらりと飛び越えて、櫓の下へついと入り、七尺三寸余の大太刀を振るって斬りこまれたもので、櫓にいた者は敵対することができずに転び落ちたので、師門様はそのまま櫓へと飛び上がり、その後、櫓から飛び下り、辺りにいた者を追い散らし、大手門の扉格子を散々に引き破って、「皆々入れ」とお命じになられたお姿は、春の蝶が谷の梢の間をひらひらと飛ぶよりもさらに優れて軽い身のこなしでありました。
 そこへ四十八人の一族の人々が斬り込みました。師門様は大勢を相手に立ち向かって戦っているうちに、敵の主立った武者五百人ほどを斬り伏せになられました。そこで師門様は、味方の者はどうしているかと様子を御覧になると、ある者は手傷を負い、ある者は討死するということで、満足に戦える味方は一人もいません。お気の毒に師門様は、もうこれまでとお思いになって、また大勢を相手に斬ってかかります。敵もなかなかの者なので、斬り合ううちに師門様の七尺三寸の太刀は十分に鍛えられた名作ではありましたが、相手の太刀と暇無く打ち合っていたために、鍔元から折れてしまい、刀の柄(つか)ばかりが手に残りました。師門様は武器が無くなってしまって、戦いようがありませんが、それでも勇気があり、その上に大力でありますから、櫓の下へ走り寄って一番高い柱を引き折って脇に挟んで、ふたたび敵の大勢の中へと走り込んで柱を振り回しますと、人々は向かうことができず、秋の嵐が木の葉を散らすように、四方にぱっと追い散らされ、多くの人が柱で打ち倒されて、しばらくは傍に近寄る者は無くなりましたので、月王丸は師門様に、「ああ。殿のお見事な御手柄でございます。今はこれまででございます。殿様が亡くなられましたらだれが御一門四十八人の方々の菩提を弔うことができましょうか。ここは生き延びられて出家なさり、人々の菩提を懇ろに弔いなされば、人々の魂も喜ぶことでございましょう。この世は今の時だけではございません。必ず望みを遂げられる時もございましょう」と、この屋形の門の外へと押し出すようにしました。少し人々の気持ちが緩んだ時に、月王丸が大声を上げて、「我は師門様の家来の月王丸、歳十八。師門様は御自害なされたので、我もその御供をするぞ」と大声で叫ぶやいなや、討たれて横たわっている者の中で良い顔の首を搔き切ってそれを手に高いところへと上がり、腹を十文字に掻き切って、腸を(はらわた)取り出し、切り取った首を腹の中に押し入れ、その後に自らの喉笛に刀を立ててうつ伏せに倒れました。この月王丸の見事な最期の様子を人々は皆褒めたのです。
 こうして、中将の屋形では、もはや師門を討ち取ったということで屋形を浄めさせて間もなく静まったのですが、とはいうものの、子を討たれた親の悲しみ、親を殺された子の悲しみ、兄を討たれての弟の嘆き、一家の柱の夫を殺されての妻子の嘆きと、高鞍の周辺にはただ嘆きの声ばかりが満ちて、中将のことを良く言う者は一人もいませんでした。

 浄瑠璃御前はお気の毒に、師門公が討たれたとお聞きになってから思いに沈み、三迫で自害しようと思い定められのではございますが、お付きの冷泉が考えがあるからと言ったことで、「安直な考えに進んで、つらいことを重ねる悲しさよ」と嘆いていらっしゃるので、冷泉は、「力の限り中将をだまし通しましょう。どうしようもなくなった時は、相手は都でぼんやり育った者ですから、こちらを女だと思って油断しているところを、ひと太刀恨みの刃を向けて、その場で自害いたしましょう。私が死んだとお聞きになられたら、すぐに御自害なされませ」と浄瑠璃御前に言い置いて、中将の前へと来て、「師門公をお討ちになられたので、浄瑠璃御前もお迷いにならず、お気持ちに従いましょう」と言うと、中将は喜びました。
 冷泉は言葉を重ねて、「浄瑠璃御前は三迫へ嫁入りされたとは言いますが、いまだに男性の肌に触れない生娘のままでございます。その理由は、浄瑠璃御前は重い病を患い、都から名医を招いて、あれこれの症状を治しました。治ったとはいえ、それから六年の間は決して男性と接してはならない、病が再発すると言い渡されて養生しています。もしも男性と接することがあれば、たとえ万能の薬師仏の御恵みでも助からず、決して治らないと言い渡されていまして、六年が過ぎれば、差し障りはございません。嫁入りの時にこの事情を三迫の師門へも伝えて、浄瑠璃御前の身の回りをしっかりと固めたままに輿入れして、三迫でも、熊野の御神体塩竈御神体を七体お招きして祀り、注連を七重に回して、さらに錦の斗帳を三重に巡らして、これまで三年を清らかにお過ごしになっておられますので、これを無視して無理矢理に浄瑠璃御前に接することをなされば、浄瑠璃御前のためにもお気の毒でございます。浄瑠璃御前にご病気が再発されましたら、中将様にも何かの不都合が起きることでしょう。私も、どうしようもございません」と、涙をはらはらと流しながら言いました。中将は、「都の上流育ちの心は優しいもの、五年でも十年でも待とうよ」と、おっとりと受け、「それでは、三迫同様に精進なさい」と、精進のための部屋を造って、熊野の御神体塩竃御神体を合わせて七体お招きし、注連を七重に引いて、錦の斗帳を三重に巡らして、精進に暮らすようにいたしました。中将は、時々境界の敷居を隔てて対面するだけで過ごしていました。
