落語のひととせ 10 秋の部3

   蕎麦 その1                (蕎麦の殿様、よいよい蕎麦)
 秋は新蕎麦の季節です。
 これは赤井御門守様の咄だと伝えられます。ある日、お出かけ先で蕎麦を打って振る舞われた殿様、その蕎麦の味もさることながら、蕎麦打ちの手順にすっかり感心してしまいました。早速、余もやってみたいと思って、家来に道具の調達を申しつけます。「まず、粉を練る盥、厩の馬盥を持って参れ。それから伸ばす棒は、門番の六尺棒で良い」「いずれも汚うございます」「かまわん、皆が食すのじゃ」という勝手振りです。馬用の盥と溝を搔き回した棒で作られては堪りませんから、もちろん新品のこね鉢と麺棒が用意され、蕎麦打ちが始まりました。分量をきちんとしなければいけないのに、職人技のような目分量、粉を入れい、水を入れい、水が多すぎたから粉を足せ、今度は水だと大騒ぎ、こねて、伸ばしてゆきます。
 これを見ていた知ったかぶりの家来が、昔は戦が終わると、陣中で殿様自ら蕎麦を打って家来に食べさせた、これが御前蕎麦の始まりだ、ちゃんと食べないと殿様の勘気に触れて手討ち蕎麦となると語ります。これはもちろん御膳蕎麦、手打ち蕎麦で、こういう家来は現代でもいそうです。
 さて、蕎麦粉をこね上げれば、そこに殿様の玉の汗が随分混じりましたが、茹でるのだから大事あるまいと、見て見ぬ振りをしました。蕎麦は殿様が延べてもいびつな形で、それを適当に切りましたから、そうめん形、うどん形、きしめん形と細く、太く、平たくといろいろな形の麺ができあがりました。これを適当に茹で上げ、家来一同を大広間に集めてふるまいます。
 麺つゆは本職が材料を吟味して作りましたので極上ですが、麺はぐにゃぐにゃの軟らかいものから、芯が粉のままのものまであります。それでも、殿のお手作りですから残すことはならず、しかも「一同遠慮無く食せ」とのお声掛かりで、お替わりまでさせられて退出しました。
 一同が長屋へ帰ってしばらくして、全員がひどい下痢に襲われました。長屋の背中合わせにある厠は出たり入ったり、扉のきしむ音がひっきりなしに聞こえました。翌朝は、全員がげっそりとやつれた顔で出仕してきました。話し合ってみると、数十回出入りしたという若者から、たった一回の家老の三太夫まで、厠通いの回数はまちまちでした。三太夫が一回で済むくらい頑健であったというわけではなく、入ったきり出られず、厠で夜を明かしたということです。
 殿の御前に出ると、殿は昨日の蕎麦打ちの大成功にご機嫌麗しく、一同の者、蕎麦は好きかと重ねて訊き、やむなく好物と答えると、しからばもう一度打ってみようと、打ち始めます。やがて打ち上がり、今日の出来はと尋ねると、昨日より不出来であるという哀しい答えで、確かにひどいものでした。二日続きの蕎麦責めに体はふらふらになり、殿の馬前で討ち死には武門の誉れであるが、蕎麦に負けるのは情けないと、一同は三太夫に殿への諫言を頼みました。そこは鷹揚なお殿様、それならば蕎麦打ちはやめようとお聞き届けになりました。殿が蕎麦打ちを止めたのは、家来の身を案じたのか、蕎麦打ちで疲れたのかは定かではありません。一説に、殿は、精進料理でも失敗したと伝えられます。
 地方から江戸見物にやってきた二人連れが、蕎麦屋に入りました。周りの客が蕎麦の先にちょこっとつゆを付けてさっと食べる早業に感心してしまいます。すると、一人の客のつゆの中に虫が入っていました。その客はさんざん悪態をついた末に、「気をつけろ、よいよいめ」と怒鳴って出て行きます。二人はこれを聞いて、初めて聞いた言葉なので、「『よいよい』とは、何(あん)ちゅうわけでがすか」と尋ねます。店の者は本当のことを言うわけにもいかず、「『良い物だ、良い物だ』と言うのを縮めて『よいよい』となったので」と答えます。二人はこれは新しい江戸の褒め言葉だと覚えました。
