信太妻 3 福福亭とん平の意訳

信太妻 ◎第三
そもそも、人間世界の盛衰について述べれば、盛者必衰(盛んなる者は必ず衰え)、会者定離(会った者は必ず別れるものである)、ということである。安部の保名は、しばらく前に信太の森で父を殺され、その敵を討ち取りましたが、世間の噂にならないようにと、故郷である摂津の安部野の地に帰ることなく、娘を妻としてその世話になって世間から姿を隠し、和泉の信太の森にほど近い一軒の民家に住んで、日々を過ごしていました。
 早いもので七年の年月が経ち、二人の間には若君がいらっしゃいます。その名を安部の童子と付けて、この上なく可愛がっています。この若君は成人の後、世界に名高い占いの名人といわれた安部の清明となります。父の保名は、現在は農業をして暮らしていて、今日もまた畑に出ようと外に出て行くと、童子も幼い姿で裸のまま父親の跡を追って出かけようとします。母がこれを引き留めて、「あれ、秋の風が冷たいというのに、風邪を引いたらどうするの」と上着を着せて、幅の狭い帯を引き回して結ぶのは、とても可愛い様子で、母はいつも子のことを思っています。田舎暮らし女性の常として、世渡りのために機織りをして、生計成蹊の足しにと、すぐに機織り機へ腰を下ろします。人の世の情けに頼り、機織りの仕事を繰り返し、縦糸横糸織り合わせて、先への不安を思う暇もなく、きりきりぱたり、とんとんと、織り上げる布は美しいものでございます。
 さてさて、この女房は、世間一般の普通の人ではなく、実は信太の狐でありましたが、保名に危うい命を助けられ、その恩に報いるために、人間界に入り、早くも七年が経ったのです。、今は秋風が吹く季節となり、古の(いにしえ)詩人が「梟、松桂の枝に鳴きつれ、狐、蘭菊の花に蔵れ棲む(梟たちは松と桂の枝で一緒に鳴き、狐は蘭菊の花の中に棲む)」と詩にして伝えたように、この女房は、庭先に見える垣に咲いている菊の花に見とれていました。女房は咲き乱れている花にうっとりとして、じっと見詰めてしまい、仮に人間の姿になっていることを忘れて、現してはいけない狐の姿に変わったまま、しばらく時を過ごしてしまいました。その時、童子は昼寝をしていましたが、目を覚まして、母の後ろまで来ましたが、母の顔を見たとたん、「きゃあ、怖いよー」をわめき叫んで大声で泣きました。母親はこの声に、はっとしてこれはいけないと思いましたが、さりげない様子で、「あれあれ、何をそのように怖がって泣くの」と訊きました。優しい言葉にも童子は全く母に近づこうとしないで、「あれ、お母様のお顔つきがお変わりになって、怖いんだよ」と泣いているところへ乳母が来ました。「どうして童子様はご機嫌が悪いのでしょう」と尋ねます。母は、さりげない様子で、「いやいや、何もないこと。寝ていたこの子が目を覚まして騒がしく駆け回るので、こちらへおいでと言ったら、逆に母の様子が恐ろしいと言って、妙なことばかり言うのよ。さあさあ、この子をあやしてちょうだい」と言うと、乳母は仰せを受けて、すぐさま童子を抱いて、奥の座敷へと入りました。
 母親が後に残って独り言をもらすのは哀れでございました。その一人での繰り言は、「私はもともと名も無き原の草葉の陰に暮らすような身であったものを、保名様の深い情けのお蔭で、この年月をすごしていましたのに、どうしたことであろう、恥ずかしい、色香が素敵なこの菊の花のために心を奪われて、水鏡に映る正体の狐の姿を幼子に見られてしまうとは、何たることであろう。これが縁の切れ目ということじゃ。あの子の様子では、きっと保名様にも語るであろう。せめて、あの子が十歳になるまでは傍で育てたいとは思うけれども、もはやどうしようもない事態になってしまったよ。もう、元の住処の信太の森へと帰ることにしよう。ああ、ああ、思いに任せない世の中であるなあ」というもので、しばらく涙を流していました。それにしても、夫の保名様がお帰りになるのを待ち受けて、それとなくお別れを申し上げようとは思いましたが、いや、何もしないままお留守に立ち去って、どこへ行ったか判らない形にするのが一番だと決心をしたのは哀れなことでございました。