資料:安寿とつし王丸(厨子王)はいくらで売られたか 福福亭とん平

  物語の中の人買いのお値段 試算

 物語の中では人身売買が行われ、とても多くの転売が繰り替えされ、主人公の悲劇を強調することがあります。
 その際にどれくらいの価格で取引が行われたかは、非公然の取引ですから、記録がないのは当然と言えば当然ですが、転売の多さを示すように金額が提示されている作品があります。語りの物語の中ですから語りやすい金額を口にするのかもしれませんが、当時の聞き手にとって納得できる金額であったのかもしれません。現代の金額に直すといくらになるのか、一つの参考として試算してみましょう。細かい数字を丸めていますので、誤差はたっぷりあります。
1.安寿とつし王丸(厨子王)の場合
 まず、説経の『さんせう太夫』の安寿とつし王丸の例です。つし王丸は、一般には厨子王として知られています。
 まず、直江の浦で売られる場面です。売り手は山岡太夫という当時の言葉で「人買い」、人身売買の名人です。
 安寿とつし王丸と母と乳母うはたきの一行4人は、讒言によって筑紫に流された父の無実を都へ訴えるために、所領のいわきを立ち出で、直江の浦に着きます。ここで山岡太夫という人買いの親切ごかしに騙され、海上で人買いに売られます。売値は4人で5貫です。
 原文で見ましょう。都へ行くには、陸路は難所が多いからと船路を勧められ、一行は船に乗ります。
 「沖をきつと見てあれば、霞の中に、舟が二艘見ゆる。『あれなる舟は、商い舟か漁り舟か』と問ひかくる。一艘は『ゑどの二郎が舟』、一艘は『宮崎の三郎が舟候』と申す。『おことが舟は誰が舟ぞ』『これは山岡の太夫が舟』『あら珍しの太夫殿や、商い物はあるか』と問ひければ、『それこそあれ』と、片手を差し上げ、大指を一つ折つたるは、四人あるとの合点なり。『四人あるものならば、五貫に買はう』とはや値さす。宮崎の三郎がこれを見て、『おことが五貫に買ふならば、それがしは先約束にてある程に、一貫増いて六貫に買はう』。我買はう、人買はうと口論する。刀づきにもなりぬれば、太夫は舟に飛んで乗り、『手な打つそ、鳥の立つに。殊にこの鳥若鳥なれば、末の繁昌する様に、両方へ売り分けて取らせうぞ。先づゑどの二郎が方へは上﨟二人買ふて行け。まつた宮崎の三郎が方へは姉弟(きょうだい)二人買ふて行け。負けて五貫に取らする』と、また我が舟に飛んで乗り、『なういかに旅の上﨟様、今の口論は誰故と思し召す。上﨟様故にて御座あるぞ。二艘の舟の船頭共は、太夫がためには甥共なり。伯父の舟に乗つたる旅人を我送ろう人送ろうと口論する。人の気に合ふは易い事、里も一つ、湊も一つの事なれば、舟の足を軽う召され、類船召され候へや。先づ上﨟二人は、あの舟に召され候へ。おこと姉弟は、この舟に召され候へ』と、太夫は料足五貫にうち売つて、直江の浦に戻らるる。」
 安寿とつし王丸の姉弟、母と乳母の主従の2人ずつが、ゑどの二郎と宮崎の三郎の2人に合計5貫で売られます。
 これを次の二つの史料をもとにして換算します。
 ①天正18年<1590> 秀吉朱印状による京都での両替定めは、金10両は銭20貫となっています。ですから、銭5貫は金2.5両となります。
 同年10月の『天正日記』では、米の価格が、金10両で米35石6斗となっています。銭5貫は金2.5両でこの4分の1ですから、米8.9斗となります。
 現代は米は重さ(㎏)で販売されていますので、これを㎏に換算します。米8.9斗は約1336.3㎏となります。昔は米価に政府の公定価格があって簡単に換算できたのですが、ここでは計算しやすい米価を採用して、10㎏5000円とします。すると、668,168円です。これが2組の合計ですから、安寿姉弟で約34万円が結論です。
 ②もう一つ、別の史料があります。
 慶長4~5年<1599~1600>の桑名の米価の記録で、銭5貫で米3.5~4.5石となっています。米3.5斗ですと約262,762円、米4.5斗ならば約337,837円になります。これが2組分ですから、安寿姉弟で約13万~17万円と①の半額になってしまいます。
 さて、これから姉弟は転売をされ、最後にさんせう太夫の元に来ます。これを原文で見ると、次の通りです。
 「殊に哀れをとどめたは、さて宮崎の三郎が、姉弟の人々を二貫五百に買ひ取つて、後よ先よと売るほどに、ここに丹後の国由良の湊のさんせう太夫が、代を積つて、十三貫に買ふたるは、ただ諸事の哀れと聞こえける。」
