落語のひととせ 14 冬の部4

    餅搗き                        (尻餅、狂歌家主)
 正月が目前となり、餅搗きをする時期になりました。二十九日に搗く餅は、九が苦につながるところから、「苦餅」と言われて嫌がられました。餅を搗くときには職人を頼み、ご祝儀を出しますから、餅搗きも縁起の行事と言えそうです。
 普段は正月用に切り餅を買ってきてすませているのですが、一度は家で餅を搗いてみたいと神さんに言われましたが、長屋住まいの懐ではとてもそんなことはできません。せめて気分だけでも味わって、隣近所を驚かせてやりたいと、亭主は考えました。
 冬の寒さが厳しい翌日の明け方、亭主は手にも履物を付けて四つん這いになって足音を立て、高い声や低い声を出して、大勢が入ってきた様子を作り上げました。お神さんは少し呆れて見ていました。いよいよ餅搗きです。「おい、尻を出しな」「何だよ、朝っぱらから」と少し色っぽい会話になりましたが、お神さんの尻を出させました。そこを手を丸めて叩くと、餅搗きと同じ音が長屋に響きました。お神さんは自分が望んだ餅搗きですから、痛いのをじっとこらえ、ようやく一臼搗き上がりました。お神さんは寒さと痛さを懸命に耐えましたが、もう限界です。「餅屋さん、あと幾臼あるの」「あと二臼で」「それはおこわで食べてください」。
 お神さんのお尻は真っ赤になったことでしょう。おこわとは、餅米を蒸した強飯のことで、もう叩かれてはたまりませんから、ここでおしまいにと頼むのです。
 おこわで思い出しました。絵巻物に出てくる男性が宮中で糊付けされたごわごわした衣装を着ていますが、あの衣装を強装束(こわそうぞく、またはこわしょうぞく)と申します。浴衣や昔の勤め人のワイシャツも糊が付けられていました。糊の効いたという言葉も遠くなりました。軟らかい服地の衣装は、萎装束(なえそうぞく・なえしょうぞく)と申します。
 さて、こちらも餅は搗けない熊五郎家、餅をお神さんに買いに行かせました。そこへ大家さんが家賃の催促にやって来ました。熊五郎は、大家さんの好きな狂歌に凝ってしまって、稼ぎがおろそかになりましたと言い訳をします。人が好きな物でごまかすのではなかろうな、どんなのを作ったと言われ、とっさには出ないのでいいかげんな話をしていましたが、やっと思い出して、「この先の三河屋へ酒を取りに行ったら番頭が、升尽くしで『貸しますと返しませんに困ります現金ならば安く売ります』と断ったんで、返歌をしました。『借りますと貰ったように思います現金ならばよそで買います』って」と話しました。そこで大家さんが、付け合いをしようと提案します。
 付け合いとは、一人が前句を出し、もう一人が付句を合わせます。前句が五七五なら付句は七七、前句が七七なら付句は五七五となります。「煤払い」のところで書いた、宝井其角と大高源吾のやりとりを一例としてご参照ください。
 「いいかい、『春の日や髪の飾りに袴着て』」と言われましたが、もともと素養がありませんから、とっさに思い出した「むべ山風を嵐というらん」と付けました。「でたらめ言っちゃあいけない」「では、『餅の使いは嬶がするなり』で」「何、春の日や髪の飾りに袴着て、餅の使いは嬶がするなり』、それじゃあ、上にも下にも付かないじゃないか」「へえ、付(搗)かないから買ったんです」。
 この咄は、次に紹介する「掛取万歳」という咄の店賃を取りに来た大家と店子の遣り取りに句の付け合いの形を加えて一席として独立させた咄です。「御神酒徳利」と「占い八百屋」の違いと言い、この辺が口承文芸の自由自在なところでしょうか。
