落語のひととせ 13 冬の部3

   富札 その1                     (富久、火事息子)
 富札は昔、寺社が修復の資金集めのために許しを受けて売り出したものです。一枚が一分で、最高賞金の一番富が千両ですから、四千倍になるということになります。富札は、売った者が誰に売ったかをきちんと控えておきます。売るのは寺社の直接販売と委託販売とがあります。委託販売は販売者が手数料を得ることができますが、預かった分を売り切らないと自分で引き取ることになりますので、売るのに懸命になります。
 こうして、富の当日になると、寺社の境内で衆人環視のもと、箱に入れた札を長い錐で突いて当選番号を決め、読み上げます。突く前には箱を揺するのですが、集まった人の熱気で箱が動いたと言われます。錐で突く人は目隠しをしますが、この時、盲人に突かせたという咄家もいて、はっきりしません。
 一番富、二番富と等級がたくさんあります。賞金は一番富が千両、二番富が五百両は変わりがないですが、三番富以下は不確かです。富に当たってもすぐに当選金を受け取ると、二割ほどお立て替え料などの名目で手数料が引かれるということです。
 以上が富についての咄の中の基礎知識です。
 年末になると、「大神宮様のお祓い」というよび声で、お祓いをして前年のお札と新しいお札とを交換する人が伊勢から出て来ました。その声で、もうそんな時期になったのかと時の流れを感じることだったと言います。
 さてここに、酒であちこちの旦那をしくじった久蔵という太鼓持ち、ひっそりと浅草阿部川町で長屋暮らしをしています。表でばったりと以前の知り合いに会い、相手が富札売りをしていて、一枚売れ残っている札が当たりそうな番号だと言われて、一分で買いました。
 家へ帰って、神棚の大神宮様へと札を納め、当たるようにお願いしながら一杯飲んで寝てしまいました。そんな夜中に半鐘の音、方角を見ると、普段久蔵があの旦那さえしくじらなければと思っている旦那の店の方角です。長屋の者が親切に起こしてくれ、久蔵は火事場へと駆けつけます。
 旦那の店に着いた久蔵、はるばる駆けつけて来た功で、出入りが許されます。何の手助けもできませんでしたが、火事見舞いの名前の帳付けくらいは出来るだろうとしやっています。そこへ見舞いに酒が届くと飲みたくて仕方がありません。一杯くらいならと旦那が飲ませてやったら、いい気分に飲んで,少し絡み始めたので、寝かしました。
 しばらく経つとまた半鐘の音、火事の多い晩です。今度は浅草阿部川町あたり、久蔵は起こされて、火事の掛け持ちは初めてだとぼやきながら家へと走ります。長屋に着けば、家は焼けてしまってありません。しょんぼりと旦那の店に戻ると、火事見舞いに来て火事に遭ったのだからと、以後旦那の店に温かく置いてもらえました。
 表を出歩いているときに、富の当日ということを知り、神社に行きました。一番富は久蔵が買った札です。やれ嬉しやと社務所へ行くと、札を売ってくれた知り合いもいて共に喜んでくれましたが、札が燃えてしまってもう無いというと、一文ももらえないとすげなく言われました。「売った当人がいて、買った当人がいるのに、どうして駄目なんだ」と言ってもどうにもなりません。
 夢と消えた千両富、がっかりして歩いていると、いつの間にか元の町内にいました。「久蔵じゃないかい」と声を掛けられ、見ると鳶の頭、あれ以来寄りつかないからどうしたかと思っていた、火事の時にいなかったから、道具だけでも出してやろうと思って蒲団や釜を出して、うちにあるから持って行きな、と親切に言ってくれます。ありがとうございますとぼんやり答えたら、さらに、さすが芸人だ、立派な大神宮様があったので、出して置いたとのこと、久蔵は、「大神宮様」と聞いたとたん、目の色が変わりました。頭の襟元を絞めて、「大神宮様、大神宮様を出せ」と叫びます。頭の家で大神宮様を出されると、「この中にあればよし、もしなかったら」と扉を開けます。すると、当たり札がありました。慌てて頭に詫び、喜び、泣く久蔵です。訳を訊いた頭も、「無理はねぇや」と納得してくれました。「これからどうする」「これも大神宮様のお蔭、町内のお払い(お祓い)をいたします」。
