和泉式部 福福亭とん平の意訳

和泉式部

 昔、一条院の御治世、栄える京の都に、和泉式部という優美な女房が一人いました。内裏には橘(たちばなの)保(ほう)昌(しよう)保(やす)昌(まさ)という優美な男性が一人いました。保昌は十五歳、和泉式部は十三歳という年頃から愛し合い、和泉式部が十四歳という春の頃に、一人の男の子を生みましたが、二人がそのような間柄になったのを恥ずかしく思ったのでしょうか、綾の小袖の裏に一首の歌を書いた産衣と、鞘を外した守り刀を添えて五条橋に捨てましたのを、町の人が拾って育てました。
 その子の学問への志が深いので、比叡山に上らせ学問させているうちに、育つにつれて学才の評判が他の寺々に伝わり、評判が高くなりました。この子のことは、比叡山として大切に思うだけでなく、将来一宗を率いる存在になると頼もしく思えました。さらに、詩歌の道にも堪能で、名声は天下に響き、得度を受けた後は、道命阿闍梨として世間で知らない人がいませんでした。
 さて、十八歳になった年に、道命阿闍梨が内裏で法華八講の導師を務めることがありました。法華八講の時に、人の心を惑わすような妙な風が吹いて、女房たちの部屋の御簾をさっと吹き上げた時、年のころ三十歳ほどで、愛嬌も風情もあって、とても優美な女房が、道命の論議を聞いてしみじみと感動している様子でありましたのを、道命は一目見た時から、落ち着かない気持ちになり、学問を修めた身にもかかわらず、その女房にあこがれてしまいました。道命は比叡山に戻っても、一目見た人の面影がまとわりついて忘れられないので、学問に身が入らず、身口意の三業を修めるという三密を守る意識もいい加減になってしまい、もう一度都へと、思いを込めて山を下りました。道命は、なんとかして、一目見た人の姿だけでももう一度見たいと思って、蜜柑売りの姿になって内裏の中へ入って行って、「蜜柑を買ってください」と売り歩きますと、あの人のいる建物から一人の少女が出てきて、「この金で、蜜柑二十個を売ってください」と言いましたので、道命は嬉しく思って蜜柑を二十個数えて売りました。その際に言葉で数えずに、みな恋の数え歌で数えました。
  一つとや、ひとりまろ寝の袖(そで)枕(まくら)袂(たもと)しぼらぬ暁はなし
  (一つとや、一人ごろ寝の肘枕、涙で濡れる袂を絞らない朝はありません)
  二つとや、二重屛風の内にして恋しき人をいつか見てまし
  (二つとや、二重に立て回した屏風の内で、恋しい人をいつか見たいなあ)
  三つとかや、見ても心の慰までなど憂き人の恋しかるらん
  (三つとや、見るだけでは心が慰められない、どうしてつれない人を恋しく思うのでしょ   う)
  四つとかや、夜深に君を返すには枕片敷く袖ぞ露けき
  (四つとや、夜が更けて、あなたを家に帰すことは、枕とした敷いた袖が涙に濡れます)
  五つとや、いつや今やと待つ程に身をかげろふになすぞ悲しき
  (五つとや、あの人がもう来るかと待つうちに、陽炎のようにはかない身にするのが悲しいのです)
  六つとかや、向(むか)ひの野辺にすむ鹿も妻ゆゑにこそなき明しけれ
  (六つとかや、あちらの野に棲んでいる鹿も、妻を恋うるせいで泣き明かすことです)
  七つとや、なき名の立つもつらからじ君もろともに立つと思はば
  (七つとや、あらぬ噂が立つのもつらくはありません、あの人も一緒に噂になると思えば)
  八つとかや、弥生月夜の光をば思はん君の宿にとどめよ
  (八つとかや、弥生三月の月の光を、愛するあの人の宿にとどめましょう)
  九つや、ここにありける人ゆゑに四(よ)方(も)に心を尽(つく)しぬるかな
  (九つや、ここに住んでいる人のせいで、あれこれ心労をすることです)
  十とかや、鳥(と)屋(や)を離れしあら鷹をいつかわが手にひき据ゑて見ん
  (十とかや、鳥小屋を離れて飛んで行った鷹を手に止まらせるように、あの人を私の所に住まわせてみましょう)
  十一や、一度まことのあるならばいかに言(こと)の葉嬉しからまし
  (十一や、一度でも真実を示してくれるならば、どんなにあの人の言葉が嬉しいでしょうか)
  十二かや、憎しと人の思ふらんかなはぬことに心尽せば
  (十二かや、私のことを憎らしいと思っているのでしょう、叶わないことに心を砕いているのは)
  十三や、さのみ情(なさけ)なふり捨てそ情は人のためにあらねば
  (十三や、そんなに私の気持ちをつれなくなさいますな、私の気持ちは私の真心なのです)
  十四かや、死なん命も惜しからじ君ゆゑ捨つるわが身なりせば
  (十四かや、死ぬ命も惜しくはありません、あなたのために捨てる私の身なのですから)
  十五かや、後(ご)世(せ)の障(さはり)となりやせんこの世はかなく逢はで果てなば
  (十五かや、後世の成仏の妨げになるのではないでしょうか、現世ではかなくあなたと結ばれずに死んだなら)
  十六や、陸(ろく)地(ぢ)の程をめぐるにも君に心はつれてこそ行け
  (十六や、国土のあちこちを巡礼する時にも、心はあの人に寄り添って行くのです)
  十七や、七度とまらで度(たび)々(たび)も君に逢ふかと祈りをぞなす
  (十七や、七度と限らないで、何度も何度もあなたと結ばれるであろうかと祈りを重ねます)
  十八や、恥(はづ)かしながら言ふことを心強くも聞かぬ君かな
  (十八や、恥ずかしいとおずおずと恋心を伝えるのを、頑なに聞こうとしないあなたですねえ)
  十九かや、暮るる夜(よ)(よ)ごとに思ふには袖いたづらに朽ちや果てまし
  (十九かや、毎晩ごとにあなたのことを思っていると、袖はむなしく涙で朽ち果ててしまうでしょう)
  二十かや、憎しと人を思ふまじわれならぬ身も人を恋ふれば
  (二十かや、人を憎いとは思いますまい、自分以外の人も他の人を恋い慕うのですから)
 少女はこの数え歌を聞いて、「無理に蜜柑をほしがるわけではないのですが、歌があまりに面白いので、蜜柑一つおまけしてください」と言うと、道命は蜜柑を一つ添える時に、
  二十一、一(いち)夜(や)の情(なさけ)こめんとて多く言(こと)の葉語り尽(つく)しつ
  (二十一、一夜の出会いの情を大切にしようと、これまで多くの言葉を語り尽くしましたよ)
と詠みました。
 この少女は、道命をじっと見て、「これほど優美な人が、どうしてこのように蜜柑なんか売っているのですか」と言いました。すると、道命が言うことには、「そのことでございます。私は『ふりふりしく』しているもので」と答えましたので、少女は意味がわかりませんでした。この様子を和泉式部は御簾の中から聞いて、「今の商人がどこに帰るかを見なさい」と少女に人を付けて見に行かせます。道命は内裏を出て、今日は日が暮れた、また明日来ようと思い、ある小さな家に宿を取りました。
 少女は道命の宿を見覚えて帰って、これを告げると、御簾の中からの和泉式部の言葉に、「今の商人が言った『ふりふり』という言葉をきちんと言わないから、判らないでしょうね。伊勢が源氏を恋しく思って詠んだ歌の意味なの。
  君恋ふる涙の雨に袖濡れて干さんとすればまたはふりふり
  (あなたを恋しく思う涙に私の袖が濡れて、乾かそうとするとまた雨が降る降る)
という歌の意味を含んでいます。なるほど、これは教養のある人です。深い恋心に身を焦がして、あのような商人の姿の形になったのだと思います。それで、小野小町は若い盛りの時、その美貌によって多くの人に恋われながら、その思いを遂げさせなかったのが計り知れない身の罪になって、その因果から逃れられないで、とうとう小町も在原業平を恋しく思って、その思いの余りに死んでしまったの。だから、
  言ひ捨つる言の葉までも情あれただいたづらに朽ち果つる身を
  (これまで読み捨てた言葉も情けあれ、ただ空しく死んでゆく身であるよ)
という歌の意味を含んでいて、心はあこがれているのです。人にはいつも懇ろな心をもって接したいものなのですよ」と言いました。そして、和泉式部は考え続けて、少女一人を供にして、黄昏時に内裏を出て、あの道命の宿へ行って、戸をとんとんと叩いて、
  出でて干せ今宵ばかりの月影にふりふりぬれば恋の袂を
  (さあ、出てきて、今夜のようなすてきな月の光であなたの濡れている恋の袂を干しなさい)
道命が、宿の内でこの歌を聞いて、そのまま外へは出ないで、恨みを示すような様子で詠んだ歌は、
  出でずとも、情のあらば影さして心を照らせ山の端(は)の月
  (外へ出なくても、情けがあればあなたの光で私の心を照らしなさい、山の端の月よ)
道命は、こう詠んで、呆然とした様子でありました。
 もともと、和泉式部という女性は、男女の情の満ちには思い入れの深い人で、道明の宿の中に入って、その夜は、道命と一つ床で、深く男女の契りを籠めました。夜がだんだん更けてゆく間に、道命は、守り刀を身から離すまいと気にしている様子なので、和泉式部が、「不思議なこと。守り刀という物は、女の身にとっての物なのに。いままで男が守り刀を持つということはありませんのに」と言いますと、道命は、「そのことでございます。これは曰くのある刀なのです。その訳は何かと申しますと、私は、五条橋の捨て子でございまして、養い親の両親が私を育てて成人させてくれました。この刀は私の身に添えてあった刀でございますので、これを私の実の父母と思って肌身離さず持っているのです」と語ります。和泉式部は不思議に思って、「それでは、あなたは、何歳の時に捨てられて、今は何歳になっているのですか」と尋ねますと、「左様でございます。私は一歳の時に捨てられていたと聞いております。今はもう、十八歳になりました」と語ります。和泉式部が「産衣はどんな品なの」と尋ねますと、道命が「綾の小袖で、その裏に、一首の歌が書かれていました」と答えます。和泉式部が「歌はどのようなもの」と尋ねますと、
  「百年にまた百年は重ぬとも七つ七つの名をばあかすな
   (百年にまた百年を重ねる長い時が経っても、親の名を明かすまいぞ)
という歌です」と答えました。和泉式部も子を捨てた時に、鞘を手元に残してこれを我が子であると思っていましたから、鞘を肌身離さず持っていたのを取り出して刀に合わせると、疑いなくもとの鞘でありました。
 和泉式部は、これは何事だ、あさましくあきれたこと、親子とも知らずに男女の仲になってしまったのも、このような現世に生きているためだと思いながら、この出来事を悟りの道に入る良い導きとして、まだ深夜であるのに都を後にして、尾上の鐘の聞こえる浦伝いに歩き、鐘をなんとしようかと思う飾磨の浦、遥かに霞を通り雲を分け、道を辿って行って播磨の国に至って、書写山に上り、性空商人のお弟子になり、六十一歳の年に往生するとして、書写山の鎮守の社の柱に歌を書き付けました。
  暗きより暗き道にぞ入りにけるはるかに照らせ山の端の月
  (迷いの暗い境涯から暗い道に入ってしまう。遥かに照らして導いておくれ、山の端の月よ)
と詠んで、柱に書き付けたことによって、歌の柱という故事は、播磨の国書写の寺から始まったということであります。和泉式部の出家発心のことはこういう事情でございます。心は思慮なしではいけないということなのです。

