かざしの姫君 福福亭とん平の意訳

かざしの姫君 全
 昔、五条の辺りに、源の中納言様と申し上げて、とても上品な方がいらっしゃいました。その奥様は、大臣様のお嬢様でございました。お二人の間には、姫君がお一方いらっしゃいました。お名前を「かざしの姫君」と申し上げます。そのお姿を拝見しますと、髪の垂れ下がっている様子、眉や目元、口元みな美しくて、さらにお気持ちの優しさ、いずれもいずれも、世の人より優っておいででございました。姫は、春の日は花の下でお過ごしになり、秋の夜は月を愛でて夜を過ごされ、いつも歌を詠まれて、多くの草花を愛されていらっしゃいました。
 その草花の中でも、とりわけ菊をとてもお愛しになられて、長月の頃は、菊の咲いている庭から離れたくないとお思いになって日々を過ごしていらっしゃいました。
 そのような優雅な日々をお過ごしでしたが、姫君が十四歳におなりの年のことでございました。長月の末の頃に、菊の花がだんだんに移ろっていくのをご覧になって、毎日とても悲しくお思いになりながら、ふと。うとうとされますと、お歳は二十歳を一つ二つ出たくらいでしょうか、一人の烏帽子を着けた男性がどこからともなくぼんやりと現れました。そのお姿は、薄紫色の直衣を召され、口元には鉄漿を付け、眉を太く黛で描いて、頰にはうっすらと化粧をなさった、貴公子と呼ぶのにふさわしいとても華やかなご様子でした。その風情は、美男と謳われている『伊勢物語』の中の在原業平や『源氏物語』の主人公光源氏もこのようであったかと思われるほどのお姿でした。そのお方が、姫君にお近づきになられましたので、姫君は見知らぬ男性に照れくさく恥ずかしいご様子で、この御方が現れたことが、夢なのか現実なのかまだわからない気分で目を覚まされて、体を起こしてどきどきなさいました。すると、男の方は、姫君がどこへも行かないように姫君のお袖を押さえられ、「どうして、少しばかりのお情けをお掛けいただけないのでしょうか」と涙ながらに言葉を様々に尽くしてかき口説かれました。純情な姫君は、男性の言葉に心動かされたのでしょうか、とうとう、男性に心を許して契りを結んでしまったのでした。男性は思いが届いた嬉しさに、これまでの姫君への思い、二人の将来のことなど、心を籠めて話されて、一夜を過ごされました。夜明けを迎えて、ひとまずの別れの時になりますと、男性は姫君に向かって、「明晩も必ず参りましょう」と言って、
  憂きことを忍ぶがもとの朝露のおき別れなんことぞ悲しき
  (つらいことです。それを我慢しながら、この朝に起きて別れようとすることが悲しいで   す。忍ぶの根本に置く露のようにはかないのです)
と仰いますので、姫君の返歌、
  末までと契りおくこそはかなけれ忍ぶがもとの露と聞くより
  (未来まで添い遂げようと約束することはあてにならない、はかないことです。末と言う言葉ではなく、本(もと)に置くはかない露と仰るのを伺いますと)
とお詠みになりました。訪れてきた男性は、垣根の菊の辺りまで行ったかと見えましたが、かき消すように姿が消えたてしまいました。
 さて、男性を見送った姫君は、ますます不思議なことだとはお思いになりましたが、誰かに尋ねるという伝手も無いので、自分の心からなった二人の仲ではないけれども、そのままになりました。一(ひと)度(たび)契りを結んでから後は、二人の間の親しさはますます増して、男性は毎夜密やかにお通いになり、お二人は知らないうちに月日を重ねられました。ある時、姫君が仰せになるには、「もうここまで親しく語らって来たのですから、あなたのお身元を明かしてくださいませ。さあさあ、お名前を名乗ってくださいませ」という言葉に、男性は俯いて小声で、「私はこの辺りの者で、少将と言う者でございます。いつかははっきりとお判りになるでしょう」とだけ言って、お帰りになりました。
 そのころ、今上様は、花揃えという行事をなさるということで、人々をお召しになりましたので、姫君の父上である中納言を始めとして、人々が集まりました。今上様は中納言を傍近くにお呼びになって、「人々の見とことのないような格別な菊を花揃えの会に持って来なさい」とお言葉がありましたので、中納言は、お断りすることができないで、菊を献上しようと、お館へお帰りになりました。
 さて少将は、今上様が菊の献上を申し付けたこの日の夕暮れに、いつもより元気のない様子で姫君のいる西の対へ来て、世の中のはかないこと、空しいことをあれこれと次々とお話になって、涙ぐんでいらっしゃるので、姫君が、「何となく心配事がおありのようですが、どうなさったのですか」とお尋ねになりますと、少将は、「今は何をお隠し申しましょう。こちらへ来て、あなたとお目に掛かれるのも、今日限りとなりました。どのような末の世までもあなたと一緒にいようと思っていたことも、みな水の泡となってしまったのは、悲しいことです」と言ってさまざめとお泣きになるので、姫君は、「これは一体どういう事なのでしょう。あなた様お一人を、我が夫として強く頼りにしておりましたのに、あなたは、私にどのようになれとお思いになってそう仰るのですか。たとえ大地の果て、深山の奥までも、お連れくださいませ」と言って、大声を上げてお泣きになるので、少将も、どうしようもないことなので、ご返事のなさりようがありません。しばらく経って、少将は涙の顔を上げて、「今はもう、帰りましょう。私のことを、決して、決してお忘れ下さいますな。私も、あなたの優しいお気持ちをいついつまでも忘れることはありません」と繰り返し言って、鬢の髪を切って下絵の描かれた薄葉の紙に包んで、「もしも、私のことを思い出される時があれば、これをご覧ください」と姫君にお渡しになり、さらに続けて、「あなたの体の中にみどり子を遺して置きましたので、くれぐれも大切に育て上げて、私の忘れ形見としてご覧になってください」と仰って、館から外へとお出になりました。姫君も御簾の脇からそっとお出になって、少将をお見送りなさいますと、少将は庭の垣根の辺りに立ち止まられると思っていたところ、そこで姿を消されました。
 姫君と少将の別れから間もなく、夜が明けましたので、中納言は垣根の菊を今上様ヘと献上されますと、今上様は、とりわけこの菊を喜ばれ、じっくりとご覧になられました。
 一方姫君は、いつも少将が訪れる夕暮れをお待ちになっていらっしゃいましたが、少将の姿は全く見えませんので、お気の毒に、姫君は、梢から見える月は隈無く輝いて雲に照り映えていますのに、その月が涙に曇って見える心地がして、長い夜を悲しみの中でお過ごしになっていらっしゃいます。あの晩に、あの少将が言い置いていった忘れ形見の紙包みを取り出して、恋しい思いにあふれながら開いてご覧になると、一首の歌がございました。
  匂ひをば君が袂に残し置きあだに移ろふの菊の花かな
  (菊の香をあなたの袂に残して、空しく色あせてゆく菊の花だなあ)
とありまして、あの方の黒髪と思っていたのは、菊の花でしたので、ますます不思議な気持ちになって、それでは、詠み置いておいでになったこの歌と言い、あの方は菊の花の精であったのかとお思いなって、その白菊の咲いていた花園にお出になって、「昔の人が、たとえ花が散っても、根が枯れることがあろうか歌に詠んだのが、今、私の身にしみます。仮にあなたが菊の精であったにしても、根は残っているはずですから、心は変わらないでしょう。もう一度、私とお話をなさってくださいませ」と、身も世もなく悲しまれるお姿は、恋しい人と別れた方の姿として、まことにもっともなことでございます。もしも今上様の花揃えの会がなかったならば、今のこの時の悲しさつらさは無かったものを、と思い悩まれて、いつまでも長生きしてよい身ではないので、こうやって少将様を思い浮かべているのも苦しいことです。私を一日も早くお迎えになってくださいませ、少将様。あなたは私を他人の手に任せてそれで良いとして、一人どちらへお出でになったのですか。未来を知ることのできない人間の身である悲しさは、もうこれで二度と逢えないというあなたのお言葉を、ただこの世の、そして私たちの仲の常ではないということをお思いになって悲しんで仰っているのだろうとだけ思っていたのでした。今のこの様子は一体どうしたことなのでしょう。情けないこと、これは夢なのか、それとも現実のことなのでしょうかと繰り返して、途方に暮れて悲みに沈んでいらっしゃいました。
 私を忘れないでくださいとと仰った、それが私たちの別れの言葉であったということは、今はっきり思い知りました。なんとまあ、二人の縁(えにし)は、末まで遂げられないものであったのですね。私はもう空しい身になっても構いません、でも、もう一度だけ、お姿をお見せくださいませと悲しまれ続けて、だんだんにお体の具合が悪く、お気持ちも弱くなられてまいりました。乳母が母上様に、この姫君の弱られた様子を申し上げると、父上の中納言様もご心配なさって、家中であれこれと介抱なさいましたが、姫君は一向に良くなる様子がございません。そこで乳母が陰陽師の博士の所に行って、「十五歳におなりの姫君が、長月の晦日の頃から病気になられていらっしゃるのは、どういう訳なのかを占ってください」と話しますと、陰陽師は、「何とも判断のしにくい占いの結果でございます。姫君様は、ひょっとしたら、ご懐妊ではありませんか。いずれにしても、今後のご容態が危ぶまれるという占いの結果でございます」と告げます。乳母は、あの姫君が妊娠されたということがあろうかと、不思議に思いながら急いで館に戻り、母上にこの占いの結果を申し上げますと、母上様は、「私にもそのように見えますが、妊娠というようなことは乳母が知らない筈があるまいと思っていたので、口にするのも憚られて言えませんでした。ですが、また、何か格別なことがあったのでしょうか、乳母よ、その方、姫を良くなだめて事情を尋ねてみなさい」とお仰せになりましたので、乳母は姫君のいらっしゃる西の対へと行って、姫に近く寄って、「このたび、姫君のご様子をよくよく拝見すると、普通ではないご様子と拝察いたします。この乳母めに、何をお隠しになっていらっしゃるのでしょうか、姫君のお思いになっていらっしゃることを残らず仰って下さいませ」と秘やかにお尋ねをすると、姫君は体の変化もあってとても隠しきれることではないとお思いになって、少将との付き合いの一部始終を包み隠さず語りましたので、始めて聞いた乳母はあきれ驚いて、母上様のもとへ行って、姫君と少将のことを報告いたしますと、これを中納言様もお聞きになって、「情けないことだなあ、姫を今上様のもとへと入内させることだけを日々思っていたのに、なんとも残念なことじゃ」と仰いました。そのままに時は過ぎ、だんだんに妊娠の日数が重なっていくうちに、姫君の容態が悪くなって苦しんでいらっしゃるように見えましたので、乳母を始めとしてお付きの女房達があたふたと驚いていましたところ、玉のような女のお子さんがお生まれになりました。中納言様も母上様も、このお子さんを大切に大切にお世話なさいました。
 お子さんは無事生まれましたが、姫君はいよいよご臨終のご様子となりましたので、中納言様も母上様もお嘆きになられることはこの上ありません。姫君はご両親をお近くに招かれて、涙ながらに仰せになることには、「さて、命あるものはいつかは死ぬ定めでございますので、今さらこのことを悲しまれても仕方のないことでございます。私がこの世に一番に思い残すことは。生まれてきた姫のことでございます。私がいなくなりました後も、大切にお育てください。まことに、私が、お二方に先立つこと、とても悲しくお思いでしょう。私も、お父様、お母様だけでなく、乳母を始め、世話をしてくれた人々まで、皆に名残惜しゅうございます」と仰せになり、これを末期のお言葉として、十六歳という人生がこれから花開くという春の時に、空しくなられてしまいました。ご両親は、この悲しみを晴らすあてがないご様子です。乳母は、限りなく悲しく思って、すぐさま髪を下ろして尼になりました。ご一家の悲しみは、お気の毒という言葉では言い表せないくらいに大きなものでございました。
 さて、姫君の葬儀もすみ、その後の法事も営まれて落ち着きますと、ご両親は姫君の遺されたお孫様である姫君を忘れ形見とお思いになって、ますます大事にお育てすると、この孫姫君は育つにつれて、お母様のかざしの姫君に瓜二つのように似て、美しくなっていきましたので、ご両親はこの孫姫君をかわいがらて、若い女房達を大勢お世話役として面倒を見させました。こうして時が過ぎて孫姫君が七歳になられると、幼児から少女に移る時の儀式である袴着の式を行いました。さらに時が経って十三歳を迎えると、ますます美しく育たれましたので、人々は、美人の代表である唐の楊貴妃、漢の李夫人、日の本では衣通姫小野小町たちでも、このお姫君には及ばないであろうと、噂をするまでになられました。
 すると、この孫姫君の評判を今上様がお聞きになられ、女御として召されました。中納言様、母上様のお慶びはこの上ございません。孫姫君は宮中に入りますと、今上様がこの姫君をとてもお愛しあそばされ、今上様のお気持ちにかないましたので、すぐに男御子、姫御子が続いてご誕生になって、とてもめでたいことだと、多くの人々が語ったことでございます。
 この話、あまりにも不思議なことでございますので、末代までの語り草になれと思い、ここに書き記しておくのでございます。

壺の碑 参考資料 徳道聖人、始めて長谷寺を建てる語(今昔物語集より)