 火事や地震など緊急事態に出入り先に駆けつけて勘気が許されるという形の物語として、伏見の地震の時に閉門中加藤清正が真っ先に駆けつけて閉門を許されるという筋立ての通称「地震加藤」、本名題『増補桃山譚(ぞうほももやまものがたり)』という歌舞伎劇があります。
 火事の時に駆けつけるということでは、勘当されて臥煙(がえん)という武家方の火消し人足になった息子が実家が心配で近くに見ていて、それとなく番頭の蔵の目塗りの手伝いをし、久々の親子の対面をするいう咄があります。この時は、母親が、息子に羽織袴を着せてやりたいと言います。父親が、「そんなもの着せて、どうするんだ」「だって、火事のお蔭で会えたんですから、火元に礼にやりましょう」。
 この咄を思い出し、久蔵も、火元に礼に行きたい気持ちになったかも知れないというのは蛇足です。

   富札 その2                   (水屋の富、宿屋の富)
 江戸の下町は海に近く、井戸を掘っても海水が混じって、良い水が出ませんでした。そこで幕府は水道を整備して良い水を供給するようにしました。それでも、水道に遠い地は水に不便をしていました。そこで、良い水を汲み、生活用水として家ごとに売って歩く水屋がいました。生活用水ですから大切ではありますが、携わる本人にとっては、一日も休むことができず、毎日重い水を運ぶので、体力がなければ続けられないつらい職業でした。
 その水屋が、老後の安泰のためにと買った富札が、一番富に当たりました。これで安心、仕事も辞められるとは思いましたが、突然辞めるとこれまでの届け先の家が困るので、代わりの者が見つかるまで続けることにしました。札は千両と換金しましたが、泥棒が入って殺される夢を見て、安眠できません。仕事に出る時は独り者のために部屋に置くわけにいかないので、畳を上げて床下に下げておきました。それでも心配で、朝起きると長い竿を突っ込んで金に当て、仕事から帰るとまた縁の下を探って安心します。夜にはうなされ、朝晩に竿で探り、水屋は疲れてきました。
 すると、向かいの家に住む遊び人がこの様子を見て、縁の下に何があるのだろうと思って、置いてあった竿で縁の下を探ります。竿は金に当たり、金は遊び人に持ち去られてしまいました。一日の仕事を終えて帰って来た水屋、いつものように竿で縁の下を探ると、金に当たりません。何度探っても、無くなっています。水屋はほっとして、「ああ、これで苦労が無くなった」。
 この咄で、水屋という仕事について知りました。落語事典には、「水屋とは、『冷(ひや)っこい、冷っこい』と荷をかついで水を売って歩く商売」と、清涼飲料水として甘い水を茶碗に入れて売り歩く水売りと混同しています。水売りならば、休んでも困る人はいませんから、今日で言う喫茶店のような水茶屋の株を買うことも出来たはずです。ついでに、この水茶屋、立地や茶汲み女というお茶を運ぶ女性や天候に左右されて当たり外れがある不安定な商売で、この「水」から「水商売」という語ができたそうです。
 今度は日本橋の宿屋での咄です。江戸日本橋馬喰町(ばくろちょう)は宿屋が立ち並んでいました。その中のみすぼらしい宿屋の前に、これまた風呂敷包み一つを持ったみすぼらしいお客が立ちました。宿に泊まって何をするでもなく日々を過ごしています。亭主が、そろそろ宿賃をもらおうと催促に行くと、自分は故郷で豪邸に住み、金があり余って困っていると壮大な話をします。今回はもてなしを受けたくないので、みすぼらしい形で一番寂れた宿に泊まったのだと言います。この話に圧倒された亭主はこの話をすっかり信用し、そんなお金持ちなら富札を一枚買ってほしいと頼みます。客は、「するとこれが当たったら千両払えば良いのか」「いえいえ、千両もらえるんです」「そうか、金が増えると困るから、当たったら半分やろう」と約束して、一分で富札を買いました。これで客は一文無しになり、いざとなればこの家には悪いけれど逃げ出そうと決めて、同じようにぶらぶらしていました。