 師門様は、月王丸に諫められて中将の屋形から逃れ出て、出家を遂げ、父親の師末公や一族の四十八騎の人々の後世を弔った後に、諸国の霊場廻国へと出掛けました。行く先はどこであったかと申しますと、まず信濃善光寺へと参って、そこから都の方ヘと上って、紀伊の熊野山へ参り、その帰り道に紀の川沿いに根来寺粉河寺、さらに高野山金剛峯寺に登って奥の院まで参り、一心不乱に父親や一族の人々の菩提を弔い、そこから摂津の住吉大社天王寺から大和の三輪明神を拝んで飛鳥寺へと参り、春日野の草木の乱れる道を踏み分けて、山城に入って嵯峨の釈迦堂、因幡堂の薬師、鞍馬寺毘沙門天、東寺に参り、清水寺では格別に七日間のお籠もりをして人々の極楽往生の宿願を願うと、観音様からの良いお告げがが受けられ、そこで清水寺から退出し、それから比叡山延暦寺へと参って、その麓の三井寺石山寺から琵琶湖の中の竹生島へと参りますと、一心にお参りをしてはいましたが、だんだんに故郷の四季が恋しくなり、ゆるゆると奥州へと下って三迫へ巡って、故郷の様子を御覧になると、昔からのものといえば、月日の光以外には変わらぬものが無く、自分の姿を見れば余りに変わっているので、涙を止めることができませんでした。以前に召し使っていたと思われる者が粗末な家や小さな家に住んでいるので、そのところへ立ち寄ってみても、みすぼらしい姿の廻国の僧に茶の一椀をも施さないので悲しく思い、何につけても昔が恋しいものよと涙が浮かび、出家したとはいえやはり俗世の思いに悲しくなり、また同時に、自分の姿がいかにやつれているのかを改めて思いました。この地に長者の師門として屋形を構えていた時からまだ三年も過ぎていないけれど、このやつれ果てているのが以前の師門の落ちぶれた果てた姿と知られないのはかえって嬉しいことよとも思いますが、自分の今の身の上を思えばやはり悲しみの涙が止まりません。
 師門様は、私は出家する以前から、初が崎のお寺の本尊である阿弥陀如来を信じていたのだから、初が崎へ行こうと思い立たれて参拝すると、御堂がひどく壊れていましたので、しばらくここに滞在して、人々の寄進を募って御堂を修理しようとお思いになったところ、その夜の夢に、「勧進の人々をもてなす接待の方法はいろいろあるが、風呂に入れる湯接待が一番功徳がある。湯接待をして寄進を募れば、目的は早く達せられるであろう」とのお告げがありましたので、そのお告げに従って湯接待をすることとして、湯屋を上中下の三つにしつらえて、師門様自らが薪を伐り集めて水を汲み、湯接待をなさっているうちに、この湯接待に参る人はあらゆる病気が治るので、諸方から多くの人が集まり、皆々が順々に御堂の修理を成し遂げました。それに加えて、塩竃の明神の柱に、次のような虫食いの文字がありました。土地の人がこれを不思議に思って文字をたどって読んでみると、
  初が崎の湯接待につかん人は、現世にては無病安穏、後生にては五逆十悪なりとも、ことごとく滅すべし。
  (初が崎の湯接待にあずかる人は、現世では病も無く安穏に暮らせ、来世では現世でいかなる重い罪を犯しても、すべて消えて極楽往生できるであろう)
とありました。この文字のことを見たり聞いたりした人で、この湯接待に来ない人はいませんでした。
 ちゅどこの時、高鞍の浄瑠璃御前は湯接待が行われていることを伝え聞かれて、「これ、冷泉、女人というものは、五障三従と言って罪深い身だと言われている。そこで、現世利益後生安楽のそのために、初が崎の湯接待に参りたいものじゃ」と仰いました。冷泉はこのことを中将に申し上げます。そろそろ浄瑠璃御前の精進の年限も終わりに近付いている時でしたので、中将は嫌ということがありません。浄瑠璃御前は見張りの武者を三十騎ほど付けられて、初が崎へお参りになり、御本尊の前で「師門様が御信仰の阿弥陀様でしたのに」と、秘かに涙を流されます。浄瑠璃御前は師門様の菩提を弔い、仏前のお勤めが終わりましたので、湯屋にお入りになることを仰せになります。聖となった師門様が湯屋を浄め、屏風や障子を立て回して入る準備をしましたので、浄瑠璃御前は湯屋にお入りになりました。
 冷泉がじっと聖を見て、浄瑠璃御前にそっと申し上げることには、「誠に不思議なことがございます。このお聖が話すお声をお聞きすると、亡くなられた師門様のお声に少しも違いがありませぬ」と言ってはらはらと泣きました。浄瑠璃御前はこれをお聞きになって、それが真だとは思えませんが、夫師門の声に似ていると聞くのが懐かしく、じっと耳を傾けて聖の声をお聞きになると、やはり三年の間親しく暮らした相手の声なので、どうして聞き違えましょうか、浄瑠璃御前は涙を流されます。
 冷泉は、「お聖様、湯をぐださい」としばしば聖に声を掛けました。聖が、「ああ、馴れ馴れしいお方ですな。とはいえ、これも御供養のことですから、何度でも伺いますよ」と答えますと、冷泉は「尊い聖様と伺っておりますので、聖様と言葉を交わすことで、ひょっとしたら私の罪咎も軽くなるのではないかと思われまして、御声を掛けさせていただいています」と申し上げると、浄瑠璃御前は湯屋の建具の隙間から聖を覗き見ましたが、墨染めの衣を着ていらっしゃるので、なかなかこの聖が師門様だとはっきりと決めることができません。それでも聖の顔に師門様の面影がかすかに残り、慥かに師門様だと見極められたのは、たとえば、弥生半ばの桜の花が山の強い風に吹かれて、青葉の積もる中に一房埋もれているのとよく似て、かすかなところで見分けが付きました。浄瑠璃御前の師門様への思いは抑えることができません。
