をこぜ 福福亭とん平の意訳

をこぜ

 山桜は、私が住むあたりの景物であるから、珍しくもなく、春のうららかな時には、浜辺がまことに好く、低い波と高い波の女波男波が交互に打ち寄せ、岸辺の美しい藻を洗っているところに、波間に浮き沈む千鳥の鳴く音もいうまでもなく好く、沖行く舟がのどかに吹く風の中に帆を掛けて行く中から、歌声がかすかに聞こえて、何の物思いもなく見えるのも風情があります。塩を焼く煙が空を横に流れるのは、誰の恋路に近寄るのでしょうか。向こうの山から柴というものを刈って運んで来る荷に花を折って挿してあるのは、風情の無い海人の行いとしては優美に思えるものよと、山の奥にあっては、見慣れないことも多いのです。山の神が集まって、様々な趣に感じて、一首作り上げました。妙な歌ではありますが、歌の心だけはこのようなものでございます。
  柴木とる海人の心も春なれやかざす桜の袖はやさしも
  (柴を刈る海人の気持ちも春なのであろう。桜をかざす袖は優雅なことよ)
と詠んで、山の神はあちこちらをうろうろと迷い歩いて行くのであります。
人あり」とて、水底へこそこそと入りぬ。
 さてここに、おこぜの姫と言って、魚の中では比べようがないほど優美なものがいました。顔は、かながしら、あかめばるとかいう魚に似て、頬骨が高く、目は大きく、口は広く見えましたが、十二単を着て、多くの魚を引き連れ、波の上に浮かび出ての春の遊びをなさっています。東琴をかき鳴らして歌う声を聞くと、か細い声であるけれども訛っていて、
  ひく網の目ごとにもろきわが涙かからざりせばかからじと後は悔しき漁師舟かも
    (曳く網の目ごとにかかる私のほろほろと流す涙、かからなければこのようにはなら  ないのにと、後には悔しく思う、漁師の舟でありますよ)
と歌い、東琴を弾く爪音は高く聞こえます。山の神はこれをしみじみと立ち聞きなさって、おこぜ姫の姿を見るやいなや、早くも恋に落ちてしまい、せめておこぜ姫のいるあたりへ近付いてみたいとは思うのですが、泳ぎを知らないので、近付くこともできません。浜辺にうずくまって手招きをしたところ、おこぜ姫は、「あら嫌なこと、見ている人があるわ」と言って、海の底へとこそこそと入ってしまいました。
 それにしても、山の神は、ほんの少しだけ見えた裳裾を曳いたおこぜ姫のお姿を、もう一度見たいと思って、心はそぞろになって一日中その浜辺に居座って遥かに眺めていますが、姫は二度と海の上においでになりません。そのまま日が次第に西に沈みかけたので、しおしおとして山の方へと立ち帰って、いにしえの業平のように、起きもせず寝もせずに夜を明かしました。おこぜ姫のおもかげは忘れることができないで、胸がふさがり、気持ちも苦しくて、木の実や榧の実などを取って口にするのですが、喉を通りません。おこぜ姫への恋しさがひたすら増すだけで、このまま草葉の露のように消えてしまおうとは思っても、死ぬこともできないままに鬱々とした夜が明けましたので、また浜辺へと立ち出て、ひょっとしたらおこぜ姫が現れることがあだろうと思う心だけを支えにして、もしかしたらおこぜの姫君が海面に姿を現されるかと沖の方を見ましたが、白波が打ち寄せるだけで、あの方は全くお見えになりません。山の神は涙をこの日のしるしとして、ぼんやりとして再びすみかへと立ち帰って、美しい簾の隙間から通ってくるかすかな風のように、どんなはかない手づるでもよいからあってほしい、せめて私の恋心をおこぜ姫に知らせて、自分が死んだ後でも私が思っていたことを思い出してくだされば、来世での罪も少しは軽くなるであろうに、山に住む者は水の様子を少しも知らず、また水の中に住む連中は山の様子を少しも知らないから、親しく語り合うことも出来ず、どうしようかと、大きくため息を吐いて考え込みます。この様子は、何ともはや、腹筋もよじれて、はたの見る目もおかしい姿でございます。でありますから、「都の中の因幡堂薬師の軒の端にある鬼瓦は、故郷にいる妻の顔に似ていて、ここは人々の多い都ではあるが、旅に出ているので恋しく思えるのです」と言って、さめざめと泣いたという人の心根まで思い出されて、ひとり笑いをされてしまうのです。
