のせ猿草紙 福福亭とん平の意訳

のせ猿草紙 全

 さてさて、丹波国能勢の山に、年を経た猿がいて、その名を増(まし)尾(お)の権頭(ごんのかみ)と申しました。その子に、こけ丸殿といって、抜きんでて知恵や学問、芸能に優れた方がいました。このこけ丸殿が扇を手にして舞を一差し舞ってお入りになるのを見ると、皆、素晴らしさに心が奪われ、感動してしまいます。そんな月日を送る内に、こけ丸殿はようやく二十歳ほどになられました。ご両親は「どのような方からでも、お嫁さんを迎えなさい」と仰いますが、こけ丸殿は全くお聞き入れになりません。私には考える次第があります。世間一般のような者をどうして妻に迎えましょうか、どのような公卿殿上人の娘であっても、その人を妻にしなければ、長くないこのつらい世に生きた甲斐がありましょうかとお思いになっていらっしゃいます。「世間の人たちの中には、身の程を知らない高望みだと思うようなやつらもいるであろうが、言うまでもないが、我ら一族の先祖の猿丸太夫は、誰もが知っている歌人である。
  奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき
  (奥山に紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞く時、秋はもの悲しいものだなあ)
とお詠みになった歌は、この歌を小倉山荘の色紙和歌の中に、藤原定家卿もお入れになっている。そのほか、代々の歌人の説でも、我ら猿の一族を『稲負鳥』(いなおおせどり)『ましらの声』などと詠み入れている歌を世間の人は知らないのだろうか。おそらく、系図においては、世の誰に劣ることがあろうか。いいかげんなやつらと縁を結んで何になろうか」とお思いになり、普段は岩の間で花を見、秋は木々の梢で月を眺め、多くの種類の木の実を好み、とても優雅な色好みでいらっしゃいました。
 そのようにして過ごしている時に、こけ丸殿は願を立てることがあって、琵琶湖のほとりの日吉大社にお参りをなさいましたが、その時、京の都は柳の緑と桜の紅が混ざり合って錦のような春の真っ盛りでありましたから、こけ丸殿はあちこちと東山のあたりを眺め歩かれました。歩いて行くと、北白河のあたりに、いかにも立派な由緒ありそうに造られた草と木の御所があります。この御所はどのような方のお住都の鬼門を守る日吉大社   まいであろうかとこけ丸殿が立ち寄って、霞の切れ間から覗いて見ると、美しい姫君が琴を弾いていらっしぃました。こけ丸殿は、この方はどのようなお方であろうかと、心が落ち着かなくなって、瞬きもせずにじっとみつめていらっしゃいます。こけ丸殿がこのように心が奪われるのももっともで、この姫は、兎の壱岐守殿の一人娘でいらっしゃいます。姫君のお姿は並外れて美しく、耳のあたりはつやつやとして色白く、世に二人といないほどの美しいお姿でいらっしゃいます。こけ丸殿は、この姫のお姿をじっとご覧になって、世の中の人間の中にはこのような美しいお姿の方はいないであろう、何とかしてこの方とお近づきになる手がかりはないだろうかとお思いになり、それから後は足元もおぼつかなくなり、まるで夢の中で道をたどって行くような気持ちで日吉大社にお参りして、鰐口を打ち鳴らして、「お願い申し上げます、山王二十一社の神々様、白河のあたりで見た方の面影が忘れられないで、今はもはやはかないこの命も消えてしまいそうに思うこの私の身をお助けになり、あの姫君に会わせてくださいませ」と、一心籠めて、涙ながらに繰り返しお願いをして、神前をお立ちになりましたが、目もくらんで意識が消えそうになるので、故郷に帰ることもできなくて、木の葉を搔き集めて枕として、苔が莚のように広がっている所に倒れて横になり、ぼんやりとして一夜を明かされました。
 このようにこけ丸殿が悩んでいらっしゃるところへ、狐のゐなか殿がこの場においでになり、こけ丸殿の様子をじっくりと見て、「あなたの目元や手足はとても美しい。いったいどのようなお方で、ここにおいでになったのですか。ひょっとして、このお社にお参りになるのに、旅の苦労でお疲れになったのでしょうか」と、親しげにお尋ねになりましたので、こけ丸殿は「いえ、私はどこといってあてのない賤しい者の子でございます」とお答えになりますと、ゐなか殿は、「いえいえ、それは誠ではないと存じます。なるほど、この日吉の神社へお参りなさる方の中に、どなたかの姫君をご覧になって、心穏やかにならないに恋の悩みに沈んでいらっしゃるとお見かけしました。お心の内をあらいざらいお話しください」と、頼もしそうな様子で親身に話しましたので、こけ丸殿は、涙をはらはらと流して、「何を思い込んでいるのかと人が問いかけるという、その恋をしております」と恥ずかしそうに顔を赤くなさって、うつむいて横になられましたので、その時にゐなか殿は、「色も香も知る人ぞ知ると申します。私も若い時には、そのような恋もございました。人に思いをかけて恋をするということも、若い時よくあることです。お隠しにならずにお話しください、命を懸けてあなたに力を尽くしましょう」と言いました。そこでこけ丸殿は、「頼もしいあなたのお言葉ですね。こうして死んでしまったら、罪深いことです。今は、何をお隠しいたしましょう。先日、白河の桜の花の間を歩いていた時に、思いがけない美しい姫君を見て思いを込めました。今、この命の絶えてしまった後には、少しも可哀想だとは誰も思わないでしょう。でも、もしもこの恋がかなわなかったならば、猿沢の池へでも身を投げて死んでしまおうと思います。恋する命は少しも惜しくありません」と語って、たださめざめと泣くだけでした。
