熊野の本地 前編 福福亭とん平の意訳

熊野の本地  前編

 さて、人間界である南閻浮提の大日本の都から南の紀伊国に大神がいらっしゃいまして、熊野の権現と申し上げます。とても霊験あらたかでいらっしゃり、御恵みは我が国の外までもご利益を施して、生きとし生けるものの願いを叶えてくださることは限りがありません。
 その神様の由来をお調べして申し上げると、、もとは中天竺摩訶陀国の大王でいらっしゃいます。お名前を善財王と申し上げます。この王様は前世からの巡り合わせがめでたく、后を千人までお持ちになりましたが、一人も王子がお出来にならないので、位を譲られる方いらっしゃいません。王様が歎き悲しまれることはこの上ありません。
 ある時、大王様は、庭先の木に鳥が集まって巣を作り、子を温めて世話をしているのを御覧になって、自分はこの大国の王であるけれども王子がいないということを朝晩お嘆きなっていました。そのようなところ、千人の后のうちにせんこう女御という方が五衰殿という宮にいらっしゃいましたが、大王のご寵愛がなくて大王がこの宮においでになることがありませんでした。女五はこのことを悲しんで、宮の中に持仏堂を建てて十一面観音を本尊として安置して、毎日御経を三十三巻読み、三千三百三十三度の礼拝を捧げて、「大王様がもう一度この宮へおいでになりますように」と、全身全霊を籠めて御祈りをいたしましたところ、実に観音様のお慈悲のおかげなのでありましょうか、残る九百九十九人の后よりも姿容が美しく見えましたので、大王が女御の五衰殿にお出ましになりました。
 さて五衰殿の女御は長年の願いが叶って大王のお出ましが重なって、ご様子が普段通りではなくなり、乳母を呼んでこのようだと仰ると、乳母はとても喜んで、「千人の后の中で一番に優れた立場になられて、王子様をご懐妊されるめでたさです」と申し上げて、急いで大王に申し上げると、大王はこれをお聞きになって、ご機嫌がとても麗しくなられて、すぐさま五衰殿へとお出ましになりましたので、残りの九百九十九人の后たちは一堂に集まって、「五衰殿の懐胎は怪しいものだ」と言って、妬むことはこの上ありません。
 后たちの中でも、蓮華夫人という后が、「皆が気持ちを一つにして、この世にある暴悪な神仏に祈って、あの五衰殿の腹にある王子を呪い殺してやろうではないか」と言いましたので、それぞれの后たちは思い思いに祈りをして、その怨念の恐ろしさは譬えようがありません。そのような時に、ある人が、「近所に優れた占いの博士がいます。呼んで王子のことを占わせなさい」と言いましたので、后たちはすぐに博士を呼んで、「五衰殿の懐妊は、王子か姫宮か、賢明な王になるのか、悪逆な王として生まれるのか、占って申せ」と言うと、博士は算木を並べて、占いの書と照らし合わせて、「王子でいらっしゃいまして、お生まれになった朝から七宝の宝が降り注ぎ、三歳の春の頃から天下をお治めになるでしょう」と申し上げると、后たちは一度に声を上げて、天を仰いだり、地を転げ回って、妬み悲しむことは申しようがありません。
 后たちが、「これで五衰殿が皇后の位に就き、九百九十九人の見捨てられ女が誕生してしまうのですよ。博士様は何をお思いになってそのようなつれないことを仰るのですか」と言うと、「そうは仰っても、占いの結果にはっきりと出ているのです。」と答えます。后たちはこれを聞いて、「私たちが七日七晩王子のことを呪って祈ったのはどうなるの」と尋ねます。博士が、「愚かな仰りようです。五衰殿の女御は百日の間、法華経、とりわけ観音経をたゆまずにお読みになり、その信心の功徳によって懐妊された王子でいらっしゃるので、どのように呪いを掛けられても叶うことはありません。あの観音経の中にも『還着於本人(人を害そうとすると逆に我が身に降りかかる)』と説かれてありますから、お后様たちの身の上の方が危うく思えます」と答えると、后たちは、「そのようなことになると判っていたら、皆観世音菩薩を信じるものであるのに。ああ、無駄に過ごしてきた年月じゃなあ」と嘆きました。王の寵愛を受ける女御・更衣という高い位の方であっても、嫉妬ほど空しいことはありません。
 后たちは、「博士にお願いしているのですから、王子にとって悪い結果が出るように占ってください」と言いますと、博士は、「占い判断をする書にないことを言ったら、七代の末までこの道が絶え、眼が地に抜け落ちてしまいます。そんなことは決してできません。そのようなお頼みを伺うのも恐ろしいことです」と言いますと、后たちは、「おれでは我ら九百九十九人の女御が、鬼となってそなたをとり殺して、子孫を七代まで殺してやろう」と口々に言いますので、博士は、「本当に恐ろしいことじゃ」と思って、たとえ大王のご命令に背くとしても、今の命が消えることも、その上に七代までの子孫が殺されることも情けないことなので、とにかく后たちの言葉に従うということを言いました。
 后たちはとても喜び、衣を一重ずつ博士に与えて、「『五衰殿のお体に宿られた王子はお生まれになります。お歳が三歳にお成りになった時に、都に鬼神が来て人々を殺し、七歳になった時には、父である大王の首をお討ちになるでしょう』と占え」と教えて、后たちは五衰殿へと行きますと、大王は、「后たちが来たのはどうしたことであろうか」と仰いましたので、后たちは、「五衰殿のご懐妊をめでたいと存じ、お世話をするために参りました。お生まれになるお子様が男御子でいらっしゃるか、姫宮でいらっしゃるかを占わせるために、優れた占い者を連れて参りました」と申し上げると、大王は占い者をご覧になって、「それはめでたいことじゃ、ありのままに占いなさい」と仰せになりましたので、占い者は占いの書を開いて算木を置いて、お生まれになるのは男御子であるということを申し上げます。大王はもとより、左右の大臣を始めとして、公卿も殿上人もあらゆる役所の役人達も、雑務や警備の者に至るまで、宮中の皆が喜んで笑みを含みました。
 大王はこの結果を聞いてご機嫌麗しく、とても書き表せないほどでしたにので、后たちはこの様子を見て、「それでは、博士は教えた通りには言わなかったのだな」と思い、全員が厳しい表されたので、博士はとても驚いて、しばらく言葉に詰まりました。大王が「それでどうじゃ、どうじゃ」と仰るので、博士は后たちの方に目をやると、后たちがますます恐ろしい様子をしているので、后たちがいる場所に近寄って、「男御子ではいらっしゃいますが、お生まれになって三歳におなりになる時に、天から鬼神が下って来て宮中に暴れ込んで人々を皆殺しにし、七歳の時には父である大王様の御首を打ちなさると出ております」と申し上げます。すると王は、「よくぞ占った。この天竺の中でも、摩訶陀国という大国の王である身は、あまりおとなしくしていては、他の国からの侵略を受けることがあるであろう。乱暴な王ということになれば、他の国から軽く見られることはない。その上、常ならぬこの世であるから、生まれたその日その時に死ぬ者のいるのに、三歳まで生きるというのはめでたいことである。しかも、七歳まで育って親しく暮らすことができるのは嬉しいことじゃ」と仰って、大王のご機嫌はいつもに増して麗しかったので、后たちはあてがはずれて残念に思いました。
 その占いの日から、一日二日経って、后たちが一堂に集まって考え出した計略は恐ろしいものでした。「百歳の女を九百九十九人集めて、皆に赤い衣裳を着せて、笏を手に手に打ち叩かせて、二十日の月が沈んだ闇の夜に、大王のおいでになる五衰殿に無理矢理踊り込ませよう」というものであります。さて、もうその夜になりますと、九百九十九人の百歳の女たちが赤い着物を身に着け、いろいろの鬼の形になって五衰殿に押し入って、声を揃えて叫んだのは恐ろしい姿でした。「大王よ、さっさと内裏へお戻りなされ。お帰りにならなければ、宮中にいる人々を今夜の内に皆殺しにし、夜が明けたら大王の髪を摑んで天に上ろう」と叫びました。王はこの言葉をお聞きに鳴り、「ようやく思いがけず子を授かって嬉しかったのに、空から鬼が降ってきて宮中の人を殺そうとする悲しさよ。今は仕方がない、内裏へ帰ろう」と、五衰殿の女御に向かっては涙を押さえきれずに、内裏へとお帰りになりました。五衰殿の女御はとても心細い気持ちで、「これから先は、どれほど辛いことばかり重なってくるのであろう」とお嘆きになり、自らの力ではどうしようもない大王との別れの悲しさに世を恨み、涙を流しながら、このように、お詠みになりました。
  今よりはさぞ闇ならん我が宿に契りし月の光隔てて
  (今からはきっと闇のような日々なのでしょう。私のこの宮で王様と契りを交わした月の光も遠ざかってしまって)
 そのようなことの後、九百九十九人の后たちは、「大王を内裏へとお戻ししたことは、まさしく私たちの計略の結果だ」ととても喜びました。女ほど、考えが浅いように見えて、企みの底深いものはありません。后たちが皆集まって話し合うことには、「五衰殿の女御が出産された時に、鬼が天から降ってこなければ、私たちが占いの博士に頼み込んで、根も葉もない占い結果を示させたと、大王か公卿や殿上人までもが思うことは間違いない。この上は、すぐに五衰殿の女御を殺してしまおう」と決めて、一寸抜けば千人の首が落ち、二寸抜けば二千人の首が落ちるという討伐の剣を、大王に知られないようにして盗み出し、七人の武士を味方に引き入れて、「この剣で、五衰殿の女御の首を切って献上せよ』との王のご命令である。その場所は、都から南へ七日七夜行った稚児山の麓の鬼畜の谷、虎の岩屋の前にて行うように」と伝えました。七人の武士は、后たちが様々の言葉を尽くしていきさつを説いたので、すぐさま引き受けて、その後のことを考えもせずに、全員が勇んで出掛けたのは、情けないことでした。
 武士たちは五衰殿に来て、「『悪い王を懐妊されたので、あなたのお首をいただいて来るように』との大王のご命令です」と口々に叫びました。これに普段五衰殿に仕えていた人たちは皆逃げ出して一人も残る者がいなくなり、五衰殿の女御一人だけが残りましたので、その様子は、五衰殿の女御のお気持ちはどのうように哀しいものかと推察されて、お気の毒さはこの上ありません。身分の上下を問わず、「このような成り行きに」と女御に告げる人もいないので、どうしようもありません。女御は硯の墨を磨ろうとしましたが、涙があふれて硯がよく見えないので墨を磨ることが出来ず、指先を食い切って、ご自分の血でこのように、
  水茎の跡も見分かずなりにけり死出の山路の旅に急げば
  (筆の跡もはっきり見分けることができなくなりました。あの世への道を急ぐ身でありますから)
とお詠みになって、「ああ、昔から今に至るまで、女は訳の判らない嫉妬をして、恐ろしい計略を巡らして、人の命を奪う、なんとも情けないことですよ」とお嘆きになりますと、武士たちは、荒々しい声を上げて、「このことは大王のご命令に従ってここに来ているのだから、さっさとお出になってください」と、情け容赦なく美しい御殿に乱入します。五衰殿の女御は、自分の身が亡くなることは少しもお思いにならず、大王のことだけをお思いになって、「これは大王がおいでになる御殿です。どうして汚すのですか。さっさと出て行きなさい」と仰って、背丈と同じ長さの髪を揺らして流して、外にお出になるのもお気の毒です。玉の簾に長い髪が掛かって女御の動きを止めるのを、「心のない簾までも、私との名残を惜しんで引き止めようとするのに、どうして、長年身近で馴れ親しんだ女房たちが一人も見えないのだろう」と、涙はますます止まりません。
 さて、もはやどうしようもないので、女御は袂に落ちる涙を払って、歌一首をこのように、お詠みになります。
  玉簾掛けて馴れにし名残とて引かるる袖に涙落ちけり
  (玉簾が、掛けて馴れ親しんできた名残として引いた袖に涙が落ちたことよ)
掛かった髪を引いて玉簾と別れて、外にお出にると、七人の武士が女御を中に取り込んで進んで行くうちに、まことに、昔は立派な玉や金で飾った美しい御殿の中にいて、ほんの少し吹く風までも嫌い、玉を敷き詰めて金銀の砂まで敷いた庭を歩いて物思いにふけられたその方が、今日はそれに引き替えて、岩や木で険しい道を、裸足で歩き通して行かれます。五衰殿の女御は、あたかも天人の五衰のように夢から覚めた心地がします。「とてもお気の毒なことですが、王様のお決めになったことですので、何ともできません」と、荒々しい武士たちも心を柔らげて、同情の涙を流しました。女御は、「私は前世だ人が大事にしていた夫を奪った報いとして、この世でこのような報いを受けると思えば、誰かを恨む筋合いはありません。あるお経の中に、『現在の状況を見て、過去の原因を、また未来の結果を知る』とありますから、今はただ来世における私の罪はどうなのだろうと悲しいです」と仰って、泣きながら歩を進められました。
 これから先の道がまだ六日七夜の行程があるというのに、女御は全く慣れない旅のお疲れがあって、御足から血が流れ、お着物の裾も血で染めたようになって、道端に倒れ伏されましたので、武士が、「行く道はまだそれほど進んでいません。さっさとお歩きください」と言うと、女御はますます心細くお思いになり、「これからはもう歩いて行けるとは思えません。どこで命を取られるのも同じことです。ここで殺して、この路傍の露ともしてください」と仰いますと、武士は「歩けないのももっともだ」と思って、近所から馬を探し出して、これにお乗せ申し上げました。以前は、立派な玉の輿、花の車にだけ乗り慣れていらっしゃって、馬は今初めて乗るので、落ちることが何度もあります。気の毒さはこの上なく、屠所に引かれる羊のように行く馬の進みで、馬の足に任せてうちに、稚児産の麓の鬼畜の谷、虎の岩屋の前に着きました。
 五衰殿の女御は泣く泣く、「馬は、馬頭観音様の化身で、観音様は三十三にその姿を変えられ、人々の苦悩をお救いになります。私は八歳の時から、たゆむことなく観音様を念じてきたその信心の功が空しくならずに、この道中に馬と顕れて私を御助けになってくだされたありがたさよ、私が生まれ変わって仏となったなら、あなたの恩を深く報いましょう。神となったなら、あなたを神のお使い姫の一つとして大切にしましょう」としみじみとこの馬に話しかけられるのがお気の毒です。そこで、王の命を受けた使いである武士が鋭い討伐の剣を抜いて女御の首を切ろうとします。女御は、「しばらくお待ちなさい。私は毎日観音経を三十三度読んでいるのですが、今日はまだ読んでいません」と仰って、懐から経文を取り出してお読みになるそのお声は、極楽にいるという迦陵頻伽の声もこのようであろうかと素晴らしく聞こえます。暴虐な鬼は獣や、心ない木や石であってもこの女御のお読みになる観音経を聞くと、仏様と縁を結ぶことで、悟りへの思いを遂げることができ、それを祝福するように天人が天から下るのではないかと思われます。
 読経の後、女御は、「私の体の中に王子がいらっしゃる間は、どのように斬っても私の首は切れないでしょう」と仰います。そして自分の腹の中においでの王子に、「私が首を切られた後は、どうやって生まれることができましょうか。さあ、今すぐお生まれなさい」としみじみと語りかけられますと、王子はたちましお生まれになりました。母となった女御は、王子を上着でくるんんで、身の丈の長さの髪一結びを、王子を護る仏や神、三宝、山の神、さらに山の獣である虎や狼にも捧げて「王子をお守りください」と祈って、王子に向かって、「そなたに木の葉が落ち掛かる時は、母が着せる衣と思いなさい。萩や薄が掛かる時は、母がそなたに寄り添うと思いなさい」と、切々とお話しかけになられ、御遺言のように思われる歌を、
  孤児を伏せ置く山の麓をば嵐木枯し心して吹け
  (この身寄り頼りのない子を寝かせて置く山の麓、木枯らしよ、思いを汲んで強く吹かないでおくれ)
とお詠みになって、「私の身は首を切られたとしても、三石六斗の乳を含んだ乳房をここに遺してゆくのである。王子が三歳におなりになるまではこの乳で養い申し上げよう」と、今生まれたばかりの王子に向かって仰ることがお気の毒です。
 女御が、「さあ、武士たちよ、首をお取り」と仰ると、武士が剣を抜いて首を切ります。すると、女御の体はそばに置かれていた王子に飛び付いて乳房を含ませたのは、悲しいことでした。
武士たちはこの光景を見て、勇猛な心がとても弱くなり、「生きているということは、このような悲しくつらいことを見るものであるな」と嘆きました。
 つらい目を見ても、このままにいることはできないので、武士たちは女御の首を手にして、涙を流しながら都へと帰りました。その後、女御の遺骸は三石六斗の乳のある乳房を出して、王子をお育てします。昔から今まで、母の恩ほど深いことはありりますまい。身分の上下を問わず、その恩を忘れることなく孝行をするべきであります。
 さてさて、五衰殿の女御はただ今亡くなられたことは間違いありません。身分の上下を問わず、親子の恩愛の契りほど深いものはありますまい。女御が、胎内にいる王子をお育てするために八尺の黒髪を切り落として、上は梵天帝釈天、下は大地を司る地の神に至るまでのそれぞれに分けて手向けなさったことは素晴らしいことでした。「王子が三歳になるまでの間、王子をお守りください」とお祈りになり、「心ない獣も同じように子を愛して大切にするのが世の常なのだから、皆々も我が子を憐れと思って、王子をお守りくだされ」と願われましたら、まことに心ない獣たちも頭をうなだれて涙を流して聞き、朝晩交代しながら王子の傍にお仕えします。ある獣は木に登って木の実を採り、ある者は谷に下りて水を汲んで来、女御のご遺骸をお守りしてと、それぞれに王子を守り育て申し上げることが不思議であります。女御に何の咎もありませんのに、九百九十九人の后たちの偽りによって亡き者にされなさったことを、もろもろの仏菩薩も気の毒とお思いになり、獣たちも王子の世話に心を遣い、お傍に付いて王子をお守り申し上げました。

