落語十二支

はじめに
 少し昔のこと、落語について一時間ほど、何か楽しい話をせよ、とのご指名をいただきました。そもそも落語の発生が、戦国時代に出陣した大名は、戦闘のない時には退屈でしかたがありません。そこで、話の上手な者に楽しい話をさせました。この退屈を紛らわすのを「お伽」と申しまして、この話専門の人々を「お伽衆」と呼んでおります。皆様一度は名前をお聞きになったことがあると思いますが、曾呂利新左衛門、この人の屋敷があったので今に町名が残っている織田有楽斎などという人々がおりました。はたして皆様の退屈を慰めることができたのかわかりませんが、その時の台本が出て来ましたので、記録として残すことにいたしました。
 なお、題を「十二支」といたしましたのは、落語を順にお話をさせていただいても締りがないような気がいたしますので、一まとめにしてみました。これから取り上げる噺では十二支の動物が主人公としてだけでなく、いろいろな形で登場してまいります。こじつけとお叱りなくお聞きください。


 前置きが長くなりました、それでは早速、干支頭の子、鼠から始めましょう。
 仙台の城下に一人の旅人がやってきました。おじさん、宿を探してるんでしょ。ど
うせなら私のところに泊まってください、と子供から誘われ、どこに泊まるも一緒だろうと、この子の宿に泊まることにしました。これから損料屋、今のレンタル・ショップですね、に寄って蒲団を借り、ついでに夕食の寿司を注文して行くから、前金でください、とこの子に言われ、前金を渡して一人で宿に向かいました。行ってみると宿は、仙台一の宿屋の虎屋の向かいで、納屋同然の小屋、腰の抜けたおやじさんが一人で寝ていました。それでもこの旅人は一向に気にするようすもなく、一人で裏の川に行き、足をすすいで客となりました。
 食事も済み、いつとはなく宿の主の身の上話になりました。この宿の主は、もと前の虎屋の主人で、子供の母親が早くに亡くなったもので、一人でいられないところから女中頭を後妻にして暮らしていました。仙台の七夕といえば近郷近在から多くの見物客がやってきて宿屋にとっては書き入れ時でありますが、虎屋も多くの客でごったがえしていました。二階の客の間で揉め事があり、仲裁に上がっていたのですが、客に押されて階段の上から落とされてしまい、それがもとで立てなくなってしまいました。最初のうちは客間で寝ていたのですが、子どもは後妻から折檻を受けることもあり、客商売に病人がいるというのもいかがなものか、ということで、向かいにあった納屋を改造して父と子で暮らすことになりました。三度の食事は本宅から運ばせていましたが、二度になり一度になり、そのうちに催促しないと持ってこないような事態になりました。ある日親友がやってきて、虎屋は番頭の手に渡ったということだが、どうしたことかと叱られました。これは女房に預けておいた実印を使い、虎屋を番頭に譲り渡すという証文を作って、旦那を虎屋から追い出してしまったのです。こうして父子は虎屋から追い出されましたが、息子が自分が客引をするから宿屋をしよう、ということで宿外れまで行って客を引くようにしました。宿の名は、納屋から追い出した鼠に義理立てして「ねずみや」と付けました。宿を開業したといっても、何としても二人きり、しかも蒲団を借り、食事は買い食い同様なので怒って帰る客もあり、やっと暮らしを立てているのだ、と長い身の上話が終わりました。
 この話を聞いた客は、実は自分は飛騨の国から出て、今は江戸にいる大工の左甚五郎であると名告り、木切れがあったら一つほしいと言いました。甚五郎はその夜、彫物をして、この宿屋が栄える呪いだ、縁があったらまた会おうと言い残して旅立ってしまいました。
 近所の人がねずみやを見ると、建物の前に盥が出されています。いったいなんだろうと見ると、盥の中には木彫りの鼠、じーっとみていると、鼠がチョロチョロ動いてるんで、「ウワッ、動いた」「木でできたものが動くわけはねえ」と言いながら見ると動いている、その傍に何か書いたものがあるんで読んでみると、「この鼠をご覧になられたお方は、遠近を問わず、当ねずみやにお泊りくださるようお願い申し上げます 左甚五郎」とあります。天下の左甚五郎に頼まれたからには泊まらなくてはならない、と泊まると、主が身の上話をする、その翌日、泊まった人たちが木彫りの鼠とねずみやの身の上話をする、また翌日も木彫りの鼠が動くのを見ようと来る客に身の上話、その繰り返しで、ねずみやは大繁盛、反対に虎屋は悪い評判が立って泊まる者がいなくなってしまいました。
 こうなると虎屋の方でも負けてはいられません。これには番頭にも言い分があります。虎屋の主となった番頭は、もともと女中頭と好き合っていたんで、これを旦那も知っていて、やがては一緒にしてくれるものだと思っていたところ、旦那がさっさと女中頭を後妻にしてしまったのです。番頭は我慢をしていましたが、たまたま旦那が怪我をしたところから、焼け棒杭に火がついて旦那を追い出したのも無理はありません。そこで、仙台一の彫物の名人と謳われた飯田丹下(いいだ たんげ)という職人に頼み、虎の彫物を作ってもらい、甚五郎の鼠をにらむように虎屋の軒先に掲げました。この飯田丹下は、将軍家光公の御前で左甚五郎と彫物を争い、負けたという人なんです。すると、それまでチョロチョロ動いていた鼠がピタッと動かなくなってしまいました。主はあまりのことに怒ったら、腰が立ちまして、「私の腰が立ちました、鼠の腰が抜けました」という妙な手紙を江戸の甚五郎に送りました。
 手紙を受け取った甚五郎は、取る物も取りあえず仙台にやってまいりまして、虎屋の虎を見てみると、虎は百獣の上に立つ動物、格が出てくると、おでこに王という字が浮かび上がってくるというが、この虎にはそれがない、しかも目には怨みがこもっているのです。「これ鼠、わしはお前を彫るときに、余計なことは考えず、一心を籠めたつもりだが、あんな虎が怖いか」「えっ、あれ虎ですか、私ゃ猫かと思った」。
 これが「ねずみ」という噺です。名人の魂が籠もった鼠は、誇り高いものでした。
 話の最初に力が入り過ぎまして、お疲れになりましたでしょうか。もう少し軽くしてゆきましょう。


