壺の碑 参考資料 徳道聖人、始めて長谷寺を建てる語(今昔物語集より)

徳道聖人、始めて長谷寺を建てる語          今昔物語集巻第十一の第三十一

  壺の碑が祟りをなすという話から、漂着した霊木が、人々に働きかけた話を一つ。

 

 昔のことです。洪水があった時に、近江の国の高島の郡に大きな木が漂着しました。土地の人がその木の端を切り取ると、その人の家が焼けました。また、その家から始まって郡の中に病気が蔓延して多くの人が亡くなりました、そこでこの祟りの原因を占わせると、「この災いはこの木のせいである」と占いの結果が出ましたので、その後、世間の人でその木のそばに寄る人は一人もいませんでした。
 時が過ぎて、大和国の葛城の下の郡(現、大和高田市,下葛城郡の一部)に住んでいる人が、たまたま用事があって、この木が置かれている土地に来て、この木の由来を聞いて、心の中に、「私はこの木をで十一面観音菩薩のお像をお造りしよう」という願を起こしました。ですが、この木を自分の住んでいる土地まで簡単に運ぶ方法がないので、家へと帰りました。その後、その人の夢の中にお告げがありましたので、その人は運搬の人夫を雇って御馳走して、その人々を連れてもう一度あの木の所へ行きましたが、木が大きくて運搬するには人数が足りないので、空しく帰ろうとしましたが、駄目で元々と、地に縄を付けて曳いてみようと思って曳いてみると、簡単に曳くことができました。それを見て通行の人々が手助けして一緒に曳いて行くと、葛城の下の郡の当麻の郷(現、下葛城郡当麻町)まで、曳いて来ました。ですが、この人は、資金も無く、十一面観音菩薩像を造るという心の内の願を遂げることができずにこの木を長くそのままに置いている間に、亡くなってしまいました。そのため、この木はこの場所で何もされないまま、八十年を越す年を経てしまいました。
 その頃、その郷に病気が発生して、一人残らず病気になっり、苦痛を受ける人が多く出ました。このため、「この木のせいである」と言って、郡の長、郷の長など主立った者が集まって、「今は亡き何とかという者がつまらない木を他国から曳いて来たためにこの病気が発生したのだ。ということになり、木を曳いて来た者の子の宮丸を呼び出して、責任を取るようにと責め立てましたが、宮丸一人の力ではこの木を取り捨てることができません。全く解決策がありませんので、その郡の人々をかり集めて、この木を磯(し)城(き)の上郡(現、桜井市付近)の初瀬川の川辺に曳いていって棄てました。この木はこの所でまた二十年置かれました。
 その時に、一人の僧がいました。名を徳道と言います。この木のことを聞いて、「この木は必ず神霊の宿る木なのであろう。私は、この木で十一面観音菩薩の像をお造り申し上げよう」と思って今の長谷の土地に曳いて移しました。ですが、徳道上人は像を造る資金が無く、すぐさま造り申し上げることができません。そこで徳道上人は何も出来ないことを悲しむだけで七、八年の間、この木に向かって礼拝して、「この願いを必ず遂げます」と誓いを立て続けました。
 その時に、このことが元正天皇様のお耳に入り、経済的援助をしてくださいました。また、藤原房前の大臣も助力をしてくださり、神亀四年(七二七)に観音菩薩像をお造りになりました。高さ二丈六尺(八メートル弱,現在の長谷寺の像は十メートル余)の像であります。
  この後、徳道上人の夢の中に神様が現れて、この嶺を指して、「あの山の下に大きな岩がある。速やかに掘り出して、この観音像をその上に立て申し上げよ」と見て、夢が覚めました。すぐにその示された場に行って掘ると、夢で告げられた通りの大きな岩がありました。岩の幅も奥行きもともに八尺(約二・四メートル)ありました。その岩の表面が平らなことは、碁盤の表面のようです。夢で示された通りに、観音像をお造りした後に、子の岩の上にお据えしました。観音様の開眼供養の後に、観音様の霊験は大和の国だけでなく他の国にまで及んで、お参りする人はでご利益を蒙らない人はいません。霊験はあまねく及び、我が国だけでなく、震旦(中国)にまで及ぶ観音様でいらっしゃいます。
 現在の長谷という寺がこの寺であります。人々は、ぜひとも足を運んで信心の心をしっかりと保つのが良い、と語り伝えていることでございます。