さざれ石 福福亭とん平の意訳

 さざれ石

 さて、我が国の人間天皇の始めの神武天皇から十三代に当たる天皇様を、成務天皇と申し上げます。この天皇様の御世は、この上ないすばらしいものでいらっしゃいます。天皇様は年が若くいらっしゃる時は、左右の大臣が代わりに政務をお執りになりましたが、成人された後には、政務を自らなされる賢い方になられました。おかげで国の作物も豊かに実り、人々の暮らしも豊かで、国中は静かに治まり、何の心配もなく穏やかでございました。
 そのような時、この天皇様には男女合わせて三十八人のお子様がいらっしゃいました。三十六番目の御子様は、姫宮でいらっしゃいました。数えられないほど多くの御子様の末の姫でありますので、そのお名前をさざれ石の宮と名付けられました。その御姿の美しいことは、この上ありません。その御姿はどこにも非の打ち所がありませんので、天皇様はとても可愛がられ、人々に大切に大切にお世話をさせました。
 その後、姫様は成長なさって十四歳になられましたので、時の摂政左大臣のもとにお嫁入りされることに決まりました。そこで、日を定めて、行列の車を美しく連ねて、摂政様の元へとお嫁入りになられました。こうしてさざれ石の宮様は、摂政様の奥様となられました。このようにして、国中の人々は宮様をとても敬い慕いました。また、天皇様がこのご一家を他に並ぶものがいないほどに重用されました。
 このようにして日々が過ぎてゆくうちに、さざれ石の宮様がお思いになることには、しみじみと世の中の移ろいを考えると、生きている者が生き長らえるということはない。命ある者は必ず滅びるということから流れられる人はない。かたつむりの角の上のような小さい世界で何を争い、石を打ち合わせ出る一瞬の光のように、短い人生の時に輝く月を楽しんでも、月は夜明けの雲に隠れるように、消えてしまう。一切衆生の生死輪廻するする世の尤も尊い存在である釈迦牟尼如来様でも,生死の掟らは逃れられなかった。一呼吸する短い時間にも人はどうなるかわからない世の中に、何もしないままで来世の王城を願わないで、命が終わる時にただしおしおと力なく一人で冥土に行くときに、いくら位にあっても、役人も一般の人も誰も付き従う役人もことはできない。冥土で地獄の獄卒たちに責められた時に、過去の罪を反省しても取り返すことはできない。私はひたする後世の往生を祈ろうとお思いになったのは、世になく尊いことでございました。
 この宮様のお気持ちを天皇様がお聞きになって、夫の摂政様をお呼びになって、お確かめになったところ、摂政様はさざれ石の宮様が深く後世の往生を願っておいでのことをお答え申し上げましたので、多くのお子様の中で、さざれ石の宮様がこのように後世を願われるのは、めったにない尊いこととお思いになりました。
 この後、さざれ石の宮様は、浄土は四方に多くあるけれども、取り分けて女性が後世を願うのにふさわしい浄土は、東方浄瑠璃世界であると思い定められて、いつも気を緩めることなく、「南無瑠璃光如来」と唱えられます。朝夕にご自分の手で仏前に香と花をお供えになって、薬師仏の御経を十二巻ずつお読みになります。
 ある夕暮れのこと、さざれ石の宮様が月の出る東の方をじっと御覧になって、私が来世に生まれる浄土はあちらであるとお思いになり、少し不安な様子で力なくお立ちになっていると、そこに空中からひとかたまりの白い雲が降りてきました。妙なことと思ってそちらを御覧になると、黄金でできた宝の冠を頭に載せた官人が宮の近くへやって来て、さざれ石の宮様に瑠璃でできた壺を捧げ、「私は、東方浄瑠璃世界の薬師仏のお使いの宮比蘿大将と言う者です。この壺の中には良い薬があります。これは、不老不死の薬です。お召し上がりになれば、お年も取らず、嫌なお気持ちになることもなく、いついつまでもお若い盛りの御姿で、日々をお過ごしになることができます。今日からはますます信心に力を入れて、朝夕のお勤めを怠ることなく、薬師様を信じなさい」と言って、たちまちそのお姿を消してしまいました。
 さて、さざれ石の宮様はこの瑠璃の薬壺を受け取られて、「ああ、ありがたいこと、この年月薬師様をお祈りしているお蔭ですね」と三度高く捧げて、いただいた薬を口にされてみると、その味のよろしいことは、この世に譬えるもののないほどの佳い味わいでした。
 その後に、宮様がこの薬壺をじっくりと御覧になると、青白い色の梵字が書かれていました。宮は妙だなと思ってその文字を読み解いてみると、和歌でありました。
  君が世はちよにやちよにさざれいしのいはほとなりてこけの生すまで
  (あなたの御寿命は千年も八千年もというように、いついつまでも続きます、小さな小石が寄り集まって苔の生える大きな大きな岩となるまでの長さです)
とありました。これは薬師如来のお詠みになった歌です。さざれ石の宮様は、ああ、ありがたい、それでは、薬師如来様の御恵みとしてこのような佳い薬をくだされた、ありがたいことよ。しかもお歌の中にこのように私の名を詠み入れてくださるとは、この上ないことですとお思いになって、その後、お名前を「さざれ石の宮」から「いはほ(巌)の宮」と改められました。そして、それから後、宮様の薬師様を念ずる心はますます深くなりまして、そのお心はこの上ない尊いものでございました。
 こうしていはほの宮様は日々を暮らしていらっしゃいましたが、その間、少しも悲しい思いをすることもなく、少しも変わらない若々しい姿で、豊かに楽しく過ごしていらっしゃいました。ということで、この宮様の御寿命が長くいらっしゃったことは、全部で百余歳になりました。その期間の代々の天皇様をここに書きますと、
  成務天皇仲哀天皇、神功天皇応神天皇仁徳天皇履中天皇反正天皇允恭天皇安康天皇雄略天皇清寧天皇
合わせて十一代の天皇様の御代の間を通して、少しも変わらない御姿で元気に過ごされたのはめでたいことでございました。薬師如来様は、宮様の所へ時々にお出でになりまして、浄土の素晴らしい様子をたくさんにお説きになりました。
 こうして年月が過ぎて行きまして、ある年の秋の始めのことでしたが、いはほの宮様は仏前に向かわれて、お灯(あか)りを上げて読経をされ、結びに薬師如来真言を唱えますと、もったいないことに薬師如来様が突然に輝く姿で御降臨され、宮様に向かわれて、「どうなのですか、あなたは今日まで何を考えてこのような穢れ多い世界に気持ちを遺しているのですか。仮に何事も叶う天皇の位にいるとしても、人間としての楽しみはほんの少しのことです。その上、いろいろな苦しみに囚われることは次々とあります。こんないやな世界の苦しみを身に受けて、何ができましょうか。本当に頼り無いことです。この地でつらいことに遭うよりも、早く私の浄土においでなさい。お連れしましょう」と仰いました。その御声はとても尊く、心地良かったので、宮様は、この御言葉をありがたくも、また、もったいなくも思われて、ただ喜びの涙をお流しになるだけでした。
 しばらく後に薬師如来が落ち着いた声で、「さて、私が住む浄土の浄瑠璃世界の様子をおおよそお話ししよう。まず、浄土の土地は皆瑠璃で出来ている。銀の垣根、金の瓦、垂木が瑪瑙と珊瑚で出来た建物が並び建っていて、八十の城、三十の城門、五十の宝塔が建ち、七宝宝珠をちりばめていて、朝日夕日の光に輝く建物が並び、きらきらと光っている。その世界の中にそなたを連れて行こう。浄土は七宝で出来た蓮華の上に、玉の宝殿をきらびやかに建て並べておいた。その建物に銀の瓦と金の扉を付けてある。建物には玉の簾、うちわ形の金属製の飾り、美しく垂らす飾り、垂らした五色の布が風に靡いてゆらゆらと揺れている。そして、きらきらしい光に満ちた錦の衣に身を飾って、衣冠をきちんと漬けた菩薩たちが私の左右に生前と座している。そしてまた、十二神将はその座の左右に分かれて立って、この世の仏道に妨げをする魔王を退治しようと、常にwが浄土を守っているのである。その浄土で味わう様々な食物は、昼夜いつでも食することができる。何事もあらゆる事が心のままに叶う世界であるのだから、そなたはどうして、いつまでもこの世界にいて無駄な時を過ごしているのだろうか。今はもはや、そなたの身を私の浄土に移して、この上無い楽しみを得させよう」と仰られて、宮様をその身のままで導き、薬師如来といはほの宮様は白雲にお乗りになって、東の浄瑠璃浄土を指して飛んで行かれたのはまことにありがたいことでございました。
 さて、その後に、世間の人々はこのいはほの宮様が浄瑠璃世界に移られたのを見て、このようなこともあるものなのだな、本当に素晴らしい宮様でありましたなと、宮様の去って行った東の空を拝んで、感動の涙を流さない者はいませんでした。この一連のことをよくよく考えてみると、宮様がいつまでもお年を取った姿にならなかったのは、以前に不老不死の薬を口にされた効能であったということです。はるか彼方のこの代が起こった昔から現代に至るまで、聞いたことも見たこともない出来事でございました。
 この話を見聞きする人は、朝夕、「南無薬師瑠璃光如来」とお唱えなさるのがよろしいのです。