 次は丑です。牛は褒める定型句がありまして、てんこくちがんいちこくろくとうにしょうはちごうと申します。これは、天角、角は天に向き、地眼、眼は大地をしっかりと見つめ、一黒、肌は黒が一番、鹿頭、頭は鹿のように小さく、耳小、耳は小さく、歯違、歯は食い違っているのが一番なのだそうです。日本で聖徳太子のころにもう飼われていて、牛乳を煮詰めた、チーズのような「蘇(そ)」という食物が作られています。
 ここに、菜や大根などを他人の畑から盗んでは食べているずるい男がおりまして、一度牛の乳が飲んでみたいと悪い仲間に持ち掛けました。すると、おでこに塩水を塗り付けて農家に行き、母親が牛に生まれ変わった夢を何日も見るのでやってきたと言って、狙いをつけた牛の前に「おッ母さん、お懐かしい」といって跪いてみろ、牛は塩が付いているからおでこを舐める、そこで「久し振りに母の乳をいただきたい」と乳を搾って帰って来いと教えられます。
 さて男は、教えられた通りに農家に行って牛の前に跪くと、牛がペロリ、「おッ母さん、お懐かしい」「何やってるだ、それは牡牛だァ」「あ、父親の方でございます」。これはあまりやる人がいませんが「牛の子」という噺です。


 寅、虎は先程鼠のところで出ましたが、もう一つお話します。脇道に入りますが、十二支というのは、時刻、方角にも使われています。時刻ですと、一日を十二に分けて、真夜中を子の刻、以後ほぼ二時間ごとに、丑、寅と続きます。この呼び方の名残は、現代でも昼の十二時を正、午の刻ということの正午にあります。また、方角では、北を子として右回りに、東が卯、南が午、西が酉になります。そして、丑と寅の間を艮と呼びますが、ここ東北側が鬼がやってくる鬼門とされています。それで鬼の姿を描く時は、牛の角に虎の皮の褌といたします。これは鬼ではないのですが、風神・雷神も建仁寺に残る俵屋宗達描くところの屏風では、角を生やして虎の褌の姿に描かれています。この雷が雲の上でゴロゴロやると、人々は臍を取られちゃいけないっていうので、逃げ惑います。雷を真似て腹掛けやっとさせ、という川柳があるくらいです。雷が落っこちて、その後をみると弁当が落ちてます。「お、弁当が落ちてる、どんなものを食べてるんだろう、二段弁当で、上は田螺かと思ったらこりゃ臍だ、下は何だろう」と開けようとすると、空から声があって、「こらこら、臍の下は見てはいかん」。これは雷の小噺ですが、父親がはでに駆け回って下界の人を怖がらせているので雷の子供が真似をしてゴヨゴヨとやっていたら、雲の切れ目から下界へドシーン。下は竹藪で、ちょうど虎が好い気持ちで昼寝してた。虎が驚いて一声吼えると、雷の子が、「おとっつぁーん、褌がいじめるよー」。「雷の子」という噺です。


