師門物語 上 福福亭とん平の意訳

師門物語 上

   師門物語 意訳
 さて、灯火は消える前に光が増す。人は死ぬ前に悪念が起こる。そのような世の中、朝には精気に溢れて人生を誇っていても、夕暮れには白骨となって野の外れに朽ちる無常の世である。
 さてさて平の将門公は、まことに不思議の力を持った武者です。武具に身を堅めて頰から顎にかけて白い毛並みのある栗毛の馬に乗って敵に向かわれる時には、同じ出で立ちの武者が八騎並ばれるので、どの武者が真の将門公か見分けられません。このことだけでなく、公は矢を一本射られると、一度に八人の武者を射貫くほどの優れた武者でいらっっしゃいます。
 でありまして、関東を征服して、下総の国に新たな都を建て、その屋形に「平新皇」と額を掲げて思いのままに振る舞っておられましたので、公がいくら兵術に熟達されていたと言っても、天皇様の命に従わなかったものですから、将門公はとうとう駿河で討たれてしまいました。
 将門公の御首はすぐさま京へと運ばれ、罪人の首を晒す左の獄門の脇の柱に南向きに八寸の鎹で(かすがい)留められました。ある時この首が「ああ、駿河にいる私の胴体よ、京へ上って来い。そうしたら、この鎹を抜いて胴に飛び付いて、東北の方にお立ちの多聞天がお持ちになっている剣を奪い取って宮中へと乱入して、恨みのある敵どもを撃ち殺すのに」と言って、南に向けられていた首が駿河の地のある東へと向いて、不気味に笑いました。
 この将門公から五代の子孫に平師末という方が、奥州三(さんの)迫(はざま)においででしたが、並ぶ者の無い長者でございました。ですが、このご夫婦の間には嘆くことがありました。それは何かと申しますと、お二人の間に男も女も一人の子というものがありませんでした。ある時奥方が、師末様に向かって、「実に、聞くところによると、塩竃の明神様は霊験あらたかでいらっしゃるそうです、さあ、百日の精進をして明神様にお籠もりをし、子授けをお祈りしましょう」と話をすると、師末様はお聞きになって、「もっともなことである」と仰って、お二人で精進を始めて百日になりましたので、明神様へと出掛けてお籠もりをして、お祈りをしましたが、その内容が素晴らしいものでした。まず第一のお願いには、「金銀で明神様の御姿である鏡を月に七枚ずつ造って、三年間奉納いたしましょう」とあり、さらに、「それがお気持ちに添わないならば、朱の糸でたてがみを編んだ神馬を毎月七頭、三年の間奉納いたしましょう。それでも不足とお思いならば、八人の乙女と五人の神楽奏者とで御神楽を三年の間一日も欠かさず捧げましょう」と深く御祈りをして、早くも九十九夜になりましたが、明神様からのお告げは一向にありません。百日の満願になる夜の夢に、髪を左右に分けて耳のあたりで輪に結った上品な少年がお二人の寝ている枕元に立ち寄って、「そなたたちの願いがまことに気の毒に思い、そなたたちの子種を、上は忉(とう)利(り)天のはて、下は地獄の底の底までの世界中を隈なく捜し回ったのであるが、全く見付からなかった。しかしながら、夫婦の者が一心に願うのであるから、極楽世界の阿弥陀様にお願いして、一子を授けると告げるのである。安心いたすように」と告げて立ち去られると思ったとたん、夢はすぐに覚めました。ご夫婦の喜びはこの上ありません。
 お二人はすぐさま三迫に帰って、かねての願いが叶ったという思いを抱いて日々を過ごしているうちにいつしか日が経ち、奥方はお子様を宿していつもとは違う様子でありましたが、一人の玉のような男の子を儲けられました。一家はこのお子様を手の内の大切な玉、袖の上の蓮華のように大切な存在として、大事に大事にお育て申したところ、夕方に出た筍が夜の露に育てられて一夜の内に成長するように、ぐんぐんと育って、月日が流れて間もなく十三歳におなりになりました。この男のお子様を十三歳で元服させて、本名が師門となりました。師門様が十七歳の冬の頃に、刈(かつ)田(た)の兵衛様の一人娘の浄瑠璃御前という十七歳で、琴も琵琶の楽器も弾け、みごとな筆跡を書き、和歌も堪能という姫の評判を伝え聞いて、この浄瑠璃御前を妻にと願って迎えました。二人は天にあるならば比翼の鳥、地にあっては連理の枝というように決して離れまいと深く愛し合い、早くも三年という時が経ってしまいました。
