浮世絵漫歩 14 歌川広重による画中の書き入れ

画中に彫師と摺師の名があった 

 歌川広重の保永堂版「東海道五十三次之内」の御油(ごゆ)の宿、宿屋の札にご注目下さい。一番右の札は東海道の「五十三」か御油の宿の順番「三十五」か、半分しか見えていないので省略して、あとは右から「東海道続画」「彫工 治郎兵衛」「摺師 平兵衛」「一立斎図」、丸い障子に「竹之内板」(保永堂竹内孫八)と、書籍で言えば奥付のように作品名・彫師・摺師・絵師・版元が並べられています。また、左側の障子には、「大当也」(大評判・大売れ)と入っています。
 また、「木曾海道六十九次之内」では、34番目の贄川(にえかわ)の宿の行灯や板に同様の書き入れがあります。行灯には、右から「板本いせ利」(錦樹堂伊勢屋利兵衛)「大吉利市」、左の壁の板には、右から「仙女香 京はし/坂本氏」(これは化粧品店の広告)「松島房二郎 刀」(彫師)「摺工 松邑安五郎」「仝 亀多市太郎」(摺師)です。
 二枚の図を入れておきます。

東海道五十三次之内 御油
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木曾海道六十九次之内 贄川
 

化粧品のさりげない宣伝
 京橋に坂本屋友七という店があり、ここで「仙女香」と「美玄香」という化粧品を売り出しました。この店が、浮世絵の中にさりげなく広告を入れているのです。「東海道五十三次之内」の関の宿の札に、「虫の薬 仙女香」「志らが薬 美玄香」とあり、その横の地に、墨文字で「京ばし/南てん/ま丁(南伝馬町)/三丁め/坂本氏」と目立たない形で摺られています。
 「木曾海道六十九次の内」では、60番目の今須に「江濃両国境」という杭が立ち、その左の看板には土地の名、「寝物語由来」、その左に「仙女香/美玄香・坂本氏」とあります。なお、「寝物語」という地名は、色気のある響きですが、近江と美濃の国境を隔てて、両国の宿屋に泊まった客が寝ながら話ができたところから付いた地名です。

いずれも東海道五十三次之内 関(アダチ版画研究所の精緻な復刻)

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木曾海道六十九次之内 今須
                      

 

 

浮世絵漫歩 13 主要浮世絵師生没年


主要浮世絵師生没年
 2020年7月から9月に東京都美術館で開催される三大コレクション展の出品目録を土台にして絵師を選んで一覧にしました。ついでに近年展覧会の多い明治期の絵師を少し付け加えました。肉筆の絵師が少ないですが、これくらい知っていれば、展覧会に行ってもまず大丈夫です。
  字下げになっているのは、改名・襲名をした時期をはっきりさせるためです。三代豊国は、多くの展覧会で、代数を付けずに国貞と表示されています。二代・三代の広重は前の名よりも代数付きの広重と表示されています。
 