師門物語 下 福福亭とん平の意訳

師門物語 下

 冷泉は、「さあさあお急ぎ下さい」と浄瑠璃御前を促しますが、「次の土地はどこの国のどこか判らないで、ただ『よしみつ寺』と尋ねても、いったいどこの誰がよしみつ寺はどこの国のどの場所だと詳しく教えてくれるのだろうか」とお泣きになりますので、冷泉は、「今からよしみつ寺についてお話いたしますので、お聞き下さい。昔、天竺にいた月(がつ)蓋(かい)長者という者は、並外れてけちで欲張り者でした。僧の誰一人に対しても一切供養をしないで、日々贅沢な暮らしをしています。お釈迦様は、この後に月蓋が無間地獄に堕ちてしまい、決して救われることのないという月蓋の身の上を哀れにお思いになり、仏様の救いの一つの方法をお考えになり、月蓋の莫大な財産を一夜の内に火事で焼け失せさせ、飼っていた牛馬も一家の人々も皆いないようになさいましたので、月蓋は突然貧しい身となってしまいました。月蓋は栄えていた時に上等の衣一万疋と交換して手に入れた立派な升の一部を見付け、それを米五升と交換し、そのうち三升を女房に預けて,残る二升を自分で持って、食事の副菜を買いに町に出てゆきました。その後に釈尊の弟子の阿(あ)難(なん)、舎(しや)利(り)弗(ほつ)、目(もく)連(れん)の三人が月蓋のところへ托鉢に来ましたが、三人を迎えた女房は、この内の一人だけに供養をしては残る二人から受ける恨みが恐ろしいと、三人とも供養しました。月蓋が帰って来た時に、女房はこのことを月蓋に話したところ、月蓋は女房に三度礼をしてその振る舞いを喜び、その夜は何も食べずに寝ました。
 釈尊はこの話をお聞きになって、『それでは、月蓋夫婦は善心になったのであるな』とお喜びになられて、夜に入って車の音、馬のいななきが激しく響き、夜明けに月蓋夫婦が屋敷を見ると、財宝は元通りに満ち満ちていました。
 月蓋夫婦が、財宝が戻ったので元のけちで欲張りに戻ってしまったのを釈尊はとても悲しんで、今度は夫婦に娘一人(如是姫)を授けました。その娘が十三歳になった時に娘は五種の流行病(はやりやまい)を患い、もはや命が危ない様子になってしまった折、月蓋は釈尊の元に来て、『一人娘が流行病を患っていまして、治そうと世界中の医者を求め回ったのですが、一向に回復の様子がありません。この上は釈尊のお助けだけが頼りであるとこちらに参上いたしました』と涙を流して申し上げると、釈尊はお聞きになって、『私はそなたの力にはなれない。この度の難儀は、極楽世界においでの阿弥陀様以外に娘御の病を治す仏菩薩方はいないと思う』とお答えになりましたので、その時に月蓋は、『阿弥陀如来様のことを伺いましたが、この地から十万億土離れた西方浄土の地においでの阿弥陀如来様をどうしたらたやすくお招きすることができましょうか。釈尊のお助けをひたすらお願い申し上げます』と申し上げると、釈尊は『難しいことはない。そなたは、自分の屋敷に帰って、西に向き、他の事は考えずにただ一心に南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依いたします)と三遍唱えると、その間には必ずそなたの屋敷に光が差し、阿弥陀如来が飛び移っておいでになるであろうよ』とお教えになりましたので、月蓋はその釈尊のお言葉を心に刻みました。月蓋は、我が子への愛情だけを心思って、西に向かって『南無阿弥陀仏』と二声唱え、三声目を口にする前に、阿弥陀如来が月蓋の屋敷の垣根を飛び越されると見えたとたん、月蓋の娘の五種の病はたちまちに全快しました。
 月蓋は、娘の重病が治ったことがとても嬉しくて、釈尊に向かって、『阿弥陀如来をこの地にお引き留めしたいです』と申し上げると、釈尊は『阿弥陀如来西方極楽浄土の主でいらっしゃるので、西方へお帰りなさるであろう。百万両という量の閻(えん)浮(ぶ)檀(だ)金(ごん)で阿弥陀如来の御姿をお写しして、その姿を留めるようにしなさい』と仰いました。月蓋は、『どのようにして閻浮檀金百万両を手に入れましょうか』とお尋ねすると、釈尊は、『竜宮へ使いを出して貰い受けよう。その使いは我が弟子の神通第一の目連に行かせよう』と仰いました。目連は使いの役をお受けして、竜宮へと行ってこのことを竜王に申し上げると、『釈尊の仰せのままに従います』と言って百万両の閻浮檀金を渡しました。阿難、目連、迦葉(かしよう)などの弟子たちが集まって、この閻浮檀金を使って阿弥陀如来の御姿を写し留めました。阿弥陀如来西方極楽浄土を指して飛び帰られました。
 その後、釈尊が入滅されたので、この如来像は中天竺へと飛び移り、そこに五百年いて、仏の教えが東に行くという道理に従って百済国に移って七百余年を経、その後、我が国の欽明天皇の御世に摂津の国の難波の里へと飛び移っておいでになりましたので、このお像の姿を見た人はこの像がいったい何なのかと不思議に思ったのでした。如来像はその難波の里で三年を過ごされました。ここに、信濃の国の水(みず)内(ち)の郡の本田善(よし)光(みつ)という侍がいました。その侍にあるお告げがあり、善光はそれに従って、急いで摂津の国の難波の入り江を尋ねて行きました。善光が、「真に夢でのお告げの通り、私と三世の縁があれば、我が袖にお入りください」と入り江に向かって袖を開いて呼び掛けると、如来像はすぐに善光の袖の中にお移りになりましたので、周りの人々は不思議の思いをして、『この如来様は活きていらっしゃるのだ。この如来様は人を呼ぶことをなさったよ』と言い、『仏様招き』と今日まで言うのはこの時から始まったのです。
 本田善光はすぐに如来信濃国ヘとお移しして、自分の屋形へお置きしました。ここは本田善光がお建てした寺ですので、善(ぜん)光(こう)寺(じ)と申します。本田善光は名字を変えて、今は栗(くた)田(だ)と言って、在家のままで善光寺の統括役を勤めています。どうぞ御安心ください」と、冷泉は道中にこの長い物語を浄瑠璃御前に語りながら、険しい道中を過ぎて、奥州の高鞍を出発してから四十八日目に、善光寺の西の大門に着きました。
 二人は本堂に入って善光寺如来にお参りして、若い女性の身で霊験あらたかな仏様にお参りできて罪障が軽くなることができるのも、ひとえに聖となった師門様のおかげだと心を籠めて拝んで、その御祈りの人々のあちこちに目を配って「聖がいらっしゃるか」と探しました。「これだけ大勢の参拝の方の中にどうして聖がいらっしゃらないのか、つらいことではある」との思いを抱きながら本堂から西の大門へと出て行き、近くの宿房に入って、一夜の宿を貸してほしいと願いました。その房のあるじに従う僧が応対して、「宿を貸すのはたやすいことなのですが、この宿房のあるじから、『知らない人には決して宿を貸してはならない』と厳重に言いつけられていますので、それができません。日が暮れないうちに、ほかの院をお尋ねください」と言いました。
 冷泉はこの僧の言葉を聞いて、「情けないことです。二晩三晩の宿をお願いしたのではないのです。一夜の宿くらい良いでしょうに。人間同士お互いに助け合わないでどうしましょう」と、がっかりしながら言いますと、応対に出た僧がその言葉を聞いて、「たとえこの宿房のあるじからけしからんと思われても、お泊めいたしましょう」と、中へと招き入れました。足を濯いで、食事を出してと、てきぱきと世話をしているところに宿房のあるじが帰ってきて、「あちらの部屋にいる人は誰だ」と尋ねろと、従僧は、二人の事情を詳しく話しました。そこで房のあるじは、「旅の人もお聞きください。『知らない人には決して宿を貸してはならない』と言ったのは、拙僧の物惜しみからとお思いになるかもしれません。この十日ほど前に、年の頃は二十三歳かと見える聖が来て、穏やかな人なので宿をお貸しして滞在をさせたのですが、風邪を引いた様子になり、それから五日目の日になって、はかなく亡くなられてしまいました。親しくしていましたので、とてもお気の毒に思いました。さらに加えてお気の毒なのことは、笠を一つ形見にして、そこに歌一首を書き置いてあったのです。
  笠は置きぬ我が身は何となりなまし哀れはかなき天の下かな
  (笠は遺しておく。私の身はどうなることか。ああ、はかない世の中であるなあ)
と詠んで、今はの際と思われた時に、拙僧が、『もしもあなたを尋ねて来る人があったら、お伝えしましょう。あなたの故郷の国や土地の名を言い置いてください』と申しますと『私には尋ねて来る人も、縁のある人もいません』と答えましたので、『そうでありましょうが、せめて故郷の地の名をお語りなさい』と尋ねますと、とても苦しそうな声で、『それではお伝えします。私は奥州の三(さんの)迫(はざま)出身の者でございます。歳は今年二十二です』と言い遺しました」と話して袖に涙を落としました。その話を聞き、浄瑠璃御前と冷泉は遺された笠を見て、「もうし、お坊様、その聖こそ、私たちが尋ねている人でございます。尋ねるあての人がいなくなり、今から後は誰を心の張りにしたら良いのでしょうか」と、身を投げ出してお泣きになりますので、房のあるじも、「この方のために辛い思いを重ねられましたね」と言って、一緒に涙を流しました。
 浄瑠璃御前はようようのことで涙を押さえ、「その聖は、どこへ葬られたのでしょうか。その場所を見たいです」と仰ると、房のあるじが「夜が明けたなら、この従僧に案内させましょう」と答えました。その夜、人々の悲しみの声は大きく響きました。
 これらの人の嘆きを隣の宿房に滞在していた三人の客僧が聞いて、「何を嘆いておいでですか」と尋ねますので、こちらの宿房のあるじは隣の宿房のあるじと知り合いなので、事情をと語ります。客僧たちはこの話を聞くやいなや、「お気の毒に。身分の上下を問わず、お嘆きは一緒です。それでは、我ら三人の修行の力がどれほどかを試しに、さあ、参りましょう」と言って、隣の宿房へと出掛けました。「我らは代々修行の山伏ですが、こちらのお嘆きの声があまりにお気の毒でここまで参りました。その人はいつ亡くなりましたか」と尋ねると、宿房のあるじは「三日前に」と答えます。山伏は、「それならば、祈りましょう。ただし、亡くなった人を火葬していたら、どのように祈っても叶いませんが」と言いますので、宿房のあるじは、「火葬のための栴檀の薪が揃わなかったので土葬にいたしました」と答えます。山伏は「それは幸いのこと」と言って、聖の墓地へと従僧に行灯を持たせて出掛け、そのほかの浄瑠璃御前、冷泉、宿房のあるじ、その隣の山伏の宿宿のあるじはそれぞれ松明を手にして、山伏の行で現れろ不思議を見ようとして一緒に出掛けて、一行は墓場に着きました。
 従僧が、「これこそあの聖を埋葬した塚です」と言いましたので、浄瑠璃御前と冷泉は、「わっ」と泣き声を上げました。山伏は、「心強く思ってください。我々は大峰に三度、葛城山には数知れず登って仏法修行を極めた者でございます。それでも御心配があろうと存じております。お静かになさってください」と言う言葉が終わらないうちに、一番先に立った山伏が角の張った粒を連ねた数珠をさらさらと押し揉んで祈り始めます。まず「南無帰依仏、南無帰依法仏、南無帰依僧、この行者の思いやりの心を汲んで、また祈るところを憐れまれて、直ちにここに眠る聖を蘇らせる奇特をお見せください」と唱えて、「東方に降三世明王、南方に軍(ぐん)荼(だ)利(り)夜叉明王、西方に大威徳夜叉明王、北方に金剛夜叉明王、中央に不動明王、たらたかんまん、見我身者、発菩提心、聴我名者、断悪修善、聴我説者、徳大智慧、知我心者、即身成仏」と、とても熱を籠めて祈りましたが、一向に祈りが通じる気配がありません。その時に二番目の座の山伏が、「これではまだまだ祈りが足らないのだ」と言って、「一に矜羯蘿童子、二に制吒迦童子、三に倶利迦羅童子、四に蓮華童子を始めとして、三十六童子、願うことは、この我ら山伏の今の祈りにお力を貸してください」と唱えて、「たさくなふまくさらはたたぎやだていひやくさらはほけはひやくさらはらこせんだまかろしやたけんきやきけんきやきさらはびきなやうんたらたかんまん」と半時ほど祈り続けますと、遺骸を埋めた土が二つにぽかりと割れて、聖が目を開き、「宿のあるじ様、水をお与えくだされ」と言いましたので、格別に不思議な気持ちになりました。聖のそばにいた山伏が早速に薬を取り出して聖の口に押し入れると、聖は息を吐いて蘇りましたので、冷泉が、「ここまではるばると浄瑠璃御前と御一緒に参りました。これは現実のことか、それとも夢か、夢ならば、ひょっとして覚めることがあるだろうか」と言って、喜びの涙が止まりません。
 聖はまだ呆然としています。第一の山伏の左脇においでの山伏が「聖よ、これから話すことをしっかりと聞きなさい。ここにおいでの第一の山伏は、もったいなくも熊野の権現様でいらっしゃいます。浄瑠璃御前が熊野権現の御正躰をお招きして、三年の間、身を浄らかにして御祈りを捧げた気持ちが見事であるので、その身の上を憐れんでここにおいでになったのである。また、もうお一人は出羽の羽黒の権現でいらっしゃるが、浄瑠璃御前が三年の間精進の座にいて祈りを捧げたのを憐れんだ熊野の権現様が、脇の山伏としてお招きになったのである。このように申す我は、塩竃の明神である。そなたは、父の師末が子を授けてほしいと我に祈ったので、子を授けるために、天上は忉利天の果てまで、下界は奈落金輪際の地獄の底までを尋ね廻ったのであるが子種が全く見付からず、願いをそのままにしてはおけないので、この閻浮提から十万億土離れた地の阿弥陀如来にお願いして授けた子である。阿弥陀如来が授けた子という縁で、初が崎の阿弥陀如来がそなたの身代わりになられたことも理解せよ。そなたが初が崎の阿弥陀堂から出羽の羽黒山、越後の蔵王堂までを巡るようにと立てられていた卒塔婆は、そなたの父の師末が立てて通った標である。そなたはこれから決して故郷の奥州へと下ってはならぬ。ここからすぐさま都へ上って関白殿へこれまでのことを詳しく申し上げよ。家を立て菩提を弔うという願いは必ず遂げられるであろう。我はそなたの道中に力を添えて、護り神となるであろう。安心しておれ」とお告げになって、夜明けの鳥の声と共に、熊野の権現は紀州を指して飛び立たれました。羽黒山の権現は出羽を指して飛び立たれまして、塩竃の明神は奥州を指して飛び立たれました。
 宿房のあるじは、この出来事を有難く思い、聖と浄瑠璃御前、冷泉を連れて宿房へと帰りました。これほど有難い神仏のお恵みをなんとかして披露したいと、俗別当の栗田様に申し上げると、まことに不思議なことである、しかも、我が日本には多くの国があるのに、その中で当国信濃善光寺は由緒あるありがたい土地なのだと、すぐさま伊能、こえ、高梨、おおいの村上、そのほか国の有力な豪族の元に使者を立ててこの不思議な出来事を伝えさせました。話を聞いた豪族たちから、「侍という立場は、今日は人の身の上の出来事だと思っていても、明日は我が身の上に不当なことが起きないとも限らない。この聖の身の上は他人事ではない」と同情が集まり、皆々が寄進を寄せて聖を都へと送りました。聖は都へ上って、すぐに関白様に一連の出来事を申し上げたところ、「二条の中納言を奥州の国司として下らせたのは、その地は東の果てであるから、きっと騒動が起こるであるであろうから、それを鎮めよということであったのに、逆に中将が国司の身として許されない乱を起こすという大罪を犯してしまったのであるから、征伐をしなければならぬ」との天皇の命による裁可を下して、この裁可に従って聖を元の師門として還俗させて平の家名を立てさせました。師門様は、急いで逢坂の関を越え、中仙道を下って奥州の入口である白河の二所の関を越えて、軍勢を揃えなさいました。師門様の軍勢は三千余騎で、天皇様の御命令を先に立てて高鞍の中将の屋形へと押し寄せ、すぐに屋形を攻め落として中将を討ち取り、師門様は長年の望みを遂げられました。それだけでなく、その上にさらに天皇様から所領をいただいて、三迫に屋形を造り、以前の戦で中将に討たれた四十八人の家来の一族の人を尋ね出して家臣として抱え、平の一門は繁昌しました。浄瑠璃御前が多くのお子様をお生みにになって、一家繁栄なさったのも、神仏のお気持ちによる恵みからです。
 その後、師門様は紀州熊野権現へと参詣し、またますます塩竃の明神を崇め、あわせて羽黒の権現を尊崇することはこの上ありません。さらに、月王丸の縁者を探し出し、その恩に篤く報いるために一家を継がせるようにして、こちらも子孫繁昌なさったというのも、すべて神仏のお気持ちに叶う振る舞いをしたからであります。

付録 善光寺如来について

 善光寺縁起によると、善光寺如来は日本に渡ってから約百年後、信州長野に運ばれてから十年ほどが立つ頃に自身のお告げにより、お隠れになったとされています。それ以降、七年に一度の御開帳にさえ姿を見せず、善光寺本堂奥の厨子の中に安置されています。御開帳で公開されるのは上の写真の前立本尊といい、ご本尊を模鋳したものです。ですから、善光寺のご本尊は絶対秘仏であり、現在に至るまで参拝者ばかりでなく、善光寺の僧侶でさえ見たことがありません。
 前立本尊とは、信州善行寺御本尊の身代わりともいえるもので、御本尊が忠実に模写されているものとされています。また、前立本尊が作られたのは鎌倉初期であると伝えられています。
 中央の阿弥陀如来の右手の印相(手の形)は、手のひらを開いて前面にかざす「施無畏印(せむいいん)と呼ばれ、衆生の畏れを取り除くことを意味しています。左手の印相には大きな特徴があり、手を下げ、第二指、第三指を伸ばし、他の指を曲げた形をしており、刀剣印(とうけんいん)と呼ばれるとても珍しい印相です。
 左右の菩薩の印相も、梵篋印(ぼんきょういん)と呼ばれ、胸の前に左右の手のひらを上下に重ね合わせる珍しい格好をしています。中には真珠の薬箱があると、善光寺縁起では伝えられています。三尊が立っているのは、蓮の花びらが散り終えた後に残る蕊が重なった臼型の蓮台です。善光寺の前立本尊の大きさは、中尊が四二・四センチ、左脇侍(観音菩薩)が三〇・五センチ、右脇侍(勢至菩薩)三〇・二センチです。御本尊も同じ大きさと考えられますので、そんなに大きなサイズではありません。

           (以上、善光寺のホームページより引用させていただきました) 

