落語のひととせ 8 秋の部1

   名月 その1                 (近江屋丁稚、柳田格之進)
 秋の部を名月から始めましょう。
 中秋の名月は八月十五夜です。中秋とは、江戸時代、七、八、九月が秋とされ、八月はその真ん中だから中秋という意味です。「月月に月みる月はおほけれど月みる月はこの月の月」という歌があります。この歌の月という字が八、ひらがなが十五で、八月十五夜を示すという、良く出来た歌です。
 雛祭りのところで触れた、与太郎が道具屋をやらされる時に、「叔父さんの商売は道具屋だ」と言われて「お月さんを見て跳ねるな」「何だ」「道具屋(十五夜)お月さん見て跳ねるってね」「何言ってんだ」。という遣り取りがあります。
 近江屋という商家で、十五夜に餅を搗いたところ、かなり大きな餅が出来ました。そこへ乞食が餅を貰いに来ました。こういう節句などの時には、供え物の施しをして、供え物と一緒に厄を持って行ってもらう風習がありました。江戸時代の町には、正月の万歳や獅子舞、鳥追いに始まって、年末の厄払いに至るまで、様々な厄払いが行われ、厄を引き受ける人々がいました。その施しの餅があまりに大きいので、全部やるのはもったいない、後で自分が食べようと、丁稚が半分に割って乞食に渡しました。半分の餅を見て乞食が、「十五夜に片割れ月はなきものを」と詠むと、丁稚が懐から餅の半分を出して「雲に隠れてここに半分」。
 小僧ではなく、丁稚が出てくるので、上方出来の咄のようです。残念ながら活字でしか触れたことがない咄です。
 さて今度は満月の夜が事件の発端の咄です
 柳田格之進は元は彦根藩士でしたが、実直すぎて同僚に疎まれ、わずかの事で讒言を受けて浪人しています。日々鬱々として過ごしていましたが、娘の勧めで碁会所へと行くようになり、互角の力量の万屋源兵衛と知り合いになります。そのうち碁会所ではなく万屋宅で打つようになります。十五夜の夜、万屋から月見の宴に誘われて行きます。月を見ていましたが、別に月に変わりはないので、二人で離れ座敷で碁を囲み、二番打って柳田は帰りました。
 翌日、番頭が源兵衛に渡した五十両の金がありません。これは柳田が持ち帰ったのではないかという疑いがありましたが、源兵衛は構わないと言い、柳田を疑ってはならないと言い切りました。それでも番頭は柳田を疑い、尋ねに行きます。柳田は知らないと言いますが、訴えると言われ、潔白を証明するために腹を切ろうとします。それを娘が止め、娘は吉原に身を売って五十両を作ります。五十両を返した柳田は、金が出たらどうすると聞くと、番頭は自分と主の首を差し出すと答えます。金を受け取った源兵衛が柳田に謝りに行くと、すでに柳田は長屋を引き払い、行方不明になっていました。
 年末の煤払いの日、源兵衛と柳田が碁を打っていた離れ座敷の額の裏から五十両が出ました。源兵衛が番頭から受け取って、何気なく額の裏に置いたのでした。早速柳田探しが始まりましたが、柳田の行方は杳として知れません。
 年改まり二日の日、番頭が頭を連れて年始に礼に回った帰り、湯島の坂で、立派な身なりの柳田と出会いました。柳田は故主に帰参が叶って江戸留守居役になったと告げます。番頭は金が見つかったことを告げて謝り、柳田は喜んで、翌日万屋へ行くからよく首筋を洗っておくようにと言って別れました。
 翌日、源兵衛は番頭を使いに出し、柳田と対面します。柳田は娘は吉原へ身を売った、その娘の為にも、源兵衛と番頭の首をもらいにきたと言って迫ります。そこへ使いに行ったと思った番頭が飛んで出て、源兵衛の命乞いをし、二人は互いにかばい合います。柳田は刀を抜き、碁盤を二つに切り、「目の当たり主従の情を見て、柳田の心は揺らいだ」と許します。娘はすぐに身請けされ、後に番頭と所帯を持って子ができ、後にその子が柳田の家督を継いだと申します。
 満月の夜に起こった事件ですが、碁将棋に凝ると親の死に目に会えないと言われるくらい前後が見えなくなるようです。後の「木枯らし」の項にも、碁に熱中して事件が起きた咄を紹介します。