 卯、兎は因幡の白兎に始まり、かちかち山など昔話は多く、金烏玉兎と言って太陽には金の烏が、月には兎が住むという説話までありますが、不思議なことに噺には見当りませんでした。わずかに「鰍沢」で旅人が道に迷って辿り着いた先にいた女が、以前は吉原の熊蔵丸屋の月の兎(つきのと)花魁と兎が付いているのと、元は上方の「口合(くっちゃい)小町」を東京に移した「洒落小町」という咄の中で、亭主に「うるさい」と言われて「うるさぎ兎、何見て跳ねる」と洒落で仲良くしようとする場面があるのを思い付いただけです。  

 そこで、飛ばすのもしゃくなので、かちかち山でのライバルの狸に代演を頼むことにいたしました。狸の噺はたくさんありますが、あまりお聞きでない噺にします。
 魚屋さんが、品川まで用事がありまして出かけました。今なら電車や車ですぐですが、昔は歩いて行くしかありません。増上寺のあたりは木が鬱蒼としておりまして、昼なお暗いところですが、そこで十七、八の娘が出てきまして道連れになろうとする素振り、こんな寂しいところに娘が一人で歩いているというのは、狸が化かそうとしているんじゃないかと悟った魚屋さん、娘が話し掛けてきたのに、「俺を化かそうとするのだろう、その手は古い、古い」と眉につばを付け、娘を追っ払います。そのままどんどん歩いて行くと、芝の浜に近くなります。芝の町小路小路に海が見え、と詠まれているくらい、昔はここに日本橋とは別の小規模の魚河岸がございました。その道に、活きの良い鯛が落ちているんで、持って帰ろうかと手を出しかけると、鯛が目をむいて、「これでも古いか」。「これでも古いか」という上方出来の噺です。


 辰、竜は空想の動物ですが、中国から来た工芸品から始まり、かなり身近な動物です。竜は皇帝を象徴するということで、逆鱗に触れるなどという言葉もあります。竜の中で最高級なのは爪が五本ありまして、五爪の竜と言われます。皇帝の身の回りのものには全部五本の爪、こんなことを覚えておくと、骨董品の価値もわかりまして、三本や四本爪の竜の模様が付いているのは大したものではないわけです。
 夏の暑い時、お日さまがじりじり照り付けて、一雨ほしいところです。そこに「夕立屋でござい」と売り声が聞こえてきます。夕立屋とは珍しい、呼んでみようじゃないかということになり、「夕立屋って何だい」「へえ、一雨降らせられますんで」「じゃ、頼もう」ということで、夕立屋がふいと姿を消すと、ざっ、と降って涼しくなりました。「いかがで」「涼しくなった、うめえもんだね」「実はあっしは竜なんで、雲を呼べますんで」「そうかい、夏涼しくできるんなら、冬は暖かくできるのかい」「へえ、夏は子供のこたつがいたします」。「夕立屋」という噺です。


 巳、古代には竜も蛇も同じ仲間とされていました。空にかかる虹も、その形を天空を貫く大蛇に見立てたもので、虫偏が付いています。その虫という字も、もともとは蛇の形から出来たものです。噺には、うわばみという大きな蛇が出てきます。大きな蛇と言えば、『星の王子さま』に出てくるボアという蛇は、象を丸呑みにして、横から見ると帽子の形になっていました。そう言えば、俵藤太秀郷が退治した百足は近江の三上山を七巻き半したといういう大きさです。やはり噺の中では大きいものの方がおもしろいですね。この百足は山を七巻き半、ということは鉢巻(八巻き)より少し短いということなんでございます。
 さて、蛇の噺です。評判が立ち、最近は獲物が全然通らなくなってしまい、すっかりお腹を空かせたうわばみがおりました。ある日、遠くから飛脚がやってくるのが見えました。うわばみは、良い餌だと思い、道に大口を開けて待っていました。跳ぶように走って来た飛脚は、おや、どうしたんだろ、急に日が暮れた、と思いながらも走り続けます。遥か彼方に明りがぽつんと見えます。その明りを目指して行くと、いきなり、スポーン。うわばみが、「しまった、褌しておけば良かった」。「うわばみ飛脚」という噺です。


