七草草子 福福亭とん平の意訳

七草草子  全
 さて、世の中で、天子様の御志ほど有り難いことはございません。と申しますのは、まず第一に、陽気の盛んになる春の始めには、国の全体から国の民の一人一人に至るまで不自由がなく、一年中天災も人災も無く平穏無事であるようにと、天子様おん自ら祈られます。新年始めの四方拝から、大晦日の災厄を祓う追儺まで、全ての行事は皆、国の人々のためでないということがございません。
 その中でも、正月七日に野に出て、若菜を摘んでこれを七草と名付けて、天子様から一般の人に至るまでこれを祝いの膳として、あれこれの病気の予防をすることがあります。その七草の行事の由来についていろいろと説がありますが、その中に、
 昔、中国の楚の国に大祥という者がいました。その両親は、もはや百歳になっていました。腰は弓のように曲がり、顔には皺がたくさん寄り、髪は乱れて、雪が積もったようになっていました。そのため、日々の立ち居振る舞いも不自由になりましたので、大祥はこの両親の様子をしみじみと見て思うことには、なんともお気の毒なご様子だなあ、これほどまでにお年寄られて不自由では、今すぐにも思うに任せないお別れをして嘆くことになるであろうかと、いつも悲しく思い続けていました。
 大祥は、ああ、ここで、両親の昔のような若い姿を見たいものだなあと、天に頼み、神に祈って訴えていまして、大祥は常に両親の傍を離れることがなく、両親が遥かな山への散策をなさりたい時には、自身で背負って出掛け、春は花の咲いている場所へと行き、軒端に鳴く老いた鶯の声を聞くにつけても自分の両親と同じに老けているとしみじみと聞いて過ごし、夏は涼しい川の流れへと行き、川の流れを手に掬って夏の暑さを忘れて、まるで今が夏ではないような気持ちになり、秋は澄み渡る月が、舟が水の上を行くように空を渡って行く様子を見て、空を飛ぶ雁の羽音をその舟の棹の音かと時の流れをしみじみと思い、秋の雨に色付く紅葉を手折って甕に挿して物哀しい様子を知らず知らずにしみじみと見て、冬空には木枯らしが激しく吹いて、四方の山々の上には白雪が積もる景色に髪が白いのと同じであると思い、たいそう寒い夜には、薪を集めてきて火を焚いて寝床を温めて寒い夜を寝やすくしました。大祥はこのように両親を大切にして、日々を過ごしていました。
 大祥は、このように過ごしていましたが、何とかして両親がもう一度若い姿になるのを見せてほしいものとあれこれと考えを巡らし、家から近い所にある登高山という高い山によじ登って、三七、二十一日間爪先立ちをして天に祈ることには、「さて、人として年を取った姿が再び若くなるということは無いことと決まっていますけれど、神の御恵みによると、死んだ人でも祈りによってもう一度生前の姿に戻ったというためしがあります。呂洞賓という人は、仙人界の薬を舐めて、永遠に若者の姿に戻ったとかいうことがあります。私の両親はもはや百歳になったとは言いますが、いまだ命ながらえていますので、神も私の願いをお聞き届けになって、仙薬を作る方法をお知らせ下さり、両親を長生きさせて下さい。また、もしも、寿命として限りがあるならば、私の命を取って、父母の姿を私の身と取り換えて下さいませ」と、真心を籠めて、全身から汗を流して祈りました。その気持ちは、本当に雑念の無い姿でありました。
 天にある梵天帝釈天がこの大祥の心根を憐れとお思いになったのでしょうか。二十一日の満願になる日の夕暮れ方に、空中に音楽が聞こえて、紫の雲が一群れ降ってきて、その雲の中に美しい鬢頬を結った天人が一人現れて、大祥に向かって仰ることには、「そなたの親への孝行の気持ちが深いことが帝釈天に通じて、私をお下しになったのである。さあさあ、そなたの父母が若くなる薬を授けよう。これらの材料を集めて用いなさい。須弥山の南側の原に、博雅鳥と言う鳥がいる。この鳥は、春の始めに、特別に七種の草を集めて食べるために、常に年を取らず、寿命が長く、心に掛かる悩み事も無くて、諸々の鳥の頭の地位となって、梢に咲く花に楽しく戯れて、長い年月を暮らしている鳥である。今、帝釈天になり変わって伝えよう。この七種の草というのは、芹、薺、御形、田平子、仏の座、菘、清白がこれである。これらは、人間が訪れることまれな野にある沢に出て摘み取り、柳で板を新たに作り、七種の草をその上に載せて、玉椿の枝で、正月六日の酉の時から始めて、これらを叩きなさい。