 蕎麦屋を出てあちこち見て歩いた二人は、芝居に入ります。二人は、覚え立ての江戸言葉で褒めてやろうと、見せ場で、「あの真ん中のお役者様、よいよい」、「よいよい役者」と連発しました。役者は腐るは、客はだれるはで、芝居はめちゃめちゃです。周りから、「うるせえぞ、お前(めえ)たちこそよいよいだ!」「ああ。俺(おら)たちまでお褒めに与った」。
 この咄は、「江戸見物」や「江戸荒物」という江戸言葉を間違って覚えて使う咄に似ていますが、「よいよい」が本来の病人を指す言葉ではなく、軽いあざけりの言葉だということが通じなくなったので、消える運命かもしれません。

   蕎麦 その2            (疝気の虫、うわばみ飛脚、金玉茶屋)
 以前、夏の部20の「甚兵衛」の所で、蕎麦好きが高じてついには食べる蕎麦の枚数を賭けるようになって、勝利まであと一歩のところで蕎麦屋から謎の失踪をしてしまった清兵衛さんを紹介しましたが、今度は蕎麦好きの虫の咄です。
 あるお医者さん、夢の中に妙な虫が現れて言うことには、「自分は疝気の虫だが、蕎麦が大好物で、蕎麦が身に入ってくると嬉しくなって踊り出してあちこちの筋を引っ張るので、人間が痛がるんです。ですが、唐辛子が苦手で、あれが体に付くとそこから体が腐ってしまいますから、唐辛子が入ってくると『別荘』に隠れるのです」と、ここまで聞いたら目が覚めました。
 おおよそ疝気という病気は、腰や下腹が突っ張って痛くなります。古来「疝気は男の苦しむところ、悋気は女の慎むところ」と言われる通り、男専門の病気です。その結果、虫が住んでいるわけではないでしょうが、ぶら下がっている「別荘」が腫れ上がるので、疝気持ちは「八畳敷き」と言われる狸にたとえられることもあります。その咄は後に紹介します。
 お医者さんは、これはいいことを聞いた、ちょうど疝気で苦しんでいる患者がいるから、試してやろうと考えました。折から、その患者の家から苦しみ出したと迎えが来ました。そこで、蕎麦と唐辛子水を用意させ、神さんに亭主の口の脇で、口の中に蕎麦の匂いが入るようにして食べさせました。すると、「別荘」に隠れていた虫が、蕎麦を食べたいもので、どんどんと登ってきますが、いくら上へ行っても蕎麦にはたどり着けません。とうとう口まで来て様子を見ましたら、向かいの口が蕎麦を食べています。虫は、好物に惹かれて、向かいの口へと飛び移ります。医者はこれを見て、かねて用意の唐辛子水をお神さんに飲ませます。虫は、上から毒がやってくるので、「別荘」へ、「別荘」へ、……「別荘」がなかった。
 この咄、もう一つ落ちがあって、「おや、畳が敷いてある」。きれいな考え落ちだと思いますが、先に掲げた昭和十六年の自粛の禁煙落語に入れられています。
 同様の通り過ぎた咄があります。
 飛脚が走って来ました。うわばみが飲んでやろうと大きな口を開けて待っています。先を急ぐ飛脚は、一瞬あたりが暗くなりましたが、気にしないで走り続けます。向こうにかすかに明かりが見えるのを頼りに走り、やがて、スポーン。うわばみは、「しまった、褌しときゃよかった」。
 うわばみは、「夏の医者」にもありましたが、便秘はなさそうです。この咄、うわばみが狼になっている咄もあります。うわばみはどういう形で褌をするか想像するとおかしくなります。
 せっかくですから、「別荘」が大きくなる咄をします。
 腫れ上がって大きくなった「別荘」を抱えた男が吉原へ遊びに行きました。腫れ上がったのを知られると振られると思って、相手の女が来るまで蒲団に入っていました。そこへ女が入ってきて、「まあ、お前さん、狸かえ」「金玉の大きいの誰に聞いた」。
 女は狸寝入りかと訊いたのに、男は狸同様の金玉がばれたかと思った食い違いです。