 大店なら、町内の鳶の頭も手伝いに来て、賑やかに餅搗きをしたことでしょう。冬の部2の「木枯らし」の項で紹介した横山町の鼈甲問屋の主人が文七を連れて、左官の長兵衛の家に礼に来た時のことです。主人が、文七は身寄りがないので、文七の親代わりになってほしいと願います。さらに主人は、「今後、親方と親戚付き合いをして、お供えの遣り取りをいたしとう存じます」と言います。長兵衛は「いいんですかい、こっちからはこんな小さいお供えしか差し上げられませんよ」と手で小さな○を作って嬉しそうに答えます。こんなささやかな会話で、聞き逃してしまいがちですが、餅搗きが一家にとどまらず、幸を広げてゆく行事だと感じられる場面です。

   掛取り その1         (言訳座頭、[賤ヶ岳の三本鎗]、睨み返し)
 江戸では、買物の代金を盆暮の二つの節季にまとめて払うことが行われていました。これが付け買いで、付けとは、帳面に付けておいて貰うことから起こった言葉です。売る側からすれば、たくさん売れると忙しく書くので、これで「書き入れ時」なる言葉もあるわけですが、これを客を「掻き入れ」と誤解する向きもあるようです。とにかくのんびりした商習慣ですが、それで世間が回っていたのです。この盆暮の二季のうち、大晦日は一年の締め括りで、とにかく決着を付けようと躍起になります。支払う側の中には、完済すると縁切りになるからと勝手な理屈を付けて少し残す人もいますが、受け取る側は、たとえ縁切りになってもいいから完済してほしいと願います。貸し手は、「大晦日首でも取ってくる気なり」で出掛けます。借り手はどう工面しても手一杯になれば、「大晦日首で良ければやる気なり」と居直ります。家の中で右往左往、「大晦日猫はとうとう蹴飛ばされ」ということも起こります。
  付け焼き刃で大家さんの家賃請求をごまかした夫婦、もはやこれ以上の知恵は出ません。去年、長屋の隣に住む富の市の様子を聞いていたら、大家さんが来て強硬に催促するのに対して、何かつべこべ言っているうちに、大家さんが逆に富の市を慰めるようになって帰って行ったのに驚いたのを思い出しました。あれだけの人を放っておくことはない、今年は手間賃を一分払ってでも富の市さんに頼んでみようと決めました。そこで亭主は、手間賃を都合してきました。
 富の市は手伝うことを快諾してくれ、まずは策を練ります。相手が来るのを待っていては守勢になってしまうし、相手も忙しい中をわざわざ取りに出て来るので強気で催促するだろうから、こちらから出掛けて断りを言う方が先手を打てて有利だと富の市に教えられました。
 富の市に、では、順番に歩きましょう、話は私が全部するから、お前さんは一言も口をきいちゃあいけないと言われ、亭主は大船に乗った気で歩き始めました。
 富の市は、相手によって口調を変え、米屋では強気に相手を脅し、薪屋ではさあ殺せと居直り、魚屋ではあちこち出歩いていて魚屋に度々表で会っていた亭主を実は病気だったと言いくるめ、次々と片付けて行きました。そこに、除夜の鐘が鳴り始めました。「ああいけない、家に帰らなくっちゃ」「富の市さん、せっかくここまで済んだのに、手間賃をもう一分払うから、あと二軒お願いしますよ」「いやいけない、家に帰って自分の言い訳をしなきゃあならねえ」。
 たしかに、言い訳に出掛けて行けば、借りているという弱味があっても、わざわざ出て来てやったのだと恩に着せて、強く出ることが出来そうです。その逆に、立て籠もりという手もあります。昔の咄家は経済にうといこともあり、懐が温かくなれば使ってしまうという生活で、貧乏していることが多かったようです。本名本間弥太郎、通称弥太っぺ馬楽の三代目蝶花楼馬楽は、大家の催促が厳しくなって自分の家の前に、「加藤清正蔚山(うるさん)に籠る、谷干城熊本城に籠る、本間弥太郎当家の二階に籠る」と書いて立て籠もりをしたという伝説があります。なお、馬楽には、「日本橋、銀行、賤ヶ岳の三本鎗」の題で作った、「おい、加藤、福島、この日本橋で銀行を作って長持ちさせたいが,無理だな」「なぜ」「四本(資本)足りないもの」という近代を味わわせる三題咄があります。この咄を八代目林家正蔵から聞いたのですが、どこにも記録がないので、ここに書いておきます。