 なお、ここには、三代目古今亭志ん朝による何の問題もなく娘が戻るという結末を書きましたが、志ん朝の兄の十代目金原亭馬生は、請け出された娘が鬱になっていて、それを番頭が看病してようやく快復した後に二人が夫婦になるという最、後に一苦労ある流れもあります。武家の娘が吉原に身を沈めたのですから病にもなろうとも解釈出来ますが、長い咄の結末、柳田の切腹を止めた娘は四か月の廓勤めに気丈に耐えたと問題なく結んでもらう方が、咄を聞いた後に明るく帰れるというものです。
   名月 その2               (大名の月見、桜鯛、盃の殿様)
 ある殿様、「これ三太夫、今宵は十五夜じゃ、お月様は出たか」「恐れながら申し上げます。殿はご大身ゆえ、月はただ月と仰せ遊ばせばよろしいかと存じます」「うむ、左様か。しからば、月は出たか」「一点の隈無く冴え渡っております」「して、星めらは」。
 大名の鷹揚さを示す小咄で、次の話と対になっています。
 大名の食事というものは贅沢で、食べても食べなくても鯛が付いてきます。最近はこの鯛を召し上がらないので膳の上のお飾り同様にして出していて、お替わり用の魚を用意してありませんでした。それが、どうした訳か一箸お付けになりました。大名の魚は、一箸で取り替えることになっています。「これ、替わりを持て」。そう言われてもありませんから、傍にいる三太夫さん、「恐れながら申し上げます。あの築山の桜の枝振りが良く、盛りになればさぞや見事かと」と申し上げると、殿様の目が庭の桜の木へ向きます。とたんに三太夫さんは鯛の頭と尻尾を持って裏返します。「これよ、替わりを」「持参いたしました」ということで、殿様はまた一箸付けます。「替わりを持て」と言われてももうありません。殿様は、「いかがいたした、もう一度桜を見ようか」。
 殿様はご存じであったということです。ここでなぜ替わりがないと叱責すると、担当者の罪になり、罰を受けなくてはならないのです。鯛一匹で家来一人切腹させてはいけません。殿様は、そこまでの教えを受けて、気を遣っているのです。
 さて、もう一席ご紹介しましょう。
 江戸から遠いある国の殿様、参勤交代で江戸に出て来ました。国元にいれば一人殿様で気ままに過ごせていましたが、江戸では登城や大名との付き合いで気鬱の病になってしまいました。大名が鬱病になると大変で、万一城中でご乱心という事態になれば、最悪の場合お家取り潰しに至る可能性もあります。殿様も心配だが、我が身の将来も心配であると、家来たちは殿様の快復のために知恵を絞ります。一般人ならば、外へ連れ出して日に当て、酒の一杯も飲ませれば発散できるのですが、殿様のことであり、周りの家来も堅物揃いで、なかなか良い案が浮かびません。
 ここに、珍斎という茶坊主がそこそこに吉原に通じていて、殿様を吉原に連れ出してはいかがでしょうかという案を出します。吉原と言えば悪所、いかがなものかと眉を顰める家来もいましたが、とにかく病気快癒が第一と医者に相談すると、泊まりはいけないが昼遊びならよかろうという許しが出ました。こういう時は、各藩に留守居役という江戸駐在の外交官がいて、吉原にも精通しているはずなのですが、この藩は堅物揃いで役に立たなかったものとみえます。それはともかく、行くのならお忍びではなく、家中全員を引き連れての本格のお成りとしました。先払いが「寄れい、寄れい」という物騒な行列です。 
 吉原に着き、花魁道中を見た殿様の目は輝きます。茶屋に上がると敵娼(あいかた)は当時全盛の花扇です。「殿さん、殿さん」と甘い声で盃の遣り取りをしてくれ、殿様はこんないい思いをしたことはなく、天にも昇る良い心地です。帰る時になりましたが、殿様はまだ満足できません。「頭(つむり)が痛む、予は病気である、薬は飲まんぞ、ウーム」とだだをこねて、とうとう泊まってしまいました。
 その後、殿様の鬱は治りましたが、それでも折に触れて病気を訴え、吉原へと通います。あまりに度々になりますと、「身持ち不行跡」と見なされてお家取り潰しになりかねませんので、家来は冷や冷やしていましたが、幸いお国入りの時となりました。別れの日、殿様は花扇の襠(しかけ)を所望して持ち帰ります。