 富の当日、宿の亭主は出掛けています。客はまた当てもなく出掛けました。いつの間にか神社に着いて、そこに富の当たり番号が貼り出してありました。どうせ駄目だろうと見て行くと、自分の番号が当たっています。急に顔が青ざめ、胴震いが止まらなくなりました。どんなに力を入れてもどうしようもありません。震え震え道を辿って宿に戻ります。途中、半分やると言わなければ良かったと後悔も浮かびます。大言壮語した手前、富に当たって気分が悪いとは言えず、出先で行き違いがあって腹が立ったと言い訳を言って、床をとってもらって蒲団を被って寝てしまいました。
 宿の亭主は用足しの帰りに神社に寄って当たり番号を見ると、金持ちの客に売った札の番号が出ていました。半分の五百両がもらえるのですから、これもまた震えが止まらなくなりながら戻って来ました。
 客はどうしたかと訊くと、気分が悪いと言って寝ているとのことです。千両富に当たり、半分もらえる約束だから、寝ている場合ではなく祝いだ、と亭主は客を起こしに行きます。「千両当たりました、私にも下さる約束で」「ああ、持って行きなせぇ、一両でも、二両でも」「いえ、半分下さる約束で」と会話はしましたが、客は一向に起きません。「旦那、寝ている場合じゃありません、起きてください」というと、蒲団から顔を出します。「何だ、草履履いて上がってくるやつがあるか」と言われながらも亭主が蒲団をめくると、旦那も下駄履いて寝てました。
 客が、「半分やると言わなければ良かった」と言いながらも宿に帰らなければならなかったのはなぜか、札を持って逃げれば良いではないかと思ってしまいます。逃げられ何のは、富札その1の基礎知識に書いた通り、当選金を受け取るには、売り手がはっきりしないといけないからです。次の富札その3に書く「御慶」で、三代目古今亭志ん朝は、富札を買いに来た八五郎に対して売り場の人が、「お名前は」「お所は」「大家さんは」と尋ねて帳面に付ける場面を入れてくれていて、富の知識を与えてくれていました。

   富札 その3                          (御慶)
 ここに一攫千金の夢にとりつかれ、富札を買い続けている男がいました。一枚一分で、安いものではありませんから、お神さんからはいいかげん止めてくれと言われています。そんな八五郎が正月を前にして、いい夢を見たからと、お神さんの着ている姉さんの形見の袢纏を脱がせて質屋で一分を都合して買いに行きました。
 八五郎の見た夢は、梯子の上に鶴が止まるというもので、鶴は千年というところから、鶴の千、梯子で八四五と、鶴の千八百四十五番を買おうとしました。ところが、たった今売れてしまったところで、前後の番号が残っていました。もう一枚作れと言っても通りません。こうなったのも、質屋の番頭がぐずぐず言って一分貸すのが遅かったからだとぶつぶつ言いながらがっかりして歩きます。
 せっかくの一番の富を逃したとがっかりして柳原の土手を歩いていると、易者が声を掛けます。よほど悩みが深いと見られたのでしょう。易者に事情を尋ねられ、良い夢を見て富札を買おうとしたのに買い損なったと言うと、富なんて当たる物じゃないと言いながらも、夢判断をしてくれました。鶴の千は良いとして、梯子で八四五と解くのは素人、梯子は登るのに必要な道具なのだから、五四八と上って、鶴の千五百四十八番を買わなくてはいけないと教えられました。見料は払いたくても払えないが、当たったら何倍にもして返すからと謝って、急いで札を買いに走りました。
 売り場の人はあきれて、もう札はありませんと応対をしようとしたら、それではなくて、鶴の千五百四十八番を求めます。これは前後が売れて、この札だけがありました。
 富を突く刻限になり、一番富は鶴の千五百四十八番、「あ、たった、たった」と言いながらしゃがみ込んでしまいました。周りの人が社務所に担ぎ込んでくれ、「あなたは気丈だ、当たってそのまま息を引き取る人もいます」と祝いの言葉を掛けられ、八五郎は札を出して、とにかく一刻も早く金をくれと言います。
