信太妻 4 福福亭とん平の意訳

信太妻 ◎第四
 さてさて、月日の経つのは早いものです。月日の進みを止めるものもなく、安部の童子は十歳を超えました。もともと並の生まれではないので、八歳の時から本を読んで学問を始め、その天性は一を聞いて十を知り、一度聞いたことは二度と忘れません。童子はその名を改めて、安部の童子晴(はる)明(あきら)と名乗りました。毎日、家に伝わる天文道の巻物を夜の目も寝ずに熟読します。これほど学問に身を入れる上に、母である狐が竜宮の守り札と名玉を与えてくれたので、ますます力が付くことこの上ありません。そんな日を過ごしているある日、不思議にも、空中に音楽が聞こえ、花が降り、紫の雲がひとかたまり棚引きました。これはどうしたことと見ていると、雲の中から一人の白髪の年老いた僧が獅子に乗り、平地を進むように現れたのは不思議なことでした。晴明はこの有様をただ呆然と立って見ています。この時に老僧が空中から、「我はこれ、大唐国雍(よう)洲(しゆう)の城(じよう)荊(けい)山(ざん)に長く住んでいる伯道上人という者である。そなたの先祖の安部の仲丸という者がわが大唐に渡って、我に面会して天文地理と占いの妙術を深く学んでその巻物を得て、それがそなたに伝わって所持している。と申しても、その奥義にまでは達していないのである。そこで、そなたは昔の仲丸の生まれ変わりである。であるから、前世に身に付けた才能、知識を受け継いでいて、仲丸より優っているのである。我はそなたに、陰陽、暦数、天文地理、加持、秘符の深遠な理を伝えて、そなたを天下の宝としようではないか」と、巻物一巻を取り出し、「これは、『金烏玉兎』という名の書である。そなたの家に伝わる『簠(ほ)簋(き)内(ない)伝(でん)』にこの『金烏玉兎』を添えて奥義を理解すれば、悪病や災難を避けるのは言うまでもなく、たとえ前世から定まった寿命で死んだとしても、一度は蘇ることは間違いない。さて、そなたの母の狐は、実体は信太の明神で、その正体は、はるか以前の吉(き)備(びの)真(まき)備(び)大臣である。昔、安部の仲丸から受けた恩を返そうと、苦しい獣の姿に生まれ、そなたの父安部の保名と縁を結んで、子孫繁栄するべき家の守り神となり、そなたに秘符名玉を伝え渡したのである。我の言うことを少しも疑ってはならぬ。我は、大唐国の城荊山に住むと申したが、本体は、文殊菩薩である。天文地理についてのこと細かな智慧を人々に与えるために存しているのである。疑ってはならぬ」とお告げになり、たちまち文殊菩薩の姿に変わって、雲へと駆け入られました。
 晴明が、「これはありがたいお告げだなあ」と、文殊菩薩の去った跡を遥かに伏し拝んでいると、父保名が来ましたので、晴明は伯道上人として文殊菩薩が現れて告げたことを事細かに語りました。保名はとても喜んで、「それは心強い良いお告げだ、ますます修行に励むように」と言いました。晴明は、家に伝わる『簠簋内伝』に『金烏玉兎』を併せて、毎日朝から夜まで熟読して占いの術に対する理解を深めていました。そんなある日、どこからともなく烏が二羽飛んで来て、軒に止まってしばらくの間さえずっているのを、晴明は妙だと思って、母の狐が与えてくれた鳥獣の声を理解することのできる玉を取り出して耳に押し当ててじっと聞いていました。しばらく経って、二羽の烏は、東西へ飛び去りました。晴明はこれを聞いて、「もし、お父上、只今、烏が不思議なことをさえずって行きました。始めの一羽は都の烏、もう一羽は関東の烏です。都の烏が関東の烏に語ることには、『今、都では天皇様がご病気だ。その原因は、内裏の建物を建てるときに、天皇様のご寝所の丑寅の柱の土台の下に、蛇と蛙が生きたまま埋め込まれ、蛇は蛙を飲もうとし、蛙は蛇に飲まれまいと戦っている。その戦いの苦しみが天に上り、とうとう天皇様のご病気になった。この蛇と蛙の戦いを取り除けば、ご病気は何事もなく治るであろう』とさえずっていました。まことに不思議だと思いました」と語って、巻物を開いて占ってみると、烏の言葉に少しも違いがありません。晴明は喜んで、「これは幸運が巡ってきました。急いで都へ上って、朝廷にこのことを申し上げて、このことを御前で占い、何としても世間に安部の名を上げて、認められるようにいたしましょう。いかがでしょうか、父上」と申し上げます。保名は嬉しく「おうおう、良くぞ申した。これは安部の家を再び世に出すめでたいしるしだ。天皇様のためにも、安部の家のためにも、一刻も早く都へ上ろうではないか」と言い、親子一緒に都を指して登りました。