 はるばる国元へ帰った殿様、秋の名月の夜、昨年の花扇との楽しかった酒宴を思い出して、珍斎に襠を羽織らせて吉原ごっこをしますが、物足りません。そこで花扇と盃の遣り取りをしようと思い、足の速い足軽を呼び出し、盃になみなみと入れた酒を一気に飲み、吉原まで走らせます。足軽は盃を担いで吉原へ一目散、花扇に届けます。受け取った花扇は殿様の心を思って、ほろりと涙をこぼし、こちらもなみなみと入れた盃を飲み干して、「殿さんにご返盃」と返します。
 受け取った足軽は、再び一目散、ところが、箱根の山中で大名行列の供先を切ってしまいました。本来ならば死罪は免れない罪ですが、事情を尋ねられて、「手前主の名は申されませんが」と吉原の花魁との盃の遣り取りの一部始終を語ります。すると、供先を切られた大名が、「まことに風流、大名の遊びはかくありたいもの、失礼ながら相をさせていただこう」とこちらもまた、盃になみなみと入れた酒を息もつがずに飲んでしまいました。
 かくして許された足軽、国に帰って、遅くなった訳を話すと大名が、「お手の内見事、いま一盞と差し上げて参れ」と言われ、足軽は相手が誰かわからないので、いまだに盃を担いで「えっさっさ」。
 盃の遣り取りをするのが名月の夜なので、ここに掲げました。花魁の名の扇屋の花扇は有名で、代々受け継がれています。この咄は花扇の実話としてではなく、大名の相手をする花魁の格を示すために、名妓の名を借りたものでしょうか。

   雁金                     (雁風呂、雁首<がんくび>)
 月に似合う鳥は何でしょう。都々逸ですと、「三日月は痩せるはずだよありゃ闇(病み)上がりそれに逆らうほととぎす」と言う作品があり、ほととぎすが出て来ます。この都々逸の三日月が痩せていくというのは、実は間違っていて、三日月は満月へと向かう月です、などと理屈をいうと、せっかくの風情が消し飛んでしまいますから、これ以上触れないことにしましょう。
 ほかに鳥はないかと捜すと、歌川広重の浮世絵にありました。切手になって有名になった「月に雁」があります。縦長の画面に月が表され、夜空に雁が三羽飛んでいます。そこに添えられた句は「こむな夜が又も有うか月に雁(こんな夜がまたもあろうか月に雁)」です。広重はこの他に、月夜の雁の絵を多く描いています。土井晩翠の「荒城の月」でも「秋陣営の霜の色 なき行く雁の数見せて」とあります。
 さて、咄の世界での雁を述べましょう。
 老人とお供の一行が茶店に入ってきました。そこの屏風に、松に雁が描かれているので、老人が、松ならば鶴のはずなのに不思議な絵だと見ていると、後から茶店に入って来た町人二人が、この屏風を見て、これは土佐光信の筆ではないかとびっくりしています。しかし、松に雁を描いたので誰からも評価されず気の毒だ、この絵の意味を知らない人が増えてきたが、そういう人の目は節穴だと語り合っています。それを聞いた老人は、この一行も節穴揃い、聞くは一時の恥だから、この絵の意味を聞いてみようと町人に尋ねます。
 町人は、あなた方がおいでとは知らず失礼しましたと恐縮しながら、この絵は雁風呂(がんぶろ)という故事の絵だと説明します。「雁は冬、北の常盤(ときわ)の国から日本に渡り、春帰って行きます。その時に遥かに海を渡るため、それぞれ一本の枝をくわえ、途中で疲れるとそれを海に浮かべて休み、またくわえて旅を続けます。函館に着くと、もうこの枝はいらないと浜辺に捨てるので、土地の者がそれを集めて、しまっておきます。春、雁が帰る季節に枝を浜辺に並べておいてやると、それぞれ一本をくわえて旅立ちます。その後に枝が残ると、土地の人は、今年はこれだけの雁が国内で落ちたのだと雁の冥福を祈ってその枝で風呂を立て、旅人をもてなすのです。この風習を雁風呂と申します」と言い、さらに、これはもう一隻がある一双の屏風で、そちらには函館の景色が描かれ、そこに「秋は来て春立ち帰る雁金の羽交(はがひ)やすめよ箱館の松」という紀貫之の歌が書かれていたと克明に話しました。
