まつら長者 前編(初段~三段目) 福福亭とん平の意訳

まつら長者 前編 (初段~三段目)

  初 段
 今から語ります神仏の現世での物語は、国で言えば近江の国、竹生島弁才天のもともとの物語を詳しくお話しします。この弁才天は、かつては普通の人間でいらっしゃいました。
 国の名は大和の国の壺坂という所に、松浦長者と言って、裕福な人がおいでになりました。お名前を京極殿と言いまして、その名は、はるか高麗や中国までも響いていました。屋鋪の四方に黄金の垣を作り、周囲に多くの木を植え、数々の門と館を並べ、数知れずの花が様々に咲き乱れ、池の汀の砂は数々の宝石を敷き詰め、ありとあらゆる宝が満ちあふれていて、極楽浄土もこのようであろうかと思われます。
 このように豊かに栄えていらっしゃるのですが、この家には、男子も女子も、お子様が一人もいらっしゃいませんでした。殿様は奥様をお呼びになって、「これ、奥よ、あなたと私と、長い年月添いながら、子という存在が無いというのは、世間の評判も恥ずかしい。さあ、あなたと私と、初(は)瀬(せ)の長谷観音様にお参りして、多くの宝を寄進して、お願いしてみようよ」と仰いました。奥様はお聞きになって、もっともなこととお思いになり、「それこそ望むところでございます」とお答えして、ご夫婦連れだって、初瀬詣でへとお出かけになりました。
 初瀬までおいでになり、仏前にお参りして、鰐口をちゃんと打ち鳴らして、三十三度の礼拝をして、「南無、大慈大悲の観世音様、枯れ木にも花を咲かせるようにしようというあなたのお誓いに間違いがないならば、男子でも女子でも、子種をお授けになってください。このお願いが叶いましたら、仏前の花の帳を(とばり)黄金で作って毎月三十三枚ずつを三年の間寄進いたしましょう。それでも足りないとお思いでしたら、錦の帳を並べて、三年の間寄進いたします。それでも不足とお思いでしたら、一日千部のお経を毎日三年続けて読ませましょう。男子でも女子でも、いずれにせよ子供を授けてくださいませ」と仏の十八願に則った頑を立てて、その夜はその場で夜明かしをいたしました。
 ああ、有り難いことに、夜中ばかりに観音様は長者夫婦の枕元にお立ちになって、「これ夫婦の者よ、そなたたちの嘆きが気の毒で、子供を一人授けるぞ」と、黄金の幣(ぬさ)をお授けになって、たちまち姿を消されました。
 長者ご夫婦は、夢から覚めて、がばと起き上がって、「ああ、有り難いご利益をいただいた」と再び仏前にお参りして、すぐお帰りとなりました。お屋敷にお帰りになると、観音様のお約束の頼りのあること、奥方様は間もなくご懐妊されました。九か月のお悩みを経て、いよいよ産み月の十(と)月(つき)となって、ご出産となりました。生まれたお子さんを急いで取り上げてご覧になると、まるで玉で出来たような美しい姫君でありました。すぐさまお子さんの名を、夢で授けていただいたことそのままに、さよ姫御前とお付けになりました。多くの人が集まって、姫を囲んでもてはやすことは、言葉に尽くされません。
 このようにおめでたい日々に、人間の運命は定めがないというのはこのことでしょうか、姫が四歳の時に、お気の毒にも京極の殿様は風邪気味になられ、病が重くなって、今はの際に成られて奥方様をお呼びになり、「お話があります、お聞きください。。たった一人のあのさよ姫を立派に育ててくださいよ」とおっしゃって、またさめざめとお泣きになりました。奥方様はこの言葉をお聞きになって、「ご安心ください。あなだ様だけの子ではございません。必ず立派に育てましょう」とお答えになります。京極殿は喜ばれて、『法華経』を取り出して、「これを私の形見として姫に見せてください。お名残惜しいことであるなあ」と言いながら、西に向かって手を合わせて、「南無阿弥陀仏、弥陀仏」という言葉を最後の言葉として、惜しくも御年三十六歳を限りとしてはかなくなられました。
