信太妻参考資料 江談抄(阿倍仲麻呂と吉備真備) 福福亭とん平の意訳

信太妻参考資料 吉備入唐の間の事(江談抄 第三の一)

 安倍保名の七代前の祖先の阿倍仲麻呂吉備真備との間のことについて、『吉備大臣入唐絵巻』がありますが、この絵巻は詞書が欠けていて詳しく知ることができません。この話は平安後期の大江匡房(1041~1111)の談話を筆記した『江談抄』に詳しく出ていますので、参考資料として意訳します。

   

   吉備真備の渡唐と幽閉
 吉備真備大臣は唐に渡って学び、諸学、芸能を広く理解し、とても聡明でありました。唐の人たちは追い越されてしまい、口惜しい気持ちを持っていました。密かに「我々は安心してはいられない。普通の事で負けてはならん。日本国の使いの彼が来たら、高殿に住まわせよう。この計画は事細かく知らせてはいかん。また、あの高殿に入った者は、ほとんど生きながらえることはできない。だから、まずはあの高殿に登らせてやろう。むやみに殺すとまずいことになるだろう。また、このまま日本に帰らせるのもよくない。このままこの国にいさせると、我々が恥をかくことがあるだろう」と相談がまとまりました。そこで真備を高殿の部屋に登らせると、風が吹き、雨が降り、鬼がやってきました。

   真備、鬼と対面
 真備は身を隠す秘法をしたので、鬼にはその姿が見えません。真備が、「何者だ。私は、日本国の使いである。国に関わりのあることには誰も介入できぬ。鬼のお前は何を言うのか」と言うと、鬼は「お目に掛かれて嬉しい。私も日本国の遣唐使であった。あなたとお話をしたい」と答えます。真備が、「それならば入りなさい。ただし、鬼の形を改めて来るのが良かろう」と言う言葉に従って、鬼は一度立ち帰って、正式な衣冠を着けて出て来たので、真備は対面しました。
 鬼がまず、「私もまた遣唐使です。私(実は阿倍仲麻呂)の子孫の安倍氏の者はどうしているでしょうか。長い間この事を聞きたいと思っているのに、今まで叶いませんでした。私は大臣(実は留学生)でこの地に参りましたが、この高殿に登らされて食べ物を与えられないで飢え死にをしたのです。その後私は鬼になりました。この高殿に登る人を傷つける気持ちはないのですが、登ってきた人が自ら体を悪くするのです。このように対面して、日本国の様子を聞こうと思うのに、答えをしないで死んでしまうのです。あなたにお会いできるのは、私の喜びとするところです。私の子孫は、官位を得ていますか」と言います。
 真備が聞いて、阿倍の誰彼の官位はこれこれと、子孫の七、八人ほどの様子を伝えると、鬼はとても感動して、「その事を聞いてこの上なく嬉しいです。お聞かせいただいた御恩返しに、この国の事をあらいざらいお伝えいたそうと存じます」と言います。真備はとても喜んで、「まことにありがたいことです」と答えます。夜が明けて、鬼は帰って行きました。
 翌朝、唐人が高殿の扉を開いて食物を持ってくると、真備は鬼に害されることなく、生きながらえていました。唐人はこの様子を見てますます不思議に思って、「あり得ないことだ」と言いました。

   真備への第一の難題ー『文選』を読め
 その夕方、鬼がまた来て、「この国の官人たちが協議して、日本の使いの才能は不思議だ。書物を読ませて、その読み違いを笑ってやろうという陰謀をしています」と伝えます。真備は「何の本です」と聞きます。鬼は「この国のとても読み難い古い書物で、『文(もん)選(ぜん)』という名で全部で三十巻あり、多くの人々の著作の精髄を選び集めたものです」と答えます。その時、真備が、「この本を読むところを聞いて私に伝えてくださいますか、いかがです」と言うと、鬼は、「私にはできません。あなたをお連れして、その本を講義しているところでお聞かせするのはどうですか」と答えます。真備が「扉をぴたりと閉められています。とても出ることはできません」と言うと、鬼は「私は自由自在に飛ぶ術を心得ています。お連れして聞こうと思います」と言って、高殿の扉の隙間から出て、二人で『文選』の講義をしている場に行きました。
 真備は、唐の皇帝の宮殿で一晩中三十人の学者に講義を聞かせているのを聞いて、鬼と共に高殿に帰りました。鬼が「聞いて判りましたか、どうです」と聞いたので、真備が、「すっかり聞いて会得しました。古い暦が十巻余り手に入れられますか」と言うと、鬼はすぐさま請け合って、暦十巻を持って来ました。真備は暦を受け取って、『文選』上帙の一巻のうち、あちこちを三、四枚ずつに書いて持っていました。二、三日経つと、真備は全部暗誦してしまいました。
 学者が一人、勅使として、従者に食べ物を持たせ、『文選』を高殿に運ばせて、真備の学才を試そうとすると、高殿の中には、『文選』の文章が書かれた暦の切れ端が散らして置かれていました。勅使として来た唐人はこれを見て、不思議だと思って、「この文章は他にもありますか」とさらに求めると、真備は「たくさんあります」と言って与えます。
 勅使は驚いて宮殿に帰って、このことを皇帝に伝えると、皇帝は「この書は、日本にもあるのか」とお聞きになりますで、「この書は出来上がってから長い年数を経ています。『文選』と名づけて人々が皆、よく口にする言葉として暗誦しているものです」と言います。唐人が、「この書はこの国のものです」と言うので、真備は「照らし合わせてみよう」と言って、三十巻を全部借り受けて書き写させ、日本へと『文選』を伝えさせました。

