熊野の本地 後編 福福亭とん平の意訳

熊野の本地 後編
 その後、月日は次々と過ぎゆき、女御の遺骸は雨、露、雪、霜が当たって朽ちてきて、ついに白骨となってしまいました。ですが、女御の左の乳房だけは生前と色も変わらずに乳を出して、王子に飲ませ続けました。こうして王子が成長して、昼間は山の中に出て獣たちに養われ、夜は亡くなった母女御に添い寝をして、いつしか月日が経ち、早くも三年が経ちました。
 虎と狼が話し合うことには、「我々がお守りしようとした時ももはやその期限となった。今はもう女御のご遺骸をお隠ししよう」と、して、あちこちに散った骨を採り集めて、岩の間に木の葉で埋め申し、虎と狼は自分のねぐらへと帰り、その後、王子は一人になり、峰に上ったり谷に降ったりして、悲しまれることはこの上ありませんでした。
 御山の陰にいる虎や狼という存在は馴れない人にはいやな姿ですが、三年という年月そばに過ごしてきましたので、王子にとって虎や狼は今さらながら懐しく思われます。その獣さえも散り散りに姿を消してしまったので、幼心でもいっそうの嘆きと思われてお気の毒です。こうして年月が重なって、王子は三歳におなりになりました。
 ところで、この山の麓に智見上人という尊い聖がいらっしゃいました。ある時、お経を読もうとして巻物の紐を解いて開くと、虫食いがあります。よくよくご覧になると一首の歌です。
  孤児を育つる山の御聖尋ねみ給へ返す返すも
  (孤児を育てている山においでのお聖様、その孤児を見付かるまで何度も何度も探してください)
上人はこれをご覧になって、不思議とお思いになり、これはきっと十羅刹女のお告げであろうと思ってこの歌を導きとして山にお入りになると、相輪という峰に幼い子の姿が見えました。
 その幼い子は上人をご覧になって、上人の声に、「私は摩訶陀国の大王の子です。母は五衰殿の女御と言った者ですが、この山で首を切られなさいました。その時に私も共に死ぬ運命でしたが、不思議にも獣たちに育てられ、また、母の遺した乳房の乳を飲んで、今年三歳になります。昨晩、養ってくれた虎と狼が母の死骸を隠して、どこへとも知れずに姿を消しました。母が、『そなたが三歳に三歳になった春の頃に、この山の麓に智見聖という方がそなたを尋ねておいでになるであろう。その方の元に行って学問をして、私の後世を弔いなさい』と御遺言なさったことが、今だに耳に残っております。それでは、あなたがその方でいらっしゃいますか」と上人に抱き着かれたのは、しみじみとしたことでありました。
 上人は王子の言葉をお聞きになり、「それでは、あのお経の虫食いの歌は、お母様の五衰殿の女御のお詠みになった歌なのでしょう。仮に、この山の鬼や魔物の歌であっても、行って迎えよう」と、遥かの谷を越えて、王子を抱いて「真夏の暑い日、誰がそなたに扇をかざし、また冬の厳しい寒さの夜に夜着を重ねてあげたのだろう。まるで、空を飛ぶ鳥の翼が落ち、魚が水から離れて動きがとれず、また、岸のへりから根が離れた草や入り江の中で繋がれていない舟が寄る辺がないようになって、一人月日を送り年を迎えて、三歳まで成長されたことは、不思議であり、またこのようにおかわいそうなことが、この世にほかにありましょうか」と言って、墨染めの僧衣の袖を涙で濡らされます。
 王子は、この山から出ることを喜びながらも、「お母様の御遺骸をこのままに置いておくことはこの上ない嘆きです。どうしましょう」と仰るのを上人はお聞きになり、「ご安心ください。私がよろしいようにご供養いたしましょう」と言って、岩の間の木の葉の下に隠された女御の骨を取り集めて、香木の栴檀を積み上げて火葬にいたしました。王子はこれをご覧になって、「三年の間は、御遺骸を生きていらっしゃるお母様に向かっているように添い申し上げていましたが、これから後はいつの世にお会いできるののでしょうか」と歎かれて、歌を一首、このように、
  世の中にありふる人の果て見ればただ一時の煙なりけり
  (世の中に生きて長らえる人の行く末を見れば、ただ一時の煙なのだな)
とお詠みになり、上人と一緒にお骨を拾って麓の寺ヘと帰り、春の花咲く時も、秋の夜長の時も、片時も弛むこと亡く学問をなさいました。また、五衰殿の女御の菩提を弔われることは子として素晴らしいことです。
 このようにして、王子はこの寺に年月をお送りになり、日夜絶えず母上の五衰殿の女御のことを思って、忘れることなくお経をお詠みになり、後の弔いをなさいます。