 馬楽から話を戻しまして、はるか離れた別の長屋でも、大晦日をどう乗り切るかと相談している夫婦がいました。すると、「借金の言い訳しましょ」と呼んで歩く人が通ります。夫婦は顔を見合わせ、すぐに「言い訳屋さん」と呼びました。入ってきた言い訳屋さんは、時間制で、頼まれた時間内なら何人来ても同じ手間賃で引き受ける、ただし一人も来なくても手間賃はいただくという条件です。早速夫婦は頼みました。では、二人は絶対に顔を出さないでください、任せてくださいと、入り口に陣取りました。
 一人目の掛取りがやって来ましたが、表戸を開けたとたんに厳しい顔で睨まれ、何を言っても返事をしません。掛取りが何を言っても、言い訳屋さんはただ煙草を吸うだけで、掛取りは自分の言葉が空回りをして、気持ち悪くなって次々と返ってゆきます。中には強面で、自分の後ろには多くの命知らずがいると言いますが、言い訳屋さんの睨みに負けて退散します。言い訳屋さんは、あと少しで片付きそうなところで、時間だからと帰り支度をします。「もう少しだからお願いしますよ。手間賃も用意してありますから」「いや、家へ帰って、自分の分を睨まなきゃならない」。
 出掛けて饒舌に言い訳をするのと、家にいて無言で睨み返し、目が不自由な人と、目力に物を言わせる人と、対照的な咄ですが、落ちは一緒です。どうしてこんなに似ているかと言うと、もともとは今は廃れてしまった、座頭が借金の催促をする咄がありまして、これを言い訳をさせる咄にしたらどうなるかと、座頭の言い訳の咄にし、さらに、この設定を裏返しにするような無言の咄が生まれたという次第で、二つの咄は血縁関係にあるから似ているのです。

   掛取り その2                       (掛取万歳)

 大晦日八五郎家には、例年通り借金が溜まっています。毎年夫婦で知恵を絞ります。昨年は、八五郎が死んだことにして早桶を買ってきて、その前でお神さんが座っていました。大家さんがやって来て、少ないがと言って香典をくれましたが、翌日になれば生き返るのが判っていますから、辞退していました。そのうちに八五郎が早桶の中から手を出して「いいからもらっとけ」と怒鳴ったので、大家さんは肝を潰して裸足で逃げていきました。八五郎は、その大家さんが忘れていった下駄で大家さんの家へ年始に行ったのです。そのうち腹が減ったので八五郎が芋を買いに行かせて、早桶の中で食べていたら、中から湯気が上って、「お神さん、仏様を茹でたのかい」と変な顔をされました。涙が出ないので、お神さんが脇にお茶を置いて目の縁につけていたら、「あまり泣かない方がいいよ、目の縁にお茶殻が付いてるよ」と言われました。こんな数々の失敗をしながらも、なんとか大晦日を乗り切れたのですから、心優しい人たちの世界だと思わずにいられません。
 八五郎は、好きなことには心を奪われると言うから、今年は、掛取りの好きなことを言ってうまく言い訳をすると決めました。最初は大家さんで、「今年は死んだ真似はしないようだな」と言いながら入ってきました。大家さんは「餅搗き」のところで紹介した通り、狂歌が好きです。無粋な熊五郎と違って、八五郎は感心に寄席で勉強していたので、狂歌がすらすら出ます。「貧乏をすれどこの家(や)に風情あり質の流れに借金の山」から始めて、「貧乏を」の狂歌を連発して、大家さんに呆れられましたが、そこで大家さんが、「貸しはやる借りはとらるる世の中に何とて大家つれなかるらん」と浄瑠璃の『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』にある「梅は飛び桜は枯るる世の中に何とて松のつれなかるらん」という菅丞相(かんしょうじょう)の歌をもじった狂歌を言ったので、すぐさま松王丸の台詞「女房喜べ、倅がお役に立ったわやい」をもじって、「女房喜べ、狂歌がお役に立ったわやい」と受けたら、「それなら時平(しへい・ひでえ)ことは言わねえで、来年の桜丸の咲くころまで松(待つ)王としてやろうか」「そのころまでには梅(埋め)王といたしますから」と、家賃はめでたく日延べとなりました。この遣り取りは、浄瑠璃の筋や菅丞相、藤原時平、松王丸・梅王丸・桜丸の三つ子兄弟という登場人物を知らないと、何の洒落かさっぱり通じないことになりますので、咄にも予備知識が必要です。