 その頃、宮中では、天皇様がご病気になられていました。その治療のため、医師は診察・調薬にあれこれと知恵を出して、数々の漢方薬の材料を選り分け、主たる薬や補助の薬を調合し、多くの寺の霊験ある僧は仏の加護を祈って護摩を焚き秘法を尽くして祈りを重ねましたが、一向に快方に向かう様子がありません。そのようなところに保名と晴明の親子が参上して、真っ直ぐに皇居に来て、「私めは摂州の安部の保名と申す者でございます。さて、ここにおりますのは安部の晴明と申しまして、私めの子でございます。この晴明は、天文地理を知り、易の道と暦の道を自然に習得して、占いをいたします。往年の安部の仲丸の子孫でございます。さてこの度、天皇様がご病気であると伺いました。恐れ多いことではございますが、このご病気について占って差し上げましょう」と、かしこまって申し上げました。その時公卿が協議をして、「安部の仲丸の子孫ということであれば、占いに通じていることもあるであろう。それならば、占い申し上げよ」と、天皇様に近い、殿上の間の中庭の一段低い縁まで呼び入れました。その時に晴明がかしこまって申し上げることには、「そもそも、この天皇様のご病気の原因は、この御所のご寝所の北東の柱の土台の下で、蛇と蛙が戦って、その戦いの苦しみが炎となって天に上り、そのためにご病気になっています。この土台の下に埋められている蛇と蛙を掘ってお捨てになれば、ご病気は何の差し障りもなく快癒なさるでしょう」と、まるで見通しているように占いました。再び公卿が協議をして、「これは不思議なことを占いだな。それならば、まずその土台を掘り返せ」と、宮中の営繕担当の者に命じて、すぐに掘らせました。思った通りに蛇と蛙を掘り出して、すぐさまこれを捨てたところ、たちまちご病気はけろりと治ってしまいました。天皇様を始めとして、昇殿している人々はとても驚き、「なんとまあ、見事なことだ」と皆々心底感心いたしました。天皇様からは、とても誉れある不思議な者よとの趣旨が伝えられて五位の位が与えられ、清涼殿への昇殿が許されました。さらに、陰(おん)陽(よう)寮の長官に任じられました。特別に保名親子に安部野の庄の三百町の土地を与え、二人とも都に住んで朝廷に仕えよ、今日は三月の清明の日であるので、特に、晴明の晴の字を改めて、安部の清明と名乗れとの仰せがあり、薄墨紙に書かれた命令の書まで下されたのは、まことに格別なことでした。清明親子はこの天皇様からの書面をいただいて、これはかたじけないことだと、すぐに御前を下がりましたのは、素晴らしいことでございました。
 清明親子が帰っていった後へ、天下の博士として名高い芦屋道満が宮中へやってきました。天皇様や大臣が道満の顔をご覧になって、「これ、道満、今日不思議な事があった。十三、四歳の少年を宮中に入れて、天皇様のご病気について占わせたところ、その結果、すぐにご病気から全快された」と、口々にお話になったので、道満はとても驚きましたが、そしらぬ顔で、、「さてその者は、どこの誰と申し上げましたか」と訊きます。「それは、摂州の安部の晴明と名乗り、その時は、彼の父の安部の保名という者を連れてやってきたのである」と言われ、道満は、「さては以前、我が弟の悪右衛門を殺した敵であるな。あいつめをあちこちと探したのに、どこに隠れ忍んでいたのであろう。我が立場を危うくする奴、その上敵なのだから、そのままにして置いてよかろうか」と思い、「さて、皆様、その子の占いは、真相を当てたとお思いでしょうか。まあ、お考えになってください。この道満の占いというのは、唐の国でも並ぶ者がない法道仙人からの伝授を受けたもので、天下第一の占い達人と呼ばれた私が、そのような浅はかなことでは全快されないというのを知らないことがありましょうか。ああ、情けない仰せじゃ」と、いかにも情けないという様子で首を振って言いました。殿上の人々は、「いかに貴僧が仰せられても、ご病気が差し障りなく全快され、その上、ご病気の原因となった蛇と蛙を掘り出したこと以上の証拠はない」と、異口同音に仰いました。道満はこの言葉を聞いて、「いやいや、ご全快なさったのは、まず第一に医薬に当たる典(てん)薬(やく)頭(のかみ)が全力で知恵を絞られ、あちこちの寺の高僧たちは仏様への加持護念の祈りをし、また、微力ながらこの道満も、この度のご容態はお命に関わるかと存じて、ありとあらゆる書物を考究して工夫を加え、一心に祈りを捧げたために全快なさったのを、その者どもはいち早く察知して、今が好機と宮中に来たのです。また、蛇と蛙が出て来たのは、誰か分からぬがその者どもに味方する者がいて、こっそりと忍び入って置いたものに相違ありません。ご全快のちょうど良い時期に宮中に参って、不思議な力を持つ者よとの評判を取るのは、まことに見上げた者です。このように申し上げると、何となくその者を妬んでいるように似ていると思われてしまいますが、このように申し上げるのは、ひたすら天皇様のためで、もったいなくも天皇様を騙した悪人に褒美の土地だけでなく、ご綸旨までも授けてしまいました。