続日本紀から 福福亭とん平 

七年目の巡り合わせ

 天平二年(730)正月十三日、大宰府政庁に近い大伴旅人の家に集まって人々が梅花の宴会を開き、花を愛でて歌を詠んだ。大伴旅人は人々の歌の序として「初春の令月、気淑(うるは)しく風和(やは)らぐ(この初春のよき月、気は麗らかにして風はらいでいる)」という文を記す。この『萬葉集』中の文字が、平成に続く新元号として、首相の意向をいれて採用された。

 天平七年(735)8月23日、大宰府から、「九州諸国にかさぶたのできる病気(天然痘)が流行して多くの人々が病に倒れている、そこで徴税を停止してほしい」という上奏があった。これが天平天然痘流行の第一波であった。

 天平九年(737)1月、遣新羅使一行が帰京した。一行の大使は対馬で病没、副使は病気で帰京できなかった。

 4月、太政大臣藤原不比等の第二子の参議民部卿藤原房前が亡くなった。九州諸国に天然痘が流行して多くの人が亡くなり、病で困窮の家には金品を施与し、薬を配布した。天皇が不徳を認める大赦令を発した。大赦令はこれから繰り返し発される。

 6月、役人に感染が広がり、役所が開けなかった。この月、以下の人々が亡くなった。大宅朝臣大国、大宰大弐小野朝臣老、下長田王、多治比真人県守。
 7月、大和・伊豆・若狭、次に伊賀・駿河長門の人々に金品を施与した。この月、以下の人々が亡くなった。大野王、参議兵部卿従三位藤原朝臣麻呂(藤原不比等の第四子)百済王郎虞右大臣藤原武智麻呂(藤原不比等の第一子)
 8月、以下の人々が亡くなった。橘宿禰佐為、参議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣宇合(藤原不比等の第三子)、水主内親王
 この年を総括して『続日本紀』は記す。「この春、かさぶたのできる病気(天然痘)が大流行した。病は初め筑紫より来て、夏を経て秋にまで及んだ。公卿以下天下の人々が相次いで亡くなり、その数は計り知れない。これまでこのようなことはなかった。」

 天平とはおだやかな時代であるような印象があるが、種々激動があった時代であったことはあまり知られていない。

 大宰府で、のどやかな梅花の宴が催された7年後、政府の判断の悪さにより感染症は都に広がり、ついには政権中枢にいた藤原四兄弟が全滅した。この間、7年。

 オリンピック開催のはずであった今年の7年前は、「お・も・て・な・し」や「原発の汚染水はアンダーコントロール」としてオリンピック招致に成功したと浮かれた年であった。

 この7年という時間と、元号を中国の文献からではなく、わざわざ『萬葉集』の天平時代から選んで「令和」としたのは、単なる偶然であってほしい。