 これだけの咄ができるのは何者かと老人が訊くと、町人は世を憚る身なのでと答えようとしません。そこで老人のお供が、この方は、先の副将軍身と中納言光圀公であると明かしますので、町人は平伏し、自分は豪奢のとがで財産没収になった大坂の淀屋辰五郎の二代目で、大名に貸した金の残金を取りに行く途中なのだと明かします。光圀公は、それならば、一筆添えようと三百両の保証書を書いて、困ったら小石川の水戸屋敷に参れと言い残して出発しました。
 後に残った淀屋の二人、節穴という言葉で無礼打ちされずによかったとほっとします。それだけでなく、話をして三百両になるとは、「とんだ高い雁金(借り金)ですな」「いや、貸し金を取りに行くのじゃ」。
 もともとは講釈の水戸黄門漫遊記で、上方で咄に取り入れられたものです。講釈師見てきたような嘘をつきと言いますが、いくらでも問題点をつつき出すことができます。
 まず、雁風呂は、箱館ではなく、江戸時代まで「東は奥州外ヶ浜、西は鎮西鬼ヶ島」と言われるように日本の果てと認識されていた外ヶ浜(現青森県)の風習です。外ヶ浜には、親鳥が「うとう」と呼ぶと子鳥が「やすかた」と答える善知鳥(うとう)という鳥の伝説もあります。
 次に、ここでは見られない屏風の一隻にある箱館の城ですが、ここには室町時代に館が造られて、それが箱のように見えて箱館という地名になったので、紀貫之の時代には箱館という地名はなく、城もありません。もちろん紀貫之の歌は後世の誰かの創作です。
 屏風の絵解きをした淀屋は大坂の豪商で、自分の屋敷の前に橋がないので、世のため人のためを思って、自力で橋を架けました。これが淀屋橋です。大名貸しを派手にやり、天井をガラス張りにして金魚を泳がせるという豪奢な生活をしたために、お取り潰しになってしまいまして、橋と家の名だけが残りました。この取り潰しは光圀公の没後のことなので、この出会いはありません。仮に会えたとしても、取り潰しになった人間が債権回収をすることなど出来ないので、この二代目の旅もありえません。
 よくまあ、これだけ食い違いの多いことを一席にまとめたなと、作者に敬意を表したいです。
 寄席で、家に帰って話せるような簡単な咄を付けることがありまして、これをお土産と言いました。ここに一つ付けます。
 お姫様が庭に出て、雁の飛ぶのを見て、「皐月、あれを見や、雁(がん)が飛んだ」「お姫様に申し上げます。和歌敷島の道では、『がん』と申さずに『かり』と申しますので、以後、さよう遊ばせ」。お姫様は注意されたので面白くなく、部屋に帰って煙草を吸い、煙管を灰吹きにぽーんと叩き付けるとと、雁首(がんくび)がポロリ。「皐月、あれを見や、『かりくび』が飛んだ」。
「かりくび」について説明はいらないかも知れませんが、念のため書いておくと、『日本国語大辞典』に、「形が雁の首に似るもの。また、特に陰茎の頭。亀頭」とあります。そういえば、『仮名手本忠臣蔵』八段目の「道行旅路の花嫁」の加古川本蔵の妻戸無瀬と小浪の道行きの場で、「ししきがんこうがかいれいにゅうきゅう」という不思議な言葉があります。漢字にすると「紫色雁高我開令入給」です。聞いただけでは解らないようになっていますが、読み解けば、「紫色の雁高の(男性の)逸物を私の開(女陰)にお入れになった」という、とんでもない内容の文を音読みにしています。歌川広重の保永堂版「東海道五十三次」の「原」の女性二人の姿が、従僕を加えてはいますが、その舞台面そっくりです。だいぶ話が落ちてしまいまして、失礼しました。私の首を落とされないうちに退散します。

   庚申待(こうしんまち)              (庚申待、宿屋の仇討)