金剛女の草子 付、金剛醜女の語 福福亭とん平の意訳

金剛女の草子
 昔、中天竺の大王の名を臨汰大王と申し上げます。この王には一人の姫がおいでになります。その名を金剛女と申し上げます。この姫の美しくいらっしゃることは、まるで、晴れた空にひとひらの雲が浮かんでいる中から、十五夜の満月が顔を出したようとも、また、朝の雨に濡れた花のようとも言え、普通の人が思い及ばないほど、物に譬えようのない美しさでした。
 ある時、東天竺、南天竺、西天竺、北天竺、この四天竺の大王たちが姫の評判をお聞きになって、心の中に姫を妃に迎えたいとお思いになりました。一方、臨汰大王の方でも、これほどに美しい姫を誰も妻にと望んでこないのは妙なことだとお思いになっているところでした。そこに四天竺の王から、同時に勅使がやって来て、姫を王妃として迎え取りたいという申し出がありました。臨汰大王は勅使が来たことをお聞きになり、四方の大王からの勅使が月も日も時も全く同じ時到着したことは、誰を姫の相手にするかという判断が下せないということで、「御返事はこちらからいたしましょう」として、それぞれの勅使をお返しになりました。
 その後、四方の大王は、もう一度御返事はどうなのですかと尋ねようとしましたが、吉日についてはいずこも違いはなく、自分にとっての吉日は他の人にとっても吉日ですので、四方の大王からのお使いは、またも同じ日の同じ時に到着いたしました。臨汰大王は驚いて、「さあ、どうしたらよかろうか」と、大臣と公卿を呼び集めて協議をいたしました。一人の大臣が、「これは厄介な御返事になります。どなたか一人に承諾の返事をすれば、他の三人がお怒りになるでしょう。四方共に返事をするという約束は守らなければなりませんので、この期に及んでは、結論として、四方の大王にそれぞれのお得意の能力をお尋ねになって、最も優れたお力をお持ちの方に婚姻を承諾されるのが宜しいでしょう」と仰られましたので、一同は「それが一番の方策です」と納得しました。「そうきまったなら、そのように大王に申し上げましょう」と言って、それぞれの国の使いはすぐさま立ち帰りました。
 四方の大王は返事をお聞きになり、「それはたやすいことである。自分より優れた能力のある大王は五天竺にはまずいないであろう」と、それぞれに勇み立って、力強くそれぞれの能力をお話になりました。
 まず一番は東天竺の大王で、「私は、ありとあらゆる人々が苦しむ病を治す薬を持っている。たとえ亡くなって七日が経った人でも、この薬を注ぎかければ、たちまちに蘇り、因縁を好転させて寿命が延びること、三千年である。これに加えて、病になる前にこの薬を服用すれば、寿命の長い伝説の東方朔の寿命に増して、一万歳の寿命を保つのである。この故に、我が名を施薬王と言うのである」と述べましたので、聞いている人々は、「この王の能力に優った方はまさかいないであろう」と言いました。
*また、南天竺の大王は、「我は、手の中に小さい車を持っている。この車には、一人も二人も、百人も二百人も乗れ、さらに一万人も百万人も、千万人乗っても狭いことも広過ぎることもない。車が目的地まで行くのは瞬時である。上はこの世の高い天の極まり、下は地獄の底まで行け、火の中や水の底を通るにも、何の障りも無い。この車に乗れば、冥土の使いも追いつくことができず、もちろん、敵が近寄ることはない。年取った者は若返る。この車に過ぎた宝はないであろう。であるから、我の名を飛行自由王と言うのである」と述べると、人々は、「これも他に比べるものがないなあ」と言いました。
 また、西天竺の大王は、「手の中に鏡を持っている。この鏡を当てて見れば、上は天の一番上、下は地獄の一番の底まで、そのほか、時間では計り知れない過去の姿から未来のはての姿まで、また、人の心の内で、五臓六腑の色や言葉に表すことことのできない心に秘めたことや生まれながらの心の善し悪しまで、すべて明らかに見える鏡である。これだけでなく、この鏡の面に向かう人は、生きては清らかな世界が見られ、死後にはそのまま極楽に生まれることは、まことに鏡がその姿を正確に映す様に、疑ひは全く無い。それによって、我が名を明達王と言う」と仰ると、「これも同じ価値を持つ素晴らしい宝である」と、人々が言いました。
 さて次の北天竺の大王は、「一本の指先から、多くの宝が湧き出て、世界中に満ちあふれ、様々の美味・珍味を揃えることができるのはもとより、心の内に秘かに思うことは、この一本の指で叶わないと言うことはない。もう一本の指は、世界の中心にそびえる高い須弥山を芥子粒よりも軽々と扱い、世界を覆う海の水を一滴の露よりも簡単にまとめ、この広い五天竺も指の上に載せて、空を飛ぶことができるのである。この能力を持っているので、我の名を福転王とも、また、力士王とも言うのである。であるから、この二つの宝の指は、人々の願いを必ず叶え、我が揃えた様々の美味・珍味は、口にする者には不老不死の薬となり、その者は必ず清浄な天上界に生まれるのである」と仰ると、人々が「これもまた同じ力がある」と言いますので、臨汰大王はお聞きになり、四天竺の大王はどなたも同等の力をお持ちなので、どうすることもできなくなって決めることができず、とりあえず四天竺のお使いを国に返しました。
 こんな結論の出ない求婚話があった秋の半ばのことです。金剛女は乳母を誘って、御殿の西の苑にお出ましになって、「尾花波寄る秋風」という句を口ずさんで、「どうして尾花が一方に横に伏すのを波寄るというのかしら」とお尋ねになります。そこで乳母が、「波というものは、もやもやと一方に寄せて来て、またもやもやと元に戻って行くのを、波寄ると申します」とお答えすると、姫が「その波という物は、どこにあるのです」と仰ると、乳母は、「波は水にあるものです。御覧ください」と言いながら、この苑の千尋の沢というところに姫を誘って、沢の水をお見せします。その時に沢の水が急に高く波立ちました。乳母が「あれを御覧ください。白く立っている波は、尾花が風で一方に伏す様子に似ていますよ」と申し上げます。姫がその言葉で沢の水を御覧になると、波の間から大きな竜が一頭現れて、姫を難なく捕らえて、水の底へと入ってしまいました。
 乳母が「これはどうしたこと」と騒ぎましたが、どうしようもなくて、すぐにこのことを臨汰大王に申し上げると、大王はとても驚かれて、その苑にお出ましになり、すぐに千尋の沢を掘り返させましたが、いろいろな小さな竜が多くいるだけで、大きな竜はいません。姫の亡きがらもありませんので、何の手がかりもなくそのまま御殿にお帰りになって、がっかりして涙にくれてお嘆きになることはこの上ありません。
 これはさておき、四天竺の大王たちは、「我々に持っている力について尋ねておいて、誰も婿に取らないとは残念である」との話し合いをしました。「返事をしない特別の理由もないであろう。四方から中天竺へ押し寄せて、臨汰大王を攻めてしまおうではないか」と決め、それぞれの国で兵を集めて、もはや出陣しようといたしました。そこへ東天竺、南天竺から使いが来て、「四方の大王たちお集まりください。お伝え申し上げることがございます」との内容でしたので、「まずは何事か話を聞こう」ということで四天竺の大王がおいでになると、臨汰大王が涙ながらに仰るには「姫のことを千尋沢の大竜がさらって、姫が亡くなってしまった。この大竜をどのようにして退治したらよろしいか。何としても姫の死体だけでも見たいのだ」と仰います。四人の大王は、「この度こそ、皆々の手柄の立て所」と言います。まず明達王がお持ちの鏡を取り出して御覧になると、姫のありどころがはっきりと見えましたので、少しほっとしました。
 その時人々が、「それでは姫はどこに閉じ込められているのでしょうか。鏡の威力でお教えください」と言いますので、明達王は、「金剛女姫の居所は、この千尋沢から六水を万里潜って、石の河原を四万里、黄金の金の河原を十万里通り過ぎ、黒い水を一万里潜り、鉄の河原を一万里過ぎ、その北東の方向に、高さ百丈の金の塀をめぐらした鉄の盤の上に置いた鉄の櫃に姫を入れて鉄の蓋をして、その上に鉄の重しを載せている。この鉄の重しの高さは、一由旬すなわち四十里あり、周りは五百八十里ある。この景色を御覧なさい、皆さん」と言いましたので、身分の高い人も低い人も皆が、我も我もと鏡に見入ると、鏡の中にこの様子をはっきりと見ることができました。
 「では、姫を迎えに行こう」、この場は飛行自由王の車の出番であると、王はすぐさま手の中から小さな車を取り出します。皆々、「私も迎えに行きましょう」と言っているうちに、中天竺はもちろんのこと、五天竺の人々は皆一斉に、竜宮城とかいう場所を見てやろうと、姫を救う気持ちのある者も無い者も、身分の低い女性までもこぞってこの車に乗りました。五天竺の全ての人が乗りましたが、車の中は狭いことはありません。そうして、車はほんの一瞬で水や河原を通り抜けて、あの竜宮城の鉄の囲いの上に達し、ここまでは着きましたが、鉄の門を開くことはできません。
 「この場こそ力士王の力の出しどころだ」と皆が言いますので、力士王は「任せておきなさい」と言って、鉄の門は言うまでもなく、櫃の上に重しに置いた大きな鉄まで、小さな塵を払うように空中に払い棄て、櫃の蓋を取って中を御覧になると、姫の胴体は生きていた時と同じ姿でありましたが、頭は粉々に砕けて亡くなられていました。亡くなられてからの日数はまだ五日です。亡くなられて七日以内なので、人々が「この場は施薬王の出番だ」と言いますので、施薬王は「言うまでもない」と言いながら、瑠璃の壺から薬を取り出して姫の口のあたりへと注ぎますと、姫は大きな息を吐いて、生き返られました。これを見ていた人々は皆、一度にどっと喜びの声を上げました。
 一行はすぐさま姫を車に乗せて、やってきた元の道に帰りました。人々が疲れて、皆空腹になって飢え死にをしそうになったので、力士王がふたたび、「私が二つの名を持っている功徳を示すのはここである」と仰って、「福徳王、ここにあり」と言いながら人々を車に乗せたまま、人々の好みに合わせていろいろな食べ物を与えられましたので、の一日の空腹を満たすだけでなく、皆は向こう三年、五年分の食物を体に入れた形になり、元の都ヘと帰りました。
 こうして中天竺へお帰りになって、四大王が「姫を妃にいただきましょう」と言います。誰の働きももっともです。まず、明達王が仰るのは、「姫のあり所をお見せしたのだから、私が戴こう」です。飛行自由王は、「車にお乗せして往復したのだから、私が戴こう」と言い、力士王は、「鉄の門を開け、鉄の重しをどけたのだから、私が戴こう」と言います。施薬王は、「とうに亡くなられていた姫でしたが、私の薬で生き返られたのだから、私が戴こう」と言います。
 確かに、明達王の鏡がなければ、どうして姫のあり所を知ることができようか。飛行自由王の車に乗らなければ、どうして竜宮城までの数万里の道の往復を何の障りもなく行くことができたであろうか。力士王の力がなければ、どうして鉄の門を開け、鉄の重しをどけることができたであろうか。福天王の素晴らしい宝がなければ、飢え死にをしそうな人が生き延びることはできなかっただろう。施薬王の薬がなければ、姫はどうやって蘇ったであろうか。こう考えると、どの王の働きが優れ、劣っているかを定められようか。臨汰大王は、このように考えて、自分では誰と決める判断はできない状態です。
 ここに、釈応智仏と言う仏様が、人々のために法をお説きになっていらっしゃるので、臨汰王が、「さあ、仏様の所へ伺ってお尋ねをして、仏様の仰せに従って、姫を妃として差し上げよう」と四天竺の大王に伝えますと、四大王も「それが良い」と仰って、仏様の前に参上しました。この仏様はすべてを見通す力をお持ちなので、すぐに全てをお悟りになって、大王たちを招き入れなさいました。
 臨汰大王は、仏前に出て、「私、臨汰大王の娘金剛女を妃にと求める四天竺の使いが、同じ日同じ時に、同じ形で参りましたので、それではそれぞれの力を示すようにと申しましたところ、それぞれに力を出しました。その力はみな同様でありましたので、姫を誰に授けるという承諾の返事をしないままにしておいたところ、それならば我が国の都を攻めようと申します。このままでは軍勢が押し寄せて参りますので、この成り行きをあなた様に申し上げて、あなた様のご判断に依りたいと存じます」と申し上げます。
 仏様が仰るには、「だから、凡人の駄目なところはここであるぞ。皆、しばらく心を鎮めて、私の話をよく聞くように。今から五天竺の大王たちの過去の姿を説こう。昔、五天竺の片隅に、尭当法師と言う貧しい者がいた。子を五人持っていて、四人は男子、一人は女子であった。この法師が死んだ後に、五人の子供は親の後世を弔おうとしたが、貧しくて三度の食事にも事欠くありさまであったから、心だけは何とかせねばとは思ったが、後世を弔う資力が無い。五人は、仕方ない、それならば自身の体を使って、気持ちの届く後世の弔いをしようと、男子四人、女子一人それぞれに、思い思いの働きをしたのだ。
*子のうちの一人は山に入り、重い薪を背負った木樵に代わってその薪を背負い、自分よりも貧しい者には薪を採り集めて与えて、供養の気持ちを表した。一人は野山に出掛けて薬になる木や草を採り集めておいて、路傍に立って、病弱な人や体調の悪い人が苦しむ時に薬を与えた。一人は道にいて、自分よりも年を取って弱っている人が通る時に背負ってその家まで送り届け、幼い者は抱いて寝室へと届け、目の見えない人の杖代わりになって、供養の心を尽くした。一人は我が身を使用人として売って、その代金で仏前の灯明を買って仏に供養した。一人の女子は、尊い寺の近くに住み、寺の僧たちの僧衣を、山中の清んだ水の流れる河で濯ぎ洗濯の奉仕をして供養の目的を果たして、五人の者どれもどれも一心に心を籠めて、親の菩提を弔ったので、天の梵天帝釈天もこの子たちの親への供養の心に感動されて、五人はそのままに生まれ変わって、今、五天竺に生まれ男子四人は東西南北四方の天竺の大王となり、女子は中天竺の臨汰王の娘金剛女となったのである。
 薬を人に与た者は、その功徳で東方の王となって、施薬王として生まれた。生涯を終えた後は、薬師という仏になるのである。仏前に灯明を捧げた者は明達王となって、西天竺の王となった。生涯を終えた後は、阿弥陀という仏になるのである。重い薪を背負って木樵に代わった者は、その因縁によって、力士王・福転王となったのである。生涯を終えた後は、声聞仏という仏になって、北方を統率するのである。年取った者を背負い、幼い子を抱いて供養の志を果たした者は、そのことによって飛行自由王となって南天竺の王となり、生涯を終えた後は施無波羅耶という仏になるのである。さらに、姫は、僧たちの衣を洗濯した功徳によって、今、中天竺の臨汰大王の娘金剛女となった。このように、そなたたちきょうだい五人、皆血の繋がりのあるのに、姫を妃に迎えようと争うのは、呆れ果てたことである」とお諭しがありましたので、人々は恥ずかしく思い、仏様に拝礼申し上げました。
 その時に、姫が仰います。「すべては親の供養をするための気持ちが深かったから男子四人兄弟は、必ず仏に成ると仰います。私も一心に供養の心を尽くしましたので、今臨汰大王の娘とは生まれましたが、来世にはどうなるのかと仰ってくださらないのですね」と嘆かれます。すると仏様は、「そなたは、あの寺の麓の川で僧の衣を洗濯しているときに、足元の石の下に小さい蟹がいたのを知らないで踏み殺してしまった。その罪のために千尋の沢で竜に攫われたのである。攫った竜は、踏み殺された蟹である。僧の衣の汁を飲んだおかげで、生まれ変わって竜となったのである。金剛女は来世は天女になって五楽の楽しみを受け、その後には吉祥天女となるのである」とお示しになりました。
 四方の大王は仏様の言葉をお聞きになって、「それでは親の供養のために心をこめて務めたことで、現在のこの身を受けたのに、前世を知らずに、兄弟が肉親を妃に迎えようとしたのが恥ずかしい」と悔いる気持ちを表しましたので、仏様は四大王に、「皆々、過去の修行の位から進んで、名を改めて、親孝行の者を守護するようなさい」と仰って、すぐさま、四大王は、多聞天持国天増長天広目天と姿を変えられ、世界の北東西南の角にお立ちになり、親孝行の者をお守りになるということです。金剛女は、吉祥天女と姿を変えて、多聞天の妹となってこれまた親孝行の者をお守りになるということです。
 でありますから、この四天王について、どうして四天王と言うのかと言えば、東西南北の四天竺の王でいらっしゃるからです。そこで四天王は、四方の角にお立ちになられています。
 親に孝行ある子は、この四天王が必ずお守りになります。もし万一、このことが真実でないならば、四天王と言う名はすたれるであろうと、四方王経にも説かれています。

 

付録  波斯匿王の娘金剛醜女の語            (今昔物語集巻三の十四) 

 時は昔のこと、天竺の舎衛国(しゃえこく)に王様がいました。その名を波斯匿王(はしのくおう)と言います。お后を末利夫人と言います。このお后のお顔形が整っていて美しいことは、天竺の他の十六の国中を探しても並ぶ女性がいません。お后は一人の女の子を生みました。その女の子の姿は、肌は毒蛇の皮のようで、とても生臭くて、臭さに人が近づくことができません。髪の毛は太く、悪意があるように左に巻いちぢれていて、まるで鬼のようです。その子の姿は、どこをとっても人間とは思えません。そのような姿でありましたから、大王とお后と乳母の三人が相談して、周りの人にはこの子のことは全く見せないようにしました。大王はお后に、「あなたが生んだ子は、どうにも直しようのない固い金剛のような醜さで金剛醜女と呼ぶべ女の子だ。とても怖ろしい子だ。さっさとこの王宮と別の所に閉じ込めてしまおう」と仰って、王宮を北に離れること二里の場所に一丈四方の小さな建物を建てて、乳母と身の回りの世話をする女房一人を付けて、その建物の中に閉じ込めて、ほかの人を出入りさせないようにしました。
 この金剛醜女が十二、三歳になる頃に、その母親の末利夫人の容貌が整って美しいことから、まだ見ぬ娘の容姿も美しいであろうと推し量って、天竺の他の十六の大国の王が皆、后にしたいと願ってきました。けれども、父の大王はこの申し入れを受けずに、一人の家臣を急に大臣に任じて娘の聟とし、金剛醜女と一緒に暮らさせました。このにわか大臣は、自分から望んだことでもなく聟にされ、このような怖ろしい立場になって、毎日昼も夜もあれこれと嘆きに沈んでいることは止めどがありません。それでも、大王の命令には背くことができないので、金剛醜女と同じ部屋の中で一緒に暮らしました。
 そのような時に、父の大王はかねてからの一生の大きな願いとして、仏の教えを説く会を念入りに準備して開かれました。金剛醜女は王の長女ではありますが、その姿が醜いためにこの会に呼ばれません。多くの大臣たちは金剛醜女の実際の姿を知りませんので、金剛醜女がここに来ないことを不思議に思い、事情を知るために計略を巡らして、聟の大臣に酒を飲ませ、大臣がすっかり酔ってしまった時に大臣の腰に指してある部屋の鍵をそっと抜いて、下役に金剛醜女の様子を見てくるようにその部屋へと行かせした。そのような計略が進められていましたが、この様子見の使いが部屋にまだ到着しない時のこと、金剛醜女は部屋の中に一人でいて、会に出られないことを悲しんで、「お釈迦様、お願い申し上げます。私の姿をすぐさま美しくして、お父様の会に出させてください」と言いました。その時にお釈迦様は庭の中に姿を現されました。金剛醜女はこのお釈迦様のお姿を拝見して、心からの喜びが湧きました。仏様を迎えて喜びの心が湧いたので、すぐさま金剛醜女の体にはお釈迦様のすべてが揃った美しいお姿がそのままに移されたように非の打ち所のない美しさになりました。金剛女が夫の大臣にこのことをすぐに知らせようと思っている時に、他の大臣から遣わされた下役の役人がそっとやってきて建物の透き間から覗き込むと、部屋の中には一人の女性がいました。その顔も姿も美しいことは、まるで三十二相揃った仏様のようです。下役の役人は、戻って大臣たちに、「全く思いがけない人がいました。私はこれまであのような美しい女性の姿を見たことがありません」と報告しました。
 金剛女の聟の大臣が酒の酔いから醒めて部屋へ行って見ると、見たことのない美しい女性がいました。大臣はその女性に近寄ることをしないで、不思議に思って、「私の部屋においでになったのはどなたですか」と尋ねました。女性は、「私はあなたの妻の金剛女です」と答えました。大臣は、「そんなことは決してない」と言いました。女性は、「私は急いで、お父様の会に出ます。私は、お釈迦様がおいでくださって親しくお導きをいただいたお蔭で、このような姿に替わることになりました」と言いました。大臣はこの金剛女の言葉を聞いて、大王のいる宮殿に走り帰って、大王にこのことを報告しました。
 大王とお后は宮殿でこの話を聞いて驚き、すぐさま輿に乗って金剛女の部屋へとお出かけになって金剛女をご覧になると、その姿が実にこの世ならず整って美しく、何かに譬えようがありません。大王はすぐさま金剛女を迎え取り、宮中へと連れて来ました。金剛女は願いの通り、仏の教えを聞く会に参加できましたので、大王は金剛女と一緒にお釈迦様のもとへと参上して、今般のいきさつを細々とお尋ねしました。
 お釈迦様は、「よろしい、説いて聞かせよう。この金剛女という女性は、昔、そなたの家の炊事をする役であった。そなたの家に一人の聖人がやって来て、布施を求めた。そなたは、善き事を願って願を掛けておったから、一俵の米を用意して、家にいる上下の使用人一人一人に善根を施させようとこの米を握らせて、それぞれにこの聖を供養させた。人々が供養している中で、この女は、供養をしていながら、聖の姿が醜いと悪くなじった。聖は何も言わずに王の前に来て、不可思議な力を表して空中へと上がってこの世を去ってしまった。その炊事の女は、この聖の不可思議な姿を見て激しく泣いて、姿の醜さを責めた罪を悔い悲しんで、その聖を供養したので、今、大王の娘として生まれたのであるが、聖を悪く言った罪のために、鬼の形を受けて生まれた。だか、また一方、罪を悔いて深く懺悔をしたので、私の教え導きを受けて、鬼の形を改めて、美しく整った姿となり、永く仏道に縁を結ぶことになったのである。このような次第であるから仏道にある聖を決して悪く責めてはならない。また、仮に罪を作ることがあっても、心の底から懺悔をすることが大切である。懺悔は、良い結果を招くための最も良い第一歩であるのだ」とお説きになったと語り伝えている、ということであります。

藤袋の草子 福福亭とん平の意訳

藤袋の草子

《始めに》この物語は登場人物の名前がありません。どこにでもいるような夫婦一家と娘の物語です。判りやすいように、翁(おきな・おおじ)を喜六(四十代)、姥をお松(同年代)、娘をおもよと名付けて民話風に意訳します。