 来年の二月まで待てば満額受け取れるし、今受け取るにしても金額が大きいので誰かと一緒に受け取りにきたらいかがかと言われます。ですが、八五郎は、家へ帰ればお神さんが怒っていますし、あと数日となった年内に払わなくてはいけないあちこちへの借金がかさんで切羽詰まっていますから、とにかく今受け取りたいと言い、二割引の八百両を受け取りました。
 股引を袋代わりにして金を入れ、長屋へ帰ります。家に帰ったら、お神さんが、さ、離縁しておくれと迫るので、当たった金を見せて驚かせました。「だから富はお買いよと言ったんだ」とまで言われました。まずは大家さんの家へ、溜まっていた店賃を払いに行きました。「無駄使いはよしなよ、昔から千両八百、十三年といって、一日八百文ずつ使っていると、千両が十三年で無くなっちまうんだから、もう富も止めな」と親切に忠告してくれました。
 無駄遣いはよしなと言われても、やはり心は浮かれます。前々から出入り先の旦那のように裃を着て年始回りに行ってみたいとお神さんに言います。今から誂えても正月に間に合わないので、市ヶ谷にある甘酒屋という古着屋に行けば何でも揃うと言われて、一式揃えました。腰刀も一振りくらいならよかろうと手に入れ、大晦日の夜には裃を着、腰刀を差して、夜の明けるのを待ちました。
 夜が明けるのを待ち兼ねて飛び出します。思わず出た言葉が、春の部1でお伝えした「わーい正月だ、正月だ。めでてえな」でした。大晦日はほとんどの家が徹夜ですから、少々早くてもよかろうと大家さんの家に行きました。この形でするのにふさわしい挨拶の言葉はないかと大家さんに訊いたら、「長松が親の名で来る御慶かな」という句があるから、「御慶」がよかろうと教えてくれました。それでは、お上がりなさいと言われたら何と言おうと重ねて訊くと、春永にゆっくり伺いますという意味で、「永日(えいじつ)」だと、大家さんは親切です。
 それならひとつ友達のところでその挨拶をやってやろうと訪ねて行ったところ、留守です。うろうろしていたら、向こうから仲間と一緒に帰って来ました。早速、ぶっくらわせてやろうと、「ぎょけーい」と声を掛けましたが、通じません。重ねて「御慶」「何だって」「御慶ってたんでぇ」「ああ、恵方参りに行ったんだ」。
 落ちは、文字にしにくい言葉です。「御慶ってたんでぇ」は、八五郎は「御慶って言ったんでぇ」と言ったつもりですが、早口なので、友達には「どこへ行ったんでぇ」と聞こえたということです。
 恵方は、その年の幸福を司る歳徳神(としとくじん)のいる方角です。正月に恵方に当たる神社にお参りする恵方参りが広く行われましたが、暦が生活から遠くなり、恵方参りは初詣に変わり、もはや恵方など気にする人も少ないだろうと思っていました。いつしか、節分の夜に恵方を向いて無言で巻き寿司を食べるという恵方巻の風習が広まり、正月ではない時期に恵方が注目されるようになりました。
 八五郎が八百両も持てるかというと、千両箱が箱ぐるみで十五㎏ですから、大丈夫持てます。現代の一万円札で一億円は十㎏です。ついでに、魚や野菜を天秤棒で振り売りする行商人の荷の重さはそれより重い場合があります。
 富札が当たる咄を並べました。「一の富どこかの者が取りは取り」ではありますが、やはり当たってみたいものです。情けないのは、「富札の引き裂いてある首くくり」、あえて魔除けに書いておきましょう。

   歳の市          (道具屋、姫かたり、お釣りの間男、三井の大黒)