うたたねの草子 福福亭とん平の意訳

うたたねの草子

   うたた寝に恋しき人をみてしより夢てふ者はたのみそめてき
   (うたた寝に恋しい人に夢で会ってから、夢というものを頼りにするようになりました)
 このように平安時代歌人小野小町が詠んだのはたいしたことのない心の動きの様子で、その歌では夢に命を懸けることではありませんが、様々な時代の物語の中には、とても不思議なことがあるものなのですよ。
 これは近年のことであります。天皇様を始めとする朝廷の評判良く栄えている大臣がいらっしゃいました。この方のご長男は今の皇太子のお世話をする春宮職長官の職にあります。その弟の君は、なにがしの僧都と言って石山寺の寺務を統括する座主を勤めているそうです。大臣のお子さんには、この他に腹違いのお子さんがたくさんおいでですが、この僧都と同じお母様の御きょうだいは、あとは姫が一人だけいらっしゃいました。お父上の大臣はこの姫を特別にかわいがって大切にしていて、宮中への出仕を考えて準備を考えることもありました。ですが、宮中で天皇様のそばに女御や更衣という方が大勢いる中に入った時、姫の評判が高くなるにつれて周囲の人から妬みを受けるのが恐ろしく、また逆に不人気になって人々の中に目立たない存在となって人々に圧倒され、姫が嘆く日々が続いてしまうようになるのも可哀想で、どうしようかとためらっています。そのような間に、しかるべき家の人から妻として迎えて大切にお世話したいという、かなり強引な申し出もありますが、姫は平凡な相手と添わせるにはもったいなく思われるご容貌養ですので、あれこれとお考えになっています。そのうちに、姫はますます美しく華やかになってきて、才能も非の打ち所がなくまことにすばらしい人になりました。
 おそば近くで姫のお世話をする人々にも、由緒のある家柄でしっかりしている若い方を置いて、皆が優雅な心遣いをするようにして、春の花、秋の紅葉というような季節折々の楽しみの時も、人々が心隔てなく日々を過ごしておいででした。ですが、姫の母上が亡くなられていましたので、お父様の大臣が忙しくなさっている時はとりまぎれて、姫にはすることもなく寂しく、横になって過ごす時ができてしまうことができてしまいます。
 この姫のお屋敷の八重桜は、ほかの桜の木よりも遅く咲いて長く咲いている木です。逝くことをとどめられない春の日数が過ぎていって、花がだんだんに散ってゆく寂しさもひとしおであるのに加えて、雨までが朝から静かに降り続けて、軒端からの雨垂れが落ち続ける様子ももの寂しい昼のころ、姫が琴を気ままに弾いて横になっていると、うとうとと眠られたのでしょう、「これを」と差し出された物をご覧になると、とても長くしなって花がびっしり付いている藤の枝で、露がそのままに置いていて色美しくしかも香りあるところに、藤の花の色と合わせた同じ色の薄葉の紙が添添えられているのも素晴らしく、姫はいつもの賀茂の斎院の内親王様からのお便りだと思って、何気なく開いてご覧になると、男性の筆で、
  思ひ寝に見る夢よりもはかなきは知らぬうつつのよそのおも影
  (相手のことを思って見る夢ははかないですが、それよりももっとはかないのは、お会いしたこともない現実の   あなたの面影です。実際にお会いしたい)
とあります。墨の色がつやつやとして、筆遣いに心を込めて流麗に書いてある様子は、並々ならぬ人が書いた物であると判ります。「ああ、見たことのない素敵な筆だこと」と見ているうちに、心が穏やかではなくなって、どこから来た便りなのだろうと思って心が騒いだのですが、なんとこれは夢だったのです。
 姫は、はっきりと御覧になった昼寝の夢の先が知りたくて、また、あまりに美しくほれぼれとする筆遣いが忘れられなくて、しみじみと考え込んでいらっしゃいます。それからすぐに日暮れになりましたので、灯りを点けて、いつもおそばに仕えている中納言の君や弁の乳母といった人たちに碁を打たせて御覧になっていましたが、先程見たつかの間の夢の中に出て来た筆の跡の書き手が誰と判らないことだけ、何となく心に掛かっているのが、姫には不思議に思われてなりません。姫の御前の人々はあれこれと遊んで楽しんでいますが、姫はどうにも心が晴れないままでいますので、近くにある几帳を引き寄せて隔てのようにして、そこに少し横になって寝かかりますと、姫の横には、糊をきかせない柔らかな平常服の直衣に紅の上着を重ね、色も艶もとても素晴らしい薄い青紫色の袴を着けて、こちらまでも香りが移りそうに香をたきしめた方がとても親しそうな様子で添い寝をなさるのです。姫は驚いて、その方を御覧になると、あの源氏の昔物語に語られる主人公の光源氏の君の姿はこうであったろうと思われるほどにとても美しい方が親しげにも、またもの静かで風情ある様子も見せながら、男性としての魅力をすべてこの方が備えていらっしゃるとしか表しようのない姿で現れました。姫はこの方を見て心が騒ぎましたが、ただ、あれあれと思われるばかりで、声を出すことができません。
 男性は、姫が体を動かそうとした手を摑んで、「とても思い溢れる恋心の様子は、どんな事情であっても可哀想だと思ってくださるのが当たり前なのに、私のたいしたことのない手紙までも御覧になってないのですか。せめて一(ひと)言(こと)のご返事もくださらないことが恨めしくてここまで参りましたのは、古来、『思いが勝ると抑えきれなくなる』と言われる通りであることをご存じないのですか。こういうことになってきたのは、今のこの世だけではなく、先の世からの縁でありますので、逃れられない運命であるとお思いになって受け止めてください。ひたすら思いが届かない恋心の行く末は、かえって恐ろしい報いが来ることが多くございますので、私とあなたがこの世に叶わなかった迷いの姿を残して、来世は二人とも救いのない闇のような暗い道に迷うというような男女の縁になり果ててしまうのは嫌だとはお思いになりませんか」というようなことを、心の底から出てくる言葉で細々と言うのに対して、姫はなにかお答えをしなくてはいけないところなのですが、言葉が出ません。姫は、何とかつれない様子には思われたくはない、相手の気持ちに応えたいとお思いになっていらっしゃってはいるようです。
 朝が来て、次第に朝を告げる鳥の声がかすかに聞こえてくるのは、これぞ朝の恋人たちが別れなければならない時との恨みが積もっているのを鳥は受け馴れているのでしょう。そんな鳥の声を何気なく聞き流して、もう一度の二人の親しい遣り取りをし終えることもなく、何かにうなされたような気持ちになって姫があたりを御覧になると、もやは陽が上りかかって、何が起こったのかわかまらないまま、姫はぼんやりと起き上がられました。
 恋しい人のことを思いながら寝ると、その人と必ず夢で逢えるというのが、今も昔もある思い寝の常ですが、あの春雨の花の下でのうたたねから始まった夢の恋はどう考えてもはっきりしないことでございます。萱の斎院こと式子内親王が「夢にだけでも見たいものと悲しみながら寝た夜の袖は、涙に濡れています」とお詠みになったお気持ちは、思い寝ではなく、しきりに恋に迷う魂が、その方の所へと訪ねて行っている様子であると理解しています。さて、どうなったのでしょうか、どなたの幻が私のところへお出でになって夢に見えたのであろうと、贈り主がはっきりしないで差し出されたあの藤の花の枝が私の嘆きのもとになる木であると、姫はその枝の陰に、ついつい泣くことが多くなって袖が濡れて、周りの人にもはっきりそれとわかるほどになっているということは、何とも罪作りなことでございます。
 昔のこと、小式部の内侍の所に大二条の大臣こと藤原教通公(ふじわらののりみち)のお通いがほど遠くなられたころ、小式部の内侍がひどく嘆いて、おいでにならずに空しく過ごす日々が重なったことをしみじみと振り返っているところに、教通公の突然のおいでがありました。小式部は嬉しくて心が落ち着かなくなっていましたが、それほどの時が経たないうちに教通公がお帰りになるので、その直衣の袖に糸を通した針を縫い付けたところ、翌朝見ると、その糸が庭にある木に刺されてありましたので、実は教通公はおいでになっていなかったのを、心に添っていた面影が、思いに先だって現実にあったようになったのだと、思い当たったということです。
 姫は、夢の世界でも現実世界でも、いったいどちらの世界で誰に思いを掛けられているのだろうかと、心が紛れることがないままに、絶えず相手のことを恋しく思い続けているのですが、そのこともまた不思議なことであります。「どのような寝方をしたから夢に見えたのであろうか」と思い、今はあれこれと相手のない寝床に寝起きして、自分の服に焚きしめた香も、面影が忘れられないあの夜の方からの移り香かと懐かしく思い、寝床から離れる気持ちにならないでいるうちに、実際の面影とも夢の中の姿とも最後には一つの面影になって、姫はいつの間にかその方がそばにいるような心地がして、いま私は何を思っているのだろうと、自分の思いに疲れて嫌になってしまいました。
 月日が過ぎるにつれて姫は病がちになり、気持ちがふさいでゆき、柑子蜜柑のような果物までも全く召し上がらなくなりましたので、父上の大臣様をひじめ、乳きょうだいの人々も心配して、仏様へのお祈りをあれこれと始め、護摩を焚いて印を結ぶ祈りや、経文を唱えるという病気を治す様々な祈りを次々と行い、人々が一日中途切れることなく病気全快を祈りました。姫は、自分の物思いに加えて、父上が心を尽くして手を尽くしてくださっているご様子を見ると、自分が父上や人々に罪を犯しているような気持ちになって、ますます涙が増さり、泣かれてしまうのでした。ごきょうだいの石山寺のなにがしの僧都も姫の様子を聞いて驚いて、寺から屋敷へおいでになって、快癒への御祈りの手順のあれこれをお決めになります。その時に、あの石山寺の観音様は、人々を救うという霊験あらたかで、他に例のないほどのご利益をいただけると言われていますので、今般病が良くなりましたら、かならずお参りいたしますという願を立てさせなさいました。姫のご様子は、様々の多くの御祈りのご利益でしょうか、少し快方に向かいましたので、父上の大臣様を始めとして、人々の喜ばれることはこの上ありません。
 病気が快復したのならばすぐさま石山寺へお礼参りにと思い立たれた時に、『源氏物語』の中の玉鬘の君は、初瀬へのはるばるとした道を歩いておいでになっていますので、姫の病気平癒のお願いも大切なことでありましたから、あえて牛車を使わずに歩いてお出掛けになります。いつも姫のおそばに親しくおつきしている弁の乳母、中納言の君などの四、五人の人々は、わざと目立たない姿にしてお参りに向かいます。さて、一行が石山寺に着いて周りの景色を御覧になると、山の麓の瀬田川は広々として静かにさざ波が立っているだけで、その先には月が澄み渡って光っていて、普段屋形から見ている景色とは変わって、目に入る風景がみな物珍しく見えます。何ともいえない風情で苔が生えている大きな巌石がいくつも重なっているのは、いつの時代の小さな石がここまで大きくなったのであろうかと思われ、年を経た庭の様子も都とは違っているので、一行の人々はここまでの道中のつらさや疲れもみな忘れて、しみじみと眺めていらっしゃいます。
 姫は、これまでの様々の自身の心の中の苦しみをすべてここに出してしまおうと心に念じながら観音様の前に丁重に参拝しますと、「弘誓深如海」(通称「観音経」の『法華経』「観世音菩薩普門品」中の「観音の人々を救おうという誓いは海のように深い)と述べられている観音様の言葉が尊く実感させられました。その後、仏前のお祈りが終わりまして、夜がだんだんに更けてゆくにつれて、隣の部屋は、あの紫式部が『源氏物語』を書いた部屋だということで、姫はちょっと珍しく覗いてみたいと思っているところに、隣の部屋から、とても良い響きの声で、「宰相中将」と呼ぶ声がしたのは、一行の主である左大将様の声なのでしょう。その呼ばれた中将という方の声で、「この度の御参詣は、何事についての御祈りなのですか。司召という秋の役職替えの辞令がある時が間近ある今、公的であれ私的であれ忙しくて休みを取るのも難しいこの時期に、このようにお参りなさるのは、とても不思議に思われるのですが、拝見したところ、御袖にずいぶん涙の露が落ちていて、普通の秋の露のほどよりはあまりに多いように拝見しています。ですが、その訳がこうなのだとは少しも仰らないのは、我々に対してあまりによそよそしくいらっしゃって、恨めしく感じます。罪をすべて打ち明ければ罪から赦されると申しますので、こういう訳だとお話になるのがお気持ちを晴らすのに一番のことです。ですから、ことさらにこの御参詣の折に、皆々に語ってくださいませ」と、事情を打ち明けてくれないことに口惜しい思いを込めてで話しかけますと、「まあまあ、夜には夢の話をしないということなのだよ。それでも皆の気持ちが晴れないようだから話そうか。この寺にお参りに来て今日まで籠もっているのも、私の鬱積した思いが少しは晴れることもあるだろうかと願って我慢してきたのだけれど、もはや隠しておいても仕方がないからね」というように、人々に心を許して打ち明け話をする声は、姫には、夢で親しく情を交わしたその人に少しも違いないと思われました。そこで姫は、この声の主の姿を見たいと思いました。姫の座敷では、お供に付いてきた人々は今日の旅に身も心もとても疲れてしまったのでしょうか、みなぐっすりと寝込んでいて部屋の灯りも消えてしまっています。一方隣の座敷は、とても明るくなっているので、姫が障子の隙間からそっと静かに覗きますと、上品な狩衣を着て、やつれている男性の姿がありました。
 姫が隣の部屋を覗いて見ると、そこにいた人の姿は、夢で逢っていた人の姿と少しも違うところがありませんでしたので、いま見ている姿もいつもの思い寝の中なのだろうかと、心が悲しみに沈みながらもじっと我慢して隣から目を離さずに話をお聞きになっていらっしゃいます。男性は語ります。「我が国でも唐の国でも、夢のお告げを導きとして、殷(いん)の王の高宗(こうそう)が傅巌という野で夢に見た傅説(ふえつ)という補佐の人を見付けた話、または『源氏物語』の明石の巻で、夢のお告げにより明石の入道が、都を離れて須磨に暮らす光源氏を舟の用意をして迎えに来たという話は、皆、夢がまさしく現実と一致するという例がある。それはさておき、私の場合は去年の弥生の末のころだ、女のところからと思われて、しなった藤の枝に結び付けて、
  頼めただ思ひ合はする思ひ寝の現にかへる夢もこそあれ
  (ひたすらに頼りになさいませ。二人が思い合わせる思い寝の夢が、現実のものになることがあるということを)
とあったのを見てから、毎夜の夢ごとに相手の許に通い、またこちらに相手を迎えて、二人の仲は二本の木の枝が一つになる連理の枝としていついつまでも栄え、また、翼を連ねる比翼の鳥が離れないようにとの思いを重ねて去年と今年の足かけ二年を過ごしていたのだが、朝廷に仕える時でも、私の立場で我が身を振り返る時でも、また月や雪の風情を感じる時でも、どんな時でも、ただこの毎晩の夢がほんの少しでも現実のものにならないかと、何か思い当たる手がかりがないかと、いつも心がそれに強くとらわれてしまっていて、何事にも身が入らず、考えることができなのだよ。心が少しもはっきりせず、体もひどく弱ってきたのを何とか我慢して朝廷にお仕えしているのだよ」と悲しそうに語られました。姫がこの男性の打ち明け話を聞いている気持ちは、平静でいられるはずがありません。これこそ見た夢が現実にあったのかと、晴れる方のない物思いのあまりには、姫は思わず声を立てそうになり、この障子をすぐさま引き開けて、男性と毎晩の逢瀬の次第を語り合いたいとは思いましたが、そうはいっても女の身から、その夢の相手は私ですとは言い出すことはできないので、強い気持ちでじっとこらえています。姫は、私の心はとても薄情な様子になっていると感じていらっしゃいます。
 さてさて、はかないちょっとした夢だけでも相手の面影を忘れることができないのに、それに加えて同じ思い、同じ内容の夢の物語です。その夢の中と同じ男性の姿を見て、このまま恋しい気持ちを抱いたままでお別れしては、私はこの先少しも生きてはいられません。でも一方、相手の方のお気持ちも判らずに乱れた心で言い出して相手をひたすら慕うということも赦されないことなので、今この時に姿を見たのを現世で逢ったということにして、ここで入水して果てて来世で海女にでも生まれ変わって、あの方と決して別れることのない逢瀬に巡り合うのだと心強くお決めになりました。姫は、お母様が亡くなられてから後は、お父様の大臣様だけを頼もしい存在として頼りにしていて、お父様もまた私をとてもとても可愛がって下さいましたが、今お父様に先立って死んでしまうのは、どんなに罪が深いのだろうとお思いになりました。父上には、ちょっとしたお寺参りとして出掛けましたのが、最後の別れであったとはご存じなく、いつ帰って来るかとお待ちになっているところに、私が亡き者になったとお聞きになったら、父上はどれほどお嘆きになるだろうとお思いになります。ですが、私はもうこれを限りに死んでしまおうと思っているので、長い年月馴れ親しんだ周りの人々を始めとして、斎院様、皇后様を始め、あちらこちらにいらっしゃる親王様や内親王様の皇族の方々も、どれほどお嘆きになるでしょう。また、私の死を、いい加減な噂で言いはやされる口惜しさもあると、様々に思い乱れて決心のつきにくいことも多いのですが、やはり、姫には、来世のあの方との契りが第一だという思いが最も強くなっていらっしゃるようです。
 姫は消えてしまった灯火をもう一度灯させて、お父上への遺書をお書きになります。涙が溢れて見えなくなり、はっきりと書くことが出来ない様子で、
  歎くなよつひには誰も消え果てん小萩が露のあだし命を
  (あなたの子である私の命が消えるのをお嘆きになりますな。誰もが最後には消え果てて行く小萩の上の露のよ   うなはかない命なのです)
 だんだんに夜が明けてゆきますと、姫はおそばの中納言の君を先頭にしてお経を読んで、あまり心の籠もらない願いを仏前で口の中だけで申し上げた後に、ほのぼのと明るくなって見え渡る湖や川や山の景色を見てあれこれと楽しく会話を交わしていますが、入水して果てようという心の内を少しでも知らせたならば、乳母の弁を始めとする人々はどれほど嘆くだろうとお思いになるお気持ちもとても哀れです。なによりもずっと見ていた夢の中のあの方の面影を、まざまざとこの目に見るだけでなく、互いの心の内も残りなくはっきりと聞いたことは、まさに観音様の衆生を導くためのお力とはっきりと分かり、来世を導いてくださるものと強い頼りとして、臨終の際の心を乱すことなく、親に先立つ不孝があっても、それを契機として来世にあの方と結ばれるという願いは空しくなく、来世の阿弥陀様のおいでの浄土においても同じ蓮の台に(うてな)あの男性と生まれ変われますようにと、観音様の前に細々とお願いをなさいます。このことはご自分の心から出たこととはいえ、お気の毒でございます。
 随分日が高く昇ってしまった、早く帰京しようと急ぐ心で石山寺を出発なさると、姫のごきょうだいの石山寺の座主僧都の乳母が、年を取って腰が曲がった姿で瀬田の橋近くに住んでいて、「久しぶりのお出掛けがありましたので、お立ち寄りください。老い先短い身でございますので、姫に今生でもう一度御目に掛かりとう存じます。ぜひともお立ち寄りください。こちらからはお迎えの車を用意いたしますので」ということをしきりに申しますので、姫は水辺に近い所は私の入水の決意にも便利であると立ち寄ろうというお気持ちが向きはしますが、そうはいっても改めて屠所へ引かれる羊のように死が近い気持ちがいたします。だんだんに瀬田の橋が近くなると、川の流れやあたりの様子が何となく恐ろしく感じられ、これから川で水死することになるのもどんな前世の報いなのだろうかと恐ろしく、決意はしていても、これから死ぬことに臨んでは、親に先立つ不孝をしてしまうつらさを繰り返し思うにつけても、小式部内侍が重病となって寝ていた時に、母の和泉式部に向かって、「いかにせむ行くべき方も思ほえず親に先立つ道を知らねば」(どうしたら良いでしょう、これから冥土とやらへ行く方向も考えられません。親に先立つ道は知らないので)と詠んだという昔の哀れな話も自分の身の上のように思われ、ほろほろと流れ落ちる涙を誰にも見とがめられないようにと上手に紛らわして、橋の中ほどまで進んで、しばらくためらってたたずむ姿を人々が妙だと見ているうちに、突然川の中へと飛び込まれましたので、おつきの弁の乳母を始めとする人々は、「これは何をなさったのですか」と驚き騒いで、涙を流すこともなく、また、跡を追って飛び込もうという考えも浮かばずに、ただ、なんとしてでも姫をお助け申し上げようと、声を限りに泣き叫ぶのでした。
 ちょうどその時、狩衣姿の人が大勢乗ったたいへん優雅な舟が、人々が泣き悲しむのを変だと思って、この姫が入水したあたりへと漕ぎ寄せて来ました。姫のお付きの人々はその舟の近寄るのが嬉しく、「たった今、身投げした人がいます。何とか助けてください」と慌ただしく身振り手振りやじだんだを踏んで、口々に伝える姿は哀れです。その声に応じて、泳ぎの上手な男の人々がきびきびと頼もしい様子で潜って、水中から姫を引き上げました。姫の様子は、「観音経」に説かれている「即得浅処」(大水の中に漂う時、我が名を称えて念ずればすぐさま安全な浅い所へと行かせよう)という観音様のお約束通りで、水も姫を中に入れることから遠慮したのでしょうか、この足かけ二年間に男性との夢の逢瀬に伴って涙を流されて濡れて傷んだ袖ほどにも濡れていなかったのは不思議なことでした。
 この舟は、姫の隣の部屋にいらっしゃった殿の大将様が七日間のお籠りの行が今朝満了して、舟であちこちの見物をしながらお帰りになるところのようです。大将様が姫をすぐに舟の中へと抱き入れてお顔を見ると、お歳は十八、九歳のようです。とても可愛らしく親しげで、若々しい輝きに満ちた眉と目元や顔立ちは、明け方の霞が残った中で白く美しく咲いている遠くの山桜の花を見る素晴らしい心地がします。姫は恥ずかしそうに顔を横に向けていますが、そこにはらはらとかかっている髪の筋は乱れることなくつやつやとして真っ直ぐで、『長恨歌』に楊貴妃の美しさを喩えるために引かれた玄宗皇帝の未央宮の柳が露を含んだ形を思わせます。大祥様は、この年月に見続けてきた夢では、なにかはっきりしない面もありましたが、ここにいる姫は現実の美しさがあります。そこで大将様と姫が親しくお話をなさいましたが、初めての対面だという気持ちは全くいたしません。姫はまた、死のうとした身をこのように助け上げられたことをとても恥ずかしく思うはずでありますのに、そのことを全く感じないというのは、大将様のお姿が、親しく見続けていた夢の中の相手と全く同じ姿であったからなのでしょう。
 夜のちょっとした夢に、しっかりとした男女の契りを結ぶということは、はるか昔、前世からの縁なのですが、その上にこうして実際にその相手を迎え取るということはよほど前世の縁が深いものなのでしょう。これは、もったいなくも観音様のお導きでありますから、特別に心配事もなく過ごしなさるままに、子孫の末までも一家が長く栄えて、賢明な天皇様の御治世の補佐をなさったことのあれこれをさらに細かく書き続けたいところですが、ここはただ夢に結ばれた男女の珍しい話、観音様のあらたかな霊験を書こうとしたもので、巻末に白紙を残す遊び心とし、また墨の無駄遣いであるという嘲りを避けることにいたします。