 昔のことです。近江の国のある山里に住んでいる喜六が、花の霊力で飛び散る悪霊や疫病神を鎮める鎮花祭の手伝いとして都へ上って、祭りが終わりましたので故郷へと帰りました。その途中のある道端に、赤ん坊がお盆のような板に載せて捨ててありました。喜六が見ると、この赤ん坊は、輝くような美しいの女の子でした。喜六は、この歳まで子どもがないから、何としてもこの子を拾って帰って自分の娘として育て上げようと思って、懐へ入れました。赤ん坊を大切に抱いて帰る道はいつもよりも遠く感じられました。
 そうして喜六は山里にある自分の家に帰って、妻のお松に、この赤ん坊は捨て子にされていたので、我らの子として育てるつもりで拾ってきたということを話して、赤ん坊を見せます。お松も心の優しい人でしたから、とても喜びました。お松は赤ん坊の境遇を哀れに思って、実の子のように大切に心を籠めて育て、早く大きくなることを楽しみにしていました。
 その後、だんだんに時が過ぎ、おもよと名付けられたこの子は、もう大人の年齢の十三、四歳になりました。おもよは、同年代の子たちよりもずっと大人びて可愛くなり、夫婦の貧しい暮らしの中でしたが、少しもやつれたところがなく、まことに輝く姿でありました。
 そんなある日、喜六は畠を耕していましたが、あまりにもくたびれたので、少し休みをとって、「たとえどこかの山の猿であってもも良いから、誰かこの畠を耕してくれないものかなあ。耕してくれたらおもよを与えて、婿にしてやろう」と何の考えもなく独り言をつぶやきますと、どこにいてこの言葉を聞いたのでしょうか、大きな猿がやって来て、畠を耕してしまい、「明日は申の日で吉日じゃ。仰った約束を破らないでくだされよ」と意って姿を消してしまいました。
 喜六は、つまらない独り言をつぶやいてしまったと、とても後悔しました。
 喜六が家に帰ると、お松は急いで喜六の夕飯の仕度をして、「どうしました。さぞかしくたびれたことでしょう。さあ。召し上がれ」と言いました。ですが、喜六は橋を取ろうともしないで、物思いにふけっている顔付きでした。そこで、お松は妙だなと思って喜六に、「お前様、何を考え込んでおられる」と尋ねました。隠し通すことができないことなので、喜六は畠であったことをあらいざらいお松に話しました。お松は、「まあ、何とも馬鹿なことを口にしたものじゃ」ととても怒って喜六を叱りつけました。
 喜六は、明日になったらきっと猿がおもよを迎えに来ることだろう、おもよを連れて都へと逃げたとしても、その道中でおもよを猿に奪い取られるだろう、さあ、どうしたらよかろうかと考えました。そして、涙ながらに家の裏の藪を掘って、可哀想ではあるけれども仕方ないとおもよを大きな櫃に食べ物と一緒に入れて、地中へと埋めて隠しました。喜六とお松は、向かいの山の中へ隠れて、猿がやって来る様子をうかがっていました。
 昨日の大きな猿は、昼過ぎの申の時に、乗るための馬を牽かせて、自身は輿に乗っておもよを迎えにきました。喜六夫婦の家に来てみると、誰もいなくて、ひっそりとしています。猿たちは妙だなと思ったのでしょうか、屋根の上、板敷きの下までも、きいきいと言いながら家中を探しましたが、誰もいません。大猿は、供に付いてきた猿をどこかへ行かせました。すると供猿は、みすぼらしい猿を連れて戻って来ました。このみすぼらしい猿は占い者だったようで、算木を置いてあれこれと占っていましたが、その後に家の裏の藪を掘らせました。お松と喜六は離れた山の木の陰からこの様子を見て、とても悲しく、駆け寄って櫃に取りすがろうかとは思いましたが、それはできないと思って、泣きながらおもよのことを案じて見守っているだけでした。二人がここでわずかに出来たことは、昔からずっと信仰してきた清水寺の方向を伏し拝み、なにとぞおもよが無事でありますようにお守りくださいと深く祈ることだけでした。
 大猿はおもよを掘り出したので喜んだ様子で、自分が乗ってきた輿におもよを乗せて、まるで鳥が飛び立つようにねぐらへと帰りましたので、喜六とお松は、まるで夢を見ているような気持ちになって、泣く泣く猿が消えた山の奥へと跡をたどって入って行きました。二人は、おもよはどんなに悲しい気持ちでいるのだろうと思われ、二人はおもよのことがは可哀想でなりませんでした。
 猿たちが道も無く入って行った険しい山の中には、屋根を柴で葺いた家がありました。その家の中におもよを輿から下ろして、婿の大猿はおもよに近付いていろいろと軽口をたたいて、おもよをなごませようとしましたが、おもよは顔を上げようともしないで、大声で泣いています。そこで猿たちは、おもよの気を紛らそうと、酒盛りをして舞ったり歌ったりの宴を始めました。
 それでもますます恐ろしく思ったのでしょう、おもよは少しも気が晴れないままで、薄衣を被って泣き伏していました。婿の大猿はおもよをもてあまして、「それでは、山へ行って珍しい果物や木の実を採って来て差し上げよう」と言って出掛けかけましたが、すぐに戻って来て、「出掛けた後に、もしかして他の者に心を移して逃げることがあるかもしれない」と言って、藤袋と呼ばれる藤の蔓で編んだ籠の中におもよを入れて、それを高い木の枝の先に結び下げました。そこに見張りの猿を一匹残して、猿たちは山へと行きました。
 喜六とお松は、何とかして藤袋の中の娘を取り下ろしたいと、じだんだを踏んで見上げていました。そこへ、観音様の御恵みでしょうか、大勢の狩の一行がやって来ました。喜六はこの人たちを見て喜んで、一行の中の主と思われる馬に乗った人の前に出てお辞儀をして、この藤袋が下げられた事の起こりからの一部始終を包み隠さずに話しました。この人は情け深い人でしたので、「どのようにしたらよかろう」とお供の人たちと相談しました。
 藤袋が結び付けられているのは木の高いところでしたので、人間ではとても登って下ろすことができないということを人々が言いました。そこで、平次という者が供の中で弓の上手でしたので、「お前の弓で射て、あの藤袋を吊ってある縄を切れ」と言うことになりました。平次は、「射損なったならば、中の女性に当たってしまいます」と意って尻込みをしましたが、喜六が、「このままであっても、おもよが猿に従わなければ、しまいには猿に食い殺されてしまうでしょうから、一緒のことです。どうせのことに射てください」と一心に言います。そこに加えて主もしきりに平次に弓を射るようにと命じますので、平次は断ることもできずに、仕方なく引き受けました。平次は、ここが自分にとって一番の大事の勝負の場だと思い定めて、一心に神仏の力添えを祈りました。源平の戦の折に、那須与一屋島で平家方から出された扇の的を射た時もこのようであったと思われます。周りの人々もうまく当たるようにと祈りを籠めて見守っているうちに、平次は藤袋を吊り下げていた紐をものの見事に、先が分かれた雁股の矢で射切りました。喜六もお松もとても喜びました。この時、藤袋の下には小袖を敷いて、袋が落ちるところを受けましたので、おもよは無事に地上に着きました。
 さて、藤袋の蓋を取って中を見ると、おもよは流した涙で繭墨を始めとして化粧が崩れてしまい、髪は涙が絞れるほどにで濡れてしまっていましたが、おもよのひどい姿でも、世間の普通の人がきちんと化粧をした姿よりも遥かに綺麗でした。
 狩の一行の主はこのおもよの姿を見て、早くもおもよに恋心を抱き、すぐにも自分のものとして館へと連れ帰ろうと思いましたが、何もしないままに猿が帰って来たら、面倒が起こるだろうと思って、狩のために連れてきた秘蔵の狸捕りの名犬をこの藤袋に入れて、そこにいた留守役の猿に、「もとのように木の枝に結び付けて来い。しないと矢で射殺してしまうぞ」ときつく命じました。留守役の猿は顔を赤くしながら木に登って、もとのように結び付けてきました。「いいか、猿たちが帰って来た時に、このことを決してこうだと話してはならない。言い付けに従えば命だけは助けてやる」と強く命じて、一行と喜六一家は、向かいの山へと入って,猿たちの帰るのを待ち構えていました。
 この狩の一行の主は、おもよを迎え取るために載せる輿を取りに行かせました。ちょうどその間に、猿たちが、いろいろな果物や木の実をたくさん籠に入れて、大勢で帰って来ました。その様子は、普段粗暴な猿にしては、とてもかわいらしく見えました。「万一、猿どもがこのおもよを見付けて取り返しに来たら、皆殺してしまえ」との命令で、人々は岩の陰、木の根元に隠れていました。
 さて、帰って来た猿たちは藤袋をすぐに下ろそうとはしないで、「ここで姫君を題にして歌を詠んで、姫をお慰めしよう」ということになり、木の葉の短冊と筆硯を出してそれぞれに歌を考えている様子は滑稽なものでした。
 一同が順に歌を披露する中で、留守役の猿は、姫がいないことをそれとなく知らせようと思ったのでしょうか、それとない喩えの歌として「おろかなり枝に下がれる袋にはいがみ面なる物ぞ入りたる(ご存じないのですか、枝に下がっている袋には、姫ではなく怖いしかめ顔の物が代わりに入っていますよ)」と詠みましたが、この祝いの席に「おろかなり」や「いがみ面」などという馬鹿にしたり姫をけなすという、場にそぐわない不吉な歌を詠んだということで座敷から追い出されてしまいました。
 めでたい歌が一通り揃ったということで、木から袋を下ろして、袋の蓋を開けたところ、中から狸捕りの名剣が飛び出して、婿の大猿の喉元へと食い付きました。この光景を見て。他の猿たちが逃げ惑ったところへ、狩の一行が木蔭から放して猿に掛からせましたので、猿たちはあちらこちらで犬に咬み殺されたり、狩の人々に殴り殺されました。留守役の猿は、言いつけを守った忠義な猿だとして、命を助けられました。
 狩の主が、「昔、周の武王は、渭水という川のほとりで太公望という名将を得た。今の私は、思いがけずに美しい女性を連れ合いとして得たことだ」と言って、この上なく喜びました。狩人たちは猿たちの皮を剝いで、おもよを輿に載せて、喜六とお松を連れて山を出て、主の館へと急いで帰りました。
 それから後、主は、おもよを妻として、とてもとても大切に扱いました。喜六とお松にも、別に館を建てて世話をしました。矢を見事に射た平次は手柄者として、一つの領地を与えられました。留守役の猿は厩で馬の飼育をさせました。このようにおもよが楽しく暮らせたことは、何よりも、観音様の御利益であるということです。

