浮世絵漫歩 18 保永堂竹内孫八

保永堂竹内孫八と保永堂版「東海道五十三次
 
 竹内孫八は天明元年(1781)生まれ、嘉永7年(1854)7月21日に、74歳で没します。井上和雄の『浮世絵師伝』(昭和6年刊)には、「眉山(びざん)」という項を立てて、以下の通り述べられています。
「竹内氏、俗称孫八、別に東一と号す、江戸霊岸島塩町に住し、地本錦絵問屋を業とせり。即ち彼の広重の傑作「東海道五十三次」の版元保永堂の主人なり。
 彼が画く所の人物画(大錦横絵)数枚及び、天保三年版の『俳諧歌六々画像集』、同四年版の『御大相志目多発鬻』、同年版の道化百人一首『闇夜礫』等を見るに、其の画風四条派の影響を受けたるが如き点あり、且つ時勢粧(じせいのよそおい)を主とせざる画風なれば、これを浮世絵師とするは当を得ざれど、少数ながら版書の作もあり、又広重との関係もあれば、姑(しばら)くこゝに収録しつ。彼の作品は天保三年乃至同七八年頃に止まり、風景を主としたるものは殆ど絶無なり、唯だ一つ「江戸名所の内、隅田堤のさくら」と題する大錦三枚続は、例外として広重風の手法を模したり。天保八年平亭銀鶏の著せし『現存/雷名 江戸文人寿命附』初編には彼を左の如く紹介せり、以て多少画名ありしを知るべし。
  『画』竹内眉山
  面白く画かける筆のはたらきは東(アヅマ)へとや人のいふらん
   極上々吉寿七百五十年」
と、版元として、また、浮世絵師としては認めにくいがという表現を添えて絵師として取り上げられています。
 さて、初代歌川広重は「東海道五十三次」の連作を生涯に二十種以上制作しています。そのうち、彼の出世作となったのが、天保4年(1833)から刊行が始まった連作で、当初大手版元の仙鶴堂鶴屋喜右衛門が企画し、そこに前述の小さな新興版元の保永堂竹内孫八が加わって、共同で出版されたものです。この連作は、完結時点では保永堂単独になり、保永堂版と通称されています。鶴屋がどのような経緯で撤退したかは明らかになっていません。
 ここで年譜の形で示します。なお、刊行は江戸から京都への宿場順になされたものとの前提で考え、日本橋からの順を付けてみます。
天保4年、「東海道五十三次」の刊行が開始されます。版元名で分類します。
 鶴屋・竹内連名 11図
 1.日本橋、2.品川、3.川崎、6.戸塚、8.平塚、10.小田原、18.興津、
 21.丸子、23.藤枝、26.日坂、28.袋井
 鶴屋単独 1図
  22.岡部
 竹内単独 43図
 4.神奈川、5.保土ケ谷、7.藤沢、9.大礒、11.箱根、12.三島、13.沼津、
 14.原、15.吉原、16.蒲原、17.由井、19.江尻、20.府中、22.藤枝、
 24.島田、25.金谷、27.掛川、29.見附、30.浜松、31.舞阪、32.荒井、
 33.白須賀、34.二川、35.吉田、36.御油、37.赤坂、38.藤川、39.知立
 40.岡崎、41・鳴海、42.宮、43.桑名、44.四日市、45.石薬師、46.庄野、
 47.亀山、48.関、49.坂ノ下、50.土山、51.水口、52.石部、53.草津
 54.大津、55.京師
天保4年12月、鶴屋喜右衛門が急死します。
 滝沢馬琴の『近世物之本江戸作者部類』に、「卒中であろう、享年四十六歳」とあり
 ます。
 この鶴屋喜右衛門の急死と、仙鶴堂の共同出版からの撤退とが結びつくのか否かは定
 かではありません。
◎翌天保5年1月、四方滝水による全55枚完結の文があります。
 めでたく刊行が完結して、目録が作られ、揃いで販売が始まったと考えられます。な
 お、この目録には宿場名と副題が一覧になっていますが、「戸塚 元町別道」が「戸
 塚 かまくら道」、「宮 熱田神事」が「宮 浜の旅舎」と大きく違っています。こ
 の目録に書かれた副題を持つ戸塚と宮の絵は描かれてはいないのでしょう。
天保5年2月7日~8日、「甲午火事」と称される大火が起きます。
 この火事で仙鶴堂も保永堂も共に焼けたと思われます。
◎時期不明、絵柄を改変した後版6点が作られます。
 版元名は竹内単独になりますから、鶴屋が共同出版から手を引いた後でしょう。この
 6図は、2月の火事に遭って板木が損傷したとも考えられます。
 後版になり連名から竹内単独に変更 5図
  1.日本橋、2.品川、3.川崎、6.戸塚、10.小田原
 もともと竹内単独名で、後版が作られた 1図
  4.神奈川
 鶴屋・竹内の連名として残った 6図
  8.平塚、18.興津、21.丸子、23.藤枝、26.日坂、28.袋井
天保5年頃 「近江八景」刊行
  保永堂は歌川広重作「近江八景」全8図を刊行します。
天保6年 保永堂が「木曾海道六十九次」の刊行を開始します。
 絵師は溪斎英泉、後に歌川広重が加わります。英泉の絵では少し硬い感じがしますの
 で、広重人気を求めたのかもしれません。刊行の途中から錦樹堂伊勢屋利兵衛が版元
 に加わり、保永堂との共同出版の時期を経て、錦樹堂の単独出版になります。この連
 作は天保8年に完結します。完結後、版権は錦橋堂山田屋庄次郎に移ります。この連
 作は絵師にも版元にも変遷があり、出版という業が水物であることを思わせます。
 
 さて、このように並べてみると、小さな版元保永堂は、天保4年から5年に満たない短い期間だけ版元として活動し、大評判になったであろう「東海道五十三次」によって名を残したと感じます。竹内孫八は、「東海道五十三次」を世に遺すために出版人になったとも言えるでしょう。
 竹内孫八は、「木曾海道」の出版に関わった後、約20年を生きています。

右下「広重画」の下に「竹孫(保永堂)/霍喜(鶴喜・仙鶴堂)」の連名(日本橋

右の「広重画」の下に「竹内(保永堂)」の単独印(原)

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左の「広重画」の下に「仙霍堂」の単独印(岡部)