まず、酉の時には、芹という草を叩きなさい。戌の時になったら、薺という草を叩きなさい。さてまた、亥の時には、御形という草を叩きなさい。子の時になったら、田平子という草を叩くのがよろしい。丑の時に至ったら、仏の座という草を叩きなさい。寅の時に菘という草を叩いてよろしい、卯の時に清白という草を打ち叩いて、その後、辰の時の始めには、七種の草を全部一つに合わせて、東の方から若水を汲み上げて、博雅鳥がまだ飛んで来ない前に熱い吸物にして、これを食べれば、一瞬のうちに十年の寿命を身につけて若くなり、それから後に、その者の寿命は一千年を身に付け、しかも、すべてが思いのままになって、三人の者は何の心配事も無いのである。急いで里に帰って、これを作り上げよ」とお教えになって、童子は天へとお上りになりました。
 大祥はこの上なく有り難く思い、童子が帰って行った跡を伏し拝んで、自分の貧しい家へと帰りました。親孝行な者には、仏様もその気持ちを聞き取って下さって心を掛けて下さるのである、というのは、間違いなくこのことを言うのでありましょう。
 大祥はとても喜んで、登高山から下って我が家へ帰り、梵天帝釈天のお教えに従って新年が来るのを待っていました。その待つ間は短い期間でしたが、芽が出たばかりの二葉の松を植えて、その松が大木となって枝が垂れるまでの長い時間よりも待ち遠しく感じられました。こうして、冬が過ぎて、新春を迎えて明け渡る空の風情ものどやかになり、東から吹く風も春の風情になりました。大祥は時節をはかって、人がいない野の沢へと出て、あの七種の草を尋ねて摘み集めて、教わった通りに叩いて吸物にして父母に食べさせました。
 こうして、正月七日に大祥が両親の姿を拝見すると、二人は早くも二十歳ほどの姿となり、三つに折れかがまっていた腰は、弓に張った弦のようにぴんと真っ直ぐに伸び、枯れ野の薄の上に置いた霜のように白かった頭の髪は真っ黒くなり、細かくたくさんあった額の皺は肌が張ってみな消えて、若者の花のような顔立ちになって輝いています。大祥は、こうなったのは、ただ、帝釈天が私の父母に霊験をお与えくださったのであるなと、そのお恵みのほどが身震いするくらい有り難くて、何とも言うことができません。
 大祥は、この熱い吸物を口にしてから、自分の体が十六、七歳の少年の姿になって、今までいろいろなことを心配してつらい思いをしたことをすっかり忘れて、ひたすら父母への孝行をますますしようと思う気持ちだけになりました。
 このようにして日々が過ぎて行くうちに、自分から得ようとしてはいないのに自然に宝が集まり、ほしがりもしないのに食べ物がいつもあるようになり、呼び集めてもいないのに人々が雇われに来て家の仕事をするようになってそれぞれの仕事をし、指図もしないのに大祥の気持ちに従って身の回りの世話をするようになりました。これだけでなく、美しい少女が使われて、父母と大祥の三人の気持ちをあれこれと安らかにします。一家の栄えることは、日々にますます豊かになっていきます。
 近くに住む人々も皆集まってきて、大祥からの恩恵を受けることが多くあります、このせいでしょうか、国中にあれこれの根も葉もない取り沙汰がありました。そんなことには関係なく、大祥の両親への昔からの気持ちは少しも変わることがありません。父母への世話は自分でして、朝夕の食事も自分で試食をして勧めるようにしています。その孝行振りは格別なものです。
 この大祥のことが広く世間の噂になって、遂に天子様のお耳にも達しましたので、天子様は不思議にお思いになって急ぎ使者を遣わして、大祥を宮中にお召しになりました。天子様は大祥を御覧になって、御簾近くまでお出ましになって仰せになることには、「その方は、低い身分でありながら、そのような幸いに遇うことは、どういうことなのか申し上げよ」と、大臣から臣下を取り次ぎとしてお命じになりましたので、大祥は畏まって承り、父母が年を取ったのを悲しんで仏神三宝に祈りを捧げたこと、梵天帝釈天が若返りの法をお告げになったこと、それに従って七草を調えて父母に食べさせたことを、包み隠さずに申し上げますと、天子様はお聞きになり、「これは、なによりも、その方が父母に一心に孝行をしたので、天がこれに感じてこのような不思議な恵みをお与えになったのであろう。外の者の場合と同列に考えることはできない。そもそも、天下国家を治めるのは、孝行の人に優ることはあるまい。朕が今このような人に遇うということは、この楚の国の子孫が繁盛して、国家が長く続くということへの天のお告げなのであろう」と仰せになって、すぐに天子の位を大祥にお譲りになり、天子様に王氏、女氏という二人の姫君がいらっしゃったのを大祥の后として添わせましたのを、大祥はお断りをすることもできませんでした。このようになりましたので、国中の諸侯は、大祥の命を受けて、それぞれにその務めを一心に果たしました。