熊野の本地 後編 福福亭とん平の意訳

熊野の本地 後編
 その後、月日は次々と過ぎゆき、女御の遺骸は雨、露、雪、霜が当たって朽ちてきて、ついに白骨となってしまいました。ですが、女御の左の乳房だけは生前と色も変わらずに乳を出して、王子に飲ませ続けました。こうして王子が成長して、昼間は山の中に出て獣たちに養われ、夜は亡くなった母女御に添い寝をして、いつしか月日が経ち、早くも三年が経ちました。
 虎と狼が話し合うことには、「我々がお守りしようとした時ももはやその期限となった。今はもう女御のご遺骸をお隠ししよう」と、して、あちこちに散った骨を採り集めて、岩の間に木の葉で埋め申し、虎と狼は自分のねぐらへと帰り、その後、王子は一人になり、峰に上ったり谷に降ったりして、悲しまれることはこの上ありませんでした。
 御山の陰にいる虎や狼という存在は馴れない人にはいやな姿ですが、三年という年月そばに過ごしてきましたので、王子にとって虎や狼は今さらながら懐しく思われます。その獣さえも散り散りに姿を消してしまったので、幼心でもいっそうの嘆きと思われてお気の毒です。こうして年月が重なって、王子は三歳におなりになりました。
 ところで、この山の麓に智見上人という尊い聖がいらっしゃいました。ある時、お経を読もうとして巻物の紐を解いて開くと、虫食いがあります。よくよくご覧になると一首の歌です。
  孤児を育つる山の御聖尋ねみ給へ返す返すも
  (孤児を育てている山においでのお聖様、その孤児を見付かるまで何度も何度も探してください)
上人はこれをご覧になって、不思議とお思いになり、これはきっと十羅刹女のお告げであろうと思ってこの歌を導きとして山にお入りになると、相輪という峰に幼い子の姿が見えました。
 その幼い子は上人をご覧になって、上人の声に、「私は摩訶陀国の大王の子です。母は五衰殿の女御と言った者ですが、この山で首を切られなさいました。その時に私も共に死ぬ運命でしたが、不思議にも獣たちに育てられ、また、母の遺した乳房の乳を飲んで、今年三歳になります。昨晩、養ってくれた虎と狼が母の死骸を隠して、どこへとも知れずに姿を消しました。母が、『そなたが三歳に三歳になった春の頃に、この山の麓に智見聖という方がそなたを尋ねておいでになるであろう。その方の元に行って学問をして、私の後世を弔いなさい』と御遺言なさったことが、今だに耳に残っております。それでは、あなたがその方でいらっしゃいますか」と上人に抱き着かれたのは、しみじみとしたことでありました。
 上人は王子の言葉をお聞きになり、「それでは、あのお経の虫食いの歌は、お母様の五衰殿の女御のお詠みになった歌なのでしょう。仮に、この山の鬼や魔物の歌であっても、行って迎えよう」と、遥かの谷を越えて、王子を抱いて「真夏の暑い日、誰がそなたに扇をかざし、また冬の厳しい寒さの夜に夜着を重ねてあげたのだろう。まるで、空を飛ぶ鳥の翼が落ち、魚が水から離れて動きがとれず、また、岸のへりから根が離れた草や入り江の中で繋がれていない舟が寄る辺がないようになって、一人月日を送り年を迎えて、三歳まで成長されたことは、不思議であり、またこのようにおかわいそうなことが、この世にほかにありましょうか」と言って、墨染めの僧衣の袖を涙で濡らされます。
 王子は、この山から出ることを喜びながらも、「お母様の御遺骸をこのままに置いておくことはこの上ない嘆きです。どうしましょう」と仰るのを上人はお聞きになり、「ご安心ください。私がよろしいようにご供養いたしましょう」と言って、岩の間の木の葉の下に隠された女御の骨を取り集めて、香木の栴檀を積み上げて火葬にいたしました。王子はこれをご覧になって、「三年の間は、御遺骸を生きていらっしゃるお母様に向かっているように添い申し上げていましたが、これから後はいつの世にお会いできるののでしょうか」と歎かれて、歌を一首、このように、
  世の中にありふる人の果て見ればただ一時の煙なりけり
  (世の中に生きて長らえる人の行く末を見れば、ただ一時の煙なのだな)
とお詠みになり、上人と一緒にお骨を拾って麓の寺ヘと帰り、春の花咲く時も、秋の夜長の時も、片時も弛むこと亡く学問をなさいました。また、五衰殿の女御の菩提を弔われることは子として素晴らしいことです。
 このようにして、王子はこの寺に年月をお送りになり、日夜絶えず母上の五衰殿の女御のことを思って、忘れることなくお経をお詠みになり、後の弔いをなさいます。
 だんだんに年が重なって七歳におなりになる春の頃に、王子は上人に向かって、「母上の御遺言に『七歳になったら、父の大王の所に参上するように』とありましたが、どうしたらよいでしょう」と仰って、涙を流されました。上人はこれを憐れに思って、「お気持ちの通り、併せて母上に御遺言に従って、私はお供します。摩訶陀国へ出掛けて行って、大王に事情を申し上げてあなたを内裏にお入れしましょう」と言って、王子を同じ寺の僧の肩に乗せ、上人がお供して、摩訶陀国ヘと急ぎます。王子が嬉しく思うことはこの上なく、「鳥ならば飛んで行くものを」などと口にされ、「父の大王という方について、お名前だけでも聞かせてください」と、母の五衰殿の女御が言い遺した言葉を頼りにして内裏へと参上して、母のお気持ちを遂げようとお思いになる御決意は立派なことです。
 一行は夜昼の区別なく道中を急いだ結果、早くも摩訶陀国にお着きになりました。ちょうどその時、大王は南楼にお上がりになって、周りの木々をご覧になっておいでの時で、とても美しい子を僧が守っているのをご覧になって、「ああ、あの子が私の子ならば王位に就けよう、そうであったらどれだけ嬉しいことか」というようにしみじみと思ってお嘆きになる間に、その少年が大王の御前にやって来ました。大王が少年をご覧になって、「どちらからおいでになったですか。ご両親はどなたでしょうか」とお尋ねになりますと、少年は恨めしく思ってしばらくの間何も仰いませんでした。しばらく経って、涙を流しながら、「大王がご存じではないのも、もっともです。私の母は五衰殿の女御です。私を腹に宿されたために、九百九十九人の后たちから、無いことをあれこれと大王に言いつけて、その上に、大王の命令として武士に命じて、ここから遥か離れた「しやく王」という鬼神の住みかへと送り、首を切ってしまったのです。私はその時母と一緒に死ぬはずであったのですが、仏神ならびに三宝のお助けで急に生まれて、今日まで命が延びたのです。この年月は智見上人にお育てによってこれまで成長しました。母上の御遺言に、『そなたが七歳になったなら、お父様の大王の御前に行って、これまでの物語を全部細かにお話しなさい』とありましたので、智見上人が同道してくださり、ここまで参りました」と仰いますと、大王はこれを聞いて、今のことは夢とも現実かとも分からなくなり、しばらく呆然となさいました。しばらく経って、「懐胎した五衰殿の女御の姿が消えてからの年月を数え合わせれば、もう七年である。五衰殿の女御の姿が見えなくなったのはどのような魔物の仕業かと嘆かわしく思っていたが、それでは、九百九十九人の后たちのやったことであったのか。なんとまあ、呆れたことじゃ」と仰って、大王は目に涙を浮かべられ、て、「ああ、何ともつらく嫌な世の中であるな」と、恨み嘆かれることはこの上ありません。
 大王が、「今はもうこうなりましたから、私の近くにいて、過ぎ去った昔の苦しいことや辛いことを語って心を慰めようではないか」と仰ると、王子は、「私はたまたま大王の血筋を受け継ぐということですが、どうしたことの報いなのか王宮を離れ、遥か離れたお山の奥に生まれて、鳥や獣を友として木の葉を衣として身に着け、木の根を枕としていました。このようなつまらない身がどうして玉座に着くことができましょうか。と仰って、涙に咽ばれるのでした。大王はこの姿をご覧になって「まことにもっともなことです。九百九十九人の后たちを呼び出して、一か所で殺してしまおう。それであなたの恨みを晴らしてくだされ」と仰ると、王子は、「多くの后たちを殺したとしても、亡くなられた母の五衰殿の女御が生き返られるということはありません。かえってその罪咎はは大きいものです。后たちの命はお助けください」と仰って、さらに、「一つのお願いは、こちらに持ってこられた母の御首をいただいて、ご供養申し上げたいと存じます」と仰いましたので、大王はこの言葉をお聞きになりながら、九百九十九人の后たちを呼び出して、「そなたたちはこの私をどうなれと思ってうしろめたい悪い計略を巡らし、せっかく子を宿して、私が思いのままに世を治められるようにとしてくれた五衰殿の女御の命を奪ってしまったのだ。皆この内裏から退出なさい。また、ここへ持ってこさせた五衰殿の女御の御首をどこに置いたのだ。すぐにここへ出しなさい」と、怒ってお命じになりますと、后たちはこのお言葉を伺って、「それでは、もう、全部露顕してしまったのか」と思って、互いに目と目を見合わせて、「私は人に従った、自分でやったのではない」とごまかし、「あの人は私にやらせた」と、それぞれに勝手様々の言い訳をしましたので、この振る舞いを見る人も聞く人も、「あきれた情けないことだ」と憎まない人はいませんでした。
 さて、大王は武士たちを呼び出して内々に、「地の底七尺に埋められている五衰殿の女御の御首を掘り出して参れ」と命じられました。武士たちはすぐさま御首を掘り出して大王にお見せします。王子はこの御首をご覧になり、女御の姿がかすかすかにしかわからないほどに傷んだ御首を手に取って言葉無くお泣きになると、大王も智見上人もその場にいる人も皆、涙に咽びました。「ああ、このようなことは世に他にないであろう」と嘆く声は、天にも響くばかりの大きなものでした。
 しばらく経って、王子は母五衰殿の女御の御首を自らお持ちになり、築山の陰で香木の栴檀を積み上げて荼毘に付し、遺骨を自分で拾って、五衰殿の女御が長年住み慣れた宮の五衰殿へと移られて、母上がいつも信仰なさっていた観世音菩薩の前で供養をなさいました。大王がおいでになって、「ああ、まことに五衰殿の女御が生きていらして、王子と三人でこの場にいたら、どれくらい嬉しかったことであろう。悲しい中でも喜びは、王子が不思議に生きていて会えたことだよ。さあ早く王位についてくれよ」と仰ると、王子は、「大王のお言葉は有難いとは存じますが、お母様が亡くなられたことが心から離れません。この上は、ただお暇をいただいて出家遁世して、国々を廻る修行者となり、母上の後世を弔いましょう」と仰います。そこで大王が、「亡くなった母は親で、現在生きている父は親ではないということか。私の命に背かずに王位にお就きになれば現世の父に対しての孝行になり、その上で亡くなった母を弔えば、現世来世の二世の願いが一度に叶うではないか」と仰せになりますと、王子は、「大王がお決めになったことに言葉を返すのは畏れ多いことですが、悉達太子は釈迦一族の王宮を出て阿羅邏仙人から千年前のことをお習いになって仏と成られ、その後に、お母様の摩耶夫人へのご供養のために、ひと夏九十日の間、『摩耶経』というお経の説法をなさいました。また、目連尊者は、お母様が餓鬼道へ墜ちられたのを悲しんで、七月に『盂蘭盆経』を声を出してお読みになり、千人の僧にいろいろな飲み物食べ物を手向けて供養した結果、母上は餓鬼道の苦しみから逃れられたことがあります。これらのことをどのようにお思いになりますか。私が出家して仏道修行をするならば、お母様の亡き霊が成仏得脱なさり、また父大王への御祈りも怠ることがなければ、このようなつらい世の諸々の嫌なことも皆好くなって、この孝行は、風は枝に音を立てさせないほどに穏やかに吹き、雨は土を動かさないように静かに降り、五穀は皆豊かに実り、人々は盗賊の怖れがなく戸に錠を掛けることもいらないという平穏無事な世になって、周りの国々までも従えて、そこから昼夜の別なく運んでくる貢ぎ物の数々にさらに千個万個の宝物を添えての捧げ物も思いのままに集まりましょう。ただただお暇をいただいて出家の望みを遂げてしまいます。しかも、お母様は私を懐胎されたために、世にためしのない苦労をなさって、終に命を落とされたことがあります。私が王位に就いたならば、時に触れて物事に対する考え方が変わってしまい、いつしか王としての世の営みに紛れて、供養も疎かになってしまえば、その咎めが恐ろしく、また来世の成仏の妨げにもなりましょう」と、道理を細々とお話になられると、大王は言葉に詰まってしまい、ただ涙を流されるだけです。智見上人ももちろん、この御言葉に「まことにお道理です」と仰って墨染めの衣の袖を濡らされました。そこにいた人々は、位の上下を問わず皆袖に涙を落として、お気の毒にととても深く悲しみました。
 大王は上人をお呼びになり、「王子が出家遁世の望みが強く、王位に就く気持ちが全く無い。私はたまたま子を授かって位を譲ろうと喜んだのに、その甲斐がない」と仰せになりますと、上人は、「王子様の出家の望みは、お母様のことを深くお嘆きになるためです。そのお心をお慰めすれば世を治めるお気持ちも出て参りましょう。私が長い年月摘んできた修行が空しくないならば、仏神・三宝に深く祈って、五衰殿の女御を再び生き返らせられるでしょう」と答えます。その言葉に大王は「ありがたいお言葉ですな」と感動されました。王子は、「これはどういうことであっても、とても嬉しいです」と仰って、皆が心を一つにして0祈りをなさいました。
 上人は段を飾って五衰殿の御遺骨を据えて、多くの灯火を並べ、いろいろの香をたき、種々の花を捧げて、一心に秘法を行いました。七日という満願の日になると、上人はここが一番大事な祈りの時と思って、独鈷でご自分の膝を叩きます。そのような祈りの中に、仏の前から美しい容姿の女性の姿が現れました。何なのだろうとよくよく見定めると、それは五衰殿の女御が生き返られた姿で、大王は不思議にお思いになり、「これは夢なのだろうか、夢ならば覚めたらどうしよう」と仰って、王子と一緒になってとてもお喜びになりました。嬉しさにも、悲しさにも先立つものは涙で、人々は身分の上下を問わず、いっそうの涙にくれるのでした。
 その後、大王と五衰殿の女御と王子は一か所においでになり、これまでに味わった憂さ辛さを互いに語り合って、嘆いたり笑ったりして、朝から晩まで尽きることなくお話をして、大王が、「このような嫌な国に長く暮らしていたら、これから先どんな辛い目に遭うことであろう。とにかく住みやすい国に行きたいものよ」と仰いましたので、女御も王子も同じお気持ちで、この国を離れることを思い立たれました。
 九百九十九人の后たちを摩訶陀国に捨て置いて、大王を始めとして、五衰殿の女御と王子に智見上人は、そのほかの大王のお気持ちにかなった臣下たちをお供にして、飛車という雲の上を飛んで行く車にお乗りになって、東を指して飛んで行かれました。十六の大国に五百の中国を飛んで過ぎて、それほど経たないうに日本国にお着きになりました。残された后たちが天を仰いだり地に横たわったりして嘆く有様は、とても見ていられません。
 その後、九百九十九人の后たちは、「我々も連れておいでください」と嘆き悲しんで、一行の跡を慕って行くところに、空中から黒雲が舞い下がって、雷が激しく鳴って鬼が飛んで来て、九百九十九人の后たち皆を大石で打ち殺してしまいました。
 このようにして一行は、粟粒のように小さい国である日本の紀伊国牟婁郡音無川の辺鄙な土地にお降りになりました。熊野の権現と申し上げるのはこの大王のことであります。
 さてさて、証誠大菩薩と言うのは智見上人のことで、本地は阿弥陀如来です。結の宮、速玉宮を両所権現と申し上げます。結の宮は五衰殿の后でいらっしゃいます。速玉宮は大王で、本地は十二大願をお持ちの薬師如来です。若一王子と言うのは本地は十一面観音で、王子のことです。阿須賀社、禅師・飛行夜叉・神倉・子守・勝手、満山護法、切部、藤代、鹿の瀬、蕪坂、発心門、滝尻、浜の宮、米持金剛という宮は、どれもどれも皆、女御に忠勤をした人々が神となったものであります。
 大王は、初めは本宮に落ち着き、後には新宮にその姿を顕されました。その後、那智のお山にお移りになられまして、この三か所を合わせて三つの御山、熊野三山です。この三山は三身如来の浄土で、現世は安穏に後生は善所に生まれるという土地です。お参りに来て信じ申し上げる人は、すぐさま願いがかない、子孫繁昌して、来世の極楽往生は疑いありません。深く信じてもさらに信ずるべきはこの権現様でいらっしゃいます。
 九百九十九人の后たちは大王に捨てられて、「さあ、私たちも大王の跡を追いましょう」と言って、日本の土地へと出発しましたが、九百九十九匹の毒蛇になって、あちらこちらの道のほとりに倒れ伏して、権現様へ参詣される人を悩ませます。権現様はこれを憎いとお思いになり、土を守る神と山の神をお招きになり、山を揺り動かさせて崩してこの毒蛇を打ち頃されました。その毒蛇の怨念は今に五百の赤虫となって熊野詣での信者を悩ませます。ですから、「このお山で春三月は赤虫を触らない」と言っています。
 さてさて、熊野の権現と言う神様は、日本第一のあらたかな権現でいらっしゃいます。人々に利益を与えるという悲願が優れていらっしゃいます。一度でも参詣する者は、長く地獄・餓鬼・畜生の三界と、仏を見られず、その法を聞くことのできない八難の悪い因縁を逃れ、十悪五逆という大罪を犯しても、一度この地を踏めばすぐさま罪は消えて、現世・来世の願いがかなったというためしは、昔から今に至るまで多くあります。これを並べ立てるとあまりに多いので、ここには書き記しません。この熊野の権現の本願を強く信ずる人は、権現に毎日参詣するのと変わりがありません。これは私一人の言葉ではありません。古人の言い伝えた言葉です。決して決して疑ってはなりません。「南無証誠殿、両所権現、若一王子、十方善所、一万の金剛童子」と、朝夕お唱えなさい。お唱えなさい。