 次の魚屋の金さんは大の喧嘩好き、八五郎は薪を一本手元に置いて喧嘩を仕掛けます。金さんがまんまとそれに乗せられて、つい「勘定貰うまでは帰らねぇ」と言ったのを逆手にとって、「勘定払うまで動かさねぇ」と脅して、とうとう「貰ったんでもいいよ」と金さんに受け取りを書かせてしまいました。
 掛取りは次から次へと来ましたが、皆八五郎がうまく言って帰しました。最後に三河屋の主人が来たので、主人の好きな三河万歳で応対して、「いったい、いつになったら払うんだい」「ああら、百万年も過ぎて後、払います」。
 この咄は、咄家にとって得意な芸での言い訳ができるので、決まった形はありません。一般に、芝居好き、浄瑠璃好きは出てくるようです。
 芝居好きは酒屋の三河屋の番頭で、八五郎近江八景の歌が書かれた扇面で言い訳をします。この歌は咄の中では「雪はるる比良(ひら)の髙根の夕ぐれは花のさかりをすぎしころかな」となっています。咄はとんとんと進みますので流れに乗って判ったような気になりますが、この歌では「雪が止んで見える比良山の夕暮れの景色は、花盛りを過ぎた頃だなあ」と季節が変でになった意味不明の歌になっています。この歌は、近衛信尹(このえのぶただ)が詠んだ比良の暮雪の歌で、正しくは「雪はるる比良の髙根の夕ぐれは花のさかりにすぐるころかな」で、「雪晴れの比良山の景色は、花盛りの景色に勝っているなあ」という意味なのです。口承文芸の悲しさ、誰かが「花の盛りに過ぐる」を「花の盛りを過ぎし」と間違えて覚え、それがそのまま今日まで伝えられているのです。ここに書いたところで、誰も直さないでしょうが、それでも書いておきます。
 近江八景とは、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)に倣っての琵琶湖周辺の八つの景色を選んだもので、歌川広重の「近江八景」という連作の絵の中に書かれていますが、比良暮雪以外の近衛信尹の歌も書いておきましょう。
 堅田落雁(かたたのらくがん)
  峯あまた越えてこえて越路にまづ近き堅田になびき落つる雁金
 唐崎夜雨(からさきのやう)
  夜の雨に音を譲りて夕風をよそに名立つる唐崎の松
 三井晩鐘(みいのばんしょう)
  思ふもの暁契るはじめぞとまづ聞く三井の入相の鐘
 矢橋帰帆(やばせのきはん)
  真帆かけて矢橋に帰る舟は今打出の浜をあとの追風
 粟津晴嵐(あわづのせいらん)
  雲払ふ嵐につれて百(もも)舟も千(ち)舟も波の粟津にぞ寄る
 瀬田夕照(せたのせきしょう)
  露時雨守山遠く過ぎ来つつ夕日の渡る勢田の長橋
 石山秋月(いしやまのしゅうげつ)
  石山や鳰(にほ)の海照る月影は明石も須磨も外ならぬかは
 話が近江八景になりました。よく言われますが、近江八景に景色が美しい膳所(ぜぜ)が入っていません。掛取りを撃退した八五郎は銭(ぜぜ)は無し、近江八景にも膳所は無し、で落ちが付きました。

   厄払い                            (厄払い)
 大晦日の掛取りと同時進行で、一年の災厄を払い、めでたく新年を迎える行事がありました。今では暦が変わったせいで、厄払いの日が立春の前の節分にずれてしまいましたが、新しい春を迎える行事であることは変わりありません。
 歴史的に言えば、追儺(ついな)と呼ばれ、大晦日に魔を払う木である桃で作った矢を射て鬼を追い払う年中行事でした。『紫式部日記』には、大晦日の鬼遣らいの声が恐ろしく響くどさくさに、衣類を剝がれた女房がいるという記事があります。それが節分となって、市中では煎った大豆をまいて鬼を追うことになりました。大晦日には厄払いをする者が出て、なにがしかの銭と豆をもらい、めでたい文句を連ねて新年を迎える準備の手助けをしました。