  浄瑠璃御前はゆっくりと湯から出て、墨を磨って筆を執って、涙を流しながら肌着の内側に一首の歌をお書きになりました。
  ちはやぶる神もからめてしろしめせ君より後は新枕せず
  {神様もはっきりとお判りになってくださいます。あなた様と結ばれてから後に他の男性と結ばれたことはございません。私の相手の方はあなただけです)
と書いて、その文字が見えないように肌着をくるくると巻いて湯屋に置き、高鞍へとお帰りになりました。
 聖が「湯屋を浄めよう」と一人言って湯屋に入ると、肌着が巻かれて置いてありました。これを開いて見ると、袖の内側に和歌が書かれていました。じっと見ると「何よりもあなたが懐かしい」という歌が思い浮かべられる文字が、肌着の内に書かれて巻いて置いてあったのです。浄瑠璃御前が聖に歌を書き遺し、自害したはずの師門が生きているという話が奥州の国中に広まりましたので、高鞍から百騎ほどの武士が、「初が崎の坊主を捕らえて殺せ」という命を受けて初が崎の阿弥陀堂に押し寄せました。すると、阿弥陀堂の中から僧が一人出て来ましたので、武士たちはこの僧を捕らえて稲瀬川の河原で斬り、高鞍へと帰りました。その出来事の後に湯接待をしている聖が山から薪を背負って帰って来ました。土地の人々は聖が帰って来たのを見て、「恐ろしいことです。たった今高鞍から武士が大勢来て、一人のお坊様を『この坊主だ』と言って縛って、稲瀬川の河原で確かに殺して、高鞍へ帰って行きましたのを、お気の毒だと思って見ていましたが、斬られたのはあなたではなかったのです」と語りましたので、聖はこの話を聞いて、「酷いことよ、どのようなお坊様が斬られたのだろう。私のせいなら、埋葬して弔いましょう」と思って稲瀬川のあたりを御覧になると、首を斬られた阿弥陀様の像が川波に漂っていました。聖は、「それでは、阿弥陀様のご尊像が私の身代わりにお立ちになったのだな」と思って、阿弥陀様のお計らいをますますありがたく思って感涙を流し、御首はと尋ねると、離れた下流まで流されて留まっていましたので、それを取り上げて御首と御躯と(からだ)を一つに合わせました。聖は、「この土地はこんなに居づらい場所でございます。さあ御一緒に参りましょう」と、阿弥陀様を背の笈にお入れして出掛け、行き方知れずになりました。
 さて、高鞍の浄瑠璃御前は、聖が殺されたということをお聞きになり、「ああ、悲しいことよ。私のためにこのようなつらい話を何度も見聞きするのは悲しいこと、どうしよう冷泉よ」と仰いますと、冷泉は「万事私にお任せ下さい」と言って、酒を入れる大きな樽や筒を取り寄せ、酒を十分に準備しておいて、冷泉は中将の所へ行って、「浄瑠璃御前様の精進の期間も残りが少なくなりましたので、浄瑠璃御前が警護の方々にお酒を一口差し上げたく存じています」と言うと、中将は浄瑠璃御前と結ばれたいとじっと待った三年の期間の終わるのももうすぐであるなと待ちわびていたところでしたので、それも良いとして、「浄瑠璃御前の仰ることは何でもかなえよう」と答えたので、冷泉は夜に入ってから酒肴を取り出し、「『この長い年月の皆々の苦労に一献差し上げなさい』との中将様の仰せです。召し上がれ」と伝えると、警護の人々はありがたく受けて、酒を飲み始めます。酒を遠慮する人もいくらかはいましたが、冷泉がいろいろと言葉を尽くしておだてて勧め、「浄瑠璃御前から中将様へとお話を通していて、中将様もお許しのことです。安心してお召し上がり下さい」とあれこれ楽しく人々に酒を勧めていき、酒好きの上戸は無論のこと、あまり飲めない下戸にも同じように勧めて酔わせ、その場を去って浄瑠璃御前のところへ来て、「思い切り酒を飲ませて酔わせました。どうぞお仕度ください」と言って、そっと屋敷を抜け出す仕度をさせました。
 さて、冷泉が警護の人々の様子を見ると、毎晩の警護に疲れている上、おいしい酒を思い切り飲んだので、正体無く寝込んでいました。冷泉は横たわっている警護の人々をまたぎ越して、一間を通り過ぎ、屋敷の正面の門を見ると、門の錠も掛けず、堀を渡る橋も外さないままになっていて、何もしないで外へと出られるようになっていました。冷泉はこれは嬉しいことよと思って、大急ぎで浄瑠璃御前のところへ戻って、「警護の者はぐっすり寝ております。門も鍵がかかっていませんし、橋も架けられたままですよ、さあ、早く,早く」と申し上げると、浄瑠璃御前は短冊を一葉取り出して、いつもいた場所に懸け置いて、寝ている警護の者を秘やかに越えて、やっとのことで外へ出て、屋敷の外への橋をお渡りなって抜け出たのは、まるで虎の尾を踏み、竜の髭を撫でるような危険なことで、いつ襲われるかという恐ろしさと同じでありました。