 山の神がこのように嘆いているところへ、川獺がやって来ました。山の神が言うことには、「もしもし、あなたは水中の案内を心得ていらっしゃいます。私はおこぜの姫君に恋心を抱いてしまいましたので、手紙を一通お送りするので、お届けくださいませ」と言います。川獺は聞いて、「そのおこぜは、目が大きくて、頬骨は高く、口は広く、色が赤く、とても見た目が悪いです。どう考えても、山の神などが、このような者にお心を留められるということなど、人が聞いて悪く思われるのもばからしいです」と言いますと、山の神は、「いやいや、それはあなたの偏ったお考えですよ。『女の目には鈴を張れ』ということがあります。目の大きいのは美女の相です。頬骨の高いのは貴人の相です。口の広いのは知恵がすぐれているという徴(しるし)です。どの点からでも難のないお方ですから、だれがご覧になっても、心惹かれないということがどうしてないでしょうか。そのように悪くあれこれと仰せられるのは、世の中によくあることです」と言って、思いに沈んでいる様子に、川獺は、まことに、縁があれば醜さも美しさに見えるというのはよくあることよと、とてもおかしく思っています。川獺が、「それならば、お手紙をお書きなさい。お気持ちをお伝えして差し上げましょう」と言うと、山の神の嬉しさは言葉に表せません。手紙を書こうにも、硯も筆もないので、ただ木の皮をむいて、思いのたけの言葉を書きました。その文は、「さてさて、あなた様の思いがけないことでございますが、一筆書いてお届け申し上げます。いつぞや、そっとある浜辺に出て、春の海のおもてを眺めておりましたところ、波の上のお遊びとおぼしくて、東琴をかき鳴らして歌をなされ、節を付けて歌っていらっしゃったお姿を遥かに拝見し、あなたのお姿が花に喩えるならば梅や桜のようにしとやかで、柳の垂れた糸のような枝が風に揺れている風情で、いっそうあざやかで心惹かれる様にお見受けいたしました。私めは、奥山に埋もれた木のように、朽ち果てて行くような身であるのもしかたありません。私めのあなた様への思いの末が恨みとして残ってしまったら、あなた様の身の上はどうなるのでしょうか。せめて、この手紙にあなた様のお手が触れたしるしとして、ご返事を下さいますれば、嬉しく存じます」と書いて、手紙の末に、
  かながしらめばるの泳ぐ波の上見るにつけてもをこぜ恋しき
  (かながしらやめばるの泳ぐ波の上を見るにつけても、おこぜ様が恋しい)
と詠んで、川獺に渡しました。

 川獺はこの手紙を受け取って、鼻がくすぐったい思いになりながら、浜辺へと出て、海の底へとぶくぶくと泳ぎ入って、おこぜ姫にお目にかかり、これこれとお話し申し上げると、おこぜ姫はお聞きになって、思いも寄らないことですことと顔をますます赤くなさって、山の神からの手紙をお手に取ることもしません。川獺は、「ああ、なんとつれないことでございましょう。藻に住む虫のわれからという名ではございませんが、この苦しみは自分の身からと涙に袖を濡らすというその袖の下でも、情けというものはその身の上に無くてはならないのです。そのならないという言葉に因む楢の小枝のようなほんのちょっとしたかりそめの宿の契りでも、思いを遂げるのがのが世の常の決まりごとなのです。まして、これは並々ではなく、後には契りを遂げようと、深く深く恋の淵に沈み込んだお心です。どうしてこのお気持ちを無にして良いものでしょうか。海人が塩を焼いている煙でも、思いがけない方になびくことがありましょう。