菱川師宣   ?-1694
杉村治兵衛   -1680-1688-
懐月堂安度   -1704-1716-
鳥居清信   1664-1729
鳥居清倍    -1697-1722-
奥村政信   1686-1764
鳥居清倍Ⅱ  1706-1763
石川豊信   1711-1785
鳥居清忠    -1716-1751-
鳥居清重    -1716-1741-
西村重長    -1726-1741-
勝川春章   1716-1792
鈴木春信   1725?-1770
勝川春章   1726 -1792
礒田湖龍斎  1735 -?
一筆斎文調   -1764 -1772 -
鳥居清経    -1764-1781-
鳥居清満   1735-1785
歌川豊春   1735-1814
北尾重政   1739-1820
勝川春好   1743-1826
勝川春常   ?-1787
歌舞妓堂艶鏡 1749-1803 
鳥居清長   1752 -1815
喜多川歌麿  1753-1806
鳥文斎栄之  1756-1804-
鳥高斎栄昌   -1793-1796-
鳥橋斎栄里   -1794-1796-
鳥園斎栄深   -1796-1804-
一楽亭栄水   -1789-1804-
窪 俊満   1757-1820
北尾政演   1761-1816
勝川春英   1762-1829
勝川春潮    -1781-1801-
栄松斎長喜   -1788-1809-
葛飾北斎   1760 -1849
葛飾北斎  1760-1849 以下のように主な画号の変遷があります
   春朗     1779-1794(20-35歳)
   宗理     1795-1798(36-39歳)
   北斎    1797-1819( 38-60歳)
    画狂人   1800-1808?(41-49歳?)
    画狂老人  1805-1806(46-47歳)
    戴斗    1811-1820(52-61歳)
    為一    1820-1834(61-75歳)
    前北斎為一 1821-1833( 62-74歳)
    卍     1831-1849(72-90歳)
    画狂老人  1834-1849(75-90歳)
   前北斎為一 1834-1849( 75-90歳)
 東洲斎写楽   -1794・95 -
歌川豊国Ⅰ  1769 -1825
喜多川菊麿   -1795-1804-
歌川豊広   1773-1829
歌川国政   1773?-1810
魚屋北渓   1780-1850
岳亭      -1813-1868-
昇亭北寿    -1800-1830-
菊川英山   1787 -1867
鳥居清峰   1788 -1868
溪斎英泉   1790 -1848
歌川国安   1794-1832
 歌川豊重   1802-1835
   歌川豊国Ⅱ 1825-     襲名時期です
 歌川国貞Ⅰ  1786-1864
   歌川豊国Ⅲ 1844-1864 襲名時期です
歌川国芳   1797 -1861
歌川広重Ⅰ  1797 -1858
葛飾応為   1800頃 -1866頃
 歌川重宣   1826-1869
   歌川広重Ⅱ 1859ー1865 襲名・名跡返上です
   喜斎立祥  1865-1869 改名しました
 歌川重政   1842-1894
   歌川広重Ⅲ 1867-1894 襲名時期
歌川貞秀    -1826-1865-
 歌川国貞Ⅱ  1823-1880
   歌川豊国Ⅳ 1870か71-1880 襲名 
河鍋暁斎   1831 -1889
月岡芳年   1839 -1892
落合芳幾   1833-1904
豊原国周   1835 -1900
揚州周延   1838 -1912
小林清親   1847 -1915
井上安治   1864 -1889

浮世絵漫歩 12 極印・改印の変遷

浮世絵の自主検閲印

 浮世絵の画面中には、いろいろな情報が掲載されています。
 作品名・絵師・版元の名はすぐに目に付きます。また、時代によって彫師・摺師の名が載っています。これらの他に、丸に極や改という字や年号・干支、苗字が入っている印があります。これらの印が揃って、正式な出版物と認められるのです。
 この他に、丸に極や改という字などが入っている印を、極印(きわめいん)・改印(あらためいん)と呼びます。これは、奉行所によるものではなく、版元仲間による内容の自主検閲印です。この検閲は、月行事が担当しました。出版前、版下の段階で検閲を受け、版木に彫り込みます。版元と月行事の力関係で少々忌避されそうな作品も通ることもあったと言われています。そこで絶版処分を受ければ、月行事も連帯責任を負いましたから、忖度が行われたようです。
  1846年(弘化3)、歌川国芳の「里すずめねぐらの仮宿」という作品は、名主印を受けに行ったところ、あいにく行事が留守だったため、息子が羽織の背の紋の所に印を押してしまいました。ふざけが過ぎるとお咎めを受け、月行事は辞任のしたという事件がありました。この作品は、国立国会図書館のデジタルコレクションで簡単に閲覧できます。 
  極印・改印の変遷について、先人の研究結果をいただいて、ここに表にします。
 
   西暦   印の種類      数  和暦
 1790-1804 極         1  寛政2-享和-文化1
  *1800年(寛政12)のみ、申正、申三の印あり
 1805-1810 極・年月      2  文化2-文化7
  *05年(文化3)6月ー06(文化4) 6月、極・月の2印
 1811-1814 極・月行番事(割印)  2  文化8-文化11
  *14年(文化11)3月、7月、8月、極・年月の2印
 1815-1842 極         1  文化12-文政-天保13
 1842.4-12 草稿にのみ印    ナシ   天保13
 1842-1847 名主単独      1  天保14-弘化4
 1847-1852 名主2印      2  弘化4-嘉永
 1852-1853 名主2・年月    3  嘉永5-嘉永
 1853-1857 改・月       2  嘉永6-安政
 1857-1858 年月        1  安政4-安政
 1859-1871 年月改       1  安政6-万延-文久ー元治ー慶応―明治4
 1872-1875 年月十干十二支   1  明治5-明治8