 夜長になった秋、庚申待の夜がやってきました。庚申待とは、庚申(かのえさる)の日の夜に、体の中にいる三尸(さんし)の虫が、人間が寝ているうちに体内から抜け出して、天帝にその人が犯した悪行を報告に行くという日で、悪行を告げられないようにと徹夜をしました。一人だけではつまらないし、つい寝てしまうこともあるので、人々は庚申待とか庚申講という名で集まり、話をしたり遊んだりしました。この時、守り神としての本尊は三尸虫を除く青面金剛(しょうめんこんごう)です。同時に見ざる、言わざる、聞かざるの三猿も合わせて祀ることがあります。この青面金剛と三猿を祀った堂が庚申堂、塚に彫ったのが庚申塚です。また、本尊として帝釈天を祀ることもあります。それで、帝釈天の縁日が庚申の日なのです。
 このような寝られない夜、村のある宿屋が庚申待の場になりました。折から、一人の男がここに宿をとりました。男は庚申待の風習などそっちのけで、早々に床に就きました。集まった人々は話に花を咲かせ、その声が耳に届いて寝付けず、もう少し静かにしてくれるようにと、宿の番頭を呼んで頼みましたが、人々は、順番にほら話や笑い話をしてゆきます。熊五郎という男が、川の土手で爺さんを絞め殺して金を盗ったと話します。隣室の男が、番頭を呼び、熊五郎は親の敵、逃がさないように、逃がしたらただはおかないと脅します。みなで熊五郎を取り押さえ、庚申待の夜は静かに更けました。翌朝出発しようという男に、熊五郎をどうするかと聞くと、どうでも良いとの答えです。何で親の敵だなどと言ったのかと訊きますと、「ああ言わないと、うるさくて寝られない」。
 この男は、庚申の夜でもかまわず寝ているのです。ですから、庚申の夜は日本中が寝なかったということではないのです。また、この夜男女が同衾して出来た子は泥棒になると言うことで、この夜は男女の交わりは慎むようにと言われたものです。庚申の夜は、世間の人が起きているから、泥棒は仕事にならないからという考え落ちのような理由です。
 この庚申待の話は、その風習が人々から遠くなったこともあって、落ちは一緒の別の咄に置き換えられました。今日の一般的な形をご紹介します。誰かが改作したものかもしれませんが、その記録は見つかりません。
 ある宿屋に旅の侍が、前夜は相部屋でうるさくて寝られなかったから、ゆっくり休める部屋をと言って宿を取ります。その隣の部屋に案内されたのが友達同士の三人連れです。宿は満室になり、武士は隣がうるさくても部屋を移ることができません。隣の武士から番頭を通じて再三静かにするようにと注意を受けた三人、寝床で小声で咄をしています。そのうち、源兵衛という男が自慢げに、「三年前、しばらくいないことがあったろう、あの時に小間物屋をやっていたのだが、さるお屋敷に出入りしていたら、そこの奥様に気に入られて密通してしまった。奥様から自分を連れて逃げてくれと駆け落ちを持ちかけられた」「お前がか」「そうよ、色は思案の外って言う通りだ。それじゃあ出掛けましょう、ということになって奥様が引き出しから百両を出そうと背を向けた。俺は女を連れて逃げる気なんてさらさら無いから傍にあった刀で肩から袈裟懸けに斬っちまった。逃げようとすると弟が出て来て『姉上の敵(かたき)』と言うから廊下に出た。弟は廊下で足袋がすべって転んだんで、それも斬っちゃった。どうだい、色事をして、人二人斬り殺して、百両盗んでいまだに知れないってのは」「本当かい、そりゃあすごいや、源兵衛は色事師、色事師は源兵衛」と、騒ぎはますます大きくなります。
 武士は再び番頭を呼びます。「やかましいと申すのではない。拙者三年前に何者かに我が妻と弟を討たれ、しかも百両という金子を盗まれた。逆縁ながら二人の敵を討たんと苦心をしておったが、今夜ようやくその敵に巡り会えた。今聞いておれば、あちらの座敷にいる源兵衛とか申すやつがその者である。今から斬り込んでもよろしいが、この家にも迷惑になるであろう。よって明朝、宿(しゅく)の外れで出会い敵ということにして友達ともども討ち果たすことにいたそう」ということで、源兵衛と友達が逃げ出さないようにしっかり見張れ、逃がしたらこの宿の者も同類として一家皆殺しにすると、申し付けました。