師門物語 中 福福亭とん平の意訳

師門物語 中

 浄瑠璃御前はお気の毒に、師門公が討たれたとお聞きになってから思いに沈み、三迫で自害しようと思い定められのではございますが、お付きの冷泉が考えがあるからと言ったことで、「安直な考えに進んで、つらいことを重ねる悲しさよ」と嘆いていらっしゃるので、冷泉は、「力の限り中将をだまし通しましょう。どうしようもなくなった時は、相手は都でぼんやり育った者ですから、こちらを女だと思って油断しているところを、ひと太刀恨みの刃を向けて、その場で自害いたしましょう。私が死んだとお聞きになられたら、すぐに御自害なされませ」と浄瑠璃御前に言い置いて、中将の前へと来て、「師門公をお討ちになられたので、浄瑠璃御前もお迷いにならず、お気持ちに従いましょう」と言うと、中将は喜びました。
 冷泉は言葉を重ねて、「浄瑠璃御前は三迫へ嫁入りされたとは言いますが、いまだに男性の肌に触れない生娘のままでございます。その理由は、浄瑠璃御前は重い病を患い、都から名医を招いて、あれこれの症状を治しました。治ったとはいえ、それから六年の間は決して男性と接してはならない、病が再発すると言い渡されて養生しています。もしも男性と接することがあれば、たとえ万能の薬師仏の御恵みでも助からず、決して治らないと言い渡されていまして、六年が過ぎれば、差し障りはございません。嫁入りの時にこの事情を三迫の師門へも伝えて、浄瑠璃御前の身の回りをしっかりと固めたままに輿入れして、三迫でも、熊野の御神体塩竈御神体を七体お招きして祀り、注連を七重に回して、さらに錦の斗帳を三重に巡らして、これまで三年を清らかにお過ごしになっておられますので、これを無視して無理矢理に浄瑠璃御前に接することをなされば、浄瑠璃御前のためにもお気の毒でございます。浄瑠璃御前にご病気が再発されましたら、中将様にも何かの不都合が起きることでしょう。私も、どうしようもございません」と、涙をはらはらと流しながら言いました。中将は、「都の上流育ちの心は優しいもの、五年でも十年でも待とうよ」と、おっとりと受け、「それでは、三迫同様に精進なさい」と、精進のための部屋を造って、熊野の御神体塩竃御神体を合わせて七体お招きし、注連を七重に引いて、錦の斗帳を三重に巡らして、精進に暮らすようにいたしました。中将は、時々境界の敷居を隔てて対面するだけで過ごしていました。
 師門様は、月王丸に諫められて中将の屋形から逃れ出て、出家を遂げ、父親の師末公や一族の四十八騎の人々の後世を弔った後に、諸国の霊場廻国へと出掛けました。行く先はどこであったかと申しますと、まず信濃善光寺へと参って、そこから都の方ヘと上って、紀伊の熊野山へ参り、その帰り道に紀の川沿いに根来寺粉河寺、さらに高野山金剛峯寺に登って奥の院まで参り、一心不乱に父親や一族の人々の菩提を弔い、そこから摂津の住吉大社天王寺から大和の三輪明神を拝んで飛鳥寺へと参り、春日野の草木の乱れる道を踏み分けて、山城に入って嵯峨の釈迦堂、因幡堂の薬師、鞍馬寺毘沙門天、東寺に参り、清水寺では格別に七日間のお籠もりをして人々の極楽往生の宿願を願うと、観音様からの良いお告げがが受けられ、そこで清水寺から退出し、それから比叡山延暦寺へと参って、その麓の三井寺石山寺から琵琶湖の中の竹生島へと参りますと、一心にお参りをしてはいましたが、だんだんに故郷の四季が恋しくなり、ゆるゆると奥州へと下って三迫へ巡って、故郷の様子を御覧になると、昔からのものといえば、月日の光以外には変わらぬものが無く、自分の姿を見れば余りに変わっているので、涙を止めることができませんでした。以前に召し使っていたと思われる者が粗末な家や小さな家に住んでいるので、そのところへ立ち寄ってみても、みすぼらしい姿の廻国の僧に茶の一椀をも施さないので悲しく思い、何につけても昔が恋しいものよと涙が浮かび、出家したとはいえやはり俗世の思いに悲しくなり、また同時に、自分の姿がいかにやつれているのかを改めて思いました。この地に長者の師門として屋形を構えていた時からまだ三年も過ぎていないけれど、このやつれ果てているのが以前の師門の落ちぶれた果てた姿と知られないのはかえって嬉しいことよとも思いますが、自分の今の身の上を思えばやはり悲しみの涙が止まりません。
 師門様は、私は出家する以前から、初が崎のお寺の本尊である阿弥陀如来を信じていたのだから、初が崎へ行こうと思い立たれて参拝すると、御堂がひどく壊れていましたので、しばらくここに滞在して、人々の寄進を募って御堂を修理しようとお思いになったところ、その夜の夢に、「勧進の人々をもてなす接待の方法はいろいろあるが、風呂に入れる湯接待が一番功徳がある。湯接待をして寄進を募れば、目的は早く達せられるであろう」とのお告げがありましたので、そのお告げに従って湯接待をすることとして、湯屋を上中下の三つにしつらえて、師門様自らが薪を伐り集めて水を汲み、湯接待をなさっているうちに、この湯接待に参る人はあらゆる病気が治るので、諸方から多くの人が集まり、皆々が順々に御堂の修理を成し遂げました。それに加えて、塩竃の明神の柱に、次のような虫食いの文字がありました。土地の人がこれを不思議に思って文字をたどって読んでみると、
  初が崎の湯接待につかん人は、現世にては無病安穏、後生にては五逆十悪なりとも、ことごとく滅すべし。
  (初が崎の湯接待にあずかる人は、現世では病も無く安穏に暮らせ、来世では現世でいかなる重い罪を犯しても、すべて消えて極楽往生できるであろう)
とありました。この文字のことを見たり聞いたりした人で、この湯接待に来ない人はいませんでした。
 ちゅどこの時、高鞍の浄瑠璃御前は湯接待が行われていることを伝え聞かれて、「これ、冷泉、女人というものは、五障三従と言って罪深い身だと言われている。そこで、現世利益後生安楽のそのために、初が崎の湯接待に参りたいものじゃ」と仰いました。冷泉はこのことを中将に申し上げます。そろそろ浄瑠璃御前の精進の年限も終わりに近付いている時でしたので、中将は嫌ということがありません。浄瑠璃御前は見張りの武者を三十騎ほど付けられて、初が崎へお参りになり、御本尊の前で「師門様が御信仰の阿弥陀様でしたのに」と、秘かに涙を流されます。浄瑠璃御前は師門様の菩提を弔い、仏前のお勤めが終わりましたので、湯屋にお入りになることを仰せになります。聖となった師門様が湯屋を浄め、屏風や障子を立て回して入る準備をしましたので、浄瑠璃御前は湯屋にお入りになりました。
 冷泉がじっと聖を見て、浄瑠璃御前にそっと申し上げることには、「誠に不思議なことがございます。このお聖が話すお声をお聞きすると、亡くなられた師門様のお声に少しも違いがありませぬ」と言ってはらはらと泣きました。浄瑠璃御前はこれをお聞きになって、それが真だとは思えませんが、夫師門の声に似ていると聞くのが懐かしく、じっと耳を傾けて聖の声をお聞きになると、やはり三年の間親しく暮らした相手の声なので、どうして聞き違えましょうか、浄瑠璃御前は涙を流されます。
 冷泉は、「お聖様、湯をぐださい」としばしば聖に声を掛けました。聖が、「ああ、馴れ馴れしいお方ですな。とはいえ、これも御供養のことですから、何度でも伺いますよ」と答えますと、冷泉は「尊い聖様と伺っておりますので、聖様と言葉を交わすことで、ひょっとしたら私の罪咎も軽くなるのではないかと思われまして、御声を掛けさせていただいています」と申し上げると、浄瑠璃御前は湯屋の建具の隙間から聖を覗き見ましたが、墨染めの衣を着ていらっしゃるので、なかなかこの聖が師門様だとはっきりと決めることができません。それでも聖の顔に師門様の面影がかすかに残り、慥かに師門様だと見極められたのは、たとえば、弥生半ばの桜の花が山の強い風に吹かれて、青葉の積もる中に一房埋もれているのとよく似て、かすかなところで見分けが付きました。浄瑠璃御前の師門様への思いは抑えることができません。
  浄瑠璃御前はゆっくりと湯から出て、墨を磨って筆を執って、涙を流しながら肌着の内側に一首の歌をお書きになりました。
  ちはやぶる神もからめてしろしめせ君より後は新枕せず
  {神様もはっきりとお判りになってくださいます。あなた様と結ばれてから後に他の男性と結ばれたことはございません。私の相手の方はあなただけです)
と書いて、その文字が見えないように肌着をくるくると巻いて湯屋に置き、高鞍へとお帰りになりました。
 聖が「湯屋を浄めよう」と一人言って湯屋に入ると、肌着が巻かれて置いてありました。これを開いて見ると、袖の内側に和歌が書かれていました。じっと見ると「何よりもあなたが懐かしい」という歌が思い浮かべられる文字が、肌着の内に書かれて巻いて置いてあったのです。浄瑠璃御前が聖に歌を書き遺し、自害したはずの師門が生きているという話が奥州の国中に広まりましたので、高鞍から百騎ほどの武士が、「初が崎の坊主を捕らえて殺せ」という命を受けて初が崎の阿弥陀堂に押し寄せました。すると、阿弥陀堂の中から僧が一人出て来ましたので、武士たちはこの僧を捕らえて稲瀬川の河原で斬り、高鞍へと帰りました。その出来事の後に湯接待をしている聖が山から薪を背負って帰って来ました。土地の人々は聖が帰って来たのを見て、「恐ろしいことです。たった今高鞍から武士が大勢来て、一人のお坊様を『この坊主だ』と言って縛って、稲瀬川の河原で確かに殺して、高鞍へ帰って行きましたのを、お気の毒だと思って見ていましたが、斬られたのはあなたではなかったのです」と語りましたので、聖はこの話を聞いて、「酷いことよ、どのようなお坊様が斬られたのだろう。私のせいなら、埋葬して弔いましょう」と思って稲瀬川のあたりを御覧になると、首を斬られた阿弥陀様の像が川波に漂っていました。聖は、「それでは、阿弥陀様のご尊像が私の身代わりにお立ちになったのだな」と思って、阿弥陀様のお計らいをますますありがたく思って感涙を流し、御首はと尋ねると、離れた下流まで流されて留まっていましたので、それを取り上げて御首と御躯と(からだ)を一つに合わせました。聖は、「この土地はこんなに居づらい場所でございます。さあ御一緒に参りましょう」と、阿弥陀様を背の笈にお入れして出掛け、行き方知れずになりました。
 さて、高鞍の浄瑠璃御前は、聖が殺されたということをお聞きになり、「ああ、悲しいことよ。私のためにこのようなつらい話を何度も見聞きするのは悲しいこと、どうしよう冷泉よ」と仰いますと、冷泉は「万事私にお任せ下さい」と言って、酒を入れる大きな樽や筒を取り寄せ、酒を十分に準備しておいて、冷泉は中将の所へ行って、「浄瑠璃御前様の精進の期間も残りが少なくなりましたので、浄瑠璃御前が警護の方々にお酒を一口差し上げたく存じています」と言うと、中将は浄瑠璃御前と結ばれたいとじっと待った三年の期間の終わるのももうすぐであるなと待ちわびていたところでしたので、それも良いとして、「浄瑠璃御前の仰ることは何でもかなえよう」と答えたので、冷泉は夜に入ってから酒肴を取り出し、「『この長い年月の皆々の苦労に一献差し上げなさい』との中将様の仰せです。召し上がれ」と伝えると、警護の人々はありがたく受けて、酒を飲み始めます。酒を遠慮する人もいくらかはいましたが、冷泉がいろいろと言葉を尽くしておだてて勧め、「浄瑠璃御前から中将様へとお話を通していて、中将様もお許しのことです。安心してお召し上がり下さい」とあれこれ楽しく人々に酒を勧めていき、酒好きの上戸は無論のこと、あまり飲めない下戸にも同じように勧めて酔わせ、その場を去って浄瑠璃御前のところへ来て、「思い切り酒を飲ませて酔わせました。どうぞお仕度ください」と言って、そっと屋敷を抜け出す仕度をさせました。
 さて、冷泉が警護の人々の様子を見ると、毎晩の警護に疲れている上、おいしい酒を思い切り飲んだので、正体無く寝込んでいました。冷泉は横たわっている警護の人々をまたぎ越して、一間を通り過ぎ、屋敷の正面の門を見ると、門の錠も掛けず、堀を渡る橋も外さないままになっていて、何もしないで外へと出られるようになっていました。冷泉はこれは嬉しいことよと思って、大急ぎで浄瑠璃御前のところへ戻って、「警護の者はぐっすり寝ております。門も鍵がかかっていませんし、橋も架けられたままですよ、さあ、早く,早く」と申し上げると、浄瑠璃御前は短冊を一葉取り出して、いつもいた場所に懸け置いて、寝ている警護の者を秘やかに越えて、やっとのことで外へ出て、屋敷の外への橋をお渡りなって抜け出たのは、まるで虎の尾を踏み、竜の髭を撫でるような危険なことで、いつ襲われるかという恐ろしさと同じでありました。
 どんどんと道を急ぐうちに、二人は僧が殺害された稲瀬川の川辺に着きました。それまで閉じ込められていた中将の屋形を振り返ると、松明を昼のように灯して騒いでいる様子と思われます。浄瑠璃御前が「どうしよう、冷泉。この上は、ともかくも初が崎までは行って、一緒に自害をしましょう」と仰ると、冷泉は「とにかく少しでもお急ぎ下さい」と言って、稲瀬川の川岸まで来ると、浄瑠璃御前が履いていた大きくて丈夫な金剛草履をお脱がせし、自分の履物も並べて置いて、浄瑠璃御前は上着の薄衣の上に、「私はあなたの情けを知らないわけではありません。貞女は二人の夫を持たないものでございます」と書き置いて、一首の歌を添えて、
  ゆく水に沈みも果てぬ世の人のはかなき数を言ひや伝えん
  (流れる水に私は沈んで死んでしまいます。世の人よ、はかなく死んだ人の数々を伝えて下さいませ)
と書き置きをなさいました。
 二人は稲瀬川を越え、さらに先へと進みます。追っ手の人たちは川岸で履物と衣類を見付けて近寄ると、上に遺書がありました。「それでは、この川へと身投げをなさったのだ。夜が明けてから御遺骸を探そう」として、中将のいる高鞍へ帰って、この形見の品を中将にお見せしました。
 中将は遺書を見て、「それでは浄瑠璃御前は身投げをなさったのだ」と思って、三年の間お暮らしになった部屋へと入って見回すと、部屋の中には浄瑠璃御前の移り香がまだはっきりと残っている様子で、部屋中を見回すと、短冊が懸けられています。
  出でていなば心かるしと名やたたん積もる歎きを人の知らねば
  (この場所から出て行ったら情の無い者だと評判が立つでしょう。どれほどの嘆きが私の上に積もっているかを世間の人は知らないのですから)
と詠み置かれたのを見て、「こんな都を遥かに離れた土地にも優しい思いの人がいるのを知らないで、自分の勝手な思いで余計なことをしてしまったものよ」と、嘆きましたが、今となっては、もはや取り返しのつかない悲しいことでございました。
 さて浄瑠璃御前と冷泉の二人は、さらに五町ほどを逃げ延びて、初が崎の湯屋の近くまで来ましたので、まず最初に阿弥陀堂へお参りして、夜が明けて日が差してきたので堂内を見回すと、御本尊がおいでになりません。浄瑠璃御前は、ああ、不思議なこと、ここの御本尊の前で来世を願いながら自害をしようと思ってここまで逃げて来たのに、御本尊がおいでにならないとは、何であろうとお思いになりましたが、冷泉は、阿弥陀堂の近くに片折戸を立てたみすぼらしい家に近寄って、その家のあるじの女性に声を掛け、ここの聖の消息を尋ねますと、「聖様が殺されそうになったのをこの御本尊様が身代わりにお立ちになって斬られました。そこで聖様は、すぐさまここからお出掛けになられました。お気の毒にあなた様は御縁のある方でいらっしゃいますか。あなた様はあのような上品な美しいお方のお供をなさっておいでなのですね。お気の毒なことでございます。私にお手助けできることはございますか」と答えて、一重の帷子を一枚冷泉に渡して、「これを着て目立たないようになさいませ」と言って、「この場所からは早く立ち去られますように」と言いました。
 冷泉は、女あるじが語る聖の消息を聞いて、「それでは御聖は生きていらっしゃるのだ」と喜んで、「御自害はなさってはいけません。今はとにかく御聖の行き先をお尋ねいたしましょう。それにしても、御聖はどちらへお出でになったのでしょう」と浄瑠璃御前を止めながら女あるじに尋ねますと、「そこまでは存じません」と答えました。冷泉は着ていた薄い上着を「これは御礼に差し上げましょう」と女あるじに差し出しと、女あるじは「思いも寄らぬもったいないことです」と返しましたが、冷泉は、ともかくも預かっておいてくださいと渡して、二人は御聖の行衛をあれこれと思いながらまた阿弥陀堂の方ヘ戻って行こうとして、ふとお堂の脇を見ると、新しく盛り上げた塚があります。その上に卒塔婆が一本立っていました。近寄って卒塔婆の文面を御覧になると、
  一見卒塔婆 永離三悪道
  (卒塔婆を一たび見れば、自らの行いで到る地獄・餓鬼・畜生の三悪道から永く離れるであろう)
の文字があり、その下に歌がありました。
  卒塔婆立てて行きし聖を人問はば出羽の羽黒へ尋ねても問へ
  (卒塔婆を立てて行った聖のことを誰かが尋ねるならば、出羽の羽黒山へ行って探しなさい)
と書いてあります。二人はこれを御覧になって、間違い無く師門様のお立てになった標だと勇気が湧いて、元の女あるじの所へ戻って、海道を教えてもらい、道端の草を血に染めるように足を傷めながらも、やっとのことで苦しい道を歩き過ぎて、初が崎を出発してから十三日目という日に、出羽の羽黒山にお着きになりました。すぐに羽黒山権現の神殿に参って、「お願いいたします。俗名師門のあの聖に会わせて下さいませ」と伏し拝みました。
 羽黒山の権現に祈りを捧げた後、道で出会う人ごとに、「これこれの聖がこちらに来ていますか」と尋ねますが、人々からは「そのような人は存じません」という答えでがっかりして、別の道筋でまた聖の消息を尋ねると、「奥州から来た聖という人が一昨日まではここに滞在していましたが、その後は姿を拝見することがありません」との答えがありましたので、それではお会いできることがあるであろうと力を得て、再び権現へと参って再会出来るようにとのお祈りを捧げました。二人がお堂の脇を御覧になると、初が崎の阿弥陀堂の脇にあったのと全く同じ形の塚があり、上に卒塔婆が立てられています。その卒塔婆を御覧になると、この先に期待を持たせてくれる歌一首がありました。
  卒塔婆立て行きし聖は越後なる蔵王堂へと志しける
  (卒塔婆を立てて出掛けた聖は、越後にある蔵王堂を目指したのである)
と書いてありました。二人はこの文面に勇気が湧いて、励まし合いながら越後へと足を運んで行くうちに、羽黒山を出立してから十二日目に越後の蔵王堂に着き、そこでまた聖の消息を尋ねますと、人ごとに、「そういった人は六日か七日前にはここにおいででしたが、最近はお見掛けしません」という答えがありましたので、力を落として蔵王堂のそばに腰を下ろして休みますと、以前と全く同じ形の塚があり、その上に卒塔婆が立っていました。近寄って卒塔婆を御覧になると、歌一首が書かれていました。
  卒塔婆立て行きし聖を人問はばよしみつ寺へたづねても来よ
  (卒塔婆を立てて出て行った聖を尋ねるならば、よしみつ寺ヘと尋ねて来るように)
と書いてありました。これを見て浄瑠璃御前は、「ああ悲しいこと。私はいったい、誰のためにあれこれと心を尽くしているのだろう。自分のために良かれと思っての行動が裏目に出て、これでは、『身を思ふとて身をば捨つるか(自分のために一番良いのは、自分の身を捨てることなのか)』という歌の意味と同じではないか。このように聖の跡を慕ってお尋ねしても、まだお会いできない。この卒塔婆だけが頼りだと思ってここまでやって来たけれども、何も得ることがなく、聖に会えない。もはや、ここでこの身の生を終えてしまおうと思うのはどうなのだろうか、冷泉よ」と仰るので、冷泉はこのお言葉を聞いて、「なるほど、仰る通りでございます」と涙を流しましたが、しばらくして涙を拭って、「何を仰いますか、お気の弱い。それほど情けないお思いになられるのなら、どうして中将のいる高鞍にお留まりににならなかったのでしょうか。高鞍を出たのは、聖様に再会するため。お目に掛かるための手がかりがある限りは、それを頼りとお思いになって、どこまでも聖の跡を追うようになさいませ」と申し上げると、浄瑠璃御前はこれをお聞きになって、「嬉しい冷泉の言葉ですね。私は仮に異国の虎がいる野辺でも,聖様の消息が判る限りは、もう泣きません。ただ、私のせいでそなたにこのような苦労を掛けているのが申し訳なくて、つい弱音を吐いてしまったのです」と仰いました。