 歳の市とは、年末の必需品や縁起物を売る市です。店を並べて「市ぁ負けた、市ぁ負けた、注連(しめ)か飾りか、橙か」という売り声で呼ぶのは、橙を付けた注連飾りを売る店です。与太郎が道具屋をやる前、叔父さんに言われて歳の市に店を出したことがあります。その時は、妙な取り合わせですが、苧(お)と呼ぶ麻糸、橙、傘に干柿を売ることにしました。さて売り声は、と考えましたが、うまく出ません。まずは苧を手に取って、「苧ーぅ」と怒鳴ったので、「何でぇ」と睨まれました。これはまずい、今度は「屋」を付けようとしたら、「おやおやおや」で締まりません。ようやく「苧屋でござい」で形にはなりましたが、その他の物を呼べません。そこで、続けて言おうと「苧や橙の傘っ柿」、無事に全部を読み込めましたが、縁起物を売る市で、「親代々の瘡っかき」と代々悪い病気持ちという呼び声では、買おうという人は誰もなく、大失敗をしました。
 同じ歳の市に、親父がはたきを売りに来ましたが、売れません。そこで息子が替わりに店に出て、「はたき」とは言わずに「采配」と言い替えて「采配買わないか、来年の采配」と声を掛けました。「采配」が「幸い」に聞こえ、来年の幸いなら買わなくちゃいけないと、全部売り切れました。これをお上が聞いて、御褒美を下されました。その訳は、「親のはたきを売った(親の敵を討った)から」だそうです。
 こんな様々な呼び声の聞こえる雑踏の中に、大名家のお姫様と思われる一行がやって来ました。すると、お姫様に俄の差し込みが起きました。この辺りに医者はいないかと家来たちは慌てます。この近くに吉田玄随という医者がいましたので、お姫様はそこに運び込まれました。この吉田玄随は、医者の看板を掲げてはいますが、裏ではあくどい金貸しをしています。
  玄随は、お姫様の顔によだれを流しそうな顔で治療にかかりました。お姫様が「痛い、痛い」と言うので、玄随はあちこちと腹を押して、治療を試みます。そのうち、手が滑ったかわざとなのか、下腹近くを押したところ、お姫様は「あれーっ」という絹を裂くような悲鳴が上がりました。家来が診療室に飛び込んで来て、「その方、姫君に何をいたした」と刀に手を掛けて問い詰めます。玄随は真っ青になって平伏して、言い訳をします。家来は、姫君が猥らなことをされたことが明らかになったら、お嫁入りに差し支え、我ら一同切腹をせねばならぬ、この決着をいかが付けてくれると強談判をします。こうなれば、示談にしてすべて内聞にしてはいただけないだろうかと、間男ではなくても、首代を差し出してお詫びをするしかありません。
 示談金は五百両で決着し、玄随が家来に渡したとたん、お姫様だと思っていた娘があぐらをかきました。我々は、強欲と評判の医者を狙って仮病になり、治療にことよせて医者から金を巻き上げるのだと言って帰って行きます。外からは歳の市の物売りの声が響いてきます。「医者ぁ負けた、医者ぁ負けた」、玄随は思わず、「姫か、騙りか、大胆な」。
 先程、間男の首代と書きましたが、間男は重ねておいて四つにして良いということになっていました。殺されてはかなわないので、首代という名目で慰謝料を出して許してもらうことが行われていました。この首代が大判一枚ということで、大判一枚を小判に替えてた金額の七両二分になっています。 
 女房が間男をしている現場に踏み込み、出刃包丁片手に「間男代七両二分出せ」「金はここにあるから持って行きな」、数えてみると小判八枚、「やい待て」「払ったからもう良いだろう」「二分お釣りだ」。という間抜けな咄もあります。
 この歳の市、大工さんたちは夜に塵取りや踏み台などを作って売り、小遣い稼ぎをしました。普請場で大工さんたちの仕事ぶりを見て、あれこれあげつらっていた男は、大工さんたちに殴られますが、同業と判り、親方の家に連れられます。以来親方の家に身を寄せた男は、親方から皆と同じように夜業をすることを勧められ、以前大黒の像を頼まれていたのを思い出して作ります。
 何日もかかって大黒の像が完成、男は風呂に行きがてら、注文主に大黒像が出来たことを知らせます。男の留守に大黒の像を受け取りに来たのは、日本橋の大店の三井呉服店の番頭でした。かみ合わない会話をしているところへ男が帰ってきて、男は飛驒の名工左甚五郎と知れました。三井には、運慶作の恵比寿像があり、甚五郎はこの像と対になる大黒像をと頼まれていたのを、親方の歳の市に出す物をという言葉で思い出したのでした。この像には、「商いは濡れ手で粟の一摑み(一つ神)」という歌がついていましたので、甚五郎が筆を執って、「守らせ給へ二つ神たち」と後を付けました。これが今に伝わる三井の大黒です。