徳道聖人、始めて長谷寺を建てる語          今昔物語集巻第十一の第三十一

  壺の碑が祟りをなすという話から、漂着した霊木が、人々に働きかけた話を一つ。

 

 昔のことです。洪水があった時に、近江の国の高島の郡に大きな木が漂着しました。土地の人がその木の端を切り取ると、その人の家が焼けました。また、その家から始まって郡の中に病気が蔓延して多くの人が亡くなりました、そこでこの祟りの原因を占わせると、「この災いはこの木のせいである」と占いの結果が出ましたので、その後、世間の人でその木のそばに寄る人は一人もいませんでした。
 時が過ぎて、大和国の葛城の下の郡(現、大和高田市,下葛城郡の一部)に住んでいる人が、たまたま用事があって、この木が置かれている土地に来て、この木の由来を聞いて、心の中に、「私はこの木をで十一面観音菩薩のお像をお造りしよう」という願を起こしました。ですが、この木を自分の住んでいる土地まで簡単に運ぶ方法がないので、家へと帰りました。その後、その人の夢の中にお告げがありましたので、その人は運搬の人夫を雇って御馳走して、その人々を連れてもう一度あの木の所へ行きましたが、木が大きくて運搬するには人数が足りないので、空しく帰ろうとしましたが、駄目で元々と、地に縄を付けて曳いてみようと思って曳いてみると、簡単に曳くことができました。それを見て通行の人々が手助けして一緒に曳いて行くと、葛城の下の郡の当麻の郷(現、下葛城郡当麻町)まで、曳いて来ました。ですが、この人は、資金も無く、十一面観音菩薩像を造るという心の内の願を遂げることができずにこの木を長くそのままに置いている間に、亡くなってしまいました。そのため、この木はこの場所で何もされないまま、八十年を越す年を経てしまいました。
 その頃、その郷に病気が発生して、一人残らず病気になっり、苦痛を受ける人が多く出ました。このため、「この木のせいである」と言って、郡の長、郷の長など主立った者が集まって、「今は亡き何とかという者がつまらない木を他国から曳いて来たためにこの病気が発生したのだ。ということになり、木を曳いて来た者の子の宮丸を呼び出して、責任を取るようにと責め立てましたが、宮丸一人の力ではこの木を取り捨てることができません。全く解決策がありませんので、その郡の人々をかり集めて、この木を磯(し)城(き)の上郡(現、桜井市付近)の初瀬川の川辺に曳いていって棄てました。この木はこの所でまた二十年置かれました。
 その時に、一人の僧がいました。名を徳道と言います。この木のことを聞いて、「この木は必ず神霊の宿る木なのであろう。私は、この木で十一面観音菩薩の像をお造り申し上げよう」と思って今の長谷の土地に曳いて移しました。ですが、徳道上人は像を造る資金が無く、すぐさま造り申し上げることができません。そこで徳道上人は何も出来ないことを悲しむだけで七、八年の間、この木に向かって礼拝して、「この願いを必ず遂げます」と誓いを立て続けました。
 その時に、このことが元正天皇様のお耳に入り、経済的援助をしてくださいました。また、藤原房前の大臣も助力をしてくださり、神亀四年(七二七)に観音菩薩像をお造りになりました。高さ二丈六尺(八メートル弱,現在の長谷寺の像は十メートル余)の像であります。
  この後、徳道上人の夢の中に神様が現れて、この嶺を指して、「あの山の下に大きな岩がある。速やかに掘り出して、この観音像をその上に立て申し上げよ」と見て、夢が覚めました。すぐにその示された場に行って掘ると、夢で告げられた通りの大きな岩がありました。岩の幅も奥行きもともに八尺(約二・四メートル)ありました。その岩の表面が平らなことは、碁盤の表面のようです。夢で示された通りに、観音像をお造りした後に、子の岩の上にお据えしました。観音様の開眼供養の後に、観音様の霊験は大和の国だけでなく他の国にまで及んで、お参りする人はでご利益を蒙らない人はいません。霊験はあまねく及び、我が国だけでなく、震旦(中国)にまで及ぶ観音様でいらっしゃいます。
 現在の長谷という寺がこの寺であります。人々は、ぜひとも足を運んで信心の心をしっかりと保つのが良い、と語り伝えていることでございます。

壺の碑(いしぶみ) 福福亭とん平の意訳

壺の碑 全

 さてさて、千引の石と申しますのは、昔、平(へい)城(ぜい)天皇様の御代に、陸奥の狭布(きょう)の郡の壺という所に、高さが五丈ほどの大きな石がありましたが、坂上田村麻呂将軍が蝦夷の悪路王を征伐なさった時に、この石の表面に弓の弭で「日本の中央」と書き付けられました。その文字が自然に、石に彫りつけたように鮮やかに見えましたので、石の周辺の人々がこの石を壺の碑と名付けて、名高い将軍の由緒ある石であるとして、この石を尊いものとして大切にすることは、並々でありませんでした。まことに、木や石には心ないものととは申しますが、石には魂が宿ると申します。人が敬うことで石はその力を増すことがありまして、この石の魂もいろいろな物に姿を変えて、人を苦しめたり驚かしたりしましたので、とうとう人々はこの石を恐れるようになって、石の近くに立ち寄る人はいなくなりました。
 その土地を治める守護は、甲斐の何とかいう方でしたが、この石の話を聞いて、不思議な災ひである、これでこの土地が寂れるのは善くないことだと思い、人々が苦しむのを止めるためにこの石を隣の国との境まで引き出して粉々に砕いて捨ててしまおうと思い、この石のある地域に触れを回して告げることには、「守護として、壺の大石を隣国へ引き出すことにした。この土地に住んでいる者は、上は六十歳まで、下は十五歳を達している者は、男女を問わずすぐに出て、綱に取り付いて石を引くように」と、すぐさま多くの伝達役を派遣して、村々の各集落に入って、それぞれの家にいる人の数を書き留めて用意をさせました。
 この狭布の郡の片隅に、一人暮らしの女性がいました。幼い頃に両親に死に別れ、頼りにする親族もいませんでしたので、細々と暮らすだけで、だんだんに歳を取ってきてしまいました。
 この女性は、見る人もいないのですが、姿形は綺麗で、都を遥か離れた東の地方で、がさつな人々の中に育ちましたが、気立ても優雅で優しい人でした。そんな素敵な女性でしたが、この女性のことを相手にする人はほとんどいませんでしたので、ずっと一人暮らしをしていましたが、ある時、どちらからともなく、とても上品な男性がふらりと訪ねて来て、とても親しげな様子で女性に親しく声を掛け、あなたと愛している、親しくなりたいと強く訴えかけました。女性も情を解さない身ではないので、それほどにいつまでも冷たくしてはいられません。とうとう、心を許し、互いに親しく語らい、深く契りを交わしました。
 契りは交わしましたが、この男性は夜に訪ねては来ますが、昼間は来ませんので、どういう訳だろうと女性は不思議に思って気落ちしている時に、守護の使いが来て、この一人暮らしの女性に、出て来て石の綱を引けと責め催促するのも差し出がましく余計なことです。
 女性は。どうあっても、女の身の上ほど嫌なものはない、こんな一人暮らしのままに歳が長けて、周りから身の上をあれやこれやと言われるのも恥ずかしいので、ただ人に知られないようにこの家を捨てて、どちらへでも行ってしまおうと思う心が湧きました。それにしても、あの訪れてくる男性に会って、このようなことでと事情を説明して、別れを言おうと思いながら、夕方の暮れてゆく空をしみじみと眺めて悲しみ、これまでのことやこれから先のことを思い続けて泣いています。その時にいろいろな声で鳴く虫の声までも、自分の身の上を思いやっているのかと思えて、いっそう涙が流れるのです。
 もう夜も更けてもの寂しく、風が冷たく吹いていて、木の葉に雨がぱらぱらと降りかかっている時。木戸を開ける音がしましたので、誰だろうと思ってそちらを見ると、長く着て張りの無くなった襖狩衣姿で、垣のところで露に濡れて立っているのは、いつも訪ねて来る男性でありました。
 女性は、男性の姿を見て、嬉しいとは思いながらも、物思いに耽っている時でありますので、知らず知らずに涙がこぼれます。男性は、女性のこの有様を見て、「お気の毒に、何をお思いになって、そのように元気がないのですか」と言いますので、女性が答えて言うには、「この土地に壺の碑と名付けられる大きな石がございますが、その石がいろいろと姿を変えて人を驚かすということが起きています。それで、国にとっての災厄、また土地が寂れるであろうということで、早速に、この土地の家にいるすべての人を呼び出して、その石を引かせて隣国との境に引き出して、粉々に砕いて捨てるようにと
この土地の守護が使いを国中に出して、男女、老幼の区別なく全部の人を呼び出されました。そうだと言っても、私は多くの人の中に入って、身の上のことをあれこれと言われて知られるのも恥ずかしいので、今夜の内にどちらへでも秘かに行ってしまおうと思っているのです。それにしても、あなた様とふとしたことで親しくなりましたが、二人の仲も早くも三年になりましたので、つらい別れの悲しさに、言葉に表されない心の内をご推量くださいませ」と言って、またさめざめと泣きますと、男性も哀れがって、ひどく泣き悲しみました。
 しばらく経って男性が言います。「私も、この三年あなたと契りを交わしたことを大切に思うので、思いも掛けないことご起こったのをお話申し上げるためにここまで来たのです。あなたは私をどんな者とお思いでしょうか。実は私は、あの壺の石の精霊なのです。木や石は心ない物だと言いますが、時によっては温かい心で接するこtがある場合があります。この三年、あなたと心隔てなく親しく過ごした契りは、どうして空しいものになりましょう。そこで、明日、この里の住人が集まると千人になるでしょう。その千人が力を揃えて引いても、私が強い力を出せば少しも動くことはありません。その時が来たら、あなた一人が私に近付いて、石を引く綱を手にしてお引きになれば、まるで車が坂を下るように、楽々と引き動かすことが出来るでしょう。そうなると、人々はあなたを特別な人だと尊いものだと大切に思い、お役人もお聞きになって多くのご褒美をくださるでしょう。そすなれば、あなたはたちまちに豊かな暮らしの身になって、楽しく暮らすことができるでしょう。このことは、この三年間、あなたが私に捺せ下さった心への御礼の気持ちです。さらに、この先ずっと、いついつまでも、あなたをお守りいたしまょう」と言って女性を慰めて、親しくしていました。
 女性は、男性のこの話をしみじみと聞いて、これは夢か現実のことかと、ぼんやりとしてしまいました。けれども、この三年間親しくした相手なのだから、まあまあ仕方がない、こうなるのも前世からの因縁なのだろうと思うにつけて、なおさら、今夜だけでお別れする名残惜しさが募り、一夜を千夜逢っているように充実した時ととして過ごしたく、互いに睦言を交わしながら時を大切にして過ごしていました。いつしか夜明けを迎えてしまいましたので、涙を流しながら別れをしかねていましたが、男性が出て行くかと思ったところで、その姿は朝霧の中へと入って行き、姿を隠してしまいました。
 夜がすっかり明けましたので、土地の人々は声を掛け合って出て来て、互いに「急げ、急げ」と騒いで、石を引く綱に取り付きました。守護の某殿もこの場に出て来て、役人に命じて綱を引く人数を書き留めさせたところ千人いました。この千人が綱を手に引きましたので、壺の石のことを千引の石と言うのです。そうこうしているうちに、千人の老若男女の人々が力を揃え、声を一つにして、長いこと引きましたが、石は奥山のようで、少しも動く気配がありません。
 この時になって、あの一人暮らしの女性が前に出て、集まった多くの人に向かって、「お願いですから、この石を私一人で引かせてくださいませ、簡単に引きましょう」えお言いましたので、人々はこの言葉を聞いて、余りに馬鹿馬鹿しい申し出であったせいでしょうか、これといった返事もしないで、一度にどっと笑いました。
 守護の某殿は、石が少しも動かない様子を見て機嫌を悪くし、不愉快な顔で立っておいでになられたところに、人々が一度にどっと笑い騒ぐ声をお聞きになって、ますます怒りを増して、「何を彼らは笑うのじゃ」と問いただしになられるました。そこで、年かさの主立った者たちが進み出て、「この大勢が力を出して石を引いてさえ動きもしない石を、この女がたった一人で引いてみせようと申しますので、あまりに噓のようだと思って、笑ってしまいました」と答えます。
 その時に守護の某殿は、その女の姿をじっくりと見て、「まことになにか訳のある女の様子である。その上、世に、『女の髪は象を繋ぐこともできる』という譬えがあるから、無駄な調べをしないで、まずは石を引かせてみよう」と仰いました。
「かしこまりました」と返事をして、集まった人々は綱を引く手を離して、あの女性一人を呼んで、石の綱を引かせました。
 この時、女性は、弱々しい様子で石の正面に立ち、先夜の男性の物語と悲しい言葉を頼りとして、綱を手に取って引いてみると、今までは千人で引いてみても、山のようにどっしりとして動かなかった大石が、この女性一人の手に引かれて、坂を下る来る阿mのように、また、流れに乗って棹を差して進んで行く舟よりも速く動いて行くのは、不思議な光景でした。
 大勢の人々はこの様子を見るとすぐ、これは不思議なことであるな、それではこの女性は、特別な人であったのに、余計なあざ笑いをしてしまったものだ、有り難いこと、尊いことよと、深く心に感じながら、石の前後に集まって合掌し、声を揃えて「えいやえいや」と声援をします。その声に合わせて、しばらく時が経って、この石は国境まで引き出されました。
 こうして、守護の甲斐の某殿は、女性が石を一人で引いたのを見て、この女性を最初から常の人ではないと思ってはいましたが、このような不思議な姿を現されたことは、めったにないことである、これはまことに、この土地の神様が氏子たちを不憫に思ってこのようなご利益をくださったのであろうと思う、我らは、決しておごり高ぶりの心を持つべきではない、と感じて、この土地のうち五十町余をこの女性に譲り与えて、さらに加えて、いろいろな宝物をお与えになって、丁寧に扱って、家へとお返しになりました。
 さてまた、土地の人々が話すことには、「あの石というのは、昔から長いことあった物ではありますが、土地にとっていろいろ災ひをするので人々の嘆きとなっていたところ、立派な守護様がおいでになって、石を国境に運んで砕くというお考えをなさいました。けれども、石は千人が力を合わせても動かなかったので、今後どれくらい人々の災ひになるかと思っていたところに、不思議な力を持った女性が現れなさって、簡単に石を引き運んで、この土地を安心な土地となさいました。これは何より、神様のお助けと思います。この神様の思し召しを有り難く思わなければ、神罰が下るかもしれません。さあさあ、あの女性に家を建てて差し上げましょう」というころになりまして、土地の人々が集まって、相談して人夫を集め、土地を均して材木を集め、鍛冶師や大工を呼び集めて、美しく造り上げた建物を幾棟も連ね、門が幾つもある家を、とても豪華に造り上げました、
 石を一人で引いた女性はすぐにその建物に移り住んで、多くの人を屋敷の中に雇い入れて、豊かに暮らしていましたが、それにしても私がこのようにとても安楽に過ごせていられるのは、私の力ではなく、あの石の魂のお蔭なのだ、何とかして感謝の気持ちを表さなくてはいけないと思って、徳の高いお坊さんを大勢招いて、あの石のために香華を供えて供養をして、多くのお経を上げて、石の追善の法事をいたしました。
 「もともと木や石は心無しと言われているが、『すべての世界に存在する物は、皆共に仏になる』と経文が説くことを知れば、すべての物は仏になる種を持っているのである。それに加えて,結構な供物を仏前に捧げ、数々の経文は呪言を唱えて、回向をするということは、成仏して悟りの境地に至ることは疑いない」と導師の僧が回向の文を読み上げるのを聞いて、女性はこの法事が石の供養になると確信でき、またとない気持ちになって、嬉し涙が流れました。
 女性は、それにしても、私はどういう因縁があって、石のような心を持たない異様な物と縁を結び、その好意によって、こんな何不自由のない豊かな暮らしができることは、本当に不思議なことなので、夢のようだと思われるけれど、将来どうなることかとしみじみと思いながら、幅の狭い莚を寝床として一人着物のまま横になって、石の精と過ごした三年を思い返していました。その時に開き戸を叩く音がしましたので、妙なこと、誰が来たのだろうと思いながら起き出て、かなたの空に目をやると、不思議な雲が一かたまり、軒のところに重なっていました。
 その雲の中に、襖狩衣を着て立烏帽子を着けた人が立っています。この人は以前の通ってきた人だと懐かしく思ってじっと見ていると、その人はとても親しく優しい声で言います。「私は、もともと心を持た無い身でありましたが、人々が私にいろいろな名を付けて呼んだために、いつの間にか自然に心が生まれてしまいました。人の思いに従って、怪しい振る舞いもしてしまったのでしょう。このように心を持つ身になったために、あなたの心をこちらに向けさせ、心からではない契りを結んでしまいましたが、あなたのとても寂しそうな様子を気の毒に思うようになって。そのまま通い続けているうちに、いつしか三年を過ぎたのは、夢であったのでしょうか。こんな契りですが、あなたと契ったのは、前世から縁が深いからでして、それに加えて、今日はまたこの上ない供養を下さって、仏の悟りに至りましたこと、とてもとても有り難く嬉しく存じます。これから後、私は必ずあなたをお守りいたします。その結果、あなたは、高貴な方に妻として迎えられ、ますます豊かな身になって、ついには百歳の長寿を保たれます。こういうお礼と未来のことをお伝えするためにここまで参りました。今はもうお別れでございます。ごきげんよう」と言って、男性は雲の中に姿を消し、極楽浄土のある西の空へ去って行くと見えましたが、後は青空が広がっているだけで、月が明るく照っていました。
 その後、この女性は、豊かに暮らしていましたが、ある時、この国の国司がやってきてこの場所で狩をしました。その時に、立派な豪邸があるのが見えましたので、「どのような人の屋敷か」とお尋ねがありました時に、土地の人々が進み出て、「こういう女性が住んでおります」と石を引いたことの始めからのことを詳しく申し上げると、国司は一部始終をお聞きになり、その女性に会ってみたいとお思いになって、ちょっとした気持ちで立ち寄り、女性と契りを結んだところ、かねてから縁が深かったのでしょうか、二人の間に若君がたくさん生まれて、いつまでも長く豊かにお暮らしになりました。
 世の中のありとあらゆる人は心を正直に持つと、澄んだ水に月の光が映るように、良い結果を迎えることができます。必ず必ず、噓を吐いたり、ひねくれた心を持ってはなりません。