浮世絵漫歩 11 絵師の号2ー広重 

浮世絵師の号について 2
歌川広重」の場合 
 まず、いきさつを年譜形式で示します。
  1858 初世歌川広重没。
  1859 師の広重に特に目を掛けられていた歌川重宣が、14歳年下の広重の養女お辰
     に入夫し、二世広重を名乗る。
  1865 二世広重、広重号を返上し、婚家を出て、立祥を名乗る。
     重宣(二世広重)の弟弟子の歌川重政、広重の養女お辰に入夫し、二世広重を
     名乗る。実際は三世である。
  今回もまた、『浮世絵師歌川列伝』を引用して紹介します。豊国の項に書いた通り、同書は、明治20年代に成立した飯島虚心著の稿本を、昭和16年玉林晴朗が校訂して、畝傍書房から刊行されました。引用文は、畝傍書房版をもとにして表記を改めた中公文庫版を読みやすくしました。この文中の一女が後妻の子とありますが、この一女すなわちお辰は、初代広重の実子ではありません。また、二代広重が喜斎立祥と称するのは、広重号を返上して広重家を退去した後のことです。
「広重の先妻の名詳らかならず。早く死す。後妻その名また詳らかならず。一女を儲く。広重の没するや、門人重宣をこの女にあわせて家を継がしむ。これを二世広重とす。立祥といい、喜斎と号す。山水花鳥を描くをなし、よく一世の筆意を守りて失わず。その落款一世と異なることなし。ゆえに人おおくは一世二世を弁ずる能わざるなり。落合氏(芳幾)いわく、『二世広重は好人物なり。予はしばしば彼に出逢いしが、性正直にして事に処する甚だ謹慎なりし。あるは世事に疎き所なきにあらざれども、画道におきてはすこぶる妙所あるがごとし。惜しむべし』と。後に故あり家を出で横浜に赴き、再び重宣と号し、絵画を業とせしが、いくばくならずして没せしという。
 二世の家を出づるや、同門重政代わりて家を継ぐ。これを三世広重とす。またよく山水を描く。かつて伊勢、大和、大阪、京都を廻り、また常陸、下総に遊び、行々山水を写し、その志一世の工に出でんを欲せしが、不幸にして病に罹り、明治二十七年三月二十八日没す。惜しむべし。友人清水氏後事をおさむ。
 按ずるに、三世広重、自ら二世と称す。何の故を知らず。けだし理由ありしならん。過ぐる日これを聞かんとて、広重(引用者注:三世)のもとに至りしに、既に病にかかり言語不通、聞くに由なく、やむを得ずして帰る。遺憾なり。
 無名氏いわく、広重(引用者注:初世)の山水錦絵は、一家の画風にして、古人のいまだ嘗て描かざるところを描く。絶妙と称すべし。けだしその画法は豊春、豊広の浮絵を本となし、四条および南宋の画に拠りたるものにして、その彩色はみずから発明するところおおきがごとし。およそ山水の景を写すには、まずその位置のよろしきを撰ぶこと、もっとも肝要なり。広重はよくこの位置を撰ぶことに妙を得たり。これ他人の及ばざるところなり。二世広重画法を伝えてよく描きしが、家を出でて没し、三世広重継ぎて描きしが行われずして止む。ここに至り広重が山水の画法を伝うるもの、全く絶えたるがごとし。実に惜しむべきなり。近ごろ広重の山水画、大いに欧米に行われ、輸出日に多し。ゆえをもて現今我が国に存するもの、はなはだ乏しきにいたれり。横絵の東海道五十三次、および魚づくしの絵等、もっとも行わる。これ広重が腕力実に超凡なるをもってにあらずや。」
 三世広重の没後、三世の未亡人(辰女の没後の後添い八重)と「清水氏」すなわち清水晴風とが相談して、安藤家と親しいゆえをもって、菊池貴一郎に四世を継がせました。さらに貴一郎の息寅三が五世を継いでいます。
 以上、豊国の号、広重の号ともに、師の号の重さを弟子が感じている話であります。いずれもが、三世が先代である二世の存在を抹殺して二世を名乗るのは、その間の事情や人間関係について多くの憶測を可能にしてしまいます。
 なお、国芳は、俺の名を継ぐ奴がいたら化けて出てやるといったせいかどうか、名を継ぐ者はいませんでした。弟子も多く、跡目争いがなかったゆえか、その画系は、月岡(大蘇)芳年―水野年方―鏑木清方伊東深水川瀬巴水へと続いています。また、薫陶を受けた一人に河鍋暁斎がいて、さらにその弟子には暁英こと建築家のジョサイア・コンドルがいます。
 下に、初代広重の「六十余州名所図会」と二代広重の「諸国名所百景」から同じ尾張の天王祭を付けておきます。

 