『うたたねの草子』の付録として、夢の話と恋患いの話の三題を添えます。
付録① 諺「巫山(ふざん)の夢」 中国の『文選』に収められる宋(そう)玉(ぎよく)作の「高(こう)唐(とう)の賦(ふ)」に楚の懐王が夢の中で巫山の神女と交わったという「巫山の夢」の話があります。この話には、「巫山の雲」「巫山の雨」「巫山の雲雨」という別名があります。「高唐の賦」を訳だけで紹介します。
  昔、懐王が巫山の南側にある楼閣に遊び、疲れて昼寝をしました。夢の中に一人の女性が 出て来て、「私は巫山の女です。ここであなたのお情けを受けたいと存じますが、いかがです か」と言います。王はこの申し出を受けました。女性は王のもとを去るに当たって、「私は巫 山の南の丘に住んでいます。朝には雲となり、夕方には夕立となってこちらに参りましょう」 と言って去りました。
 この話から、「巫山の夢」「巫山の雲」「巫山の雨」「巫山の雲雨」という語は、男女が夢の中で結ばれること、また、男女がこまやかに情を交わすことの意味として使われています。また、神女の言葉から、「巫山の夢」などと同じ意味を表す「朝雲暮雨」という四字熟語もあります。

付録② 落語「胆(きも)つぶし」 夢の中の女性に恋をして病気になってしまった男が出てくるという落語「胆つぶし」があります。あらすじを紹介します。最近聞くことのない噺です。
  友達の民公が原因不明の病で長患いをしています。親友が原因を聞きただすと、夢に出  て来た女性に恋をしてしまったとのことが判り、医者に相談すると、そのような病は中国の 古い書物にあり、この病を治すには、亥の年、亥の月生まれの女性の生き胆を飲ませれば良 いということを言われます。親友が、それは無理かと失望しながら家に帰ると、屋敷勤めの 妹が宿下がりをして帰って来ていました。久しぶりに会った妹と話して年齢を尋ねると、「私 は亥の年月が揃った珍しい生まれで、芝居なら殺される役だと、よくお母さんが言っていた」 と答えます。これも何かの因縁か、民公の親父さんにはずいぶん世話になったし、民公はか けがえのない友達だからと思い切った親友はその夜、寝付いた妹の上から、出刃包丁で刺そ うとしますが、そこは肉身の情で、思わず涙がこぼれます。その涙が頰に当たって妹は目を 覚まし、兄の持っている出刃包丁を見てびっくり、「兄さん、いったい何をやってるの」「こ の間、芝居でこんな場面を見たから、真似をしているんだ」「そうなの、私ゃ殺されるかと思 ってびっくりして、胆をつぶしたよ」「なに、胆をつぶした、それじゃ、もう薬にならねえ」。
 驚いたことを「肝をつぶした」と言う言葉は現代では使われなくなりました。
 浄瑠璃の『摂州合邦辻(せっしゅうばっぽがつじ)』では、業病にする毒薬の解毒剤が、寅の年月日時まで揃った女の生き血であるという設定があります。、愛と義理と忠義が語られる「合邦住家の段」(合浦庵室)という場面があります。

付録③ 落語「崇徳院」 こちらは夢ではありませんが、恋をした相手がどこの誰なのか判らずに病気になるという落語です。現在演じられている形であらすじを紹介します。
  ある大店の若旦那が原因不明の病で臥せっています。医者を次々と取り換えていたところ、 最後に来た医者が、「この病人は何か心に秘めていることがある、それが判れば病気は全快す るが、この様子ではもってあと五日だ」と言って帰ります。そこで慌てた大旦那は、若旦那 と親しい出入りの熊さんを呼んで、若旦那が心に秘めていることを聞き出させます。熊さん が若旦那から聞き出したのは、若旦那が上野の清水堂(上方落語では、高津神社)へ参詣に出 掛けて境内の茶店で休んでいたところ、美しいお嬢さんがお伴の人を数人連れて来合わせ、 そこでお嬢さんが袱紗を落としたのを若旦那が拾って渡したところ、そのお嬢さんが料紙を 取り寄せて「瀬を早み岩にせかるる滝川の」という崇徳院の歌の上の句を書いて渡してくれ た、それ以来そのお嬢さんに恋患いをしてしまったということでした。大旦那は、熊さんに、 そのお嬢さんを見つけられなければ主(しゆう)殺しだとして訴えるという脅迫混じりでお嬢さん捜し を依頼します。期限の五日目、熊さんは、何軒もの湯(ゆう)屋(や)(銭湯)や床屋(理髪店)を渡り歩いた 結果、三十六軒目の床屋でようやく出入り先のお嬢さんが恋患いをしているので相手の若旦 那捜しに出るという先方の町内の鳶の頭(かしら)と遭遇し、若い二人はめでたく結ばれます
小倉百人一首』の崇徳院の歌が相手を見付ける唯一の手がかりなので噺の題になったのでしょう。

まつら長者 後編(四段目~六段目) 福福亭とん平の意訳

まつら長者 後編 (四段目~六段目)
  四段目
 気の毒なさよ姫は涙ながらに足を速めますと、間も無く、先をどちらと問うという言葉に通じる遠江浜名湖、そこの今切から入ってくる潮の流れに棹をささなくても上る漁師の小舟のように、舟を漕ぐに縁ある言葉の焦がれて物を思うのでありましょう。南を遠く眺めると、広々とした大きな海には数多くの舟が浮かんでいます。ああ風情のある景色だなあと見て、北側にはまた湖があります。岸には陣屋が連なって建っていて松の枝を吹き渡る風の音や波の音の、どれが仏法に連なるものなのだろうと頼りなげに目をやって通って行きます。ああ明日の命の程は判らないけれども、生きるという音に通じる池田という興ある宿の名は頼りがいがあります。さらに袋井の一筋道を長く行き、日坂を過ぎると、評判に聞いた佐夜の中山というのはここだそうです。
 気持ちは先を急ぎ、間もなく名所旧跡を早くも通り過ぎて、ゆったり流れる大井川です。岡部の宿の手前には、少し荒れていて物寂しげな夕暮れであっても、神に祈りを掛ければ叶う金谷宿とか、四方に神ならぬ髪が生えているわけでもないけれど宿の名を島田髷と同じ島田宿と聞けば、髪を隠すのに袖が寒いです。峠の名を聞けば優美な鞠を打つ宇津の山辺に鞠ならぬ丸子川があり、賤機山を右側に見て行けば三保の入り海は波が激しくてその激しさに物思いに耽るのは私一人、こんな所を駿河の国の名所とは、どんな人が言ったのか、と由比の宿、さらに蒲原宿を見て通り過ぎ、心細く眺めて、富士の山を見上げると、去年の残り雪がまだらに消え残ってところに今年の雪が降り積もって、あれあれ一年中雪が消えない山の様子であります。南の海をみればここは田子の浦です。その手前には東西に細長く楕円の形に見える沼もあります。原では、夕刻に蘆の間を行く舟を進ませて、塩焼きの小屋の煙が立ちます。伊豆の三島を通り過ぎて箱根の足柄の宿に着きました。
 お気の毒なさよ姫は、慣れない旅のことなので、足の裏から流れ出る血は、道の石を一面に赤く染めます。さよ姫は今はもう一歩も前に出られないと、枯れ木の根元を枕として、もはや駄目だと横になられました。太夫はとても腹を立てて、「これから先は何日で行くと予定を決めた旅程なのだから、、このままぐずぐずとしてはいられないのだ」と言いながら、さよ姫の腕をとって引っ張って、陸奥の国ヘと道を急ぎました。
 足を早めて行くと、間もなく相模の国に入りまして、大磯・小磯の海辺をを早くも通り過ぎ、めでたいことを聞くという菊川を過ぎ、鎌倉山はあれだろう、さらに広くてどちらへ行くとも判らない武蔵野に入り、隅田川に着きました。これがまあ、話に聞いた都から攫われた梅若丸の墓、墓には柳と桜の木を植えてあって、念仏の声が心に沁みるように聞こえます。さよ姫は、梅若丸の身の上が自分の運命と同じことと思われて、これから私はどうなるのだろうと思って、まず涙が流れるのでした。
 夜が明けて白んでくる白河は、二所の関とも言うようです。さらに恋しい人に会う会津の宿にに来て、梢の枝の筋もはっきり見分けないほどに脇目を振らずに先を急ぎましたので、それほど時が経たずに、奥州二本松、陸奥の国の安達の郡にお着きになりました。
 太夫は屋敷に入って、妻女を呼び寄せて、さよ姫を連れてきた事情をこうだと伝えました。妻女は、とてもうれしく思い、早速さよ姫に対面して、「ああ、美しい姫君ですこと。長い旅でさぞお疲れのことでしょう」と、奥の座敷へと呼び入れて、あれこれと世話をいたしました。さよ姫は、「ああ、情けないことに私は、一度も見たこともない陸奥の国まで買われて来てしまって、この身はどうなってゆくのかしら」と、ひどくお泣きになります。
 さて太夫は、早速にさよ姫のいる座敷を飾り付けます。第一には、清浄な物として、葉を取り除いた藁、神事に使う新薦を敷きました。座敷に注連縄を七回り張り回して幣を十二に切って、合わせて七十二の幣として立て、こここそが姫がおいでになる特別の部屋と荘厳しました。姫自身の身も浄めようと二十一度の垢離を取りました。可哀想にさよ姫は、どのような事情でこうされるのか全く思いもかけず、「これこれ、皆さん、奥州の部屋に入るには、このようにしないと入れないのですか」と、泣きながらお尋ねになります。
 世話をする女房たちは、「ああお気の毒な姫の思いですねえ。どうしてこのようにされるのかご存じなければ、さあさあお知らせいたしましょう。明日になりましたら、ここから北へ八町行ったところに、さくらのが淵と言って、周囲三里の池があり、その池の中に一つの築かれた島があります。この島の上に三階の棚を作って、その棚の上には注連縄を張って、姫を大蛇の生け贄に供えようとするための準備ですから、このようにあなたの身を浄めているのです」と詳しく話をしましたので、さよ姫はまさかこのようなこととは夢にも思っていませんでしたので、身を投げ出してお泣きになりました。
 さよ姫は涙を流しながら、嘆きごとを仰るのが気の毒です。「以前私を買い取りなさったその時には、子供の一人に加えようと、固い約束をなさいましたが、私を人身御供にしようとの話はいたしませんでした。これはいったいどうしたことなのですか」と、激しくお泣きになりました。
 太夫の奥方はあまりに可哀想で、姫を近く呼んで、「これ申し、姫様、お嘆きはごもっともです。あなたの生国はどちらでしょうか。都の近辺だとは伺っています。私も来年の春の頃に、都参りをする予定です。もしもご両親にお便りの手紙をお送りになりたいのでしたら、私の気持ちで、心を込めてお伝えしましょう。姫様、いかがですか」と涙を流しながら仰います。さよ姫は、ただうつぶせになったまま、何の返事もいたしません。奥方はこの様子を見て、「私の一人の娘であっても、人身御供に出すのならば、どれほど悲しいことであろう。あの姫の両親の心の中が思いやられて可哀想じゃ」と泣きながら仰います。この妻女の心は、優しいという一言だけでは表せないほどでございます。