 お二人はこのような日々を過ごしていましたが、ある時、浄瑠璃御前が何気なく庭の植え込みを御覧になっているのを舅の師末様がその様子を物陰から御覧になっていまして、しばらくしてからお子様の師門様をお呼びになって、「これ師門、よく聞け。お前の妻の浄瑠璃御前を実家の刈田へ送り返せ」と仰いましたので、師門様はこれをお聞きになって、「ああ、嫌なことを仰いますなあ。まあその仰せ言はどうでもあれ、とにかくそのまま浄瑠璃御前に聞かせましょう」とお答えしたのは、お気の毒なことでございました。師末様が「私の言うことが叶わないのなら、どうしようもない」と仰いました。思えば、この一言こそが、師門様があちらこちらの土地を遍歴されるできごとの発端でございました。
 さて、そのままに時は過ぎて行きましたが、舅の師末様はその身に重病を受けられ、いよいよ臨終が近いという時に、我が子の師門様を呼び寄せて仰ることには、「お前に、浄瑠璃御前を刈田へ返せといつも言っていたのに、承知しないのは残念なことだ。そもそも武者というものは、見目容の優れた美女を妻に持つべきではないのだ。何としても浄瑠璃御前を刈田へ送り返せ」と仰り、これが師末様の遺言となってしまいまして、ご一家の嘆きはこの上ありません。六十三歳が寿命とは仕方のないものではありますが、師末様が亡くなられたことを師門様はとても嘆かれました。
 日々が過ぎ津ゆくにつれて、師末様が亡くなったという悲しみも次第に薄れてゆきます。そして、師門様は十九歳になられました。その力に強いことは七百人力です。弓は五人で張る強い弓、使う矢はこぶし十五を並べる長さで、名馬に黒みがかった飴色の衣で乗るという極めて武芸に達した人でありまして、一族の武者四十八人がこれに従い、一門繁昌なさって、浄瑠璃御前を刈田に戻せとの親の遺言には背いて、栄華を楽しんではいましたが、ここに、師門の身の上に、一大事が降りかかってきました。それは何かと言いますと、この奥州に新たな国司が下ってくると伝わったことでした。その国司の名を二条の中将殿と言います。国司が下るということで、三迫の内の高鞍に国司の屋形を造って、奥州中の大小の領主が皆、国司の元へと出仕して、中将をとても大切に歓待しました。この中将という人の本性は、色好みでありまして、都から連れて来た女房の数は、総勢三十人余りということでありました。ある時、人々が揃って出仕したところに中将が、「皆に申したいことがある。我は花の都を出立して、東のこの奥州の地に下ってきたのであるが、少しも心安まることがない。皆が真にこの私を大切に思うのなら、皆には娘が五人や三人または一人はいるであろうから、その中で一人ずつ我に下さらであろうか」と言い出しました。そこで人々は、都から来た中将を婿にして良い目を見ようと思って、姫を一人ずつ差し出しましたので、中将の所には三十人余りの姫が集まりました。中将は姫の一人一人を見定めて、これはは色黒だ、こちらは色が白過ぎると言い、これは髪が短い、反対に髪が長すぎるのは不気味だ、ある者は琴は弾けるが琵琶が出来ない、こちらは琴は弾けるが和歌が詠めない、また和歌は詠めても字が下手だとか、これは並みの人より背が低いから嫌だ、背が高いのは深山の中の木のようだと嫌って、とうとう三十人余りの姫を二十日の内にすべて元の家へと返してしまいました。
 ある時、中将がおいでの部屋の壁一重を隔てた一間で、伊達の太郎と信夫の二郎が妙なことを話していました。伊達の太郎が、「中将様があれこれ女の選り好みをなさると言っても、刈田の兵衛の一人娘で、今は三迫の師門と夫婦となっている浄瑠璃御前ならば、まさかお嫌いになることはなかろう」と言いますと、信夫の二郎がこの言葉を聞いて、「壁に耳あり、石が物言うと言い、どこに誰が聞いていまいものでもない。めったなことは言うものではない」と言いました。中将がこの会話を聞いて、「二人は何を話していらっしゃるのですか」と言って、「こちらへおいであれ」と言いますので、伊達の太郎と信夫の二郎の二人が中将の御前に来ました。中将は「今の話は本当のことですか。それならば、刈田の兵衛の所へ手紙を出そう」と言って、大至急我が屋形へ来るようにと手紙を遣りましたので、刈田の兵衛は一体何事かと、急いで高鞍にある中将の屋形へと参上いたしました。