のせ猿草紙 福福亭とん平の意訳

のせ猿草紙 全

 さてさて、丹波国能勢の山に、年を経た猿がいて、その名を増(まし)尾(お)の権頭(ごんのかみ)と申しました。その子に、こけ丸殿といって、抜きんでて知恵や学問、芸能に優れた方がいました。このこけ丸殿が扇を手にして舞を一差し舞ってお入りになるのを見ると、皆、素晴らしさに心が奪われ、感動してしまいます。そんな月日を送る内に、こけ丸殿はようやく二十歳ほどになられました。ご両親は「どのような方からでも、お嫁さんを迎えなさい」と仰いますが、こけ丸殿は全くお聞き入れになりません。私には考える次第があります。世間一般のような者をどうして妻に迎えましょうか、どのような公卿殿上人の娘であっても、その人を妻にしなければ、長くないこのつらい世に生きた甲斐がありましょうかとお思いになっていらっしゃいます。「世間の人たちの中には、身の程を知らない高望みだと思うようなやつらもいるであろうが、言うまでもないが、我ら一族の先祖の猿丸太夫は、誰もが知っている歌人である。
  奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき
  (奥山に紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞く時、秋はもの悲しいものだなあ)
とお詠みになった歌は、この歌を小倉山荘の色紙和歌の中に、藤原定家卿もお入れになっている。そのほか、代々の歌人の説でも、我ら猿の一族を『稲負鳥』(いなおおせどり)『ましらの声』などと詠み入れている歌を世間の人は知らないのだろうか。おそらく、系図においては、世の誰に劣ることがあろうか。いいかげんなやつらと縁を結んで何になろうか」とお思いになり、普段は岩の間で花を見、秋は木々の梢で月を眺め、多くの種類の木の実を好み、とても優雅な色好みでいらっしゃいました。
 そのようにして過ごしている時に、こけ丸殿は願を立てることがあって、琵琶湖のほとりの日吉大社にお参りをなさいましたが、その時、京の都は柳の緑と桜の紅が混ざり合って錦のような春の真っ盛りでありましたから、こけ丸殿はあちこちと東山のあたりを眺め歩かれました。歩いて行くと、北白河のあたりに、いかにも立派な由緒ありそうに造られた草と木の御所があります。この御所はどのような方のお住都の鬼門を守る日吉大社   まいであろうかとこけ丸殿が立ち寄って、霞の切れ間から覗いて見ると、美しい姫君が琴を弾いていらっしぃました。こけ丸殿は、この方はどのようなお方であろうかと、心が落ち着かなくなって、瞬きもせずにじっとみつめていらっしゃいます。こけ丸殿がこのように心が奪われるのももっともで、この姫は、兎の壱岐守殿の一人娘でいらっしゃいます。姫君のお姿は並外れて美しく、耳のあたりはつやつやとして色白く、世に二人といないほどの美しいお姿でいらっしゃいます。こけ丸殿は、この姫のお姿をじっとご覧になって、世の中の人間の中にはこのような美しいお姿の方はいないであろう、何とかしてこの方とお近づきになる手がかりはないだろうかとお思いになり、それから後は足元もおぼつかなくなり、まるで夢の中で道をたどって行くような気持ちで日吉大社にお参りして、鰐口を打ち鳴らして、「お願い申し上げます、山王二十一社の神々様、白河のあたりで見た方の面影が忘れられないで、今はもはやはかないこの命も消えてしまいそうに思うこの私の身をお助けになり、あの姫君に会わせてくださいませ」と、一心籠めて、涙ながらに繰り返しお願いをして、神前をお立ちになりましたが、目もくらんで意識が消えそうになるので、故郷に帰ることもできなくて、木の葉を搔き集めて枕として、苔が莚のように広がっている所に倒れて横になり、ぼんやりとして一夜を明かされました。
 このようにこけ丸殿が悩んでいらっしゃるところへ、狐のゐなか殿がこの場においでになり、こけ丸殿の様子をじっくりと見て、「あなたの目元や手足はとても美しい。いったいどのようなお方で、ここにおいでになったのですか。ひょっとして、このお社にお参りになるのに、旅の苦労でお疲れになったのでしょうか」と、親しげにお尋ねになりましたので、こけ丸殿は「いえ、私はどこといってあてのない賤しい者の子でございます」とお答えになりますと、ゐなか殿は、「いえいえ、それは誠ではないと存じます。なるほど、この日吉の神社へお参りなさる方の中に、どなたかの姫君をご覧になって、心穏やかにならないに恋の悩みに沈んでいらっしゃるとお見かけしました。お心の内をあらいざらいお話しください」と、頼もしそうな様子で親身に話しましたので、こけ丸殿は、涙をはらはらと流して、「何を思い込んでいるのかと人が問いかけるという、その恋をしております」と恥ずかしそうに顔を赤くなさって、うつむいて横になられましたので、その時にゐなか殿は、「色も香も知る人ぞ知ると申します。私も若い時には、そのような恋もございました。人に思いをかけて恋をするということも、若い時よくあることです。お隠しにならずにお話しください、命を懸けてあなたに力を尽くしましょう」と言いました。そこでこけ丸殿は、「頼もしいあなたのお言葉ですね。こうして死んでしまったら、罪深いことです。今は、何をお隠しいたしましょう。先日、白河の桜の花の間を歩いていた時に、思いがけない美しい姫君を見て思いを込めました。今、この命の絶えてしまった後には、少しも可哀想だとは誰も思わないでしょう。でも、もしもこの恋がかなわなかったならば、猿沢の池へでも身を投げて死んでしまおうと思います。恋する命は少しも惜しくありません」と語って、たださめざめと泣くだけでした。
 ゐなか殿はお聞きになって「それでは、その方は、壱岐守殿のただ一人の姫君でございましょう。そのように御心をあれこれと動かされるのももっともです。この姫君という方は、壱岐守殿ご夫妻が四十歳におなりになるまでお子さんのいないことを悲しんで、八月十五夜の月に向かって子を授けてほしいと祈られると、奥様の右の袂に月が宿るというあらたかなお告げをいただき、ご誕生になった姫君でいらっしゃるので、美しいことは間違いのないことです。お名前を玉世の姫と申し上げます。あちこちの方々から交際を求める手紙が通ってくることは、降る雨よりも多いくらいでありましたが、天皇様の女御や后の位になるか、または公卿殿上人でなければ聟にはとらないということで、大事に育てていらっしゃる姫君でありますが、あなたは特別なお方と拝見いたしましたので、お望みをかなえて差し上げましょう。どうぞご安心なさってくださいませ。幸いなことに、私めの娘を、その玉世の姫君のもとへ宮仕えに参らせ、けしょう(けしやう)の前と呼ばれてお側におります。お手紙をお書きなさい。玉世の姫君へお届けして差し上げましょう」と言いますと、こけ丸殿は、とても嬉しく思って、
  君故にかき集めたるこの葉どもの散りなん後を誰かとはまし
  (あなたのために書き集めたこの言葉の数々を、私の死後に誰が弔ってくれるでしょうか)
このようにお書きになってゐなか殿へお渡しになると、ゐなか殿はその文を袂に入れ、「すぐにかなえて差し上げましょう」と言って、玉世の姫君の白河の御所へ行きますと、姫君はゐなか殿をじっと御覧になって、「どうして、最近はお出でにならなかったの」と雪にも負けない白い顔を上げて、とても懐かしく親しい様子で仰います。するとゐなか殿は、姫君の御前にほかの人がいない時を見はからって、「このようなお手紙です」と、姫君の傍に置きます。姫君は耳を横に向けて、恥ずかしそうに下を向かれましたが、ゐなか殿は人を上手にその気にさせる人で、「昔から、人につれない仕打ちをする人は、悲しい末路を迎えることでございますよ」と、みじめな末路となった小野小町のことを喩えに引いてじっくりとお話し申し上げたので、頑なになっていた姫君の心が、強情になっているのも罪が深いものだ、私は石や木のように情の無い身ではないのだからとお思いになって、このようなご返事の歌を詠まれました。
  をちこちのたつきも知らぬ山猿のおぼつかなくもわれを問ふかや
  (あれこれの様子も知らない山猿の身で、頼りなくもこの私に求愛をするのですか)
乱雑な筆跡で書き散らしてそこにお置きになった返書を、狐のゐなか殿は手に取るのも嬉しくて、すぐさま「こんこん、また参りましょう」と言い放って帰りました。ゐなか殿はこの手紙を急いでこけ丸殿のところへ持って行って見せると、ゐなか殿は嬉しくてさっと起き上がり、この手紙を三度上にいただいて見て、美しい筆の跡だと言いながら、胸にあてたり、顔にあてたりしました。その手紙をいただいてからますます玉世の姫君への思いが増さって、たびたびお手紙を差し上げますと、二つの川の行く末が一つの瀬として合わさるように、二人の間もそれほどに時が立たないうちに結ばれる身となりました。まず一夜の契りも、一度親しんでしまってからは、人目を忍んで通うことが重なり、今はもう二人は深い仲とおなりになりました。
 玉世の姫君の父の壱岐守と北の方はこの二人の仲をお聞きになって、「まことに、丹波の能勢の、増尾の権頭の息子のこけ丸殿は、評判の色好みで、どのような公卿殿上人の中にもないほどの立派な方である。今はお目にかかろう」と言って、いろいろな深山の果物を取り集めて、十分におもてなしをなさいます。壱岐守夫妻がこけ丸殿と対面して聟になったことを丹波の権頭様はお聞きになり、「このごろこけ丸がどこかへと出かけていると思っていたが、そのようなことであったのか。知らなかったなあ」と仰って、自らの館へ若夫婦を迎えるために、馬、乗物、若輩猿を大勢遣わされました。こけ丸殿は、このお迎えを受けて、玉世の姫君を引き連れて、丹波へと越えておいでになりました。こけ丸殿のご両親は、吉日を選んでご対面をなさって玉世の姫君をご覧になって、「世の中には、このように美しい姫君もいるものなのだなあ、こけ丸が心を奪われるのももっともだ」と言って、大切にもてなされました。その後、こけ丸殿と玉世の姫君の間にはお子さんがたくさんお出来になり、子孫も繁昌してお栄えになりました。昔の今も、このような幸運なことはないであろうと、めでたいことこの上ありません。