 この与太郎は親孝行の与太郎ではなく、何をやっても長続きがせず、際物売りをして何とか生活をしていました。歳の市で「親代々の瘡っかき」と怒鳴ったのもこの与太郎です。少々愚かしく、売り物の名を忘れることもあり、ある日、葉唐辛子を売りに出て名前を忘れ、暑さに葉が萎れてきたので、もう駄目だと橋の上から川へと捨てたところ、萎れた葉がしゃんとし、そのとたんに、あ、うまそうな葉唐辛子だと名前を思い出したこともありました。
 今回は、叔父さんが知恵を付けて、厄払いをやらせることにしました。「銭は自分の小遣いにしても良いが、もらった豆は食べちゃいけない」「どうしてか知ってるぞ、豆腐屋に売るんだろう」「煎った豆が豆腐になるか」「焼豆腐にならあ」と口の減らないことを言います。実は、煎った豆は駄菓子屋に売って、豆板という砂糖で固めた菓子になるのです。
 それでも、与太郎は一通り教わって商売に出ました。呼び声がわからないので、ほかの厄払いの後についてまごまごして邪魔にされていました。厄払いの呼び声は、「御厄(おんやく)払いましょ、厄落とし」と一息に言うもので、歌舞伎では、『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつかい)』の川端の場で、お嬢吉三が夜鷹を川の中に落とし、「御厄はらいましょ、厄落とし」の厄払いの声がするのをきっかけに、「ほんに今夜は節分か、落ちた夜鷹は厄落し、こいつぁ春から縁起がいいわぇ」というお約束の台詞になります。
 与太郎の頭には、とにかく厄払いはめでたくするものだという叔父さんの言葉が残っています。「厄払いのめでたいの、厄払いのでこでこにめでたいの」と繰り返していました。すると、一軒の商家から声が掛かりました。「ありがとうござい、厄払いはどちらで」「厄払いはお前だ」との遣り取りがあって、座敷に通りました。そこで早速銭と豆をもらったので、そのまま帰ろうとして、ちゃんと払えと怒られました。厄払いの文句は叔父さんに口移しで教わったのですが、むずかしくて覚えきれず、書いてもらった紙を取り出しました。
 厄払いの文句は八代目桂文楽によれば、「あぁらめでたいなめでたいな、今晩今宵のご祝儀に、めでたきことにて払おうなら、まず一夜明ければ元朝の、門に松竹注連飾り、床(とこ)に橙、鏡餅、蓬萊山に舞い遊ぶ、鶴は千年、亀は万年、東方朔(とうぼうさく)は八千歳(はっせんざい)、浦島太郎は三千年、三浦の大助百六つ、この三長年が集まりて、酒盛りいたす折からに、悪魔外道が集まりて、妨げなさんとするところ、この厄払いがかいつかみ、西の海へと思えども、蓬萊山のことなれば、須弥山の方へさらりさらり」となります。正月飾りを褒め、長寿を並べたてて唱えます。これを与太郎は、「荒布(あらめ)茹(う)でたいな茹でたいな」と始め、あとはつっかえつっかえ、「親は代々狩人で」と因果物の見世物の口上までやってしまいました。東方朔が読めなくて「とうぼう、とうぼう」と言っていましたが、そのうち静かになりました。部屋を見たら、誰もいません。「ああ、道理で、とうぼう(逃亡)と言っていた」。
 この厄払いの言葉は、何かの物尽くしにすれば応用編が出来ます。記録に残っている文句を二編書いておきましょう。まずは、八代目春風亭柳枝の酒尽くしです。