 だんだんに年が重なって七歳におなりになる春の頃に、王子は上人に向かって、「母上の御遺言に『七歳になったら、父の大王の所に参上するように』とありましたが、どうしたらよいでしょう」と仰って、涙を流されました。上人はこれを憐れに思って、「お気持ちの通り、併せて母上に御遺言に従って、私はお供します。摩訶陀国へ出掛けて行って、大王に事情を申し上げてあなたを内裏にお入れしましょう」と言って、王子を同じ寺の僧の肩に乗せ、上人がお供して、摩訶陀国ヘと急ぎます。王子が嬉しく思うことはこの上なく、「鳥ならば飛んで行くものを」などと口にされ、「父の大王という方について、お名前だけでも聞かせてください」と、母の五衰殿の女御が言い遺した言葉を頼りにして内裏へと参上して、母のお気持ちを遂げようとお思いになる御決意は立派なことです。
 一行は夜昼の区別なく道中を急いだ結果、早くも摩訶陀国にお着きになりました。ちょうどその時、大王は南楼にお上がりになって、周りの木々をご覧になっておいでの時で、とても美しい子を僧が守っているのをご覧になって、「ああ、あの子が私の子ならば王位に就けよう、そうであったらどれだけ嬉しいことか」というようにしみじみと思ってお嘆きになる間に、その少年が大王の御前にやって来ました。大王が少年をご覧になって、「どちらからおいでになったですか。ご両親はどなたでしょうか」とお尋ねになりますと、少年は恨めしく思ってしばらくの間何も仰いませんでした。しばらく経って、涙を流しながら、「大王がご存じではないのも、もっともです。私の母は五衰殿の女御です。私を腹に宿されたために、九百九十九人の后たちから、無いことをあれこれと大王に言いつけて、その上に、大王の命令として武士に命じて、ここから遥か離れた「しやく王」という鬼神の住みかへと送り、首を切ってしまったのです。私はその時母と一緒に死ぬはずであったのですが、仏神ならびに三宝のお助けで急に生まれて、今日まで命が延びたのです。この年月は智見上人にお育てによってこれまで成長しました。母上の御遺言に、『そなたが七歳になったなら、お父様の大王の御前に行って、これまでの物語を全部細かにお話しなさい』とありましたので、智見上人が同道してくださり、ここまで参りました」と仰いますと、大王はこれを聞いて、今のことは夢とも現実かとも分からなくなり、しばらく呆然となさいました。しばらく経って、「懐胎した五衰殿の女御の姿が消えてからの年月を数え合わせれば、もう七年である。五衰殿の女御の姿が見えなくなったのはどのような魔物の仕業かと嘆かわしく思っていたが、それでは、九百九十九人の后たちのやったことであったのか。なんとまあ、呆れたことじゃ」と仰って、大王は目に涙を浮かべられ、て、「ああ、何ともつらく嫌な世の中であるな」と、恨み嘆かれることはこの上ありません。
 大王が、「今はもうこうなりましたから、私の近くにいて、過ぎ去った昔の苦しいことや辛いことを語って心を慰めようではないか」と仰ると、王子は、「私はたまたま大王の血筋を受け継ぐということですが、どうしたことの報いなのか王宮を離れ、遥か離れたお山の奥に生まれて、鳥や獣を友として木の葉を衣として身に着け、木の根を枕としていました。このようなつまらない身がどうして玉座に着くことができましょうか。と仰って、涙に咽ばれるのでした。大王はこの姿をご覧になって「まことにもっともなことです。九百九十九人の后たちを呼び出して、一か所で殺してしまおう。それであなたの恨みを晴らしてくだされ」と仰ると、王子は、「多くの后たちを殺したとしても、亡くなられた母の五衰殿の女御が生き返られるということはありません。かえってその罪咎はは大きいものです。后たちの命はお助けください」と仰って、さらに、「一つのお願いは、こちらに持ってこられた母の御首をいただいて、ご供養申し上げたいと存じます」と仰いましたので、大王はこの言葉をお聞きになりながら、九百九十九人の后たちを呼び出して、「そなたたちはこの私をどうなれと思ってうしろめたい悪い計略を巡らし、せっかく子を宿して、私が思いのままに世を治められるようにとしてくれた五衰殿の女御の命を奪ってしまったのだ。皆この内裏から退出なさい。また、ここへ持ってこさせた五衰殿の女御の御首をどこに置いたのだ。すぐにここへ出しなさい」と、怒ってお命じになりますと、后たちはこのお言葉を伺って、「それでは、もう、全部露顕してしまったのか」と思って、互いに目と目を見合わせて、「私は人に従った、自分でやったのではない」とごまかし、「あの人は私にやらせた」と、それぞれに勝手様々の言い訳をしましたので、この振る舞いを見る人も聞く人も、「あきれた情けないことだ」と憎まない人はいませんでした。
