信太妻 5 福福亭とん平の意訳

信太妻 ◎第五
 道満法師は、宮中の占術競べに負けて、日々怒り恨む心が増し、家来を呼び寄せて、「これ、お前たち、この度、わしが清明との占術の勝負に負けたことは、あまりに奴をあなどって思い上がり、思いがけない恥を搔いてしまった。もともと、奴らはわしの弟の敵であることもあって、このままにしておくことはできない。先に保名を討つのが良い。ただし、考えなしに討つと、こちらにも災いが来るものだ。とにかく計略を巡らして討つのが一番だ。どのような策が良いか」と話します。家来たちはこの話を聞いて、「ごもっともなことです。今般のことは我々までも口惜しゅうございます。とにかく、計略が一番です」と申し上げます。道満はこの言葉を聞いて、「良いことがある。天皇様からお尋ねのことがあるので、今日の夕方に、わしも清明も共に宮中に参内するのである。出かけた後に、夜になってから天皇様のお使いに扮して、天皇様からのお召しである、急いで参内せよと騙して、一条の橋の下に手勢を潜ませておいて、その橋板を引き外して保名が落ちるところをいっせいに襲いかかって思い通りに殺して、何者がやったのか知れないようにしよう。もちろんわしは清明と一緒に宮中にいるのだから、疑いが掛かることはない。保名を殺した後、清明も計略で殺してしまおう。この考えはどうだ」と言います。家来たちは、「それはこの上ないご計略です。もう日が暮れるでしょう。その用意をいたしましょう」と答えます。道満は喜んで、「それならば、山下伝次は才知が優れているから、その方が勅使となる支度をせよ」と命じます。山上伝次はかしこまって内に入り、すぐに勅使の装束に改めて出て来ると、道満はこれを見て、「おお、よく似せたぞ。もう出仕の時になったので、わしは宮中へと参内しよう。皆の者は時を計って出て参れ」と、保名を討つ計略の用意を命じて、道満自身は何気ない顔で宮中へと出かけたのは、恐ろしい企みでございました。
 さて一方清明は、天皇様からのお呼びであるということで、すぐに参内をいたします。屋敷では父保名が家来たちを集めて、あれこれの話をしているとところに、道満の屋敷から例の偽勅使が来て取り次ぎを呼んで保名に対面して、「天皇様からのお言葉です。そなたたち親子に命ずることがあるり、現在、清明は御所に来ているので、そなたも急いで参内せよとの仰せです」と伝えます。保名は謹んで承り、「程なく参内いたします」と答えて勅使を帰し、供の者数人を連れて、すぐさま屋敷を出ました。するとすぐに一条の橋に差し掛かり、中央まで渡った時に、下から橋板を引き外すと、保名は空中からどしんと落ちます。隠れていた道満の家来たちがどっと重なり合って打ち掛かって、保名の家来を皆斬り伏せました。保名は武芸に優れた強者ですが、橋から落とされたため手足を働かすことができず、「ええ無念じゃ、何者だ。堂々と名を名乗って止(とど)めを刺せ」と言います。道満の家来はこれを聞いて、「聞きたければ聞かせてやろう。我らは芦屋道満様の討手であるぞ」と向かい合って、保名をずたずたに斬り刻み、やったぞと喜んで、そのままその場を去りました。ここ一条の橋はもともと人通りのない町外れのことなので、この凶行を一人として知る人も無く、そのままにその夜が明けたので、方々から鳶や烏が集まって、保名の死骸をさんざんに引き裂き散らして、肉をくわえて飛んで行く鳶や烏もあり、また数匹の犬が手足や股を食い裂いて、あちらこちらへとくわえて去って行ったのは、目も当てられない状況でした。