をこぜ 福福亭とん平の意訳

をこぜ

 山桜は、私が住むあたりの景物であるから、珍しくもなく、春のうららかな時には、浜辺がまことに好く、低い波と高い波の女波男波が交互に打ち寄せ、岸辺の美しい藻を洗っているところに、波間に浮き沈む千鳥の鳴く音もいうまでもなく好く、沖行く舟がのどかに吹く風の中に帆を掛けて行く中から、歌声がかすかに聞こえて、何の物思いもなく見えるのも風情があります。塩を焼く煙が空を横に流れるのは、誰の恋路に近寄るのでしょうか。向こうの山から柴というものを刈って運んで来る荷に花を折って挿してあるのは、風情の無い海人の行いとしては優美に思えるものよと、山の奥にあっては、見慣れないことも多いのです。山の神が集まって、様々な趣に感じて、一首作り上げました。妙な歌ではありますが、歌の心だけはこのようなものでございます。
  柴木とる海人の心も春なれやかざす桜の袖はやさしも
  (柴を刈る海人の気持ちも春なのであろう。桜をかざす袖は優雅なことよ)
と詠んで、山の神はあちこちらをうろうろと迷い歩いて行くのであります。
人あり」とて、水底へこそこそと入りぬ。
 さてここに、おこぜの姫と言って、魚の中では比べようがないほど優美なものがいました。顔は、かながしら、あかめばるとかいう魚に似て、頬骨が高く、目は大きく、口は広く見えましたが、十二単を着て、多くの魚を引き連れ、波の上に浮かび出ての春の遊びをなさっています。東琴をかき鳴らして歌う声を聞くと、か細い声であるけれども訛っていて、
  ひく網の目ごとにもろきわが涙かからざりせばかからじと後は悔しき漁師舟かも
    (曳く網の目ごとにかかる私のほろほろと流す涙、かからなければこのようにはなら  ないのにと、後には悔しく思う、漁師の舟でありますよ)
と歌い、東琴を弾く爪音は高く聞こえます。山の神はこれをしみじみと立ち聞きなさって、おこぜ姫の姿を見るやいなや、早くも恋に落ちてしまい、せめておこぜ姫のいるあたりへ近付いてみたいとは思うのですが、泳ぎを知らないので、近付くこともできません。浜辺にうずくまって手招きをしたところ、おこぜ姫は、「あら嫌なこと、見ている人があるわ」と言って、海の底へとこそこそと入ってしまいました。
 それにしても、山の神は、ほんの少しだけ見えた裳裾を曳いたおこぜ姫のお姿を、もう一度見たいと思って、心はそぞろになって一日中その浜辺に居座って遥かに眺めていますが、姫は二度と海の上においでになりません。そのまま日が次第に西に沈みかけたので、しおしおとして山の方へと立ち帰って、いにしえの業平のように、起きもせず寝もせずに夜を明かしました。おこぜ姫のおもかげは忘れることができないで、胸がふさがり、気持ちも苦しくて、木の実や榧の実などを取って口にするのですが、喉を通りません。おこぜ姫への恋しさがひたすら増すだけで、このまま草葉の露のように消えてしまおうとは思っても、死ぬこともできないままに鬱々とした夜が明けましたので、また浜辺へと立ち出て、ひょっとしたらおこぜ姫が現れることがあだろうと思う心だけを支えにして、もしかしたらおこぜの姫君が海面に姿を現されるかと沖の方を見ましたが、白波が打ち寄せるだけで、あの方は全くお見えになりません。山の神は涙をこの日のしるしとして、ぼんやりとして再びすみかへと立ち帰って、美しい簾の隙間から通ってくるかすかな風のように、どんなはかない手づるでもよいからあってほしい、せめて私の恋心をおこぜ姫に知らせて、自分が死んだ後でも私が思っていたことを思い出してくだされば、来世での罪も少しは軽くなるであろうに、山に住む者は水の様子を少しも知らず、また水の中に住む連中は山の様子を少しも知らないから、親しく語り合うことも出来ず、どうしようかと、大きくため息を吐いて考え込みます。この様子は、何ともはや、腹筋もよじれて、はたの見る目もおかしい姿でございます。でありますから、「都の中の因幡堂薬師の軒の端にある鬼瓦は、故郷にいる妻の顔に似ていて、ここは人々の多い都ではあるが、旅に出ているので恋しく思えるのです」と言って、さめざめと泣いたという人の心根まで思い出されて、ひとり笑いをされてしまうのです。
 山の神がこのように嘆いているところへ、川獺がやって来ました。山の神が言うことには、「もしもし、あなたは水中の案内を心得ていらっしゃいます。私はおこぜの姫君に恋心を抱いてしまいましたので、手紙を一通お送りするので、お届けくださいませ」と言います。川獺は聞いて、「そのおこぜは、目が大きくて、頬骨は高く、口は広く、色が赤く、とても見た目が悪いです。どう考えても、山の神などが、このような者にお心を留められるということなど、人が聞いて悪く思われるのもばからしいです」と言いますと、山の神は、「いやいや、それはあなたの偏ったお考えですよ。『女の目には鈴を張れ』ということがあります。目の大きいのは美女の相です。頬骨の高いのは貴人の相です。口の広いのは知恵がすぐれているという徴(しるし)です。どの点からでも難のないお方ですから、だれがご覧になっても、心惹かれないということがどうしてないでしょうか。そのように悪くあれこれと仰せられるのは、世の中によくあることです」と言って、思いに沈んでいる様子に、川獺は、まことに、縁があれば醜さも美しさに見えるというのはよくあることよと、とてもおかしく思っています。川獺が、「それならば、お手紙をお書きなさい。お気持ちをお伝えして差し上げましょう」と言うと、山の神の嬉しさは言葉に表せません。手紙を書こうにも、硯も筆もないので、ただ木の皮をむいて、思いのたけの言葉を書きました。その文は、「さてさて、あなた様の思いがけないことでございますが、一筆書いてお届け申し上げます。いつぞや、そっとある浜辺に出て、春の海のおもてを眺めておりましたところ、波の上のお遊びとおぼしくて、東琴をかき鳴らして歌をなされ、節を付けて歌っていらっしゃったお姿を遥かに拝見し、あなたのお姿が花に喩えるならば梅や桜のようにしとやかで、柳の垂れた糸のような枝が風に揺れている風情で、いっそうあざやかで心惹かれる様にお見受けいたしました。私めは、奥山に埋もれた木のように、朽ち果てて行くような身であるのもしかたありません。私めのあなた様への思いの末が恨みとして残ってしまったら、あなた様の身の上はどうなるのでしょうか。せめて、この手紙にあなた様のお手が触れたしるしとして、ご返事を下さいますれば、嬉しく存じます」と書いて、手紙の末に、
  かながしらめばるの泳ぐ波の上見るにつけてもをこぜ恋しき
  (かながしらやめばるの泳ぐ波の上を見るにつけても、おこぜ様が恋しい)
と詠んで、川獺に渡しました。

 川獺はこの手紙を受け取って、鼻がくすぐったい思いになりながら、浜辺へと出て、海の底へとぶくぶくと泳ぎ入って、おこぜ姫にお目にかかり、これこれとお話し申し上げると、おこぜ姫はお聞きになって、思いも寄らないことですことと顔をますます赤くなさって、山の神からの手紙をお手に取ることもしません。川獺は、「ああ、なんとつれないことでございましょう。藻に住む虫のわれからという名ではございませんが、この苦しみは自分の身からと涙に袖を濡らすというその袖の下でも、情けというものはその身の上に無くてはならないのです。そのならないという言葉に因む楢の小枝のようなほんのちょっとしたかりそめの宿の契りでも、思いを遂げるのがのが世の常の決まりごとなのです。まして、これは並々ではなく、後には契りを遂げようと、深く深く恋の淵に沈み込んだお心です。どうしてこのお気持ちを無にして良いものでしょうか。海人が塩を焼いている煙でも、思いがけない方になびくことがありましょう。春の柳の枝は、風が吹けば必ずなびき、その時枝ごとに乱れるように乱れるこの方(かた)の心の気の毒さを少しは汲み取ってくださいませ」などと、さまざまな言葉を尽くして申し上げると、おこぜの姫は、しみじみと思いを込めて顔をしかめ、初めは拒んでいましたが、それでも石や木のように心ないものではないので、いつもの赤ら顔で、恥ずかしいこともありますが、「さてさて、思ってもみなかったあなた様からのお手紙、お気持ちのご様子もとてもしみじみと思われますが、ただ一時のお気の迷いからのお言葉で、真心の伴わないお情けを掛けていただいても、浮世にはよくあることとは申しますが、秋の草葉が枯れるように、あなたが『離(か)れ』、離れていった時には、真葛の原に風が吹いて葛の葉が返って裏を見るように、『恨み』顔になるのも、嫌なものでございますので、あなた様と親しくなってしまった後は、どうしたら良いのでしょうか。とにもかくにも、このお気持ちに従うのはお許しいただいて、会わない昔とお思いいただくのがよろしゅうございましょう。一度逢ってしまっての思いに比べれば、逢わない前は物思いをしない穏やかであったということもございますから、仕方ないことでございましょう。また、私は青柳の糸のような枝、あなた様はそれに吹き寄せる春風として誘いを掛けるのだろうと存じている次第でございます」と書いて
  思ひあらば玉藻の蔭に寝もしなむひじきものには波をしつつも
  (思いがおありならば美しい藻の蔭にも共寝をしてください。波を敷物にしながら)
と、お詠みになって、川獺に渡しましたので、川獺は喜んで帰って、山の神に見せますと、山の神はすぐに嬉し泣きに泣いて涙を流し、急いで手紙を開いて見ると、おこぜの姫は自分の身を青柳の糸になぞらえ、あなたはそこに吹き来る春風とお書きになったのは、あなたに従いましょうということでありましょう。「それでは、今夜、おこぜの姫君のところへ出かけよう。ここまでやってくださったのだから、あなた、道案内をしてください」と仰います。川獺は、「たやすいことです。お供いたしましょう」と言います。
 このようなところへ、たこの入道がおこぜ姫が山の神になびいたという話を聞き伝えて、「さてさて、無念なことだなあ。わしが、おこぜ姫のところへ何度も手紙を送っても、手に取ることもしないので、恨みに思っているところへ、文の道にも熟達せず、武の道にも腕の無い、未熟な山の神の思いに応えようと返事するとは許せない。わしが法師の身であると馬鹿にして、そのように山の君の方ヘとあっさりと従うのであろう。いかの入道はいないか、おこぜの姫のところへ押し寄せて、姫を踏み殺せ」と、八本の手を広げて、落ち着かない様子で這い回りながら、大声で叫びます。
 傍にいるいかの入道が言うことには、「同じことならば、ご一門の方々を呼び集めてから、ご決断してご指示ください」と言いますと、「それがよい」ということで、あしだこ、手長だこ、くもだこ、はりだこ、いいだこ、ことうだこ、あおりいかに、するめの次郎という面々、どれも一門の身内なので、言うまでもなく集まり、他の家の面々も大名や小名といった身分によらず集まりました。
 おこぜの姫はたこの入道の軍勢が押し寄せるということを伝え聞いて、このままこの場にいるよりは、山の奥にでも隠れようと思って波の上に浮き上がって、あかめばる、かながしらを供に連れて山の中へと道を分け入って行くと、ちょうどその時に、山の神は川獺を供にして、おこぜの姫を見た浜辺へと出かけて行く、その細道でばったりと出会いました。山の神は余りの嬉しさに、動転して、「おいでになって山道で出会いました。山の奥は海の上、川獺はおこぜ姫だ」などと声を震わせてまとまりのないことを口にしましたが、それから連れ立って、山の神のすみかに立ち帰り、堅くむつまじい夫婦の契りをなさいました。世の中の人が言うことには、物を見て自分の判断基準で喜ぶのを、「山の神におこぜを見せたようだ」と言い伝えています。