 転売の手数料として10貫500文が上乗せされました。物語のさらに後で、慣れない作業を与えられて働けない姉弟太夫は言います。
 「太夫は大の眼(まなこ)に角を立て、姉弟をはつたと睨んで、『さても汝等は、十七貫で買い取つて、まだ十七文ほども使わぬに、落てうと申すよな。落てうと申すとて落とそうか。何処の裏廻(うらみ)にありとても、太夫が譜代下人と呼び使ふやうに、印をせよ。三郎いかに』との御諚なり。」
 最初では13貫で買った、後では17貫で買ったと4貫も金額が違い、財務省でもあるまいに、帳簿改竄がなされたのかという点には、ここでは触れないことにします。この13貫という金額は、『をぐり』という小栗判官と照天姫の語り物にもある金額ですので、物語世界のお約束の金額であったのかも知れません。
 なお、照天姫の13貫は45回転売された最終金額で、安寿姉弟は75回の転売をされての金額としては、17貫の方が妥当かもしれません。
 さて、さんせう太夫の買値を先の史料を基に計算します。
 2人で13貫(上記の5.2倍)の場合です。
   ①で約174万円、②で約68万円から約88万円
 こちらが妥当かという2人で17貫(上記の6.8倍)の場合は
   ①で約231万円、②で約88万円から約116万円です。
 最初の山岡太夫とさんせう太夫との間に73人の仲買人がいます。それぞれの手数料を均等割で計算すると、最終価格13貫の場合は①で約19,000円、②で約7,500円から9,700円、17貫の場合で、約27,000円、②で約10,000円から約14,000円です。
2.照天姫の場合
 もう一つの作品、『をぐり』の照天姫の場合は、相模のもつらが浦で拾われ、
 「ただ売らばやと思ひつつ、もつらが浦の商人に、料足二貫文に、やすやすと打ち売つて銭をば儲け、胸のほむらは止(や)うである」
と亭主が拾ってきた美しい姫を、嫉妬と欲とがからんで、ともかくも早く売って儲けにしようという欲深の姥の一心によって売られました。その後の照天姫は、
 「殊に哀れをとどめたは、もつらが浦に御ざある、照天の姫にて、諸事の哀れをとどめけり。あらいたはしやな照天の姫を、もつらが浦にも買ひとめず、釣竿の島にと買うて行く。釣竿の島の商人が価が増さば売れやとて、鬼が塩谷に買ふて行く。鬼の塩谷の商人が価が増さば売れやとて、岩瀬、水橋、六渡寺(ろくどうじ)、氷見(ひみ)の町屋へ買ふて行く。氷見の町屋の商人が能がない、職がないとてに、能登の国とかや、珠洲の岬へ買ふて行く。 あらおもしろの里の名や、よしはら、さまたけ、りんかうし、宮の腰にも買ふて行く。宮の腰の商人が価が増さば売れよとて、加賀の国とかや、本折(もとおり)小松へ買ふて行く。本折小松の商人が価が増さば売れやとて、越前の国とかや、三国湊へ買ふて行く。三国湊の商人が価が増さば売れやとて、敦賀の津へも買ふて行く。敦賀の津の商人が能がない、職がないとてに、海津の浦へ買ふて行く。海津の浦の商人が価が増さば売れやとて、上り大津へ買ふて行く。上り大津の商人が価が増すとて売るほどに、商ひ物のおもしろや、後よ、先よと売るほどに、美濃の国青墓(おうはか)の宿、万屋の君の長殿の、代を積つて十三貫に買ひ取つたはの、諸事の哀れと聞こえ給ふ。」
ということで、次々と地名を辿る道行文のような叙述があり、結果として「四十五てんに売られたよ」と、45回の転売を照天は嘆くのです。
 照天姫の姥の売値は①で約27万円、②で約10万円から14万円、最終の万屋の君の長の買値が①で約174万円、②で約68万円から88万円となります。
 最初の姥から最後の長までの間に43の仲買人がいます。仲買人の取り分は、①の差額147万円を43で均等割にすると約34,000円、②で約13,000円から約17,000円です。
 安寿姉弟、照天姫のいずれの場合も、転売目的の人間が間に入って、手数料をせっせと稼いでいたのでしょうか。昔も今も転売で稼ぐ者がいました。
 人買いといえば、『閑吟集』という歌謡集にこんな歌があります。
「人買い船は沖を漕ぐ どうで売らるる身を ただ静かに漕げよ 船頭殿」
諦めながら売られてゆく身の哀しさが伝わってきます。

 (諸注釈書の史料を使わせていただいて、この計算をしました。)