そのところへ乳母が、童子を抱いて、「落ち着いていらっしゃいます」と申し上げました。母親は「では、こちらへください」と抱き取って、「ああ可哀想な」と思いました。母親は童子と寝床に添い寝して、乳を飲ませ、あれこれと童子の世話をする姿は、いっそう哀れでございました。童子は間もなく寝付きましたので、母親は、ああ、これで跡を追われることはないと安心して、もう出て行こうと思いましたが、いや、このまますぐに出て行くと、夫の保名様が不思議にお思いになるであろう、およその様子を書き置いていこうと、硯を引き寄せて、細々と手紙を書きました。
「お伝えするのもお恥ずかしいことですが、私めは、信太の森に住む狐です。あなた様に命を助けられて、その御恩を返そうと、ふとした縁からあなた様の妻となって、早くも七年の時を過ごしておりましたが、童子に人間ではない狐の姿を見られてしまい、今後、どうしてあなた様にお会いすることができようかという気持ちを一心に抱き、とにかくこの家を出て参りますことを、軽薄だとお思いになるでしょう。世の人は夫婦の間の事情を知らないからと詠まれた古歌の通り、どうぞ事情を思いやってください。くれぐれも、童子を大切に守り育てて、私が人間でなく生まれて、ここに親子の別れをしなければならないこの苦しみを救うようになさってくださいませ」。
 ああ、それにしても可哀想な、この子が、夜になったらこの子が、母よ母よと、慕って捜し回るであろう、それをしみじみ思うと悲しいと、その場で童子にしがみついて、周りの様子も判らず、ただただ泣くだけでした。それでもやっとのことで気を取り直して、童子の後れ毛を撫でながら、「何としても可哀想な、私がこの家から出て行くのを全く知らないで、こんなに気持ちよく寝ているよ。私が元いた信太の森の住処に帰っても、この子のことを思い出すと、どんなにか悲しいことだろう。深く思えば、この子との親子の縁は、ここが最後か、悲しい」と、身を投げ出して泣くだけです。でも、もうここにいることはできないので、最前書いた手紙を、童子の着物の細い紐に結び付けて、傍の障子に、一首の歌をすらすらと書きました。
  恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
  (私が恋しいのなら、和泉の信太の森の中、葛の葉のひるがえる場所まで尋ねて来てくざ   さい)
と書き留めて、これ以上ここにいては時が経って、この家を出ることができなくなるだろうと、気持ちを強くして未練を思い切り、泣きながら信太の森へと帰って行った様子は、とても哀れなことでございました。
 その後、童子は、母親が出て行ったとは夢にも知らず、ゆったりと寝ていました。目を覚まして周りを見ると、誰もいません。「ねえお母様、ねえお母様」とあちらこちらを探しましたが、母が見付かることはありません。童子はますます母を求めて、「これ、乳母はいないか、お母様が私を棄てて、どこへだろう、お出かけになった。ねえ、今からは言うことを聞きます。いたずらもいたしません。ねえ、お母様」と母が童子を棄てて出て行ったのを知らないで、いつもの脅しだとと思って、足をばたばたした姿は、哀れの極みと知られました。乳母は驚いて、「これはどうしたことでしょう」と言うところへ、父の保名が野良仕事から帰って来て、「これ童子、何を泣いているのだ」と尋ねます。童子は、「ねえ、お父様、お母様がいらっしゃらないの」と、保名にすがりついて泣くだけです。保名が童子を抱き上げて、「これ、乳母よ、どういうことだ」と言うと、乳母は「いやいや、何もわからないのです」と答えます。保名が妙だなと思っているところで、障子に一首の歌が、
  恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
  (私が恋しいのなら、和泉の信太の森の中、葛の葉のひるがえる場所まで尋ねて来てくざ   さい)