 

師門物語 上 福福亭とん平の意訳

師門物語 上

   師門物語 意訳
 さて、灯火は消える前に光が増す。人は死ぬ前に悪念が起こる。そのような世の中、朝には精気に溢れて人生を誇っていても、夕暮れには白骨となって野の外れに朽ちる無常の世である。
 さてさて平の将門公は、まことに不思議の力を持った武者です。武具に身を堅めて頰から顎にかけて白い毛並みのある栗毛の馬に乗って敵に向かわれる時には、同じ出で立ちの武者が八騎並ばれるので、どの武者が真の将門公か見分けられません。このことだけでなく、公は矢を一本射られると、一度に八人の武者を射貫くほどの優れた武者でいらっっしゃいます。
 でありまして、関東を征服して、下総の国に新たな都を建て、その屋形に「平新皇」と額を掲げて思いのままに振る舞っておられましたので、公がいくら兵術に熟達されていたと言っても、天皇様の命に従わなかったものですから、将門公はとうとう駿河で討たれてしまいました。
 将門公の御首はすぐさま京へと運ばれ、罪人の首を晒す左の獄門の脇の柱に南向きに八寸の鎹で(かすがい)留められました。ある時この首が「ああ、駿河にいる私の胴体よ、京へ上って来い。そうしたら、この鎹を抜いて胴に飛び付いて、東北の方にお立ちの多聞天がお持ちになっている剣を奪い取って宮中へと乱入して、恨みのある敵どもを撃ち殺すのに」と言って、南に向けられていた首が駿河の地のある東へと向いて、不気味に笑いました。
 この将門公から五代の子孫に平師末という方が、奥州三(さんの)迫(はざま)においででしたが、並ぶ者の無い長者でございました。ですが、このご夫婦の間には嘆くことがありました。それは何かと申しますと、お二人の間に男も女も一人の子というものがありませんでした。ある時奥方が、師末様に向かって、「実に、聞くところによると、塩竃の明神様は霊験あらたかでいらっしゃるそうです、さあ、百日の精進をして明神様にお籠もりをし、子授けをお祈りしましょう」と話をすると、師末様はお聞きになって、「もっともなことである」と仰って、お二人で精進を始めて百日になりましたので、明神様へと出掛けてお籠もりをして、お祈りをしましたが、その内容が素晴らしいものでした。まず第一のお願いには、「金銀で明神様の御姿である鏡を月に七枚ずつ造って、三年間奉納いたしましょう」とあり、さらに、「それがお気持ちに添わないならば、朱の糸でたてがみを編んだ神馬を毎月七頭、三年の間奉納いたしましょう。それでも不足とお思いならば、八人の乙女と五人の神楽奏者とで御神楽を三年の間一日も欠かさず捧げましょう」と深く御祈りをして、早くも九十九夜になりましたが、明神様からのお告げは一向にありません。百日の満願になる夜の夢に、髪を左右に分けて耳のあたりで輪に結った上品な少年がお二人の寝ている枕元に立ち寄って、「そなたたちの願いがまことに気の毒に思い、そなたたちの子種を、上は忉(とう)利(り)天のはて、下は地獄の底の底までの世界中を隈なく捜し回ったのであるが、全く見付からなかった。しかしながら、夫婦の者が一心に願うのであるから、極楽世界の阿弥陀様にお願いして、一子を授けると告げるのである。安心いたすように」と告げて立ち去られると思ったとたん、夢はすぐに覚めました。ご夫婦の喜びはこの上ありません。
 お二人はすぐさま三迫に帰って、かねての願いが叶ったという思いを抱いて日々を過ごしているうちにいつしか日が経ち、奥方はお子様を宿していつもとは違う様子でありましたが、一人の玉のような男の子を儲けられました。一家はこのお子様を手の内の大切な玉、袖の上の蓮華のように大切な存在として、大事に大事にお育て申したところ、夕方に出た筍が夜の露に育てられて一夜の内に成長するように、ぐんぐんと育って、月日が流れて間もなく十三歳におなりになりました。この男のお子様を十三歳で元服させて、本名が師門となりました。師門様が十七歳の冬の頃に、刈(かつ)田(た)の兵衛様の一人娘の浄瑠璃御前という十七歳で、琴も琵琶の楽器も弾け、みごとな筆跡を書き、和歌も堪能という姫の評判を伝え聞いて、この浄瑠璃御前を妻にと願って迎えました。二人は天にあるならば比翼の鳥、地にあっては連理の枝というように決して離れまいと深く愛し合い、早くも三年という時が経ってしまいました。
 お二人はこのような日々を過ごしていましたが、ある時、浄瑠璃御前が何気なく庭の植え込みを御覧になっているのを舅の師末様がその様子を物陰から御覧になっていまして、しばらくしてからお子様の師門様をお呼びになって、「これ師門、よく聞け。お前の妻の浄瑠璃御前を実家の刈田へ送り返せ」と仰いましたので、師門様はこれをお聞きになって、「ああ、嫌なことを仰いますなあ。まあその仰せ言はどうでもあれ、とにかくそのまま浄瑠璃御前に聞かせましょう」とお答えしたのは、お気の毒なことでございました。師末様が「私の言うことが叶わないのなら、どうしようもない」と仰いました。思えば、この一言こそが、師門様があちらこちらの土地を遍歴されるできごとの発端でございました。
 さて、そのままに時は過ぎて行きましたが、舅の師末様はその身に重病を受けられ、いよいよ臨終が近いという時に、我が子の師門様を呼び寄せて仰ることには、「お前に、浄瑠璃御前を刈田へ返せといつも言っていたのに、承知しないのは残念なことだ。そもそも武者というものは、見目容の優れた美女を妻に持つべきではないのだ。何としても浄瑠璃御前を刈田へ送り返せ」と仰り、これが師末様の遺言となってしまいまして、ご一家の嘆きはこの上ありません。六十三歳が寿命とは仕方のないものではありますが、師末様が亡くなられたことを師門様はとても嘆かれました。
 日々が過ぎ津ゆくにつれて、師末様が亡くなったという悲しみも次第に薄れてゆきます。そして、師門様は十九歳になられました。その力に強いことは七百人力です。弓は五人で張る強い弓、使う矢はこぶし十五を並べる長さで、名馬に黒みがかった飴色の衣で乗るという極めて武芸に達した人でありまして、一族の武者四十八人がこれに従い、一門繁昌なさって、浄瑠璃御前を刈田に戻せとの親の遺言には背いて、栄華を楽しんではいましたが、ここに、師門の身の上に、一大事が降りかかってきました。それは何かと言いますと、この奥州に新たな国司が下ってくると伝わったことでした。その国司の名を二条の中将殿と言います。国司が下るということで、三迫の内の高鞍に国司の屋形を造って、奥州中の大小の領主が皆、国司の元へと出仕して、中将をとても大切に歓待しました。この中将という人の本性は、色好みでありまして、都から連れて来た女房の数は、総勢三十人余りということでありました。ある時、人々が揃って出仕したところに中将が、「皆に申したいことがある。我は花の都を出立して、東のこの奥州の地に下ってきたのであるが、少しも心安まることがない。皆が真にこの私を大切に思うのなら、皆には娘が五人や三人または一人はいるであろうから、その中で一人ずつ我に下さらであろうか」と言い出しました。そこで人々は、都から来た中将を婿にして良い目を見ようと思って、姫を一人ずつ差し出しましたので、中将の所には三十人余りの姫が集まりました。中将は姫の一人一人を見定めて、これはは色黒だ、こちらは色が白過ぎると言い、これは髪が短い、反対に髪が長すぎるのは不気味だ、ある者は琴は弾けるが琵琶が出来ない、こちらは琴は弾けるが和歌が詠めない、また和歌は詠めても字が下手だとか、これは並みの人より背が低いから嫌だ、背が高いのは深山の中の木のようだと嫌って、とうとう三十人余りの姫を二十日の内にすべて元の家へと返してしまいました。
 ある時、中将がおいでの部屋の壁一重を隔てた一間で、伊達の太郎と信夫の二郎が妙なことを話していました。伊達の太郎が、「中将様があれこれ女の選り好みをなさると言っても、刈田の兵衛の一人娘で、今は三迫の師門と夫婦となっている浄瑠璃御前ならば、まさかお嫌いになることはなかろう」と言いますと、信夫の二郎がこの言葉を聞いて、「壁に耳あり、石が物言うと言い、どこに誰が聞いていまいものでもない。めったなことは言うものではない」と言いました。中将がこの会話を聞いて、「二人は何を話していらっしゃるのですか」と言って、「こちらへおいであれ」と言いますので、伊達の太郎と信夫の二郎の二人が中将の御前に来ました。中将は「今の話は本当のことですか。それならば、刈田の兵衛の所へ手紙を出そう」と言って、大至急我が屋形へ来るようにと手紙を遣りましたので、刈田の兵衛は一体何事かと、急いで高鞍にある中将の屋形へと参上いたしました。
 中将はすぐさま刈田の兵衛に面会して、「早速のお出ましで、とても嬉しく存じます。刈田様へのご用事というのは別のことではございません。貴殿に御酒を差し上げて私もお相手をしようということでございます」と言いますと、刈田の兵衛は「承りました」と答えて、洒落た肴で型通りの酒宴を始めました。その後に中将は、「これは都から運ばせた貝の殻でできた盃でございます」と大きな盃を取り出し、家来に、「刈田殿へ差し上げよ」と命じて、刈田の兵衛にその大盃を渡しました。中将が、「刈田殿、その盃でお飲みください」と言うと、刈田の兵衛はひざまずいて受けて、この大盃を三杯まで飲み干しました。中将が喜んで、「もう一盃」と勧めると、刈田はさらに続けて二杯飲みましたので、中将はほくそ笑みながら、家来に「例の物をここへ」と命じて、刈田の兵衛に鞘を梅の模様のある鮫皮で包んだ太刀一振り、金襴の布十巻を贈りました。刈田の兵衛はこれを畏まって受け取りました。
 しばらくして中将が、「刈田殿は浄瑠璃御前という娘御をお持ちというのは確かですか。いまだ世に出ていない師門という男を婿にお取りになったと伺っています。浄瑠璃御前をこの私に下さるならば、この国の出納役すべてをお任せいたしましょう」と言いますと、刈田の兵衛はもともと欲に固まっている者なので、横を向いて一人ほくそ笑んで、「とにかく仰せに従いましょう」と答えましたので、中将はとても喜びましたが、兵衛の長男の刈田の太郎は、刀を引き寄せて、父の兵衛を強いまなざしで見て、「飲み過ぎたのか、それとも年のせいか、一人の娘に二人の婿を取るとということ、都のやり方はどうだか知らぬが、この国は東の果ての国とは言いながらも、これまで聞いたこともないことだ。思うだけでも腹が立つことだ」と言い捨てて、座敷を後にして、親より先に刈田の屋敷へ帰りました。世間の人々は皆、太郎の心ばえを褒めました。
 その後、伊達の太郎、信夫の二郎の両人が、「話がここまで進んでいますので、時が経ってはよろしくないでしょう」と言うと、中将は「私に計略がある」と言って、急いで「明日から七日間の狩を行う」との書状を作りましたので、使者は三迫へと急いで行って師門様に告げます。師門様は、「承知いたしました。改めて御返事をするまでもありません。明日参上します」と仰って、すぐに一族四十八人に、「明日から七日の狩である、用意をせよ」と告げました。夜が明けて、師門様が狩にお出掛けになろうとすと、浄瑠璃御前が師門様の袖を押さえて、「お待ち下さい」と引き止め、「ああ、忘れていました。今日の狩場へのお出掛けは日延べして下さい。なぜかと申しますと、先夜の夢に、あなた様の端に角を付けた頑丈な弓が三つに折れ、あなた様の大鎧が誰も蓋を開けないのに唐櫃から出ているのを、誰とも分からない者がどこへともなく持って行ってしまうとはっきりと見ました。そんことがとても気懸かりになっております。私も路頭に迷うと夢を見ましたが、私のことはともかく、あなた様の御身の上が取り分け気になって心配しております」と、元気のない様子で仰ると、師門様はこれを笑い飛ばされて、「誰が夢の中で酒を飲むと見て、実際に酔うということがありましょうか。私が狩に出掛けてその留守の間の独り寝の寂しさは想像できます。終わったらすぐさま帰って来ますよ」と仰います。そして、師門様は、浄瑠璃御前のお付きの女房たちに、「浄瑠璃御前に琵琶や琴を弾き、御酒を差し上げて、寂しい思いをさせないように」と申し付けてお出掛けになられましたが、神ならぬ身でありますので、これから悲しいことが次々と起こるのをご存じないことで、とてもつらいことでございました。
 こうして中将の狩が始まり、その最中に、伊達の太郎と信夫の二郎は五百騎余りの軍勢を率いて三迫の師門様の屋形へと押し寄せて、矢を入れた箙や鎧の下の草摺を叩いて鬨の声を挙げましたが、屋形の内は驚いて、騒ぐこともできずにしばらくの間ひっそりとしていました。そこで寄せ手が、「我々は刈田殿とのお約束で、浄瑠璃御前のお迎えに高鞍から来たのである」と名告りました。その時屋形の留守を守っていたのは志太の三郎とたからの両人でありましたが、この名告りを聞いて志太の三郎が、「これ、たから殿、我々でどれほどの防戦ができるであろうか。ここはいったん屋形を落ち延びて師門様にこの様子をお知らせして、生き伸びようではないか」と語りかけます。たからの太郎はこの言葉を聞いて、「軍勢が押し寄せたこの時に師門様がここにおいでにないのは幸いのことだ。そなたのことはいざ知らず、正八幡様もお見守りくだされ、ここで立派に討死をする」と言いながら、そこにある唐櫃の蓋を開けて甲冑を取り出してすぐさまてきぱきと身に着け、上帯をきりりと締めて、四尺五寸ある太刀を緒を結んで提げ、中央が黒色の大きい羽が付いた戦闘用の矢を二十四本指し入れた箙を背に負い、三人力で弦を張る強い弓に弦を掛けて、正面の高い櫓へ走り上がって、大声で、「たからの太郎、歳二十七」と名告って、弓を地に突いて堂々と立ちました。
 志太の三郎も、「私は貴殿の気持ちを確かめるためにあのようなことを申した。見事でござる」と言って、畏れ多いことではありますが、大将用の鎧を身に着けようと唐櫃の蓋を開け、肩掛けを載せて調え、上帯をしっかりと締めて、太刀の緒を十文字に結んで身に付け、漆を塗らない竹にくぐいの羽を付けたこぶし十五分の長さの矢を四十八本入れた箙を背中に高めに負い、こちらは五人で張る強弓に弦をきちんと張って、正面の高い櫓へ走り上がって、「志太の三郎、歳二十五」と名告りました。
 それに対して、伊達と信夫方の五百人ほどが鬨の声を挙げて攻めかかろうとしました。そこへ二人が次々を矢をつがえて射かけたものですから、主立った武者が三十人ほど射倒されて、形勢不利と思ったのでしょう、引き退くところへ、二人は櫓から飛んで下りて「一隊が敗れれば、残りも全滅する。掛かって参れ」と言いながら、正面の門と裏門とを開け放って散々に斬りかかると、その場で五十人ほどを倒しました。殺された者のほか、傷を負った者は数知れません。こうして二人はまた屋形の内へと入り、もはや矢も尽きてしまいましたので、志太の三郎が、「師門様も今ごろ亡くなられていることであろう。この上罪を作っても仕方ない。自害して師門様と共に参ろう」と言って、腹を切って死にました。たからの太郎も同じく自害しました。
 そこで、伊達と信夫の二人は屋形に乱入します。浄瑠璃御前は、我が身は女であっても敵に捕らわれまいとお思いになり、「守り刀を渡すように」とお命じになります。お付きの冷泉が「この場は私にお任せ下さい」と言って止めました。見知らぬ者たちが塵取りの形をした底板と手すりだけでできた粗末な輿で迎えに来ました。浄瑠璃御前は「ここで死のう」と仰いますが、冷泉は「私に考えがございますから」と浄瑠璃御前を無理矢理輿にお載せして、高鞍へ行かせました。浄瑠璃御前を迎えた中将はとても喜んで、浄瑠璃御前に監視役三十人を付けて昼夜見晴らせました。
 その後、三迫では、襲われた時に病気で臥せっていた月王丸という若者が病に床からようやく治って涙を流し、「お気の毒な、この有様を師門様には誰が知らせるのだろうか。それとも、師門様はもう自害されているかも知れぬ。とにかく見付からないように行こってみよう」と言ってひたすら歩いて狩場へと行きますと、師門様は何もご存じなく、普通の鹿の二頭分もある大きな鹿に出会って狙いを付けているところで、月王丸がやって来たのを御覧になって、「そなたは病気であったのではないか。何の用事があってやって来たのだ。しかも馬に乗らずに来て、何かあったのか」と仰ってつがえた矢を外して、月王丸に馬を寄せて御覧になります。すると月王丸は涙を押さえて、浄瑠璃御前が連れ去られた次第を細かに語ります。すると、お気の毒に師門公は言葉も無く呆然とされて、馬を留められましたので、四十八人の一族の人々はあちこちから駆け寄って怒りに顔を赤くしているところへ、一族の中から、かねただが進み出て、「この狩場を引き揚げて、狩装束を脱ぎ捨て甲冑に身を固めて、味方を集めて浄瑠璃御前を取り返しなされ、しかも、狩に使う鏑矢で敵を射ても大した役に立たない」と大声で叫びますと、それが良いという者もいました。松島兵衛が鐙(あぶみ)を踏ん張って馬上に立ち上がり、「さてさて、皆々はこの口惜しい事態をどうお考えか。これは明日まで延ばして良いということではない。とにかうこの狩の装束のままで押し寄せて戦っての討死が最も大切なことだ。少しでも時が経てば、平の家名は地に落ちるであろう。わしが先頭に立って討死しよう」と出撃いたしました。師門様も含めて五、六十騎の人々が高鞍へと向かいましたが、この出陣は「蟷螂が斧を取って隆車に向かう」という言葉の通り、自分の力量を考えずに強敵に向かうというはかないものでありました。
 一行は間もなく高鞍へ着いて、城の堀へと押し寄せ、戦装束ではなく狩装束のままではあっても、武士の習いとして鬨の声を挙げ、互いに名告り合いました。城内は予期していたことでありましたから、一千余の軍兵がしっかりと守りを固めて静まっていて、「ああ、ご立派な侍よ。まことに優美で勇ましい師門のやつが来たぞ。狩に使う鏑矢で射たとて何になるだろうよ。まあ、立ち向かってやろうかい」と馬鹿にしました。師門様は用意した鏑矢を射尽くしてしまい、馬から飛んで下りて、七尺三寸二握り(二メートル余)の大太刀を手にして、「皆は大手門を壊して開けた時に、一斉に刀を振るって中に斬り入るように」と仰るやいなや、幅九尋(十五メートル程度)の二重に掘った広い堀をひらりひらりと飛び越えて、櫓の下へついと入り、七尺三寸余の大太刀を振るって斬りこまれたもので、櫓にいた者は敵対することができずに転び落ちたので、師門様はそのまま櫓へと飛び上がり、その後、櫓から飛び下り、辺りにいた者を追い散らし、大手門の扉格子を散々に引き破って、「皆々入れ」とお命じになられたお姿は、春の蝶が谷の梢の間をひらひらと飛ぶよりもさらに優れて軽い身のこなしでありました。
 そこへ四十八人の一族の人々が斬り込みました。師門様は大勢を相手に立ち向かって戦っているうちに、敵の主立った武者五百人ほどを斬り伏せになられました。そこで師門様は、味方の者はどうしているかと様子を御覧になると、ある者は手傷を負い、ある者は討死するということで、満足に戦える味方は一人もいません。お気の毒に師門様は、もうこれまでとお思いになって、また大勢を相手に斬ってかかります。敵もなかなかの者なので、斬り合ううちに師門様の七尺三寸の太刀は十分に鍛えられた名作ではありましたが、相手の太刀と暇無く打ち合っていたために、鍔元から折れてしまい、刀の柄(つか)ばかりが手に残りました。師門様は武器が無くなってしまって、戦いようがありませんが、それでも勇気があり、その上に大力でありますから、櫓の下へ走り寄って一番高い柱を引き折って脇に挟んで、ふたたび敵の大勢の中へと走り込んで柱を振り回しますと、人々は向かうことができず、秋の嵐が木の葉を散らすように、四方にぱっと追い散らされ、多くの人が柱で打ち倒されて、しばらくは傍に近寄る者は無くなりましたので、月王丸は師門様に、「ああ。殿のお見事な御手柄でございます。今はこれまででございます。殿様が亡くなられましたらだれが御一門四十八人の方々の菩提を弔うことができましょうか。ここは生き延びられて出家なさり、人々の菩提を懇ろに弔いなされば、人々の魂も喜ぶことでございましょう。この世は今の時だけではございません。必ず望みを遂げられる時もございましょう」と、この屋形の門の外へと押し出すようにしました。少し人々の気持ちが緩んだ時に、月王丸が大声を上げて、「我は師門様の家来の月王丸、歳十八。師門様は御自害なされたので、我もその御供をするぞ」と大声で叫ぶやいなや、討たれて横たわっている者の中で良い顔の首を搔き切ってそれを手に高いところへと上がり、腹を十文字に掻き切って、腸を(はらわた)取り出し、切り取った首を腹の中に押し入れ、その後に自らの喉笛に刀を立ててうつ伏せに倒れました。この月王丸の見事な最期の様子を人々は皆褒めたのです。
 こうして、中将の屋形では、もはや師門を討ち取ったということで屋形を浄めさせて間もなく静まったのですが、とはいうものの、子を討たれた親の悲しみ、親を殺された子の悲しみ、兄を討たれての弟の嘆き、一家の柱の夫を殺されての妻子の嘆きと、高鞍の周辺にはただ嘆きの声ばかりが満ちて、中将のことを良く言う者は一人もいませんでした。