 中将はすぐさま刈田の兵衛に面会して、「早速のお出ましで、とても嬉しく存じます。刈田様へのご用事というのは別のことではございません。貴殿に御酒を差し上げて私もお相手をしようということでございます」と言いますと、刈田の兵衛は「承りました」と答えて、洒落た肴で型通りの酒宴を始めました。その後に中将は、「これは都から運ばせた貝の殻でできた盃でございます」と大きな盃を取り出し、家来に、「刈田殿へ差し上げよ」と命じて、刈田の兵衛にその大盃を渡しました。中将が、「刈田殿、その盃でお飲みください」と言うと、刈田の兵衛はひざまずいて受けて、この大盃を三杯まで飲み干しました。中将が喜んで、「もう一盃」と勧めると、刈田はさらに続けて二杯飲みましたので、中将はほくそ笑みながら、家来に「例の物をここへ」と命じて、刈田の兵衛に鞘を梅の模様のある鮫皮で包んだ太刀一振り、金襴の布十巻を贈りました。刈田の兵衛はこれを畏まって受け取りました。
 しばらくして中将が、「刈田殿は浄瑠璃御前という娘御をお持ちというのは確かですか。いまだ世に出ていない師門という男を婿にお取りになったと伺っています。浄瑠璃御前をこの私に下さるならば、この国の出納役すべてをお任せいたしましょう」と言いますと、刈田の兵衛はもともと欲に固まっている者なので、横を向いて一人ほくそ笑んで、「とにかく仰せに従いましょう」と答えましたので、中将はとても喜びましたが、兵衛の長男の刈田の太郎は、刀を引き寄せて、父の兵衛を強いまなざしで見て、「飲み過ぎたのか、それとも年のせいか、一人の娘に二人の婿を取るとということ、都のやり方はどうだか知らぬが、この国は東の果ての国とは言いながらも、これまで聞いたこともないことだ。思うだけでも腹が立つことだ」と言い捨てて、座敷を後にして、親より先に刈田の屋敷へ帰りました。世間の人々は皆、太郎の心ばえを褒めました。
 その後、伊達の太郎、信夫の二郎の両人が、「話がここまで進んでいますので、時が経ってはよろしくないでしょう」と言うと、中将は「私に計略がある」と言って、急いで「明日から七日間の狩を行う」との書状を作りましたので、使者は三迫へと急いで行って師門様に告げます。師門様は、「承知いたしました。改めて御返事をするまでもありません。明日参上します」と仰って、すぐに一族四十八人に、「明日から七日の狩である、用意をせよ」と告げました。夜が明けて、師門様が狩にお出掛けになろうとすと、浄瑠璃御前が師門様の袖を押さえて、「お待ち下さい」と引き止め、「ああ、忘れていました。今日の狩場へのお出掛けは日延べして下さい。なぜかと申しますと、先夜の夢に、あなた様の端に角を付けた頑丈な弓が三つに折れ、あなた様の大鎧が誰も蓋を開けないのに唐櫃から出ているのを、誰とも分からない者がどこへともなく持って行ってしまうとはっきりと見ました。そんことがとても気懸かりになっております。私も路頭に迷うと夢を見ましたが、私のことはともかく、あなた様の御身の上が取り分け気になって心配しております」と、元気のない様子で仰ると、師門様はこれを笑い飛ばされて、「誰が夢の中で酒を飲むと見て、実際に酔うということがありましょうか。私が狩に出掛けてその留守の間の独り寝の寂しさは想像できます。終わったらすぐさま帰って来ますよ」と仰います。そして、師門様は、浄瑠璃御前のお付きの女房たちに、「浄瑠璃御前に琵琶や琴を弾き、御酒を差し上げて、寂しい思いをさせないように」と申し付けてお出掛けになられましたが、神ならぬ身でありますので、これから悲しいことが次々と起こるのをご存じないことで、とてもつらいことでございました。