熊野の本地 前編 福福亭とん平の意訳

熊野の本地  前編

 さて、人間界である南閻浮提の大日本の都から南の紀伊国に大神がいらっしゃいまして、熊野の権現と申し上げます。とても霊験あらたかでいらっしゃり、御恵みは我が国の外までもご利益を施して、生きとし生けるものの願いを叶えてくださることは限りがありません。
 その神様の由来をお調べして申し上げると、、もとは中天竺摩訶陀国の大王でいらっしゃいます。お名前を善財王と申し上げます。この王様は前世からの巡り合わせがめでたく、后を千人までお持ちになりましたが、一人も王子がお出来にならないので、位を譲られる方いらっしゃいません。王様が歎き悲しまれることはこの上ありません。
 ある時、大王様は、庭先の木に鳥が集まって巣を作り、子を温めて世話をしているのを御覧になって、自分はこの大国の王であるけれども王子がいないということを朝晩お嘆きなっていました。そのようなところ、千人の后のうちにせんこう女御という方が五衰殿という宮にいらっしゃいましたが、大王のご寵愛がなくて大王がこの宮においでになることがありませんでした。女五はこのことを悲しんで、宮の中に持仏堂を建てて十一面観音を本尊として安置して、毎日御経を三十三巻読み、三千三百三十三度の礼拝を捧げて、「大王様がもう一度この宮へおいでになりますように」と、全身全霊を籠めて御祈りをいたしましたところ、実に観音様のお慈悲のおかげなのでありましょうか、残る九百九十九人の后よりも姿容が美しく見えましたので、大王が女御の五衰殿にお出ましになりました。
 さて五衰殿の女御は長年の願いが叶って大王のお出ましが重なって、ご様子が普段通りではなくなり、乳母を呼んでこのようだと仰ると、乳母はとても喜んで、「千人の后の中で一番に優れた立場になられて、王子様をご懐妊されるめでたさです」と申し上げて、急いで大王に申し上げると、大王はこれをお聞きになって、ご機嫌がとても麗しくなられて、すぐさま五衰殿へとお出ましになりましたので、残りの九百九十九人の后たちは一堂に集まって、「五衰殿の懐胎は怪しいものだ」と言って、妬むことはこの上ありません。
 后たちの中でも、蓮華夫人という后が、「皆が気持ちを一つにして、この世にある暴悪な神仏に祈って、あの五衰殿の腹にある王子を呪い殺してやろうではないか」と言いましたので、それぞれの后たちは思い思いに祈りをして、その怨念の恐ろしさは譬えようがありません。そのような時に、ある人が、「近所に優れた占いの博士がいます。呼んで王子のことを占わせなさい」と言いましたので、后たちはすぐに博士を呼んで、「五衰殿の懐妊は、王子か姫宮か、賢明な王になるのか、悪逆な王として生まれるのか、占って申せ」と言うと、博士は算木を並べて、占いの書と照らし合わせて、「王子でいらっしゃいまして、お生まれになった朝から七宝の宝が降り注ぎ、三歳の春の頃から天下をお治めになるでしょう」と申し上げると、后たちは一度に声を上げて、天を仰いだり、地を転げ回って、妬み悲しむことは申しようがありません。
 后たちが、「これで五衰殿が皇后の位に就き、九百九十九人の見捨てられ女が誕生してしまうのですよ。博士様は何をお思いになってそのようなつれないことを仰るのですか」と言うと、「そうは仰っても、占いの結果にはっきりと出ているのです。」と答えます。后たちはこれを聞いて、「私たちが七日七晩王子のことを呪って祈ったのはどうなるの」と尋ねます。博士が、「愚かな仰りようです。五衰殿の女御は百日の間、法華経、とりわけ観音経をたゆまずにお読みになり、その信心の功徳によって懐妊された王子でいらっしゃるので、どのように呪いを掛けられても叶うことはありません。あの観音経の中にも『還着於本人(人を害そうとすると逆に我が身に降りかかる)』と説かれてありますから、お后様たちの身の上の方が危うく思えます」と答えると、后たちは、「そのようなことになると判っていたら、皆観世音菩薩を信じるものであるのに。ああ、無駄に過ごしてきた年月じゃなあ」と嘆きました。王の寵愛を受ける女御・更衣という高い位の方であっても、嫉妬ほど空しいことはありません。
 后たちは、「博士にお願いしているのですから、王子にとって悪い結果が出るように占ってください」と言いますと、博士は、「占い判断をする書にないことを言ったら、七代の末までこの道が絶え、眼が地に抜け落ちてしまいます。そんなことは決してできません。そのようなお頼みを伺うのも恐ろしいことです」と言いますと、后たちは、「おれでは我ら九百九十九人の女御が、鬼となってそなたをとり殺して、子孫を七代まで殺してやろう」と口々に言いますので、博士は、「本当に恐ろしいことじゃ」と思って、たとえ大王のご命令に背くとしても、今の命が消えることも、その上に七代までの子孫が殺されることも情けないことなので、とにかく后たちの言葉に従うということを言いました。
 后たちはとても喜び、衣を一重ずつ博士に与えて、「『五衰殿のお体に宿られた王子はお生まれになります。お歳が三歳にお成りになった時に、都に鬼神が来て人々を殺し、七歳になった時には、父である大王の首をお討ちになるでしょう』と占え」と教えて、后たちは五衰殿へと行きますと、大王は、「后たちが来たのはどうしたことであろうか」と仰いましたので、后たちは、「五衰殿のご懐妊をめでたいと存じ、お世話をするために参りました。お生まれになるお子様が男御子でいらっしゃるか、姫宮でいらっしゃるかを占わせるために、優れた占い者を連れて参りました」と申し上げると、大王は占い者をご覧になって、「それはめでたいことじゃ、ありのままに占いなさい」と仰せになりましたので、占い者は占いの書を開いて算木を置いて、お生まれになるのは男御子であるということを申し上げます。大王はもとより、左右の大臣を始めとして、公卿も殿上人もあらゆる役所の役人達も、雑務や警備の者に至るまで、宮中の皆が喜んで笑みを含みました。
 大王はこの結果を聞いてご機嫌麗しく、とても書き表せないほどでしたにので、后たちはこの様子を見て、「それでは、博士は教えた通りには言わなかったのだな」と思い、全員が厳しい表されたので、博士はとても驚いて、しばらく言葉に詰まりました。大王が「それでどうじゃ、どうじゃ」と仰るので、博士は后たちの方に目をやると、后たちがますます恐ろしい様子をしているので、后たちがいる場所に近寄って、「男御子ではいらっしゃいますが、お生まれになって三歳におなりになる時に、天から鬼神が下って来て宮中に暴れ込んで人々を皆殺しにし、七歳の時には父である大王様の御首を打ちなさると出ております」と申し上げます。すると王は、「よくぞ占った。この天竺の中でも、摩訶陀国という大国の王である身は、あまりおとなしくしていては、他の国からの侵略を受けることがあるであろう。乱暴な王ということになれば、他の国から軽く見られることはない。その上、常ならぬこの世であるから、生まれたその日その時に死ぬ者のいるのに、三歳まで生きるというのはめでたいことである。しかも、七歳まで育って親しく暮らすことができるのは嬉しいことじゃ」と仰って、大王のご機嫌はいつもに増して麗しかったので、后たちはあてがはずれて残念に思いました。
 その占いの日から、一日二日経って、后たちが一堂に集まって考え出した計略は恐ろしいものでした。「百歳の女を九百九十九人集めて、皆に赤い衣裳を着せて、笏を手に手に打ち叩かせて、二十日の月が沈んだ闇の夜に、大王のおいでになる五衰殿に無理矢理踊り込ませよう」というものであります。さて、もうその夜になりますと、九百九十九人の百歳の女たちが赤い着物を身に着け、いろいろの鬼の形になって五衰殿に押し入って、声を揃えて叫んだのは恐ろしい姿でした。「大王よ、さっさと内裏へお戻りなされ。お帰りにならなければ、宮中にいる人々を今夜の内に皆殺しにし、夜が明けたら大王の髪を摑んで天に上ろう」と叫びました。王はこの言葉をお聞きに鳴り、「ようやく思いがけず子を授かって嬉しかったのに、空から鬼が降ってきて宮中の人を殺そうとする悲しさよ。今は仕方がない、内裏へ帰ろう」と、五衰殿の女御に向かっては涙を押さえきれずに、内裏へとお帰りになりました。五衰殿の女御はとても心細い気持ちで、「これから先は、どれほど辛いことばかり重なってくるのであろう」とお嘆きになり、自らの力ではどうしようもない大王との別れの悲しさに世を恨み、涙を流しながら、このように、お詠みになりました。
  今よりはさぞ闇ならん我が宿に契りし月の光隔てて
  (今からはきっと闇のような日々なのでしょう。私のこの宮で王様と契りを交わした月の光も遠ざかってしまって)
 そのようなことの後、九百九十九人の后たちは、「大王を内裏へとお戻ししたことは、まさしく私たちの計略の結果だ」ととても喜びました。女ほど、考えが浅いように見えて、企みの底深いものはありません。后たちが皆集まって話し合うことには、「五衰殿の女御が出産された時に、鬼が天から降ってこなければ、私たちが占いの博士に頼み込んで、根も葉もない占い結果を示させたと、大王か公卿や殿上人までもが思うことは間違いない。この上は、すぐに五衰殿の女御を殺してしまおう」と決めて、一寸抜けば千人の首が落ち、二寸抜けば二千人の首が落ちるという討伐の剣を、大王に知られないようにして盗み出し、七人の武士を味方に引き入れて、「この剣で、五衰殿の女御の首を切って献上せよ』との王のご命令である。その場所は、都から南へ七日七夜行った稚児山の麓の鬼畜の谷、虎の岩屋の前にて行うように」と伝えました。七人の武士は、后たちが様々の言葉を尽くしていきさつを説いたので、すぐさま引き受けて、その後のことを考えもせずに、全員が勇んで出掛けたのは、情けないことでした。
 武士たちは五衰殿に来て、「『悪い王を懐妊されたので、あなたのお首をいただいて来るように』との大王のご命令です」と口々に叫びました。これに普段五衰殿に仕えていた人たちは皆逃げ出して一人も残る者がいなくなり、五衰殿の女御一人だけが残りましたので、その様子は、五衰殿の女御のお気持ちはどのうように哀しいものかと推察されて、お気の毒さはこの上ありません。身分の上下を問わず、「このような成り行きに」と女御に告げる人もいないので、どうしようもありません。女御は硯の墨を磨ろうとしましたが、涙があふれて硯がよく見えないので墨を磨ることが出来ず、指先を食い切って、ご自分の血でこのように、
  水茎の跡も見分かずなりにけり死出の山路の旅に急げば
  (筆の跡もはっきり見分けることができなくなりました。あの世への道を急ぐ身でありますから)
とお詠みになって、「ああ、昔から今に至るまで、女は訳の判らない嫉妬をして、恐ろしい計略を巡らして、人の命を奪う、なんとも情けないことですよ」とお嘆きになりますと、武士たちは、荒々しい声を上げて、「このことは大王のご命令に従ってここに来ているのだから、さっさとお出になってください」と、情け容赦なく美しい御殿に乱入します。五衰殿の女御は、自分の身が亡くなることは少しもお思いにならず、大王のことだけをお思いになって、「これは大王がおいでになる御殿です。どうして汚すのですか。さっさと出て行きなさい」と仰って、背丈と同じ長さの髪を揺らして流して、外にお出になるのもお気の毒です。玉の簾に長い髪が掛かって女御の動きを止めるのを、「心のない簾までも、私との名残を惜しんで引き止めようとするのに、どうして、長年身近で馴れ親しんだ女房たちが一人も見えないのだろう」と、涙はますます止まりません。
 さて、もはやどうしようもないので、女御は袂に落ちる涙を払って、歌一首をこのように、お詠みになります。
  玉簾掛けて馴れにし名残とて引かるる袖に涙落ちけり
  (玉簾が、掛けて馴れ親しんできた名残として引いた袖に涙が落ちたことよ)
掛かった髪を引いて玉簾と別れて、外にお出にると、七人の武士が女御を中に取り込んで進んで行くうちに、まことに、昔は立派な玉や金で飾った美しい御殿の中にいて、ほんの少し吹く風までも嫌い、玉を敷き詰めて金銀の砂まで敷いた庭を歩いて物思いにふけられたその方が、今日はそれに引き替えて、岩や木で険しい道を、裸足で歩き通して行かれます。五衰殿の女御は、あたかも天人の五衰のように夢から覚めた心地がします。「とてもお気の毒なことですが、王様のお決めになったことですので、何ともできません」と、荒々しい武士たちも心を柔らげて、同情の涙を流しました。女御は、「私は前世だ人が大事にしていた夫を奪った報いとして、この世でこのような報いを受けると思えば、誰かを恨む筋合いはありません。あるお経の中に、『現在の状況を見て、過去の原因を、また未来の結果を知る』とありますから、今はただ来世における私の罪はどうなのだろうと悲しいです」と仰って、泣きながら歩を進められました。
 これから先の道がまだ六日七夜の行程があるというのに、女御は全く慣れない旅のお疲れがあって、御足から血が流れ、お着物の裾も血で染めたようになって、道端に倒れ伏されましたので、武士が、「行く道はまだそれほど進んでいません。さっさとお歩きください」と言うと、女御はますます心細くお思いになり、「これからはもう歩いて行けるとは思えません。どこで命を取られるのも同じことです。ここで殺して、この路傍の露ともしてください」と仰いますと、武士は「歩けないのももっともだ」と思って、近所から馬を探し出して、これにお乗せ申し上げました。以前は、立派な玉の輿、花の車にだけ乗り慣れていらっしゃって、馬は今初めて乗るので、落ちることが何度もあります。気の毒さはこの上なく、屠所に引かれる羊のように行く馬の進みで、馬の足に任せてうちに、稚児産の麓の鬼畜の谷、虎の岩屋の前に着きました。
 五衰殿の女御は泣く泣く、「馬は、馬頭観音様の化身で、観音様は三十三にその姿を変えられ、人々の苦悩をお救いになります。私は八歳の時から、たゆむことなく観音様を念じてきたその信心の功が空しくならずに、この道中に馬と顕れて私を御助けになってくだされたありがたさよ、私が生まれ変わって仏となったなら、あなたの恩を深く報いましょう。神となったなら、あなたを神のお使い姫の一つとして大切にしましょう」としみじみとこの馬に話しかけられるのがお気の毒です。そこで、王の命を受けた使いである武士が鋭い討伐の剣を抜いて女御の首を切ろうとします。女御は、「しばらくお待ちなさい。私は毎日観音経を三十三度読んでいるのですが、今日はまだ読んでいません」と仰って、懐から経文を取り出してお読みになるそのお声は、極楽にいるという迦陵頻伽の声もこのようであろうかと素晴らしく聞こえます。暴虐な鬼は獣や、心ない木や石であってもこの女御のお読みになる観音経を聞くと、仏様と縁を結ぶことで、悟りへの思いを遂げることができ、それを祝福するように天人が天から下るのではないかと思われます。
 読経の後、女御は、「私の体の中に王子がいらっしゃる間は、どのように斬っても私の首は切れないでしょう」と仰います。そして自分の腹の中においでの王子に、「私が首を切られた後は、どうやって生まれることができましょうか。さあ、今すぐお生まれなさい」としみじみと語りかけられますと、王子はたちましお生まれになりました。母となった女御は、王子を上着でくるんんで、身の丈の長さの髪一結びを、王子を護る仏や神、三宝、山の神、さらに山の獣である虎や狼にも捧げて「王子をお守りください」と祈って、王子に向かって、「そなたに木の葉が落ち掛かる時は、母が着せる衣と思いなさい。萩や薄が掛かる時は、母がそなたに寄り添うと思いなさい」と、切々とお話しかけになられ、御遺言のように思われる歌を、
  孤児を伏せ置く山の麓をば嵐木枯し心して吹け
  (この身寄り頼りのない子を寝かせて置く山の麓、木枯らしよ、思いを汲んで強く吹かないでおくれ)
とお詠みになって、「私の身は首を切られたとしても、三石六斗の乳を含んだ乳房をここに遺してゆくのである。王子が三歳におなりになるまではこの乳で養い申し上げよう」と、今生まれたばかりの王子に向かって仰ることがお気の毒です。
 女御が、「さあ、武士たちよ、首をお取り」と仰ると、武士が剣を抜いて首を切ります。すると、女御の体はそばに置かれていた王子に飛び付いて乳房を含ませたのは、悲しいことでした。
武士たちはこの光景を見て、勇猛な心がとても弱くなり、「生きているということは、このような悲しくつらいことを見るものであるな」と嘆きました。
 つらい目を見ても、このままにいることはできないので、武士たちは女御の首を手にして、涙を流しながら都へと帰りました。その後、女御の遺骸は三石六斗の乳のある乳房を出して、王子をお育てします。昔から今まで、母の恩ほど深いことはありりますまい。身分の上下を問わず、その恩を忘れることなく孝行をするべきであります。
 さてさて、五衰殿の女御はただ今亡くなられたことは間違いありません。身分の上下を問わず、親子の恩愛の契りほど深いものはありますまい。女御が、胎内にいる王子をお育てするために八尺の黒髪を切り落として、上は梵天帝釈天、下は大地を司る地の神に至るまでのそれぞれに分けて手向けなさったことは素晴らしいことでした。「王子が三歳になるまでの間、王子をお守りください」とお祈りになり、「心ない獣も同じように子を愛して大切にするのが世の常なのだから、皆々も我が子を憐れと思って、王子をお守りくだされ」と願われましたら、まことに心ない獣たちも頭をうなだれて涙を流して聞き、朝晩交代しながら王子の傍にお仕えします。ある獣は木に登って木の実を採り、ある者は谷に下りて水を汲んで来、女御のご遺骸をお守りしてと、それぞれに王子を守り育て申し上げることが不思議であります。女御に何の咎もありませんのに、九百九十九人の后たちの偽りによって亡き者にされなさったことを、もろもろの仏菩薩も気の毒とお思いになり、獣たちも王子の世話に心を遣い、お傍に付いて王子をお守り申し上げました。