 俗に「狸の睾丸(きん)は八畳敷き」と言われ、歌川国芳が狸を題材にして滑稽な浮世絵をたくさん描いています。「狸のきん」について、六代目三遊亭圓生が話しています。金を箔に延ばす時に、狸の皮に挟んで打つと適当な熱を持って、一匁で八畳まで延びます。延びた金箔は向こうが透けるほどに薄くなります。圓生はさらに、「晦日蕎麦は金(きん・かね)がのびる」ということも話していました。これは、金を打っている時に、味噌の香りがしてくると延びなくなってしまうので、その時に蕎麦を火にくべて味噌の香を消すとまた延びるようになります。それで、「味噌香を蕎麦で消すと金が延びる」ということが訛って「みそか蕎麦はかねが伸びる」と言うようになったのだそうです。金箔が薄いことだけは真実ですが、あとは高座での咄、話半分、話の種に聞いておきましょう。

   蕎麦 その3                 (夜鳴き蕎麦、おすわどん)
 蕎麦は最初は塊の蕎麦掻きで食べていましたが、そのうち細く切る現在の蕎麦切りの形になりました。蕎麦を提供するのは、店を構える蕎麦屋もありますが、夜、屋台を担いで流して歩く蕎麦屋がありました。歌川広重の「名所江戸百景」の「虎の門外あふひ(葵)坂」に、屋台を担いで歩く蕎麦屋が描かれています。
 夜に、蕎麦屋の屋台を担いで歩く夫婦がいました。若い男が「一杯くれ」と来ました。作って出すと、あっという間に食べてしまいました。その食べっぷりに感心していると「もう一杯くれ」、脇から女房が、「お前さん、盛りを良くしてあげてね」「わかってらい」と出すと、またあっという間です。食べ終わった男は、「一文無しだから自身番へ突き出してくれ」と言い出します。親父は男をなだめながら腹一杯にさせ、突き出す前に屋台を家まで運んでくれと頼みます。男は言われるままに屋台を担いで夫婦の家に行きました。
 夫婦はどうせなら一晩泊まって、明日自身番に行こうと提案します。男も落ち着いて泊まることにすると、夫婦は全く男を警戒することなく扱います。そのうち、親父が男に、自分たち夫婦は子供がいないので、一度親子の真似がしてみたい、息子の真似をしてくれと、台詞を付けます。女房に言われて台詞ごとに小遣いを渡します。男がその通りにすると、「今度は私の番」と女房も頼みます。夫婦は男に次々と子供の言葉を言わせ、それぞれ、「ああいい気持ちだ」「いい気持ちだねえ」と涙を流します。そのうちに男が、「俺ぁ、変な気持ちになっちまった」と言って、「明日からここに置いてくれ、ちゃん」「せがれ」。
 蕎麦が一組の親子を作り上げた咄です。この咄は、有崎勉こと柳家金語楼が作った「ラーメン屋」という咄を、江戸時代の夜鳴き蕎麦屋に移した五街道雲助の佳品です。
 こんな夜歩く蕎麦屋はおよそ道順が決まり、店を出す場所も決まっているものです。ある商家で、お神さんが病気になり、お神さんは、自分が亡くなったら後添いはもらわないでほしいと願って亡くなりました。旦那はその言葉を聞かずに、女中のおすわを後添いにしました。旦那は一家の奉公人を集めて、これまでの「おすわどん」という呼び名を使ってはいけないと申し渡します。当のおすわさんは、お神さんになったからと言って威張るわけでもなく、これまで通りに皆に交じって働き、平和な日が続きました。
 そのうちに、どうしたことか、おすわさんの顔色が悪くなり、とうとう寝付いてしまいました。訳を訊かれたおすわさんは、毎晩旦那が寝てから自分も寝ようとすると、表で壁を叩くような音がして「おすわどーん」と呼ぶ声がする、私には亡くなったお神さんが私に苦情を言おうとして化けて出ているとしか思えないと語りました。
 旦那は、そんな馬鹿なとは思いましたが、今はの際に女房が、「後添えをお持ちになると恨みますよ」と言った言葉が気になり、声の正体を見届けることができません。家作の長屋にいる侍を招いて、この怪事の見届けを頼みました。
 夜が更け、そろそろ寝に就こうという刻限に、突然、バタバタと叩く音に続いて、「おすわどーん」の声です。さすがは侍、すぐに表へ飛んで出て、幽霊を捕らえようとしました。そこにいたのは蕎麦屋、バタバタと表を叩いたと聞こえたのは、火を熾すためにあおいだ団扇の音、「おすわどーん」と呼んだのは、蕎麦屋の呼び声「お蕎麦うどーん」の聞き間違えでした。