  五段目
 このようなことのうちに、太夫は人身御供を差し出す準備をして、八郷八村に知らせようと思って葦毛の馬に乗り、八郷八村を触れ回る様子は興味深いものでした。「この度、ごんがの太夫は、大蛇への生け贄の当番に当たっておったが、都へ上って、姫を一人買い取って下って参った。さっそく人身御供にお供えするのである。皆々お出でになり、見物なさってくだされい」と、辻々、家々で触れ回ったので、八郷八村の人々はこれを聞き、この池の周りに見物席を作り、小屋掛けをして、あらゆる人々が集まってきました。
 こんな人々の騒ぎの一方、可哀想にさよ姫は、故郷への形見の手紙を書こうとして、硯の筆に手を掛けて文章を書こうといたしましたが、涙で目がふさがって、どう書いてよいかもよく見えず、筆を前へからりと捨てて、身も世も泣くお泣きになります。奥方をはじめ、周りに付き添う女房たちも、まことにもっとも、可哀想だとみな涙を流しています。
 太夫はこの様子を見て、もはや人身御供の日は明日に決まっている、姫に事情を細かに語って聞かせようと思って、「これこれ姫よ、あなたをここまで連れてきたのは、他のことでもない。あの山の奥に大きな池がある。この池に年に一度人身御供を供えて参ったが、今年は我が家がその番に当たったので、あなたを人身御供に供えるのじゃ。覚悟なさい」と言いました。
 ああ、気の毒な姫君は、この事情をお聞きになり、「これ太夫様、以前からどのようなつらい目にでも遭おうという覚悟ではございましたが、このようなこととは全く知りませんでした。でも、もう、それも仕方がありません。父の菩提を祈るためと思えば、全く恨みとは思いません。国元にいらっしゃるお母様がどれほどお嘆きになることか、それだけが気がかりです」と、また激しくお泣きになります。
 早くもその時になりましたので、気の毒にも姫君を、十分に着飾って用意をさせ、身分の高い人が乗る立派な網代の輿にお乗せして、十八町(原文のまま、以前の話では八町でした)離れたところにある池の岸へと急ぎました。いろいろな身分の人々がぎっしりと見物に出て来ています。姫の輿を決められた場所に下ろしました。可哀想に姫君は輿からお出になり、それから長者が舟にお乗せして、築島指して漕ぎ出しました。
 舟は水の上を進んで早くも築島に着きましたので、三段の棚を作り上げ、周囲に注連縄を張らせてありまして、棚の上に姫を人身御供として供えて、中の棚には神主が、一番下の棚に太夫が上がりました。神主はすぐに礼拝をして申し上げることには、「あああ、有り難い次第でございます。これはごんがの太夫が、当地繁昌を祈るためにお供えします。どうぞお守りください」と、数珠をさらさらと押し揉んで、懸命に祈りました。
 太夫も同じように身を浄めて懸命に祈ることには、「今年は私めが、人身御供の番に当たりましたので、姫を一人買い取ってきて、ただ今人身御供に差し上げるものです。どうぞこの土地を無事安泰にお守りなさってくださいませ」と、重ねて願い事を連ねて、祈りの言葉を申し上げました。それから池のほとりへと帰りました。陸に上がると、皆々ぎっしりと並びました。
 可哀想なさよ姫君は、三階の棚の上にただ一人、呆然としておいでになっています。そのお気持ちがお気の毒です。ああ、ひどいこと、姫の最期の時は今だと池のほとりの人々は騒いでいますが、何の動きもありません。集まった人々はこの様子を見て、「ああ、情けないことだなあ。神主めがいらない頼み言葉を唱えたばかりに、大蛇様のご機嫌を損なったのだろうか。ああ恐ろしいことじゃ」と言って人々は家へと帰り、門や木戸を固く閉めて、妻や子供に至るまで一家中がおびえ悲しむことこの上ありません。それぞれがじっと祈って、音を立てる者とてありません。
 気の毒にさよ姫は、ただ一人寂しく、涙を流していらっしゃいます。頼る者なく心細く、目を閉じて念仏を唱えていらっしゃいます。
 恐ろしいことに、急に空がかき曇って、雨風が激しくなり、雷が次々と強く鳴って、池の面は波立って、その長さ十丈ほどの大蛇が水を巻き上げて、赤い舌を振って、三階の棚の中段に頭を載せて、さよ姫をただ一口に飲もうと、火炎を吹きかけて向かって来ます。さよ姫は少しも騒ぐようすもなく、「これ、大蛇よ、その方命のある者ならば、少し待っておくれ。そなたもそこで聞いていなさい」と、父の形見の『法華経』の経巻を取り出して、声高く読み上げなさいます。
 「この経の一の巻は、冥土にいらっしゃるお父様のために、二の巻は奈良の都にいらっしゃるお母様のため、三の巻は私の一族のご先祖の方々のために、四の巻は私を買って下さった太夫ご夫妻のため」と仰り、五の巻を取り出して、「これは私自身のために」と声高く読み上げなさいます。「一者不得作梵天、二者帝釈、三者魔王、四者転輪聖王、五者仏身、云何女身、速得成仏」とお読みになります。
 「そもそもこの提婆品という巻は、八歳の竜女が即身成仏をしたということを説く経典であるので、大蛇、その方も蛇身を受けた苦しみから逃れるように」と仰って、お経の巻物をくるくると巻いて、大蛇の頭めがけてお投げになると、有り難いことに大蛇にあった十二の角がはらはらと落ちました。さらに「この経典の功徳を受けよ」、蛇の身を上から下へとお撫でになると、一万四千あった鱗が、一度にはらはらと落ちました。この様子を物に喩えれば、三月の頃に屋敷の門に植えた桜の花が散るように、散り散りに落ちたと言えばふさわしいです。
 大蛇は、「ああ有り難いこと」とそのまま池の中へ入ると見えたのですが、十七八歳の気品ある身分の高い女性と姿を変えて、さよ姫に近づいて、「これ姫君、実は私はある事情があって、この池に住むことが九百九十九年になります。その年月の間に、人身御供を取ったのが九百九十九人になります。もう一人呑めば千人になったのです。あなたのような尊い方に巡り会うこは、めったにないことでございます。これは何かと言えばひたすらお経のお力で、すぐさま大蛇の身を受ける苦の世界から離れて仏となり、悟りの境地に至ることができるのは、この法華経の徳に他なりません。さて、この御恩をお返しするには、何をお布施として差し上げましょうか」と言って、竜宮世界にある、如意宝珠という何事も意のままになるという宝の珠を取り出して、「さて、姫よお聞きなさい、この珠という物は心に浮かぶ願いの叶う珠なのです。腹の具合が悪いときはこれで腹をお撫でになるとよろしい。両眼が見えないものなら、この珠を使えばすぐに見えるようになります。とてもとてもすばらしいこの珠なのです。これを姫君に差し上げます。このことを疑わずによく信じてください」と、首を傾けて涙ながらに言います。いろいろなことがありましたが、さよ姫の心の内は、嬉しいという言葉だけでは言い表すことができないくらい嬉しさで一杯です。

  六段目
 この時、さよ姫は夢から覚めた心地がして、呆然としていらっしゃいました。さよ姫が、「これ大蛇、私は、父親の菩提を弔うために我が身を売って、この土地までやって来て、そなたの餌として供えられるということならば、この命は全く惜しくありません。ささ、さっさと私を取って呑んでおくれ、大蛇よ、どうなのだ」と仰ると、大蛇は、「ああ、もったいない仰りようです。今まで人を生け贄として呑んできたことを、とてもとても後悔しています。それでは、私のこれまでの身の上話を語ってお聞かせいたしましょう。
 私は、国は伊勢の国二見が浦の者でしたが、継母に憎まれていじめられたので家を出て、人買いに欺され、あちらこちらと売られて来て、その後この土地の有名な十郎左衛門という者が私を買い取って、つらい思いをしていました。そのころのこの池は、小さな流れの川でありましたので、土地の人が集まって、橋を架けようと計画して、一年に一度ずつ橋を架けようとしましたが、橋が架かることはありませんでした。土地の人は集まって、どうしようと相談をしました。中に、神が乗り移った若い者が出て、その者の言葉に、陰陽の博士を呼んで橋が架からない訳を占わせるのが良いとあり、すぐに博士を呼び寄せました。
 博士がやってきて事細かに占いました。なんという恐ろしい占いでしょう。その結果は、美しい女性を人柱として川に沈めるならば橋は完成すると占ったのです。それは簡単なことだと話がまとまり、すぐに籤を作って引いてみれば、私を買い取った十郎左衛門が当たりました。それで私を川に沈めたのです。
 この川端へ連れられて来たその時に、私は余りの悲しさに、「ああ情けないことだなあ、この八郷八里の里に他にも多く人がいるのに、よりにもよって私をここに沈めるものならば、我が身は長さ十丈の大蛇に変じてこの川の主になって、この土地の者を捕まえては呑み、捕まえては苦しめるようになって、ここの七浦の土地を荒れ果てさせてやろう」と、このように呪いの言葉を吐き、とうとう川に沈められて、この姿となりました。それはついこの間のことと思いましたが、今日まで九百九十九年ここに住みつき、年に一人ずつの人を呑んで、人々の嘆きを一身に受けていました。その報いでしょうか、私の鱗の下に九万九千の虫が棲み付き、我が身を傷めるその苦しみは何と喩えようもないほどのものでした。とてもつらいことでありました。このような苦しみの時に、あなたのような尊い姫君に巡り会えたことは、ただただ仏様のお引き合わせでしょう」と、この上なく喜びました。
 さよ姫は大蛇のこの様子をご覧になって、「これ、大蛇よ、私は大和の国の者ですが、恋しい土地は大和です。奈良の都にお母様がただ一人おいでですが、まだご存命でいらっしゃるのか、こればかりが気がかりなのです。ああお母様が恋しいこと」と、身を揉んでお母様を恋しがってお泣きになる、そのお気持ちがお気の毒です。
 大蛇は姫君のこの言葉を承って、「それでは、あなたの故郷は大和でいらっしゃるなら、私が大和まで届けて差し上げましょう。ご安心ください、いかがですか、姫君」と申しました。さよ姫はとても喜んで、「しばらく待ってください、大蛇よ」と言って太夫の所へ来ましたので、太夫も奥方も、これはいったいどういうことかとあきれるばかりで、眼前のことが実際に起きていることと思えず、「どういうことで大蛇の口を逃れてこちらにおいでになったのか、どうしてどうして」と言います。
 姫君はこの言葉をお聞きになり、今回の出来事の一部始終を説明されますと、太夫夫妻はとても喜びました。太夫は、「ところで姫様、そんなに奈良の都へお帰りになりたいですか。ただただここにお留まりください。どちらかの大名に輿入れをおさせしましょう。姫君いかがでしょう」と申します。
 さよ姫はお聞きになり、「それは有り難いお話です。この度のお二方からいただいたお情けは、決して忘れるものではありません。ですが、私は大和の国の者でございますので、まずは故郷へ帰り、母に対面をして、またこちらへ参りましょう。今はお別れいたします。ごきげんよう」と仰って、つらい思いをした陸奥の国から出られることは何よりも嬉しいと、そのまま池のほとりへとお下りになり、「さあ、大蛇よ、私を故郷へ送っておくれ」と仰います。
 大蛇はこれを聞いて、「それではお送り申し上げましょう」と、姫君を自らの頭の上に乗せて池の底へと入ると見えましたが、またたく間に、大和の国で名高い、奈良の都の猿沢の池の水面へと浮かび上がり、池のほとりに姫君を下ろして、「おいとまいたします、さようなら」と言って、それから大蛇は竜の形となって、天へと上って行きました。もう後へ返らずに竜が去るということで、この池の名を猿沢の池ということは、この時から始まったのです。
 さよ姫はこの竜が天に上る様子をご覧になって、今はまた大蛇との別れが悲しくなって、心細くなっていらっしゃいました。大蛇はそれからすぐに、壺坂の観音様と祀られて、人々をお救いになられました。さて、それからさよ姫は、奈良の都の中をゆるゆると進まれ、松谷へとおいでになり、昔住んでいた建物の中に入って、あちらこちらとご覧になると、屋敷を囲む塀も建物の軒も壊れ果てていて、お母様はここにおいでにならず、屋敷の中にはただお母様を呼ぶさよ姫の声が響くばかりです。
 さよ姫はこの様子をご覧になって、ああ情けないことだなあと、建物の中から外にお出になり、近所の人々に近寄って、お母様の行方をお尋ねになります。近所の人々が言うことには、「実は姫様、お母様はあなた様がおいでにならなくなってから、夜明けから日暮れまで一日中、ああ姫が恋しいとお嘆きなさって、間もなく両眼を泣き潰して、どちらとも判らず屋敷をお出になり、行方知れずになられました」と言います。
 さよ姫はこの言葉を聞いて、今のことは夢か現実かと、母君の姿をあちらこちらとお探しになられましたが、お母様の行方の手がかりはありません。それでも、巡り会えたのは親と子の縁なのでしょうか、お気の毒にもお母様が袖乞いをなさっていらっしゃいました。土地の子供たちが口々に、「松浦の狂い者、こちらへ来い、あちらへ行け」と言い、子供にまでからかわれていらっしゃいます。
 さよ姫はこの母上の姿を夢に見たかのように思い、母上にするすると走り寄って、しっかりと抱きついて、「これ母上様、さよ姫がここに参っております」と涙を流しながら申し上げます。母上はこれをお聞きになり、「さよ姫とは誰のことじゃ、これこの娘、私は昔松浦谷という所にいた時に、さよ姫という娘を一人持っていたが、人買いが姫を欺して連れて行き、行方知れずになったが、姫はもうこの世に生きてはいない者じゃ。目の不自由な者の杖に打たれても、私を恨むではないぞ」と。杖を振り上げて、周りに振り回しましたので、さよ姫はますます悲しくなって、大蛇が授けてくれた竜宮の如意宝珠を取り出して母上の両眼に押し当てて、「善きことあれや、眼がはっきりとと見え、治りますように」と、二、三度お撫でになると、母上の両眼はぱっと開いて見えるようになりましたので、母上様はこれはこれはと仰るばかりで、二人の喜びはこの上ありません。
 さて、この後にさよ姫は、お母様と一緒に、故郷の松谷へとお帰りになりますと、以前に仕えていた人々があちこちから集まってきて、誰も彼もが,私めは再び奉公いたしましょうと言って、多くの人が家来になりました。屋敷は次々と建物を並べるような豊かな暮らしになりました。さよ姫は奥州へと使いを出して、太夫夫妻をお呼び寄せになり、多くの宝を授けました。そしてまたこの太夫夫妻を家の家来として頼りにし、日ごと、月ごとに富み栄え、ますます豊になってゆきました。この家は、再び松浦長者という名をお継ぎになりました。これはただ、親孝行の気持ちを神仏が汲んでくださったものに他なりません。
 それから年月が過ぎて行きまして、さよ姫は八十五歳になって大往生をなさいました。その時に花が降り虚空に音楽が聞こえて、過去・現在・未来の三世の諸仏がお迎えに来られ、西の方には紫の雲が棚引き、すばらしい薫りが漂って、西方弥陀の浄土へとおいでになりました。人々はこの様子をご覧になって、このようなことはめったにないことだとあれこれと評判をしたのです。
 さよ姫はこの後、近江の国、竹生島弁才天と祀られました。かつて、大蛇に縁を結ばれたことがありましたので、竹生島でのお姿は頭上に大蛇をお載せになっているのです。この竹生島という島は、東西南北ともに開けているので、十方山とも申します。夜の間に出来た島なので、明けずが島とも伝えています。竹が三本生えていますので、それで今日まで竹生島とも申します。
 昔も今も、親に孝行する人は、この素晴らしい結末を決して疑ってはいけません。親不孝の者は、いかなる神仏も守ってはくださいません。現在生きている親には無論こと、親が亡くなった後までも孝行を尽くさなくてはいけません。また、この弁才天は女の人をお守りくださるので、女の人は我も我もとお参りになり、竹生島へとお参りしない人はいないのです。親のために身を売った姫の物語、はるか昔から今の代までも、めったにないことだと、感心しない人はいません。

まつら長者 前編(初段~三段目) 福福亭とん平の意訳

まつら長者 前編 (初段~三段目)