 さて、大王は武士たちを呼び出して内々に、「地の底七尺に埋められている五衰殿の女御の御首を掘り出して参れ」と命じられました。武士たちはすぐさま御首を掘り出して大王にお見せします。王子はこの御首をご覧になり、女御の姿がかすかすかにしかわからないほどに傷んだ御首を手に取って言葉無くお泣きになると、大王も智見上人もその場にいる人も皆、涙に咽びました。「ああ、このようなことは世に他にないであろう」と嘆く声は、天にも響くばかりの大きなものでした。
 しばらく経って、王子は母五衰殿の女御の御首を自らお持ちになり、築山の陰で香木の栴檀を積み上げて荼毘に付し、遺骨を自分で拾って、五衰殿の女御が長年住み慣れた宮の五衰殿へと移られて、母上がいつも信仰なさっていた観世音菩薩の前で供養をなさいました。大王がおいでになって、「ああ、まことに五衰殿の女御が生きていらして、王子と三人でこの場にいたら、どれくらい嬉しかったことであろう。悲しい中でも喜びは、王子が不思議に生きていて会えたことだよ。さあ早く王位についてくれよ」と仰ると、王子は、「大王のお言葉は有難いとは存じますが、お母様が亡くなられたことが心から離れません。この上は、ただお暇をいただいて出家遁世して、国々を廻る修行者となり、母上の後世を弔いましょう」と仰います。そこで大王が、「亡くなった母は親で、現在生きている父は親ではないということか。私の命に背かずに王位にお就きになれば現世の父に対しての孝行になり、その上で亡くなった母を弔えば、現世来世の二世の願いが一度に叶うではないか」と仰せになりますと、王子は、「大王がお決めになったことに言葉を返すのは畏れ多いことですが、悉達太子は釈迦一族の王宮を出て阿羅邏仙人から千年前のことをお習いになって仏と成られ、その後に、お母様の摩耶夫人へのご供養のために、ひと夏九十日の間、『摩耶経』というお経の説法をなさいました。また、目連尊者は、お母様が餓鬼道へ墜ちられたのを悲しんで、七月に『盂蘭盆経』を声を出してお読みになり、千人の僧にいろいろな飲み物食べ物を手向けて供養した結果、母上は餓鬼道の苦しみから逃れられたことがあります。これらのことをどのようにお思いになりますか。私が出家して仏道修行をするならば、お母様の亡き霊が成仏得脱なさり、また父大王への御祈りも怠ることがなければ、このようなつらい世の諸々の嫌なことも皆好くなって、この孝行は、風は枝に音を立てさせないほどに穏やかに吹き、雨は土を動かさないように静かに降り、五穀は皆豊かに実り、人々は盗賊の怖れがなく戸に錠を掛けることもいらないという平穏無事な世になって、周りの国々までも従えて、そこから昼夜の別なく運んでくる貢ぎ物の数々にさらに千個万個の宝物を添えての捧げ物も思いのままに集まりましょう。ただただお暇をいただいて出家の望みを遂げてしまいます。しかも、お母様は私を懐胎されたために、世にためしのない苦労をなさって、終に命を落とされたことがあります。私が王位に就いたならば、時に触れて物事に対する考え方が変わってしまい、いつしか王としての世の営みに紛れて、供養も疎かになってしまえば、その咎めが恐ろしく、また来世の成仏の妨げにもなりましょう」と、道理を細々とお話になられると、大王は言葉に詰まってしまい、ただ涙を流されるだけです。智見上人ももちろん、この御言葉に「まことにお道理です」と仰って墨染めの衣の袖を濡らされました。そこにいた人々は、位の上下を問わず皆袖に涙を落として、お気の毒にととても深く悲しみました。
 大王は上人をお呼びになり、「王子が出家遁世の望みが強く、王位に就く気持ちが全く無い。私はたまたま子を授かって位を譲ろうと喜んだのに、その甲斐がない」と仰せになりますと、上人は、「王子様の出家の望みは、お母様のことを深くお嘆きになるためです。そのお心をお慰めすれば世を治めるお気持ちも出て参りましょう。私が長い年月摘んできた修行が空しくないならば、仏神・三宝に深く祈って、五衰殿の女御を再び生き返らせられるでしょう」と答えます。その言葉に大王は「ありがたいお言葉ですな」と感動されました。王子は、「これはどういうことであっても、とても嬉しいです」と仰って、皆が心を一つにして0祈りをなさいました。