 無実の蕎麦屋に対し、たとえ商売であってもこの家のお神を寝付かすとは何事、このままには捨て置かれん、成敗するということになりました。蕎麦屋はあきれて、「私の子供を差し出しますから、これを存分になさってください」「何、子供、どこにおる」「こちらにおります」と蕎麦屋の出したのを見ると、蕎麦粉です。「これがなぜお前の子供だ」「ですから、蕎麦屋の子で、蕎麦粉で」「どう成敗できる」「手討ち(手打ち)になさいまし」。
 この蕎麦屋が来ていたことについて、店の者は表側で寝ていて、おすわさんは遅くまで働いていても女中部屋で寝起きしていたので、後添いになるまで気づかなかったということです。この咄、上方では、おすわが妾で、本妻をいじめて自殺に追い込むという筋立てがあるそうですが、聞いたことがありません。ご紹介した筋で良いのではないでしょうか。

    蕎麦 その4                  (時そば、壺算、[秋風])
 寒い夜のことです。的に矢が当たった看板を掲げた、当たり屋という屋号の蕎麦屋が呼び止められました。出来るのは花巻に卓袱(しっぽく・江戸訛りでしっぽこ)で、花巻は海苔をたっぷりかけたかけ蕎麦、卓袱はおかめ蕎麦に近い品です。呼び止めた客の会話は軽快で、看板を褒め、卓袱を出したら、手際の速さを褒め、割り箸を使っているところを褒め、丼を褒め、割り箸を褒め、汁(つゆ)を褒め、蕎麦が細くてぽきぽきしていると腰の強さを褒め、竹輪が麩ではなく本物で厚く切ってあると褒めて、つーっ、つーっと見事にたぐり込んで、もう一杯と言いたいところだが脇でまずい蕎麦を食べたんで、と勘定になります。代金は二八蕎麦というくらいのお決まりの十六文です。「銭ぁ細かいんだ、手を出しな、ひい、ふう…」と一文銭を一枚ずつ出し始めて、「やっつ。今何刻(なんどき)だい」「へぇ、ここのつで」「とお、じゅういち…」と十六まで数えて、ぽいと行ってしまいました。食い逃げなら捕まえてやろうと、脇で見ていた少し緩い男が、よくよく考えたら、刻限を訊いたところで一文ごまかしたと気が付きました。うまいことをやった、蕎麦屋は生涯気が付かないだろう、よし、俺もやってやろうと思い、その日は細かいのがなかったので、翌日一文銭を揃えて出掛けました。
 翌日、わくわくして出掛け、ようやく蕎麦屋を見つけて、昨日の会話をなぞります。ところが、話はみなちぐはぐで、箸は割れていて割れて誰が使ったか判らなくて葱が付いている、蕎麦は太くて腰がなく、汁は湯をうめないと飲めないしろもので、急に腹が一杯になってと言い訳をしながら残させてもらいました。さて、お待ちかねの勘定に、「銭が細かいんだ、手ぇ出しねぇ、ひとつ…」と始めました。「ななつ、やっつ、今何刻でぇ」「へえ、よつで」「いつ、むう…」。
 このころは四文銭と一文銭が流通していましたから、銭を細かにしたのです。この男、最初から一文ごまかすつもりなら十五文しか持って出ないのでしょうが、ここでは四文多い二十文を払っています。でも、そんなことを詮索するのは野暮です。
 また、時の数え方は、簡単に言うと、二十四時間制で言うと、零時と十二時に当たるのが九つ、以後、ほぼ二時間おきに、八つ、七つと呼びます。日の出と日の入りがそれぞれ六つです。先の男は真夜中の零時ころに蕎麦を食べ、後の男は早く結果を出そうと、それよりおよそ二時間早い午後十時ころに出掛けてしまったのです。「急いては事をし損ずる」ということです。
 時の数え方のついでに、「九は病、五七が雨に四つ日照り、六つ八つならば風と知るべし」という歌を書いておきます。これは地震の起きた刻限で以後の展開を予測する歌で、以下に示す時刻の前後一時間がその範囲です。零時と十二時は病気が流行る、四時、八時、十六時、二十時は雨降り、十時と二十二時は日照り、二時、六時、十四時、十六時は風が吹くということですが、最近のように地震が頻発していると、あてにならなくなります。