 こうして中将の狩が始まり、その最中に、伊達の太郎と信夫の二郎は五百騎余りの軍勢を率いて三迫の師門様の屋形へと押し寄せて、矢を入れた箙や鎧の下の草摺を叩いて鬨の声を挙げましたが、屋形の内は驚いて、騒ぐこともできずにしばらくの間ひっそりとしていました。そこで寄せ手が、「我々は刈田殿とのお約束で、浄瑠璃御前のお迎えに高鞍から来たのである」と名告りました。その時屋形の留守を守っていたのは志太の三郎とたからの両人でありましたが、この名告りを聞いて志太の三郎が、「これ、たから殿、我々でどれほどの防戦ができるであろうか。ここはいったん屋形を落ち延びて師門様にこの様子をお知らせして、生き伸びようではないか」と語りかけます。たからの太郎はこの言葉を聞いて、「軍勢が押し寄せたこの時に師門様がここにおいでにないのは幸いのことだ。そなたのことはいざ知らず、正八幡様もお見守りくだされ、ここで立派に討死をする」と言いながら、そこにある唐櫃の蓋を開けて甲冑を取り出してすぐさまてきぱきと身に着け、上帯をきりりと締めて、四尺五寸ある太刀を緒を結んで提げ、中央が黒色の大きい羽が付いた戦闘用の矢を二十四本指し入れた箙を背に負い、三人力で弦を張る強い弓に弦を掛けて、正面の高い櫓へ走り上がって、大声で、「たからの太郎、歳二十七」と名告って、弓を地に突いて堂々と立ちました。
 志太の三郎も、「私は貴殿の気持ちを確かめるためにあのようなことを申した。見事でござる」と言って、畏れ多いことではありますが、大将用の鎧を身に着けようと唐櫃の蓋を開け、肩掛けを載せて調え、上帯をしっかりと締めて、太刀の緒を十文字に結んで身に付け、漆を塗らない竹にくぐいの羽を付けたこぶし十五分の長さの矢を四十八本入れた箙を背中に高めに負い、こちらは五人で張る強弓に弦をきちんと張って、正面の高い櫓へ走り上がって、「志太の三郎、歳二十五」と名告りました。
 それに対して、伊達と信夫方の五百人ほどが鬨の声を挙げて攻めかかろうとしました。そこへ二人が次々を矢をつがえて射かけたものですから、主立った武者が三十人ほど射倒されて、形勢不利と思ったのでしょう、引き退くところへ、二人は櫓から飛んで下りて「一隊が敗れれば、残りも全滅する。掛かって参れ」と言いながら、正面の門と裏門とを開け放って散々に斬りかかると、その場で五十人ほどを倒しました。殺された者のほか、傷を負った者は数知れません。こうして二人はまた屋形の内へと入り、もはや矢も尽きてしまいましたので、志太の三郎が、「師門様も今ごろ亡くなられていることであろう。この上罪を作っても仕方ない。自害して師門様と共に参ろう」と言って、腹を切って死にました。たからの太郎も同じく自害しました。
 そこで、伊達と信夫の二人は屋形に乱入します。浄瑠璃御前は、我が身は女であっても敵に捕らわれまいとお思いになり、「守り刀を渡すように」とお命じになります。お付きの冷泉が「この場は私にお任せ下さい」と言って止めました。見知らぬ者たちが塵取りの形をした底板と手すりだけでできた粗末な輿で迎えに来ました。浄瑠璃御前は「ここで死のう」と仰いますが、冷泉は「私に考えがございますから」と浄瑠璃御前を無理矢理輿にお載せして、高鞍へ行かせました。浄瑠璃御前を迎えた中将はとても喜んで、浄瑠璃御前に監視役三十人を付けて昼夜見晴らせました。
 その後、三迫では、襲われた時に病気で臥せっていた月王丸という若者が病に床からようやく治って涙を流し、「お気の毒な、この有様を師門様には誰が知らせるのだろうか。それとも、師門様はもう自害されているかも知れぬ。とにかく見付からないように行こってみよう」と言ってひたすら歩いて狩場へと行きますと、師門様は何もご存じなく、普通の鹿の二頭分もある大きな鹿に出会って狙いを付けているところで、月王丸がやって来たのを御覧になって、「そなたは病気であったのではないか。何の用事があってやって来たのだ。しかも馬に乗らずに来て、何かあったのか」と仰ってつがえた矢を外して、月王丸に馬を寄せて御覧になります。すると月王丸は涙を押さえて、浄瑠璃御前が連れ去られた次第を細かに語ります。すると、お気の毒に師門公は言葉も無く呆然とされて、馬を留められましたので、四十八人の一族の人々はあちこちから駆け寄って怒りに顔を赤くしているところへ、一族の中から、かねただが進み出て、「この狩場を引き揚げて、狩装束を脱ぎ捨て甲冑に身を固めて、味方を集めて浄瑠璃御前を取り返しなされ、しかも、狩に使う鏑矢で敵を射ても大した役に立たない」と大声で叫びますと、それが良いという者もいました。松島兵衛が鐙(あぶみ)を踏ん張って馬上に立ち上がり、「さてさて、皆々はこの口惜しい事態をどうお考えか。これは明日まで延ばして良いということではない。とにかうこの狩の装束のままで押し寄せて戦っての討死が最も大切なことだ。少しでも時が経てば、平の家名は地に落ちるであろう。わしが先頭に立って討死しよう」と出撃いたしました。師門様も含めて五、六十騎の人々が高鞍へと向かいましたが、この出陣は「蟷螂が斧を取って隆車に向かう」という言葉の通り、自分の力量を考えずに強敵に向かうというはかないものでありました。