と書いてありました。保名は不安な気持ちだけで、訳がわかりません。見れば童子の着物の紐に手紙が付けられています。保名が見ると、「なになに、私めは、信太の森の狐でしたが、あなた様に命を助けていただき、その御恩をお返しするために夫婦の縁を結び、これまで七年を過ごして参りました。しかし、今ここで家を出て行くのは残念なことです。というのは、私めの隠しておかなければならない姿を童子に見られてしまいましたので、このままこの家にいることは出来ないのです。くれぐれも、童子の世話をお願いします」という文面で、保名は読み終えるやいなや、これはこれはと呆れるばかりです。保名は涙ながらに、「それでは、いつぞや信太で助けた狐が、恩を返そうと美女になって、傷付いた私の命を救って、いろいろと介抱してくれたのか。けなげなことよ。仮に獣であっても、この七年という間のことを、どうして悪く思おうか。まだ幼いこの童子を可哀想だと思わずに、どちらへ行ってしまったのだろう。思えば思うほど、悲しいことよ」と繰り返し嘆きます。いたわしいのは童子で、「ねえ、お父様、もう日が暮れますが、お母様はお帰りになりません。ねえ、お母様のおいでになる所へ連れて行ってくださいな」と、わっと泣き叫ぶ時に、父の保名も乳母も共に激しく泣きます。保名は涙を押さえて、「おうおう、もっとも、もっとも。これ乳母よ、このまま捨て置くことはできない。今夜、信太の森へと行き、何とかしてこの子の母に会って、もう一度連れ戻したいと思う。そなたには留守を頼む。これ、童子よ、あまりにお前が泣くので、父は母を尋ねに出かけるが、お前は一緒に行くか、それとも、乳母に抱かれて後に残って遊んでいるか」と言います。童子はこれを聞いて、「ええ、お母様に会わせてくださるのなら、どこへでも行きます」と、保名にすがりついて泣きます。保名は哀れに思って、「そういうことなら連れて行って、もう一度母に会わせよう。こちらへおいで」と、夜の闇に溶け込み、信太の森へと急ぎました。
 一方、哀れであったのは、安部の童子の母親です。その身は畜生道の苦しみの多い身と生まれたその上に、さらに別れという辛いことが重なって、心は沈んでいるのでしょう。夜の寝床に幼い童子が私を求めてひどく泣いているであろう、可哀想だと心は闇になっています。子を哀れだと思うために涙は全く止まらず、道の行く先がはっきりと見えなくなって、立ち止まってしまうのも哀れです。時は秋のこと、草むらに集まる虫の声も途切れ途切れになるのも、心に沁みます。母はつらい気持ちを抱いて、道の草葉に秋風がそよそよそよと吹く時、あちこちの田に張り巡らした鳴子が引く人もないのに鳴り、誰かいるかと見ると、まだ刈り取らない晩稲の稲田を守る案山子の姿も、猟師がいるかと思えて、心細さはこの上もありません。気持ちを抑えて、ようようのことで道を辿って行くと、以前住んでいた森が近づきました。ここには、猟師が様々に工夫して狐罠を仕掛けてあります。用心してはいるものの、そこは狐の本性の情けないところで、罠に掛かるまいと思っていることをはたと忘れて、そのまま気が上ずり、どうしよう、こうしようと身もだえして、足元も覚束ない様子で罠に近づき、笠を脱ぎ捨て、羽織っていた小袖を脱ぐかとみると、すぐさま狐の姿となって踊ったのは、何とも不思議なことでした。猟師はあれこれと工夫をして、この狐を釣り取ろうとしましたが、そこは利口な狐のことですから、逆に猟師を罠に押し込んで、自分は嬉しい様子でその場を立ち退いて、踊り狂いながら、住処のある森の草むらに入って、姿が見えなくなりました。
 元の狐の姿に戻った母が草むらに姿を消した後に、保名が童子を抱いて信太の森へ来て、狐の住処はどこだろうとあちこちを捜し回りましたが、様子を尋ねられるものとしては、野原の虫の声ばかり、何の手がかりもありません。その野を吹き渡る風が葛の葉を裏返すだけで、満たされない気持ちがあります。保名は悲しく辛い気持ちのあまり、大きな声で、「やい、この子の母はどこにいるのだ。そなたの忘れ形見のこの子がとても焦がれているので、ここまで尋ねて来たぞ。もう一度顔を見せて、この幼い子の嘆きを止めてくれい」と、繰り返し叫びますが、返事をする者は全くありません。