 奥方様も一門の方々も、これは夢か現実のことかと、天を仰ぎ地に身を投げ出して、この上なく泣き嘆かれました。いくら悲しんでも今さらいたしかたのないことですので、野辺の送りをして荼毘に付して遺骨を集めて墓を建て、供養の卒塔婆を書いてお建てになりました。弔問の人々はそれぞれにひとまず家へと帰り、以後、七日ごと、四十九日、百か日の法要を営んで日が過ぎましたが、長者の冨はただ一代に築き上げたものなので、蔵の中の宝も、庭に積んだ宝もいずれも使い果たし、山のようにあった宝物はすべて水の泡のように消え失せて、貧しい家にとなってしまいました。一家の人々も、それまで近づきであった人々も、思い思いに散ってしまい、それぞれの故郷へと帰っていきました。
 ああ気の毒なことに、まつら長者の屋形には、奥様と姫様お二人だけいらっしゃいましたが、奥様はあまりの寂しさに、姫君を自ら抱き寄せて、殿の忘れ形見として大切に育て、姫君の成長に心を慰めて日々をお過ごしになっていましたが、速いもので、ついこの間のことと思っている内に、姫君は早くも七歳にお成りになりました。この姫君と申し上げる方は、一を聞いては十はおろか万のことを悟る聡明さで、周りの人々は、まるで天人がお出でになったか、菩薩様が天下ったか、と不思議に思うくらいでありました。位の高い公卿から低い殿上人に至るまで、この姫君に文を送らない人はいません。
 お気の毒なのは奥様で、春になると沢辺に出て根芹を摘み、秋になれば田のほとりに出かけて落ち穂を拾って、かろうじて露命を繋いでいらっしゃいます。この間に姫君は、早くも十六歳におなりになりました。お気の毒な奥様は、姫君を近くお呼びになって、「今年は早くもお父様の十三年の年回に当たっていますが、法事を営む蓄えがありません」と仰って、がっかりとなさっていらっしゃいます。奥様は『法華経』の経巻を取り出して、、「これさよ姫よ、これはお父様のお形見です。拝みなさい」と仰って、またさめざめとお泣きになります。さよ姫はこの母上のお言葉をお聞きになって、「これがお父様のお形見なの」と、経巻を顔に当てて、身も世もなくお泣きになります。
 姫君は涙の間にも、なるほど、まことに世間では、自分の身を売ってでも親の菩提を弔うものだということを聞いている。さあ、私も身を売ってお父様の菩提を弔おうと思い、夜の闇に紛れて屋敷を紛れ出て、春日の明神の神前に詣でて、「お願いでございます、春日の明神様、私を買ってくださるような人があるならば、お引き合わせください」と心からお願いをして、社を退出いたしました。
 そのころ、奈良の興福寺では、尊いお上人様が説法をなさっておいででした。さよ姫もこれをお聞きになりました。人々は身分上下の別なく大勢が集まりました。「そもそも親の菩提を弔うことは、自分の身を売ってでも行うのが最善の親孝行である」とお説きになっていたのです。説法を聴聞に集まった人々は、「なんとも有り難いお話であった」と言い合って里へと帰って行きました。