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浮世絵漫歩 10 絵師の号1ー豊国

浮世絵師の号について 1
 葛飾北斎は生涯に30以上の号を使っています。改号の理由の一説として、弟子に号を売り渡して収入に充てたといいます。この話は、浮世絵の価値を、絵自体の巧拙ではなく、号という看板だけで判断する買い手がいたということを示しているのではないでしょうか。
 定評を得た人気絵師が亡くなると、利潤を追求する版元は、絵師の記憶が薄れないうちに、その弟子のうちから衣鉢を継ぐ者を選ぶこともあります。また、弟子の中で跡目争いになることもあります。いずれも絵師の名跡が版元と絵師それぞれの利潤につながるからでなのです。ここでは、2回に分けて、歌川豊春から始まる歌川派の二つの名跡となった豊国号と広重号について取り上げます。
①「歌川豊国」の場合
 浮世絵研究の基礎資料として、『浮世絵師歌川列伝』を引用して紹介します。同書は、明治20年代に成立した飯島虚心著の稿本を、昭和16年玉林晴朗が校訂して、畝傍書房から刊行されました。引用文は、畝傍書房版をもとにして表記を改めた中公文庫版を読みやすくしました。
①「歌川豊国」の場合を年譜形式にします。
  1825 初世歌川豊国没。
  1825 歌川豊重、二世豊国を名乗る。
     この襲名は「同門不承知」となり、豊重は後に絵師を廃業する。
  1844 初世歌川国貞、二世豊国を名乗る。
     世間から三世であるとの非難を受ける。
  1846 三世豊国が、弟子の二世歌川国政に、二世国貞を名乗らせる。
  1864 二世豊国を称した三世豊国(初世国貞)没。
  1870 二世国貞、三世豊国を名乗る。(実際は四世)。
『歌川列伝』を引用してみましょう。なお、通常は「初代」のように「代」を使うことが多いのですが、最後に引用する狂歌との対応もあり、『列伝』の文に従って「世」に統一しました。「按ずるに」以下の文は、『列伝』の著者の飯島虚心の意見です。
「弘化元年(1844)の夏、国貞師名を継ぎ、二世豊国と称す。実は三世なり。
 按ずるに三世豊国、何の故に二世を称せしにや、詳らかならず。彼は自ら二世と称すといえども、既に二世豊国あれば、三世にあらずや。かの柳島妙見にある一世豊国が筆塚の裏面に、『二代目豊国社中、国富、国朝、国久云々。国貞社中、貞虎、貞房、貞秀云々』と刻しあることは、世人のよく知るところにして、蔽(おお)うべからざる明証なり。しかるに二世というをもて、当時世評はなはだ騒がしかりしなり。ある人の狂歌に、『歌川をうたがはしくも名のり得て、二世の豊国にせのとよくに』。
 一説に国貞かつて、二世豊国の妻と通じて、二世を追い出せりというは妄説(引用者注:根拠のない説)なり。国貞は生来謹慎(引用者注:身を慎んで)にして、かくのごとき悪行をなす人にあらず。しかしてその師名を継ぎしは、実に師恩を思うの真心に出でたるものにして、けだし師家の既に絶えなんとするを悲しみ、永く師の墳墓を弔わんためなるべし。されば己の墳墓は、亀戸にあれど遺言によりて、己の法名を三田功運寺なる一世豊国の墓に刻ましめ、寄付金などして懇ろに後弔いてあり。
 弘化三年板『戯作花赤本世界』の巻頭に小三馬および豊国その門人等の肖像を載せて口上書あり。『当年の新板何がなと、蔦吉主人の註文にはござりますれど、私こともこの両三年俗用に追われ相休みおり、拙きうえに猶筆も回らず、新工夫などなかなか及ばぬ事と、たって辞退いたしましたるところ、画工豊国ぬしの度々の勧め、(略)さてわけて申し上げまするは、おなじみ歌川国貞ぬし、おととしの夏豊国と改名致されました。当人先師の名を汚し候ことを厭い、種々辞退致されたるところ、先師の画名、名もなき末弟などに継がれんより、高弟なり、名跡相続あらば、先師へ孝養ともなり、かたがた然るべき道なりと、歌川社中豊国一族寄り合い、たって勧めに、豊国と改名致されました。高名の自身、名を改め、ほど古りし先師の名を継ぐこと、実に師を敬う真心と感じ入り、当人のためのみにはなく候えども、その実義を感心のあまり、ついでながらこの段申し上げ奉ります。また後ろに控えおりまするは、二代(引用者注:実際は三代)豊国門人、国政、国麿、国道、国明にござります。この所にて御目見得いたさせまする。絵双紙初舞台の節は、ご評判よろしく』とあり、この口上書は、実に国貞が師名を継ぎし顚末を知るに足るものなり。
 一説に、国貞師名を継ぎしが、世評甚だよろしからず、よりて小三馬をして、この双紙を作らしめ、巻頭に口上書を掲げて、世評を消滅せんとす、拙き手段というべしと、鑿説(さくせつ)(引用者注:真実性の薄い説)なるべし。
 按ずるに、三世豊国が二世と称せしことは、けだし別に深き意味あるにあらず。ただ二世の下に立つことを厭いたるものの如し。おのれの技術もとより二世の上に出づるをもて、強いて二世と称せしなり。しかして流系相続の変換すべからざるを知らざるなり。当時識者のこれを笑うまた宜(むべ)ならずや。
 弘化三年門人国政に、一女をあわせて国貞の名を与え、亀戸の宅を譲りて家をつがしめ、己は隠居して柳島に地を買い移住せり。
 按ずるに、国政が国貞の名を譲られし年月詳らかならざれども、かの『赤本世界』に「門人国政」云々とありて、国貞の名なきをもて考うれば、弘化三年より以前にあらざること明らかなり。よりて今豊国が柳島移住の時とするなり。猶後考を俟つ。
 四世豊国は、もと国政と称し、また国貞と称す。亀戸辺の農家の子なり。幼より豊国に就きて浮世絵を学び、ついに国貞の名を譲られ、家を継ぐ。豊国の没するや、三世豊国と称す。実は四世なり。錦絵および絵双紙など描きたれど行われず。」
 豊重が二世を称したのに対して、なぜ「同門不承知」となったのでしょうか。豊重は、三世豊国となる国貞よりも入門が遅く、すなわち、国貞の弟弟子でありました。加えて、現在遺っている作品を比べると、画才でも国貞が豊重に勝っていたのです。長幼の序と画才、そのあたりが、天下の豊国の雅号を継ぐに当たっての同門不承知の原因でしょうか。なお、豊重は国貞より年下であったという説がありますが、現在のところ豊重の生年が確定できないので、この説の採否は保留しておきます。三世没後に、娘婿が
豊国を継いで、三世と称しましたが、実際は四世です。
 さて、四世没後、二世の弟子筋に当たるという者が豊国を継いで、現在も七世を名乗る者がいますが、裁判沙汰になって実際に浮世絵制作に携わった者ではないという判決が出ていて、豊国名は四世で途絶えたとするのが正確です。
 