蛤の草紙 福福亭とん平の意訳

蛤の草紙

 天竺摩訶陀国の片隅に、しじらという人がいて、この人は、とてもとても貧しい人でした。父親には若い時に死に別れ、一人の母がいらっしゃいました。その頃天竺はひどい飢饉になって、人が飢えて死ぬことが長く続きました。しじらは母を養うことができなくなって、いろいろな仕事をして母を養おうと、天を仰ぎ地に伏して祈り、いろいろなことをしましたが、一向に好い結果が出ません。しじらは、そうだ、良いことを思い付いた、海辺で釣りをして魚を獲って母に食べさせようと、浜辺に来て小舟に乗り、沖へと漕ぎ出して釣り糸を垂れました。そうして多くの魚を釣って、毎日母を養っていました。
 このようにして母を養うことができるのを、しじらは嬉しいことに思って、ある時また海へ出て釣り糸を垂れましたが、その日は、日暮れまでかかっても、魚が一匹も釣れませんでした。しじらは、これまでに随分生き物の命を取って母を養ってきた報いなのだろうか、魚が全く釣れないのだ、母上はさぞ私を待ちかねていらっしゃるだろう、この時までお食事を差し上げず、さぞご心配のことだろうと、釣りをする気持ちが上の空になって、母のことばかり考えていましたが、釣り竿も心を持っていたのでしょうか、さあ、魚が掛かったと思って、慎重に釣り上げてみると、美しい蛤を一つ釣り上げました。しじらは、これはどういうことだ、蛤が何の役に立つものかと、蛤を海へ投げ入れました。
 しじらは、ここには魚がいないとして、西の海へと舟を漕いで行き、釣り糸を垂れたところ、また最前の、南の海で釣り上げた蛤が掛かりました。しじらは、あれあれ不思議なことだと思って、また釣り針から外して海へ投げ入れました。それからまた、北の海へ行って、釣り糸を垂れたところ、西の海で釣り上げた蛤がまた掛かりました。その時しじらは、これはめったにない不思議なことだ、一度だけでなく、二度だけでもなく、三度まで同じ蛤を釣り上げた、ほんのちょっとしたことではあるが、蛤と三世の縁を結んだものだなと思って、舟の中へ投げ入れて、また釣り糸を垂れたところ、この蛤が急に大きくなりました。しじらが、あれあれ不思議なことだと、取り上げて海へ入れようとする時に、この蛤の中から、金色の光が三筋差しました。これはどうしたことだと見たしじらは驚き、肝を潰して、恐れて後ずさりをしました。この時に蛤の貝が二つに開いて、その中から、とても美しい、十七、八歳くらいの女性が出てきました。
 しじらはこれを見て、海の水を掬って手を洗いながら、「姿をみると春の花、顔を見れば秋の月、十本の指までも瑠璃を延ばしたような、これほど美しい女性が、海から上がっておいでになるとは不思議なことだなあ。あなたはひょっとして竜宮にいらっしゃる竜女などという方でいらっしゃいますか。このいやしい男の舟にお上がりになるのは、もったいないことです。ともかくも、住みかへお帰りください」と言いました。その時女性は、「私は、どこから来たのかも判りません。また、これからどちらへ行くのかも存じません。あなたの家へ連れて行ってください。お互いに仕事をして、この世を暮らしてゆきましょう」と仰るので、しじらは、「ああ、恐ろしいこと、思いも寄らないことです。私はもう四十歳になりましたが、まだ妻を持っていません。その訳は、六十歳を超えた母が一人いますので、もし私が妻を持つと、心がいい加減になって、母親の面倒をきちんと見なくなることもあって母の思いにそむくだろうと存じ、妻を持つことなど思いも寄りません」と言って、とても考えられないと申し上げます。すると、この女性が「つれない方ですね。物の道理をよくお聞きください。『袖振り合うも他生の縁』と聞いています。たとえば、鳥であっても、縁のある枝に止まるものなのです。まして、これまであなたを頼りにして、この舟にやってきたのに、その心を無にして、帰れとの仰せは情けないことです」と仰って、思い詰めた様子で泣いていらっしゃいます。しじらは女性のこの姿を見て、それならばせめて陸へ下ろそうとつくづく思って、急いで舟を漕いで、波打ち際に着いて舟から急いでお下ろしして、「私はここまでお連れしました。それではお別れいたしましょう」と言って帰ろうとすると、この女性は、しじらの袖にすがって、「せめてあなたのお宅まで連れて行って、一晩お泊めになってください。夜が明ければ、どちらへでも足のままに出て行きましょう」とお嘆きになりました。しじらが、「私どもの家というのは、ただ世間一般のような家でもなく、本当に貧しい男の寝る小屋のようなもので、目も当てられないようなひどい所ですから、あなたをお泊めする場所は全くありません。普段の居間にお泊めすることはもったいないことですから、家を造ってお泊めしましょう。お待ちください」と言いますと、女性は「どのような、金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙の豪華な家であっても、よその家には行きたくありません。あなたのお宅へならば行きましょう」と仰います。しじらは、「それでは少しお待ちください。私が先に家へ行って、母上に伺ってからお迎えに参りましょう」と言って、しじらは家へ帰って、母にこのことを話したところ、母はとても喜んで、「急いで座敷を片付けてきれいにして、こちらへお迎えしましょう」と仰るので、しじらは喜んで、急いで浜へ女性をお迎えに行きました。
 しじらとこの女性とは、女性が待ちかねてしじらの家へと来る途中で出会いました。しじらが、「裸足で歩かれてはあなたの御(お)御(み)足(あし)が痛いでしょうから、このみすぼらしい男の背中におぶさってください」と言いますと、女性は喜んでおぶさりました。こうしてしじらの家に着いて背中から下ろしますと、すぐに母が出て来て女性に会って、ああもったいないこと、この方こそ天人と言う人だ、私と同じ場ではいけないと、急いで自分より一段高い座を作って座らせ、この上なく大事にいたしました。
 その時に、しじらの母が、「もったいないことを申しますが、どうして、あなたはしじらの妻におなりになる方ではないのでしょうか。しじらはもう四十歳になりましたが、まだ妻を持たず、子供も一人もいないことを、毎日嘆いて暮らしていました。私はもう六十歳を過ぎて明日をも知らない身で、このことばかり心配しています。ああ、ああ、しじらにふさわしい妻がほしいなあ」と嘆きますと、女性は、「私はどこからきたのか、これからどちらへ行くのかも知らない身ですから、どのようにしてでもしじら殿と一緒に置いてください。私は人の知らない仕事をもして、一緒にこの世を過ごしていきましょう」と仰いましたので、母はとても喜んで、それならばと言って、しじらにこのいきさつを話したところ、しじらはもともと親孝行の人なので、ともかくも母上のお気持ち通りにと返事をしました。天竺という土地も人の好奇心の強い土地ですので、人々が、「しじらの所に、どこから降って湧いたかわからない人がやってきた。さあ行って対面しよう」と言って、出家者も俗人も、男女皆々が神仏に供える米を包んでやって来ました。それで、白米三石六斗が一日に集まりました。

 その時にかの女性が、やって来た女性に、「私は何も持たずにここへやって来た者ですので、糸にするアサをお持ちならばください」と仰るので、翌日にはアサを持って来ました。しじらは、前日から皆が持って来てくれた米で母を養えることを心の中で嬉しいことだと喜びました。またこの女性は人目に立たない形で、いつその作業をなさっているともわからないうちに、たくさん麻糸をお作りになりました。
 そのようにしているうちに、紡錘という物がほしいと仰るので、しじらは早速探し求めて差し上げました。この麻を糸に紡いでいく音は、とても面白く聞こえました。しっかりと聞き留めて文字にしてみると、前へ送る時には「南無常住仏」と響き、手元に引き入れて糸を縒る時は「南無常住法」と響き、巻く時は「阿耨多羅三藐三菩提」と巻き収めなさいます。また、てがいという物をお取りになる時は、「南無妙」と響いて、こうして糸を紡がれているうちに、始めてから二十五か月という時に紡ぎ終わって、今度は布を織る道具一式がほしいと仰るので、しじらが、それではと言って作ろうとするのをご覧になって、「世の中の普通の機織り機ではいけません。私の機織り機は、並の道具とは変わっています」と仰って、手本をお示しになったので、注文通りに作って差し上げました。この女性は喜んで、「力を尽くして糸を巻き立ててみましょう」と仰っていらっしゃると、神通力を持って示すという万能の方である観世音菩薩がすぐにお聞き届けになって、菩薩は広く智恵や方便を修めて功徳を示すと説いていらっしゃる通り、どうして悪いことがありましょう、見たことのない二人の人がやって来て、一夜の宿をお借りになり、この機を一緒に巻かれました。この出来事を始めとして、しじらの母は不思議なことだなと思って、この女性をますます大事にすることはこの上ありません。
 しじらは、「この機が出来てから、母の気持ちがなごんでいらっしゃることが嬉しい。今までよりも心のどかに暮らせて、また暮らしの仕事をして、このところは苦労とは思わない。天竺の飢饉はあまりにひどい状況だけれども、我々が心のどかでいることが嬉しい」と言い、母の足をしじらの額に置いて寝かせ申し上げました。
 その時、しじらの隣に寝ている女性がしじらに、「どうしてお泣きになるのですか」とお尋ねになりますと、「母上が太っていらっしゃった若い頃は、母上の足を額に寝かせ申し上げると、重くていらっしゃったのに、もうお年も取られて、次第に身も細くなられ、格別に軽くなられました.ので、泣くよりほかはありません」と答えますので、女性はこれをお聞きになって、「まことに見上げたしじらの心です。どんな仏様のお恵みもどうしてないことがありましょう。これほど親孝行な人は、まことに珍しいことです」と仰って、孝行の物語を始められました。
 女性は、「たとえば、越の国の鳥は故郷に近い南の枝に巣を掛ける、そういう鳥も親が大事に育ててくれたことを思い、巣から追い立てられて、一緒に飛び立つとき、四鳥の別れと言って、母と子の別れは、それまで味わったことのない迷いの心を持ちながら、雲に隔てられるようにして離れていきますが、親孝行な鳥は、生まれた木の枝に百日の間、一日に一度ずつ来て羽を休めるのを母の鳥が、さてはこれが我が子だとして喜びます」と、すぐにしじらをお慰めになりました。「孝行な鳥が不思議なことは、猟師が何とかしてこの鳥を捕ってやろうと網を掛けても、つかまることはありません。特に、鷹や鷲にもつかまることはありません。ましてや、人間として生まれて、親に従わない人は、この世では禍を受け、七つの難や過ちに遭って、その人の思うようにはならないのです。親孝行の人には、天から福が与えられ、七つの難はすぐさま消え、七つの福がすぐさま生まれると言って、願うことは皆その日のうちにかない、人々から慈しみ愛されて、この世では自然と、上を目指して悟りを求める道に進み、安らかで穏やかな楽しい気を受けて、極楽浄土の蓮の台(うてな)を指して、東方の薬師浄土、西方の阿弥陀浄土で、諸仏の上の浄土にもとづいて、自然に神通力を現し示す身となって、『かの観世音を念ずれば』と唱えるという浄らかな身となることは、疑いありません」とお語りになります。
 女性の息の匂いは、この世ではない良い香りで、それが、夜昼の区別なくいつも広がって満ちています。さあ、機織りをしようと、女性がしじらに、「この家は布を織るのには狭くて、これでは織れないでしょう。そばに機を織る建物を造ってください」と仰います。しじらは急に皮付きの丸太を使って、機を織る建物を作って差し上げました。
 そのときに、女性が、「機を織っている間、決してこちらへ人を入れてはいけません」と仰いましたので、しじらは「わかりました」と言って、母にもこのことを語りました。その夕暮れに、若い女性が一人、どこからともなく、しじらの家へと宿を借りにおいでになりました。しじらの女房になった女性は、すぐさまこの機を織る建物を貸しました。しじらの母が、「この建物には人を入れるなと仰ったのに、どうして宿をお貸しになったのか」と仰いますと、女性は、「この人は構わないのです」と仰って、二人で機を織られる音は珍しいものでした。
 妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五の菩薩様が、玉の様に美しい機を織られます。実に、法華経の一の巻から八の巻に至るまでの二十八品をことごとく織り入れなさる御声が、耳に聞こえてありがたく、昼夜の弁えもなく、十二か月の間に織り出しになりました。女性が、「今織り出しました」と仰って、布を厚さ六寸ほど、広さ二尺四方の碁盤のように畳んで、しじらに、「明日摩訶陀国の鹿野苑の市に持って行って売ってください」と仰いますので、しじらは、「代金はいくらぐらいと言いましょうか」と尋ねます。「代金は金銭三千貫にお売りください」と仰いますので、しじらは、「ああ、信じられません、最近売り買いする布の値段は、世間の常識として安い値段ですが、これはあまりに高価過ぎます」と、おかしそうに言いますと、女性は、「これはただ世の中の普通の布ではございません。私たちが織った布は、きっと鹿野苑の市で判る人があるでしょう。代金はあなたが決めてはいけません。さあさあ、市に人が集まるでしょう。お出でなさい」と仰いますので、しじらは布を持って鹿野苑の市へ行くと、「これはどんな値打ちのある物なのですか」と笑う者もあり、またはうさんくさそうに見る人もあって、一日持って回りましたが、手に取って見るだけの人も一人としていませんでした。