童子は待ちわびて、「ねえお父様、こんな恐ろしいところにいつまでいるの。お母様に会わせてくださると仰いましたが、噓だったのね。あーん、あーん、お母様、ねえ、お母様」と叫ぶ声に、さすがの保名も、心が沈んで何も考えられません。保名はどうしようもなく、「ああ、さて仕方がない。たとえ動物であっても、せめて一目だけでも姿を現さないとは、頑ななことだ。ええままよ、もう死んでしまおう。もうこの上は、この子を刺し殺して自分も自害して、この憂き世の苦しみから逃れよう」と決心して、「これ童子よ、母はもうこの世にいないのだから、父は今ここで死んであの世で母に会うのだが、お前も一緒に死ぬか」と尋ねますと、童子は、「ええ、お母様に会うのなら、殺してください」と泣きます。
 保名は、妻に会いたい気持ちで心が落ち着きませんが、もはやどうしようもなく、腰にした太刀をするりと抜いて、童子を刺し殺そうとする寸前、後ろを見ると、狐が現れて泣いています。童子はこの狐を見て、「あれ、怖い」と、すぐさま保名にすがりつきます。保名は、「怖いのももっともだ。これ、そこにいるのは、童子の母だな。その狐の姿では、いかに親子といっても童子が怖がる。以前家にいた時の姿になって、童子を慰めておくれ」と言います。その時狐は、そばの木陰にある池水に姿を映したかと思うと、すぐさま元の母親の姿になります。童子はこの姿を見て、「あれ、お母様」と言い終わる間もなく抱きつくと、母も童子を抱き上げて、「ああ、いったい何しにここまで来たんだね。思い切ったのに、親子の縁をきっぱりと切ったつもりなのに、またも切れないという迷いに引かされることが悲しい」とひしと抱いて泣くばかりです。保名は涙を流しながらも、「ふとした縁で夫婦となり、長い年月を重ねた仲、たとえどんなことがああろうとも、どうして嫌になることがあろうか。この子が可哀想だ。もう一度我が家へ帰って、せめてこの子が十歳になるまで、そばで育てておくれ」と言います。母も涙を流しながら、「私だって、この子が十歳までだけでなく、一生そばにいたいと思うのですが、私の身の上は、一度人間世界に暮らし、そこから一度狐の住処に帰ってしまうと、もう一度元の家に戻って暮らすということはできないのです。名残は尽きませんが、早々にお帰りください。お別れですが、この童子は、世の普通の人間ではありません。成人した後は、人を助け、世の導き手となる、この世に一人という存在となりましょう。さあ、この子に、形見の品を渡しましょう」と言って、その手で四寸四方の黄金の箱を取り出して、「この箱は、災厄から逃れられる竜宮世界のお守りです。これの扱いをよく知って使えば、天地日月人間世界とこの世のあらゆることを手に取るように知ることができます」と与え、また、水晶のような輝く玉を取り出して、「この玉を耳に当てて聞くときは、鳥や獣の鳴く声の意味するところをすべてはっきりと聞き知って、不思議な力を発揮することができます。さて、今はもうこれでお別れします。さあ、早くお帰りください」と言いましたので、保名は今は納得して、「そういう定めを聞くからには、もう迷いはしない。安心してくれ。この子を天下に随一の者として育て上げ、あなたの苦しさを癒やしましょう。さあ、童子をこちらへ」と、母から童子を抱き取ると、「いやいや、お父様には抱かれません。ねえねえお母様、お父様を止めてください」と母に抱きつくのを、保名は無理に引き離して、その場を立ち去るので、童子は「ねえお母様」と大きな声で泣き叫びます。母も泣く泣くその後ろについて、しばらくは一緒に歩いていましたが、「もうこれから帰ります。これ、童子よ。これがこの世の別れだよ」と言い、互いにさらばと言う声も細くなり、姿も見えなくなりましたので、母はもうその場にいたたまれず、また狐の姿になって、高い岩の上に駆け上がり、二人が去って行った方をはるかに眺め、天を仰ぎ、地に体を投げ出し、嘆きに沈むその様子は、これまでに例のない夫婦・親子の別れの姿は哀れであり、不思議な別れ、まことにまことに悲しさは誰でもわかるものよと、心打たれない者はございませんでした。