 これは大和の国での物語です。一方、そのころ奥州の陸奥の国安達の郡の八つの郷八つの村の土地に、大きな池がありました。その池には大蛇が住んでいて、その土地の氏神となっていました。不思議なことに、どのようないわれがあったのでしょうか、美しい娘を一年に一人ずつ捧げ物としてこの氏神に捧げていました。この土地に、こんがの太夫という裕福な商人がいましたが、この人身御供を差し出す当番に当たりました。太夫は、都へと上って身を売ろうという娘があったら買い取って身代わりに連れてこようと思い付いて、奥方に事情を話し、都へと上りました。この身代わりを買い取るという思いつきに、太夫の心は嬉しさで一杯でした。

  二段目
 さて、太夫が安達の郡を旅立って三十五日目に、花の都へ着きました。都の一条小川の、きく屋という材木屋に宿を取って、洛中の辻ごとに身を売る者があれば買おうという立て札を書いて立てておいて、自身は秘かに町々を回って様子を見ていました。都は広いと言っても、さすがに見る人はいませんでした。それではここで思い切って、これから奈良の都で探してみようと思い立ち、京の都を後にして、奈良の都へと足を急いで出かけました。奈良の都に着いて、つる屋の五郎太夫という家に宿を取って、奈良の都の辻々に告知の札を立てました。
 一方、気の毒な身の上と言えば、さよ姫が一番惨めでございました。早くも夜明け近くになりましたから、さよ姫は興福寺へとお参りになり、寺の御門の脇をふとご覧になると、高札があるので立ち寄ってご覧になると、「美しい娘がいるならば、高値で買おう」ということと、「連絡先はつる屋五郎太夫」と書いてありました。
 さよ姫はこの文面をご覧になって、ああなんとも嬉しいことだなあ、これからすぐにつる屋へ行ってこの身を売ろうとは思いましたが、いや少し待て、このまま自分がいなくなったなら、さぞやお母様がお嘆きであろう、そのことがお気の毒と、涙ながらに家に帰って行きました。
 こんなことがあった一方、太夫の心中は、札を立てて三日経ったけれども、何の反応もないとは、どうしたらよかろうかと、さまざま考えて悩むばかりでした。こんなところに春日明神は、太夫の苦悩を哀れとお思いになって八十歳ほどの老僧に姿となって、「これこれ太夫よ、ここから離れた松(まつ)谷(たに)という所に、松浦長者という裕福な人がおったが、あまりにけちで強欲であったために山のようにあった宝が水の泡のように消え失せ、本人も亡くなってしまった。今はもう全く貧しい家となって、家の中には奥方と姫のただ二人になっている。もしかしたら、この人が身を売ることもあるであろう、太夫よ」と仰せになって、かき消すように姿を隠しました。
 太夫はこのお告げを聞いて、なんとも嬉しいことを聞いた、これは氏神様のお引き合わせだと喜んで、仰せの通りに松谷へと来て見れば、長者の屋敷と思われる軒の高い立派な建物があります。瓦も軒も壊れて、水が次々漏れて行くけれど、止める人もいません。屋敷の前の広い庭に立って、「もし、誰か、頼みます」と声を掛けますと、さよ姫が奥から出て来て、「どちら様ですか」と答えますので、太夫は、「怪しい者ではございません。私は都の者ですが、身を売る姫がいるならば、高価に買おうとして、ここまでやって参りました」と言います。
 さよ姫は、これは願ってもないこと、これは春日明神のお引き合わせだと嬉しくお思いになり、「これ、商人さん、私を買ってくださいな。値段はそちらに任せます。親の菩提を弔う法事を営むため、それで私はこの身を売るのです」と仰います。
 太夫はさよ姫の言葉を聞き、「親の菩提を弔うと聞くからには、高く買いましょう」と言って、砂金五十両を渡しました。お気の毒なさよ姫は、すぐにその砂金を受け取って、「さて商人さん、私に五日間の猶予をください。明日になったら、お父様の菩提を弔って、五日目の昼過ぎの八つの頃に迎えに来て下さい」と固く約束を交わし、太夫は宿に帰りました。
