信太妻 2 福福亭とん平の意訳

信太妻 ◎第二
 保名は、思いがけない難儀に遭いましたが、狐の懇切な気持ちで幸いにも危うい命が助かりました。ですが、体のあちこちに傷を受けて気持ちもすぐれず、少し休もうと谷川へと下って行く途中に、土地の者らしい十六、七歳ほどのとても美しくかわいらしい女性が、川へと降りていって水を汲む様子をしていましたが、どうしたことか岩につまずいて、水の中へばしゃんと落ちました。それでも女性はそこに下がっている蔓草につかまりました。あわやというところに、保名が、危ないと言いながら近づいて女性の手を取って引き上げ、「やあ、危ないところでありましたな、怪我はありませんか」と言うと、女性はほっと安堵の息をついて、「ああ、これはこれは、お恥ずかしいことです。もう少しで死んでしまうところをお助けくださり、本当にありがたく存じます。ところで、あなた様はどちらのどなたでいらっしゃいますか。このような場所でお目に掛かるのも、並々ならぬ御縁でございます。この御恩はどうやってお返ししたらよろしいでしょうか」と、恥ずかしそうに言います。保名は女性の言葉を聞いて、「私は、ここから遠くない土地の者ですが、信太の明神へと参詣して、人に襲撃されるという思いも掛けない難儀に遭い、くたくたに疲れてしまったために、水を飲んで休もうとこの川に来て、あなたをお救いすることができました」と細々と話すと、女性はこれを聞いて、「それでは近国にお住まいの明神参りのお方でしたか。私めは、この山の麓に住んでおります土地の女でございます。お話のご様子では、お体がだいぶお疲れのご様子です。私の住み古した家がありますので、ひとまずそちらへお立ち寄りになってお疲れを癒やされるのがよろしいでしょう。命をお救いいただいた御礼に、なんとしてもご案内させてください」と、真心込めて言いました。保名はこの言葉を聞いて、「ああ、とても嬉しいです。この上なく疲れているので、そちらへ伺ってしばらく休みたいとは思いますが、あなたはそう仰いますが、私を連れて戻ったら、あなたの連れ合いの方がどのようにお思いになりましょうか」と言いました。女性は保名の言葉を聞いて、「仰ることはごもっともです。ですが私は、連れ添う者はなく、小さな家にただ一人住んでいる名も無い女でございますから、差し支えはございません。どうぞこちらへおいでください」と勧めるので、保名はもはや気にすることもなくなり、「それならば、もうこの上は何があろうとも、あなたの仰せに従いましょう」と、二人一緒に山道に入って行きました。まことに縁は異な物としか言えない不思議な男女の出会いでございました。
 さて、お話変わって、安部の郡司保明公が、一族と家来の人々を集めて、「さてさて、保名は信太の明神からすぐに帰って来ると思ったのに、まだ戻ってこないのか」と言っているところに、保名が連れて行った家来一人が、息を荒くして走って戻って来ました。家来は保明公の御前に出て、信太の明神での保名と悪右衛門の争いの様子を事の起こりから残らず語って、「味方は小勢、敵は大勢のため力が及ばないで、とうとう若君保名様も生け捕られてしまいました。私めもその場で斬り死にしようと存じましたが、この様子をまずお館にお知らせして、その後に若君の安否を尋ねようと存じまして、この通り戻って参りました」との報告を言い終わらないうちに、保明公はとても腹を立てて、「うーむ、それは残念なことじゃ。お前はよく戻って知らせてくれた。時をおいてはいけない。一刻も早く駆けつけて、保名を取り返そう。万一、保名の運命が尽き果てて殺されていたならば、我もそのまま、その場を最期の場と思い定めるぞ。皆々、武具の用意をして後に続け、よいな」と、門外から馬に乗って信太の森へと走り出せば、何万もの一族家来は、「それ、今が安部の家の存亡の瀬戸際だ」と大騒ぎになり、我も我もと急いで後に続きました。
 そのようなことがあって、悪右衛門つねひらは、狐をめぐってのつまらない争いから、あれこれと無駄に手間どってしまい、目的の狐狩りに時間を費やしましたが、やっと狐を捕まえて家来に持たせ、信太の山から帰路につきました。遠くを見ると、何か判りませんが、多くの人が勢いこんで走って来ます。これはいったい何だと見ているうちに一行が目の前に走り着いて、大声で、「やあやあ、そこにいるのは悪右衛門ではないか、こう申すのは摂州の安部の郡司保明という者である。さてさて貴様は、どういうわけで私の息子を訳もなく縄目に掛けたぞ。さあさあ、息子をこちらへ引き渡せ。言うことを聞かなければ、そのままにはしておかんぞ。どうだ、どうだ」と叫びました。悪右衛門はこの言葉を聞いて、「なにぃ、安部の郡司保明だと、我々は思いがけない口論になって、保名とかいう奴を捕まえたことはあったが、藤井寺のらいばん和尚がいろいろと宥めごとを仰るので、仕方なく助けて解き放ったのだ。わしらは知らないことだ」と言います。保明はこの言葉を聞いて、「あれあれ、貴様はこの上ない臆病な馬鹿者だな。今になってそのように言い逃れをしても、それが通ると思っているのか。この上は仕方がない。それ、者ども、奴らにとやかく言わせずに、斬ってかかれ」と命じましたので、家来達はいっせいに、刀を抜いて立ち向かいます。奥右衛門側ももはやいたしかたなく、身を守ろうと刀を抜き合わせて、激しい斬り合いになりました。