 どんどんと道を急ぐうちに、二人は僧が殺害された稲瀬川の川辺に着きました。それまで閉じ込められていた中将の屋形を振り返ると、松明を昼のように灯して騒いでいる様子と思われます。浄瑠璃御前が「どうしよう、冷泉。この上は、ともかくも初が崎までは行って、一緒に自害をしましょう」と仰ると、冷泉は「とにかく少しでもお急ぎ下さい」と言って、稲瀬川の川岸まで来ると、浄瑠璃御前が履いていた大きくて丈夫な金剛草履をお脱がせし、自分の履物も並べて置いて、浄瑠璃御前は上着の薄衣の上に、「私はあなたの情けを知らないわけではありません。貞女は二人の夫を持たないものでございます」と書き置いて、一首の歌を添えて、
  ゆく水に沈みも果てぬ世の人のはかなき数を言ひや伝えん
  (流れる水に私は沈んで死んでしまいます。世の人よ、はかなく死んだ人の数々を伝えて下さいませ)
と書き置きをなさいました。
 二人は稲瀬川を越え、さらに先へと進みます。追っ手の人たちは川岸で履物と衣類を見付けて近寄ると、上に遺書がありました。「それでは、この川へと身投げをなさったのだ。夜が明けてから御遺骸を探そう」として、中将のいる高鞍へ帰って、この形見の品を中将にお見せしました。
 中将は遺書を見て、「それでは浄瑠璃御前は身投げをなさったのだ」と思って、三年の間お暮らしになった部屋へと入って見回すと、部屋の中には浄瑠璃御前の移り香がまだはっきりと残っている様子で、部屋中を見回すと、短冊が懸けられています。
  出でていなば心かるしと名やたたん積もる歎きを人の知らねば
  (この場所から出て行ったら情の無い者だと評判が立つでしょう。どれほどの嘆きが私の上に積もっているかを世間の人は知らないのですから)
と詠み置かれたのを見て、「こんな都を遥かに離れた土地にも優しい思いの人がいるのを知らないで、自分の勝手な思いで余計なことをしてしまったものよ」と、嘆きましたが、今となっては、もはや取り返しのつかない悲しいことでございました。
 さて浄瑠璃御前と冷泉の二人は、さらに五町ほどを逃げ延びて、初が崎の湯屋の近くまで来ましたので、まず最初に阿弥陀堂へお参りして、夜が明けて日が差してきたので堂内を見回すと、御本尊がおいでになりません。浄瑠璃御前は、ああ、不思議なこと、ここの御本尊の前で来世を願いながら自害をしようと思ってここまで逃げて来たのに、御本尊がおいでにならないとは、何であろうとお思いになりましたが、冷泉は、阿弥陀堂の近くに片折戸を立てたみすぼらしい家に近寄って、その家のあるじの女性に声を掛け、ここの聖の消息を尋ねますと、「聖様が殺されそうになったのをこの御本尊様が身代わりにお立ちになって斬られました。そこで聖様は、すぐさまここからお出掛けになられました。お気の毒にあなた様は御縁のある方でいらっしゃいますか。あなた様はあのような上品な美しいお方のお供をなさっておいでなのですね。お気の毒なことでございます。私にお手助けできることはございますか」と答えて、一重の帷子を一枚冷泉に渡して、「これを着て目立たないようになさいませ」と言って、「この場所からは早く立ち去られますように」と言いました。
 冷泉は、女あるじが語る聖の消息を聞いて、「それでは御聖は生きていらっしゃるのだ」と喜んで、「御自害はなさってはいけません。今はとにかく御聖の行き先をお尋ねいたしましょう。それにしても、御聖はどちらへお出でになったのでしょう」と浄瑠璃御前を止めながら女あるじに尋ねますと、「そこまでは存じません」と答えました。冷泉は着ていた薄い上着を「これは御礼に差し上げましょう」と女あるじに差し出しと、女あるじは「思いも寄らぬもったいないことです」と返しましたが、冷泉は、ともかくも預かっておいてくださいと渡して、二人は御聖の行衛をあれこれと思いながらまた阿弥陀堂の方ヘ戻って行こうとして、ふとお堂の脇を見ると、新しく盛り上げた塚があります。その上に卒塔婆が一本立っていました。近寄って卒塔婆の文面を御覧になると、
  一見卒塔婆 永離三悪道
  (卒塔婆を一たび見れば、自らの行いで到る地獄・餓鬼・畜生の三悪道から永く離れるであろう)
の文字があり、その下に歌がありました。
  卒塔婆立てて行きし聖を人問はば出羽の羽黒へ尋ねても問へ
  (卒塔婆を立てて行った聖のことを誰かが尋ねるならば、出羽の羽黒山へ行って探しなさい)
と書いてあります。二人はこれを御覧になって、間違い無く師門様のお立てになった標だと勇気が湧いて、元の女あるじの所へ戻って、海道を教えてもらい、道端の草を血に染めるように足を傷めながらも、やっとのことで苦しい道を歩き過ぎて、初が崎を出発してから十三日目という日に、出羽の羽黒山にお着きになりました。すぐに羽黒山権現の神殿に参って、「お願いいたします。俗名師門のあの聖に会わせて下さいませ」と伏し拝みました。
 羽黒山の権現に祈りを捧げた後、道で出会う人ごとに、「これこれの聖がこちらに来ていますか」と尋ねますが、人々からは「そのような人は存じません」という答えでがっかりして、別の道筋でまた聖の消息を尋ねると、「奥州から来た聖という人が一昨日まではここに滞在していましたが、その後は姿を拝見することがありません」との答えがありましたので、それではお会いできることがあるであろうと力を得て、再び権現へと参って再会出来るようにとのお祈りを捧げました。二人がお堂の脇を御覧になると、初が崎の阿弥陀堂の脇にあったのと全く同じ形の塚があり、上に卒塔婆が立てられています。その卒塔婆を御覧になると、この先に期待を持たせてくれる歌一首がありました。