 可哀想なのはお母様で、さよ姫が身を売ったことを全くご存じなく、持仏堂にいらっしゃいます。さよ姫は、お母様のそばに寄り、「これ申し、お母様、これをご覧ください。この黄金を門の外で拾いましてございます。この黄金でお父様の法事を十分になさってくださいませ、お母様」と仰いますと、母上様は嬉しくお思いになり、「まあまあ、あなたはお父様のご冥福を大事に思って法事を営みたいという志が深いから、この黄金を天がお与えになったのでしょう。それでは、法事を営みましょう」と、多くのお坊様をお願いして、十分に法事を営みました。
 可哀想なさよ姫は、「さてお母様、今は何をお隠しいたしましょう。私はこの身を売ってしまいました。人買い商人の手に渡り、どちらとも知らない国ヘと参ります。私は、どちらの土地にいるとしても、命永らえているならば、必ずお手紙を差し上げます。くれぐれも、後でお嘆きくださいますな。あなたのお嘆きが一番哀しゅうございます」と、この上なく嘆かれます。
 お母様はこのこのことをお聞きになり、「これは夢か現実のことか。それではあなたは自身の身を売ったと言うのですか。ああ、何という情けないことよ」とさよ姫に抱きつき、この上なく嘆かれます。さよ姫は母上の言葉を聞いて、「これ申しお母様、仰ることはごもっともではございますが、これも前世からの決まりこととお思いになって、どんな土地に参ろうとも、すぐにお便りを差し上げます。それではこれでお別れでございます。ごきげんよう」と仰って、名残惜しそうに表へとお出かけになりました。
 お母様は余りの悲しさに、「これは一体どういうことなのか、夫の長者に死に別れたことをあってはならないことと嘆いたのに、また姫よ、あなたに別れてしまったら、私はどうなることでしょう」と仰って、「ああ恨めしい世の中じゃ」と、身を揉んでお泣きになります。その我を忘れてのお嘆きの様子は、傍目にも気の毒であります。お母様は余りの悲しさに、「これさよ姫よ、そなたを買った商人の来るまで、しばらくお待ちなさい。さよ姫」と、姫の袂にすがりついて、親子二人一緒になって、再び屋敷の内にお入りになりました。二人の心の中の哀しさは、たとえようもありません。
 二人の嘆きはひとまず置きまして、一方のこんがの太夫は、五日目の八つ過ぎになりましたので、「なんと憎いやつだなあ、あれほど固く約束したのに、今になってもやってこないとは、腹が立つことだ」と急いで松谷へやって来て、屋敷の中へずいと入り、「これ、どうした姫君よ、どうして約束の刻限に遅れてしまうのだ。さっさと出ておいでなさい」と、大声で呼びましたが、人の気配がいたしません。
 太夫はますます腹を立てて、持仏堂へずいと入って様子を見れば、お母様と姫が二人だけで、読経をなさっていらっしゃいます。太夫はとても怒って、「これ姫よ、どうして遅くなったのだ。さっさとお出でなさい」と言いながら、さよ姫の肘を握って引っ張り、外へと走り出ます。母上様はこの姿をご覧になって、「つれないことをなさる太夫様、幼い姫のことですから、お許しなさってください」と、激しく涙を流されます。
 太夫はこの願いに耳を貸さず、建物の外へ出て行きます。お母様はさらに悲しんで、姫の跡を追いますが、太夫はこの姿を見て、「これ奥様、私は奥州の者でございますが、あの姫を養子にして、いずこかの立派な大名の家へと奉公に出すようになれば、あなた様の所へお迎えの乗り物を寄越しましょう。さあさあ、お帰りなさい」と、いかにもありそうな話にして母上様に偽りを伝えると、母上様はこの言葉を真実とお思いになり、「そのような次第であるならば、姫は幼い者でありますので、よろしく世話をしてやってください。今がこの子との別れか、姫よさらば」と、さらばさらばの別れの言葉を添えた涙の別れが哀れであります。ともかくも、母上様の我が子に別れる心の内、哀れという言葉だけでは収まらない、この上ないものでした。