 蕎麦が一杯十六文について、「吉田町二つ殺して三つ食い」という川柳があります。この吉田町は、「吉田町おはなおちよはお職なり」と言われている夜鷹の町で、「おはなおちよ」は「お花お千代」が「お職」つまり一番の売れっ子というのではなく、悪い病気で「お鼻」が「落ち」ることを言います。この二つ三つの川柳の意味は、夜鷹が客を二人取って、その代で蕎麦を三杯食べたということで、ここから夜鷹の値段が二十四文と知れます。
 さて、刻限がらみの小さな詐欺で思い出しました。こんな詐欺があります。
 ある家で水を入れる壺が小さいので、買うことにしました。女房は、お前さんは買い物下手だから、人間がこすからい友人に手伝ってもらえと言います。そこで少々頭の働きの緩い亭主は、友の前で女房の台詞を全部言ってしまいましたが、友は心広く一緒に買い物に出てくれました。
 軒並みの瀬戸物屋の中で一番のんびりしている顔の亭主のいる店に入りました。そこで、もとの壺と同じ大きさの壺を二円五十銭と言うのを二円に値切って買いました。二人はそれを担いで町内を一回りし、元の瀬戸物屋へと入りました。「この男がいい加減で、この倍の大きさの壺がほしかったと言うのだ。二つはいらないので、引き取ってくれるかい」「今持って帰ったのですから、もちろんお引き取りいたします」「いくらで取ってくれる」「もちろん買値で」「大きいのはいくらだい」「小さいのの倍ですから五円、あなたは買い物がお上手だ、四円で」「ところで、先程の二円はそちらにあるな」「まだしまわずにここに」「この壺は二円で引き取ってくれるんだろ、さっきの二円と合わせて四円だから、この壺はもらっていくよ」「へえ、よろしゅうございます」。
 こんな遣り取りで店を出ようとすると、壺を買う男がげらげら笑うので、亭主も何か変だと思い、「ちょっとお待ちを」となりました。現金二円、返品の壺二円、足せば新品の壺代四円になります。そろばんを使ってもわからなくなりました。「これが本当の壺算だ」。
 この壺算という言葉、「壺算用」とも言い、本来は坪算用で、大工さんが設計の時に坪数を間違えるのがそもそもの語源で、勘定合って銭足らずの意味を表したということですが、現代では通じないので、「それがこっちの思う壺だ」と落ちを付けています。この咄は、江戸では水がめと言うところを、壺と呼んでいますので、上方の咄と知れます。
 このような詐欺咄を外国人がやった事件がありました。五千円札を店で見せ、「チェンジ、チェンジ」と言い、千円札五枚と替えてもらいます。その受け取った千円札五枚と、先程の五千円札を指して、再び「チェンジ、チェンジ」と言って、一万円札を受け取って姿を消すという手口です。外国人がこの「壺算」という咄を知っているとも思えず、不思議な事件でありました。当時のマスコミは「時そば」詐欺と見出しを付けましたが、今と違って新聞社への情報伝達ができず、残念な思いをしました。
  この蕎麦屋の咄、冬の夜を舞台にしているような感じですので、現代に通じる小咄、秋風と名付けたのを一話書いて冬の部へと移ります。
 あろ商家で、二百人からの人を使って順調に商売していましたが、ある日、旦那が、半分の人間でも同じようにできるのではないか考えました。そこで半分の使用人に暇を出してやってみると、思った以上にうまくゆきます。またしばらく経つと、もう半分に減らせるのではないかと思いました。これもうまくいって、また半分にしてを繰り返し、とうとう夫婦二人きりで商売をやっていると、これまた順調です。そこで神さんに去り状を渡して一人でやっていたら、またうまくゆきます。そこである日、「してみると、俺もいらないんじゃあないか」と思いつき、とうとう首をくくってしまいました。
 縁起を直しましょう。鶴亀、鶴亀。