 このような孝行の人が国をお治めになることで、国は富み栄えて、世の中は穏やかで、とりたてての騒動もなく、天災も起こることはありません。国中で世活する人達にも、盗賊の恐れがなく、山で暮らす山の民、水辺で漁をする海の民まで、国の内のあらゆる人々が皆、この穏やかな代が続くようにと唱える声は国中に溢れています。これというのも、なにより、天子様の温かいお心ゆえであると、人々は語り合いました。
 今、我が日本でも、大祥の例と同様、地方の身分の低い人に、その身に合わない高い位を正月に与えてくださることを、地方から召すという県召と言うのも、この大祥の吉例に倣っているのでありましょう。
 さてまた、七日の「こなかけ」と言って、天皇様を始めとして、国中の人々が正月にこれを祝って食するということは、公の行事なのです。この七草の由来をお聞きになる方々は、仁義を大切にすること第一として、親にできる限り孝行をなされば、大祥のように幸運に出会うことを疑ってはなりません。ですから、古来の言葉にも、父母は天地のごとく、主君は太陽と月のように仰ぐべきものである、と言っているのです。
 人として身に付けるべきは文の道であります。いつも心に掛けて思っていなければいけないことは、まず父母には一心に孝行をし、連れ合いに対しては貞節を守ることを第一にすることです。年を取った人を冗談でも馬鹿にしてはいけません。自分より年の若い者には大事にし、貧しい人には心を掛けて分け与えて、ちょっとした時にも慈悲の心を忘れてはいけません。後世安楽を願って、お坊様を大切にもてなしなさい。このようにして暮らしている人には、現世では富貴に栄えて暮らすことができ、来世においては悟りの位に至って仏菩薩の位を受けることを疑ってはなりません。◎七草草子
 さて、世の中で、天子様の御志ほど有り難いことはございません。と申しますのは、まず第一に、陽気の盛んになる春の始めには、国の全体から国の民の一人一人に至るまで不自由がなく、一年中天災も人災も無く平穏無事であるようにと、天子様おん自ら祈られます。新年始めの四方拝から、大晦日の災厄を祓う追儺まで、全ての行事は皆、国の人々のためでないということがございません。
 その中でも、正月七日に野に出て、若菜を摘んでこれを七草と名付けて、天子様から一般の人に至るまでこれを祝いの膳として、あれこれの病気の予防をすることがあります。その七草の行事の由来についていろいろと説がありますが、その中に、
 昔、中国の楚の国に大祥という者がいました。その両親は、もはや百歳になっていました。腰は弓のように曲がり、顔には皺がたくさん寄り、髪は乱れて、雪が積もったようになっていました。そのため、日々の立ち居振る舞いも不自由になりましたので、大祥はこの両親の様子をしみじみと見て思うことには、なんともお気の毒なご様子だなあ、これほどまでにお年寄られて不自由では、今すぐにも思うに任せないお別れをして嘆くことになるであろうかと、いつも悲しく思い続けていました。
 大祥は、ああ、ここで、両親の昔のような若い姿を見たいものだなあと、天に頼み、神に祈って訴えていまして、大祥は常に両親の傍を離れることがなく、両親が遥かな山への散策をなさりたい時には、自身で背負って出掛け、春は花の咲いている場所へと行き、軒端に鳴く老いた鶯の声を聞くにつけても自分の両親と同じに老けているとしみじみと聞いて過ごし、夏は涼しい川の流れへと行き、川の流れを手に掬って夏の暑さを忘れて、まるで今が夏ではないような気持ちになり、秋は澄み渡る月が、舟が水の上を行くように空を渡って行く様子を見て、空を飛ぶ雁の羽音をその舟の棹の音かと時の流れをしみじみと思い、秋の雨に色付く紅葉を手折って甕に挿して物哀しい様子を知らず知らずにしみじみと見て、冬空には木枯らしが激しく吹いて、四方の山々の上には白雪が積もる景色に髪が白いのと同じであると思い、たいそう寒い夜には、薪を集めてきて火を焚いて寝床を温めて寒い夜を寝やすくしました。大祥はこのように両親を大切にして、日々を過ごしていました。
