説経かるかや 1 福福亭とん平の意訳

かるかや 1

 これから語ります物語は、信濃の国善光寺の奥の御堂に、親子地蔵とお姿を顕されているお地蔵様の由来を詳しく説いてお聞かせ申すと、このお二人もかつては人間でございました。この主人公は、国は大九州筑前の国、苅萱の庄の加藤左衛門重氏殿でございます。
 重氏殿は、筑後筑前・肥後・肥前大隅・薩摩の六万町を御知行所となさっていらっしゃいます。屋敷は十方に十の蔵、南方に七つの泉、*てつかう・やうかう・自在の車、日月を自由に操れる宝珠などをはじめとして、あらゆる宝に満ち満ちていらっしゃいます。建物も、四季の景が楽しめるようにお建てになっていらっしゃいます。
 頃はいつかと申しますと、三月上旬半ばのことでしたが、一族全員が集まって、酒盛りをすることとなり、まず上座の重氏殿から順に盃が巡り、その後下から逆に巡って始まりと、酒盛りが真最中の時、突然強い風が吹いてきて、桜の花がさっと散りました。さて、この花が散った時、よそへ散るのではなく、重氏殿の酒をなみなみと注がせなさった盃の中へと、莟のままの桜が、さっと一房散り込みました。
 重氏殿は、人の世の悟りに聡い人ですから、この莟の花をつくづくとご覧になって、花も順に散るものならば、開いた花から順のはずなのに、開いた花は散らないで、莟の花が散るということならば、さあ、人間もあのように、老いた者から順ということにはならないと、老少不定をお悟りになりました。
 このできごとを後世を願う発心の契機として、元結を切って西へと投げて、濃い墨染めの衣に着替えて、「私は後世を懇ろに願うもの、これでお別れとさせていただこう、一族の方々よ」と仰います。その場の一族の方々はこの言葉に、「愚かなことを仰せあるな。侍の遁世ということは、人に領地を奪われて、面目を失って世間に顔向けができなくなった時になって初めて、遁世修行になると伺っております。そのように仰る重氏殿は、筑後筑前・肥後・肥前大隅・薩摩の六万町を治められているのに、いったい何が不足と思われて遁世修行と仰せあるのか。さて、今の遁世の心は、お止まりなさってくださいよ」と、一族の人々が引き止めますが、聞こうとしません。
 その時、重氏殿は二十一歳、奥様は十九歳でした。この重氏殿の遁世の気持ちが奥様にも伝わって、奥様は重氏殿に対面するために薄衣を手にして髪に載せて重氏殿のおいでの間においでになって、重氏殿のお姿を何度も何度も見上げ見下ろして、すぐにさめざめとお泣きになります。「これ、聞けば、わが夫の重氏殿様は、遁世修行をなさると承りました。世の中の侍が遁世をするのは、他人に領地を奪い取られ、面目を失って世間に顔向けができなくなった時になって初めて、遁世修行と伺っております。そのように仰る重氏殿は、筑後筑前・肥後・肥前大隅・薩摩の六万町を治められているのに、いったい何が不足と思われて遁世修行と仰せあるのか。さて、今の遁世の心は、お止まりなさってくださいよ」と仰います。重氏殿はこの奥様の言葉をお聞きになって、「あなたは愚かなことを仰るね。そもそも世の中の侍が遁世をするのは、他人に領地を奪い取られ、面目を失って世間に顔向けができなくなった時になって初めて、遁世修行と仰るのか。それはこの世に生きる甲斐を失った時のことで、生きるための致し方ない遁世です。このように話す重氏は、煩悩の絆(ほだ)しの綱を裁ち切り、仏の悟りの綱にすがって、六万町の領地を振り捨てて後の世を往生を大切に願うようにして初めて、仏の位に至るのです。どのようにお止めなさるとも、私は止まりませんよ、わが妻よ」と仰いましたので、奥様はこれをお聞きになり、今言おうかしら、または止めておこうか、今言わなければ、いつ言う折があるだろうかと迷って、「これは、恥ずかしいお話ではございますが、およそ女の身としては、夫の精を受けて、私の体の中には七月半になる子を宿しております。この子が生まれ、成人して、お父様はと尋ねた時に、いったい誰をその子の父として教えましょうか。せめてこの子が生まれて三歳になるまで、出家をお止(とど)まりなさってくださいませ。それが嫌だとお思いならば、私がこの子を産むまで、お止まりなさってくださいませ。私がこの子を産みましたら、わが夫の重氏殿様は、元結を切って西へと投げて、濃い墨染めの衣に姿を変えて、高野の山へとおいでになって、後世を十分にお願いになってください。さあ、その時は私も高野山の麓に参って、月に度ずつ、垢染みた衣をお洗濯申し上げましょう。いかがでしょうか、我が夫の重氏殿様」と申し上げると、重氏殿はお聞きになって、「そうか、そのようなことがあるならば、三月の間はここにいよう。三月過ぎてのその後は、あなたがどんなにお止めなさっても。もう止まりませんよ、妻よ」とお答えになりましたので、奥様はこの重氏殿の言葉をお聞きになり、なんと嬉しいことか、ここで一族の方々や私がいくらお願いしても一向にご承知なさらなかったのに、私のお腹の子のことを申し上げたところ、出家をお止まりくださって嬉しいと思い、やがて夜が明けたなら早々に、筑紫の大名衆に相談して、一族を先に立てて、今の若さでの遁世を思い止まらせよう、まずは嬉しいことよと、奥様は薄衣を髪に懸けて、奥のご自分の居間へとお入りになりました。