  初 段
 今から語ります神仏の現世での物語は、国で言えば近江の国、竹生島弁才天のもともとの物語を詳しくお話しします。この弁才天は、かつては普通の人間でいらっしゃいました。
 国の名は大和の国の壺坂という所に、松浦長者と言って、裕福な人がおいでになりました。お名前を京極殿と言いまして、その名は、はるか高麗や中国までも響いていました。屋鋪の四方に黄金の垣を作り、周囲に多くの木を植え、数々の門と館を並べ、数知れずの花が様々に咲き乱れ、池の汀の砂は数々の宝石を敷き詰め、ありとあらゆる宝が満ちあふれていて、極楽浄土もこのようであろうかと思われます。
 このように豊かに栄えていらっしゃるのですが、この家には、男子も女子も、お子様が一人もいらっしゃいませんでした。殿様は奥様をお呼びになって、「これ、奥よ、あなたと私と、長い年月添いながら、子という存在が無いというのは、世間の評判も恥ずかしい。さあ、あなたと私と、初(は)瀬(せ)の長谷観音様にお参りして、多くの宝を寄進して、お願いしてみようよ」と仰いました。奥様はお聞きになって、もっともなこととお思いになり、「それこそ望むところでございます」とお答えして、ご夫婦連れだって、初瀬詣でへとお出かけになりました。
 初瀬までおいでになり、仏前にお参りして、鰐口をちゃんと打ち鳴らして、三十三度の礼拝をして、「南無、大慈大悲の観世音様、枯れ木にも花を咲かせるようにしようというあなたのお誓いに間違いがないならば、男子でも女子でも、子種をお授けになってください。このお願いが叶いましたら、仏前の花の帳を(とばり)黄金で作って毎月三十三枚ずつを三年の間寄進いたしましょう。それでも足りないとお思いでしたら、錦の帳を並べて、三年の間寄進いたします。それでも不足とお思いでしたら、一日千部のお経を毎日三年続けて読ませましょう。男子でも女子でも、いずれにせよ子供を授けてくださいませ」と仏の十八願に則った頑を立てて、その夜はその場で夜明かしをいたしました。
 ああ、有り難いことに、夜中ばかりに観音様は長者夫婦の枕元にお立ちになって、「これ夫婦の者よ、そなたたちの嘆きが気の毒で、子供を一人授けるぞ」と、黄金の幣(ぬさ)をお授けになって、たちまち姿を消されました。
 長者ご夫婦は、夢から覚めて、がばと起き上がって、「ああ、有り難いご利益をいただいた」と再び仏前にお参りして、すぐお帰りとなりました。お屋敷にお帰りになると、観音様のお約束の頼りのあること、奥方様は間もなくご懐妊されました。九か月のお悩みを経て、いよいよ産み月の十(と)月(つき)となって、ご出産となりました。生まれたお子さんを急いで取り上げてご覧になると、まるで玉で出来たような美しい姫君でありました。すぐさまお子さんの名を、夢で授けていただいたことそのままに、さよ姫御前とお付けになりました。多くの人が集まって、姫を囲んでもてはやすことは、言葉に尽くされません。
 このようにおめでたい日々に、人間の運命は定めがないというのはこのことでしょうか、姫が四歳の時に、お気の毒にも京極の殿様は風邪気味になられ、病が重くなって、今はの際に成られて奥方様をお呼びになり、「お話があります、お聞きください。。たった一人のあのさよ姫を立派に育ててくださいよ」とおっしゃって、またさめざめとお泣きになりました。奥方様はこの言葉をお聞きになって、「ご安心ください。あなだ様だけの子ではございません。必ず立派に育てましょう」とお答えになります。京極殿は喜ばれて、『法華経』を取り出して、「これを私の形見として姫に見せてください。お名残惜しいことであるなあ」と言いながら、西に向かって手を合わせて、「南無阿弥陀仏、弥陀仏」という言葉を最後の言葉として、惜しくも御年三十六歳を限りとしてはかなくなられました。
 奥方様も一門の方々も、これは夢か現実のことかと、天を仰ぎ地に身を投げ出して、この上なく泣き嘆かれました。いくら悲しんでも今さらいたしかたのないことですので、野辺の送りをして荼毘に付して遺骨を集めて墓を建て、供養の卒塔婆を書いてお建てになりました。弔問の人々はそれぞれにひとまず家へと帰り、以後、七日ごと、四十九日、百か日の法要を営んで日が過ぎましたが、長者の冨はただ一代に築き上げたものなので、蔵の中の宝も、庭に積んだ宝もいずれも使い果たし、山のようにあった宝物はすべて水の泡のように消え失せて、貧しい家にとなってしまいました。一家の人々も、それまで近づきであった人々も、思い思いに散ってしまい、それぞれの故郷へと帰っていきました。
 ああ気の毒なことに、まつら長者の屋形には、奥様と姫様お二人だけいらっしゃいましたが、奥様はあまりの寂しさに、姫君を自ら抱き寄せて、殿の忘れ形見として大切に育て、姫君の成長に心を慰めて日々をお過ごしになっていましたが、速いもので、ついこの間のことと思っている内に、姫君は早くも七歳にお成りになりました。この姫君と申し上げる方は、一を聞いては十はおろか万のことを悟る聡明さで、周りの人々は、まるで天人がお出でになったか、菩薩様が天下ったか、と不思議に思うくらいでありました。位の高い公卿から低い殿上人に至るまで、この姫君に文を送らない人はいません。
 お気の毒なのは奥様で、春になると沢辺に出て根芹を摘み、秋になれば田のほとりに出かけて落ち穂を拾って、かろうじて露命を繋いでいらっしゃいます。この間に姫君は、早くも十六歳におなりになりました。お気の毒な奥様は、姫君を近くお呼びになって、「今年は早くもお父様の十三年の年回に当たっていますが、法事を営む蓄えがありません」と仰って、がっかりとなさっていらっしゃいます。奥様は『法華経』の経巻を取り出して、、「これさよ姫よ、これはお父様のお形見です。拝みなさい」と仰って、またさめざめとお泣きになります。さよ姫はこの母上のお言葉をお聞きになって、「これがお父様のお形見なの」と、経巻を顔に当てて、身も世もなくお泣きになります。
 姫君は涙の間にも、なるほど、まことに世間では、自分の身を売ってでも親の菩提を弔うものだということを聞いている。さあ、私も身を売ってお父様の菩提を弔おうと思い、夜の闇に紛れて屋敷を紛れ出て、春日の明神の神前に詣でて、「お願いでございます、春日の明神様、私を買ってくださるような人があるならば、お引き合わせください」と心からお願いをして、社を退出いたしました。
 そのころ、奈良の興福寺では、尊いお上人様が説法をなさっておいででした。さよ姫もこれをお聞きになりました。人々は身分上下の別なく大勢が集まりました。「そもそも親の菩提を弔うことは、自分の身を売ってでも行うのが最善の親孝行である」とお説きになっていたのです。説法を聴聞に集まった人々は、「なんとも有り難いお話であった」と言い合って里へと帰って行きました。
 これは大和の国での物語です。一方、そのころ奥州の陸奥の国安達の郡の八つの郷八つの村の土地に、大きな池がありました。その池には大蛇が住んでいて、その土地の氏神となっていました。不思議なことに、どのようないわれがあったのでしょうか、美しい娘を一年に一人ずつ捧げ物としてこの氏神に捧げていました。この土地に、こんがの太夫という裕福な商人がいましたが、この人身御供を差し出す当番に当たりました。太夫は、都へと上って身を売ろうという娘があったら買い取って身代わりに連れてこようと思い付いて、奥方に事情を話し、都へと上りました。この身代わりを買い取るという思いつきに、太夫の心は嬉しさで一杯でした。

  二段目
 さて、太夫が安達の郡を旅立って三十五日目に、花の都へ着きました。都の一条小川の、きく屋という材木屋に宿を取って、洛中の辻ごとに身を売る者があれば買おうという立て札を書いて立てておいて、自身は秘かに町々を回って様子を見ていました。都は広いと言っても、さすがに見る人はいませんでした。それではここで思い切って、これから奈良の都で探してみようと思い立ち、京の都を後にして、奈良の都へと足を急いで出かけました。奈良の都に着いて、つる屋の五郎太夫という家に宿を取って、奈良の都の辻々に告知の札を立てました。
 一方、気の毒な身の上と言えば、さよ姫が一番惨めでございました。早くも夜明け近くになりましたから、さよ姫は興福寺へとお参りになり、寺の御門の脇をふとご覧になると、高札があるので立ち寄ってご覧になると、「美しい娘がいるならば、高値で買おう」ということと、「連絡先はつる屋五郎太夫」と書いてありました。
 さよ姫はこの文面をご覧になって、ああなんとも嬉しいことだなあ、これからすぐにつる屋へ行ってこの身を売ろうとは思いましたが、いや少し待て、このまま自分がいなくなったなら、さぞやお母様がお嘆きであろう、そのことがお気の毒と、涙ながらに家に帰って行きました。
 こんなことがあった一方、太夫の心中は、札を立てて三日経ったけれども、何の反応もないとは、どうしたらよかろうかと、さまざま考えて悩むばかりでした。こんなところに春日明神は、太夫の苦悩を哀れとお思いになって八十歳ほどの老僧に姿となって、「これこれ太夫よ、ここから離れた松(まつ)谷(たに)という所に、松浦長者という裕福な人がおったが、あまりにけちで強欲であったために山のようにあった宝が水の泡のように消え失せ、本人も亡くなってしまった。今はもう全く貧しい家となって、家の中には奥方と姫のただ二人になっている。もしかしたら、この人が身を売ることもあるであろう、太夫よ」と仰せになって、かき消すように姿を隠しました。
 太夫はこのお告げを聞いて、なんとも嬉しいことを聞いた、これは氏神様のお引き合わせだと喜んで、仰せの通りに松谷へと来て見れば、長者の屋敷と思われる軒の高い立派な建物があります。瓦も軒も壊れて、水が次々漏れて行くけれど、止める人もいません。屋敷の前の広い庭に立って、「もし、誰か、頼みます」と声を掛けますと、さよ姫が奥から出て来て、「どちら様ですか」と答えますので、太夫は、「怪しい者ではございません。私は都の者ですが、身を売る姫がいるならば、高価に買おうとして、ここまでやって参りました」と言います。
 さよ姫は、これは願ってもないこと、これは春日明神のお引き合わせだと嬉しくお思いになり、「これ、商人さん、私を買ってくださいな。値段はそちらに任せます。親の菩提を弔う法事を営むため、それで私はこの身を売るのです」と仰います。
 太夫はさよ姫の言葉を聞き、「親の菩提を弔うと聞くからには、高く買いましょう」と言って、砂金五十両を渡しました。お気の毒なさよ姫は、すぐにその砂金を受け取って、「さて商人さん、私に五日間の猶予をください。明日になったら、お父様の菩提を弔って、五日目の昼過ぎの八つの頃に迎えに来て下さい」と固く約束を交わし、太夫は宿に帰りました。
 可哀想なのはお母様で、さよ姫が身を売ったことを全くご存じなく、持仏堂にいらっしゃいます。さよ姫は、お母様のそばに寄り、「これ申し、お母様、これをご覧ください。この黄金を門の外で拾いましてございます。この黄金でお父様の法事を十分になさってくださいませ、お母様」と仰いますと、母上様は嬉しくお思いになり、「まあまあ、あなたはお父様のご冥福を大事に思って法事を営みたいという志が深いから、この黄金を天がお与えになったのでしょう。それでは、法事を営みましょう」と、多くのお坊様をお願いして、十分に法事を営みました。
 可哀想なさよ姫は、「さてお母様、今は何をお隠しいたしましょう。私はこの身を売ってしまいました。人買い商人の手に渡り、どちらとも知らない国ヘと参ります。私は、どちらの土地にいるとしても、命永らえているならば、必ずお手紙を差し上げます。くれぐれも、後でお嘆きくださいますな。あなたのお嘆きが一番哀しゅうございます」と、この上なく嘆かれます。
 お母様はこのこのことをお聞きになり、「これは夢か現実のことか。それではあなたは自身の身を売ったと言うのですか。ああ、何という情けないことよ」とさよ姫に抱きつき、この上なく嘆かれます。さよ姫は母上の言葉を聞いて、「これ申しお母様、仰ることはごもっともではございますが、これも前世からの決まりこととお思いになって、どんな土地に参ろうとも、すぐにお便りを差し上げます。それではこれでお別れでございます。ごきげんよう」と仰って、名残惜しそうに表へとお出かけになりました。
 お母様は余りの悲しさに、「これは一体どういうことなのか、夫の長者に死に別れたことをあってはならないことと嘆いたのに、また姫よ、あなたに別れてしまったら、私はどうなることでしょう」と仰って、「ああ恨めしい世の中じゃ」と、身を揉んでお泣きになります。その我を忘れてのお嘆きの様子は、傍目にも気の毒であります。お母様は余りの悲しさに、「これさよ姫よ、そなたを買った商人の来るまで、しばらくお待ちなさい。さよ姫」と、姫の袂にすがりついて、親子二人一緒になって、再び屋敷の内にお入りになりました。二人の心の中の哀しさは、たとえようもありません。
 二人の嘆きはひとまず置きまして、一方のこんがの太夫は、五日目の八つ過ぎになりましたので、「なんと憎いやつだなあ、あれほど固く約束したのに、今になってもやってこないとは、腹が立つことだ」と急いで松谷へやって来て、屋敷の中へずいと入り、「これ、どうした姫君よ、どうして約束の刻限に遅れてしまうのだ。さっさと出ておいでなさい」と、大声で呼びましたが、人の気配がいたしません。
 太夫はますます腹を立てて、持仏堂へずいと入って様子を見れば、お母様と姫が二人だけで、読経をなさっていらっしゃいます。太夫はとても怒って、「これ姫よ、どうして遅くなったのだ。さっさとお出でなさい」と言いながら、さよ姫の肘を握って引っ張り、外へと走り出ます。母上様はこの姿をご覧になって、「つれないことをなさる太夫様、幼い姫のことですから、お許しなさってください」と、激しく涙を流されます。
 太夫はこの願いに耳を貸さず、建物の外へ出て行きます。お母様はさらに悲しんで、姫の跡を追いますが、太夫はこの姿を見て、「これ奥様、私は奥州の者でございますが、あの姫を養子にして、いずこかの立派な大名の家へと奉公に出すようになれば、あなた様の所へお迎えの乗り物を寄越しましょう。さあさあ、お帰りなさい」と、いかにもありそうな話にして母上様に偽りを伝えると、母上様はこの言葉を真実とお思いになり、「そのような次第であるならば、姫は幼い者でありますので、よろしく世話をしてやってください。今がこの子との別れか、姫よさらば」と、さらばさらばの別れの言葉を添えた涙の別れが哀れであります。ともかくも、母上様の我が子に別れる心の内、哀れという言葉だけでは収まらない、この上ないものでした。