  卒塔婆立て行きし聖は越後なる蔵王堂へと志しける
  (卒塔婆を立てて出掛けた聖は、越後にある蔵王堂を目指したのである)
と書いてありました。二人はこの文面に勇気が湧いて、励まし合いながら越後へと足を運んで行くうちに、羽黒山を出立してから十二日目に越後の蔵王堂に着き、そこでまた聖の消息を尋ねますと、人ごとに、「そういった人は六日か七日前にはここにおいででしたが、最近はお見掛けしません」という答えがありましたので、力を落として蔵王堂のそばに腰を下ろして休みますと、以前と全く同じ形の塚があり、その上に卒塔婆が立っていました。近寄って卒塔婆を御覧になると、歌一首が書かれていました。
  卒塔婆立て行きし聖を人問はばよしみつ寺へたづねても来よ
  (卒塔婆を立てて出て行った聖を尋ねるならば、よしみつ寺ヘと尋ねて来るように)
と書いてありました。これを見て浄瑠璃御前は、「ああ悲しいこと。私はいったい、誰のためにあれこれと心を尽くしているのだろう。自分のために良かれと思っての行動が裏目に出て、これでは、『身を思ふとて身をば捨つるか(自分のために一番良いのは、自分の身を捨てることなのか)』という歌の意味と同じではないか。このように聖の跡を慕ってお尋ねしても、まだお会いできない。この卒塔婆だけが頼りだと思ってここまでやって来たけれども、何も得ることがなく、聖に会えない。もはや、ここでこの身の生を終えてしまおうと思うのはどうなのだろうか、冷泉よ」と仰るので、冷泉はこのお言葉を聞いて、「なるほど、仰る通りでございます」と涙を流しましたが、しばらくして涙を拭って、「何を仰いますか、お気の弱い。それほど情けないお思いになられるのなら、どうして中将のいる高鞍にお留まりににならなかったのでしょうか。高鞍を出たのは、聖様に再会するため。お目に掛かるための手がかりがある限りは、それを頼りとお思いになって、どこまでも聖の跡を追うようになさいませ」と申し上げると、浄瑠璃御前はこれをお聞きになって、「嬉しい冷泉の言葉ですね。私は仮に異国の虎がいる野辺でも,聖様の消息が判る限りは、もう泣きません。ただ、私のせいでそなたにこのような苦労を掛けているのが申し訳なくて、つい弱音を吐いてしまったのです」と仰いました。

 冷泉は、「さあさあお急ぎ下さい」と浄瑠璃御前を促しますが、「次の土地はどこの国のどこか判らないで、ただ『よしみつ寺』と尋ねても、いったいどこの誰がよしみつ寺はどこの国のどの場所だと詳しく教えてくれるのだろうか」とお泣きになりますので、冷泉は、「今からよしみつ寺についてお話いたしますので、お聞き下さい。昔、天竺にいた月(がつ)蓋(かい)長者という者は、並外れてけちで欲張り者でした。僧の誰一人に対しても一切供養をしないで、日々贅沢な暮らしをしています。お釈迦様は、この後に月蓋が無間地獄に堕ちてしまい、決して救われることのないという月蓋の身の上を哀れにお思いになり、仏様の救いの一つの方法をお考えになり、月蓋の莫大な財産を一夜の内に火事で焼け失せさせ、飼っていた牛馬も一家の人々も皆いないようになさいましたので、月蓋は突然貧しい身となってしまいました。月蓋は栄えていた時に上等の衣一万疋と交換して手に入れた立派な升の一部を見付け、それを米五升と交換し、そのうち三升を女房に預けて,残る二升を自分で持って、食事の副菜を買いに町に出てゆきました。その後に釈尊の弟子の阿(あ)難(なん)、舎(しや)利(り)弗(ほつ)、目(もく)連(れん)の三人が月蓋のところへ托鉢に来ましたが、三人を迎えた女房は、この内の一人だけに供養をしては残る二人から受ける恨みが恐ろしいと、三人とも供養しました。月蓋が帰って来た時に、女房はこのことを月蓋に話したところ、月蓋は女房に三度礼をしてその振る舞いを喜び、その夜は何も食べずに寝ました。
 釈尊はこの話をお聞きになって、『それでは、月蓋夫婦は善心になったのであるな』とお喜びになられて、夜に入って車の音、馬のいななきが激しく響き、夜明けに月蓋夫婦が屋敷を見ると、財宝は元通りに満ち満ちていました。
 月蓋夫婦が、財宝が戻ったので元のけちで欲張りに戻ってしまったのを釈尊はとても悲しんで、今度は夫婦に娘一人(如是姫)を授けました。その娘が十三歳になった時に娘は五種の流行病(はやりやまい)を患い、もはや命が危ない様子になってしまった折、月蓋は釈尊の元に来て、『一人娘が流行病を患っていまして、治そうと世界中の医者を求め回ったのですが、一向に回復の様子がありません。この上は釈尊のお助けだけが頼りであるとこちらに参上いたしました』と涙を流して申し上げると、釈尊はお聞きになって、『私はそなたの力にはなれない。この度の難儀は、極楽世界においでの阿弥陀様以外に娘御の病を治す仏菩薩方はいないと思う』とお答えになりましたので、その時に月蓋は、『阿弥陀如来様のことを伺いましたが、この地から十万億土離れた西方浄土の地においでの阿弥陀如来様をどうしたらたやすくお招きすることができましょうか。