相生の松 福福亭とん平の意訳

相生の松
 さて、昔から今日に至るまでのおめでたい例として言われることは多いですが、その中で、鶴の雛が巣立つ姿は千年の寿命を見せています。また、池の岸近くに亀が浮かび出るのは、万年の寿命の姿を見せるということです。それにも増して、格別にめでたいのは、冬の夜の嵐の吹きすさびや、、厳しい露や霜に当たっても緑の色を変えない松がそれです。松がいつもその色を変えないということがあるので、長生きの名の長生殿庭には陸奥にあった姉歯の松が移し植えられ、年を取らないという名の不老門の扉の内にはまだ小さい小松が植えられました。異国の唐の例を考えると、赤松子という仙人は、松葉を食べて長生きをしたと言い、また、我が国の昔を尋ねると、三保の松原は富士に近い特別な霊地として、天人がここに下ってきて、天人の袖で撫でても尽きることのないような磐石のという歌が詠まれたように、御門の長命を祝福する千年の寿命を保つ鶴がここの梢に飛び通ってきているということです。
 このような世の中で、生えている草木の種類はさまざまあり、草木それぞれに名が付けられていますが、その草木にも男女の間と同じ情けの道があって、夫婦の契りは永遠に続くものなのです。親しい契りの雌雄、野に広がるつぼすみれにも、男女の情と同じ情が通っているとは申しますが、その中でとりわけ「相生」の名の通りにめでたいことに伝えているのは、播磨の国の高砂の浦のことで、ここに、松が枝姫様というとても顔形の美しい姫神様がいらっしゃいました。この方の御名を松が枝と申し上げるのは、お住まいの庭に姫小松を植えて、いつも色の変わらない松の姿を愛されましたので、この様に名付けたのです。この姫小松は、植えてからだんだん年月が重なるにつれて、枝が伸び、葉が繁って、高砂の浦吹く風に揺られて鳴る枝葉の音が、あたかも琴を弾く音のようで、それを聞くと心が澄み渡ります。松が枝姫はこの松の調べを楽しみ、いつも松の傍においでです。さらに年月は重なりましたが、姫のご容貌はますます若々しく、お年を召す様子はありません。
 さて、ここ摂津の国の住吉の浦に、松高彦の命様という男の神様がいらっしゃいました。この神の名を松高彦と申しますが、そのいわれは、松の緑の色を変えない葉が、高い枝となって繁りあった姿があり、霜の降りる寒い秋から冬にかけて吹く風によっても緑の色が変わらないままで、地に落ち積もる松葉の数が搔き尽くせないほど積もるほどの長い年月にこの松を愛されましたので、松高彦様と申し上げます。
 古く昔のことを申し上げると、畏れ多くも天の神の七代目の伊弉諾尊が日向の国の橘の小戸阿波岐原においでになって、海辺に下って海中に入られて潮を浴びられますと、この潮の中から一柱の神が現れました。そのことがあってから数十万年を過ぎて、神の代から人間の御門の時代になって、神武天皇から第十五代に神功皇后と申し上げる御門が、高麗、百済支那の半島の三韓を平定して我が日本国に従属させようとお思いになった時に、この阿波岐原の波間から出現された神がたちまち姿を現されて、神功皇后にお会いになって手助けをされたので、実はこの三韓への出陣の手順はすべてこの神のお考えによるものでした。こうして、この神は神功皇后が大陸へと出陣される時に皇后の護りとなり、皇后は思いの通りに三韓を攻めて平定して、日本の土地へお帰りなりました。その時にその神は摂津の国へお出でになって、ここが安住するのに良い場所であると仰せになって、その地に神となられて、落ち着かれました。厳かな社を建ててお祀りして、住吉の明神と申し上げます。
 このようにして、長年に渡って霊験が並びなくあらたかですので、国中の人々がこの住吉の明神をありがたく敬って、住吉の浦の浜木綿で幣を作って、多くの人々が参詣に訪れます。
 神前では八人の舞を献ずる乙女と五人の神楽を奏する男性が欠かさず神前に奉仕して、神様のお気持ちを鎮め申し上げています。さつさつとさやかに響く鈴の音が、住吉の松の並木に吹く浦の風の音に重なり、とうとうと鳴る鼓の音が岸に寄せる波音かと思われて、住吉の宮はますます賑わっています。ところで、この住吉の浦と言いますのは、青海原が西に向かって豊かに広がり、四国や九州の果てまでも眼前に見ることができ、手に取れる程の近さに思えます。
 そのためでありましょうか、津守の国夏がこの住吉の浦の見晴らしを詠んだ歌にも、
  朝夕に見ればこそあれ住吉の浦より遠の淡路島山
  (朝晩に見なれているのであるよ、住吉の浦から遥かに見える淡路島の山よ)
とありますのも、この住吉の明神様の御心を推し量り申し上げると、唐から我が日の本を侵略しようとする企みが長年に渡って何度も繰り返されることをかねてからご存じでいらっしゃって、我が国を取り巻く海が賊から犯されることなく穏やかで、国に暮らす人々が豊かに過ごせるようにとの護りの神とおなりくださっていることはありがたいことです。
 さて、先にお話した松高彦様は住吉の浦に出て、浜辺の松の梢を御覧になりました。松の緑はこの上なく色濃く空に溶け込んで、どこへともなく歩みを進められます。海の彼方から吹いてくる風の音の中に、琴の音が混じって聞こえます。松高彦様は不思議にお思いになり、自身で海岸へと出て行き、一艘の小舟に乗って海中へと漕ぎ入り、琴の音を便りとして進んで、どこで弾いているのかと尋ねられます。敷津、高津の浜を過ぎて、難波の御津の浜へと琴の音に導かれて行くと、古来有名な播磨の国の中でも特に名が知られ、松風の音も高く聞こえる高砂の浦、尾上の松の場所にとお着きになりました。
 松高彦様は暫くそこに舟を止めて、琴の音をお聞きになると、かすかに聞こえていた琴の音が生まれている場所はここと聞き定めて、舟から陸に下り立たれ、あちらこちらと歩かれると、少し離れた場所に、風景に溶け込んだ建物で、庭にはどれくらい長い年経っているのかと思われる梢が年を経た姫松がたくさん生えていて、その繁った松の木の色が空に聳えています。その木々に浜辺の風が吹き寄せると、枝葉と触れ合って、まるで琴を弾いているような音になり、第一、第二の絃は伸び上がるように音高く、また静かに退くように音低く鳴り、次の第三、第四の絃は調子を変えるようにも、また高い調子にするようにも鳴り、第五の絃の音は天子様の長寿を祝福する良い譬えとして、「万歳楽」の曲を演奏しているようです。また、国が平和に治まって、国の人々は安楽に暮らせ、五穀は豊かに実って、穏やかな様子を表す「太平楽」の曲と聞こえます。
 松高彦様は立ち止まってこの曲をしみじみとお聞きになり、その琴の音色を深く心にお止めになって帰ることもゎ忘れになります。その日もだんだんに暮れ方になってきて、あたりがすっかり不気味なほどに暗くなってしまいましたので、そこの建物の中にずいとお入りになると、部屋の中には人は少なく、ただ身の回りの世話をする少女一人二人が傍に仕えているだけの、この上なく上品な女性が火を灯させて座っていて、壁に映る女性の影までもが由緒ありげに見えます。
 松高彦様は、この座敷内の女性をご覧になって心が宙に飛んでしまって、落ち着いた思いがなくなって迷いの中に入ってしまって、女性のお付きの少女を呼び寄せ、女性の名をお尋ねになると、少女は、「これは何ということ、姫様のお名前をご存じないのですか、姫は松が枝姫様と申し上げて、日頃は庭の松の中に暮らして、色を変えない松の色をお愛しになられています。松の梢を吹く風の音が生み出す琴の音を親しくお聞きになっていらっしゃいます。この場所は憂き世を離れた尊い仙境で、世間一般の人などは、来て住むことのできる土地ではありません。さっさとお帰りください」と答えます。
 松高彦様はこの答えをお聞きになり、「ここは有名な播磨潟で、名も松吹く風の音も高い尾上の里と聞いているので、だれの心にもゆかしい土地であります。そのような土地で、とりわけて私の心に深く沁みたのは、松の梢の琴の音で、浦を強く吹き渡る風に乗って摂津の国の私のいる住の江の里まで聞こえたので、その琴の音を導きとしてここまで来ました。今日は日が暮れてしまったので、住の江へと戻る舟路がはっきり判りません。ここまでやってきた一艘の小舟は岸に繋いではありますが、夜が更けて漕ぎ出そうにも、海辺で人々が燃やしているかすかな火では帰りの導きとしては頼りになりません。一つのお願いは、この夜が明けるまで、宿をお貸しいただきたいのです。どうか、お願いいたします」とお答えになります。少女は、建物の中に入り、「以前から伝えられた話があり、外からの訪れる人について気になっていることがあります。お泊め申すのはよろしいのですが、私どもがひっそりと住んでいるこの海辺の粗末な建物は、竹の網戸も隙間だらけで、また褥として敷く物もありません。海辺で集めた海藻などを夜着として、一夜をお明かしなさいませ。それでよろしければ、こちらへお入りください」と言って、中へと案内します。
 松高彦様はとてもお喜びになって、この建物の主に、「私は、ここから遥かに離れた摂津の国の、人々がとても住み良いといわれている住吉の浦の松並木に住む松高彦と申す者です。私は、昔から今に到るまで一筋に浜辺の松を大切にし、遥かに松に吹いてくる風に靡いて揺れる松の枝々や、色変えない松葉の緑を愛してまいりました。そのような折、住の江の浦の岸辺から遥かに遠い所から、吹く風の音に混じって聞こえる琴の音に心が惹かれて舟を漕ぎ出して、舟の進みに任せてご当地までまいりました。そこでこちらのお庭にある姫松のその姿にうっとりとして目が離せなくなり、とうとう日が暮れてしまいました。あなた様が御情け深くいらして、一夜の宿をお貸しくださるとのこと、とてもとてもありがたいことです」と仰られると、この家の主の女性は、「左様でございますか。この私もこの年月、松に心を深く寄せて長いことになります。あなた様はご存じないでしょうが、この高砂の尾上の里と申しますのは、神代の昔から、世の中の並の人は来て住むことの出来ない、とてもとても高貴な土地なのです。私がこの土地に世間から離れて住んでいることなど、知る人はおりません。あなたのような高貴な方にお目に掛かることは、とても恐れ多く恥ずかしいことです。恥ずかしながら、この上は、もう何を御遠慮申しましょう。あなた様はぜひこの土地にお留まりになって、私共々、松を愛し、松が永い年月その深緑の色を変えないように、千代も八千代も変わらない契りを結んで、ここにお住みになってください。
 この様な話がございます。昔、唐の国に、劉(りゆう)虔(けん)という人がいました。山に入って薬を採ろうとした時に、谷に下りて水を汲んでいたところ、水の上に独楽という物が浮かんで流れて来たのが見えました。また、その後から、美しい盃が流れて来ました。劉虔は不思議に思って、これは、この川上に人が住んでいる里があるとみえる、行ってみようとして、水の流れに沿って谷間を上って二十里ほど行きますと、山奥へと入りましたので、梢で鳴いている鳥の声までも聞いたことのないもので、あたりを見回すと、桃の林が茂り合って、花が今を盛りと咲いていて、花の香りはあたち一面に満ちていました。劉虔はしばらく立ち止まって、思いも寄らないこのような山奥に、このような花の咲く場所があったのか、木立はとても鬱蒼としていて、木々に囀る鳥たちのいろいろな声も聞き慣れないものだ、ここはそもそも人間の住む世界ではなさそうだ、これは、常々話に聞く仙人の住む世界に違いないと思い至った時に、とても美しい女性が谷のほとりにやって来て、水を汲んで洗い物をする様子でしたが、劉虔を見付けて、とても喜んで、『あなたのおいでを永年お待ちしておりました。今日からはこの土地に住んで、私と夫婦になって、長生きをなさってくださいませ』と言って家に案内して、深く契りを結んで、二人の仲はこの上ない親しいものでございました。
 