  三段目
 おかわいそうに母上様は、泣く泣く屋敷へとお帰りになりました。その心の内はお気の毒でした。母上様は持仏堂にお参りになって、仏様への訴えごとはお気の毒でした。「ああ、情けないことじゃなあ。今日は姫の顔を見たが、明日から後の日の恋しさを、誰を頼りとして、さよ姫と思って心を慰めようか」とお思いになり、世の中の普通のことではないので、心は狂気になり、屋敷の内にいることもなく、狂った心のままに外へと浮かれ出ます。「ああ、さよ姫恋しや」と言いながら、とうとう泣いて両眼を潰してしまい、奈良の都をあてもなく出て、あちこちとさまよい歩かれるという、母上様のこの姿、哀れだと気に掛ける人もいません。
 母上様の嘆きはひとまずおいて、哀れな様子はさよ姫でございます。商人と一緒に、懐かしい松谷を後にして、春日明神の山を遥かに拝み、木津川を渡り、山城の国の井出の里も遠くに見えます。お気の毒にさよ姫は、慣れない旅の疲れの中で、一首の歌をこのようにお詠みになりました。
  あとを問ふそのたらちねの憂き身とて我が身売り買ふ涙なりける
  (菩提を弔う父親のためにと言って、我が身を売ったのは哀しいことですね)
と、このようにお詠みになり、長く生きるという言葉と同じ地名の長池の巨椋堤のほとりを過ぎて、だんだんに行くとほど近く、着いた所は、花の都と呼ばれる京の都でありました。
 気の毒なさよ姫は、旅装束を身にまとい、こんがの太夫と連れ立って、花の都を立ち出でて、東を指して下ってゆきます。さよ姫が太夫に、「これ申し、太夫様、道中の案内をしてくださいな」と仰ると、太夫はこの言葉を聞いて、「それならば道中案内をいたそう。ここは四条の河原、あちらにあるのは祇園の八坂神社じゃ」と言えば、祇園の林の烏が飛び立ちますが、そのように落ち着かない浮かれ心の中が、暗い中に明けの雲があざやかに立つて夜が明けるように、心の中に悟りが開けて仏法の教えもここに開くところじゃ。さて経を書いて亡き人を弔う経書堂はここだとかと、話しながら来ます。参詣する者皆が車や馬から降りる、車宿りや馬止めを通り過ぎ、清水寺の観音様の社前に着いた時、さよ姫は鰐口をちゃんと打ち鳴らし、「お願い申し上げます慈悲深い観音様、奈良の都においでになる母上様をどうぞ無事にお守りください」と伏し拝んで、(夜明けを告げる鳥の声とともに、)その夜はそこに通夜をいたしました。
 夜明けの鐘が早くも鳴れば(、夜明けを告げる鳥の声とともに)、後ろ髪引かれる思いで仏前を立ち出でました。そこで西門に立ち寄って、南を遥かにご覧になると、故郷が恋しく思われ、その思いの雲が晴れる間も無い私の思いです。秋風が吹けば、白川に、私が初めて出る旅の始めに、いっそうつらいことに遭うという響きの粟田口とは悲しいこと。日の岡峠を早くも過ぎて、この先どちらとお尋ねに、会う人もない追分や、山科に名高い四の宮河原を、順に辿って先を急ぎます。
 行く者も帰る者もここに逢うという逢坂の関の明神のそもそもは、醍醐の帝の御子の蟬丸様でいらっしゃると承ります。両の目が不自由なそのために、宮中からここに捨てられました。今は関の明神と多くの人が参拝に来ます。有り難いことと宮中から捨てられた関の明神の由緒を思い出し、このようにやつれ果てた私を、よろしくお守りくださいませと頼りない身でお願いし、その先の土地は近江で、母上には必ず逢えるということに通じるとは心が慰められます。大津打出の浜を過ぎて、志賀唐崎の一本松に我が身を思うと、頼りない一人の身が思われて、ますます涙は止められません。気が急いて、間もなく石山寺の鐘の声が静かに耳に届き、風情があって心が鎮まります。
 さらに思いは湧く瀬田の端、木の下にいても時雨が漏りくる守山に袖濡れて、置く露が風に散る篠原過ぎ、曇りのない鏡山は涙の中でしかと見分けられず、馬淵畷もとうに過ぎ、あれが惟喬親王が世を捨ててお建てなさった武佐寺よと伏し拝み、親王が長くお籠もりになった五条の宿、ここで年を重ねるという名の老蘇の森、愛知川を渡れば千鳥が飛び立ち、小野の細道、磨鍼山、番場、醒ヶ井、柏原の宿を過ぎ、恋しい懐かしい母上と交わした寝物語を思わせる地名の寝物語の宿を過ぎ、足を速めて進み行き、間もなく山中宿にお着きになりました。
 お気の毒な姫君は、旅の余りの過酷さに、「これ申し、太夫様、つらい長い旅を重ねてきましたので、足を速めようとしても足が出ません。この宿に二、三日足休めに逗留させてくださいませ、太夫様」と仰せになりました。太夫はとても腹を立てて、「奈良の都から奥州までの旅路は、百二十日とすると決めているのだから、どんなに泣いても嘆いてもそれはならん」と言いながら、杖を手にして姫君をさんざんに打ちましたので、お気の毒にも姫君は、杖に叩かれながらも嘆きの言葉を仰るのが可哀想です。
 さよ姫は、「つれないことよ太夫様、打とうが叩こうが、それが太夫様の杖だと思うと恨めしい。でも、冥土にいらっしゃるお父様のお教えの杖と思えば、一向に恨みとは思いません、太夫様」と仰って、死んでしまいそうにお泣きになります。太夫はこの姫の様子をご覧になり、ここに数日留まることはさせまいとは思っていましたが、余りに可哀想になり、この山中宿に三日間留まって、それから奥州へと下りました。
、嵐や木枯らしがふわと吹く不破の関、月が出ているのだろうか、宿の荒れた屋根の板の間から露も垂れ来て袖濡らす垂井の宿と聞けば、涙があふれて袂が絞れないほどにぐっしょりと濡れています。夜はほのぼのと明け、明るくなると赤坂で、ここは実のなるという美濃の土地ならば花も咲いてほしいという花の香りの杭瀬川にと着きました。大熊河原の松風は、琴の音と聞こえるでしょう。大熊を恐ろしい宿の名として通り過ぎ、嫌なことはここで終わりとする尾張の熱田の宿、熱田神宮を遥かに拝んで、これほど清々しく気持ちが涼しくなるお宮を誰が熱田と付けたのでしょう。
 三河の国に入りまして、足助の山が近くなり、妻を恋いながら得られない鹿が鳴いています。さよ姫はこの鹿の声をお聞きになり、「奈良の都にある春日大社の鹿が懐かしい」と仰いました。だんだんに道を進んで行くと、矢作の宿も通り過ぎて、あの著名な八橋に着きました。「さて姫よ、親のために身を売るという者は、あなた一人だけだとお思いになりますな。昔もそのような話がありますぞ。この八橋というのは、六歳と八歳の子が身を売って、親の菩提を弔うためにこの端を架けたので、それで八橋というのです。あなたも気を強く持ち直して、足を速めてくださいな、さあどうですか、姫君」と申します。
 ああ可哀想にさよ姫は、この話をお聞きになり、「さあ太夫様、身を売ったのは私だけかと思ったのですが、昔にもそのような人がいて、まだ幼い気持ちのままに身を売って、こんな名所を作られたのですね。ああ、私も、父御の菩提のためですので、このように後世に名を残しましょう」と、涙ながらに足を速められました。このさよ姫のお気持ちは、哀れという言葉だけでは言い表せません。

 

木幡狐(こはたきつね) 福福亭とん平の意訳

木幡狐 全
 少し昔のことでありましょうか、山城国木幡の里に、年を重ねて長生きをしている狐がいました。稲荷の明神のお使いを務めていることで、あらゆることが思いのままで、とりわけ子どもは、男子も女子も多くいました。どの子も知恵が働き、学問、芸能に通じて、世間に並ぶ者がないという評判があって栄えていました。多くの子の中でも、妹姫に当たる方は、きしゅ御前と申しました。子どもたちの中でも特別に優っていて、顔かたちが美しく、心ばえもすばらしく、春は花を愛でて一日を過ごし、秋は一点の曇りもない月の光の中で静かに風情を思い、詩歌管絃の道にも堪能で、この姫の様子を聞き伝えた人々で、心が惹かれない人はいませんでした。人々は我も我もと姫の乳母に伝手を頼んで、次々と数多くの恋文を寄せて、あれこれと心を悩ましますが、流れる水に文字を書くように全く空しいもので、きしゅ御前は誰にも心を寄せるということがありません。きしゅ御前は、このつらい世に生きて、どのような殿上人や関白殿下の北の方と言われようか、世の平凡な暮らしは思いも寄らないこと、北の方になるのでなければ、一瞬光って一瞬で消える稲光、朝日に当たればすぐ消える朝の草葉の上の露や夢幻のようなはかない刹那の世の中に心を置いて何になろうか、どのような深い山の奥にでも引きこもってこの世を去って、ひたすら来世を願いたいと思って日々を過ごしているうちに、十六歳になられました。両親はきしゅ御前を御覧になって、多くの子どもたちの中でこのきしゅ御前は一番優れて見えるから、しかるべき御方を聟に取り、何の心配もなく暮らせる様子を見たいと思って、いろいろとご指導をなさいます。
 さて、ここに三条大納言様という方がいらっしゃいます。そのお子さまに、三位の中将様という、顔形の美しさは、まさに昔の光源氏在原業平の中将といった方もこの中将には優ることがありません。身分の高い者も低い者もこの三位の中将に心惹かれるほどですので、父上の大納言殿に話があって、ある方のところからお使いがありましたが、中将様は心が動く様子もなく、どのように身分の低い女性であっても、その容貌がすぐれた人となら結ばれようとお思いになり、いつもは詩歌管絃の遊びにだけ心を寄せていらっしゃいました。
 時は三月下旬のことですが、中将殿は花園にお出かけになって、散ろうとしている花を御覧になって、在原業平が「花の美しさに満足しきれない思いをいつもしているけれど、今日の今宵のような満足しきれない思いはしたことがない」と詠んだのもこのような時であろうかと、しみじみと御覧になっていらっしゃいます。その時、あのきしゅ御前が稲荷の山から見下ろして、ああいとおしい中将様よ、私が人間と生まれているならこのような方にこそ結ばれて親しく暮らすであろうものを、どのような前世の行いのせいで、このような狐の身として生まれたのであろう、悲しいことよと思いましたが、それはそれ、ここはまず人間の姿に化けて、ひとたびの契りを結んでしまわなくてはとお思いになり、乳母の少納言を呼んで、「これ、お聞きなさい。私は心に思うことがあって、今から都へ上ろうと思います。ではあっても、この姿で都に上ったならば、人がおかしく思うでしょう。十二単(じゆうにひとえ)と袴を着せておくれ」と申します。乳母はこのきしゅ御前の言葉を聞いて、「このごろ都では、鷹狩りの犬などという危険な犬が家ごとに多くいますので、上っていく途中も面倒がございます。その上、お父上とお母上のお二人様がお聞きになられましたら、私めがやったことだと仰ることに決まっています。思い止まってくださいませ」と申し上げます。きしゅ御前はお聞きになって、「どのようにそなたが止めても、私は思う訳があって決めたことなのだから、私は止まりませんよ」と仰って、美しく人間の姿にとすっかり化けてお出かけになりました。
 そのようなことで、中将様は、このきしゅ御前の姿を御覧になって、この人の姿は夢か現実かわからないとお思いになって、きしゅ御前の顔かたちは言葉で言い尽くせず、この女性はまさに玄宗皇帝の時なら楊貴妃漢の武帝の世であったならば李夫人と思うであろう、また我が国なら、小野良貞の娘の小野小町という女性もこのようであったであろう美しさだ、たとえどこの誰であっても。ちょうど良い機会だとお思いになり、乳母であろうと思われるお付きの女性に、「この方は、どちらからどちらへとお出かけの方でありましょう」と家来に尋ねさせます。乳母が嬉しい思いでお答え申し上げることには、「これはある方のお姫様でいらっしゃいますが、継母に讒言をされて、父上のお怒りを受けましたので、これを後世往生を願うきっかけとして、どのような山寺へも籠もってしまおうとのことでございますが、何分これが初めての旅でありますので、道に迷ってここまで来てしまいました。まことに恐れ多いことではございますが、一夜の宿をお供の方にお申し付けになってくださいませ」といかにもありそうに申し上げると、中将様は嬉しくお思いになって、この年月あちこちの女性をえり好みしてきたのは、このような人に逢おうということのためであったのか、ともかくも、この女性がどこの誰でも良い、この人に逢ったのも前世の縁であろうとお思いになって、「こちらへお入りください」と、自分の御殿にお連れして、中将様の乳母の春日の局に命じて、いろいろともてなして大事になさることは、言葉では言い表せないくらいであります。
 その後、それぞれにおやすみになると、中将様はますますきしゅ御前への思いが募ってしまったので、きしゅ御前の枕元に寄り添って、「このような縁は、前世からだけではない、はるか昔からの縁だと存じます。深くお考えになって何を仰せになっても、この御殿からはお出しいたしません」と、いろいろな言葉を尽くしてお話になります。きしゅ御前はもともと、自分から考え出したことですから、心の中の嬉しさはこの上ありません。しかしながら、とても恥ずかしそうな様子をして、中将様のお言葉に従う様子をしないでじっとしていらっしゃいます。夜もだんだんに更けて、一つ寝の床で夫婦の契りを結びました。お互いに相手を思う愛情は深く、生きている間は偕老同穴のように深い契りとお思いになり、夜明けも近い時であって、間もなく鳥も鳴き、寺々の鐘ももはや夜明けと響きました。中将様はあまりに名残惜しい気持ちがあふれて、歌を一首、このように、
  むつごともまだ尽きせぬにいかばかり明けぬと告ぐる鳥の音ぞ憂き
  (二人の間の睦まじい言葉も言い尽くせない身に、世が明けてしまったと告げる鳥の声がどれほどつらいことか。まだお別れしたくありません)
きしゅ御前の返歌です
  思ひきや今宵初めの旅寝して鳥の鳴く音を歎くべしとは
  (今夜生まれて初めての旅寝をして、夜明けの鳥の鳴く音を嘆くことになろうとは、思ってもみないことです。初めての旅であなたと結ばれ、夜の短さを嘆くとは)
このようにいろいろと物思いをされて、夜は一晩中、昼は夜明けから日暮れまで睦び合って、毎日暮らしていらっしゃるうちに、月日は流れて、水無月の頃に、きしゅ御前が体の不調を訴えられました。中将様はこの様子を御覧になって、面倒な様子だがどうなることだろうかと様々な祈禱をなさるのは、言葉に尽くせません。一向に回復のきざしが無いのを悲しんでいましたら、実はきしゅ御前の御懐妊の様子でありました。中将様も乳母も喜んで、その年が過ぎて、正月、二月も過ぎ、三月という時に、とても可愛らしい若君がお生まれになりました。中将様は御覧になって、この上なく嬉しくお思いになられます。若君に乳母を大勢付け、そのほか多くの人がお付きとなり、大事に世話をしてお育て申し上げることはこの上ありません。
 このようにして、日が経つにつれて、若君は光が差し込むようにますますかわいらしくお育ちになります。中将様の両親である大納言様と北の方様も、それとなくお聞きになって、中将はどうしてこのことを隠しているのであろう、相手がどのような身分の人であっても、中将が選んだ人であり、その上、美しい若君まで生まれたのだから、どうして我々がおろそかに思うことがあろうか、きしゅ御前にも対面して、一緒に大事に面倒を見ようではないかとお思いになり、中将様へこまごまとお伝えをなさったところ、中将様はとてもお喜びになって、「こちらからこのようになったとお伝えしたかったのですが、恐れ多く存じまして」ということで、きしゅ御前にこのようなことになったとお伝えになりますと、きしゅ御前は、「恐縮ですが、そのように仰せになられる上は」ということで、さまざまの衣裳を作って、吉日を選んで、御対面をいたしました。大納言様と北の方様が御覧になって、世の中にはこのような美しい女性もいるのだなあ、どんな皇室のような高貴な血筋につながる女性であっても、こんな姿の人はいないであろう。中将が思いを掛けたのも当然だとお思いになりました。
 このようにして、何の心配もなく月日を送っていられるうちに、若君は三歳になられました。そこで家中の人々も、この若君の御機嫌が好いようにと振る舞い、いろいろと気遣いし、遊び道具などを差し上げます。ある時、中将様の乳母であった中務のところからということで、世に類のない優れたものとして、美しい犬を献上してきました。きしゅ御前の乳母の少納言はこの話を聞いて、身の毛もよだつばかりになって、急いできしゅ御前のもとにやってきて、「思いがけない大事が起こりましたよ。この犬が若君の遊び相手をているのです。これに超す大事はございません」と言って、むせび泣いています。きしゅ御前は少納言の言葉をお聞きになり、「まさに、これが縁の限りです。この御殿を出て行くよりほかのことはありません。中将様や若君への名残惜しさをどうしましょう」と、涙が止まりません。しばらくあって、「たとえ千年万年を一緒に暮らしても、名残が尽きることはないでしょう。機会をうかがってこの御殿を去って、この巡り合わせを往生への発端として、世を捨てて出家することはとても簡単なことですけれど、中将様はさぞかしお嘆きになるでしょう。若君との別れの名残もどう考えても悲しいけれども、何としても出来ないことですから」と仰って、声を詰まらせて泣いていらっしゃいます。
 そのような時に、中将様は、天皇様から七日に管絃を行うので参れとのお呼びがあって、きしゅ御前に、「私は七日の管絃の笛の役として、内裏へ参ります。留守の間、よくよく若君の面倒を見てください」と仰って、お出かけになりました。きしゅ御前はその姿を御覧になって、これがお別れだ、今後よそからお姿を拝見することはあるであろうが、直接に話をすることは今だけであると思いました。そして、中将様がお出かけになったその後に、少納言を呼び寄せて、「今こそ良い折よ、さあ御殿を出ましょう」と仰います。少納言は装束などを片付けましたので、きしゅ御前はこれを御覧になって、涙の中で、このように歌をお詠みになりました。
  別れてもまたも逢ふ瀬のあるならば涙の淵に身をば沈めじ
  (お別れしても、また逢う機会があるのならば、このように涙の中に沈むことはないのに)
このようにお詠みになって、少納言と一緒に都を出て、「稲荷の明神様、私が故郷に帰り着くまで、無事であるようにお守りください」と念じて、涙を流しながらお出かけになります。その心の中はとてもお気の毒なものでございます。
 深草の里を通る時に、都の方を振り返って立ち止まられますと、道端の荻の葉に、露がしっとりと置いて、しみじみと悲しくなって、
  思ひ出づる身は深草の荻の葉の露にしをるるわが袂かな
    (思いを残して出て行く私、深草の荻の葉が露に萎れているように、私の袂は涙に濡れています)
こう詠んで、だんだんと歩みを進めるうちに、もとの住処に着きました。「きしゅ御前がお帰りになりました」と、下仕えの狐が言いますと、きしゅ御前の父母は聞くやいなや、これはどうしたことかと思って駆け出て、「この三年の間、姿が見えなかったので、どのような狩人に出遭いなさって、雁股の矢の一筋も射られたのか、それとも鷹狩りの犬に食われたのかと、あれこれ嘆いて暮らしていたのに、これは夢か現実か」と仰います。嬉しい中でも先立つものは涙で、きしゅ御前の袂にすがりついて、「ああ珍しいこと、こんこん、どちらにいらっしゃった、こんこん」とばかり言いましたので、乳母の少納言は、一部始終のことを細々と語りました。父母は聞いて、「それでは、そのように近い所に無事に住んでいらっしゃったのに、今まで知らせてくれなかった、少納言が怨めしい」と言いながら、一家親類中が集まって、きしゅ御前帰館の喜びの酒盛りが催されたのももっともなことでございます。
 このように、めでたいことは限りありません。その中でも、きしゅ御前は、ひたすら若君と中将様のことが恋しくて、もはやこのつらい憂き世に全く未練がなく、自身を出家姿に変えて、後世を願う仏道に入ろうとお考えになり、再び木幡の里を出て、嵯峨野へと分け入って、庵室を作り、黒髪を剃り落として、この世は仮の宿、稲光や朝の草葉の上の露のように短くはかなく、夢幻のようなものであるから、今この時に生まれ変わり死に変わりの煩悩世界を離れて、未来は必ず中将殿と同じ蓮の上に生まれようと願われました。
 さてさて、都では、中将様は内裏からお暇をいただいて、自分の御殿へとお帰りになりましたが、きしゅ御前も乳母の少納言も姿が見えず、若君は自分の乳母の膝に寄り添って寝ていて、母親がいなくなったことを、深く嘆いていらっしゃいました。中将様は、これはどうしたことかと、お嘆きはとても深く、たとえようがありません。中将様は、きしゅ御前がいつもいらっしゃった所を見ると、さまざまの名残惜しいということをたくさん書き遺してあります。「私との縁が尽きたとしても、若君だけは順調に育っているのだから、何を恨んで家をお出になったのか」と、中将様の嘆きは尽きることがありません。春日のお局や若君の乳母に細かい事情をお尋ねになっても、「何も存じませんのです。若君様の所へ犬が献上されてから、乳母の少納言様の顔色がことのほか悪くなって、とても恨めしそうに仰っていたほかは、何も変わりは見えませんでした。ほかは何ごともございません」と申しました。中将様はこれをお聞きになり、「まあ、いい。その身が何者であろうとも、せめてこの子が七歳になるまで、どうして一緒にいてくれなかったのだろうか」と、その嘆きは何とも言い表せません。そんなことがあったのに、あちらこちらから、「奥様をお迎えください」という申し出がありましたが、中将様はそれに応ずる気配もお見せにならず、ただただこのきしゅ御前とのお別れだけを嘆かれていらっしゃいました。このようにして年月を過ごされているうちに、若君はさまざまに栄えられ、子孫も繁昌したということです。
 一方、きしゅ御前の住む庵室では、きしゅ御前が、都のことだけを恋しがってお過ごしになっていらっしゃいました。しかしながら、若君の御繁栄をそれとなく御覧になられて嬉しいことはこの上ございません。きしゅ御前は日々峰に上り、花を手折り、谷の水を汲んで、少納言とともに阿弥陀の名号を唱えて、一心に修行に励んでいらしゃいます。
 このような獣類でさえも、後生安楽に往生を遂げる道を願うものであります。ましてや、人間として生まれて、どうしてこの仏道に心を向けないことがありましょうか。このように感心なことであるので、書き伝え申すのであります。書き伝え申すのであります。