 重氏殿は、一間の内にいらっしゃって、よくよく今後のことに思案を巡らされると、あのように智恵を働かせる奥方なのだから、夜明けを迎えて朝になれば、筑紫の大名衆を呼び集めて、私の今の遁世を止めるであろうことは判りきったことだ。そこで思い止まったならば、せっかく思い立った我が遁世修行による来世往生の修行不足であろうとお思いになり、筆記具と料紙とを取り寄せて、書き置きの手紙をお書きになります。
 その書き置きの手紙の冒頭には、今胎内に宿って七月半の子が生まれた後、男の子ならば、石童丸と名を付けて、出家させてくれよ、また女の子ならば、どのようにしようとも、それは奥方の裁量に任せると書き始め、男女いずれにしてもこの世においての縁だけは薄くても、来世では必ず会おうものであると、こと細かに書き納めました。ああ、いたわしいことに、重氏殿は、一時も肌身を離さなかった刀と、籐の枕とこの書き置き文を、持仏堂にきちんと置いて、栄えているわが屋敷から、夜の闇に紛れて出奔されました。さて、重氏殿のお通りになる土地はどこどこか、順に追います。赤間が関を打ち過ぎて、周防の山口通り過ぎ、安芸の国の有名な厳島社の弁財天、あちらの方と遙拝し、備後、備中足早に、過ぎれば播磨の国に入り、ここはその名も仏法を広めるゆかりの広峰宿、仏の光は差さずとも阿弥陀にちなむ阿弥陀の宿、名は明かしとは言いながら、まだ夜暗い明石の浜、兵庫の浦をざっと見て、塵や芥を流し行く芥川から神南へ、淀川に沿う山崎の地を通り過ぎ、花の都の東山、坂を上って清水観音、そのお寺へと着きました。
 清水寺の三つの階段を上って、観音様のお堂にお参りして、鉦の緒に手を掛けて、鰐口を音高く鳴らして、「南無、大慈大悲の観音様、私が口らにお参りいたしましたのは、他のことではございません。福徳や知恵を授けてくださいと申し上げましたら、仏様もお嫌いになるでしょう。はるばるとここまで参りました御利益として、この重氏が安泰に、出家遁世の志を遂げおおせることができるように、お守りくださいませ」と身を投げ出して一心に祈りました。
 お気の毒なことに重氏殿は、そこから勧進を受ける場にやって来て、そこの一人のお坊様の近くに寄って、「これ申しお坊様、お尋ねしたいことがございます。この都で霊験あらたかな仏様とその場所を教えてくださいませ、お坊様」と問いかけます。お坊さんはこの言葉を聞いて、「そう言う若いお侍様のお国はどちらじゃ」と尋ねます。重氏殿はこの返事に、「さて、私めの故郷は、草深い田舎である、大筑紫の国でございます」とお答えしました。
 お坊様はこの返事をお聞きになり、「大筑紫の方ならば、都の様子をご存じないのももっとも、まず西の方は、裁縫極楽と申して、この山の上ではこの清水寺、麓では六角堂、一条の御房、誓願寺、また、嵯峨*ほんりう寺の鐘の音を聞けば現世の罪も消えるのじゃ、あちらへお参りなされ、お若い方」と仰います。重氏殿はその言葉をお聞きになり、「いえいえ、それは都の方々が諸寺をお参りなさる時のお寺と承っております。このお寺のご本尊の観音様に「出家の志を成し遂げられるお守りになってくださいませ」と申し上げる通り、私のような信仰心の薄い俗人の髪を剃って、出家の宿願を末まで成し遂げられるお寺を教えてくださいな、お坊様」と頼みます。「それでは、*御さんは、ちんさんの事じゃろうか」「いやいや、それは学問をする所と伺っております。私はただ、私のような俗人の髪を剃って出家させてくださるお寺を教えてください、お坊様」と申し上げます。
 お坊様は、この重氏殿の言葉をお聞きになって「その場所もここにございます。まず、西は西方極楽と申して、ここでは清水寺です。また、ここに、もうお一人、法然上人と申し上げて、比叡の山で修行され、東山へと下られて、新黒谷に金戒光明寺というお寺をお建てになって、今が仏法を広められているさなかの方がいらっしゃるから、あちらへお出でなされ、お若い方」と教えてくださいます。重氏殿はこの説明をお聞きになって、「もし、お坊様、その新黒谷とかいうお寺への道のりは何里ほどですか」とお尋ねになります。お坊様は、この問いに、「経書堂の左脇の道を通り、祇園林の山はずれの粟田口の方を北へ指しておいでになれば、間違いなく新黒谷西門に尽きますぞ、お若い方」と教えてくださいます。重氏殿はお聞きになって、「なんとご親切なお坊様だ、私がそのお寺にいることができて、出家を続けることができたなら、その時重ねてお礼をもうしあげましょう。それではお暇いたします、ごきげんよう」と言って、お坊様の教えの通りに、経書堂の左脇の道を通り、祇園林の山はずれの粟田口の方を北へ指しておいでになると、新黒谷西門にお着きになりました。