春の柳の枝は、風が吹けば必ずなびき、その時枝ごとに乱れるように乱れるこの方(かた)の心の気の毒さを少しは汲み取ってくださいませ」などと、さまざまな言葉を尽くして申し上げると、おこぜの姫は、しみじみと思いを込めて顔をしかめ、初めは拒んでいましたが、それでも石や木のように心ないものではないので、いつもの赤ら顔で、恥ずかしいこともありますが、「さてさて、思ってもみなかったあなた様からのお手紙、お気持ちのご様子もとてもしみじみと思われますが、ただ一時のお気の迷いからのお言葉で、真心の伴わないお情けを掛けていただいても、浮世にはよくあることとは申しますが、秋の草葉が枯れるように、あなたが『離(か)れ』、離れていった時には、真葛の原に風が吹いて葛の葉が返って裏を見るように、『恨み』顔になるのも、嫌なものでございますので、あなた様と親しくなってしまった後は、どうしたら良いのでしょうか。とにもかくにも、このお気持ちに従うのはお許しいただいて、会わない昔とお思いいただくのがよろしゅうございましょう。一度逢ってしまっての思いに比べれば、逢わない前は物思いをしない穏やかであったということもございますから、仕方ないことでございましょう。また、私は青柳の糸のような枝、あなた様はそれに吹き寄せる春風として誘いを掛けるのだろうと存じている次第でございます」と書いて
  思ひあらば玉藻の蔭に寝もしなむひじきものには波をしつつも
  (思いがおありならば美しい藻の蔭にも共寝をしてください。波を敷物にしながら)
と、お詠みになって、川獺に渡しましたので、川獺は喜んで帰って、山の神に見せますと、山の神はすぐに嬉し泣きに泣いて涙を流し、急いで手紙を開いて見ると、おこぜの姫は自分の身を青柳の糸になぞらえ、あなたはそこに吹き来る春風とお書きになったのは、あなたに従いましょうということでありましょう。「それでは、今夜、おこぜの姫君のところへ出かけよう。ここまでやってくださったのだから、あなた、道案内をしてください」と仰います。川獺は、「たやすいことです。お供いたしましょう」と言います。
 このようなところへ、たこの入道がおこぜ姫が山の神になびいたという話を聞き伝えて、「さてさて、無念なことだなあ。わしが、おこぜ姫のところへ何度も手紙を送っても、手に取ることもしないので、恨みに思っているところへ、文の道にも熟達せず、武の道にも腕の無い、未熟な山の神の思いに応えようと返事するとは許せない。わしが法師の身であると馬鹿にして、そのように山の君の方ヘとあっさりと従うのであろう。いかの入道はいないか、おこぜの姫のところへ押し寄せて、姫を踏み殺せ」と、八本の手を広げて、落ち着かない様子で這い回りながら、大声で叫びます。
 傍にいるいかの入道が言うことには、「同じことならば、ご一門の方々を呼び集めてから、ご決断してご指示ください」と言いますと、「それがよい」ということで、あしだこ、手長だこ、くもだこ、はりだこ、いいだこ、ことうだこ、あおりいかに、するめの次郎という面々、どれも一門の身内なので、言うまでもなく集まり、他の家の面々も大名や小名といった身分によらず集まりました。
 おこぜの姫はたこの入道の軍勢が押し寄せるということを伝え聞いて、このままこの場にいるよりは、山の奥にでも隠れようと思って波の上に浮き上がって、あかめばる、かながしらを供に連れて山の中へと道を分け入って行くと、ちょうどその時に、山の神は川獺を供にして、おこぜの姫を見た浜辺へと出かけて行く、その細道でばったりと出会いました。山の神は余りの嬉しさに、動転して、「おいでになって山道で出会いました。山の奥は海の上、川獺はおこぜ姫だ」などと声を震わせてまとまりのないことを口にしましたが、それから連れ立って、山の神のすみかに立ち帰り、堅くむつまじい夫婦の契りをなさいました。世の中の人が言うことには、物を見て自分の判断基準で喜ぶのを、「山の神におこぜを見せたようだ」と言い伝えています。