 十二支の半分までやってまいりました。今度は午です。下っ端の者を馬鹿にして呼ぶ言葉があります。相撲ですと褌担ぎ、芝居ですと馬の脚、などというのがあります。一言で馬の脚と馬鹿にしますが、馬の脚というのは二人で入りまして、上に乗った役者さんが不安を感じないようにするという大変難しいものなんです。ここに武助(ぶ すけ)という芝居の下回りがおりまして、この武助は馬の脚の役もつかない下回りで、師匠の身の回りの世話をしたり、その他大勢の一番最後に出てくるような役しかつきません。それが、ある芝居で、初めて馬の脚が振られました。長屋へ帰って大家さんに、やっと役が付きましたと報告すると、それでは一度みんなで見に行ってやろうということになりました。いよいよその見物の日、武助が舞台に出ると、長屋の連中が、「武助さん、武助さん」と声を掛けました。この声援に何とか応えないといけないと思った武助は「ひひーん、ひひーん」と鳴きまして、舞台はめちゃくちゃになりました。終演後に師匠のところに呼ばれた武助、「後脚が鳴く奴があるか」「でも、前足がおならをしました」。「武助馬」という、古い噺です。落語には三百年以上にわたる歴史がありますが、プロの噺家として最初に登場したのが、江戸では鹿野武左衛門(しかの ぶ ざ え もん)、京都では露の五郎兵衛、大坂では米沢彦八という人たちです。この江戸の鹿野武左衛門が作った噺を集めた本が『鹿の巻筆』という題で出版され、その中に「堺町( さかいまち)馬の顔見世」という噺があり、最後に後脚が声を掛けられて「ひいん、ひいん」と舞台を駆け回ったとなっています。その頃、江戸でソロリコロリという流行病があり、一万人ほどが死に、人々を恐怖に陥れました。その頃の町の噂に、南天と梅干を煎じて飲むと良いと馬が言ったというのがあり、南天も梅干も値段が数十倍に跳ね上がりました。幕府としては、この根も葉もない噂の出所を探索し、ようやく犯人二人を見つけました。二人は打首になりましたが、自分たちの企みは『鹿の巻筆』から思いついたと自供したため、関係のない鹿野武左衛門も捕らえられて伊豆大島へと流され、『鹿の巻筆』は版木を廃棄されて絶版という巻き添えに遭ってしまいました。この事件で江戸の落語はその後自粛状態になり、その後八十年ほど全く振るわなくなってしまうのです。そんな因縁の噺が今日まで伝わっております。新型コロナウイルスについてこのようなことがないように願います。


 未、羊です。羊は中国から銅器の装飾として伝わりましたし、経典などでも一般になじまれてはいますが、日本の人が羊を飼い始めるのは明治菜なってからで、噺にはありません。昔の中国では、羊はおいしくて形の良いものの代表とされています。羊を含む漢字では、美は羊のように美しいこと、善は羊のようにうまいこと、養は羊肉のように力をつける食物を表しています。そこで、この養うということから、気持ちを養う噺をいたしましょう。ある男が一冊の帳面を作り、この中に住友に百両、三井に二百両貸したなどと書いていました。家の中で一人で、「まだ三井は金を返さん」などと言っていると、表を通りかかった三井の番頭が聞き、「いつこちらからお金を借りました」と文句を言ったので、「いや、これは気で気を養っているだけで」と答えたので、番頭も「それじゃあ今日五十両お返ししましょう」、男は「ここに入りとしておきます」。『気養い帳』です。強い思い込みはいけませんが、昭和記念公園はうちの庭の一部だが、世間のために国にただで貸してやっているんだ、と思えばいくらか気分壮大になるものです。


 歌は世に連れ、世は歌に連れと申しますが、その時々でいろいろな歌がはやります。  明治後期に名古屋の東雲楼(しののめろう)という遊廓でストライキがあり、「東雲のストライキ、さりとはつらいね」という「東雲節」がはやりました。申の噺はこの歌を知っておいていただいてからになります。太閤秀吉は猿に似ているということで、猿を可愛がっていました。この猿に命じて御前に出てくる大名たちの頭を叩かせて楽しんでいました。大名は叩かれて腹が立ちますが、相手が秀吉が可愛がっている猿ですから。泣寝入りをしなければなりません。癪にさわった伊達政宗が、太閤の留守を狙ってこの猿を叱りつけ、怖さを植え付けました。次の日、太閤の御前に伊達政宗が出てきたので、いつものようにいたずらをさせようと太閤が猿に目配せすると、猿は政宗に近づきます。政宗が猿をにらむので猿は太閤のもとへ戻ろうとする、太閤が目配せするので、政宗の方へ行き、また睨まれて戻る、猿は太閤と政宗の間を行ったり来たり、「さるとはつらいね」。「太閤の猿」でございます。
 落語とは落ちのある噺の意味で、落ちにもいろいろありますが、こういう形で事前に落ちの一部を聴き手に知らせておいて後で落とすのを「仕込み落ち」と申します。