「酒尽くし、けっこうですねぇ」「あぁら飲みたいな、飲みたいな」「ははぁ、めでたいなじゃねえんですね」「酒尽くしだ、飲みたいなって言おうじゃねえか。飲みたきゃ今宵のご祝儀に、酒尽くしにて払いましょ、一夜明くれば屠蘇の酒、百薬の養老酒には高砂の、上に群がる沢の鶴、下には亀の万年酒、老いも若いも若緑、気性は東自慢の男山、飲むや滝水(たきすい)年頭の、足もひょろひょろおめでたく、帰りが遅く七つ梅、ご新造さんが菊正の、胸に一物剣菱や、私が甘い味醂ゆえ、他に富久娘でも甘酒か、ほんの悋気の角樽や、堪忍(かに・燗)しておくれはよい上戸、冷酒(ひや)でないから案じます。白鹿(斯くして)心の角も取れ、丸くおさまる丸越の、寿命を保つ保命酒や、金婚まさに相澄んで、君万歳のその中にいかなる洋酒のウイスキー電気ブランが飛んで出で、妨げなさんとするところ、この白鷹が一つかみ、西の海とは思えども、酒尽くしのことならば、新川・新堀へさらぁり、さらり」「おっと、ありがとうございます。御厄払いましょう厄落とし、だ」。
 もう一つは、六代目三遊亭圓生風呂屋尽くしです。風呂屋は、江戸言葉なら湯屋(ゆぅや)ですが、風呂屋尽くしとして残っています。「風呂屋」を「湯屋」としても通じますから、時代かお客さんで言い替えたとも考えられます。
「あぁらめでたいなめでたいな、めでたきことにて払おなら、一夜明ければ元朝の、鶴の声する車井戸、瓶(亀)へ汲み込む若水は、ぬるけりゃ焚け(竹)よ松薪を、熱けりゃうめ(梅)に鶯の、ほう…けっこうな湯加減に、中は湯上り(二上り)三下り、粋な小唄のその中へ、いかなる垢人(悪人)来たるとも、この三助が搔いつかみ、西の海へと思えども、風呂屋尽くしのことなれば、柘榴口へ、ざぶぅり、ざぶり。背中洗いましょう垢落とし(御厄払いましょう厄落とし)」。
 厄を払って、さっぱりしました。

   福茶                              (芝浜)
 大晦日、除夜の鐘が鳴り始め、新年まであと少しです。そこで口にするのが福茶で、「うまくねぇもんだ」と言いながら飲んでいます。江戸訛りでは「ふくぢゃ」と言い、茶の葉以外に、海藻、大豆、梅干等が入っています。昔は海藻の香りが強かったのですが、近年はお茶の香りが主になっています。一年を無事に過ごせたことを振り返り、新しい年が良い年であるようにと祈るお茶です。
 魚屋の勝五郎は、振り売りの魚屋で、魚を見る目は間違いなく、魚勝の魚は違うねと評判が良いのですが、酒が好きで、昼に一口飲んで魚を臭くしたり、だんだん評判が落ち、とうとう酒におぼれてどうにもならなくなりました。しばらく商いを休んでいましたが、女房がおだてすかしてやっと仕事に出しました。出るまでは、桶の箍が弾けているのではないか、庖丁が錆びているんじゃないかとくずぐず言いましたが、商売道具の手入れはきちんとやってありましたので、魚河岸に出ることになりました。
 この頃、日本橋の魚河岸よりも小規模な河岸が芝にあり、目の前の浜で獲れた活きの良い魚を狭い範囲に売って歩いていました。朝だけでなく、夕河岸と言って、一日二回魚が上がりました。河竹黙阿弥の歌舞伎『新皿屋敷月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』の魚屋宗五郎の台詞には、「魚は芝の生け物を、安く売るのでじきに売れ」とあります。
 少し酒の残る頭で海岸までやってきた勝五郎は、折から鳴り出した鐘を聞いて、女房が一刻早く起こしたことに気付きました。今から戻ってもすぐ出直さなければいけないので、ここで待とうと波打ち際で顔を洗いましたら、汚い革財布が落ちていました。何が入っているのかと拾ったら、見れば金がたっぷり入っています。勝五郎は財布を懐に入れて家に走りました。家で数えてみれば、中には金が五十両、これで遊んで暮らせるとはしゃぐ勝五郎に、女房は酒を飲ませて寝かしました。
 女房の仕事に行ってくれと起こす声に目覚めた勝五郎、見ると女房は洗いざらしの浴衣を重ね着しています。昨日の金はどうしたと訊く勝五郎に、昨日起こしたらぐずぐず言っていて起きないので放っておいたら、昼前に起きて友達を大勢呼んで酒盛りをした、その勘定を払うためにこんな格好になったと言います。勝五郎は、それでは金を拾ったのは夢、友達を飲んだのは現実、みじめな夢を見たと愕然とします。「おっかあ、死のうか」「何言ってんだよ、お前さんが一生懸命稼いでくれたら、こんなものなんでもないよ」と励まされ、勝五郎はきっぱりと酒を断って、仕事に打ち込みました。