 一行は間もなく高鞍へ着いて、城の堀へと押し寄せ、戦装束ではなく狩装束のままではあっても、武士の習いとして鬨の声を挙げ、互いに名告り合いました。城内は予期していたことでありましたから、一千余の軍兵がしっかりと守りを固めて静まっていて、「ああ、ご立派な侍よ。まことに優美で勇ましい師門のやつが来たぞ。狩に使う鏑矢で射たとて何になるだろうよ。まあ、立ち向かってやろうかい」と馬鹿にしました。師門様は用意した鏑矢を射尽くしてしまい、馬から飛んで下りて、七尺三寸二握り(二メートル余)の大太刀を手にして、「皆は大手門を壊して開けた時に、一斉に刀を振るって中に斬り入るように」と仰るやいなや、幅九尋(十五メートル程度)の二重に掘った広い堀をひらりひらりと飛び越えて、櫓の下へついと入り、七尺三寸余の大太刀を振るって斬りこまれたもので、櫓にいた者は敵対することができずに転び落ちたので、師門様はそのまま櫓へと飛び上がり、その後、櫓から飛び下り、辺りにいた者を追い散らし、大手門の扉格子を散々に引き破って、「皆々入れ」とお命じになられたお姿は、春の蝶が谷の梢の間をひらひらと飛ぶよりもさらに優れて軽い身のこなしでありました。
 そこへ四十八人の一族の人々が斬り込みました。師門様は大勢を相手に立ち向かって戦っているうちに、敵の主立った武者五百人ほどを斬り伏せになられました。そこで師門様は、味方の者はどうしているかと様子を御覧になると、ある者は手傷を負い、ある者は討死するということで、満足に戦える味方は一人もいません。お気の毒に師門様は、もうこれまでとお思いになって、また大勢を相手に斬ってかかります。敵もなかなかの者なので、斬り合ううちに師門様の七尺三寸の太刀は十分に鍛えられた名作ではありましたが、相手の太刀と暇無く打ち合っていたために、鍔元から折れてしまい、刀の柄(つか)ばかりが手に残りました。師門様は武器が無くなってしまって、戦いようがありませんが、それでも勇気があり、その上に大力でありますから、櫓の下へ走り寄って一番高い柱を引き折って脇に挟んで、ふたたび敵の大勢の中へと走り込んで柱を振り回しますと、人々は向かうことができず、秋の嵐が木の葉を散らすように、四方にぱっと追い散らされ、多くの人が柱で打ち倒されて、しばらくは傍に近寄る者は無くなりましたので、月王丸は師門様に、「ああ。殿のお見事な御手柄でございます。今はこれまででございます。殿様が亡くなられましたらだれが御一門四十八人の方々の菩提を弔うことができましょうか。ここは生き延びられて出家なさり、人々の菩提を懇ろに弔いなされば、人々の魂も喜ぶことでございましょう。この世は今の時だけではございません。必ず望みを遂げられる時もございましょう」と、この屋形の門の外へと押し出すようにしました。少し人々の気持ちが緩んだ時に、月王丸が大声を上げて、「我は師門様の家来の月王丸、歳十八。師門様は御自害なされたので、我もその御供をするぞ」と大声で叫ぶやいなや、討たれて横たわっている者の中で良い顔の首を搔き切ってそれを手に高いところへと上がり、腹を十文字に掻き切って、腸を(はらわた)取り出し、切り取った首を腹の中に押し入れ、その後に自らの喉笛に刀を立ててうつ伏せに倒れました。この月王丸の見事な最期の様子を人々は皆褒めたのです。
 こうして、中将の屋形では、もはや師門を討ち取ったということで屋形を浄めさせて間もなく静まったのですが、とはいうものの、子を討たれた親の悲しみ、親を殺された子の悲しみ、兄を討たれての弟の嘆き、一家の柱の夫を殺されての妻子の嘆きと、高鞍の周辺にはただ嘆きの声ばかりが満ちて、中将のことを良く言う者は一人もいませんでした。