 大祥は、このように過ごしていましたが、何とかして両親がもう一度若い姿になるのを見せてほしいものとあれこれと考えを巡らし、家から近い所にある登高山という高い山によじ登って、三七、二十一日間爪先立ちをして天に祈ることには、「さて、人として年を取った姿が再び若くなるということは無いことと決まっていますけれど、神の御恵みによると、死んだ人でも祈りによってもう一度生前の姿に戻ったというためしがあります。呂洞賓という人は、仙人界の薬を舐めて、永遠に若者の姿に戻ったとかいうことがあります。私の両親はもはや百歳になったとは言いますが、いまだ命ながらえていますので、神も私の願いをお聞き届けになって、仙薬を作る方法をお知らせ下さり、両親を長生きさせて下さい。また、もしも、寿命として限りがあるならば、私の命を取って、父母の姿を私の身と取り換えて下さいませ」と、真心を籠めて、全身から汗を流して祈りました。その気持ちは、本当に雑念の無い姿でありました。
 天にある梵天帝釈天がこの大祥の心根を憐れとお思いになったのでしょうか。二十一日の満願になる日の夕暮れ方に、空中に音楽が聞こえて、紫の雲が一群れ降ってきて、その雲の中に美しい鬢頬を結った天人が一人現れて、大祥に向かって仰ることには、「そなたの親への孝行の気持ちが深いことが帝釈天に通じて、私をお下しになったのである。さあさあ、そなたの父母が若くなる薬を授けよう。これらの材料を集めて用いなさい。須弥山の南側の原に、博雅鳥と言う鳥がいる。この鳥は、春の始めに、特別に七種の草を集めて食べるために、常に年を取らず、寿命が長く、心に掛かる悩み事も無くて、諸々の鳥の頭の地位となって、梢に咲く花に楽しく戯れて、長い年月を暮らしている鳥である。今、帝釈天になり変わって伝えよう。この七種の草というのは、芹、薺、御形、田平子、仏の座、菘、清白がこれである。これらは、人間が訪れることまれな野にある沢に出て摘み取り、柳で板を新たに作り、七種の草をその上に載せて、玉椿の枝で、正月六日の酉の時から始めて、これらを叩きなさい。まず、酉の時には、芹という草を叩きなさい。戌の時になったら、薺という草を叩きなさい。さてまた、亥の時には、御形という草を叩きなさい。子の時になったら、田平子という草を叩くのがよろしい。丑の時に至ったら、仏の座という草を叩きなさい。寅の時に菘という草を叩いてよろしい、卯の時に清白という草を打ち叩いて、その後、辰の時の始めには、七種の草を全部一つに合わせて、東の方から若水を汲み上げて、博雅鳥がまだ飛んで来ない前に熱い吸物にして、これを食べれば、一瞬のうちに十年の寿命を身につけて若くなり、それから後に、その者の寿命は一千年を身に付け、しかも、すべてが思いのままになって、三人の者は何の心配事も無いのである。急いで里に帰って、これを作り上げよ」とお教えになって、童子は天へとお上りになりました。
 大祥はこの上なく有り難く思い、童子が帰って行った跡を伏し拝んで、自分の貧しい家へと帰りました。親孝行な者には、仏様もその気持ちを聞き取って下さって心を掛けて下さるのである、というのは、間違いなくこのことを言うのでありましょう。
 大祥はとても喜んで、登高山から下って我が家へ帰り、梵天帝釈天のお教えに従って新年が来るのを待っていました。その待つ間は短い期間でしたが、芽が出たばかりの二葉の松を植えて、その松が大木となって枝が垂れるまでの長い時間よりも待ち遠しく感じられました。こうして、冬が過ぎて、新春を迎えて明け渡る空の風情ものどやかになり、東から吹く風も春の風情になりました。大祥は時節をはかって、人がいない野の沢へと出て、あの七種の草を尋ねて摘み集めて、教わった通りに叩いて吸物にして父母に食べさせました。
 こうして、正月七日に大祥が両親の姿を拝見すると、二人は早くも二十歳ほどの姿となり、三つに折れかがまっていた腰は、弓に張った弦のようにぴんと真っ直ぐに伸び、枯れ野の薄の上に置いた霜のように白かった頭の髪は真っ黒くなり、細かくたくさんあった額の皺は肌が張ってみな消えて、若者の花のような顔立ちになって輝いています。大祥は、こうなったのは、ただ、帝釈天が私の父母に霊験をお与えくださったのであるなと、そのお恵みのほどが身震いするくらい有り難くて、何とも言うことができません。