釈尊のお助けをひたすらお願い申し上げます』と申し上げると、釈尊は『難しいことはない。そなたは、自分の屋敷に帰って、西に向き、他の事は考えずにただ一心に南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依いたします)と三遍唱えると、その間には必ずそなたの屋敷に光が差し、阿弥陀如来が飛び移っておいでになるであろうよ』とお教えになりましたので、月蓋はその釈尊のお言葉を心に刻みました。月蓋は、我が子への愛情だけを心思って、西に向かって『南無阿弥陀仏』と二声唱え、三声目を口にする前に、阿弥陀如来が月蓋の屋敷の垣根を飛び越されると見えたとたん、月蓋の娘の五種の病はたちまちに全快しました。
 月蓋は、娘の重病が治ったことがとても嬉しくて、釈尊に向かって、『阿弥陀如来をこの地にお引き留めしたいです』と申し上げると、釈尊は『阿弥陀如来西方極楽浄土の主でいらっしゃるので、西方へお帰りなさるであろう。百万両という量の閻(えん)浮(ぶ)檀(だ)金(ごん)で阿弥陀如来の御姿をお写しして、その姿を留めるようにしなさい』と仰いました。月蓋は、『どのようにして閻浮檀金百万両を手に入れましょうか』とお尋ねすると、釈尊は、『竜宮へ使いを出して貰い受けよう。その使いは我が弟子の神通第一の目連に行かせよう』と仰いました。目連は使いの役をお受けして、竜宮へと行ってこのことを竜王に申し上げると、『釈尊の仰せのままに従います』と言って百万両の閻浮檀金を渡しました。阿難、目連、迦葉(かしよう)などの弟子たちが集まって、この閻浮檀金を使って阿弥陀如来の御姿を写し留めました。阿弥陀如来西方極楽浄土を指して飛び帰られました。
 その後、釈尊が入滅されたので、この如来像は中天竺へと飛び移り、そこに五百年いて、仏の教えが東に行くという道理に従って百済国に移って七百余年を経、その後、我が国の欽明天皇の御世に摂津の国の難波の里へと飛び移っておいでになりましたので、このお像の姿を見た人はこの像がいったい何なのかと不思議に思ったのでした。如来像はその難波の里で三年を過ごされました。ここに、信濃の国の水(みず)内(ち)の郡の本田善(よし)光(みつ)という侍がいました。その侍にあるお告げがあり、善光はそれに従って、急いで摂津の国の難波の入り江を尋ねて行きました。善光が、「真に夢でのお告げの通り、私と三世の縁があれば、我が袖にお入りください」と入り江に向かって袖を開いて呼び掛けると、如来像はすぐに善光の袖の中にお移りになりましたので、周りの人々は不思議の思いをして、『この如来様は活きていらっしゃるのだ。この如来様は人を呼ぶことをなさったよ』と言い、『仏様招き』と今日まで言うのはこの時から始まったのです。
 本田善光はすぐに如来信濃国ヘとお移しして、自分の屋形へお置きしました。ここは本田善光がお建てした寺ですので、善(ぜん)光(こう)寺(じ)と申します。本田善光は名字を変えて、今は栗(くた)田(だ)と言って、在家のままで善光寺の統括役を勤めています。どうぞ御安心ください」と、冷泉は道中にこの長い物語を浄瑠璃御前に語りながら、険しい道中を過ぎて、奥州の高鞍を出発してから四十八日目に、善光寺の西の大門に着きました。
 二人は本堂に入って善光寺如来にお参りして、若い女性の身で霊験あらたかな仏様にお参りできて罪障が軽くなることができるのも、ひとえに聖となった師門様のおかげだと心を籠めて拝んで、その御祈りの人々のあちこちに目を配って「聖がいらっしゃるか」と探しました。「これだけ大勢の参拝の方の中にどうして聖がいらっしゃらないのか、つらいことではある」との思いを抱きながら本堂から西の大門へと出て行き、近くの宿房に入って、一夜の宿を貸してほしいと願いました。その房のあるじに従う僧が応対して、「宿を貸すのはたやすいことなのですが、この宿房のあるじから、『知らない人には決して宿を貸してはならない』と厳重に言いつけられていますので、それができません。日が暮れないうちに、ほかの院をお尋ねください」と言いました。
 冷泉はこの僧の言葉を聞いて、「情けないことです。二晩三晩の宿をお願いしたのではないのです。一夜の宿くらい良いでしょうに。人間同士お互いに助け合わないでどうしましょう」と、がっかりしながら言いますと、応対に出た僧がその言葉を聞いて、「たとえこの宿房のあるじからけしからんと思われても、お泊めいたしましょう」と、中へと招き入れました。足を濯いで、食事を出してと、てきぱきと世話をしているところに宿房のあるじが帰ってきて、「あちらの部屋にいる人は誰だ」と尋ねろと、従僧は、二人の事情を詳しく話しました。そこで房のあるじは、「旅の人もお聞きください。『知らない人には決して宿を貸してはならない』と言ったのは、拙僧の物惜しみからとお思いになるかもしれません。この十日ほど前に、年の頃は二十三歳かと見える聖が来て、穏やかな人なので宿をお貸しして滞在をさせたのですが、風邪を引いた様子になり、それから五日目の日になって、はかなく亡くなられてしまいました。親しくしていましたので、とてもお気の毒に思いました。さらに加えてお気の毒なのことは、笠を一つ形見にして、そこに歌一首を書き置いてあったのです。