 ゐなか殿はお聞きになって「それでは、その方は、壱岐守殿のただ一人の姫君でございましょう。そのように御心をあれこれと動かされるのももっともです。この姫君という方は、壱岐守殿ご夫妻が四十歳におなりになるまでお子さんのいないことを悲しんで、八月十五夜の月に向かって子を授けてほしいと祈られると、奥様の右の袂に月が宿るというあらたかなお告げをいただき、ご誕生になった姫君でいらっしゃるので、美しいことは間違いのないことです。お名前を玉世の姫と申し上げます。あちこちの方々から交際を求める手紙が通ってくることは、降る雨よりも多いくらいでありましたが、天皇様の女御や后の位になるか、または公卿殿上人でなければ聟にはとらないということで、大事に育てていらっしゃる姫君でありますが、あなたは特別なお方と拝見いたしましたので、お望みをかなえて差し上げましょう。どうぞご安心なさってくださいませ。幸いなことに、私めの娘を、その玉世の姫君のもとへ宮仕えに参らせ、けしょう(けしやう)の前と呼ばれてお側におります。お手紙をお書きなさい。玉世の姫君へお届けして差し上げましょう」と言いますと、こけ丸殿は、とても嬉しく思って、
  君故にかき集めたるこの葉どもの散りなん後を誰かとはまし
  (あなたのために書き集めたこの言葉の数々を、私の死後に誰が弔ってくれるでしょうか)
このようにお書きになってゐなか殿へお渡しになると、ゐなか殿はその文を袂に入れ、「すぐにかなえて差し上げましょう」と言って、玉世の姫君の白河の御所へ行きますと、姫君はゐなか殿をじっと御覧になって、「どうして、最近はお出でにならなかったの」と雪にも負けない白い顔を上げて、とても懐かしく親しい様子で仰います。するとゐなか殿は、姫君の御前にほかの人がいない時を見はからって、「このようなお手紙です」と、姫君の傍に置きます。姫君は耳を横に向けて、恥ずかしそうに下を向かれましたが、ゐなか殿は人を上手にその気にさせる人で、「昔から、人につれない仕打ちをする人は、悲しい末路を迎えることでございますよ」と、みじめな末路となった小野小町のことを喩えに引いてじっくりとお話し申し上げたので、頑なになっていた姫君の心が、強情になっているのも罪が深いものだ、私は石や木のように情の無い身ではないのだからとお思いになって、このようなご返事の歌を詠まれました。
  をちこちのたつきも知らぬ山猿のおぼつかなくもわれを問ふかや
  (あれこれの様子も知らない山猿の身で、頼りなくもこの私に求愛をするのですか)
乱雑な筆跡で書き散らしてそこにお置きになった返書を、狐のゐなか殿は手に取るのも嬉しくて、すぐさま「こんこん、また参りましょう」と言い放って帰りました。ゐなか殿はこの手紙を急いでこけ丸殿のところへ持って行って見せると、ゐなか殿は嬉しくてさっと起き上がり、この手紙を三度上にいただいて見て、美しい筆の跡だと言いながら、胸にあてたり、顔にあてたりしました。その手紙をいただいてからますます玉世の姫君への思いが増さって、たびたびお手紙を差し上げますと、二つの川の行く末が一つの瀬として合わさるように、二人の間もそれほどに時が立たないうちに結ばれる身となりました。まず一夜の契りも、一度親しんでしまってからは、人目を忍んで通うことが重なり、今はもう二人は深い仲とおなりになりました。
 玉世の姫君の父の壱岐守と北の方はこの二人の仲をお聞きになって、「まことに、丹波の能勢の、増尾の権頭の息子のこけ丸殿は、評判の色好みで、どのような公卿殿上人の中にもないほどの立派な方である。今はお目にかかろう」と言って、いろいろな深山の果物を取り集めて、十分におもてなしをなさいます。壱岐守夫妻がこけ丸殿と対面して聟になったことを丹波の権頭様はお聞きになり、「このごろこけ丸がどこかへと出かけていると思っていたが、そのようなことであったのか。知らなかったなあ」と仰って、自らの館へ若夫婦を迎えるために、馬、乗物、若輩猿を大勢遣わされました。こけ丸殿は、このお迎えを受けて、玉世の姫君を引き連れて、丹波へと越えておいでになりました。こけ丸殿のご両親は、吉日を選んでご対面をなさって玉世の姫君をご覧になって、「世の中には、このように美しい姫君もいるものなのだなあ、こけ丸が心を奪われるのももっともだ」と言って、大切にもてなされました。その後、こけ丸殿と玉世の姫君の間にはお子さんがたくさんお出来になり、子孫も繁昌してお栄えになりました。昔の今も、このような幸運なことはないであろうと、めでたいことこの上ありません。