七草草子 福福亭とん平の意訳

七草草子  全
 さて、世の中で、天子様の御志ほど有り難いことはございません。と申しますのは、まず第一に、陽気の盛んになる春の始めには、国の全体から国の民の一人一人に至るまで不自由がなく、一年中天災も人災も無く平穏無事であるようにと、天子様おん自ら祈られます。新年始めの四方拝から、大晦日の災厄を祓う追儺まで、全ての行事は皆、国の人々のためでないということがございません。
 その中でも、正月七日に野に出て、若菜を摘んでこれを七草と名付けて、天子様から一般の人に至るまでこれを祝いの膳として、あれこれの病気の予防をすることがあります。その七草の行事の由来についていろいろと説がありますが、その中に、
 昔、中国の楚の国に大祥という者がいました。その両親は、もはや百歳になっていました。腰は弓のように曲がり、顔には皺がたくさん寄り、髪は乱れて、雪が積もったようになっていました。そのため、日々の立ち居振る舞いも不自由になりましたので、大祥はこの両親の様子をしみじみと見て思うことには、なんともお気の毒なご様子だなあ、これほどまでにお年寄られて不自由では、今すぐにも思うに任せないお別れをして嘆くことになるであろうかと、いつも悲しく思い続けていました。
 大祥は、ああ、ここで、両親の昔のような若い姿を見たいものだなあと、天に頼み、神に祈って訴えていまして、大祥は常に両親の傍を離れることがなく、両親が遥かな山への散策をなさりたい時には、自身で背負って出掛け、春は花の咲いている場所へと行き、軒端に鳴く老いた鶯の声を聞くにつけても自分の両親と同じに老けているとしみじみと聞いて過ごし、夏は涼しい川の流れへと行き、川の流れを手に掬って夏の暑さを忘れて、まるで今が夏ではないような気持ちになり、秋は澄み渡る月が、舟が水の上を行くように空を渡って行く様子を見て、空を飛ぶ雁の羽音をその舟の棹の音かと時の流れをしみじみと思い、秋の雨に色付く紅葉を手折って甕に挿して物哀しい様子を知らず知らずにしみじみと見て、冬空には木枯らしが激しく吹いて、四方の山々の上には白雪が積もる景色に髪が白いのと同じであると思い、たいそう寒い夜には、薪を集めてきて火を焚いて寝床を温めて寒い夜を寝やすくしました。大祥はこのように両親を大切にして、日々を過ごしていました。
 大祥は、このように過ごしていましたが、何とかして両親がもう一度若い姿になるのを見せてほしいものとあれこれと考えを巡らし、家から近い所にある登高山という高い山によじ登って、三七、二十一日間爪先立ちをして天に祈ることには、「さて、人として年を取った姿が再び若くなるということは無いことと決まっていますけれど、神の御恵みによると、死んだ人でも祈りによってもう一度生前の姿に戻ったというためしがあります。呂洞賓という人は、仙人界の薬を舐めて、永遠に若者の姿に戻ったとかいうことがあります。私の両親はもはや百歳になったとは言いますが、いまだ命ながらえていますので、神も私の願いをお聞き届けになって、仙薬を作る方法をお知らせ下さり、両親を長生きさせて下さい。また、もしも、寿命として限りがあるならば、私の命を取って、父母の姿を私の身と取り換えて下さいませ」と、真心を籠めて、全身から汗を流して祈りました。その気持ちは、本当に雑念の無い姿でありました。
 天にある梵天帝釈天がこの大祥の心根を憐れとお思いになったのでしょうか。二十一日の満願になる日の夕暮れ方に、空中に音楽が聞こえて、紫の雲が一群れ降ってきて、その雲の中に美しい鬢頬を結った天人が一人現れて、大祥に向かって仰ることには、「そなたの親への孝行の気持ちが深いことが帝釈天に通じて、私をお下しになったのである。さあさあ、そなたの父母が若くなる薬を授けよう。これらの材料を集めて用いなさい。須弥山の南側の原に、博雅鳥と言う鳥がいる。この鳥は、春の始めに、特別に七種の草を集めて食べるために、常に年を取らず、寿命が長く、心に掛かる悩み事も無くて、諸々の鳥の頭の地位となって、梢に咲く花に楽しく戯れて、長い年月を暮らしている鳥である。今、帝釈天になり変わって伝えよう。この七種の草というのは、芹、薺、御形、田平子、仏の座、菘、清白がこれである。これらは、人間が訪れることまれな野にある沢に出て摘み取り、柳で板を新たに作り、七種の草をその上に載せて、玉椿の枝で、正月六日の酉の時から始めて、これらを叩きなさい。まず、酉の時には、芹という草を叩きなさい。戌の時になったら、薺という草を叩きなさい。さてまた、亥の時には、御形という草を叩きなさい。子の時になったら、田平子という草を叩くのがよろしい。丑の時に至ったら、仏の座という草を叩きなさい。寅の時に菘という草を叩いてよろしい、卯の時に清白という草を打ち叩いて、その後、辰の時の始めには、七種の草を全部一つに合わせて、東の方から若水を汲み上げて、博雅鳥がまだ飛んで来ない前に熱い吸物にして、これを食べれば、一瞬のうちに十年の寿命を身につけて若くなり、それから後に、その者の寿命は一千年を身に付け、しかも、すべてが思いのままになって、三人の者は何の心配事も無いのである。急いで里に帰って、これを作り上げよ」とお教えになって、童子は天へとお上りになりました。
 大祥はこの上なく有り難く思い、童子が帰って行った跡を伏し拝んで、自分の貧しい家へと帰りました。親孝行な者には、仏様もその気持ちを聞き取って下さって心を掛けて下さるのである、というのは、間違いなくこのことを言うのでありましょう。
 大祥はとても喜んで、登高山から下って我が家へ帰り、梵天帝釈天のお教えに従って新年が来るのを待っていました。その待つ間は短い期間でしたが、芽が出たばかりの二葉の松を植えて、その松が大木となって枝が垂れるまでの長い時間よりも待ち遠しく感じられました。こうして、冬が過ぎて、新春を迎えて明け渡る空の風情ものどやかになり、東から吹く風も春の風情になりました。大祥は時節をはかって、人がいない野の沢へと出て、あの七種の草を尋ねて摘み集めて、教わった通りに叩いて吸物にして父母に食べさせました。
 こうして、正月七日に大祥が両親の姿を拝見すると、二人は早くも二十歳ほどの姿となり、三つに折れかがまっていた腰は、弓に張った弦のようにぴんと真っ直ぐに伸び、枯れ野の薄の上に置いた霜のように白かった頭の髪は真っ黒くなり、細かくたくさんあった額の皺は肌が張ってみな消えて、若者の花のような顔立ちになって輝いています。大祥は、こうなったのは、ただ、帝釈天が私の父母に霊験をお与えくださったのであるなと、そのお恵みのほどが身震いするくらい有り難くて、何とも言うことができません。
 大祥は、この熱い吸物を口にしてから、自分の体が十六、七歳の少年の姿になって、今までいろいろなことを心配してつらい思いをしたことをすっかり忘れて、ひたすら父母への孝行をますますしようと思う気持ちだけになりました。
 このようにして日々が過ぎて行くうちに、自分から得ようとしてはいないのに自然に宝が集まり、ほしがりもしないのに食べ物がいつもあるようになり、呼び集めてもいないのに人々が雇われに来て家の仕事をするようになってそれぞれの仕事をし、指図もしないのに大祥の気持ちに従って身の回りの世話をするようになりました。これだけでなく、美しい少女が使われて、父母と大祥の三人の気持ちをあれこれと安らかにします。一家の栄えることは、日々にますます豊かになっていきます。
 近くに住む人々も皆集まってきて、大祥からの恩恵を受けることが多くあります、このせいでしょうか、国中にあれこれの根も葉もない取り沙汰がありました。そんなことには関係なく、大祥の両親への昔からの気持ちは少しも変わることがありません。父母への世話は自分でして、朝夕の食事も自分で試食をして勧めるようにしています。その孝行振りは格別なものです。
 この大祥のことが広く世間の噂になって、遂に天子様のお耳にも達しましたので、天子様は不思議にお思いになって急ぎ使者を遣わして、大祥を宮中にお召しになりました。天子様は大祥を御覧になって、御簾近くまでお出ましになって仰せになることには、「その方は、低い身分でありながら、そのような幸いに遇うことは、どういうことなのか申し上げよ」と、大臣から臣下を取り次ぎとしてお命じになりましたので、大祥は畏まって承り、父母が年を取ったのを悲しんで仏神三宝に祈りを捧げたこと、梵天帝釈天が若返りの法をお告げになったこと、それに従って七草を調えて父母に食べさせたことを、包み隠さずに申し上げますと、天子様はお聞きになり、「これは、なによりも、その方が父母に一心に孝行をしたので、天がこれに感じてこのような不思議な恵みをお与えになったのであろう。外の者の場合と同列に考えることはできない。そもそも、天下国家を治めるのは、孝行の人に優ることはあるまい。朕が今このような人に遇うということは、この楚の国の子孫が繁盛して、国家が長く続くということへの天のお告げなのであろう」と仰せになって、すぐに天子の位を大祥にお譲りになり、天子様に王氏、女氏という二人の姫君がいらっしゃったのを大祥の后として添わせましたのを、大祥はお断りをすることもできませんでした。このようになりましたので、国中の諸侯は、大祥の命を受けて、それぞれにその務めを一心に果たしました。
 このような孝行の人が国をお治めになることで、国は富み栄えて、世の中は穏やかで、とりたてての騒動もなく、天災も起こることはありません。国中で世活する人達にも、盗賊の恐れがなく、山で暮らす山の民、水辺で漁をする海の民まで、国の内のあらゆる人々が皆、この穏やかな代が続くようにと唱える声は国中に溢れています。これというのも、なにより、天子様の温かいお心ゆえであると、人々は語り合いました。
 今、我が日本でも、大祥の例と同様、地方の身分の低い人に、その身に合わない高い位を正月に与えてくださることを、地方から召すという県召と言うのも、この大祥の吉例に倣っているのでありましょう。
 さてまた、七日の「こなかけ」と言って、天皇様を始めとして、国中の人々が正月にこれを祝って食するということは、公の行事なのです。この七草の由来をお聞きになる方々は、仁義を大切にすること第一として、親にできる限り孝行をなされば、大祥のように幸運に出会うことを疑ってはなりません。ですから、古来の言葉にも、父母は天地のごとく、主君は太陽と月のように仰ぐべきものである、と言っているのです。
 人として身に付けるべきは文の道であります。いつも心に掛けて思っていなければいけないことは、まず父母には一心に孝行をし、連れ合いに対しては貞節を守ることを第一にすることです。年を取った人を冗談でも馬鹿にしてはいけません。自分より年の若い者には大事にし、貧しい人には心を掛けて分け与えて、ちょっとした時にも慈悲の心を忘れてはいけません。後世安楽を願って、お坊様を大切にもてなしなさい。このようにして暮らしている人には、現世では富貴に栄えて暮らすことができ、来世においては悟りの位に至って仏菩薩の位を受けることを疑ってはなりません。◎七草草子
 さて、世の中で、天子様の御志ほど有り難いことはございません。と申しますのは、まず第一に、陽気の盛んになる春の始めには、国の全体から国の民の一人一人に至るまで不自由がなく、一年中天災も人災も無く平穏無事であるようにと、天子様おん自ら祈られます。新年始めの四方拝から、大晦日の災厄を祓う追儺まで、全ての行事は皆、国の人々のためでないということがございません。
 その中でも、正月七日に野に出て、若菜を摘んでこれを七草と名付けて、天子様から一般の人に至るまでこれを祝いの膳として、あれこれの病気の予防をすることがあります。その七草の行事の由来についていろいろと説がありますが、その中に、
 昔、中国の楚の国に大祥という者がいました。その両親は、もはや百歳になっていました。腰は弓のように曲がり、顔には皺がたくさん寄り、髪は乱れて、雪が積もったようになっていました。そのため、日々の立ち居振る舞いも不自由になりましたので、大祥はこの両親の様子をしみじみと見て思うことには、なんともお気の毒なご様子だなあ、これほどまでにお年寄られて不自由では、今すぐにも思うに任せないお別れをして嘆くことになるであろうかと、いつも悲しく思い続けていました。
 大祥は、ああ、ここで、両親の昔のような若い姿を見たいものだなあと、天に頼み、神に祈って訴えていまして、大祥は常に両親の傍を離れることがなく、両親が遥かな山への散策をなさりたい時には、自身で背負って出掛け、春は花の咲いている場所へと行き、軒端に鳴く老いた鶯の声を聞くにつけても自分の両親と同じに老けているとしみじみと聞いて過ごし、夏は涼しい川の流れへと行き、川の流れを手に掬って夏の暑さを忘れて、まるで今が夏ではないような気持ちになり、秋は澄み渡る月が、舟が水の上を行くように空を渡って行く様子を見て、空を飛ぶ雁の羽音をその舟の棹の音かと時の流れをしみじみと思い、秋の雨に色付く紅葉を手折って甕に挿して物哀しい様子を知らず知らずにしみじみと見て、冬空には木枯らしが激しく吹いて、四方の山々の上には白雪が積もる景色に髪が白いのと同じであると思い、たいそう寒い夜には、薪を集めてきて火を焚いて寝床を温めて寒い夜を寝やすくしました。大祥はこのように両親を大切にして、日々を過ごしていました。
 大祥は、このように過ごしていましたが、何とかして両親がもう一度若い姿になるのを見せてほしいものとあれこれと考えを巡らし、家から近い所にある登高山という高い山によじ登って、三七、二十一日間爪先立ちをして天に祈ることには、「さて、人として年を取った姿が再び若くなるということは無いことと決まっていますけれど、神の御恵みによると、死んだ人でも祈りによってもう一度生前の姿に戻ったというためしがあります。呂洞賓という人は、仙人界の薬を舐めて、永遠に若者の姿に戻ったとかいうことがあります。私の両親はもはや百歳になったとは言いますが、いまだ命ながらえていますので、神も私の願いをお聞き届けになって、仙薬を作る方法をお知らせ下さり、両親を長生きさせて下さい。また、もしも、寿命として限りがあるならば、私の命を取って、父母の姿を私の身と取り換えて下さいませ」と、真心を籠めて、全身から汗を流して祈りました。その気持ちは、本当に雑念の無い姿でありました。
 天にある梵天帝釈天がこの大祥の心根を憐れとお思いになったのでしょうか。二十一日の満願になる日の夕暮れ方に、空中に音楽が聞こえて、紫の雲が一群れ降ってきて、その雲の中に美しい鬢頬を結った天人が一人現れて、大祥に向かって仰ることには、「そなたの親への孝行の気持ちが深いことが帝釈天に通じて、私をお下しになったのである。さあさあ、そなたの父母が若くなる薬を授けよう。これらの材料を集めて用いなさい。須弥山の南側の原に、博雅鳥と言う鳥がいる。この鳥は、春の始めに、特別に七種の草を集めて食べるために、常に年を取らず、寿命が長く、心に掛かる悩み事も無くて、諸々の鳥の頭の地位となって、梢に咲く花に楽しく戯れて、長い年月を暮らしている鳥である。今、帝釈天になり変わって伝えよう。この七種の草というのは、芹、薺、御形、田平子、仏の座、菘、清白がこれである。これらは、人間が訪れることまれな野にある沢に出て摘み取り、柳で板を新たに作り、七種の草をその上に載せて、玉椿の枝で、正月六日の酉の時から始めて、これらを叩きなさい。まず、酉の時には、芹という草を叩きなさい。戌の時になったら、薺という草を叩きなさい。さてまた、亥の時には、御形という草を叩きなさい。子の時になったら、田平子という草を叩くのがよろしい。丑の時に至ったら、仏の座という草を叩きなさい。寅の時に菘という草を叩いてよろしい、卯の時に清白という草を打ち叩いて、その後、辰の時の始めには、七種の草を全部一つに合わせて、東の方から若水を汲み上げて、博雅鳥がまだ飛んで来ない前に熱い吸物にして、これを食べれば、一瞬のうちに十年の寿命を身につけて若くなり、それから後に、その者の寿命は一千年を身に付け、しかも、すべてが思いのままになって、三人の者は何の心配事も無いのである。急いで里に帰って、これを作り上げよ」とお教えになって、童子は天へとお上りになりました。
 大祥はこの上なく有り難く思い、童子が帰って行った跡を伏し拝んで、自分の貧しい家へと帰りました。親孝行な者には、仏様もその気持ちを聞き取って下さって心を掛けて下さるのである、というのは、間違いなくこのことを言うのでありましょう。
 大祥はとても喜んで、登高山から下って我が家へ帰り、梵天帝釈天のお教えに従って新年が来るのを待っていました。その待つ間は短い期間でしたが、芽が出たばかりの二葉の松を植えて、その松が大木となって枝が垂れるまでの長い時間よりも待ち遠しく感じられました。こうして、冬が過ぎて、新春を迎えて明け渡る空の風情ものどやかになり、東から吹く風も春の風情になりました。大祥は時節をはかって、人がいない野の沢へと出て、あの七種の草を尋ねて摘み集めて、教わった通りに叩いて吸物にして父母に食べさせました。
 こうして、正月七日に大祥が両親の姿を拝見すると、二人は早くも二十歳ほどの姿となり、三つに折れかがまっていた腰は、弓に張った弦のようにぴんと真っ直ぐに伸び、枯れ野の薄の上に置いた霜のように白かった頭の髪は真っ黒くなり、細かくたくさんあった額の皺は肌が張ってみな消えて、若者の花のような顔立ちになって輝いています。大祥は、こうなったのは、ただ、帝釈天が私の父母に霊験をお与えくださったのであるなと、そのお恵みのほどが身震いするくらい有り難くて、何とも言うことができません。
 大祥は、この熱い吸物を口にしてから、自分の体が十六、七歳の少年の姿になって、今までいろいろなことを心配してつらい思いをしたことをすっかり忘れて、ひたすら父母への孝行をますますしようと思う気持ちだけになりました。
 このようにして日々が過ぎて行くうちに、自分から得ようとしてはいないのに自然に宝が集まり、ほしがりもしないのに食べ物がいつもあるようになり、呼び集めてもいないのに人々が雇われに来て家の仕事をするようになってそれぞれの仕事をし、指図もしないのに大祥の気持ちに従って身の回りの世話をするようになりました。これだけでなく、美しい少女が使われて、父母と大祥の三人の気持ちをあれこれと安らかにします。一家の栄えることは、日々にますます豊かになっていきます。
 近くに住む人々も皆集まってきて、大祥からの恩恵を受けることが多くあります、このせいでしょうか、国中にあれこれの根も葉もない取り沙汰がありました。そんなことには関係なく、大祥の両親への昔からの気持ちは少しも変わることがありません。父母への世話は自分でして、朝夕の食事も自分で試食をして勧めるようにしています。その孝行振りは格別なものです。
 この大祥のことが広く世間の噂になって、遂に天子様のお耳にも達しましたので、天子様は不思議にお思いになって急ぎ使者を遣わして、大祥を宮中にお召しになりました。天子様は大祥を御覧になって、御簾近くまでお出ましになって仰せになることには、「その方は、低い身分でありながら、そのような幸いに遇うことは、どういうことなのか申し上げよ」と、大臣から臣下を取り次ぎとしてお命じになりましたので、大祥は畏まって承り、父母が年を取ったのを悲しんで仏神三宝に祈りを捧げたこと、梵天帝釈天が若返りの法をお告げになったこと、それに従って七草を調えて父母に食べさせたことを、包み隠さずに申し上げますと、天子様はお聞きになり、「これは、なによりも、その方が父母に一心に孝行をしたので、天がこれに感じてこのような不思議な恵みをお与えになったのであろう。外の者の場合と同列に考えることはできない。そもそも、天下国家を治めるのは、孝行の人に優ることはあるまい。朕が今このような人に遇うということは、この楚の国の子孫が繁盛して、国家が長く続くということへの天のお告げなのであろう」と仰せになって、すぐに天子の位を大祥にお譲りになり、天子様に王氏、女氏という二人の姫君がいらっしゃったのを大祥の后として添わせましたのを、大祥はお断りをすることもできませんでした。このようになりましたので、国中の諸侯は、大祥の命を受けて、それぞれにその務めを一心に果たしました。
 このような孝行の人が国をお治めになることで、国は富み栄えて、世の中は穏やかで、とりたてての騒動もなく、天災も起こることはありません。国中で世活する人達にも、盗賊の恐れがなく、山で暮らす山の民、水辺で漁をする海の民まで、国の内のあらゆる人々が皆、この穏やかな代が続くようにと唱える声は国中に溢れています。これというのも、なにより、天子様の温かいお心ゆえであると、人々は語り合いました。
 今、我が日本でも、大祥の例と同様、地方の身分の低い人に、その身に合わない高い位を正月に与えてくださることを、地方から召すという県召と言うのも、この大祥の吉例に倣っているのでありましょう。
 さてまた、七日の「こなかけ」と言って、天皇様を始めとして、国中の人々が正月にこれを祝って食するということは、公の行事なのです。この七草の由来をお聞きになる方々は、仁義を大切にすること第一として、親にできる限り孝行をなされば、大祥のように幸運に出会うことを疑ってはなりません。ですから、古来の言葉にも、父母は天地のごとく、主君は太陽と月のように仰ぐべきものである、と言っているのです。
 人として身に付けるべきは文の道であります。いつも心に掛けて思っていなければいけないことは、まず父母には一心に孝行をし、連れ合いに対しては貞節を守ることを第一にすることです。年を取った人を冗談でも馬鹿にしてはいけません。自分より年の若い者には大事にし、貧しい人には心を掛けて分け与えて、ちょっとした時にも慈悲の心を忘れてはいけません。後世安楽を願って、お坊様を大切にもてなしなさい。このようにして暮らしている人には、現世では富貴に栄えて暮らすことができ、来世においては悟りの位に至って仏菩薩の位を受けることを疑ってはなりません。