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二世豊国                  四世豊国









 

 

浮世絵漫歩 9 歌川国芳の道外十二支6

 

番人の戌
 題に十二支の戌を入れたために「番犬」とはできなかったのでしょう。蜀山人(しょくさんじん)大田南畝(おおたなんぽ・1749-1823)の狂歌「飼ふ人の恩を魚の骨にまで良く噛み分けて家守る犬」そのままの絵です。大きな鋸を持つのは、家や蔵の裏側を破る家尻(やじり)切りという盗人で、逃げるところを捕まえられました。f:id:fukufukutei:20200628113146p:plain

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てつほうの亥
 鉄砲の亥です。この猪は、『仮名手本忠臣蔵』五段目山崎街道の場に出る猪です。闇の中を早野勘平の鉄砲に追われますが、弾は逸れて斧定九郎に当たり、無事逃げ延びられました。その猪が町に住み、家から外に出たところ、魚屋さんに、当たれば死ぬことから鉄砲と呼ばれている河豚を差し出され、鉄砲とのまさかの出会いに驚いています。
〈今回もデータの関係で上下の配列になりました〉


 



浮世絵漫歩 8 歌川国芳の道外十二支5

申のもゝとり
猿が桃を運んでいる小僧を襲撃し、荷物を強奪していきます。猿蟹合戦でも申が柿の実を奪います。『西遊記』中の、孫悟空が天界に昇って、神女の西王母のもとにある三千年に一度実る不老不死の桃を奪って大暴れをする場面を思わせます。この桃は、西王母漢の武帝に献じたという伝説があります。
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酉のふうふげんくわ
 鶏の夫婦喧嘩の立ち回りです。擂り粉木を手にした籠柄の浴衣の雄鶏を止めているのは家主でしょうか。雌鶏の着物柄を団七縞と見ると、『夏祭浪花鑑』関連の舞台面と推察されますが、残念ながら思い当たる演目が浮かびません。右下、釜とへっついの脇にある物が擂り鉢(八)、櫛(九)、十能(十)で、質物(七)を巡っての喧嘩と見れば、一目上がでおめでたいです。
〈今回は、絵柄関係で上下になりました〉