  笠は置きぬ我が身は何となりなまし哀れはかなき天の下かな
  (笠は遺しておく。私の身はどうなることか。ああ、はかない世の中であるなあ)
と詠んで、今はの際と思われた時に、拙僧が、『もしもあなたを尋ねて来る人があったら、お伝えしましょう。あなたの故郷の国や土地の名を言い置いてください』と申しますと『私には尋ねて来る人も、縁のある人もいません』と答えましたので、『そうでありましょうが、せめて故郷の地の名をお語りなさい』と尋ねますと、とても苦しそうな声で、『それではお伝えします。私は奥州の三(さんの)迫(はざま)出身の者でございます。歳は今年二十二です』と言い遺しました」と話して袖に涙を落としました。その話を聞き、浄瑠璃御前と冷泉は遺された笠を見て、「もうし、お坊様、その聖こそ、私たちが尋ねている人でございます。尋ねるあての人がいなくなり、今から後は誰を心の張りにしたら良いのでしょうか」と、身を投げ出してお泣きになりますので、房のあるじも、「この方のために辛い思いを重ねられましたね」と言って、一緒に涙を流しました。
 浄瑠璃御前はようようのことで涙を押さえ、「その聖は、どこへ葬られたのでしょうか。その場所を見たいです」と仰ると、房のあるじが「夜が明けたなら、この従僧に案内させましょう」と答えました。その夜、人々の悲しみの声は大きく響きました。
 これらの人の嘆きを隣の宿房に滞在していた三人の客僧が聞いて、「何を嘆いておいでですか」と尋ねますので、こちらの宿房のあるじは隣の宿房のあるじと知り合いなので、事情をと語ります。客僧たちはこの話を聞くやいなや、「お気の毒に。身分の上下を問わず、お嘆きは一緒です。それでは、我ら三人の修行の力がどれほどかを試しに、さあ、参りましょう」と言って、隣の宿房へと出掛けました。「我らは代々修行の山伏ですが、こちらのお嘆きの声があまりにお気の毒でここまで参りました。その人はいつ亡くなりましたか」と尋ねると、宿房のあるじは「三日前に」と答えます。山伏は、「それならば、祈りましょう。ただし、亡くなった人を火葬していたら、どのように祈っても叶いませんが」と言いますので、宿房のあるじは、「火葬のための栴檀の薪が揃わなかったので土葬にいたしました」と答えます。山伏は「それは幸いのこと」と言って、聖の墓地へと従僧に行灯を持たせて出掛け、そのほかの浄瑠璃御前、冷泉、宿房のあるじ、その隣の山伏の宿宿のあるじはそれぞれ松明を手にして、山伏の行で現れろ不思議を見ようとして一緒に出掛けて、一行は墓場に着きました。
 従僧が、「これこそあの聖を埋葬した塚です」と言いましたので、浄瑠璃御前と冷泉は、「わっ」と泣き声を上げました。山伏は、「心強く思ってください。我々は大峰に三度、葛城山には数知れず登って仏法修行を極めた者でございます。それでも御心配があろうと存じております。お静かになさってください」と言う言葉が終わらないうちに、一番先に立った山伏が角の張った粒を連ねた数珠をさらさらと押し揉んで祈り始めます。まず「南無帰依仏、南無帰依法仏、南無帰依僧、この行者の思いやりの心を汲んで、また祈るところを憐れまれて、直ちにここに眠る聖を蘇らせる奇特をお見せください」と唱えて、「東方に降三世明王、南方に軍(ぐん)荼(だ)利(り)夜叉明王、西方に大威徳夜叉明王、北方に金剛夜叉明王、中央に不動明王、たらたかんまん、見我身者、発菩提心、聴我名者、断悪修善、聴我説者、徳大智慧、知我心者、即身成仏」と、とても熱を籠めて祈りましたが、一向に祈りが通じる気配がありません。その時に二番目の座の山伏が、「これではまだまだ祈りが足らないのだ」と言って、「一に矜羯蘿童子、二に制吒迦童子、三に倶利迦羅童子、四に蓮華童子を始めとして、三十六童子、願うことは、この我ら山伏の今の祈りにお力を貸してください」と唱えて、「たさくなふまくさらはたたぎやだていひやくさらはほけはひやくさらはらこせんだまかろしやたけんきやきけんきやきさらはびきなやうんたらたかんまん」と半時ほど祈り続けますと、遺骸を埋めた土が二つにぽかりと割れて、聖が目を開き、「宿のあるじ様、水をお与えくだされ」と言いましたので、格別に不思議な気持ちになりました。聖のそばにいた山伏が早速に薬を取り出して聖の口に押し入れると、聖は息を吐いて蘇りましたので、冷泉が、「ここまではるばると浄瑠璃御前と御一緒に参りました。これは現実のことか、それとも夢か、夢ならば、ひょっとして覚めることがあるだろうか」と言って、喜びの涙が止まりません。