 しじらは、やはりな、知らないことをして、こんな物を市に持って来て人に笑われるはめになったのは口惜しいことだ、と思って布を持って帰ろうとして、途中で年は六十歳を過ぎ、鬢も鬚も白く、姿が人に優った老人が葦毛の馬に乗って、三十三人の供を連れているのに出会いました。この馬に乗られた老人が、「そなたはどちらの者じゃ」とお尋ねになりますので、しじらは、「私はしじらと申す者でございますが、鹿野苑へ布を売りに出かけましたが、買い手がなくて持ち帰ります」と言います。「そなたのことは聞き知っている。その布を見よう」と仰いますので、馬の上へ差し上げました。
 三十三人の供の人達がこの布を広げると、長さ三十三尋あります。「これは珍しい布であるな。わしが買おう、代はいくらだ」と仰いますので、しじらが「金銭三千貫でお売りいたします」と言います。すると老人は、「なんと安い布だ」と仰って、「それでは私の家へ持って来なさい」ということで、しじらをお招きになって、そこから南の方を指して行きます。高い軒が広がる雲にそびえる門があります。見ると、瑪瑙の土台に、水晶の珠を柱として、瑠璃の垂木があり、その上に硨磲瑪瑙を屋根として、驚いて目を見張るほどの立派さです。
 門の中へ入って見ると、この世ではないような良い香りが漂って花が降り、音楽が天に満ち満ちて、心が若くなり、寿命も延びる気持ちがして、帰ることを忘れてしまいました。この馬に乗った老人は、馬を縁の端まで乗り付けて下り、建物の中に入って金銭三千貫を三人で持って出て来ました。ああ、こんな力の強い人もいるのだと、しじらは恐ろしく思いました。
 そこで、「今の布売りをこちらへ呼びなさい」と座敷へ呼び上げなさいました。しじらは足を震わせ、心も乱れ、身の置き所がなく思っています。あまりに何度もお呼びになるので、階段を登り、広縁に上がります。心はまるで薄氷を踏むようにおどおどと上がります。そこで、老人が、「その七徳保寿の酒を飲ませなさい」と仰いますと、しじらは、もともと酒好きで、一杯飲んでみたところ、甘露の味わいにとても満ち満ちて、言い表せないほどの美酒です。いくらでも飲むことができますが、老人が仰るには、「七杯より多く飲んではいけない」ということなので、七杯飲ませました。
  ここで布の代の金銭三千貫をこちらからお送りしようということで、老人は恐ろしい様子の三人をお呼び出しになりました。この人たちは声聞身得度者、毘沙門身得度者、婆羅門身得度者と言います。この三人にお命じになられて、三千貫の金銭を一気にしじらの住まいへと届けましたので、その時しじらが、「これでお暇いたします」と申しますと、老人が、「今飲んだ七徳保寿の酒は、観音の浄土にある酒である。一杯飲めば千年の寿命が延びるのである。その上にその方は、七杯飲んだのだから、七千年の寿命を保つのである。これから後は物を食べなくても腹が減ることはなく、裸でいても寒くなくなったのである。これが、そなたが親孝行である証(あかし)である」と仰って、立ち上がられて、雲の上に乗っておいでになりました。すると、五色の光が差して、老人が南の天へと上ると思っていたら、しじらは家に着いていました。
 家に帰ったしじらが、女性にこの様子を語ろうとすると、しじらが何も言わない前に、女性はその時のありさまを少しも違うことなく語りましたので、しじらは、何と恐ろしいことか、この妻は人知を越えて悟る化け物だと思っていると、この妻が、「それでは、私たちはお別れいたします」と言いますので、しじらの母はこれを聞いて、「情けないことを仰るものですね。この度は、思いがけない素晴らしい人をしじらの妻としてお迎えして、しじらと二人でこの上なく嬉しく過ごしていましたのに、去ろうと仰ることは、ああ、なんとも情けないことです」と言いながら、天を仰いだり、地に転がって身悶えしたり、この上なくお嘆きになります。
 女性は、「これから長い間こちらにいられることならば、どのようなことも働き出して後日の形見にとお目に掛けて、それで過ぎた昔のことをお忘れになるようにとは存じますが、この短い間でありましたので、私たちがこの布を織り出して金銭三千貫に売ることしかできませんでした。ですが、いずれも同様であるとお思いになってください。この三千貫の金銭で一代を安楽にお過ごしになっていただくためなのです。このことは、何より、しじら様が親孝行である証なのです。私は南方補陀洛世界の観音様の浄土から、観音様のお使いとして参った者です。今は何をお隠ししましょう、私は観音様にお仕えする童男童女身という者です。しじら様が布を売りにお出でになった所は、南方補陀洛世界の観音様の浄土なのです。しじら様はこれから七千年の御寿命です。これは、七徳保寿の酒を七杯お飲みになったからです。これから後はますます豊かに富み栄えて、神仏のお守りがあるでしょう。あちらでお酒を召し上がられた時に三人お酌の役をいたしましたのは、私たちと共に観音様にお仕えする者で、名を声聞身得度者、毘沙門身得度者、婆羅門身得度者と申します。これも全くしじら様の親孝行の徳として観音様が憐れみなさっていることであるのは疑いがあありません。それではお暇いたします」と言って、しじらの家を出て、門口で別れを惜しむのは、親鳥が子鳥と別れる悲しみのように悲痛な様子でした。お名残惜しいと言いながら南の空へとお上りになっていくかと見ていたら、白雲にお乗りになって天上されていました。空中に音楽が響いて、この世ではない良い香りが四方に満ち広がり、花が降って、多くの菩薩がお迎えにお出でになりました。
 この間、しじらは、呆然と立っていましたが、どのように恋い慕っても二度と逢うことはできないことですので、女性との思いを断ち切りながら家へと帰りました。
 それから後しじらの家は富み栄えて発展して、母親を安楽に養いました。一方しじら自身は、自然に悟りを得て成仏するという縁に結ばれて仏の位置になり、七千年経った時に天にお上りになりました。その時、紫の雲が棚引いてこの世ではない良い香りが四方に満ち広がり、花が降り、不老不死となる風が吹いて、音楽が絶えず流れ、二十五の菩薩、三十三の童子二十八部衆、三千仏がみな鮮やかにお揃いになり、十六の天童、四天王、五大尊のみなみなも空中に一杯に並ばれました。
 これは全く親孝行の賜物です。今後とも、この物語草紙をご覧になって、親孝行でいらっしゃれば、しじらのように富み栄えて、現世来世を安楽に過ごせるようにとの願いは、すぐさま叶います。身にふりかかる七難は端から消え、何の不自由もなく、人々から温かく迎えられ、ますます栄えます。来世において、必ず成仏して悟りを得られることは疑いありません。とにかく親孝行をして、この物語草紙を人に読み聞かせなさい、読み聞かせなさいませ。