  三段目
 おかわいそうに母上様は、泣く泣く屋敷へとお帰りになりました。その心の内はお気の毒でした。母上様は持仏堂にお参りになって、仏様への訴えごとはお気の毒でした。「ああ、情けないことじゃなあ。今日は姫の顔を見たが、明日から後の日の恋しさを、誰を頼りとして、さよ姫と思って心を慰めようか」とお思いになり、世の中の普通のことではないので、心は狂気になり、屋敷の内にいることもなく、狂った心のままに外へと浮かれ出ます。「ああ、さよ姫恋しや」と言いながら、とうとう泣いて両眼を潰してしまい、奈良の都をあてもなく出て、あちこちとさまよい歩かれるという、母上様のこの姿、哀れだと気に掛ける人もいません。
 母上様の嘆きはひとまずおいて、哀れな様子はさよ姫でございます。商人と一緒に、懐かしい松谷を後にして、春日明神の山を遥かに拝み、木津川を渡り、山城の国の井出の里も遠くに見えます。お気の毒にさよ姫は、慣れない旅の疲れの中で、一首の歌をこのようにお詠みになりました。
  あとを問ふそのたらちねの憂き身とて我が身売り買ふ涙なりける
  (菩提を弔う父親のためにと言って、我が身を売ったのは哀しいことですね)
と、このようにお詠みになり、長く生きるという言葉と同じ地名の長池の巨椋堤のほとりを過ぎて、だんだんに行くとほど近く、着いた所は、花の都と呼ばれる京の都でありました。
 気の毒なさよ姫は、旅装束を身にまとい、こんがの太夫と連れ立って、花の都を立ち出でて、東を指して下ってゆきます。さよ姫が太夫に、「これ申し、太夫様、道中の案内をしてくださいな」と仰ると、太夫はこの言葉を聞いて、「それならば道中案内をいたそう。ここは四条の河原、あちらにあるのは祇園の八坂神社じゃ」と言えば、祇園の林の烏が飛び立ちますが、そのように落ち着かない浮かれ心の中が、暗い中に明けの雲があざやかに立つて夜が明けるように、心の中に悟りが開けて仏法の教えもここに開くところじゃ。さて経を書いて亡き人を弔う経書堂はここだとかと、話しながら来ます。参詣する者皆が車や馬から降りる、車宿りや馬止めを通り過ぎ、清水寺の観音様の社前に着いた時、さよ姫は鰐口をちゃんと打ち鳴らし、「お願い申し上げます慈悲深い観音様、奈良の都においでになる母上様をどうぞ無事にお守りください」と伏し拝んで、(夜明けを告げる鳥の声とともに、)その夜はそこに通夜をいたしました。
 夜明けの鐘が早くも鳴れば(、夜明けを告げる鳥の声とともに)、後ろ髪引かれる思いで仏前を立ち出でました。そこで西門に立ち寄って、南を遥かにご覧になると、故郷が恋しく思われ、その思いの雲が晴れる間も無い私の思いです。秋風が吹けば、白川に、私が初めて出る旅の始めに、いっそうつらいことに遭うという響きの粟田口とは悲しいこと。日の岡峠を早くも過ぎて、この先どちらとお尋ねに、会う人もない追分や、山科に名高い四の宮河原を、順に辿って先を急ぎます。
 行く者も帰る者もここに逢うという逢坂の関の明神のそもそもは、醍醐の帝の御子の蟬丸様でいらっしゃると承ります。両の目が不自由なそのために、宮中からここに捨てられました。今は関の明神と多くの人が参拝に来ます。有り難いことと宮中から捨てられた関の明神の由緒を思い出し、このようにやつれ果てた私を、よろしくお守りくださいませと頼りない身でお願いし、その先の土地は近江で、母上には必ず逢えるということに通じるとは心が慰められます。大津打出の浜を過ぎて、志賀唐崎の一本松に我が身を思うと、頼りない一人の身が思われて、ますます涙は止められません。気が急いて、間もなく石山寺の鐘の声が静かに耳に届き、風情があって心が鎮まります。