 もともと目の利く魚屋、河岸の人々も勝五郎の態度が改まったのを見て好意的に扱ってくれ、よその魚屋に取られていたお得意もどんどん戻って来て、逆にお客が増えるようになりました。こうして仕事に打ち込んで三年目の大晦日、今では表通りに一軒店を構える身になりました。三年前には掛取りに押しかけられてどうしようもなく、押し入れに隠れていた、みんないなくなったと思ったら、米屋が矢立を忘れて取りに帰って来て、隠れる場がないので、とっさにお神さんが風呂敷を掛けたら、米屋が出がけに「お神さん、風呂敷が震えてますよ」と言ったと思い出話をしましたが、今年はもう掛け取りは来ません。勝五郎は湯から帰って、福茶を口にしながら、「人間稼がなきゃだめだなあ」としみじみと言いました。見れば、畳も全部取り替えてあります。お神さんが全部手配してくれました。
 女房は、勝五郎に見てほしいものがあると言います。押し入れの奥から汚い財布を持ち出し、これに見覚えがないかと訊きます。どこかで見たような、と思いながら中を改めれば、二分金で五十両入っています。女房は、これは芝の浜で拾ってきた財布だ、全部話すから最後まで聞いて、それからぶつなり蹴るなり好きなようにしてほしいと言って話し始めます。勝五郎が金を拾ってきた時、どんなに嬉しかったか、でもこれを届けずに使ったらどんなお咎めを受けるか知れない、それでお前さんを寝かして大家さんに相談して届けた、もう落とし主が知れないからととっくにお下げ渡しになっていたのだけれど、今お前さんが人間稼がなきゃ駄目だと言うのを聞いて、もう大丈夫だと思って出したのだ、と言って謝ります。話の始めには怒っていた勝五郎でしたが、女房の勝五郎を思う情のこもった言葉を聞いて、女房の前に頭を下げました。
 もうお前さんは酒に飲まれることはない、これだけ話をしたら、一杯飲んでもらおうと思ってお酒を買っておいたから、飲んでくださいと、女房が酒を出します。除夜の鐘が鳴る中、至福の顔で勝五郎は酒を手にします。「いいんだな、本当に飲んでいいんだな……よそう、夢になるといけねぇ」。
 財布の中の金高は、四十二両、五十両と咄家によって違います。この金を数える時に、お神さんに「お前さん、銭(ぜに)じゃないよ、金(かね)だよ」と言わせて、笑いが起こることがあります。これは、江戸の通貨として流通していたのが、金(きん・かね)、銀、銭(ぜに)という三種があったことを知らない聞き手の不勉強によるものです。この咄では上に書きました通り、二分金が入っていたのです。基本的な両替では、金一両が銀六十匁、銭四千文です。また、一両が四分、一分が四朱、千文です。
 初代三遊亭圓朝作の「芝浜、革財布、酔っ払い」の三題咄、夫婦の情が溢れます。近年、五代目立川談志の咄が絶品であったと言われていますが、それは一つの解釈に過ぎません。咄は、聞き手一人一人が、自分の人生経験に即して好きな咄家、好きな話し方を見つければ良いのであって、評価の決めつけ、押しつけはいけません。
 かくして、除夜に鐘と共に幸せな夜が更けて一年が暮れ、また新たな良い年を迎えることになります。

 

打ち出し
 とにかく季節感のある咄を並べ、そこに連想で浮かんだ咄を投げ込んでみました。「ひととせ」と名乗りながらも、関連の咄を引っ張ってきて、脱線をして、時の流れに乗っていない形になっています。
 こうして並べてみると、当たり前のことですが、いつでも、どこでも出来るようにが基本で、季節を感じさせない咄が多いと、改めて感じた次第です。
 なお、文中にごくたまに引用させていただいた落語事典は、昭和44年初版の青蛙房版『増補落語事典』の第7版(昭和54年刊)を使いました。随分前の発行ですから、改訂されている部分もあるかと存じますが、手元にこれしかなかったもので、記述が変わっていましたら、お許しください。