瓜姫物語 福福亭とん平の意訳

瓜姫物語 全 
 古代の神代から人の歴史が始まって、どれほど経ったともわかりません。大和の国石上というところに、おじいさんとおばあさんがいました。二人は、後々の世までも添い遂げようと深く契って、長い年月を過ごして来ましたが、一人の子もいませんでした。二人はそのことを朝晩嘆いて暮らしていました。二人は、瓜を作って暮らしていましたが、歳を取るに従って、寿命を感じるようになりましたので、今さら子供を求めても仕方がないのだろう、これというのも前世の報いで悲しいことだと、日々、叶わないことを嘆いていました。
 そのようなある日、おじいさんは瓜を作っている畑に行って、とても美しい瓜を一つ手に取ってきておばあさんに見せ、「この瓜の美しいことよ、ああ、これくらい可愛らしい子を持ったなら、どれほど嬉しいことかなあ」と冗談を言って、「この瓜をとっておいて、私たちの子としようよ。こんなにも可愛いのだからね」と言いますと、おばあさんは、その瓜を塗桶の中へ入れておきました。その後、おじいさんが、「天の神様がお心づくしをしてくださって、綺麗な手鞠を下さって、これをそなたの子と思いなさいと仰る夢を見たよ」と話しますと、おばあさんは、「私も少しうとうととしましたら、草子を入れる綺麗な箱の中を見ると、美しい女の子がいて、これを私の子としてくださるという夢を見ましたよ」と、お互いに夢の話をし合って、「あんまり心に願っていることなので、夢にまで見たのでしょう」などと言って暮らしていました。
 その後、おじいさんは瓜畑へ行って、熟した瓜を一つ取って食べようとした時に、「そうだ、いつか取っておいた瓜はどうなっただろう」と思って、桶から取り出したところ、顔も姿も美しい、光り輝くほどの女の子になっていました。おじいさんもおばあさんも、こんなことがあるかしらと思って、「さてさて、いつぞやの夜の夢に、このような美しい姫を授かるという不思議の夢知らせをいただいたのだね」と、とても喜んで、毎日毎日大事に大事に世話をして育てました。
 このようにして、このお姫様は日を過ごす内に、日増しに可愛くなり、顔かたちが美しいだけでなく、日々の動作も、知恵も働き、体つきもかわいらしくなって、普通の人とは比べものにならないくらいの人になりましたので、女子のたしなみとして、手習い、絵描き、花結びなどをひたすら身に付けさせました。おじいさんもおばあさんも、この姫の成長を嬉しいことに思いますが、それにつけても、自分たちの寿命がそれほど長くないであろうから、なんとかしてこの姫が早く大きくなって、人前で人として立派に振る舞えるようになってほしいと思い、つい、つい愚痴のように成長を祈る言葉を口に出してしまっていました。
 このような日々を過ごしていましたら、姫は早くも十四五歳くらいに見える大きさになりまして、姿形がとても美しく、まるで露を含んで野辺に咲き乱れている女郎花のような可憐な様子で、眉の形、額つき、髪のかかりぐあい、雪のような白い肌まで、この上なく美しく、美人と伝え聞く唐の楊貴妃や漢の李夫人もこの姫には及ばないであろうと思え、まるで天人が地上に下ったかと思えるほどでした。
 この姫の評判が世間に高くなりましたので、威勢が並ぶ者がないこの国の守護の代官が、自分にふさわしい女性を連れ合いとして探していましたが、これぞと思う相手がいなくて過ごしていましたところで、この姫の評判を聞き、おじいさんのところに世間に知られないようにして求婚の手紙を送りました。おじいさんは、「いえいえ、そのような娘ではございません」とその度ごとに断りを言っていましたが、代官からの通い文の噂も高くなり、あまりに度々文が通わされますので、文を受け取ってしまいました。さてさて、このように文を受け取りまして、おじいさんとおばあさんは、「私達はどうしたらよかろう、このように文を寄越されることは、これから先が良くなるか悪くなるか判らないけれど、ともかくもこのようなお話があるのは嬉しいことだ。この国の主の代官様からの内々のお申し出があることは、心に留めて、軽々しく扱ってはいけないね」ということを話し合っていました。
 そんな時に、天照大神が天から下っておいでになった昔から、いろいろな物事をする時に妨げをしてうまくいかないようにする、あまのさぐめという怪物がいまして、この話を耳にして、これは近頃にない嬉しい話だ、この姫を何とかだまして連れ出して、自分が姫と入れ替わって嫁入りし、周りから大事に世話をされるようになろうと思って、急いで帰って来ました。姫はお嫁入りのことが決まって、いよいよお輿入れの日が近づきましたので、おばあさんも落ち着かなくなって、道中の仕度を用意しようと思っているところに相手方の代官のところから、下役に手紙を持たせて、いろいろな装束を山ほど入れた長持を幾棹も持ってきてくれました。あまのさぐめは、これを嬉しいことと思って、この姫を欺して誘い出す方策を一心に考えて、あちこちさまよい歩きました。そんな時に、このおばあさんがちょっとした出かける用事があって、姫に、「いいですか、私が帰って来るまでは、誰かが声を掛けてきても、決してこの部屋の引き戸を開けてはなりません。よろしいですね」と堅く言い残して出かけました。
 その後、昼ごろに、「姫君はおいでですか、ここをお開けください、おばあさんが帰ってきましたよ」と引き戸を叩く声がありましたが、おばあさんの声には似ていませんでした。姫が物陰からちらりと様子をご覧になりますと、美しい花の枝を手にして、「これを差し上げましょう」と言いますので、姫は花を愛する心が強かったのでしょうか、引き戸をほんの少し開けました。すると、「私の手の入るほど開けてください」というような声がしましたので、もう少し開けたところ、すぐさま戸をがらりと開けてあまのさぐめが部屋の中へ入り、そのまま姫を抱き取って、はるかに遠い木の上に縛り付けてしまい、自分は姫のおいでになった所へ入れ替わって入り、綺麗な衣裳を出して着て、物に寄りかかっていました。
 このように、あまのさぐめが悪巧みをしたということを誰も全く思いも掛けないで、そのまま、代官様のもとから姫をお迎えに来るその約束の日になりましたので、屋敷の中はあたふたと落ち着かない様子になって、あわただしく姫のための輿を迎え入れて、武士や中間、下働きの者たちまで、行列のお供の人を大勢揃えて、代官様の屋形へと向かわせました。出立の時、輿を玄関口に近づけてそのまま姫を差し上げました。こうして輿にお乗りになるとき、姫は、「良いかえ、輿を担いで進むときには、必ず必ず真っ直ぐな道を進みなさい。木の下に近い道を行ってはなりません。ただでさえ暗い夜は怖いのですから」というようなことを仰いましたので、お迎えに来た人たちはこの姫の声を聞いて、なんと随分老けた声のお姫様だなあとは思いましたが、たいして気にも留めないで出発をいたしました。そのうちに、あまりに暗いので、行列は真っ直ぐに進んでいると思っていましたが、道を間違えて、いつの間ニか木の下の道を通ってしまいましたところ、とても優美な声で何か不思議なことをさえずっているのが聞こえてきましたので、行列は立ち止まってしまいました。すると、輿の中から姫が、「春の鳥のさえずり声は、あれこれと聞こえてしまうものじゃ。さあ、この木の下をさっさと通り過ぎなさい」と言いましたが、人々は皆足を止めてじっとこの声を聞いていると、人の声として聞こえました。
  ふるちごを迎へとるべき手車にあまのさくこそ乗りて行きけれ
    (本来の姫君をお迎えするべき輿に、なんと、あまのさぐめが乗って行くよ)
声がこのように告げましたので、人々が松明を高く掲げて見たところ、この上なく美しいお姫様が木の上に縛り付けられていました。「ああ、ああ、これは驚いた、驚いた、これはいったいどうしたことだ」と急いで姫を木からお下ろしして、この輿の中を見ると、醜い年取った女がいましたので、急いで輿から引きずり出して、よくよく調べたところ、多くのことに邪魔をする、あまのさぐめというものでありましたので、お姫様を急いで輿にお乗せして、代官様の屋形へと向かいました。
 この後、このあまのさぐめを大和国宇陀のへのはしという土地へと連れて行き、五体をばらばらにして捨てたところ、薄や苅萱の根元に横たわり、死んでしまいました。それから、あまのさぐめは細かく砕けて消えてしまいましたので、世の中の禍がなくなりました。このあまのさぐめの血が染みたため、薄の根元と花の出始めが赤くなっているとかいうことです。
 さて、代官は、この姫を妻としてから、日々は楽しく栄えて、いつでも時流に適って、豊かで、暮らしに困ることがありません。その後、若君も生まれましたので、この様子を見たり、話を聞いた人々は一緒になって喜び、うらやましく思わない人はいませんでした。このように代官夫妻が栄えましたので、姫の父母であるおじいさんとおばあさんは、国の所領を預かる役に就いて、豊かに暮らしていて、思いがかなわないことはありませんでした。
 このおじいさんとおばあさんは若い時から神への信仰心が篤く、神の加護の力も大きかったので、これもなにより仏神のおぼしめしによって、この姫君を瓜の中から授かったということでございます。このいわれで、瓜姫は、私が生まれた縁があり、祝儀の物であるからということで、瓜を折々にくださいます。この姫のお生まれになった所は、大和国石上というところで、今にその古跡が残っているということです。このように、前世の行いの良い人への後々の世までの例にもなれということで、ここに記しておきます。この文をご覧になられる人々は、神仏を敬われると、将来長くいついつまでもお栄えになることは疑いのないことなのでございます。