うたたねの草子 福福亭とん平の意訳

うたたねの草子

   うたた寝に恋しき人をみてしより夢てふ者はたのみそめてき
   (うたた寝に恋しい人に夢で会ってから、夢というものを頼りにするようになりました)
 このように平安時代歌人小野小町が詠んだのはたいしたことのない心の動きの様子で、その歌では夢に命を懸けることではありませんが、様々な時代の物語の中には、とても不思議なことがあるものなのですよ。
 これは近年のことであります。天皇様を始めとする朝廷の評判良く栄えている大臣がいらっしゃいました。この方のご長男は今の皇太子のお世話をする春宮職長官の職にあります。その弟の君は、なにがしの僧都と言って石山寺の寺務を統括する座主を勤めているそうです。大臣のお子さんには、この他に腹違いのお子さんがたくさんおいでですが、この僧都と同じお母様の御きょうだいは、あとは姫が一人だけいらっしゃいました。お父上の大臣はこの姫を特別にかわいがって大切にしていて、宮中への出仕を考えて準備を考えることもありました。ですが、宮中で天皇様のそばに女御や更衣という方が大勢いる中に入った時、姫の評判が高くなるにつれて周囲の人から妬みを受けるのが恐ろしく、また逆に不人気になって人々の中に目立たない存在となって人々に圧倒され、姫が嘆く日々が続いてしまうようになるのも可哀想で、どうしようかとためらっています。そのような間に、しかるべき家の人から妻として迎えて大切にお世話したいという、かなり強引な申し出もありますが、姫は平凡な相手と添わせるにはもったいなく思われるご容貌養ですので、あれこれとお考えになっています。そのうちに、姫はますます美しく華やかになってきて、才能も非の打ち所がなくまことにすばらしい人になりました。
 おそば近くで姫のお世話をする人々にも、由緒のある家柄でしっかりしている若い方を置いて、皆が優雅な心遣いをするようにして、春の花、秋の紅葉というような季節折々の楽しみの時も、人々が心隔てなく日々を過ごしておいででした。ですが、姫の母上が亡くなられていましたので、お父様の大臣が忙しくなさっている時はとりまぎれて、姫にはすることもなく寂しく、横になって過ごす時ができてしまうことができてしまいます。
 この姫のお屋敷の八重桜は、ほかの桜の木よりも遅く咲いて長く咲いている木です。逝くことをとどめられない春の日数が過ぎていって、花がだんだんに散ってゆく寂しさもひとしおであるのに加えて、雨までが朝から静かに降り続けて、軒端からの雨垂れが落ち続ける様子ももの寂しい昼のころ、姫が琴を気ままに弾いて横になっていると、うとうとと眠られたのでしょう、「これを」と差し出された物をご覧になると、とても長くしなって花がびっしり付いている藤の枝で、露がそのままに置いていて色美しくしかも香りあるところに、藤の花の色と合わせた同じ色の薄葉の紙が添添えられているのも素晴らしく、姫はいつもの賀茂の斎院の内親王様からのお便りだと思って、何気なく開いてご覧になると、男性の筆で、
  思ひ寝に見る夢よりもはかなきは知らぬうつつのよそのおも影
  (相手のことを思って見る夢ははかないですが、それよりももっとはかないのは、お会いしたこともない現実の   あなたの面影です。実際にお会いしたい)
とあります。墨の色がつやつやとして、筆遣いに心を込めて流麗に書いてある様子は、並々ならぬ人が書いた物であると判ります。「ああ、見たことのない素敵な筆だこと」と見ているうちに、心が穏やかではなくなって、どこから来た便りなのだろうと思って心が騒いだのですが、なんとこれは夢だったのです。
 姫は、はっきりと御覧になった昼寝の夢の先が知りたくて、また、あまりに美しくほれぼれとする筆遣いが忘れられなくて、しみじみと考え込んでいらっしゃいます。それからすぐに日暮れになりましたので、灯りを点けて、いつもおそばに仕えている中納言の君や弁の乳母といった人たちに碁を打たせて御覧になっていましたが、先程見たつかの間の夢の中に出て来た筆の跡の書き手が誰と判らないことだけ、何となく心に掛かっているのが、姫には不思議に思われてなりません。姫の御前の人々はあれこれと遊んで楽しんでいますが、姫はどうにも心が晴れないままでいますので、近くにある几帳を引き寄せて隔てのようにして、そこに少し横になって寝かかりますと、姫の横には、糊をきかせない柔らかな平常服の直衣に紅の上着を重ね、色も艶もとても素晴らしい薄い青紫色の袴を着けて、こちらまでも香りが移りそうに香をたきしめた方がとても親しそうな様子で添い寝をなさるのです。姫は驚いて、その方を御覧になると、あの源氏の昔物語に語られる主人公の光源氏の君の姿はこうであったろうと思われるほどにとても美しい方が親しげにも、またもの静かで風情ある様子も見せながら、男性としての魅力をすべてこの方が備えていらっしゃるとしか表しようのない姿で現れました。姫はこの方を見て心が騒ぎましたが、ただ、あれあれと思われるばかりで、声を出すことができません。
 男性は、姫が体を動かそうとした手を摑んで、「とても思い溢れる恋心の様子は、どんな事情であっても可哀想だと思ってくださるのが当たり前なのに、私のたいしたことのない手紙までも御覧になってないのですか。せめて一(ひと)言(こと)のご返事もくださらないことが恨めしくてここまで参りましたのは、古来、『思いが勝ると抑えきれなくなる』と言われる通りであることをご存じないのですか。こういうことになってきたのは、今のこの世だけではなく、先の世からの縁でありますので、逃れられない運命であるとお思いになって受け止めてください。ひたすら思いが届かない恋心の行く末は、かえって恐ろしい報いが来ることが多くございますので、私とあなたがこの世に叶わなかった迷いの姿を残して、来世は二人とも救いのない闇のような暗い道に迷うというような男女の縁になり果ててしまうのは嫌だとはお思いになりませんか」というようなことを、心の底から出てくる言葉で細々と言うのに対して、姫はなにかお答えをしなくてはいけないところなのですが、言葉が出ません。姫は、何とかつれない様子には思われたくはない、相手の気持ちに応えたいとお思いになっていらっしゃってはいるようです。
 朝が来て、次第に朝を告げる鳥の声がかすかに聞こえてくるのは、これぞ朝の恋人たちが別れなければならない時との恨みが積もっているのを鳥は受け馴れているのでしょう。そんな鳥の声を何気なく聞き流して、もう一度の二人の親しい遣り取りをし終えることもなく、何かにうなされたような気持ちになって姫があたりを御覧になると、もやは陽が上りかかって、何が起こったのかわかまらないまま、姫はぼんやりと起き上がられました。
 恋しい人のことを思いながら寝ると、その人と必ず夢で逢えるというのが、今も昔もある思い寝の常ですが、あの春雨の花の下でのうたたねから始まった夢の恋はどう考えてもはっきりしないことでございます。萱の斎院こと式子内親王が「夢にだけでも見たいものと悲しみながら寝た夜の袖は、涙に濡れています」とお詠みになったお気持ちは、思い寝ではなく、しきりに恋に迷う魂が、その方の所へと訪ねて行っている様子であると理解しています。さて、どうなったのでしょうか、どなたの幻が私のところへお出でになって夢に見えたのであろうと、贈り主がはっきりしないで差し出されたあの藤の花の枝が私の嘆きのもとになる木であると、姫はその枝の陰に、ついつい泣くことが多くなって袖が濡れて、周りの人にもはっきりそれとわかるほどになっているということは、何とも罪作りなことでございます。
 昔のこと、小式部の内侍の所に大二条の大臣こと藤原教通公(ふじわらののりみち)のお通いがほど遠くなられたころ、小式部の内侍がひどく嘆いて、おいでにならずに空しく過ごす日々が重なったことをしみじみと振り返っているところに、教通公の突然のおいでがありました。小式部は嬉しくて心が落ち着かなくなっていましたが、それほどの時が経たないうちに教通公がお帰りになるので、その直衣の袖に糸を通した針を縫い付けたところ、翌朝見ると、その糸が庭にある木に刺されてありましたので、実は教通公はおいでになっていなかったのを、心に添っていた面影が、思いに先だって現実にあったようになったのだと、思い当たったということです。
 姫は、夢の世界でも現実世界でも、いったいどちらの世界で誰に思いを掛けられているのだろうかと、心が紛れることがないままに、絶えず相手のことを恋しく思い続けているのですが、そのこともまた不思議なことであります。「どのような寝方をしたから夢に見えたのであろうか」と思い、今はあれこれと相手のない寝床に寝起きして、自分の服に焚きしめた香も、面影が忘れられないあの夜の方からの移り香かと懐かしく思い、寝床から離れる気持ちにならないでいるうちに、実際の面影とも夢の中の姿とも最後には一つの面影になって、姫はいつの間にかその方がそばにいるような心地がして、いま私は何を思っているのだろうと、自分の思いに疲れて嫌になってしまいました。
 月日が過ぎるにつれて姫は病がちになり、気持ちがふさいでゆき、柑子蜜柑のような果物までも全く召し上がらなくなりましたので、父上の大臣様をひじめ、乳きょうだいの人々も心配して、仏様へのお祈りをあれこれと始め、護摩を焚いて印を結ぶ祈りや、経文を唱えるという病気を治す様々な祈りを次々と行い、人々が一日中途切れることなく病気全快を祈りました。姫は、自分の物思いに加えて、父上が心を尽くして手を尽くしてくださっているご様子を見ると、自分が父上や人々に罪を犯しているような気持ちになって、ますます涙が増さり、泣かれてしまうのでした。ごきょうだいの石山寺のなにがしの僧都も姫の様子を聞いて驚いて、寺から屋敷へおいでになって、快癒への御祈りの手順のあれこれをお決めになります。その時に、あの石山寺の観音様は、人々を救うという霊験あらたかで、他に例のないほどのご利益をいただけると言われていますので、今般病が良くなりましたら、かならずお参りいたしますという願を立てさせなさいました。姫のご様子は、様々の多くの御祈りのご利益でしょうか、少し快方に向かいましたので、父上の大臣様を始めとして、人々の喜ばれることはこの上ありません。
 病気が快復したのならばすぐさま石山寺へお礼参りにと思い立たれた時に、『源氏物語』の中の玉鬘の君は、初瀬へのはるばるとした道を歩いておいでになっていますので、姫の病気平癒のお願いも大切なことでありましたから、あえて牛車を使わずに歩いてお出掛けになります。いつも姫のおそばに親しくおつきしている弁の乳母、中納言の君などの四、五人の人々は、わざと目立たない姿にしてお参りに向かいます。さて、一行が石山寺に着いて周りの景色を御覧になると、山の麓の瀬田川は広々として静かにさざ波が立っているだけで、その先には月が澄み渡って光っていて、普段屋形から見ている景色とは変わって、目に入る風景がみな物珍しく見えます。何ともいえない風情で苔が生えている大きな巌石がいくつも重なっているのは、いつの時代の小さな石がここまで大きくなったのであろうかと思われ、年を経た庭の様子も都とは違っているので、一行の人々はここまでの道中のつらさや疲れもみな忘れて、しみじみと眺めていらっしゃいます。
 姫は、これまでの様々の自身の心の中の苦しみをすべてここに出してしまおうと心に念じながら観音様の前に丁重に参拝しますと、「弘誓深如海」(通称「観音経」の『法華経』「観世音菩薩普門品」中の「観音の人々を救おうという誓いは海のように深い)と述べられている観音様の言葉が尊く実感させられました。その後、仏前のお祈りが終わりまして、夜がだんだんに更けてゆくにつれて、隣の部屋は、あの紫式部が『源氏物語』を書いた部屋だということで、姫はちょっと珍しく覗いてみたいと思っているところに、隣の部屋から、とても良い響きの声で、「宰相中将」と呼ぶ声がしたのは、一行の主である左大将様の声なのでしょう。その呼ばれた中将という方の声で、「この度の御参詣は、何事についての御祈りなのですか。司召という秋の役職替えの辞令がある時が間近ある今、公的であれ私的であれ忙しくて休みを取るのも難しいこの時期に、このようにお参りなさるのは、とても不思議に思われるのですが、拝見したところ、御袖にずいぶん涙の露が落ちていて、普通の秋の露のほどよりはあまりに多いように拝見しています。ですが、その訳がこうなのだとは少しも仰らないのは、我々に対してあまりによそよそしくいらっしゃって、恨めしく感じます。罪をすべて打ち明ければ罪から赦されると申しますので、こういう訳だとお話になるのがお気持ちを晴らすのに一番のことです。ですから、ことさらにこの御参詣の折に、皆々に語ってくださいませ」と、事情を打ち明けてくれないことに口惜しい思いを込めてで話しかけますと、「まあまあ、夜には夢の話をしないということなのだよ。それでも皆の気持ちが晴れないようだから話そうか。この寺にお参りに来て今日まで籠もっているのも、私の鬱積した思いが少しは晴れることもあるだろうかと願って我慢してきたのだけれど、もはや隠しておいても仕方がないからね」というように、人々に心を許して打ち明け話をする声は、姫には、夢で親しく情を交わしたその人に少しも違いないと思われました。そこで姫は、この声の主の姿を見たいと思いました。姫の座敷では、お供に付いてきた人々は今日の旅に身も心もとても疲れてしまったのでしょうか、みなぐっすりと寝込んでいて部屋の灯りも消えてしまっています。一方隣の座敷は、とても明るくなっているので、姫が障子の隙間からそっと静かに覗きますと、上品な狩衣を着て、やつれている男性の姿がありました。
 姫が隣の部屋を覗いて見ると、そこにいた人の姿は、夢で逢っていた人の姿と少しも違うところがありませんでしたので、いま見ている姿もいつもの思い寝の中なのだろうかと、心が悲しみに沈みながらもじっと我慢して隣から目を離さずに話をお聞きになっていらっしゃいます。男性は語ります。「我が国でも唐の国でも、夢のお告げを導きとして、殷(いん)の王の高宗(こうそう)が傅巌という野で夢に見た傅説(ふえつ)という補佐の人を見付けた話、または『源氏物語』の明石の巻で、夢のお告げにより明石の入道が、都を離れて須磨に暮らす光源氏を舟の用意をして迎えに来たという話は、皆、夢がまさしく現実と一致するという例がある。それはさておき、私の場合は去年の弥生の末のころだ、女のところからと思われて、しなった藤の枝に結び付けて、
  頼めただ思ひ合はする思ひ寝の現にかへる夢もこそあれ
  (ひたすらに頼りになさいませ。二人が思い合わせる思い寝の夢が、現実のものになることがあるということを)
とあったのを見てから、毎夜の夢ごとに相手の許に通い、またこちらに相手を迎えて、二人の仲は二本の木の枝が一つになる連理の枝としていついつまでも栄え、また、翼を連ねる比翼の鳥が離れないようにとの思いを重ねて去年と今年の足かけ二年を過ごしていたのだが、朝廷に仕える時でも、私の立場で我が身を振り返る時でも、また月や雪の風情を感じる時でも、どんな時でも、ただこの毎晩の夢がほんの少しでも現実のものにならないかと、何か思い当たる手がかりがないかと、いつも心がそれに強くとらわれてしまっていて、何事にも身が入らず、考えることができなのだよ。心が少しもはっきりせず、体もひどく弱ってきたのを何とか我慢して朝廷にお仕えしているのだよ」と悲しそうに語られました。姫がこの男性の打ち明け話を聞いている気持ちは、平静でいられるはずがありません。これこそ見た夢が現実にあったのかと、晴れる方のない物思いのあまりには、姫は思わず声を立てそうになり、この障子をすぐさま引き開けて、男性と毎晩の逢瀬の次第を語り合いたいとは思いましたが、そうはいっても女の身から、その夢の相手は私ですとは言い出すことはできないので、強い気持ちでじっとこらえています。姫は、私の心はとても薄情な様子になっていると感じていらっしゃいます。
 さてさて、はかないちょっとした夢だけでも相手の面影を忘れることができないのに、それに加えて同じ思い、同じ内容の夢の物語です。その夢の中と同じ男性の姿を見て、このまま恋しい気持ちを抱いたままでお別れしては、私はこの先少しも生きてはいられません。でも一方、相手の方のお気持ちも判らずに乱れた心で言い出して相手をひたすら慕うということも赦されないことなので、今この時に姿を見たのを現世で逢ったということにして、ここで入水して果てて来世で海女にでも生まれ変わって、あの方と決して別れることのない逢瀬に巡り合うのだと心強くお決めになりました。姫は、お母様が亡くなられてから後は、お父様の大臣様だけを頼もしい存在として頼りにしていて、お父様もまた私をとてもとても可愛がって下さいましたが、今お父様に先立って死んでしまうのは、どんなに罪が深いのだろうとお思いになりました。父上には、ちょっとしたお寺参りとして出掛けましたのが、最後の別れであったとはご存じなく、いつ帰って来るかとお待ちになっているところに、私が亡き者になったとお聞きになったら、父上はどれほどお嘆きになるだろうとお思いになります。ですが、私はもうこれを限りに死んでしまおうと思っているので、長い年月馴れ親しんだ周りの人々を始めとして、斎院様、皇后様を始め、あちらこちらにいらっしゃる親王様や内親王様の皇族の方々も、どれほどお嘆きになるでしょう。また、私の死を、いい加減な噂で言いはやされる口惜しさもあると、様々に思い乱れて決心のつきにくいことも多いのですが、やはり、姫には、来世のあの方との契りが第一だという思いが最も強くなっていらっしゃるようです。
 姫は消えてしまった灯火をもう一度灯させて、お父上への遺書をお書きになります。涙が溢れて見えなくなり、はっきりと書くことが出来ない様子で、
  歎くなよつひには誰も消え果てん小萩が露のあだし命を
  (あなたの子である私の命が消えるのをお嘆きになりますな。誰もが最後には消え果てて行く小萩の上の露のよ   うなはかない命なのです)
 だんだんに夜が明けてゆきますと、姫はおそばの中納言の君を先頭にしてお経を読んで、あまり心の籠もらない願いを仏前で口の中だけで申し上げた後に、ほのぼのと明るくなって見え渡る湖や川や山の景色を見てあれこれと楽しく会話を交わしていますが、入水して果てようという心の内を少しでも知らせたならば、乳母の弁を始めとする人々はどれほど嘆くだろうとお思いになるお気持ちもとても哀れです。なによりもずっと見ていた夢の中のあの方の面影を、まざまざとこの目に見るだけでなく、互いの心の内も残りなくはっきりと聞いたことは、まさに観音様の衆生を導くためのお力とはっきりと分かり、来世を導いてくださるものと強い頼りとして、臨終の際の心を乱すことなく、親に先立つ不孝があっても、それを契機として来世にあの方と結ばれるという願いは空しくなく、来世の阿弥陀様のおいでの浄土においても同じ蓮の台に(うてな)あの男性と生まれ変われますようにと、観音様の前に細々とお願いをなさいます。このことはご自分の心から出たこととはいえ、お気の毒でございます。
 随分日が高く昇ってしまった、早く帰京しようと急ぐ心で石山寺を出発なさると、姫のごきょうだいの石山寺の座主僧都の乳母が、年を取って腰が曲がった姿で瀬田の橋近くに住んでいて、「久しぶりのお出掛けがありましたので、お立ち寄りください。老い先短い身でございますので、姫に今生でもう一度御目に掛かりとう存じます。ぜひともお立ち寄りください。こちらからはお迎えの車を用意いたしますので」ということをしきりに申しますので、姫は水辺に近い所は私の入水の決意にも便利であると立ち寄ろうというお気持ちが向きはしますが、そうはいっても改めて屠所へ引かれる羊のように死が近い気持ちがいたします。だんだんに瀬田の橋が近くなると、川の流れやあたりの様子が何となく恐ろしく感じられ、これから川で水死することになるのもどんな前世の報いなのだろうかと恐ろしく、決意はしていても、これから死ぬことに臨んでは、親に先立つ不孝をしてしまうつらさを繰り返し思うにつけても、小式部内侍が重病となって寝ていた時に、母の和泉式部に向かって、「いかにせむ行くべき方も思ほえず親に先立つ道を知らねば」(どうしたら良いでしょう、これから冥土とやらへ行く方向も考えられません。親に先立つ道は知らないので)と詠んだという昔の哀れな話も自分の身の上のように思われ、ほろほろと流れ落ちる涙を誰にも見とがめられないようにと上手に紛らわして、橋の中ほどまで進んで、しばらくためらってたたずむ姿を人々が妙だと見ているうちに、突然川の中へと飛び込まれましたので、おつきの弁の乳母を始めとする人々は、「これは何をなさったのですか」と驚き騒いで、涙を流すこともなく、また、跡を追って飛び込もうという考えも浮かばずに、ただ、なんとしてでも姫をお助け申し上げようと、声を限りに泣き叫ぶのでした。
 ちょうどその時、狩衣姿の人が大勢乗ったたいへん優雅な舟が、人々が泣き悲しむのを変だと思って、この姫が入水したあたりへと漕ぎ寄せて来ました。姫のお付きの人々はその舟の近寄るのが嬉しく、「たった今、身投げした人がいます。何とか助けてください」と慌ただしく身振り手振りやじだんだを踏んで、口々に伝える姿は哀れです。その声に応じて、泳ぎの上手な男の人々がきびきびと頼もしい様子で潜って、水中から姫を引き上げました。姫の様子は、「観音経」に説かれている「即得浅処」(大水の中に漂う時、我が名を称えて念ずればすぐさま安全な浅い所へと行かせよう)という観音様のお約束通りで、水も姫を中に入れることから遠慮したのでしょうか、この足かけ二年間に男性との夢の逢瀬に伴って涙を流されて濡れて傷んだ袖ほどにも濡れていなかったのは不思議なことでした。
 この舟は、姫の隣の部屋にいらっしゃった殿の大将様が七日間のお籠りの行が今朝満了して、舟であちこちの見物をしながらお帰りになるところのようです。大将様が姫をすぐに舟の中へと抱き入れてお顔を見ると、お歳は十八、九歳のようです。とても可愛らしく親しげで、若々しい輝きに満ちた眉と目元や顔立ちは、明け方の霞が残った中で白く美しく咲いている遠くの山桜の花を見る素晴らしい心地がします。姫は恥ずかしそうに顔を横に向けていますが、そこにはらはらとかかっている髪の筋は乱れることなくつやつやとして真っ直ぐで、『長恨歌』に楊貴妃の美しさを喩えるために引かれた玄宗皇帝の未央宮の柳が露を含んだ形を思わせます。大祥様は、この年月に見続けてきた夢では、なにかはっきりしない面もありましたが、ここにいる姫は現実の美しさがあります。そこで大将様と姫が親しくお話をなさいましたが、初めての対面だという気持ちは全くいたしません。姫はまた、死のうとした身をこのように助け上げられたことをとても恥ずかしく思うはずでありますのに、そのことを全く感じないというのは、大将様のお姿が、親しく見続けていた夢の中の相手と全く同じ姿であったからなのでしょう。
 夜のちょっとした夢に、しっかりとした男女の契りを結ぶということは、はるか昔、前世からの縁なのですが、その上にこうして実際にその相手を迎え取るということはよほど前世の縁が深いものなのでしょう。これは、もったいなくも観音様のお導きでありますから、特別に心配事もなく過ごしなさるままに、子孫の末までも一家が長く栄えて、賢明な天皇様の御治世の補佐をなさったことのあれこれをさらに細かく書き続けたいところですが、ここはただ夢に結ばれた男女の珍しい話、観音様のあらたかな霊験を書こうとしたもので、巻末に白紙を残す遊び心とし、また墨の無駄遣いであるという嘲りを避けることにいたします。