 番頭は驚いて隣の座敷へと飛んで行き、「源兵衛さんとおっしゃるのはどのお方で」「こいつだけど、見なよ、この顔で武家の奥様と色事をしたんだとさ」「それどころじゃありませんよ、大変ですよ。今、向こうの座敷のお武家様が、妻と弟を討った敵に巡り会えたっておっしゃってるんですよ。それで明日の朝に宿外れで敵討ちをするから逃がすな、とうことなのでそのままにしてください」「おいおい、何を言うんだよ、この話は飲み屋でよそのやつが喋っていたのを聞いて、おもしろいからどこかで一度やってやろうと思った話なんだよ。本当の敵は飲み屋にいたやつだよ」と泣きべそになります。
 番頭も、源兵衛の顔を見れば女が惚れる面ではないことは判りましたが、とにかく本人が話したことでもあり、この家に被害が及んではいけないと三人を縛り上げ、見張りを付けました。三人は泣きべそをかいています。そのまま夜は静かに更けて、夜明けを迎えました。
 翌朝、武士が何も言わずに出発しようとするので、昨日の敵の顔を見ておいてもらおうと声を掛けると、武士は、「何かの間違いではないか、拙者いまだ妻を娶ったことはない」「じゃあ何でああおっしゃったのですか、この家の者は誰一人寝ちゃあいません」「いや、許せ、ああでもせんと拙者が夜っぴて寝られん」。
 こちらは季節の特定は無い咄で、上方では「宿屋敵」と呼ばれています。
 なお、似たような行事に、「二十六夜待ち」というのがあります。これは、正月と七月の二十六夜に月の出るのを待って月を拝むことです。月光の中に阿弥陀仏と観音・勢至の三尊が姿を現すと言われ、七月に高輪や品川で盛んに行われました。浮世絵にも人々が外に出て月の出を待っている姿が描かれています。二十六夜待ちは俳句で秋の季語になっています。こちらは徹夜ではありませんので、咄にはなっていません。

   さんま              (目黒のさんま、さんま火事、鰻のかざ)
 食欲の秋、天高く馬肥ゆる秋という好い季節です。秋の味覚で、まずはさんまから始めましょう。
 この咄、主人公は将軍様ともお大名とも伝わっています。少々脇道にそれますが、落語国のお大名として有名なのが赤井御門守です。この架空の大名の名は、将軍家から嫁を貰うと、その女性の住居として特別の殿舎を建てて迎え、その外側に外に開かれた門と玄関を造り、その門を朱塗りにしたことから生まれました。この朱色の門の一つは、本郷の東京大学の赤門として残っています。また、歌川広重の「名所江戸百景」の「山下町日比谷外さくら田」の中に堀端に描かれている朱色の門は鍋島家の門です。赤井御門守の石高は十二万三千四百五十六石七斗八升九合一つかみと半分あります。側室は八五郎の妹のお鶴、お世継ぎを生んでお鶴の方と呼ばれるかわいい女性で、趣味は骨董の収集癖、将棋、蕎麦打ちと多彩です。家老は田中三太夫、時にそそかしいところもある昔気質の硬骨漢です。
 話を元に戻して、この将軍様だか御門守様だかが、ある日突然、遠乗りに行くと言って馬で駆け出しました。近習の者たちは大慌て、身一つでそれぞれに馬に乗り後を追い掛けました。殿は目黒まで悠々と馬を乗り回しました。
 この当時、目黒は広々として、将軍家の鷹狩り場となっていました。その風景は、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」の中の「下目黒」にあり、鷹匠の姿まで描かれています。また、広重の「江戸百景」の「目黒爺々が茶屋」でも往時の景色が窺われます。筍が名物として広く知られています。
 この目黒で馬を止めて下りたとたん、殿様は急に空腹に気づきました。屋敷を急に飛び出したので、弁当の用意などありません。さて、用意がないとなるとかえってほしくなるのが人情です。戦国の大名ならぐっとこらえるところですが、なにしろお乳母日傘でちやほやと育てられた身では我慢ができず、余はもう駄目じゃと泣き言を口にするだけです。そこにかすかに何かを焼いている匂いが漂ってきます。家来はその匂いの元へと走りました。