 こうして劉虔は女性と結ばれて暮らしていましたが、どうしても故郷が懐かしくなって、山奥から元暮らしていた故郷へと帰ってみますと、女性と暮らしたのはほんの三年ほどと思っていたのですが、自分の家には七代目の子孫がいて、劉虔と巡り会ったのでした。劉虔は再び山に入って、以前の女性と会った谷を探しましたが、桃の林はありませんでした。
 このような話を聞いておりますが、この話の桃の林の土地は唐の国の仙人の住む土地でございます。ここ尾上は我が国の仙人の土地でございます。あなた様は平凡な普通の人ではいらっしゃいません。私もこの人間世界の者ではございません。長寿の松に心を寄せて不老不死の悟りを会得して、この世の生の楽しみを十分に味わうのです。今から後は、この土地にお留まりになられて、私と夫婦としての契りを結んで、私にいつまでも情けをお掛けください」と語られました。
 だんだんい夜が更けていくにつれて、松の梢を吹き渡る風も心があるように穏やかに吹き、千鳥の鳴く声が遠く聞こえていたのが、今度は近く聞こえます。これこそ、千鳥の鳴く声に潮の満ち引きが知れるという歌の趣意と合っています。二人は寄り添って夫婦の語らいをしながら添い寝をしていましたが、いつしか夜明けの雲が空に棚引いて朝を迎える時となったので、松高彦様はお起きになって、「このような一夜の添い伏しであっても、二人の契りはいつまでも変わるものではなく、末永く続きます。たとえ住む土地は遠く離れていても、常に親しく通えば、あなたと私との気持ちは決して離れません。あなたは女松という赤松をお植えなさい。私はそれに男松と呼ばれる黒松を植え添え、夫婦としての仲はいついつまでも続きます。二人の仲は何年経とうとも変わらないことを、この男松女松をその証として植えましょう」と仰って、二人で二本の松を植えて、松高彦様は住の江にお帰りになりました。
 それから後は、雨が降る日も雪の日も、たとえ嵐が激しい夜であっても、ひたすらに波を分けて一艘の小舟が雲のきれぎれの合間に見え、まるで人目を忍んで通う男性を見るようで形で、松高彦様は毎夜住の江から尾上の松が枝姫様のもとへとお通いになりました。
 この男女二柱のご夫婦の神がお手ずから植えられた女松男松の二本の松は、年月が経つにつれて同じくらいの若葉が出て、枝が伸び葉が繁ってすくすくと伸び、梢は雲を分け行っています。このように永い年月が経ちましたので、ご夫婦共にお年の寄ったお姿になられて、髪はすっかり白くなってしまいました。「それでは、この松の木の下に立って、若返りの音楽を奏することにしよう」と仰って、錦の褥を広げて、お二方でこの中にお籠もりになります。尾上の風の吹くのに合わせて、楽を奏するための調子合わせの笛の音が清み渡って高砂の浦に響くと、富士山と熊野山と熱田の宮を日本三神仙の山と申しますが、この山の神仙たちが我も我もとこの高砂の浦に集まって来て、その笛の音に合わせて音楽を演奏したので、海中にいる魚たちは音楽のあまりの面白さ、尊さに感動して、浦の岩場や波打ち際に集まってこの音楽を聴くというすばらしいことが起こりました。
 まことにこの不思議な出来事に起きたことは、夜明け方の月の入る西の方から紫の雲が湧いて空に棚引いて、その雲の中から吹き出す強い風が松を揺らして、夫婦二柱の神の体にと吹きかけると、お二人はすぐさま、若い時の御姿に戻られました。
 昔、住吉の明神が、宇治の橋姫にお通いになり、住吉の明神が宇治へとお通いになる時は、宇治川の流れが激しくなり、朝日山の風が激しくなったのがその証拠であると言われ。その通われた折の住吉の明神が詠まれた歌が、
  夜や寒き衣や薄き片そぎの行き合ひの間に霜や置くらん
  (夜が寒い、薄い衣で住吉の社から宇治への通い路に霜が置いているのであろうよ)
と、冬の夜をつらく思ってお詠みになったという話が伝わっていますが、実はこの話は、住吉の明神の宇治へのお通いではなく、松高彦様が住の江の社から松が枝姫様の尾上の社へとお通いになる時の冬の夜の激しい風の音に加えて、住の江へと夜明け前のお帰りの時に神社に霜が置くことをつらいとお思いになって、このようにお詠みになったもので、宇治への通いのことではございません。
 こうして、年月が過ぎ行くままに、お二人の神は飛行自在の身をなられて、天へと上られましたが、夫婦としての深い契りは植え置いた松にお残しになりました。男松女松二本の松は互いに伸びて、ますます枝葉を繁らせましたのを、土地の人々はこれを大切に守って、めでたい話の例として、相生の松と名付けました。『古今和歌集』の序文に、「高砂住の江の松も相生のように」と、高砂と住の江の松が共に仲良く生えているようにという意味で、今日まで連綿と続く御門の治世が、いつまでも続くものであるという譬えに書かれたのは、この二人の神がかつて植えられた相生の松のことであるとかいうことです。

 

参考 「相生松」と「尉と姥」

            (高砂神社<兵庫県高砂市高砂町東宮町190>ホームページ)
 古くから謡曲高砂」の『高砂やこの浦船に帆をあげて…』のめでたき響きによって親しまれている高砂神社は、その昔、神功皇后の命によって創建され、素盞鳴尊とその妃奇稲田姫、その皇子大国主命の三神をご祭神として祀られています。縁結びの象徴として知られた“相生松”が、高砂神社境内に生い出でたのは神社が創建されてまもなくのことでした。その根は一つで雌雄の幹左右に分かれていたので、見る者、神木霊松などと称えていたところ、ある日、尉姥二神が現われ「我は今より神霊をこの木に宿し、世に夫婦の道を示さん」と告げられました。これより人は相生の霊松と呼び、この二神を“尉と姥”(おじいさんとおばあさん)として今日めでたい結婚式になくてはならないいわれになったと伝えられています。
尉姥祭について
 尉姥祭のおこりは、天正年間、豊臣秀吉の三木討伐のどさくさにまぎれて、尉と姥の神像が行方不明になってしまいましたが、二百十七、八年ほどたった江戸時代の寛政七年(一七九五年)に、京都西御所内村の勝明寺という禅寺で、どうやら二神像があるという噂を、高砂の人が聞き込んできました。この寺では、寿命神といって、尊崇しているということでした。そこでさっそく、氏子代表の五十川氏と八木氏とが京都へ旅立ちました。寺僧に神像のいわれを話しましたが、檀家の人たちがうんといいません。それならばおみくじを作り、神様のお考えをお伺いし、神様の御心にお任せしましょうということになりました。このおみくじを引いたところ、再三のおみくじに「私は高砂の本社へ帰ろうと思う」と告げられ、村内の人々も皆、渇いた者が水を切望するように、二神を仰ぎ慕っていたので、間もなくご還座することが決定しました。
 その年の五月二十一日、京都所司代の命により還座祭が執り行われました。このことは世間に広く知られ、恐れ多くも御所から帝と関白殿下、公卿百官までが皆ご拝礼され、ご神像が高砂へ帰る様子は大変な有様であったようです。それより毎年、相老殿において、お面かけ行事が、五月二十一日に行われるようになりました。また、『おまえ百までわしゃ九十九まで共に白髪の生えるまで』と謡われています。“尉と姥”は平和の力と技術を表し、また慈愛と健康長寿の象徴として、結納品にも使われています。現在、高砂では、地域の伝統文化の象徴ともなっています。尉の持つ熊手(九十九まで)は寿福の象徴でもある相生松の松葉を掻き集める道具として、縁起ものになくてはならないものであるし、姥の手にする箒(掃ハク=百)は、清浄にする意味と厄を祓いのける呪術的意味があり、厄を祓い福を招き寄せることを表し、夫婦和合長寿を祈っています。

古浄瑠璃すみだ川 後編(四段~六段) 福福亭とん平の意訳

すみだ川 後編(四段~六段)

四段目
 梅若様が亡くなられ、土地の人々は梅若埋め若様の御遺言に従って、道の端に塚を築き上げ、墓の標として柳を植え、大勢の人が集まって念仏を唱えて、懇ろに梅若様の菩提を弔いました。今でも三月十五日には多くの人が参詣するということです。一方、酷い目に遭ったということでは、奥様が身を寄せた権の大夫の扱いが最たるものでありましょう。権の大夫は粟津の六郎俊兼の伯父でありましたが、奥様が着いたその夜にじっくりと考えると、吉田是定様から御恩を深くいただいてはいるけれども、春は花に、秋は紅葉にと遊ぶだけで、何の頼りにもならない奥方、さっさと追い出してしまおう重っいぇ奥様に対面して、「さて、奥方様、白川の吉田屋敷にいる松井源五定景のところから必ず討手がやって来ます。夜が明けてからお出になれば、人の噂になるでしょうから、今夜の内にさっさとお出ましください」と、つれなくも追い出します。雨宿りのために頼りとして入った木の下で雨が降り注いで濡れてしまうというのは、このことを表す譬えであるなと思いながら、奥様は泣く泣く権の大夫の屋敷を御出になります。吉田の屋敷から付き添ってきた女房は、あまりのお気の毒さに、途中の御坂までお供をして、「ここから都は近うございます。梅若様のお行衛をお尋ねください」と申し上げて、ここでお別れいたしますと暇乞いをして、名残惜しくも別れました。
 お気の毒に奥様は、醍醐、高雄、八瀬、大原、嵯峨、仁和寺と都の東西南北を見落とすこと無く梅若様の姿を尋ねましたが、その行衛は全く判りません。そのような時に、五人連れの旅の僧に出会いました。「私の子の梅若の行衛はご存じありませんか」とお尋ねになりますと、僧たちはこの言葉を聞いて、「行衛知れずになられたのはいつのことでありましょうか」と訊き返します。奥様は、「昨年の二月の末の頃に行衛が判らなくなりました」と涙を流しながら仰いますと、僧たちはこれを聞いて、「「おお、その二月の末の頃、大津の三井寺の近くで、東国から来た人買いらしい者が一人を連れて東へと通りましたが、その若者のことについては、東の方をお尋ねなされ」と言い捨てて、通って行きました。奥様はこの言葉を聞いて、「それでは梅若は東国へと売られたのであるか、ああ、情けないことじゃなあ」と言って地面に倒れ臥してお泣きになります。奥様が涙を流しながらあれこれと嘆き言を口にされるのは哀れです。それは、「おお、それよ、およそ人間の常として、多くの子を持ったとしても、どの子が可愛いと隔てをする心は持たぬ。この私は多くの子ではなく、可愛い子が二人、その二人ともに行衛が判らず姿が見えぬ。残った母はどうすれば良いのか、。ああ情けない、東へと捜し行こうか、私は年は重ねているが、まだ色香は残っているので、正気を失った女の姿になって出掛けよう」と一人口にして、しかるべき場所に立ち寄って旅の仕度を調えなさいました。
 お気の毒な奥様は、手早く旅仕度をなさいます。髪をあちこちへと乱れた形にして、笹の葉に垂を付けて肩に担ぎ、実の心は少しも狂ってはいませんが、人は気がふれた女と見るであろう形です。この妙な姿は何が原因かと言えば、皆我が子と巡り逢おうためと思えば、口惜しさは全くありません。八重一重、九重の都をいで発って、四条五条の橋の上、はるかに望む王城の鬼門に当たる比叡山、そこの林は祇園殿、祇園の林に群れ集う、浮かれ烏の黒い羽(は)の、飛び立つ時と同じくし、早くも浮かぶ峰の雲、ここは仏の説かれたる教えの花が開くはず。直ぐに我が子に巡り逢う、所の名前も粟田口、その名を聞くも頼もしい。逢坂の関の明神伏し拝み、内出の浜へと足は向く、三井のお寺を訪ねれば、宵から未明の時までの絶えぬ読経の声々は、身に沁みいるばかり有難い。鐘楼堂を見上げては、この鐘の音がとうとうと、浪に響いて疾く疾くと、磯千鳥鳴く松本を、すでに過ぎ行きその思い、気は急くばかり瀬田の橋、その唐橋をどしどしと足音高くうち渡り、世を見下ろして鳴く鶴は、子を思うゆえ鳴くのかと哀れに思う母心。立ち寄る木の下袖濡れて、裾には露散る篠原を、はや通り過ぎその姿、見ながら通れ鏡山、誉れは高い武者の名に御咎通ずる武佐の宿、愛知川渡れば千鳥飛ぶ小野の宿、そこを過ぎれば磨針峠、涙流して急ぎ行く。浅い眠りに夢覚める醒が井の寝物語をもはや過ぎ、美濃の国のと名の高い、野上の宿に着きました。
 お気の毒な奥様は、ここで、「とかく人間という存在は、故郷へは錦を着て帰るものという古来の言葉があります。一方私は、子ゆえの闇に理性を失って、このような情けない姿で故郷に帰るというのは情けないことです。おおよそ、この世に生まれて八相を示されて悟りを開かれた釈迦牟尼如来でさえも、子のために迷いの闇に沈み、また訶梨帝母と言う人は千人の子を火持っていましたが、その中の一人と別れる時に、子全員と別れるのと同じ嘆きがありました。およそ人間という存在は、多くの子をもっていても、どの子にたいしても分け隔てないもの、私は多くも子を持ってはいませんが、愛しい子を二人とも行衛知れずとし、この母はこの世でどうなるであろうか判らない、一本だけ立つ松のような便り無い存在です。これこれ、この世に紙も仏もいらっしゃらないのか、生きている内にこの世でもう一度、我が子の梅若に巡り会わせてくださいませ」と深くお祈りをさって、四方に礼をなさって、また身も世もあらずにお泣きになります。実が生るという美濃の国、花が薫るの薰(くん)の字に通う名前の杭瀬川、夏暑とかの熱田の宮、涙の露は置かないと、岡崎の里通り過ぎ、だんだん今は涙がない浪の堤、竹のささらがざざんざと吹く浜松のその風は、袋に収める袋井の紙に祈りを叶えてと、願いを兼ねる金谷の宿、辛い思いを大いに流せ大井川、島田藤枝もう過ぎて、尋ねて聞けば鞠子川、三保の松原清見寺、これこれ我が子梅若を夢になりとも見せよとて、三島の宿から足柄箱根、これらの宿を通り過ぎ、相模の国に名の高い、老いぞと響く大(お)磯(いそ)宿、恥ずかしながら我が姿、宿の名聞けばつまらない、早、藤沢にお着きある。かたびら宿で帷子(かたびら)を、着るではなくて来てみれば、今は夏かと思われて、秋にはすぐになるのかと、先行きそびれる神奈川宿、川崎過ぎて六郷橋、世の中の悪いことがら致しそう、その品川を通り過ぎ、濁ったこの世を離れ行く、厭離穢土とは同じ名の江戸ある武蔵と下総の境を流れるすみだ川、埋め若様の母上である奥様はこのすみだ川にお着きになり、あちらこちらと立ち寄られなさいます。この奥様の御様子は、空しいという言葉だけでは言い表せる者ではございません。