 酉は一般的な鳥よりも、鶏でしょうね。お百姓が畑で一日働き、日暮れになったので農具をまとめて帰ろうとして鍬を忘れたので、烏が「クワー、クワー」、「鍬を忘れて帰るところだった、親切だな」と家に帰ると、飼っている鶏が餌をほしがって寄ってくるので、「お前らは何もしないで餌ばかりほしがる、餌もやらねえ烏が鍬を忘れたのを教えてくれたぞ」。そこで鶏が「トッテコーカー」「もう遅いわい」。「鍬烏」という噺です。
 もう一つ、明日から成田へお参りに行くため当分帰って来られないというので、「おッ母ァ、お名残に」と子供を早めに寝かしつけておいて、いたした夫婦、翌朝出がけに子供が、「お父っつぁん、鶏も連れて行くの」「鶏(とり)なんか連れて行かないよ」「だって、あそこでお名残やってるもん」。「成田詣で」という噺です。


 戌、蔵前の八幡様の境内に全身の毛が真っ白な犬がおりました。お参りに来る人々にシロと呼ばれてかわいがられ、会う人ごとに「白犬は人間に近いんだから、次の世には人間に生まれておいで」と言われ続けていました。当人、犬に当人というのも変ですね、も考えました。次の世と言われても、一度死ななくてはいけない、それよりは今の世に生まれ変わりたい、と八幡様に三七、二十一日の裸足参り、もっとも犬はいつでも裸足ですが。満願の日、神前でうとうととまどろむと、全身の毛が抜け、人間になりました。素っ裸で恥ずかしいので賽銭箱の陰に隠れていました。いい具合にちょうどやって来た口入れ屋の主に拾われ、ちょっと変わった人がほしいという蔵前の隠居の家に世話をしてもらうことになりました。ここで下駄は啣えるものではないと知り、生まれて初めて下駄を履いて隠居の家に行きました。この家の女中はおもとさんと言いまして、家事全般を切り回していて、引き合わせも済んだのでおもとさんは引っ込んで、隠居とシロ君二人が差向いです。「名前は」「シロです」「四郎だけか、何四郎と言うんじゃないのかい」「へえ、ただシロって言うんです」「ほう、只四郎(ただし ろう)っていうのかい、そうかい」と自己紹介しました。隠居はお茶が飲みたくなり、鉄瓶が沸いているのか、と言うところを、「鉄瓶がチンチン言ってるか」と訊かれたので、苦手なんだけどなと思いながらもちんちんをして気味悪がられました。今度はお茶を焙じたいので「焙烙(ほうろく)(ほうらく)を取ってくれ」というのを江戸訛で「ほいろだよ」と言ったので、思わず「わん」。隠居はますます気味悪くなりました。そこで慌てて女中さんを予防と、隠居が、「もとはいないか、もとはいぬか」と言ったので、とっさに「今朝がた人間になりました」と言い、口入れ屋が隠していた素性がすっかりわかりました。こう事情がわかると、することなすことの食い違いがおかしいと、隠居にかわいがられて暮らしていました。ある日シロが珍しく朝寝をして目が覚めないんで、隠居が寝ているところを見に行ったら、枕を飛ばして大の字になってぐっすり寝ていました。その姿を見た隠居は、「ああ、やっぱり素性は争えない。枕が方のところにあって犬の字になって寝ている」。これは「今朝がた人間になりました」で終わる「元犬」という噺に、「犬の字」という噺を続けたものです。昔は寄席がたくさんあって噺家が少なく、掛け持ちをしていたのですが、後に上がる人がなにかの都合で遅れたりすると、こういう形で次の人の到着までつないだ、という形を紹介させていただきました。