 すると、老爺が農家の庭先に七輪を出して脂の乗ったさんまを焼いていました。近寄って来た侍の姿を見て、さんまを焼いているのを咎められると思って身を縮める老爺に、さる高貴なお方が空腹であらせられるので、さんまをわけてほしいと頼みました。まだ横腹に炭が付いてちゅうちゅう言っているさんまを殿に差し上げました。殿は、普段召し上がっている鯛とは違う魚の形に戸惑いながら、良い匂いに誘われて箸を付けました。すると、思いがけない美味に、瞬く間にあるだけのさんまを召し上がり、家来には骨が下しおかれたということです。ここには異説がありまして、殿は「桜鯛」のところで触れたように、一箸だけ付けて、次々に替わりを求められたというのですが、とにかく、殿は生まれて初めてのさんまを心ゆくまで堪能なさったのです。
 家来たちは、脂の強い魚を差し上げて殿の体に障るのではないか、また、自分たちが勝手に差し上げたので咎めを受けるのではないかとびくびくで、殿にこのことは一切他言無用にとお願いします。殿も約束したのですが、折に触れて、「目黒は良いの」「仰せの通り、風光明媚で」「左様ではない、かの長やかな、艶やかな」と危ないことを仰せになります。
 ちょうど親類の方からのお招きがあり、献立はお好みでとの申し出で、殿は「余はさんまである」と仰せになりました。受けた献立方は,殿様がさんまをご存じのはずはない、聞き間違いであろうかと恐る恐る再び伺うと、さんまに間違いないことが判りました。急いで日本橋の魚河岸へ買いに走らせ、そのままでは脂がきついとして蒸して骨を抜き、擂り下ろしてつみれにして椀種として出しました。殿様は、ちゅうちゅうと音がする長い魚が出てくるかと楽しみにしていましたら、蓋付きの椀が出てきました。これはと思って蓋を取ると、目黒で嗅いだ匂いが微かにします。椀の中のつみれを口に入れると、匂いは確かにさんまですが、ぱさぱさして味はありません。「即答を許す、これは何か」「お申し付けのさんまでございます」「このさんまはいずれで求めたか」「日本橋の魚河岸で」「それはいかん、さんまは目黒に限る」。
 この咄を基に、近年、品川区の目黒のさんま祭りと目黒区の目黒区民まつり(目黒のさんままつり)の二つの祭りが行われています。これは、目黒駅が目黒区ではなく品川区にあることから二つの区になったものです。ついでに、品川駅は品川区ではなく、港区です。
 長屋中が揃ってけちな地主が癪に障ると大家さんの所に相談に来ました。潮干狩りで獲ったハマグリの殻の道に捨てたら文句を付け、裏口まで持ってこいと言うので持って行ったら、冬にその殻にあかぎれの薬を入れて売り出したり、空き地にお嬢さんが落とし物をしたと言って長屋の者に草取りをさせたなど、悔しいが何か仕返しはないだろうかと言うのです。
 そこで大家さんが、地主が一番怖がるのが火事だからと案を練りました。まず、長屋中がさんまを買ってきて、一斉に地主の家に煙が行くよう焼きます。そこへ長屋で一番声の大きな熊さんが小さな声で「魚屋じゃ間に合わない」、ここから大きな声で「かし(河岸)だー、かしだー」と怒鳴ると、火事だと思って家中ひっくり返るような騒ぎになるだろうから、笑ってやれという筋書きです。
 そうと決まれば、すぐ実行と夕食時、煙を十分に行かせて怒鳴りました。地主の家ではひっくり返るような大騒ぎ、中に気の利いた者が外へ出て見ると、七輪を前にみんなが大笑いをしています。「旦那、長屋の者がさんまを焼いているんで」「そうか、おい、みんな早くご飯を食べな」「でも、漬け物もないのに」「さんまの匂いをおかずにしなさい」。
 転んでもただは起きません。この咄のもとになったと思われる咄があります。
 鰻屋の隣に住む男、いつも鰻の匂いで御飯を食べています。そのうち、匂いで鰻の太さまで判るようになりました。月末になると、隣の鰻屋から、「鰻の嗅ぎ賃をいただきたい。こちらで嗅がれると、たれを二度付けなくてはいけなくなります」「おい小僧、銭を持ってきな。細かいんでいい。さあ、音を聞いて帰れ」。
 けちな人の咄は、次の「薩摩芋」にも続きます。