『うたたねの草子』の付録として、夢の話と恋患いの話の三題を添えます。
付録① 諺「巫山(ふざん)の夢」 中国の『文選』に収められる宋(そう)玉(ぎよく)作の「高(こう)唐(とう)の賦(ふ)」に楚の懐王が夢の中で巫山の神女と交わったという「巫山の夢」の話があります。この話には、「巫山の雲」「巫山の雨」「巫山の雲雨」という別名があります。「高唐の賦」を訳だけで紹介します。
  昔、懐王が巫山の南側にある楼閣に遊び、疲れて昼寝をしました。夢の中に一人の女性が 出て来て、「私は巫山の女です。ここであなたのお情けを受けたいと存じますが、いかがです か」と言います。王はこの申し出を受けました。女性は王のもとを去るに当たって、「私は巫 山の南の丘に住んでいます。朝には雲となり、夕方には夕立となってこちらに参りましょう」 と言って去りました。
 この話から、「巫山の夢」「巫山の雲」「巫山の雨」「巫山の雲雨」という語は、男女が夢の中で結ばれること、また、男女がこまやかに情を交わすことの意味として使われています。また、神女の言葉から、「巫山の夢」などと同じ意味を表す「朝雲暮雨」という四字熟語もあります。

付録② 落語「胆(きも)つぶし」 夢の中の女性に恋をして病気になってしまった男が出てくるという落語「胆つぶし」があります。あらすじを紹介します。最近聞くことのない噺です。
  友達の民公が原因不明の病で長患いをしています。親友が原因を聞きただすと、夢に出  て来た女性に恋をしてしまったとのことが判り、医者に相談すると、そのような病は中国の 古い書物にあり、この病を治すには、亥の年、亥の月生まれの女性の生き胆を飲ませれば良 いということを言われます。親友が、それは無理かと失望しながら家に帰ると、屋敷勤めの 妹が宿下がりをして帰って来ていました。久しぶりに会った妹と話して年齢を尋ねると、「私 は亥の年月が揃った珍しい生まれで、芝居なら殺される役だと、よくお母さんが言っていた」 と答えます。これも何かの因縁か、民公の親父さんにはずいぶん世話になったし、民公はか けがえのない友達だからと思い切った親友はその夜、寝付いた妹の上から、出刃包丁で刺そ うとしますが、そこは肉身の情で、思わず涙がこぼれます。その涙が頰に当たって妹は目を 覚まし、兄の持っている出刃包丁を見てびっくり、「兄さん、いったい何をやってるの」「こ の間、芝居でこんな場面を見たから、真似をしているんだ」「そうなの、私ゃ殺されるかと思 ってびっくりして、胆をつぶしたよ」「なに、胆をつぶした、それじゃ、もう薬にならねえ」。
 驚いたことを「肝をつぶした」と言う言葉は現代では使われなくなりました。
 浄瑠璃の『摂州合邦辻(せっしゅうばっぽがつじ)』では、業病にする毒薬の解毒剤が、寅の年月日時まで揃った女の生き血であるという設定があります。、愛と義理と忠義が語られる「合邦住家の段」(合浦庵室)という場面があります。

付録③ 落語「崇徳院」 こちらは夢ではありませんが、恋をした相手がどこの誰なのか判らずに病気になるという落語です。現在演じられている形であらすじを紹介します。
  ある大店の若旦那が原因不明の病で臥せっています。医者を次々と取り換えていたところ、 最後に来た医者が、「この病人は何か心に秘めていることがある、それが判れば病気は全快す るが、この様子ではもってあと五日だ」と言って帰ります。そこで慌てた大旦那は、若旦那 と親しい出入りの熊さんを呼んで、若旦那が心に秘めていることを聞き出させます。熊さん が若旦那から聞き出したのは、若旦那が上野の清水堂(上方落語では、高津神社)へ参詣に出 掛けて境内の茶店で休んでいたところ、美しいお嬢さんがお伴の人を数人連れて来合わせ、 そこでお嬢さんが袱紗を落としたのを若旦那が拾って渡したところ、そのお嬢さんが料紙を 取り寄せて「瀬を早み岩にせかるる滝川の」という崇徳院の歌の上の句を書いて渡してくれ た、それ以来そのお嬢さんに恋患いをしてしまったということでした。大旦那は、熊さんに、 そのお嬢さんを見つけられなければ主(しゆう)殺しだとして訴えるという脅迫混じりでお嬢さん捜し を依頼します。期限の五日目、熊さんは、何軒もの湯(ゆう)屋(や)(銭湯)や床屋(理髪店)を渡り歩いた 結果、三十六軒目の床屋でようやく出入り先のお嬢さんが恋患いをしているので相手の若旦 那捜しに出るという先方の町内の鳶の頭(かしら)と遭遇し、若い二人はめでたく結ばれます
小倉百人一首』の崇徳院の歌が相手を見付ける唯一の手がかりなので噺の題になったのでしょう。

まつら長者 後編(四段目~六段目) 福福亭とん平の意訳

まつら長者 後編 (四段目~六段目)
  四段目
 気の毒なさよ姫は涙ながらに足を速めますと、間も無く、先をどちらと問うという言葉に通じる遠江浜名湖、そこの今切から入ってくる潮の流れに棹をささなくても上る漁師の小舟のように、舟を漕ぐに縁ある言葉の焦がれて物を思うのでありましょう。南を遠く眺めると、広々とした大きな海には数多くの舟が浮かんでいます。ああ風情のある景色だなあと見て、北側にはまた湖があります。岸には陣屋が連なって建っていて松の枝を吹き渡る風の音や波の音の、どれが仏法に連なるものなのだろうと頼りなげに目をやって通って行きます。ああ明日の命の程は判らないけれども、生きるという音に通じる池田という興ある宿の名は頼りがいがあります。さらに袋井の一筋道を長く行き、日坂を過ぎると、評判に聞いた佐夜の中山というのはここだそうです。
 気持ちは先を急ぎ、間もなく名所旧跡を早くも通り過ぎて、ゆったり流れる大井川です。岡部の宿の手前には、少し荒れていて物寂しげな夕暮れであっても、神に祈りを掛ければ叶う金谷宿とか、四方に神ならぬ髪が生えているわけでもないけれど宿の名を島田髷と同じ島田宿と聞けば、髪を隠すのに袖が寒いです。峠の名を聞けば優美な鞠を打つ宇津の山辺に鞠ならぬ丸子川があり、賤機山を右側に見て行けば三保の入り海は波が激しくてその激しさに物思いに耽るのは私一人、こんな所を駿河の国の名所とは、どんな人が言ったのか、と由比の宿、さらに蒲原宿を見て通り過ぎ、心細く眺めて、富士の山を見上げると、去年の残り雪がまだらに消え残ってところに今年の雪が降り積もって、あれあれ一年中雪が消えない山の様子であります。南の海をみればここは田子の浦です。その手前には東西に細長く楕円の形に見える沼もあります。原では、夕刻に蘆の間を行く舟を進ませて、塩焼きの小屋の煙が立ちます。伊豆の三島を通り過ぎて箱根の足柄の宿に着きました。
 お気の毒なさよ姫は、慣れない旅のことなので、足の裏から流れ出る血は、道の石を一面に赤く染めます。さよ姫は今はもう一歩も前に出られないと、枯れ木の根元を枕として、もはや駄目だと横になられました。太夫はとても腹を立てて、「これから先は何日で行くと予定を決めた旅程なのだから、、このままぐずぐずとしてはいられないのだ」と言いながら、さよ姫の腕をとって引っ張って、陸奥の国ヘと道を急ぎました。
 足を早めて行くと、間もなく相模の国に入りまして、大磯・小磯の海辺をを早くも通り過ぎ、めでたいことを聞くという菊川を過ぎ、鎌倉山はあれだろう、さらに広くてどちらへ行くとも判らない武蔵野に入り、隅田川に着きました。これがまあ、話に聞いた都から攫われた梅若丸の墓、墓には柳と桜の木を植えてあって、念仏の声が心に沁みるように聞こえます。さよ姫は、梅若丸の身の上が自分の運命と同じことと思われて、これから私はどうなるのだろうと思って、まず涙が流れるのでした。
 夜が明けて白んでくる白河は、二所の関とも言うようです。さらに恋しい人に会う会津の宿にに来て、梢の枝の筋もはっきり見分けないほどに脇目を振らずに先を急ぎましたので、それほど時が経たずに、奥州二本松、陸奥の国の安達の郡にお着きになりました。
 太夫は屋敷に入って、妻女を呼び寄せて、さよ姫を連れてきた事情をこうだと伝えました。妻女は、とてもうれしく思い、早速さよ姫に対面して、「ああ、美しい姫君ですこと。長い旅でさぞお疲れのことでしょう」と、奥の座敷へと呼び入れて、あれこれと世話をいたしました。さよ姫は、「ああ、情けないことに私は、一度も見たこともない陸奥の国まで買われて来てしまって、この身はどうなってゆくのかしら」と、ひどくお泣きになります。
 さて太夫は、早速にさよ姫のいる座敷を飾り付けます。第一には、清浄な物として、葉を取り除いた藁、神事に使う新薦を敷きました。座敷に注連縄を七回り張り回して幣を十二に切って、合わせて七十二の幣として立て、こここそが姫がおいでになる特別の部屋と荘厳しました。姫自身の身も浄めようと二十一度の垢離を取りました。可哀想にさよ姫は、どのような事情でこうされるのか全く思いもかけず、「これこれ、皆さん、奥州の部屋に入るには、このようにしないと入れないのですか」と、泣きながらお尋ねになります。
 世話をする女房たちは、「ああお気の毒な姫の思いですねえ。どうしてこのようにされるのかご存じなければ、さあさあお知らせいたしましょう。明日になりましたら、ここから北へ八町行ったところに、さくらのが淵と言って、周囲三里の池があり、その池の中に一つの築かれた島があります。この島の上に三階の棚を作って、その棚の上には注連縄を張って、姫を大蛇の生け贄に供えようとするための準備ですから、このようにあなたの身を浄めているのです」と詳しく話をしましたので、さよ姫はまさかこのようなこととは夢にも思っていませんでしたので、身を投げ出してお泣きになりました。
 さよ姫は涙を流しながら、嘆きごとを仰るのが気の毒です。「以前私を買い取りなさったその時には、子供の一人に加えようと、固い約束をなさいましたが、私を人身御供にしようとの話はいたしませんでした。これはいったいどうしたことなのですか」と、激しくお泣きになりました。
 太夫の奥方はあまりに可哀想で、姫を近く呼んで、「これ申し、姫様、お嘆きはごもっともです。あなたの生国はどちらでしょうか。都の近辺だとは伺っています。私も来年の春の頃に、都参りをする予定です。もしもご両親にお便りの手紙をお送りになりたいのでしたら、私の気持ちで、心を込めてお伝えしましょう。姫様、いかがですか」と涙を流しながら仰います。さよ姫は、ただうつぶせになったまま、何の返事もいたしません。奥方はこの様子を見て、「私の一人の娘であっても、人身御供に出すのならば、どれほど悲しいことであろう。あの姫の両親の心の中が思いやられて可哀想じゃ」と泣きながら仰います。この妻女の心は、優しいという一言だけでは表せないほどでございます。