 上人は段を飾って五衰殿の御遺骨を据えて、多くの灯火を並べ、いろいろの香をたき、種々の花を捧げて、一心に秘法を行いました。七日という満願の日になると、上人はここが一番大事な祈りの時と思って、独鈷でご自分の膝を叩きます。そのような祈りの中に、仏の前から美しい容姿の女性の姿が現れました。何なのだろうとよくよく見定めると、それは五衰殿の女御が生き返られた姿で、大王は不思議にお思いになり、「これは夢なのだろうか、夢ならば覚めたらどうしよう」と仰って、王子と一緒になってとてもお喜びになりました。嬉しさにも、悲しさにも先立つものは涙で、人々は身分の上下を問わず、いっそうの涙にくれるのでした。
 その後、大王と五衰殿の女御と王子は一か所においでになり、これまでに味わった憂さ辛さを互いに語り合って、嘆いたり笑ったりして、朝から晩まで尽きることなくお話をして、大王が、「このような嫌な国に長く暮らしていたら、これから先どんな辛い目に遭うことであろう。とにかく住みやすい国に行きたいものよ」と仰いましたので、女御も王子も同じお気持ちで、この国を離れることを思い立たれました。
 九百九十九人の后たちを摩訶陀国に捨て置いて、大王を始めとして、五衰殿の女御と王子に智見上人は、そのほかの大王のお気持ちにかなった臣下たちをお供にして、飛車という雲の上を飛んで行く車にお乗りになって、東を指して飛んで行かれました。十六の大国に五百の中国を飛んで過ぎて、それほど経たないうに日本国にお着きになりました。残された后たちが天を仰いだり地に横たわったりして嘆く有様は、とても見ていられません。
 その後、九百九十九人の后たちは、「我々も連れておいでください」と嘆き悲しんで、一行の跡を慕って行くところに、空中から黒雲が舞い下がって、雷が激しく鳴って鬼が飛んで来て、九百九十九人の后たち皆を大石で打ち殺してしまいました。
 このようにして一行は、粟粒のように小さい国である日本の紀伊国牟婁郡音無川の辺鄙な土地にお降りになりました。熊野の権現と申し上げるのはこの大王のことであります。
 さてさて、証誠大菩薩と言うのは智見上人のことで、本地は阿弥陀如来です。結の宮、速玉宮を両所権現と申し上げます。結の宮は五衰殿の后でいらっしゃいます。速玉宮は大王で、本地は十二大願をお持ちの薬師如来です。若一王子と言うのは本地は十一面観音で、王子のことです。阿須賀社、禅師・飛行夜叉・神倉・子守・勝手、満山護法、切部、藤代、鹿の瀬、蕪坂、発心門、滝尻、浜の宮、米持金剛という宮は、どれもどれも皆、女御に忠勤をした人々が神となったものであります。
 大王は、初めは本宮に落ち着き、後には新宮にその姿を顕されました。その後、那智のお山にお移りになられまして、この三か所を合わせて三つの御山、熊野三山です。この三山は三身如来の浄土で、現世は安穏に後生は善所に生まれるという土地です。お参りに来て信じ申し上げる人は、すぐさま願いがかない、子孫繁昌して、来世の極楽往生は疑いありません。深く信じてもさらに信ずるべきはこの権現様でいらっしゃいます。
 九百九十九人の后たちは大王に捨てられて、「さあ、私たちも大王の跡を追いましょう」と言って、日本の土地へと出発しましたが、九百九十九匹の毒蛇になって、あちらこちらの道のほとりに倒れ伏して、権現様へ参詣される人を悩ませます。権現様はこれを憎いとお思いになり、土を守る神と山の神をお招きになり、山を揺り動かさせて崩してこの毒蛇を打ち頃されました。その毒蛇の怨念は今に五百の赤虫となって熊野詣での信者を悩ませます。ですから、「このお山で春三月は赤虫を触らない」と言っています。
 さてさて、熊野の権現と言う神様は、日本第一のあらたかな権現でいらっしゃいます。人々に利益を与えるという悲願が優れていらっしゃいます。一度でも参詣する者は、長く地獄・餓鬼・畜生の三界と、仏を見られず、その法を聞くことのできない八難の悪い因縁を逃れ、十悪五逆という大罪を犯しても、一度この地を踏めばすぐさま罪は消えて、現世・来世の願いがかなったというためしは、昔から今に至るまで多くあります。これを並べ立てるとあまりに多いので、ここには書き記しません。この熊野の権現の本願を強く信ずる人は、権現に毎日参詣するのと変わりがありません。これは私一人の言葉ではありません。古人の言い伝えた言葉です。決して決して疑ってはなりません。「南無証誠殿、両所権現、若一王子、十方善所、一万の金剛童子」と、朝夕お唱えなさい。お唱えなさい。