 聖はまだ呆然としています。第一の山伏の左脇においでの山伏が「聖よ、これから話すことをしっかりと聞きなさい。ここにおいでの第一の山伏は、もったいなくも熊野の権現様でいらっしゃいます。浄瑠璃御前が熊野権現の御正躰をお招きして、三年の間、身を浄らかにして御祈りを捧げた気持ちが見事であるので、その身の上を憐れんでここにおいでになったのである。また、もうお一人は出羽の羽黒の権現でいらっしゃるが、浄瑠璃御前が三年の間精進の座にいて祈りを捧げたのを憐れんだ熊野の権現様が、脇の山伏としてお招きになったのである。このように申す我は、塩竃の明神である。そなたは、父の師末が子を授けてほしいと我に祈ったので、子を授けるために、天上は忉利天の果てまで、下界は奈落金輪際の地獄の底までを尋ね廻ったのであるが子種が全く見付からず、願いをそのままにしてはおけないので、この閻浮提から十万億土離れた地の阿弥陀如来にお願いして授けた子である。阿弥陀如来が授けた子という縁で、初が崎の阿弥陀如来がそなたの身代わりになられたことも理解せよ。そなたが初が崎の阿弥陀堂から出羽の羽黒山、越後の蔵王堂までを巡るようにと立てられていた卒塔婆は、そなたの父の師末が立てて通った標である。そなたはこれから決して故郷の奥州へと下ってはならぬ。ここからすぐさま都へ上って関白殿へこれまでのことを詳しく申し上げよ。家を立て菩提を弔うという願いは必ず遂げられるであろう。我はそなたの道中に力を添えて、護り神となるであろう。安心しておれ」とお告げになって、夜明けの鳥の声と共に、熊野の権現は紀州を指して飛び立たれました。羽黒山の権現は出羽を指して飛び立たれまして、塩竃の明神は奥州を指して飛び立たれました。
 宿房のあるじは、この出来事を有難く思い、聖と浄瑠璃御前、冷泉を連れて宿房へと帰りました。これほど有難い神仏のお恵みをなんとかして披露したいと、俗別当の栗田様に申し上げると、まことに不思議なことである、しかも、我が日本には多くの国があるのに、その中で当国信濃善光寺は由緒あるありがたい土地なのだと、すぐさま伊能、こえ、高梨、おおいの村上、そのほか国の有力な豪族の元に使者を立ててこの不思議な出来事を伝えさせました。話を聞いた豪族たちから、「侍という立場は、今日は人の身の上の出来事だと思っていても、明日は我が身の上に不当なことが起きないとも限らない。この聖の身の上は他人事ではない」と同情が集まり、皆々が寄進を寄せて聖を都へと送りました。聖は都へ上って、すぐに関白様に一連の出来事を申し上げたところ、「二条の中納言を奥州の国司として下らせたのは、その地は東の果てであるから、きっと騒動が起こるであるであろうから、それを鎮めよということであったのに、逆に中将が国司の身として許されない乱を起こすという大罪を犯してしまったのであるから、征伐をしなければならぬ」との天皇の命による裁可を下して、この裁可に従って聖を元の師門として還俗させて平の家名を立てさせました。師門様は、急いで逢坂の関を越え、中仙道を下って奥州の入口である白河の二所の関を越えて、軍勢を揃えなさいました。師門様の軍勢は三千余騎で、天皇様の御命令を先に立てて高鞍の中将の屋形へと押し寄せ、すぐに屋形を攻め落として中将を討ち取り、師門様は長年の望みを遂げられました。それだけでなく、その上にさらに天皇様から所領をいただいて、三迫に屋形を造り、以前の戦で中将に討たれた四十八人の家来の一族の人を尋ね出して家臣として抱え、平の一門は繁昌しました。浄瑠璃御前が多くのお子様をお生みにになって、一家繁栄なさったのも、神仏のお気持ちによる恵みからです。
 その後、師門様は紀州熊野権現へと参詣し、またますます塩竃の明神を崇め、あわせて羽黒の権現を尊崇することはこの上ありません。さらに、月王丸の縁者を探し出し、その恩に篤く報いるために一家を継がせるようにして、こちらも子孫繁昌なさったというのも、すべて神仏のお気持ちに叶う振る舞いをしたからであります。

付録 善光寺如来について

 善光寺縁起によると、善光寺如来は日本に渡ってから約百年後、信州長野に運ばれてから十年ほどが立つ頃に自身のお告げにより、お隠れになったとされています。それ以降、七年に一度の御開帳にさえ姿を見せず、善光寺本堂奥の厨子の中に安置されています。御開帳で公開されるのは上の写真の前立本尊といい、ご本尊を模鋳したものです。ですから、善光寺のご本尊は絶対秘仏であり、現在に至るまで参拝者ばかりでなく、善光寺の僧侶でさえ見たことがありません。
 前立本尊とは、信州善行寺御本尊の身代わりともいえるもので、御本尊が忠実に模写されているものとされています。また、前立本尊が作られたのは鎌倉初期であると伝えられています。
 中央の阿弥陀如来の右手の印相(手の形)は、手のひらを開いて前面にかざす「施無畏印(せむいいん)と呼ばれ、衆生の畏れを取り除くことを意味しています。左手の印相には大きな特徴があり、手を下げ、第二指、第三指を伸ばし、他の指を曲げた形をしており、刀剣印(とうけんいん)と呼ばれるとても珍しい印相です。
 左右の菩薩の印相も、梵篋印(ぼんきょういん)と呼ばれ、胸の前に左右の手のひらを上下に重ね合わせる珍しい格好をしています。中には真珠の薬箱があると、善光寺縁起では伝えられています。三尊が立っているのは、蓮の花びらが散り終えた後に残る蕊が重なった臼型の蓮台です。善光寺の前立本尊の大きさは、中尊が四二・四センチ、左脇侍(観音菩薩)が三〇・五センチ、右脇侍(勢至菩薩)三〇・二センチです。御本尊も同じ大きさと考えられますので、そんなに大きなサイズではありません。

           (以上、善光寺のホームページより引用させていただきました)