 大祥は、この熱い吸物を口にしてから、自分の体が十六、七歳の少年の姿になって、今までいろいろなことを心配してつらい思いをしたことをすっかり忘れて、ひたすら父母への孝行をますますしようと思う気持ちだけになりました。
 このようにして日々が過ぎて行くうちに、自分から得ようとしてはいないのに自然に宝が集まり、ほしがりもしないのに食べ物がいつもあるようになり、呼び集めてもいないのに人々が雇われに来て家の仕事をするようになってそれぞれの仕事をし、指図もしないのに大祥の気持ちに従って身の回りの世話をするようになりました。これだけでなく、美しい少女が使われて、父母と大祥の三人の気持ちをあれこれと安らかにします。一家の栄えることは、日々にますます豊かになっていきます。
 近くに住む人々も皆集まってきて、大祥からの恩恵を受けることが多くあります、このせいでしょうか、国中にあれこれの根も葉もない取り沙汰がありました。そんなことには関係なく、大祥の両親への昔からの気持ちは少しも変わることがありません。父母への世話は自分でして、朝夕の食事も自分で試食をして勧めるようにしています。その孝行振りは格別なものです。
 この大祥のことが広く世間の噂になって、遂に天子様のお耳にも達しましたので、天子様は不思議にお思いになって急ぎ使者を遣わして、大祥を宮中にお召しになりました。天子様は大祥を御覧になって、御簾近くまでお出ましになって仰せになることには、「その方は、低い身分でありながら、そのような幸いに遇うことは、どういうことなのか申し上げよ」と、大臣から臣下を取り次ぎとしてお命じになりましたので、大祥は畏まって承り、父母が年を取ったのを悲しんで仏神三宝に祈りを捧げたこと、梵天帝釈天が若返りの法をお告げになったこと、それに従って七草を調えて父母に食べさせたことを、包み隠さずに申し上げますと、天子様はお聞きになり、「これは、なによりも、その方が父母に一心に孝行をしたので、天がこれに感じてこのような不思議な恵みをお与えになったのであろう。外の者の場合と同列に考えることはできない。そもそも、天下国家を治めるのは、孝行の人に優ることはあるまい。朕が今このような人に遇うということは、この楚の国の子孫が繁盛して、国家が長く続くということへの天のお告げなのであろう」と仰せになって、すぐに天子の位を大祥にお譲りになり、天子様に王氏、女氏という二人の姫君がいらっしゃったのを大祥の后として添わせましたのを、大祥はお断りをすることもできませんでした。このようになりましたので、国中の諸侯は、大祥の命を受けて、それぞれにその務めを一心に果たしました。
 このような孝行の人が国をお治めになることで、国は富み栄えて、世の中は穏やかで、とりたてての騒動もなく、天災も起こることはありません。国中で世活する人達にも、盗賊の恐れがなく、山で暮らす山の民、水辺で漁をする海の民まで、国の内のあらゆる人々が皆、この穏やかな代が続くようにと唱える声は国中に溢れています。これというのも、なにより、天子様の温かいお心ゆえであると、人々は語り合いました。
 今、我が日本でも、大祥の例と同様、地方の身分の低い人に、その身に合わない高い位を正月に与えてくださることを、地方から召すという県召と言うのも、この大祥の吉例に倣っているのでありましょう。
 さてまた、七日の「こなかけ」と言って、天皇様を始めとして、国中の人々が正月にこれを祝って食するということは、公の行事なのです。この七草の由来をお聞きになる方々は、仁義を大切にすること第一として、親にできる限り孝行をなされば、大祥のように幸運に出会うことを疑ってはなりません。ですから、古来の言葉にも、父母は天地のごとく、主君は太陽と月のように仰ぐべきものである、と言っているのです。
 人として身に付けるべきは文の道であります。いつも心に掛けて思っていなければいけないことは、まず父母には一心に孝行をし、連れ合いに対しては貞節を守ることを第一にすることです。年を取った人を冗談でも馬鹿にしてはいけません。自分より年の若い者には大事にし、貧しい人には心を掛けて分け与えて、ちょっとした時にも慈悲の心を忘れてはいけません。後世安楽を願って、お坊様を大切にもてなしなさい。このようにして暮らしている人には、現世では富貴に栄えて暮らすことができ、来世においては悟りの位に至って仏菩薩の位を受けることを疑ってはなりません。