 名人左甚五郎の物語の一つですが、歳の市がきっかけになったことでここに加えました。

   煤払い                    (御神酒徳利<占い八百屋>)
 歳の市と前後して、新年を迎えるために大掃除をいたします。昔は煤払いと申しました。江戸城の煤払いは十二月十三日と決められていましたので、町の商家でもそれに倣って十三日にする家が多くありました。煤払いが終わると、番頭を胴上げしてめでたく祝います。胴上げから落とされて、番頭が痛そうな顔をして腰をさすっている浮世絵も残っています。
 煤払いと言えば、忠臣蔵の講談の義士銘々伝の中に、煤払いに使う煤竹を「笹や笹」と売って歩いている大高源五宝井其角が両国橋で行き会う話があります。句の付け合いをということで、其角が「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠むと、源吾が「明日待たるるその宝船」と付けます。これを聞いた其角が、宝船をあてにするとは源吾も落ちぶれたものよと思ったけれど、翌日の討ち入りを聞いて、そうであったかと判ったという話になっています。付け合いの表の意味は、十三日は煤竹売り、翌日からは宝船売りと転業するということで、誰に聞かれても問題なし、そこにそっと明日の討ち入りをほのめかしたのに、其角には通じなかったとも考えられます。十三日と煤払い、今はこの結びつきは薄れました。
 さて、その暮の十三日、日本橋馬喰町の旅籠、刈豆屋吉左衛門の家でも煤払いが行われていました。台所に水を飲みに来た番頭の善六、そこに刈豆屋の先祖が徳川家康から拝領した御神酒徳利が放り出してありましたので、誰かに持って行かれては大変と、水がめの中に沈めます。煤払いが終わり、神棚に灯明を上げようとしたら、御神酒徳利がないのに気が付きました。店の者全員に尋ねますが、皆知らないということで、旦那は寝込んでしまいました。煤払い慰労の宴もお預けとなり、善六も家に帰りました。
 家で、喉が渇いたので水を飲もうと台所に行った善六、水がめを見て御神酒徳利のことを思い出しました。一度は知らないと答えた手前、どうしようもありません。お神さんに相談すると、そろばん占いで出せばよかろうとの案を出してくれました。というのは、善六のお神さんの父親は易者だったからです。門前の小僧ではないですが、お神さんが占いに精通していて、言うべき言葉をすべて口移しで教えてくれたので、善六は店に行って、生涯に三度はどんな難しいことでも占いで解決できると言って、教わった通りに話して、御神酒徳利を出しました。
 刈豆屋では改めて宴が始まりました。この日は煤払いなので、普通のお客は断ったのですが、大坂の鴻池善右衛門家の番頭だけは長年のお得意のため、特別に泊めていました。この鴻池の番頭が宴のもととなった善六の占いを聞き、大坂の本家のお嬢さんが長年のぶらぶら病で苦しんでいるので、それを三度の内の一度の占いで治してもらいたいと頼みました。
 善六は今さら断りも出来ず、お神さんに相談すると、人相の本を貸すからそれと比べて見て、死相が出たら、この病人は神仏の祟りでもう助かりませんと言えば良い、それはいつだと訊かれたら、無情の風は時を嫌わずですと言えば良い、うちのお父っつぁんは難しいのはみんなそう言うんだよと、易者の奥の手の台詞まで伝授してくれました。