 さらに思いは湧く瀬田の端、木の下にいても時雨が漏りくる守山に袖濡れて、置く露が風に散る篠原過ぎ、曇りのない鏡山は涙の中でしかと見分けられず、馬淵畷もとうに過ぎ、あれが惟喬親王が世を捨ててお建てなさった武佐寺よと伏し拝み、親王が長くお籠もりになった五条の宿、ここで年を重ねるという名の老蘇の森、愛知川を渡れば千鳥が飛び立ち、小野の細道、磨鍼山、番場、醒ヶ井、柏原の宿を過ぎ、恋しい懐かしい母上と交わした寝物語を思わせる地名の寝物語の宿を過ぎ、足を速めて進み行き、間もなく山中宿にお着きになりました。
 お気の毒な姫君は、旅の余りの過酷さに、「これ申し、太夫様、つらい長い旅を重ねてきましたので、足を速めようとしても足が出ません。この宿に二、三日足休めに逗留させてくださいませ、太夫様」と仰せになりました。太夫はとても腹を立てて、「奈良の都から奥州までの旅路は、百二十日とすると決めているのだから、どんなに泣いても嘆いてもそれはならん」と言いながら、杖を手にして姫君をさんざんに打ちましたので、お気の毒にも姫君は、杖に叩かれながらも嘆きの言葉を仰るのが可哀想です。
 さよ姫は、「つれないことよ太夫様、打とうが叩こうが、それが太夫様の杖だと思うと恨めしい。でも、冥土にいらっしゃるお父様のお教えの杖と思えば、一向に恨みとは思いません、太夫様」と仰って、死んでしまいそうにお泣きになります。太夫はこの姫の様子をご覧になり、ここに数日留まることはさせまいとは思っていましたが、余りに可哀想になり、この山中宿に三日間留まって、それから奥州へと下りました。
、嵐や木枯らしがふわと吹く不破の関、月が出ているのだろうか、宿の荒れた屋根の板の間から露も垂れ来て袖濡らす垂井の宿と聞けば、涙があふれて袂が絞れないほどにぐっしょりと濡れています。夜はほのぼのと明け、明るくなると赤坂で、ここは実のなるという美濃の土地ならば花も咲いてほしいという花の香りの杭瀬川にと着きました。大熊河原の松風は、琴の音と聞こえるでしょう。大熊を恐ろしい宿の名として通り過ぎ、嫌なことはここで終わりとする尾張の熱田の宿、熱田神宮を遥かに拝んで、これほど清々しく気持ちが涼しくなるお宮を誰が熱田と付けたのでしょう。
 三河の国に入りまして、足助の山が近くなり、妻を恋いながら得られない鹿が鳴いています。さよ姫はこの鹿の声をお聞きになり、「奈良の都にある春日大社の鹿が懐かしい」と仰いました。だんだんに道を進んで行くと、矢作の宿も通り過ぎて、あの著名な八橋に着きました。「さて姫よ、親のために身を売るという者は、あなた一人だけだとお思いになりますな。昔もそのような話がありますぞ。この八橋というのは、六歳と八歳の子が身を売って、親の菩提を弔うためにこの端を架けたので、それで八橋というのです。あなたも気を強く持ち直して、足を速めてくださいな、さあどうですか、姫君」と申します。
 ああ可哀想にさよ姫は、この話をお聞きになり、「さあ太夫様、身を売ったのは私だけかと思ったのですが、昔にもそのような人がいて、まだ幼い気持ちのままに身を売って、こんな名所を作られたのですね。ああ、私も、父御の菩提のためですので、このように後世に名を残しましょう」と、涙ながらに足を速められました。このさよ姫のお気持ちは、哀れという言葉だけでは言い表せません。