猿源氏草紙 福福亭とん平の意訳

猿源氏草紙

 少し昔のことでありましょうか、伊勢の国の阿漕が浦に、一人の鰯売りがいました。元は海老名六郎左衛門と言って、関東の侍でありました。妻に死に別れて、一人娘があったのを長年召し使っている猿源氏という男に嫁入らせて、そのまま鰯売りの職を譲って、自身は京都へと上り、法体になって海老名南阿弥陀仏と名乗って、遁世者として世に知られていました。大名や高家が、南阿弥陀仏を出入りの者としました。
 ある時、婿の鰯売りの猿源氏が上京して、京の町中を、「伊勢の国の阿漕が浦の猿源氏の鰯を買わないか、おーい」と言って鰯売りをしたところ、人々はこれを聞いて、妙な鰯売りだなと言って買ったものですから、猿源氏はすぐに裕福な身になりました。猿源氏が鰯を売ろうと五条橋を渡ったところ、網代を張った輿に出会いました。川風が強く吹いて輿のすだれをさっと吹き上げ、その隙間から輿に乗っている上品な女性の姿を一目見て恋に落ち、朝晩思い暮らして心も上の空になってしまい、一日中五条橋へと出かけて商売に身が入らず、病の床に伏して一首詠みましだ。
  わればかりもの思ふ人はまたもあらじ思へば水の下にもありけり
  (私ほど物思いに沈む人は他にいないと思ったら、水鏡に私の顔が映っていて、水の下にも、もう一人いたよ)
という古い恋歌などをを思い出して、
  命あらばまたもやめぐり見もやせん結ぶの神のあらぬ限りは
  (生きていれば、また巡り会うこともあるだろう、この世に結ぶの神がいる限りは)
と詠んで、見ていられないほど恋い慕う様子は、命も危うく見えるほどでありました。
 舅の南阿弥陀仏は、猿源氏がこのように恋煩いをしているとお聞きになって、猿源氏の家へ行き、様子をご覧になって、「およそ病というのは、冷えか熱の二つの原因から起こって五体を苦しめるのに、その方の様子は何が原因なのか判らず、ただ何かを深く思い込んでいるように見える。気持ちをしっかりと養生しなさい」と、懇切に仰るので、猿源氏は、この人の知恵は世の人よりはるかに優れている、自分の恋を語ったら良い才覚があるだろうと思って、「こんなお話をするのも、舅殿との間ではお恥ずかしいことでございますが、話さずに死んでは、迷いの種となってしまいますので、恥ずかしながら申し上げます。私は、はからずも恋という病に冒されてしまいました。先日、鰯を担いで五条橋を通りましたところ、網代を張った輿に出会いましたが、輿の内に乗った上品な女性を一目見てから、その面影が忘れられず、ふとしたところからこのようになりました」と、恥も忘れて話したところ、南阿弥は高らかにお笑いになって、「鰯売りが恋をしたという話は今まで聞いたことがない。決して決して、人にもらすではないぞ」と仰いました。
 猿源氏は、「これはあなたのお言葉とも思えません。魚売りが恋をした例は、近江の国の堅田の浦の男が、鮒を都で売りに来て、ある時、内裏へ鮒を持って行ったところ、ちょうど、今出川の局という内裏勤めの女房を一目見て、美しさに呆然となって、思いが深くなって、同僚の女房たちを頼んで、『こんなにいやしい身分の者にとっては憚り多い申し状でございますが、この魚を今出川様に差し上げますので、焼いてお召し上がりいただけますれば、この上なく有り難く存じます』と言うと、身分の低い者にしては、雅な気持ちであるとして、その鮒を焼いて差し上げたところ、鮒の腹の中から、恋心を綿々と書いた手紙が出てきました。今出川の君はこの手紙をご覧になって、魚売りの気持ちに同情され、もったいなくも御所を辞して、その魚売りと夫婦になられたということです。そこで、その気持ちを、ある人の歌に、
  古は(いにしへ)いともかしこき堅田鮒包み焼きたる中の玉(たま)章(づさ)
  (昔は、とても恐れ多いこと、包み焼きにした堅田の鮒の腹の中の手紙よ)
と詠んだのも、魚をめぐってのことではないですか」と言ったを、南阿弥がお聞きになって、「さてさて、お前は、昔の例を言うものだな。しかし、それは相手の女性の全身の姿を見ての恋で、一目見ただけの恋は、何とも頼りない話だ」と仰います。
 猿源氏は、「一目見て恋をした例は、私に限ったことではありません。源氏の大将は、女三の宮を愛されましたが、しばらくして、気持ちがなくなって、葵の上にお心を移されました。源氏は何を思われたのか、ある夕暮れに宮の車をお招きになって、蹴鞠をなさいました。最後の客人として、柏木の衛門督がおいでになりました。女三の宮は縁近い御簾の所で蹴鞠をご覧になっていましたが、その頃にかわいがって朱の綱でつないでいた猫が、その時に縁側に駆け出ようとしたために、その猫の綱で御簾が上がり、その間から柏木が女三の宮を一目ご覧になりました。それから、柏木の衛門督の心は夢中になって、ちょっとした伝手で手紙を差し上げたところ、女三の宮からの返事があって、それから後は二人の気持ちが深まり、とうとう、御子までご誕生になりました。源氏は、この御子をご覧になって、
  たが世にか種をまきしと人問はばいかが岩間の松は答へん
  (いつの世に種を蒔いたのだと人が尋ねたら、岩間の松は何と答えるのだろうか)
とお詠みになり、その後はもうお通いになることもなくなりましたので、女三の宮は出家なさいました。柏木の衛門督は気鬱になって、すぐに亡くなられましたと、『源氏物語』にあります。
 その話だけではございません。ある年、難波入江に橋の落成供養がありました時に、渡辺左衛門盛遠は、当時の供養の奉行で、その折に身分の高い人も低い人も大勢集まってその供養を聴聞している中に、苫で屋根を葺いた舟が一艘、供養の場の近くに漕ぎ寄せて聞いていましたが、その時、海風が強く吹いて簾を吹き上げたその間から、御簾の中の高貴な女性を一目見ました。それから盛遠はかの女性に恋をして、都へ帰ることもせず、それからすぐに男山、すなわち石清水八幡へと参詣して、『難波の浦で見て恋心を抱いた方の行衛を知らせて下さいませ』と懇ろに祈りますと、有り難いことに八幡様は盛遠の夢枕にお立ちになって、『そなたが恋い慕う女性は、鳥羽の尼御前という人の娘の、天女という者で、今は渡辺左衛門の妻となっている』とお教えになり、盛遠は目が覚めました。
 その後、盛遠は、鳥羽の尼御前の家の門口に毎日寝ていましたので、尼御前は盛遠をご覧になって、『あなたは、どちらからおいでになったどのような人で、どうして私の門前に寝ているのですか』とお尋ねになります。盛遠は、苦しげに息をつきながら、『有り体に申し上げましょう。まことにお恥ずかしいことを申し上げますが、申し上げずに命が絶えたなら往生の妨げにもなりましょうから、申し上げます。先日、難波の橋の落慶供養のありました時に、あなた様のお娘御の天女様のお姿を一目拝見して以来、天女様の俤が忘れられず、このようになってしまいました。せめてこのお宅の門口でお待ちすれば、天女様のお姿を拝見することができようかと存じまして」と話し、さらに、「万一私が身罷りましたら、天女様にこのように慕って死んだとお伝えください』と語りましたので、尼御前はこの盛遠の言葉をお聞きになって、なんとまああきれたこと、我が子にこの思いを伝えれば、貞女の道に背く、またこの男が死んでしまえば、長く怨みを残させることになるであろう、どうしたらよかろうかと心を痛めて悩まれました。そこで、何としても、人の命を失わせることは、仏様が格別にしてはならないと戒められていることであるよ。死んだなら、二度と戻れない遠い黄泉路である。人を助けるのは菩薩の行いであるとお思いになって、尼御前は娘の天女のもとへ風邪を引いたと知らせますと、天女はこの知らせを受けて、早速輿を急がせて尼御前の元へ参上しましたので、尼御前は、急いで盛遠を一間の内に隠れさせ、天女を同じ部屋へとお入れになりました。
 天女が同じ部屋に入ってきましたので、盛遠は、夢のような気持ちで、橋供養以来の恋心を細々と語り口説きます。天女は盛遠の言葉をお聞きになり、これは何と言うこと、私は夕顔の上に置く露が消えるように消えてしまおうとお思いになりましたが、また思い返し、しばし考えてみよう、お母様の言いつけに従えば貞女の法に背くことになる、またお母様の思いに背いたなら、親不孝をすることになる、ここはうまく偽って切り抜けようとお思いになり、『さてさて盛遠様、お聞きください。真実私にお気持ちがおありなら、私の夫の左衛門を殺してください。その後ならば、あなたと夫婦の契りを結びましょう。いますぐここでかりそめの契りを結んでは後悔することになるでしょう。夫左衛門をそのままにして、夫がいながら、あなたに心を寄せるならば、貞女としての道に背きます。夫左衛門を殺してくださった後には、心穏やかにあまたと結ばれましょう』と、細々と語りますと、その言葉を聞いて盛遠は喜んで、『それでは、左衛門を討ち取れば私に心を寄せてくださるとか、左衛門を討つのは簡単なことですが、しかし、どうやって討ち取ったらよいでしょうか』と言います。そこで天女の仰せには、『夫に酒をたくさん飲ませで、酔って寝たところを寝所に忍び込んでお討ちなさい』と約束をして、天女は家へ帰りました。
 家に帰った天女は不安に思って、『あなたといつまで添っていられるのでしょうか』というようなことを夫の左衛門に語りましたので、夫は何となく落ち着かない思いで、『尼御前の風邪のご様子はどうだったのですか。五月雨が降り続いて、ホトトギスが不吉な声で鳴く時期は、誰でもそのように寂しく心細くなるものです。さあさあ楽しくやりましょう』と酒の肴をあれこれと揃えさせて、盃の遣り取りをして、夜も更けたので、二人仲良く共寝をいたしました。夫左衛門はすっかり酔って、ぐっすり寝ています。
 その時天女はそっと起きて、夫が着ていた小袖を取り上げて着て、夫の姿になって横になりました。盛遠は、天女と約束をした通りに宵のころから忍び込んで、寝所を見やると、明かりをかすかに灯すと、左衛門らしい者がぐっすり寝ています。盛遠は腰に差した刀を抜いて、確かに首を打ち落としたと思って、そっと家へと帰りました。さて、左衛門は、目覚めて隣を見れば、一緒に寝ていたはずの妻の天女の姿がありません。妙だなと思いながらいつもの寝所へ行ってみると、天女は血まみれで空しい姿で横たわっていました。左衛門はとても悲しく、遺骸に抱きついて『さてさて、この者は天女なのか。誰の企てか少しでも知っていたなら、このような悲しく辛い目には遭わせなかったものを。これは夢ではなかろうか』と、天女を思って悲しみの涙があふれて止まりません。
 盛遠は、天女が死んだということを聞いてすぐ、これは不思議なことだ、左衛門を討ち取ったのに、天女が討たれたというのは不思議だ、ひょっとして天罰が当たって天女を殺したのかも知れないと思って、左衛門の屋敷へ行ってみると、亡くなったのは間違いなく天女でした。盛遠は、天女にだまされたことを口惜しく思い、腹を切ろうと思いましたが、思い直して、夫の左衛門の心中はまことに気の毒だ、どうせ死ぬしかない命、左衛門の手にかかって死のうと思い至りました。盛遠は天女の首を持って左衛門の屋敷に行き、『これ左衛門殿、落ち着いてお聞きください。私めが天女様を手に掛けて殺しました。その訳は、以前、難波の橋の供養の時に天女様のお姿を一目見た時から恋のとりこになってしまい、その後、不思議な縁があってお会いして、私めから、たった一度、願いをかなえてください。願いが叶わなければ、あなたのために命は惜しくありません、ここで死んでしまいましょうと申すと、天女様が、あなたの仰せに従えば貞女の道に背きます。また、だめですと申し上げればあなたの怨念が遺ることになり、あなたはもう死んでしまおうと仰るので、ほかの考えはございません。考え至るところは一つです。現在夫がある身であなたに心を寄せるのはいけないことです。それほどに私に心をお寄せになっているのなら、夫の左衛門を殺してください。その後はあなたと深く夫婦の契りを結びましょうと仰せになりました。私めはその言葉を真心から出たものと思って、あなたを討つと存じてこのように天女様に騙されたことが残念です。すぐさま私めの首をお打ちになって、天女様の御供養にもされ、またあなた様の怒りの炎を鎮めてください』と言って首を差し出して待っていますと、左衛門はあまりの無念さに、まさに盛遠を討とうとしましたが、刀を振り上げた途中で思い留まり、『これ、盛遠殿、あなたを討ったとしても、天女がよみ返ってくるものでもなく、もはや、あの世に行ってしまった女であるから、その私が菩提を弔わなければ、誰が弔うでしょうか、あなたの命はお助けいたしましょう』と、抜いた刀で髷を切って、すぐさま僧の姿になって天女の菩提を弔いました。
 盛遠もすぐさまその場で髷を切り、天女の菩提を弔おうと同じく僧の姿になりました。この時盛遠は十九歳、左衛門は二十歳でもんしょうと名乗り、盛遠は文覚と言って、世に隠れない善知識になられました。これはつまり、一目見た恋のためでございましょう」と申しましたところ、南阿弥は、この猿源氏の申し状をお聞きになって、「お前さんは、いったいどこの人が言ったことを聞いて、そのような譬え話を言うのですか。その話は全部、その相手がどこの誰と判っての恋です。あなたの恋は、相手の身元も判らず、その家も判らない、五条橋でほんの少しすれ違う時に、御簾の隙間からちらりと見ただけの人を、あてもなく探すような恋をするものだなあ」と仰ると、猿源氏が言うには、「人に尋ねてみましたら、五条東洞院の地においでの蛍火という女性であるということです」ということで、南阿弥はこれを聞いて、「その人こそ、京の都中に隠れもない蛍火という遊女で、日が暮れると光り輝く女性なので蛍火という名が付いた。蛍火とは、光る蛍に燃える火と書くのだ。公家や位の高い寺院ゆかりのお嬢様ならば、いろいろ手段もあるのだけれども、これは高貴な客を相手にする立場の遊女だから、大名や身分の高い家柄以外は相手にしない、お前さんは都中を歩いて知られている評判の鰯売りだから、どうしたら会わせることができるかなあ、いっそのこと、大名の真似をしてしまいなさい」と仰いました。