 番頭と大坂へ上る途中、定宿としている神奈川宿の新羽屋(にっぱや)善兵衛に泊まります。宿の様子が変なので聞くと、薩摩藩の武士が泊まった時に、島津の殿様から将軍家へ宛てた密書と金が入った財布がなくなり、出るまで主人が拘束されているとのことです。鴻池の番頭が、それならこの善六先生の一回残っている占いに頼めば良いと言います。それでは早速お願いしようということになり、善六は占いをしなければならなくなりました。もう絶体絶命、江戸へと逃げ帰るしかありません。手立てを整えて離れ座敷に籠もった善六の元に女中が忍んできて、親が病気で一時暇をもらいたいと願ったが許されず、騒動が起こったら帰れるかと財布を稲荷の社の壊れたところに隠してあると打ち明けます。女中には助けてやるからと堅く口止めをして、宿の者を呼び、庭にある稲荷の社が嵐で壊れたのに修復しないので、稲荷が怒って財布を隠したという話を、いかにも占いで判ったようにして事件を解決しました。
 大坂へと上った善六、今度は知恵袋のお神さんがいないこともあって、神仏の助けを求めて、断食して水垢離をとって祈ります。空腹で朦朧となった善六の前に白髪の老人が現れます。老人は、神奈川の新羽屋に祀られている稲荷であると名乗ります。宿の孝行な女中のしたことを稲荷に押しつけたと言い出すので、善六はぎょっとします。ところが、稲荷は言葉を続けて、そのお蔭で稲荷が霊験あらたかだとの評判が立ち、社は立派に建て直され、参詣人も増えて良かった、その礼として、この家の娘の病気の原因を教えると語ります。
 娘の病気の原因は、昔、難波が入り江であったころ、聖徳太子物部守屋とが仏法を巡って争ったときに多くの仏像が入り江に投げ込まれ、それが埋もれて陸地となった、ここは大きな家であるので、乾(いぬい・西北)隅四十二本目の柱の三尺下に観音像が埋もれている、それを崇めなさい、ゆめゆめ疑うことなかれ、と結んで、老人はかき消すように見えなくなりました。
 善六は急いで家の者を呼んで、今聞いたばかりのことを語り出すと、先程の老人の言葉がすらすらと出てきます。「ゆめゆめ疑うことなかれ」まで言って、ほっとして「ああ、腹が減った」と座り込みました。
 鴻池家では早速、人を雇って柱の下を掘らせると、言葉通り観音像が出てきましたので、お祀りして、あわせて近隣の困っている人々に施しをしましたので、娘は快復しました。善六は多くのお礼をもらって江戸へ帰りました。そろばん占いで成功したので、暮らしが桁違いになったと言います。また、善六が家に帰ったら、お神さんが「これも新羽屋稲荷のお蔭だね」と言ったら、善六が「なあに、かかあ大明神のお蔭だ」と答えたということです。
 とんとん拍子で良い結末です。この咄には、御神酒徳利を水がめに入れたのが善六ではなく、出入りの八百屋だったという別の伝もあります。この八百屋、それまではお出入りだったのに、女中さんが代わったら、全く相手にされなくなりました。今日も懲りずに台所口に顔を出したら、煤払いで忙しいこともあって邪険に扱われ、怒ってそこにあった御神酒徳利を水がめに隠します。大騒動になって女中が叱られているので、八百屋は鬱憤晴らしになり、もうよかろうと顔を出して占いで解決します。折からここに泊まっていた客がこの話を聞き、本家での紛失物を探してほしいと頼みます。八百屋は占いの素養などないので、本家が箱根の山の向こうだから判らないなどと理由を付けて断ると、それなら日当を払うから現地へ行ってくださいと女房が懐柔され、旅に出るはめになってしまいます。途中、小田原宿で紛失した財布を、八百屋が占い名人と信じた女中の告白で見つけたことにしたことから、大評判が立ち、近郷近在の人が集まってきて大行列となります。宿の者が、そろそろ占いの先生にお出まし願おうと八百屋の部屋へ迎えに行くといません。「今度は先生が紛失しました」。
 どういういきさつで占いをするのが番頭の善六と八百屋になったのでしょう。稲荷大明神による幸せな結末と、失踪による途中での打ち切りは、咄の長さに関係しますので、咄家の力量、改作、時間制限などいろいろ理由が考えられますが、とにかく、二つの系統があるのだということで決着しましょう。八百屋活躍の咄を、「占い八百屋」と称することもあります。
 鴻池家で観音像が出現した乾(北西)の隅は、陰陽道では東北の鬼門に対して神門と呼んで尊ばれ、大黒天などの副腎を祀ったり宝物を置いたりした所です。「いぬゐのすみ」という言葉は、『宇津保物語』に初出して、後の物語にも出てきます。