 このことがあった一方で、清明は、日暮れから御殿に参上していて、何事でも察知できる天性を持ってはいましたが、定まっていた運命のため、悲しいかな保名が殺されたことを知らず、明け方になって屋敷へと戻ります。一条の橋に差し掛かり、橋を見ると中央の橋板が落ちています。不思議だと橋向こうを見ると、橋の上に疵を受けた怪我人がいます。その者が清明を見ると、「私めは、家来の五藤太でございます」と、苦しそうな声を上げました。清明は、これは、と驚いて、「どういうことで、そのようになったのだ」と問います。五藤太は「実は、このようになったいきさつというのは、日が暮れてから保名様に天皇様の宮中へのお召しのお使いが来ましたので、お供をしてこの橋を通る時に、何者ともわからぬ者が待ち伏せをして橋板を落として斬りかかり、保名様もこの通り亡くなられてしまいました」と清明に告げます。「ああ、これは、これは、何ということだ。ええ、この悪事は道満の奴めの仕業であろう。しかしながら、確かに奴の仕業だと決めつけることもできない。ええ、ままよ。私ほどの術を持った者が、父親を闇討ちにされ、このままのうのうとしてはいられない。まことにまことに、伯道上人様のお告げに、仮に前世から定められた寿命が尽きた命であっても、一度は間違い無く蘇ること疑いなしと教えられたのはこの時のためなのである。今は伯道上人のお力にすがり、お教えを受けた元通りに生き続けるという生活続命の法を行って、ああ、何としても父上を蘇らせよう。私の一生の大願をかけるのは、まさに今この時である」と言って、屋敷へ家来を走らせ、すぐにそのまま橋の上に、保名を蘇らせる祈りの壇を飾り付けました。
 蘇らせるためとして、鳶や烏が保名の体を引き散らし、五体はばらばらになっていましたが、清明は力を尽くしてそれを取り集めて、壇の前にきちんと置きました。さて、祈りの壇には、五色の紙でできた幣を切り掛け、灯明をたくさん灯し、供物を供えて、清明は壇を設けてある場に上がり、 南無大聖文殊菩薩様、一度結んだ師弟の縁によってお力を添えてくださいませと心の中で祈って御幣を取り上げ、「南無日本大小の神祇、ただ今こちらにおいでください。まず、上天では梵天帝釈、下天では四大天王、下界の地で、伊勢は神明天照皇太神、外宮、内宮八十末社、川下に下がって、熊野に三つの御山、滝本に千手観音、神の蔵には竜蔵権現、我が祈りをお受けくださいませ」と、鈴を取って振り鳴らし振り鳴らし、「葛城七大金剛童子、子守勝手の大明神、三輪、竜田、春日の明神、八幡は正八幡、稲荷、祇園、賀茂の社、高い御山の愛宕山大権現」と呼びかけ、また錫杖を取って振り立て振り立て、「坂本山王二十一社、打下に白髭の大明神、駿河の国に富士浅間、ことに摂津の国の住吉、天王寺聖徳太子、河内の国には恩知、枚岡、誉田の八幡、また格別に崇め申し上げますのは摂津の信太の明神、そして日本全体の諸々の神様、諸々の仏様、お招き申し上げます。仮に、決められた寿命であると言っても、今一度生き返らせて下さいませ。それが叶いませんでしたら、只今すぐにこの清明の命をお取り下さい」と、全身全霊をあげての行をして、心の底から祈りました。仏様も神様もこの清明の祈りをお受けになられたのでありましょう。不思議にも、大小の肉片をくわえていなくなった近辺の犬や、鳶や烏が肉や腕をくわえて戻って来ました。清明はこれに力を得て、御幣、鈴、錫杖を順に取る手にますます力を込めて祈ります。このようにして行が終わって、保名の体は両足、胴、腕が一つになれば、すぐに顔色が元に戻り、意識も回復して、もともと通りの保名となりました。清明は壇から跳び降りて、真っ直ぐに保名に抱きつきますと、保名は夢を見ているような顔付きで、これは一体どうしたことかと思っているだけです。そこで清明が、これまでのいきさつについて保名に訊くと、保名は騙し討ちをされたことを細かく語って、「道満の奴に騙されて、むざむざと討たれたのに蘇ることができたのは、仏様神様のお力添えもあり、定まった寿命で死んだのではないということもあるが、ただただそなたのお蔭だ」と清明に手を合わせて拝みながら言いました。清明は保名の話を聞いて、「やはり、私が推察した通りでありましたか。この上は一刻も早く道満の奴を討ち取って、我らの恨みを晴らしましょう」と言って屋敷に帰りました。一条の戻橋という言葉の起こりは、この蘇りからです。この保名が蘇りをしたありさまと清明の法力は、前代未聞のことと、感心しない者はありませんでした。