   真備への第二の難題ー囲碁の勝負
 また鬼が、「唐の人達が相談して、『文に対する才能はあるといっても、芸能の面は必ずしも優れていることはなかろう。囲碁で試してやろう』と言って、白の石を日本に、黒の石を唐になぞらえて、『この勝負で、日本からの使いを殺す方法を考えたい』」ということを聞いてきて、真備に告げました。
 真備は、囲碁のやり方を尋ね聞き、高殿の格子に組んだ木の目を数えて、三百六十目(碁盤の目は十九掛ける十九で三百六十一目)を数え、別に九つの聖目(碁盤の目の上に記された九つの点)を確認して、引き分けになる形を考えている間に、唐側は囲碁の名人たちを選び集めて囲碁を打たせます。引き分け勝負なしで打ち終わった時、真備は密かに唐の分の黒石一つを盗んで、飲み込んでしまいました。改めて勝ち負けを決めると、唐が負けてしまいました。唐人たちは、「不思議なことよ、とても怪しい」と言って、碁石の数を数えると、黒石が足りません。そこで占ってみると、「盗んで飲んだ」という卦が出ました。真備に尋ねて争うところに、「腹の中にある」という卦で、それなら下し薬を飲ませようと、呵(か)梨(り)勒(ろく)丸(がん)を飲ませましたが、真備は下剤を止める法を行って石を出すことをしませんでした。とうとう真備の勝ちになりました。このことで唐人達は大変怒って、食事を与えなくなりましたが、毎晩鬼が食物を運ぶことが数か月になりました。

   真備への第三の難題ー『野(や)馬(ば)台(たい)詩(し)』の解読
 そうしたところに、また鬼が来て、「今度また企みがありますが、今度は私が手助けができません。鬼や霊力のある者が告げるのではないかと、智を供えていて名高い秘密の行法を行う僧の宝志和尚に命じて、何者も入れない結界を作らせておいて、文章を作ってあなたに読ませようとしています。どうしようもありません」と言います。
 真備は方策がないまま過ごしている時に、思った通り、真備を高殿から下ろして、皇帝の前でその文章(野馬台詩)を読ませます。真備は目がくらんで、この文章に目を向けても、字が見えません。真備は日本の地に向かって、しばらくの間日本の仏神、神は住吉大明神、仏は長谷寺の観音、に、この苦境を助け給えと祈ると、目がとてもはっきりと見えるようになって文字だけは見えますが、読み下せません。そこへ突然、蜘蛛が文字の上へ落ちてきて、糸を引いて文章とするのを見て、読み通すことができました。
 それで、皇帝も文章の作者の宝志和尚もますます驚いて、元の通り高殿に登らせて、食物を全く与えないで殺してしまおうとして、「今から後は、高殿の扉を開いてはならぬ」と命じます。鬼はこの様子を聞いて吉備に告げました。

   真備の反撃ー日月を封ずる
 真備が、「これはひどい事だ。この唐の国に、百年以上前の双六の賽を入れる筒、賽、盤があれば持って来てください」と言うと、鬼は「あります」と言って、手に入れて、真備に渡しました。筒は棗、盤は楓(ふう)でできています。賽を盤の上に置いて筒で覆うと、唐の国の日月は封じ込められて、二、三日ほど現れなくなって、皇帝から一般の人に至るまで国中が驚き騒いで、天地を動かすほどのわめき方でした。日月の消えた原因を占わせると、術に通じた者が封じて隠したのであろうという卦がでました。その者のいる方角を示すと、真備のいる高殿に当たります。
 早速宮廷の使いが真備に尋ねると、真備は、「私は知らぬ。無実の私をひどい目に遭わせるので、先日、日本の仏神に祈ったから、もしかして仏神が自然に感じてくださったのではなかろうか。私を日本に還せば、日月が必ず現れるであろう」と答えます。そこで宮廷では、「真備を帰国させるのがよい。高殿の封印を早く開け」と決まりました。そこで真備が賽に被せていた筒を取ると、日月が同時に現れました。それで、真備はすぐさま帰国したということです。
 以上の説話を語った大江匡房公が、「この出来事は、私は、どこかの書で詳しく読んだということはないけれども、今は亡き外祖父の橘孝親朝臣が、ご先祖から語り伝えられていると話されたのである。それはまんざら根拠のないことでもない。ほぼ、書物に見いだされることもあるようだ。日本で名を挙げた功績のある方は、吉備真備大臣ただ一人である。『文選』、囲碁、『野馬台』が日本に伝わったのはおの大臣のお蔭である」と申されました。

追記 登場人物の阿倍仲麻呂は683年生、770年没、吉備真備は695年生、775年没で、717年に、一緒に留学生として唐に渡っています。共に優秀で、『続日本紀』には「我が朝の学生、名を唐国にあげし者、ただ大臣(吉備真備)及び朝衡(阿倍仲麻呂)二人のみ」とあります。同時代の人ですから、この説話のようなことは起こりえないのですが、『吉備大臣入唐絵巻』という絵巻にもなり、古い時代から広く世に知られていますので、一つの物語としてお伝えします。
 『江談抄』第三はこの後、二「吉備大臣の昇進の次第」、三「安倍仲麿歌を読む事」という話を載せています。三の「安倍仲麿歌を読む事」には、「霊亀二年、遣唐使と為り、仲麿、渡唐の後、帰朝せず。漢家の楼上において餓死す。吉備大臣後に渡唐の時、鬼の形に見(あらは)れて、吉備大臣と言談して唐土の事を相教ふ。仲麿は帰朝せざる人なり。」という、一と同様の内容が記されています。