  五段目
 このようなことのうちに、太夫は人身御供を差し出す準備をして、八郷八村に知らせようと思って葦毛の馬に乗り、八郷八村を触れ回る様子は興味深いものでした。「この度、ごんがの太夫は、大蛇への生け贄の当番に当たっておったが、都へ上って、姫を一人買い取って下って参った。さっそく人身御供にお供えするのである。皆々お出でになり、見物なさってくだされい」と、辻々、家々で触れ回ったので、八郷八村の人々はこれを聞き、この池の周りに見物席を作り、小屋掛けをして、あらゆる人々が集まってきました。
 こんな人々の騒ぎの一方、可哀想にさよ姫は、故郷への形見の手紙を書こうとして、硯の筆に手を掛けて文章を書こうといたしましたが、涙で目がふさがって、どう書いてよいかもよく見えず、筆を前へからりと捨てて、身も世も泣くお泣きになります。奥方をはじめ、周りに付き添う女房たちも、まことにもっとも、可哀想だとみな涙を流しています。
 太夫はこの様子を見て、もはや人身御供の日は明日に決まっている、姫に事情を細かに語って聞かせようと思って、「これこれ姫よ、あなたをここまで連れてきたのは、他のことでもない。あの山の奥に大きな池がある。この池に年に一度人身御供を供えて参ったが、今年は我が家がその番に当たったので、あなたを人身御供に供えるのじゃ。覚悟なさい」と言いました。
 ああ、気の毒な姫君は、この事情をお聞きになり、「これ太夫様、以前からどのようなつらい目にでも遭おうという覚悟ではございましたが、このようなこととは全く知りませんでした。でも、もう、それも仕方がありません。父の菩提を祈るためと思えば、全く恨みとは思いません。国元にいらっしゃるお母様がどれほどお嘆きになることか、それだけが気がかりです」と、また激しくお泣きになります。
 早くもその時になりましたので、気の毒にも姫君を、十分に着飾って用意をさせ、身分の高い人が乗る立派な網代の輿にお乗せして、十八町(原文のまま、以前の話では八町でした)離れたところにある池の岸へと急ぎました。いろいろな身分の人々がぎっしりと見物に出て来ています。姫の輿を決められた場所に下ろしました。可哀想に姫君は輿からお出になり、それから長者が舟にお乗せして、築島指して漕ぎ出しました。
 舟は水の上を進んで早くも築島に着きましたので、三段の棚を作り上げ、周囲に注連縄を張らせてありまして、棚の上に姫を人身御供として供えて、中の棚には神主が、一番下の棚に太夫が上がりました。神主はすぐに礼拝をして申し上げることには、「あああ、有り難い次第でございます。これはごんがの太夫が、当地繁昌を祈るためにお供えします。どうぞお守りください」と、数珠をさらさらと押し揉んで、懸命に祈りました。
 太夫も同じように身を浄めて懸命に祈ることには、「今年は私めが、人身御供の番に当たりましたので、姫を一人買い取ってきて、ただ今人身御供に差し上げるものです。どうぞこの土地を無事安泰にお守りなさってくださいませ」と、重ねて願い事を連ねて、祈りの言葉を申し上げました。それから池のほとりへと帰りました。陸に上がると、皆々ぎっしりと並びました。
 可哀想なさよ姫君は、三階の棚の上にただ一人、呆然としておいでになっています。そのお気持ちがお気の毒です。ああ、ひどいこと、姫の最期の時は今だと池のほとりの人々は騒いでいますが、何の動きもありません。集まった人々はこの様子を見て、「ああ、情けないことだなあ。神主めがいらない頼み言葉を唱えたばかりに、大蛇様のご機嫌を損なったのだろうか。ああ恐ろしいことじゃ」と言って人々は家へと帰り、門や木戸を固く閉めて、妻や子供に至るまで一家中がおびえ悲しむことこの上ありません。それぞれがじっと祈って、音を立てる者とてありません。
 気の毒にさよ姫は、ただ一人寂しく、涙を流していらっしゃいます。頼る者なく心細く、目を閉じて念仏を唱えていらっしゃいます。
 恐ろしいことに、急に空がかき曇って、雨風が激しくなり、雷が次々と強く鳴って、池の面は波立って、その長さ十丈ほどの大蛇が水を巻き上げて、赤い舌を振って、三階の棚の中段に頭を載せて、さよ姫をただ一口に飲もうと、火炎を吹きかけて向かって来ます。さよ姫は少しも騒ぐようすもなく、「これ、大蛇よ、その方命のある者ならば、少し待っておくれ。そなたもそこで聞いていなさい」と、父の形見の『法華経』の経巻を取り出して、声高く読み上げなさいます。
 「この経の一の巻は、冥土にいらっしゃるお父様のために、二の巻は奈良の都にいらっしゃるお母様のため、三の巻は私の一族のご先祖の方々のために、四の巻は私を買って下さった太夫ご夫妻のため」と仰り、五の巻を取り出して、「これは私自身のために」と声高く読み上げなさいます。「一者不得作梵天、二者帝釈、三者魔王、四者転輪聖王、五者仏身、云何女身、速得成仏」とお読みになります。
 「そもそもこの提婆品という巻は、八歳の竜女が即身成仏をしたということを説く経典であるので、大蛇、その方も蛇身を受けた苦しみから逃れるように」と仰って、お経の巻物をくるくると巻いて、大蛇の頭めがけてお投げになると、有り難いことに大蛇にあった十二の角がはらはらと落ちました。さらに「この経典の功徳を受けよ」、蛇の身を上から下へとお撫でになると、一万四千あった鱗が、一度にはらはらと落ちました。この様子を物に喩えれば、三月の頃に屋敷の門に植えた桜の花が散るように、散り散りに落ちたと言えばふさわしいです。
 大蛇は、「ああ有り難いこと」とそのまま池の中へ入ると見えたのですが、十七八歳の気品ある身分の高い女性と姿を変えて、さよ姫に近づいて、「これ姫君、実は私はある事情があって、この池に住むことが九百九十九年になります。その年月の間に、人身御供を取ったのが九百九十九人になります。もう一人呑めば千人になったのです。あなたのような尊い方に巡り会うこは、めったにないことでございます。これは何かと言えばひたすらお経のお力で、すぐさま大蛇の身を受ける苦の世界から離れて仏となり、悟りの境地に至ることができるのは、この法華経の徳に他なりません。さて、この御恩をお返しするには、何をお布施として差し上げましょうか」と言って、竜宮世界にある、如意宝珠という何事も意のままになるという宝の珠を取り出して、「さて、姫よお聞きなさい、この珠という物は心に浮かぶ願いの叶う珠なのです。腹の具合が悪いときはこれで腹をお撫でになるとよろしい。両眼が見えないものなら、この珠を使えばすぐに見えるようになります。とてもとてもすばらしいこの珠なのです。これを姫君に差し上げます。このことを疑わずによく信じてください」と、首を傾けて涙ながらに言います。いろいろなことがありましたが、さよ姫の心の内は、嬉しいという言葉だけでは言い表すことができないくらい嬉しさで一杯です。

  六段目
 この時、さよ姫は夢から覚めた心地がして、呆然としていらっしゃいました。さよ姫が、「これ大蛇、私は、父親の菩提を弔うために我が身を売って、この土地までやって来て、そなたの餌として供えられるということならば、この命は全く惜しくありません。ささ、さっさと私を取って呑んでおくれ、大蛇よ、どうなのだ」と仰ると、大蛇は、「ああ、もったいない仰りようです。今まで人を生け贄として呑んできたことを、とてもとても後悔しています。それでは、私のこれまでの身の上話を語ってお聞かせいたしましょう。
 私は、国は伊勢の国二見が浦の者でしたが、継母に憎まれていじめられたので家を出て、人買いに欺され、あちらこちらと売られて来て、その後この土地の有名な十郎左衛門という者が私を買い取って、つらい思いをしていました。そのころのこの池は、小さな流れの川でありましたので、土地の人が集まって、橋を架けようと計画して、一年に一度ずつ橋を架けようとしましたが、橋が架かることはありませんでした。土地の人は集まって、どうしようと相談をしました。中に、神が乗り移った若い者が出て、その者の言葉に、陰陽の博士を呼んで橋が架からない訳を占わせるのが良いとあり、すぐに博士を呼び寄せました。
 博士がやってきて事細かに占いました。なんという恐ろしい占いでしょう。その結果は、美しい女性を人柱として川に沈めるならば橋は完成すると占ったのです。それは簡単なことだと話がまとまり、すぐに籤を作って引いてみれば、私を買い取った十郎左衛門が当たりました。それで私を川に沈めたのです。
 この川端へ連れられて来たその時に、私は余りの悲しさに、「ああ情けないことだなあ、この八郷八里の里に他にも多く人がいるのに、よりにもよって私をここに沈めるものならば、我が身は長さ十丈の大蛇に変じてこの川の主になって、この土地の者を捕まえては呑み、捕まえては苦しめるようになって、ここの七浦の土地を荒れ果てさせてやろう」と、このように呪いの言葉を吐き、とうとう川に沈められて、この姿となりました。それはついこの間のことと思いましたが、今日まで九百九十九年ここに住みつき、年に一人ずつの人を呑んで、人々の嘆きを一身に受けていました。その報いでしょうか、私の鱗の下に九万九千の虫が棲み付き、我が身を傷めるその苦しみは何と喩えようもないほどのものでした。とてもつらいことでありました。このような苦しみの時に、あなたのような尊い姫君に巡り会えたことは、ただただ仏様のお引き合わせでしょう」と、この上なく喜びました。
 さよ姫は大蛇のこの様子をご覧になって、「これ、大蛇よ、私は大和の国の者ですが、恋しい土地は大和です。奈良の都にお母様がただ一人おいでですが、まだご存命でいらっしゃるのか、こればかりが気がかりなのです。ああお母様が恋しいこと」と、身を揉んでお母様を恋しがってお泣きになる、そのお気持ちがお気の毒です。
 大蛇は姫君のこの言葉を承って、「それでは、あなたの故郷は大和でいらっしゃるなら、私が大和まで届けて差し上げましょう。ご安心ください、いかがですか、姫君」と申しました。さよ姫はとても喜んで、「しばらく待ってください、大蛇よ」と言って太夫の所へ来ましたので、太夫も奥方も、これはいったいどういうことかとあきれるばかりで、眼前のことが実際に起きていることと思えず、「どういうことで大蛇の口を逃れてこちらにおいでになったのか、どうしてどうして」と言います。
 姫君はこの言葉をお聞きになり、今回の出来事の一部始終を説明されますと、太夫夫妻はとても喜びました。太夫は、「ところで姫様、そんなに奈良の都へお帰りになりたいですか。ただただここにお留まりください。どちらかの大名に輿入れをおさせしましょう。姫君いかがでしょう」と申します。
 さよ姫はお聞きになり、「それは有り難いお話です。この度のお二方からいただいたお情けは、決して忘れるものではありません。ですが、私は大和の国の者でございますので、まずは故郷へ帰り、母に対面をして、またこちらへ参りましょう。今はお別れいたします。ごきげんよう」と仰って、つらい思いをした陸奥の国から出られることは何よりも嬉しいと、そのまま池のほとりへとお下りになり、「さあ、大蛇よ、私を故郷へ送っておくれ」と仰います。
 大蛇はこれを聞いて、「それではお送り申し上げましょう」と、姫君を自らの頭の上に乗せて池の底へと入ると見えましたが、またたく間に、大和の国で名高い、奈良の都の猿沢の池の水面へと浮かび上がり、池のほとりに姫君を下ろして、「おいとまいたします、さようなら」と言って、それから大蛇は竜の形となって、天へと上って行きました。もう後へ返らずに竜が去るということで、この池の名を猿沢の池ということは、この時から始まったのです。
 さよ姫はこの竜が天に上る様子をご覧になって、今はまた大蛇との別れが悲しくなって、心細くなっていらっしゃいました。大蛇はそれからすぐに、壺坂の観音様と祀られて、人々をお救いになられました。さて、それからさよ姫は、奈良の都の中をゆるゆると進まれ、松谷へとおいでになり、昔住んでいた建物の中に入って、あちらこちらとご覧になると、屋敷を囲む塀も建物の軒も壊れ果てていて、お母様はここにおいでにならず、屋敷の中にはただお母様を呼ぶさよ姫の声が響くばかりです。
 さよ姫はこの様子をご覧になって、ああ情けないことだなあと、建物の中から外にお出になり、近所の人々に近寄って、お母様の行方をお尋ねになります。近所の人々が言うことには、「実は姫様、お母様はあなた様がおいでにならなくなってから、夜明けから日暮れまで一日中、ああ姫が恋しいとお嘆きなさって、間もなく両眼を泣き潰して、どちらとも判らず屋敷をお出になり、行方知れずになられました」と言います。
 さよ姫はこの言葉を聞いて、今のことは夢か現実かと、母君の姿をあちらこちらとお探しになられましたが、お母様の行方の手がかりはありません。それでも、巡り会えたのは親と子の縁なのでしょうか、お気の毒にもお母様が袖乞いをなさっていらっしゃいました。土地の子供たちが口々に、「松浦の狂い者、こちらへ来い、あちらへ行け」と言い、子供にまでからかわれていらっしゃいます。
 さよ姫はこの母上の姿を夢に見たかのように思い、母上にするすると走り寄って、しっかりと抱きついて、「これ母上様、さよ姫がここに参っております」と涙を流しながら申し上げます。母上はこれをお聞きになり、「さよ姫とは誰のことじゃ、これこの娘、私は昔松浦谷という所にいた時に、さよ姫という娘を一人持っていたが、人買いが姫を欺して連れて行き、行方知れずになったが、姫はもうこの世に生きてはいない者じゃ。目の不自由な者の杖に打たれても、私を恨むではないぞ」と。杖を振り上げて、周りに振り回しましたので、さよ姫はますます悲しくなって、大蛇が授けてくれた竜宮の如意宝珠を取り出して母上の両眼に押し当てて、「善きことあれや、眼がはっきりとと見え、治りますように」と、二、三度お撫でになると、母上の両眼はぱっと開いて見えるようになりましたので、母上様はこれはこれはと仰るばかりで、二人の喜びはこの上ありません。
 さて、この後にさよ姫は、お母様と一緒に、故郷の松谷へとお帰りになりますと、以前に仕えていた人々があちこちから集まってきて、誰も彼もが,私めは再び奉公いたしましょうと言って、多くの人が家来になりました。屋敷は次々と建物を並べるような豊かな暮らしになりました。さよ姫は奥州へと使いを出して、太夫夫妻をお呼び寄せになり、多くの宝を授けました。そしてまたこの太夫夫妻を家の家来として頼りにし、日ごと、月ごとに富み栄え、ますます豊になってゆきました。この家は、再び松浦長者という名をお継ぎになりました。これはただ、親孝行の気持ちを神仏が汲んでくださったものに他なりません。
 それから年月が過ぎて行きまして、さよ姫は八十五歳になって大往生をなさいました。その時に花が降り虚空に音楽が聞こえて、過去・現在・未来の三世の諸仏がお迎えに来られ、西の方には紫の雲が棚引き、すばらしい薫りが漂って、西方弥陀の浄土へとおいでになりました。人々はこの様子をご覧になって、このようなことはめったにないことだとあれこれと評判をしたのです。
 さよ姫はこの後、近江の国、竹生島弁才天と祀られました。かつて、大蛇に縁を結ばれたことがありましたので、竹生島でのお姿は頭上に大蛇をお載せになっているのです。この竹生島という島は、東西南北ともに開けているので、十方山とも申します。夜の間に出来た島なので、明けずが島とも伝えています。竹が三本生えていますので、それで今日まで竹生島とも申します。
 昔も今も、親に孝行する人は、この素晴らしい結末を決して疑ってはいけません。親不孝の者は、いかなる神仏も守ってはくださいません。現在生きている親には無論こと、親が亡くなった後までも孝行を尽くさなくてはいけません。また、この弁才天は女の人をお守りくださるので、女の人は我も我もとお参りになり、竹生島へとお参りしない人はいないのです。親のために身を売った姫の物語、はるか昔から今の代までも、めったにないことだと、感心しない人はいません。