 さて、長々とお話をさせていただきましたが、いよいよ十二支の最後の亥にやってきました。今度は、大阪出来の噺です。江戸時代、哺乳類の肉は食べないことになっていましたが、食べた動物があります。兎は鶏肉なみの扱いで、数えるときも一羽、二羽でしたし、ほかに「薬食い」と称して猪の肉を食べています。その名も「山くじら」です。大変に精がつくので吹き出物が出ることがあり、これを遊びが過ぎて悪い病に罹ったのと同等に扱って、「猪(しし)食った報い」と呼ぶことがありました。いやそうではない、これは肉を食べると体が温まるので、「猪食った温い」がなまったものだと物知りは言います。猪は、高級豚肉としてもてはやされているイベリコ豚同様、ドングリを食べていますので大変美味で、しかもコラーゲンが多く、煮込むほど柔らかくなると言う人の話を聞いてよだれを垂らしました。とにかく体に良いのです。
 大阪の噺ですが、地名は関東に移します。ここに、冷えの病の男、猪肉が良いと聞き、どこで手に入れたらよいか人に訊くと、丹沢に有名な猪撃ちの猟師がいるので、そこで撃ち立ての猪肉を分けてもらえば柔らかくて良いと教えられました。そこで、雪の中はるばると出かけて行きました。撃ち立ての猪が良い、古いのでは固いというのが頭にあり、猟師が昨日撃ったというのに信用しません。雪が降る日は猟がはかどるとお世辞を言い、猟師を猪撃ちに引き出しました。山中に入るとはるか彼方に猪がいます。狙い定めてズドーンと放てば、見事命中。猪は倒れました。「これなら撃ち立てで新しい」「いや、古いのと差し替えたのじゃないか」と男は信用しません。腹を立てた猟師が猪の尻を一つ鉄砲で叩くと、猪は弾が当たったのではなく、音で気絶していただけなので、目を覚ましてトコトコと駆け出す。猟師は思わず、「客人、あのように新しい」。「猪買い」という噺です。
 時間がありますのでもう一席しましょう。先程、落ちの一つを紹介しましたが、他には、実際に見ないとわからないしぐさ落ちなんという落ちや、聴き手がしばらく考えて後からじわじわと笑いが湧いてくるという考え落ちなどというのもあります。例えば、茶店の前に侍が歩いて来て、印籠が落ちる、すると茶店の主が「お昼の食事はいかがでございましょう」、これで噺は終わりなんです。印籠が落ちるということは帯が緩んだため、帯が緩んだのはお腹が空いたため、という論法なんです。
 富士山の裾野で源頼朝公が巻狩を行います。この巻狩というのは猟場を取り巻き、勢子が獣を追い詰めて捕まえるやり方で、頼朝公の御前に大きな猪が出てきて、頼朝公に向かってきます。御主君に怪我があってはならないということで、立ちふさがったのが仁田四郎、真っ直ぐに走ってきた猪を体をかわして、ヒラリと馬乗りになります。こうなると落とされちゃならないということで毛皮にしがみつく、下では猪が鼻息を荒くしている、四郎は思わず、「ああ、家じゃ女房がさぞ案じていることだろう」。「仁田四郎」でございます。最後だけ考え落ちにさせていただきました。
 ということで落語十二支、卯と未に代演が出ましたが、おかげさまでまとめることができました。ご静聴御礼申しあげます。

 

参考資料として少し拾いました
 いが栗、甲子まつり、胸肋鼠、地車茶屋、飛び鼠、豊竹屋、ぬの字鼠、ねずみ、鼠    穴、鼠の耳、升落とし、水掛問答
 牛かけ、牛の丸薬、牛の子、牛の嫁入り、牛ほめ、お玉牛、三人絵かき
 雷の子、唐茶屋、動物園、虎狩、ねずみ
 兎の籠
 竜の天上、夕立屋
 言うに言われぬ、うわばみ飛脚、蛙茶番、蛇含草、松竹梅、そば清、田能久、苫ヶ島、夏の医者、日高川、頬赤下女、弥次郎
 いいえ、馬のす、馬の田楽、厩火事、狐と馬、九郎蔵狐、西行、三人旅、品川の豆、三味線栗毛、大師の馬、丁稚部屋、武助馬、仏馬、馬子茶屋、結びの神、めす馬
 羊の親子
 猿後家、秀吉の猿、堀川、桃太郎
 鍬烏、べかこ、法華坊主
 いつ受ける、犬の足、犬の字、犬の目、犬の無筆、大どこの犬、数取り、天王寺詣り、抜け裏、骨違い、元犬、桃太郎、利休の茶
 田舎芝居、猪退治、猪買い、肝つぶし、仁田四郎、二番煎じ、弥次郎

番外  赤貝猫、子猫、猫怪談、猫久、猫定、

 

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