 そこで猿源氏はその言葉を聞いて、「私めも、以前からそのように思っておりました」と申します。南阿弥が、「武衛(斯波)、細川、畠山、一色、赤松、土岐、佐々木といった大名を始め、畿内や禁獄の大名はみな普段から顔を知られているのでなりすましにくい。関東の侍である宇都宮弾正殿はまだ都上りをしたことがなく、しかも、近々上京されるということを聞いているので、幸いだ。宇都宮殿になりすましてみなさい」と仰るので、猿源氏は「私もそのように存じます。というのは、宇都宮様の家来に親類がいますので、あの殿様の普段の立ち居振る舞いを詳しく聞き知っております」と申します。そこで南阿弥は「それで万事準備が調った。とはいうものの、宇都宮は大名家だから、家来、小姓、同朋、下役、中間に至るまで、お付きの人々がいないと形が整わない」と仰ると、猿源氏は「そのことはご安心なさってください。鰯売り仲間が二、三百人もおりますので、彼らをその役に仕立て上げて、侍にも小者にもいたしましょう。私の東隣の家の六郎左衛門という人は、人柄の良い人ですから、これをまとめ役にいたしましょう」と申しましたので、南阿弥は、「それが良い」と仰いました。
 その後、猿源氏は、始めに五条に行って、「宇都宮様は、京上りとして、近江の国の鏡の宿、守山の宿に宿をお取りになられた」と噂を流させましたので、京中の遊女達が、宇都宮様は大名なので、必ずおいでがあるだろうと、座敷をきらびやかにして心待ちしていました。その後、さらに二三日過ぎて、猿源氏が五条の辺りで、「宇都宮様は早くも京にお入りになって、もう今朝には、将軍様に参った」と噂を立てさせてました。
 南阿弥が先に蛍火の遊女宿へ行きますと、宿の主は「お久しぶり、どうして長いことおいでにならなかったのですか。近ごろはどちらへお通いですか。こちらにおいでになるのは、きっとお門違いではないですか」と冗談口を叩きながら、すぐに若い女性を十人ほど座敷へ出して、酒の支度をして、主が、「宇都宮様が御上京という噂がありますが、本当のことでしょうか、どうです」と尋ねると、南阿弥は、「おう、それそれ、私も関東でお目に掛かった方ですので、必ず私方へもお出でになるでしょう。上京は間違いないことですから、おいでになったら、私が対面して、『かねてひそかに御上京のことを承っておりましたので、お宿のご用意をと申しつけておきましたから、こちらへおいでください』とこの家へご案内しましょうから、その用意をしておいて下さい。座敷などの屋敷内の掃除はもちろんですが、ご一行は大勢でいらっしゃるから、お供の小姓、若侍、道具持ちなど、家来衆がみな泊まれる部屋など、仮拵えであってもお建てなさい。座敷飾りもあれこれとご用意なさって、御馳走も十分に上等な品を揃えてください。お相手はどの方々でしょうか」と仰います。この言葉を聞いて、亭主は、「南阿弥様が仰せなら、どのようにもでもいたします。女達は誰がよろしいか、どうせのことなら、南阿弥様がお見立てくだされ」と言って、女性を三十人ほど並ばせて南阿弥に見せましたので、南阿弥はこの女性達を見て、皆々美しい人々でしたが、その中から十人を選びました。この時に門の傍らを見ると、二十二、三歳くらいの男が、梨地蒔絵の鞍を置いた月毛の馬に乗り、白木の弓を握って腰から蟇目の矢をつがえて犬を追いかけて行き、馬を引き返すところでした。南阿弥がこの男を見てすぐさま、「宇都宮様と拝見しました」と言いながら、外へ走り出て見ると、話をしていた宇都宮様当人でありました。南阿弥は「これはこれは、宇都宮様とお見かけいたしました。亭主がお待ち申し上げておりますので、まずまずお寄りください」と言いながら若者の鎧にすがりつきますと、宇都宮は馬からゆっくりと下りて、「仰る通り、かねてからそちらへ伺おうとは存じておりましたが、何かにとりまぎれ、とりわけどのように出仕したらよろしいかを相談しようと存じておりました。そのところへ至急参れとのお言葉があり、二三日前に上京いたしました。ご無沙汰いたしましたことをお許しください。近々お宅へとお伺いして、ご挨拶申し上げます」と言って馬を引き寄せて乗ろうとするところに、この店の蛍火、薄雲、春雨、その他の遊女十人ほどが出て来て、「まあまあこれは何としたこと、あなた様がこの家の前を通りながら、つれなく通り過ぎようとなさるのですか」と言って、この宇都宮の袖にすがって、座敷へと引き入れます。宇都宮は、不本意な様子で座敷に入りました。こうして座敷に導かれた宇都宮は、なんとまあ恥ずかしい、照れくさい、自分は京の今日の町中を鰯を売って歩いていたのに、それに引き換えて今の有様はどうであろうと思うにつけても、南阿弥がどう思っているのだろうと考えるだけできまりが悪くなります。
 さてその間に、この家の亭主は物陰から宇都宮の様子をじっくりと見て、なんと、宇都宮はひなびた地方の武士であるのに、姿形振る舞いはしっかりした人だなと感心しました。そこで亭主は、美しい蒔絵の盤の上に伽羅の盃を載せて持って来て、「さあ、宇都宮様、盃一つお召し上がりになって、あなた様のお好みの者へ盃をお指しくださいませ」と言います。宇都宮はこの盃になみなみと受けて、心の中に、私を一筋に思い焦がれさせた蛍火とかいう女性はどの女だろうかと見回しますが、どの女性も同じように美女揃いなので、ああ、誰が蛍火かわからない、こんなに蛍火が多くいるのだから、必ず蛍火と違う女性に盃を指してしまうだろう。間違えたなら、笑われてしまうのは残念だとますます心が乱れました。一人一人を何度も見回していて、女性の中で一番ゆったりと落ち着いている女性に盃を差し出すと、それが蛍火でありました。蛍火は。面白がって、「ありがたい盃を差されました」と、その盃を受け取って、猿源氏と何度も盃の遣り取りをいたしました。残った遊女たちはこれを見て、ああ、うらやましい蛍火さん、これからついでの盃を受けても何にもならないと、その場を立ち去る遊女もあり、また、その場に残って座敷を盛り上げる遊女もありました。盃の遣り取りをしている時に、南阿弥が「これ申し、宇都宮様、京の町中は、日が暮れると、何が起こるか分かりません。今日のところはひとまずお宿へお帰りください。明日また必ずお出でくださいませ」と言います。宇都宮は、「今日はとても格別に酒をたくさん飲んで、立ちぞびれてしまった。それでは皆さん、ごきげんよう、さらば」と言って、宿へと帰りました。
 南阿弥は宇都宮こと猿源氏の宿へすぐにやって来て、「さてさて、今日の宇都宮はよくも化けたものだ。とはいうものの、夕方になると蛍火が尋ねてくるだろう。座敷の模様をすべて大名の座敷のようにしつらえて来るのを待ちなさい。また、使っている者たちに、酔った紛れに『俺も鰯を売り損なった』『わしも今日は元手を損した』などと言わせては、恥をかくことになる。また、寝言を言って、身分の低い者の様子をすると、身元が知れて興ざめになってしまうぞ」などと、懇切丁寧に教えて、南阿弥は自分の家へ帰りました。思った通り、蛍火は黄昏時に、「宇都宮殿のお宿はこちらかえ」と訪ねて来ましたので、出迎えてもてなしました。蛍火は、なんとまあ不思議なこと、宇都宮は大名と聞いていたのに、それに違って、家来や一族の者も侍らずに、ただ一人座敷に出て、すべて町人の様子で、家の中にいる者たちは大声を出して、上下の弁えがないのは妙だなと思いました。そのため、すぐに寝つかずに、あれこれと考えている時に、宇都宮が酒に酔って、寝床の中で手足を伸ばし大あくびをして寝言で、「阿漕が浦の猿源氏の鰯を買わんかね、おーい」と言いましたので、蛍火は、これを聞いて、やはりそうか、最初から何か妙だと見えたのに違わず、鰯売り風情の座敷に出たことの悲しさよ、さてこのことで、我が身はどうなり果てて行くのであろう。このことは隠すことができないから、客とあれば鰯売り風情をも客としてとるという心の卑しさ、生臭い女よと、もう座敷に呼んでくれる方もいなくなるであろうから、髪を下ろして尼となって、これからどこかへと足の向くままに行ってしまおうと思いながらさめざめと泣いている涙が、宇都宮の顔に落ちたので、宇都宮は雨が降ってきたと思って、「やれやれ、雨が降ってきたようだ。若い者どもよ、苫を掛けろ」と言うやいなや、起き上がって周りを見回すと、光り輝く美貌の女性が、さめざめと泣いています。ああ恥ずかしい、しまった、間違いなく寝言を言ってしまったのだと思って、「今、余りに飲み過ぎて、正気を無くして酔って寝て、何を言ったか存じません。あなたはどうしておやすみにならないのですか」と言います。蛍火はこの宇都宮の言葉を聞いて、「何を仰せになりますか。あなたは鰯売りでいらっしゃいます。何と言っても、恨めしいのは、あの南阿弥じゃ」と言います。すると、宇都宮は、「私は、宇都宮弾正とは申しましたが、鰯売りという名は存じません。今初めて伺いました」と言います。蛍火は、一度に全部を言ってしまうと恥をかかせることになるであろうと思って、一つずつ問いかけます。「まず最初に、阿漕が浦という寝言はどういうことですか」と言いますと、宇都宮は、「そのことでございます。私の上洛はこの度が初めてのことでございますので、恐れ多くも将軍様からのお言葉で、『何としても宇都宮をいたわるように。犬追物、笠懸、鹿射、丸的という弓の遊びは珍しくないであろう、今の人々が楽しんでいるのは、詩歌連歌の道である。宇都宮は、格別歌道を好むと聞いている、歌にいたせ』と仰せがありましたので、佐々木四郎、榛谷四郎左衛門が仰せを承って、天下の歌の宗匠へと連絡が行き、人々が一座しようと集まられました。執筆の役は徳大寺様の十三歳になられる弟御で、青蓮院様のお弟子で、書の見事さは世間の人をはるかに越えていらっしゃいます。すでに将軍様が発句をお出しになっていらっしゃるので、それから各々の方から次々にお詠みになり、一座を一回り過ぎた時に、
  暇(いとま)あらずも塩木とる浦
  (暇もなく塩焼きにする木をとる浦)
という句がありましたので、
  塩木とる阿漕が浦に引く網も度(たび)重なればあらはれぞする
  (塩木をとる禁漁の阿漕が浦で何度も網を引くと露顕するように、悪事も度重なれば露顕   するものだ)
という歌の意味を含んで付けようと、何度も思い返し思い返ししているので、『阿漕』という寝言も言ってしまったのでしょう」と言い訳をいたしますと、蛍火が「それだけでなく、『はし』という寝言は何なのですか」と訊きます。猿源氏は、「そのことでございます。
  渡りかねたるかくれがの橋(かくれがの橋を渡るのにためらったよ)
という句がありましたのに対して、ある歌に、
  陸奥(みちのく)のささやきの橋中絶えてふみだに今は通はざりけり
  (みちのくのささやきの橋の中が外れて通れなくなっているように、二人の仲も絶えてしまって、今は手紙さえも送らなくなったよ)
  熊野なる音無川に渡さばやささやきの橋しのびしのびに
  (熊野にある音無川に、ささやきの橋をそっと渡したい。そのように、何の連絡もない人に、そっとささやきを届けたい)
とありますので、この二首のうち一首の心を汲み取って付けたいと思いましたが、いやいや、これは都の上手な歌詠みの方の付け方で珍しくありません。ここに、和泉式部という女性に、藤原保昌(ほうしょう)という人がお通いになって、深く契りを結んでいましたが、そこに道命(どうみょう)法師という人が通って、契りを結びました。保昌はこのことを聞いて、和泉式部に、『私が言う通りに手紙を書きなさい』と言ったところ、和泉式部は、『どんな手紙を書けと仰るのですか』と答えます。保昌が、『保昌も、最近は通って参りません。あなたは急いでおいでください。道命法師様へ、和泉式部より、と書きなさい』と言いますので、和泉式部は赤い顔をして、『これは、思いがけないことを仰るものですね』と言いましたが、致し方なく手紙を書かれましたが、どんな隙(すき)を見つけたのか、箸を五つに折って、手紙に添えて送りました。道命法師はこの手紙を見て、『不思議だな、今すぐ来いとお書きになっているけれど、箸を五つに折って添えてあることは不思議だ。ある歌に、
  やるはしをまことばししてきばししてうたればししてくやみばしすな
  (送った文面を真実のことだと思ってやって来て、ひどい目にあって悔やまないでくださいよ)
と詠まれている。きっとこの意味を含んでいるのであろう。さては、保昌が和泉式部の所においでになっていて、このような手紙になったのだろう』と悟って行きませんでした。命の危険を逃れられたのも、道命が和歌の道を心得ていたためであります。この歌の心持ちで、思い至ることを、この意味でこれまでに知らないような形で付けてみようと思って、あれこれと思いを巡らせていたので、『はし』という寝言も言うことでしょう」と言います。
 蛍火は、「それもそうでしょう。『猿源氏』という寝言は何ですか」と訊きます。宇都宮は、「そのようなことも申しますでしょう。先日、中のきさき様に参上しましたら、神祇、釈教、恋、無常、述懐、懐旧に至るまであれこれと和歌の心に気を配っていた時に、
  怨みわびたる猿沢の池
  (恨んで悲しく思う猿沢の池)
という句があります。これは、昔、ある天皇様の御代に、天皇様が采(うね)女(め)という女性に深く契られたのに、間もなく気が変わってお捨てなさったのを采女が恨んで、夜の闇にまぎれて宮中を出て、猿沢の池に身を投げて死んでしまったので、天皇様はとても悲しくお思いになり、急いで猿沢の池へとおいでになって、すぐさま采女の遺骸を探し出して引き上げさせてご覧になると、あれほど美しかった緑の黒髪も、美しくあでやかだった鬢も、三日月のような細い眉も、やさしかった姿が、池の藻が取り付いて全く変わってしまった姿でした。この姿をご覧になって、天皇様はもったいないことに、
  わぎ妹子(もこ)が寝乱れ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき
  (親しいあなた、共寝をした時に見た寝乱れた髪を、猿沢の池の美しい藻として見るのが悲しいよ)
と、采女の亡くなったことを弔う歌をお詠みになりました。あの言葉は、この歌の心を真似たものです。その後、光源氏が、春日大明神へお参りになった時に、猿沢の池をご覧になって、昔の采女がこの池に身を投げたことを思い出されて、当座の和歌会を催して采女を弔われ、その折に、誰かは判りませんが、
  猿沢の池の柳やわぎ妹子が寝乱れ髪のかたみなるらん
  (猿沢の池のほとりの柳は、私のいとしいあの方の寝乱れ髪の形見であろうか)
と詠みましたその歌の意味を心に思って考えていましたので、『猿源氏』などという寝言を言ってしまったのでしょう。ああ、面倒な、早くお休みなさい」と言いました。
 蛍火がまた、「それだけではなく、『鰯買いなよ、おーい』と言った寝言は、どう言い訳をなさるのですか」と言いながら、おかしくなってからからと高く笑うと、その時さすがに、宇都宮は顔を赤くして、もはや鰯売りと決めつけられようとしましたが、心を静めて言います。「そのような寝言も言ったかも知れません。連歌の会で、だんだんと果ての名残の折の裏へと返すと思われるところに、
  男山何を祈りの石清水
  (男山の石清水八幡に何を祈って言うのであろう)
という句がありました。これに人々が言い古したような句を付けるのはおもしろくありません。先程もお話をしました和泉式部が、鰯という魚を食べているところに、保昌が来たので、和泉式部は恥ずかしく思って慌てて鰯を隠したので、保昌はこれを見て、鰯とは思わずに、道命法師からの手紙を隠したと思って、『何をそんなにお隠しになるのですか、気がかりです』と言って、強く問い詰めると、和泉式部が、
  日の本にいははれ給ふ石清水参らぬ人はあらじとぞ思ふ
  (わが国の人々から尊崇されている石清水八幡にお参りしない人はいないと思いま     す。この国で鰯を召し上がらない人はいないでしょう)
と詠んだので、保昌はこの歌を聞いて、機嫌を直して、『肌を温め、特に女性の顔色を良くする薬の魚であるのに、食べたのをとがめてしまった』と言って、ますます二人の仲は深くなったということです。ですから、この意味は珍しいだろうと思いを巡らして考え込んでいましたので、『鰯』という寝言も言ったのでしょう。ああ、面倒なとがめ立てです。もう、どんなにお尋ねになっても、ご返事はいたしますまい」と言いますと、その時、蛍火は、この男が本当の鰯売りならば、このようにさまざまの和歌の道の話を知ってはいないだろう、まことに宇都宮は今般初めて上京したのであるから、御所の中の言葉での交際はあまりに大変で、多くの思いが心の中に積もっているから、それが外に現れてこのように寝言を言うのだろう、それも道理だと思い直して、互いに心を許して、長く夫婦として添い遂げようとの語らいをいたしました。
 このように蛍火と結ばれるようになったというのも、猿源氏が南阿弥に使われながら、いつも歌道に心を付けて学んでいたためで、当座の恥を隠せただけでなく、普通ではとても相手にされないような相手との恋を成就することができたのも、すべていろいろなことを知っている効用であります。ですから、孔子が「蔵の中にある財物は朽ちてしまうことがある。身の内の知識という財は朽ちることがない」と申されたことの意味は、今こそ思い知られることであります。さて、宇都宮に化けた猿源氏はその後、鰯売りであるということを明かしましたが、身分の高い者も低い者も、、恋の道には変わりがありませんので、猿源氏と蛍火は、前世からの深い縁であるとして、伊勢の国阿漕が浦へ一緒に下って行って、富み栄えて、子孫も繁昌いたしましたのも、二人のお互いへの気持ちが深かったからで、また、歌の道への志が浅くなかったからでありますから、人それぞれに学ばれるべきことは、歌の道でありますと、くれぐれも申し上げます。