五段目
 お気の毒に母上様は、梅若丸様の行衛を尋ね尋ねして、今はもう、武蔵と下総の国の境にあるすみだ川へとお着きになりました。ちょうど向こう岸へと渡る舟がありました。「もし、船頭殿、私も舟に乗せてくださいな」と声を掛けます。船頭はこの声に、「言葉を聞くと都の人だが、姿を見ると気がふれた者だ。妙なことを面白くやって見せろ、そうしなければ舟には乗せない」と答えます。奥様はこれをお聞きになり、「これこれ、船頭殿、たとえ都離れた東の辺鄙な所であっても、このような風雅な場所にお住みなのだから、優雅な心をお持ちくだされ。この時刻、今は川水に映る月をご覧なされ。風は波を起こしても、真実を照らす月を曇らすことはできないもの。そのように私の姿はどうあれ、心は狂っておりませぬ。それなのに、妙な振る舞いをせよとはつれない人じゃ。馬に乗らずに来たこの私、もう疲れ果てておりまする。ここは名所の渡し場でそなたは風雅な船頭殿、私は正気を失って騒ぐ様子は見せてはいるが、もはや日が暮れる時なのに、舟に乗れとは言わないで、妙な振る舞いいたせとは、情けを知らぬお人じゃな。とにもかくにも、私が乗れば舟の中が狭くなろうが、そこを何とか乗せてくだされ船頭殿。お頼み申す船頭殿」と頼みます。船頭はこの奥方の言葉を聞いて、「ああ、私が悪かった、お前さん。姿に似た優美さじゃ。今はソナタの力になろう、乗りなされ」と出しかけた舟を漕ぎ戻し手、乗れるようにしましたので、奥様は舟にお乗りになり、向こうの岸を見渡すと、川岸に植えられた木のもとに、人が多く集まっていました。
 奥様は向こう岸の人の集まりを御覧になって、「これ船頭殿、あちらに人が多く集まっているのは、この私を待って、妙な振る舞いをさせて見ようということなのですか」と尋ねます。船頭はこの言葉を聞いて、「あれは大勢の人が集まって念仏を唱える大念仏というものでございます。この舟に乗っている人のほとんどはご存じないでしょう
。この舟が向こう岸に着くまでの間に、あの大念仏の言われ因縁をお聞かせ申しましょう。皆さん、よくお聞きなさい。事が起こったのは昨年の三月十五日、まさに本日に当たっています。年頃十二三歳の幼い人が、とても重い病になって、この川岸に倒れ臥していらっしゃるのを、この土地の人々が集まって様々に看病いたしましたが、ただ弱る一方になってしまし、もう今はの際と思われた時に、『あなたはどの土地のどういう方か、お話しください』と尋ねたところ、、その時に子の幼い日とは苦しそうな息を吐いて、『私は、都の北白川の吉田家の者、名は梅若丸と申します。人買いに攫われてこのような姿になってしまいました。都には母上が一人でおいでですが、この梅若の消息を尋ねてくる人がありましたら、私の身の上を語って伝えてくださいませ。亡き後は、道のほとりに墓の塚を築いて、墓所の標に柳を植えて、名を記した札を立ててくださいませ』と静かに仰って、とても殊勝に念仏を唱えられて、とうとう亡くなられてしまいました。この舟の中に都からの方もおいでのようですな。逆縁ではありますが、念仏を唱えてください、皆様。思わぬ物語をしているうちに舟が着きました。皆様岸へお上がりくだされ」と話しますと、舟の中の人々は、「さても不憫なことなことじゃ。逆縁ではあるが念仏を唱えよう」と言いながら、それぞれ舟から岸へ上がりました。
 お気の毒に奥方様は、舟から上がらずに、舟の縁にもたれて下を向いたまま、ずっとお泣きになっていらっしゃいます。船頭はこの姿を見て、「心優しい女(おな)子(ご)じゃ。今の物語を聞いて、そのように多くの涙を流されるか。皆と一緒に舟から上がってくださいよ」と言います。奥方は顔を上げ、「お尋ねします、船頭殿、今のお話は、いつの出来事。その者の家は何と申された」とお尋ねになります。船頭は、「吉田とかいう家の梅若丸と言いました。あなたも都から来た人ならば、早く舟から上がって念仏をお唱えくださいよ」と話を繰り返しました。お可哀想に奥方様この話をお聞きになって、「これもし船頭殿、これまでその子のことを親類縁者や親が尋ねて来なかったのは当然のことなのですよ。というのは、私がその母親だから、やっと来たのです」と、今にも死んでしまいそうにお泣きになります。通りすがりの人もこの問答を聞いて、なるほどもっとよ、気の毒なと言って涙を流さない人はいません。
 船頭は涙をこらえて、「先程までは話を聞いてお泣きになっていると思いましたが、あなたご自身のお嘆きでありましたか。どのようにお嘆きになっても、もう取り返しのつかないことでございますから、御菩提をお弔いなさい」と勧めませと、奥様は泣きながら舟からお上がりになって、塚のところに倒れ伏して、しみじみと語りかけるのがお気の毒でございました。「これ、梅若よ、そなたに逢おうそのために、都からここまで遥々と下って来たのじゃ。それなりに、そなたはもはやこの世に亡く、その墓の標だけを見るのじゃな。ああひどいこと、戦のもめ事に巻き込まれて生まれ故郷を離れ、東国で命を落とし、道のほとりの土となり、この塚の下に埋められている我が子がいる。どうかもう一度、生きていた頃のそなたの姿をこの母に見せておくれ。ああ、何とも思うにまかせない辛い世じゃなあ」と大きな声でお嘆きになります。土地の人達はこの母上の嘆きの声緒を聞いて、「とにもかくにも、念仏を仰いませ。亡き方もお喜びになるでしょう」と叩き鉦を母上に持たせて念仏を勧めますと、母上はやっとのことで起き上がって、逆縁ではあるけれど、それでも我が子の供養のためと聞くのだからと、鉦を鳴らして、「南無阿弥陀仏」と声を上げると、人々も一緒に念仏を上げました。母上はふと鉦を叩くのを止めて、「これ、皆様、幼い者の声で念仏が聞こえたのは、間違い無く塚の中からと聞こえました。ますます念仏を唱えてくださいな」と仰ると、土地の人々はこの言葉を聞いて一斉に自分たちの念仏を止めて、「お母さんだけお唱えください」と答えます。は笛はなるほどもっともなこととお思いに成り、さらに鉦を叩いて、「南無阿弥陀仏」と唱えられると、塚の中から幼い人の念仏の声がして、それと同時に梅若丸の塚の標の柳の陰から、子どもの姿が現れました。
 母上は幼い子の姿が見えたのがあまりに嬉しくて、鉦と撞木をがらりと投げ捨てて、幼い子に抱き付こうとなさいますと、幼い子の姿はすぐさま消えて、何もありません。再びぼんやりと姿が見えましたのを、「そこにいるのは我が子梅若丸か」「母上様か」と、同時に声を掛け合いましたが、あるで陽炎や稲妻、水に映る月のようで、目には見えても手には取れず、手を触れようとすると、姿が現れたり消えたりしています。もはや東が明るくなって夜が明けていきますと、そこにはただ柳だけが残っています。母上はあまりの辛さ悲しさに、柳の木にしっかりと抱き付いて、「この世の名残にもう一度、姿を見せておくれ、やあ梅若よ、梅若よ」と塚の上に倒れ伏して、「私も一緒にそちらに連れて行けよ」とお泣きになられたところ、土地の人々の中から一人のお坊様が進み出て、「お嘆きになるのはもっともですが、お子様の菩提をお弔いなさい」と、優しい労りの言葉をかけました。母上は涙を止めて、「お坊様のお導きはとても有難いことです。今はもう嘆いてもドウしようもありません。亡き子の後世を弔ってやるために、私の姿を変えて尼にしてくださいませ」とお願いします。お坊様は、「たやすいことでございます」と仰って、塚のほとりで母上の豊かで美しい黒髪を剃り落として尼の姿にし、名を妙喜比丘尼と改めました。浅茅が原に庵室を建てて、花を摘んで仏前に供え、香を焚いて念仏を唱えていました。この浅茅が原にある池に月が映るのを御覧になって、この円満な月の姿こそ親子一緒にいる円満な悟りの姿であると一心に思って、西の空に向かって、沈み行く月を見て、梅若よ、さあ、私も一緒に行こうと言ってこの池に身を投げ、とうとう亡くなられてしまいました。この母上の御最期の有様は、ただ哀れとという言葉だけでは表せるものではありません。

六段目
 さて、話は変わって、梅若丸と共に京の北白川の吉田の屋敷を抜け出て、途中の山中で病気になって梅若丸とはぐれてしまった粟津の二郎俊光は、梅若丸の行衛を四国九州へと尋ねましたが、その消息は全く知れません。それでは許に戻って、琵琶湖の大津の港を探してみようと、近江の国を目指して足を速めました。千鳥鳴くという篠宮河原を通りましたら、家を乗っ取った松井の源五定景の家来の山田の三郎安親が小鳥狩をしていました。俊光はこの様子をはっきりと見付けて、これぞ天の与えであると喜んで、急いで安親のいる谷底へと走り下りて、安親の首を討ち落としました。安親の家来たちは俊光を逃がすものかと追い掛けます。俊光があわや討たれるかというその時、山伏が一人やって来て、俊光を摑んで、空中高く飛び去りました。
 俊光を摑んで飛び上がった山伏は、相模の国に名高い大山不動にと俊光を下ろして、「われは四国からの使いである・ここの不動尊に祈って願え」と言い置いて、姿はたちまち消えました。俊光はこの山伏の飛び去った跡を伏し拝んで、「梅若丸様が御存命か否かをお知らせください。それが叶わないものならば、この俊光の命を取ってください」と願って、最初の七日間はその場を去らずに立ったまま祈り、次の七日間は水を浴びて祈り、次の七日間は断食をいたしました。不思議なことに、これらの行の期間が満ちる二十一日目の明け方に、大地が震動し、草木が風に吹き乱れて、愛宕山の大天狗、讃岐の金毘羅大権現、大峰の前鬼一族など、大天狗に天狗たちが行衛知れずになっていた松若様を連れてきて「これ俊光よ、その法、主君に忠義な者であるので、松若を返しつかわすのである。松若の母も兄の梅若も、武蔵と下総両国の境であるすみだ川で亡くなってしまったのである。その方、松若の将来を末永く守護せよ」と言って、天狗たちは天へと上って行きました。お気の毒なのは松若様、この話をすっかりお聞きになって正体なくお泣きになります。俊光が、「づはこれから都へと上り、日行阿闍梨の許へ行ってお願いして宮中へ参内してこれまでのいきさつを申し上げた上出、お家の仇の松井の源五を討ち取って、その後に亡くなられた母上様、兄上様の菩提を弔いなさいませ」と申し上げます。眉若様は俊光の言葉をお聞きになり、「それが良い、そうしよう」と仰って、俊光を共にして、都を指してお出掛けになります。
 松若様ご一行は都に到着され、日行阿闍梨に対面さって、これまでのできごとの伝えると、日行阿闍梨はお聞きになって、涙を流されます。「それでは、このことを申し上げに内裏に参ろう」とおおせになり、松若様を連れて宮中へと出掛けます。天皇様にこれまでのいきさつを細かに申し上げます。天皇様の御言葉が取り次がれ、長い間の艱難辛苦はさぞ残念なことと思うであろう。この度すべてを決着させた時の褒美として、殿上できる四位の位を与え、領地として下総の国を与えられました。松井の源五定景を討伐せよということで、屈強の武者五百騎を与えられました。松若様はこの仰せをありがたいこととして退出し、粟津の二郎俊光を討伐軍の大将として北白川の吉田の屋敷へと押し寄せて、戦始めの声を上げました。屋敷の中の松井源五定景は驚いて山道を指して逃げて行くのを、軍勢はすぐに捕まえて、その首を討ち落として捨てました。そののち、松若様は多くの武者を供として引き連れて、下総を指して下られました。松若様は下総の国にお着きになって、父母のために、また兄の梅若様のためにもと、十分に菩提を弔われました。松若様は下総で大奥の屋形を建て並べて、とても華やかにお過ごしになられ、そのめでたいことでありますと、その素晴らし母簡単な言葉だけでは言いつくせないものでございます。

参考1 謡曲『角田川』 以下は新潮日本古典集成(の伊藤正義校注)によります。
登場人物 シテ 狂女、 子方 梅若丸、 ワキ 渡し守、 ワキ連 旅人
構成とあらすじ
・渡し守の登場 隅田川の渡し守(ワキ)が旅人を待ち、また大念仏の行われることを告げる。
・旅人の登場 旅の男(ワキ連)が都より下り、舟に乗ろうとする。
・渡し守・ワキ連(旅人)の応対 男は後方のざわめきが都から来た狂女のせいだと告げ、渡し  守は狂女の到着を待つ。
・狂女の登場 狂乱 狂女が人商人に拐かされたわが子を慕って狂乱、都より尋ね求め て隅  田川に到る。
・狂女・渡し守の応対 渡し守に狂いを求められあ狂女は、川面の都鳥を見て遥かに恋しき人  への思慕の身を業平の東下りに重ね合わせて乗船を懇請する。
・渡し守の物語り 旅の男は対岸のざわめきを不審し、一同を乗せた渡し守は、船を漕ぎつつ、  人商人に拐かされた梅若丸の死とその大念仏のことを物語る。
・渡し守・狂女)応対 船が着岸しても狂女は下船せず、渡し守が語った梅若丸が我が子である  ことを確認して絶望する。
・狂女の詠嘆 塚の前に導かれた狂女は、愛児の無慚さに慟哭し、無常の悲嘆に昏れる。
・狂女の念仏 念仏を勧められた狂女は、人々と共に鉦鼓を打ち鳴らし念仏する。声の中に梅  若丸の念仏の声が聞こえる。
・狂女の嘆き 母ひとりの念仏に亡霊となった子方(梅若丸)が姿を現すが、かき抱くことの出  来ぬ悲しさの中に、草茫々の隅田川の夜明けとなる。

参考2 梅若塚のほとりに梅柳山木母寺があります。同寺のホームページから御案内します。
〇宗旨・天台宗 〇山号・梅柳山 〇寺名・木母寺(別名 梅若寺)
〇本尊・慈恵大師(別名 元三大師) 〇総本山・比叡山延暦寺
 木母寺は平安時代中期の貞元二年(九七七)天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建てられた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。
 当寺に今も伝わる梅若伝説は、平安時代、人買にさらわれて、この地で亡くなった梅若丸という子供と、その子を捜し求めて旅に出た母親にまつわる伝説があります。この伝説を元にして、後に、能の隅田川をはじめ歌舞伎、浄瑠璃、舞踊、謡曲、オペラなど、さまざまな作品が「隅田川物」として生まれていきました。この隅田川物を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣」を行ったことから、芸道上達のお寺として広く庶民の信仰を集めるようになりました。
 毎年、四月十五日は梅若丸の御命日として、梅若丸大念仏法要、古典芸能である「隅田川」の芸能奉納及び梅若忌芸能成満大護摩供を執行します。
 【梅若念仏堂】このお堂は、梅若丸の母、妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設したものであるといわれています。四月一五日の梅若丸御命日として、梅若丸大念仏法要・謡曲隅田川」・「梅若山王権現芸道上達護摩供を開催します。
【梅若塚】能・歌舞伎・謡曲浄瑠璃等の「隅田川」に登場する文化的旧跡です。
 貞元元年(九七六)梅若丸が亡くなった場所に、僧の忠円阿闍梨が墓石(塚)を築き、柳の木を植えて供養した塚です。江戸時代には梅若山王権現の霊地として信仰されていました。