 保明の家来たちは、この保名を取り返す戦いが、安部家の今後に関わると命懸けで戦う姿です。また、悪右衛門の家来たちも懸命で、お互いに負けず劣らず戦いましたので、双方共に無傷の者はいません。攻めてきた側の大将である保明は、ここに保名の姿がないところから、これは保名は信太の森の戦いで討たれたのに違いない、こうなったら、亡き我が子の来世への供養に、敵の大将悪右衛門を討ち取って供養の願いを遂げようと思い、悪右衛門めがけて真っ直ぐに斬りかかります。悪右衛門は「なんのこれしき」と受けて、二人の刀は鎬を削り鍔を割る勢いで火花を散らし、ここが力の出しどころ、命の瀬戸際と斬り合います。どうしたことか、悪右衛門が形勢不利となったところへ、悪右衛門の家来が一人近づいてきて、保明の腰骨のあたりをえいと斬ります。保明はしまったと振り返り、この家来を脳天から二つに斬り下げ、再び悪右衛門と刀を合わせますが、保明の運が尽きたのでしょうか、刀を枯れ木へと打ち込んでしまい、抜こうとしているところを、悪右衛門が近寄って上からえいと斬り下ろします。これにはさすがの保明もたまりません、五十四歳を一生の終わりとして、とうとうそこで討たれてしまいました。悪右衛門がようやく打ち止めたと喜んでいるところへ、保明の一の家来の三谷の前司が走って来ました。悪右衛門は、これはいかんと、保明の体はそのままにしてその場を立ち去りました。三谷の前司はその後へ荒い息をつきながら走りついて、保明のはかない姿を見て、「しまった、遅かった、遅かった」と言いながら、主保明の遺骸を傷つけられないように物陰に隠して、「やあ、悪右衛門め、どこまでも追い掛け、逃がさんぞ」と、その跡をたどって追って行きました。
 さて、悪右衛門は、三谷の前司の追跡からかろうじて逃げのびているうちに、早くもいろいろなことがあった一日が暮れ、山道をあちこちどちらへ行くかとも判らずに進んで行きましたが、遥かに家の灯りがかすかに見えましたので、急いでその家へと寄って行き、「もしもし、こちらの家の方、私は道に迷った者でございますが、向こうの森で山賊に出会いました。山賊は今こちらへ私を追い掛けて参ります。ああ、なにとぞかくまって下さい」と声を掛けます。この家の主の女性は、この言葉を聞くか聞かないうちに「いえいえ、そのような危ない方を家に入れてかくまうことはできません。しかも、もはや夜のことですから、お入れするわけには参りません」と返事をします。その言葉が終わらないうちに、三谷の前司が走りついてきました。三谷の前司も、この家の灯りを目当てにしてこの家に寄ってきて、人影があるが、と闇を透かして見て、「やあやあ、そこにいるのは主の仇の悪右衛門ではないか」と言いながら斬りかかります。悪右衛門は「おう、お前か」と刀を抜き合わせて、しばらくの間斬り合いが続きます。家の中では、保名も娘も、これはどうしたことかと、外の様子を耳を澄まして聞いていました。外では、三谷の前司の刀がどうしたことか、鍔元からポキリと折れてしまい、三谷の前司は、これはいかんと、つっと悪右衛門に組み付いて、並々でない大力を出して、えいやと悪右衛門を組み伏せました。組み伏せはしましたが、三谷の前司には悪右衛門の首を斬るための武器がありません。「ええ、残念な。この野郎、首をねじ切ってやろう」と言います。そうはされじと悪右衛門は何とかして逃れようとして、二人は歯ぎしりをしたまま時が経ちます。悪右衛門は組み伏せられて、下から大声を上げて、「これ、この家の主はいないのか。私は河内の石川悪右衛門という者である。先程言った山賊が来て、今、私を殺そうとしている。さあさあここへ出て山賊と戦って私を助けたなら、、ほしいだけ褒美をやろう。摂河泉に名高い石川悪右衛門様を知らないか。さあ、助けに出て来い、出て来い」と大声で叫びます。保名は、この悪右衛門の言葉を聞いて、すぐさま「これは天の授けか、最前恥をかかされた悪右衛門を討ってやろう」と言います。娘はこの言葉を聞いて、「それなら、私が灯火を持って先に出ましょう。その後からそっと敵に間違いなく近寄って、思い通りにお討ちなさい」と言います。保名は「わかった」と、娘を前に行かせ、自分は後について家を出ました。三谷の前司はこの二人の姿を見て、「やあやあ、お前らは何者だ。私を山賊と思って、間違って手出しをするな。私はご主人の敵討ちをしているのだ」と言います。保名は灯火の明かりを頼りに透かし見て、「やあ、その方は、三谷の前司ではないか」と声を掛けます。前司は、「なに、そう言うのは誰だ」と答えます。「私は安部の保名だが、その主人の敵というのは、どういうわけだ」と言います。前司はこの言葉にさては若君かとあっと驚いて、「それでは、若君様でいらっしゃいましたか。申し上げますが、こいつめが大殿様を手に掛けたのでございます。その事情は後ほど申し上げましょう。さあ、こやつをお討ちあそばしませ」と言います。保名は、「おお、事細かに聞くまでもない、我にとっても敵、そして親の敵、報いを知ったか」と、悪右衛門の首を宙天高くに斬り飛ばし、「まずは、この家の中で事情を聞こう。さあさあ、こちらへ入ろう」と三人揃って中に入りました。親子主従の不思議な縁により、世間にめったにない巡り会いがあって、親の敵、主の敵を討ったと、感心しない者はございませんでした。