私がこのように朝廷に仕えていながら、それくらいの偽りが判らないのかと、末代まで人の噂になるのかと存じまして、このように申し上げます。私の申し上げることが事実か噓かお疑いならば、あの者たちをお呼びになって、私と占いの力競べをなさってごらんなさい。どちらが正しいかがはっきりお分かりになるでしょう」と、恐れ気もなく言い切ります。公卿一同が協議し、すぐに天皇様に申し上げます。天皇様からは、「道満の言い分ももっともである。同時に、あの者の力の不思議さをはっきりさせるため、明日南殿で占いの力の優劣をはっきりさせよ」という意向が伝えられました。道満は喜んで御前を退出し、清明のもとへは天皇様のお使いが向かい、早くも対決の準備がされました。
 いよいよ勝負の日になりましたので、清明親子も道満も、夜明け前から宮中に入りました。天皇様が南殿にお出ましになりますと、公卿殿上人は一人残らず揃い、華やかな場面になりました。天皇様からのお言葉には、「両方それぞれに占いの力を競べ、どちらが勝とうとも、勝った方を師匠とし、負けた方を弟子として、ますます励むように」とありました。両方ともに、「かしこまりました」とお答え申し上げます。その時に、御殿の奥から唐櫃を数十人で担ぎ出します。その中には猫を二匹入れ、蓋が開かないように重りを掛けてあります。「この中に何が入っているかを占え」との仰せです。その時、道満は「これ、清明、そなたは占いの名人であると聞いている。きっとわしがそなたの弟子になるのであろうから、何事も教えにあずかろうではないか」と、馬鹿にするように言いました。清明はその言葉を聞いて、「ああ、それはお互いのこと。さて、わしが先に占おうか、それとも貴殿が先に占いなさるか」と答えます。道満は聞いて、「まずはそなたが先に占いなされ」と、おっとりと言います。その時、清明は占いを判断して、「この唐櫃の中には猫が二匹います」と申し上げます。道満は、やられたと思いましたが、何くわぬ顔で、「これは見事に占われたものだ。なるほど猫でございます。毛色は赤褐色と白です」と言います。殿上の人々が櫃に寄って蓋を取って見ると、言葉通りの猫が現れました。殿上にいる公卿殿上人の皆々が、これは見事と感心しました。
 皆、感心はしましたが、これでは勝ち負けが付かないと、また奥から大きな三方の上に見えないように覆いを掛けて、その中に大きい柑子蜜柑を十五個入れて二人の前に持ち出し、「この中にある物が何かを占え」とのお言葉です。今度は、道満がいらいらとしながら先に、「この中には大きな柑子蜜柑が十五個あります」と勢い込んで言いました。清明はもちろん占いの名人ですから、中は柑子蜜柑と知りましたが、そこは誉れを取るほどの者ですから、ここが術の不思議の見せ所と思って、すぐさま祈りを捧げて、柑子蜜柑を別の物に変えて申し上げます。「この中にあるのは、大きな柑子蜜柑ではございません。鼠が十五匹います」と申し上げます。天皇様を始め、その場の公卿殿上人は、これは、清明が占いを失敗したと、ひそひそとささやき、互いに目くばせをしあって、じっと清明の顔を見守っていました。道満は勝ったと喜んで、「なんと皆様、どちらが違っているでしょうか。きっと、私の占いが違っているのでしょう。これ、清明殿、今仰ったことに、特に言い変えはありませんか。上の覆いを取った後で、決して後悔をなさいますな」と勢い込んで言います。保名も今は焦った顔になり、額に汗を浮かべ、「これやい、清明、言い変えることはないのか。決して軽はずみな判断をするな」といらだって声を掛けます。清明は少しも動ずることなく、「ご心配なさいますな。早く覆いをお取りください」と言います。仕方なく人々が三方に近寄って覆いを取ると、そこには柑子蜜柑はなくて、鼠十五匹が出て、四方八方へ駆け回ります。その時、前の占いの時の二匹の猫がこの鼠を見るやいなやすぐに駆け出して追い詰め追い掛け、あるいはくわえて振り回し、あちらこちらへと走り回りましたので、御簾の中の天皇様を始めとして公卿殿上人、几帳の後ろから見ていた皇后、官女も皆一緒に騒ぎになって、「さてさて、不思議な清明の力だ」と感動する声々がしばらくの間は収まらず、始めに勇んでいた道満は、清明の弟子になるのかとしょんぼりとしてその場を立ち去ります。この後、清明には数々のご褒美が下され、そのまま御前を下がると、父保名は嬉しく、「ああ良くやったな、清明。我が子ではあるが、不思議な力を持つ者じゃ」と、道々何度も敬い上げて屋敷へと帰りました。保名の嬉しさはこの上なく、清明の占術の見事さに、とてもすばらしい占い手だと、世間の人々で感嘆しない人はいませんでした。