古浄瑠璃すみだ川 前編(初段~三段) 福福亭とん平の意訳

すみだ川 前編(初段~三段)
初段
 その時をいつかと考えますと、本朝第七十三代の堀河天皇の時代と伺っております。都の北白川に吉田の少将是定様という位の高いお方がいらっしゃいました。是定様は身分が高いことを誇ることはせず、心には五戒を保って、振る舞いは神への信心を大切にしていて、詩歌管絃の多くの芸能にも通じていました。その名声は世に響いています。お子様を二人お持ちです。ご長男を梅若丸と申し上げて、十一歳にお成りです。次のお子様は松若様と申し上げて、九歳におなりです。お二人ともお姿は花のように美しく、一言ごとに仰る可愛らしさはに、ご両親の可愛がりようはこの上ありません。
 あるとき、是定様は奥様をお呼びになって、「これ、そなたよ、お聞きなさい。しみじみと考えると、人grんの一生というものは、風の前の雲と同じで定めないもの、命は火打ち石の火花のように一瞬のものです。そこで、二人いる子どものうちの一人を出家させて、後世の菩提を弔わせようと思うのだが、どうであろう」と仰います。奥様は「仰せはごもっともです。二人の内の一人を出家にとの仰せですが、梅若は長男ですから、吉田の家を継がせましょう。松若よ、そなたはまだ若年であるから、学問をさせるために比叡の延暦寺へと上らせることとする。栴檀は二葉より芳しよ言う通り、ソナタには才があるのであるから、十分に学問を究めて、吉田の家の名を高くせよ」と仰って、山田の三郎安親を世話役としてお付けになりました。山田は松若様のお供をして、比叡山延暦寺が吉田家の縁ある御寺でしたので、日行阿闍梨の一番のお弟子になられて、毎日少しも怠らず学問をなさいましたので、生まれ付き利発なお生まれえしたので、その年の暮れには、仏教にも仏教以外のことがらに通じました。ですから、松若様は伝教大師様の生まれ変わりとしてその才を崇めない人はいません。
 このようなことで松若様は、あらゆる学問に優れていることは比叡山中に知れわたりましたので、いつの間ニか、自分を誇る心が出てきたのか、仏神の罰が当たったのでしょうか、どこからとも判らず山伏が一人やってきて、「さて、どうです、松若殿はきっと連日の学問に心が疲れておいででしょう。私の家に来て、気持ちを休めなさい」と言って、そのまま松若様を摑んで空の彼方へと飛んでしまいました。山の人々は驚いて、様々の議論をいたしましたが、相手は天狗のことですので、その行衛はさらに知れません。日行阿闍梨が驚いて、「どうしたらよかろう」と仰いますと、お付きの安親は「私はまず吉田へと帰って、このことを報告してきます」と言って、阿闍梨に下山の許しを得て、北白川の吉田の屋敷に帰って、是定公にお目に掛かり、比叡山で松若様が攫われた状況をお伝えしました。是定様も奥様も、「これはいったいどうしたことか」と言って、悲しみに叫びました。しばらく経って是定公は、涙の合間に、「松若の定まった運命とは良いながら、こんなことが起こると前もって知っていたならば、松若を比叡山に上らせることはしなかったものを。可哀想な松若よ、恨めしい憂き世じゃなあ」と繰り返し口になさってはお泣きになられました。
 お気の毒な是定様、近頃は風邪のご様子と仰られていましたが、松若様が行き方知らずになったという知らせをお聞きになってから、食事を召し上がることがなくなって、だんだんに体が弱られてしまいました。奥様や梅若様が病床近くにいていろいろと看病をなさいましたが、御寿命となる病気でしたのでしょうか、病は重くはなりますが回復の兆しはありません。是定様がもはやこれまでと思われる時に、弟の松井源五定景、家来の粟津六郎俊兼、山田三郎安親をお呼びになり、「これ人々、我はこの世の縁が切れて、もはやこれまでだ。梅若はまだ幼い。十五歳になったなら宮中へ参らせて、吉田の家を継がせてくだされ。それまでの梅若の養育は弟の定景に任せる。粟津六郎と山田三郎の二人の家臣は定景に力を貸して、梅若を盛り立ててほしい。さて、梅若よ、この父がこの世にいなくても、母に孝行をして立派に成人して、吉田の家の名を挙げてくれよ。今はこれまで、奥よさらば、名残惜しい梅若よ」と言い遺して、一艘声を挙げて念仏を唱えて、はかなく亡くなられてしまいました。
 奥様も梅若様も、是定公の逝去に何もすることができず、是定公を恋い慕い、この上なく涙を流されました。奥様が、「はかないことです。この殿様と美濃の国の片ほとりで出会って親しくなって以来、いつもお傍にいた私なのに、殿様は冥土への旅をとぼとぼとお一人で、さぞ寂しくいらっしゃるでしょう。私も一緒にお連れください」と、亡きがらに抱き付いてお泣きになられました。そうは言ってもできないことですので、遺骸を涙と共に野辺に送って火葬に付して、屋敷へ帰って葬儀を懇ろに弔いました。梅若君の親子の別れに奥様の夫婦の別れが重なって、並々ならないご一家のお嘆きに、奥様と梅若様の心の内は、哀れという言葉だけではとても言い表せるものではありません。

二段目
 是定様が亡くなられた後、奥様や梅若様は是定様の葬儀をされて、七日七日の忌日ごとに菩提を弔われていらっしゃいました。亡くなられたのが昨日のように思われましたが、月日はいつの間ニか過ぎて行き、早くも三年となり、梅若様は早くも十三歳におなりになりました。父上の是定様の菩提を明け暮れ弔われるお気持ちは感心なものでございます。
 お二人はこのようですが、一方、是定公の弟の松井源五定景は、しみじみと将来を考えると、梅若が十五歳になったあんる、家を継ぐ為のお目見えをさせたなら、自分はこの家の家臣として一生日陰の身となって暮らすのも情けない、いっそのこと梅若丸を亡き者にして、この吉田の家を自分が序で、花やかな暮らしを使用との悪巧みをするのは恐ろしいことでございました。松若様のお付きであった山田三郎を近く呼んで、「これ、安親殿、あなたを頼りにすることがござる。お力をお貸し下さるならお話しますが、いかが」と言いますと、山田三郎はこれを聞いて、「どんな事でも承ろう」と言います。定景は喜んで、「格別の事ではござらぬ。梅若丸を殺して、この吉田の家を我が継いで、貴殿にも多くの褒美を与えようと存ずる。山田殿いかが」と言います。山田三郎はこの言葉を聞いて、「お声が高いですぞ、我がお味方仕れば、誰に恐れがありましょうか。若君付きの粟津の六郎俊兼は、大の酒飲みでありますから、酒をたくさん飲ませて我々の考えを細かに申し聞かせて、それを受けないならば、その場で討ってしまえば差し支えがござるまし」とこたえましたので、定景は答えを聞いて、「それなrば、貴殿はお帰られよ。後は私がいたしましょう」と言って、色々な酒の肴を用意して。粟津の六郎に使いを立てます。六郎はすぐさま参って定景に対面します。
 定景は、やってきた粟津の六郎俊兼には何も言わず、まず真っ先に酒を次々と勧めておいてから人払いをして、「これこれのことを考えているから、味方になってほしい」と申します。俊兼は聞いて驚きましたが、そしらぬ様子で、「ああ、恥ずかしいことよ、私がどう思うかを試そうとなさるのか」と言います。定景は聞いて、「なに、どうして噓を申しましょうか。山田三郎殿も同じ気持ちで、たった今お帰りになったばかりですぞ。ご承知いただけませんか」と言います。俊兼は居住まいを正して、「これ定景殿、梅若様はあなた様の甥ではありませんか。この俊兼はそのようなことを聞くも耳の穢れ」と太刀を抜いて定景を斬ろうとします。定景は命からがら逃げます。俊兼は追いかけてここで定景をうとうか、いや待てよ。山田三郎めが後ろから攻めてくるかもしれないから、先に奥様あ梅若様にこのことをお知らせしようと、急いで吉田の屋敷へと帰りました。俊兼はお二人の御前に参って、涙を流しながら、「松井源五定景殿が山田の三郎と心を合わせて、梅若様を亡き者にして、吉田の家を我が物にしようという企みをなさり、私めにまで味方をせよよ言われたましたが、私はその場を蹴って帰って参りました。彼らは必ず夜討ちにくるでしょう。お支度ください」と、ため息混じりに嘆きました。奥様と梅若様は是をお聞きになって、これはいったいどういうことなのかと、気を失うばかりにお嘆きになります。俊兼はお二人のこの姿を見て、自分がしっかりしなければいけないと、まず奥様を逃がしてしまおうとお供をして、西坂本にいる伯父の大夫を頼ってそこにお隠しして、それから吉田の屋敷へと引き返して、侍や中間百人ほどと一緒になって、攻めてくる敵を待ち受けました。
 さて一方、松井の源五定景は、粟津の六郎俊兼に脅されて、まだ震えが止まりません。山田の三郎安親を呼び出して、「俊兼は味方にならなかった。どうしたらよかろうか」と言うと、山田はこれを聞いて、「時が経ってはよろしくない」と、三百余りの軍勢で北白川の吉田の屋敷に押し寄せて、戦始めの鬨の声を挙げました。屋敷の内では、すでに予想をしていたことなので、俊兼が櫓に駆け上がって、「なに、攻め寄せて来たのは定景の軍勢と思うぞ。無駄な戦をいたすでなく、さっさと引き揚げよ」と答えます。その時に、攻め寄せた山田の軍の中から武者が一人進み出て、大声で名告ることに、「ただ今ここに進み出た我を誰と思うか、定景公の家来の兵庫の介とは我のことだ。侍とは主を変えて生き抜く者じゃ。貴様ら降参してこちらに付け」と叫びます。俊兼はこれを聞いて、「お前は三代に渡って大恩受けた主君を忘れて、その方に敵対するとは、狐武者とでも言う者じゃ。この矢を受けてみよ」と言いながら、弓をきりきりと引いて射ます。哀れにも、その矢は兵庫の介の胸にはっしと命中して、兵庫の介ははかなく死んでしまいました。
 この矢を戦の始めとして、敵味方が入り乱れて、激しい戦になりました。とは言っても、攻め寄せた定景方は大勢で、屋敷方は早くも皆討たれてしまいました。俊兼は梅若様のところに来て、「早く落ち延びなさいませ」と申し上げます。梅若様はお聞きになって、「そなたは決して腹を斬って死んではならぬ。早く抜け出て我のもとへ参れ」と仰って、粟津の三郎を引き連れて裏の門から屋敷を出られました。俊兼は櫓に上がり、「これ、寄せ手の奴ども、騒がずに静かに聞け。梅若様も切腹なさたt。勇猛な武者が腹切る様をそなたたちの手本にせよ。腹はこう切るものぞ」と良いながら、鎧の上帯を切って捨て、腹を切るように見せかけて、裏の門から抜け出ようとするところを、大勢が攻め寄せて捕まえられてしまいました。俊兼の心の内は、無念という子四羽だけでは表せないくらいでした。

三段目
 まことに無慈悲なことに松井の源五定景の家来たちは忠義な粟津の六郎俊兼に縄を掛けて、定景の前に引き出します。定景は俊兼を見て、「これ俊兼、貴様は我に心を寄せていれば、このような縄目に掛かることもなかったであろうに。さ、梅若は死んだのか、それともどこかへ逃げ延びさせたか、素直に言ってしまえ。どうじゃどうじゃ」と言いますと、俊兼はこの言葉を聞いて、「なんだ定景、おのれは是定様から受けた御恩を忘れて、このような反逆の悪事を行うのか、この報いはすぐさま貴様に向かうであろう」と言います。定景は大いに腹を立てて、「こやつはとにかく死にたいと見える。さっさとこの世に別れをとらせてやれ」と明治、家来は「畏まりました」ということで、白川のほとりへ俊兼を引き出して首を斬り、獄門に掛けて曝しました。その首に添えられた札には、「この者は悪事を企みしゆえに斬首し、ここに曝すものなり」と書かれましたのは、哀しいことでございました。定景は俊兼の曝し首を確かめに来ました。異議なことにこの首が目を見開いて、「これ定景、悪心など持たないこの我のことをこのように札に書いたが、三年の内に貴様らをこのようしてやろう」と言うや否や、首は天へと上がって行きました。定景はぶるぶると身震いをしながら自分の屋形へと帰りました。
 さて粟津の六郎俊兼のことはここまでです。一方、梅若様は、俊兼の子の粟津の二郎俊光を供として、母である奥様の逃げ延びた西坂本へ行こうと、山道を辿って逃げて行きます。道の暗さは真っ暗で、あちこちと道に迷いましたが、日が昇ってだんだんにあたりが白み始めた明け方に、俊光は風邪を引いたようで、一歩も進むことができなくなって、木の根を枕にして倒れてしまい、もはや最期の様子に見えました。梅若様はこの様子を御覧になって、「これ、俊光よ、そなたの父は生き神様とまで言われた者であるのに、その子がこのように情けない姿になるのか。どうか母上の出でになる所まで、何とかして連れて行ってくれい。そなたが死んでしまたtら、この私はいったいどうなるのじゃ」と、この上なく涙を流されます。時が経ち、もう日が昇り、あたりがはっきり見えるようになりましたので、梅若様は谷に下って水を探して、衣服の袂に水を含ませましたが、谷からもといた峰までははるかに離れていましたので、梅若様は道に迷って獣道に入って迷ってしまって、あちらこちらと歩いていらっしゃいました。そのようなところへ奥州の人買い上人がやって来て、「これ、若君様、私が御案内いたしましょう」と無理矢理梅若様の手を引いて、遥か離れた遠い土地へと足早に立ち去ってしまいました。梅若様のお気持ちはなんともお気の毒でございました。
 横たわっていた俊光は目覚め、体を起こして当たりをみれば、梅若様はおいでになりません。それでは若君は坂本へとおいでになったのかと、坂本へと急いで行きました。奥様はやって来た俊光の姿を御覧になって、「これ、俊光、梅若丸はどうしたのじゃ」とお尋ねになります。俊光はこの言葉に、「はい、私めは白川から梅若様のお供をしてこちらへ参る途中で風邪気味となって、しばらく横になって眠ったときに、梅若様を見失いました。もしかしたら梅若様は獣道に踏み入れて迷っていらっしゃるのかもしれません。探して参ります」と奥方の御前から下がって、これまで来たの山道を谷底まで隈無く探しましたが、梅若様の行衛は全く判りません。俊光は、このまま梅若様が見付からずに奥様のところへもどれば、奥様はさぞお嘆きになるであろう、梅若様の行衛をどこまでも探そうと考え、そのまま日本国中を探す旅に出てしまいました。その思いは哀れなものでございました。
 徳にお気の毒であったのは、若公梅若様の身の上でございます。商人に連れられて、大津の打出の浜を過ぎて瀬田の橋を渡り、東国を指して足を速めさせられます。梅若様は商人を御覧になって、「どちらへお出でになるのですか。山の中には家来の俊光を置いたままです。あなたは私を西坂本へ連れて行ってくださらないのですか」とお尋ねになります。商人は聞いて、「うるさいことを言う餓鬼だな、早く歩け、急げ」と手を引っ張ります。梅若様はこれを聞いて、「さてはお前は人さらいだな。そんなこととは知らなかった」と行って、腰の刀に手を掛けて切ろうとすると、商人はこの手を取って梅若様を組み伏せて刀を奪い取り、梅若様をさんざんに打ち叩きます。おかわいそうにまだ十三歳の梅若様は、大の男に押さえつけられて、「これ、商人さん、私は都の者なのです。東へと連れて行かないで、亜子へ連れ帰って下くださいよ、お許しください、商人さん」と、涙を流されてひどくお泣きになります。商人は「勝手なことを言う小僧だ」とさんざんに打って引きずって、「さっさと歩け、歩け」と責め立てるのは、地獄で獄卒が罪を犯した亡者をを痛めつけるのと比べても、この商人の邪慳なやり方には及ばないほどです。このようにして梅若様を引き連れて行くと、すみだ川に着きました。
 お可哀想に梅若様は、慣れない旅に加えて、杖で酷く叩かれて、足のあちこちが傷だらけになて、赤い血まみれになってしまいました。もはや一歩も踏み出せなくなってしまいましたので、すみだ川の岸に倒れて横たわっていらっしゃいます。商人はこれを見て、「どうして歩かないのだ、急げ急げ」と引っ張ります。お可哀想に梅若様は、左を下にしてがばと倒れられます。そけぼうとしても声も出ません。商人はますます腹を立てて、死んでしまえとばかり梅若様を叩き伏せて、そのまま放り出して東へと下って行ったのは、つれない仕打ちと見えました。このような気の毒な仕打ちに遭っている時に、土地の人々が集まって、梅若様を見て、「由緒ある方とお見受けします。どちらの方でいらっしゃいますか。お名前をお聞かせください」と言います。梅若様はお聞きになって、この上なく苦しい様子で息を吐いて、「情けある優しい人たちですね。何をお隠しいたしましょう。都の北白川の吉田の少将是定の長男の梅若丸とは私のことです。人買い商人に欺されて、このようになり果ててしまいました。私がここに連れ去られたのだ、都においでの母上様、さぞかしお嘆きのことでありましょう。ですが、今はもうどうしようもありません。私が空しくなりましたら、道のはたに墓を作って、私の墓の標として柳の木を植えて、名を記した札を立ててくださいませ。ああ、お懐かしいお母様」という言葉が、最期の言葉となって、十三歳という年の三月十五日に、はかなくなられてしまいました。この梅若様の御最期は、お可哀想という言葉だけでは言い表せるものではございません。