 さて、お話変わって、宮中に公卿殿上人一同が揃って出仕しているところへ、道満法師が参りました。天皇様から、「今日はどうして清明が来ないのか」とのお言葉がありました。道満はかしこまって、「左様でございます。清明は思いがけないことで父を失ってしまいました。恐らく、死の穢れのために身を慎んで参内を控えたと推察しております」と答えます。公卿殿上人がこの答えを聞いて、さてさて保名が病気であるとは聞かなかったのに、気の毒なことだ」と話しているところへ、ほどなく清明が参内しました。御前の人々がご覧になって、「やや、清明はなぜ参らないのかというお尋ねの言葉があったのについて、父保名が亡くなったとのことを聞いた。身内の死の穢れのある身なのだから、早々に帰って、親を弔え」と皆々からの言葉がありました。清明はこれを聞いて、「これは思いも寄らないお言葉ですな。いったいどうして、父が亡くなったのに参内いたしましょうか。さて、どなたがそのように申し上げたのでしょうか」と答えます。その時に道満が進み出て、「これ清明、保名が亡くなったことは、わしが申し上げてある。やれやれ、そなたは、何とかしてたゆまず御所の御用を勤めようとして、実際に亡くなった親を生きていると噓を作り上げて、死の穢れのある身を気にしないでこの殿上の間にいることは、穢れだけでなく、そなたの身に罰が当たるであろう。さっさとお帰りなさい」と言います。清明はこの言葉を聞いて、「さては、あなたが告げたのですな。それでは、私の父が、どのようにして死んだと申し上げたのか」と争います。道満はとても見下した態度であざ笑いながら、「やあ馬鹿なこと、保名が亡くなられたことは知らない者はない。ああ、なるほど。保名が殺されても、殺した相手が知れず、敵を討つことができないことを恥ずかしく思って、お隠しになっているのだな。それにしても死の穢れのあるそなたの身なのだから、とにかくさっさと屋敷に帰って、どのようにしたら敵を討ち取れるかの占いをじっくり思案なさい」と言います。清明はこの言葉を聞いて、「いや、私は親を失ってはいないのだから、別に敵を取らなければならないことはありません。さて、あなたは何としても、保名は亡くなったとの仰せですが、万一只今保名がここへ出て来た時は、あなたはどうなさるのですか」と言います。道満は大声で笑って、「これはおかしいこと、死んだ者がもう一度この世に出てくるものならば、私の二つと無いこの首をあなたに差し上げよう。また出て来ない時は、そなたの首を取るぞ。さあ、保名を出せ、出せ」と、勢いかかって言います。清明は聞いて、「おお、承知した。恐れながら申し上げます。先程からの争いを、天皇様に申し上げてくださいませ。父がここに姿を見せなければ私の首を道満へ渡し、また保名が出れば道満の首をこちらに貰い受けることでございます」と頼みます。人々が、「これはめったにない争いであるな。とやかくは言えない」と言っている時、清明が大きな声で、「これ、道満よ、確かに首を賭けたぞ、忘れなさるな」と言うと、道満は、「忘れるものか、さっさと保名を出せ」と答えます。清明は、「おお、分かっている。もし、父上、急いで御前においでください」と呼びます。保名はすぐさま出てきます。道満はとても驚き、さっさとその場を立ちのこうとします。これを六位の蔵人が押さえて止めます。その時保名は、これまでのいきさつ、つまり、偽の勅使に騙されたこと、また討たれた後に蘇った様子、そのほか、道満の弟の悪右衛門が保名の父保明を討ったことなどのかれこれを一つ一つ細々と申し上げました。天皇様からは、「そなたたちの申すことはもっともである。ああ、清明は、とても普通の人間ではあるまい。そこで、そなたに道満の身柄を渡すものである。思う通りにしてよろしい」というお言葉が下りました。保名と清明は「ありがとうございます」と御前を退出して、道満の首を打ち落としました。清明は以前の位に加えて、四位になり、主計頭、天文博士の役に就き、家は栄華に栄えて、子々孫々までその知恵が伝わりました。清明は間違いなく文殊菩薩の生まれ変わりであります。昔も今もこの先も、このようなことはないと、感心しない者はありません。(完)