浮世絵漫歩 7 歌川国芳の道外十二支4

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左、たいこうち  午
 祭屋台の囃子の稽古か相談か、一杯やりながらの場面です。太鼓は馬の皮を張りますから馬の腹には太鼓の巴紋、狸は腹鼓から鼓の担当、狐は初午の鳴り物から、ちゃんぎり、よすけとも言われる当り鉦を担当して楽しくやっています。浴衣の柄がはっきり見えていて狸は茶釜、狐は宝珠です。
右、かみゆいどこ  未
 羊は紙を食べるところから、紙を髪に通わせ、「羊」と言う言葉は、髪結いまたは髪結い床を指す言葉として洒落て使われました。江戸訛りでは「かみいい」です。これは髪結い床の場面で、その構造は、客は外に向いて座って結ってもらいます。奥座敷が待ち合いになっています。籠が置いてありまして、どうやら客は共に故紙を買い取る紙屑屋さんのようです。髪結い賃が十六文、蕎麦、浮世絵、按摩の料金です。寄席の木戸銭も同額で、「へい」と言えば「一」のことという、数の符牒が共通です。

浮世絵漫歩 6 歌川国芳の道外十二支3

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右、冨士こしの辰
 古来画題になっている「富士越しの龍」です。北斎の絶筆も「富士越の龍」でした。国芳北斎の絶筆を見たでしょうか。富士登山浅間信仰が大変に流行し、富士講・浅間講という仲間が作られ、江戸の各地に小型の富士山に祀られ、団体で参詣しました。揃いの衣装に揃いの笠で登る龍の一行です。なお、龍の字は、常用漢字体では竜なのですが、何か重みが感じられないので龍を使っています。
左、めくらにこまる巳
 使われることが無くなった慣用句の「盲蛇に怖じず」の図です。使われなくなったために、事情を知らない者はその恐ろしさが判らない、無知であるために向こう見ずな行動をとるという意味が通じなくなっています。恐るべき存在である蛇を躊躇無しに踏みつける盲人に、蛇は大迷惑をしています。背景に富士山があり、この盲人は少々薄汚いですが、西行を思わせ、富士見西行の形とも見えてきます。荷物を斜めに掛けるのを「西行掛け」と申します。

浮世絵漫歩 5 歌川国芳の道外十二支2

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右、蛇の目ずしの寅
 虎仲間が、ちょいと寿司でもつまもうかと来ましたが、屋号は蛇の目、これは朝鮮出兵の時に虎退治で名を上げた加藤清正の紋所で、虎にとっては怖い存在、みんなびっくり、逃げるしかありません。虎は蛇の目傘も嫌ったのでしょう。雨に遭ったら、上等の蛇の目傘ではなく、安い番傘を使ったのでしょう。なお、番傘とは、商家で客に貸したり、奉公人が利用するので、紛失を防ぐために屋号や家紋とともに番号を付けたので、番号入り傘、縮めて番傘と言う名になったと言われています。          左、卯のだんごや
 最近聞かなくなりましたが、満月の夜は、月を見上げて、兎が餅を搗いていると言いました。その兎の店の名は、「月ぬき団子」、この屋号は、念入りによく搗いてこしらえた団子を表す「搗き抜き団子」を掛けています。江戸では、景[影]勝(かげかつ)団子という人気団子があり、『月雪花名残文台(つきゆきはななごりのぶんだい)』という変化舞踊の一つとして「玉兎月影勝(たまうさぎつきのかげかつ)」、通称「玉兎」に団子屋の所作が取り入れられています。

 

浮世絵漫歩 4 歌川国芳の道外十二支1

 

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歌川国芳 道外十二支(どうけじゅうにし)
 歌川国芳は寛政9年(1797)生まれ、文久元年(1861)没です。浮世絵好きの方でもあまり意識しませんが、初代歌川広重と同年の生まれです。
 国芳日本橋の染物屋の家に生まれ、初代歌川豊国に弟子入りして、国芳を名乗ります。
 国芳は30代になってから、「通俗水滸伝」の作で一躍人気絵師になります。後に、役者絵の初代国貞改め三代豊国(にがほ・似顔)、風景画の初代広重(けしき・景色)と並んで、武者絵の国芳(むしゃ・武者)と三幅対で称えられます。
 また、江戸っ子として洒落を好み、戯画の世界でも大活躍します。金魚づくし、猫を題材にした作品など、いろいろな生物や器物を擬人化した作品を多く描いています。近年、奇想の絵師として人気が急上昇しています。
 道外十二支は、天保12年(1841)に刊行されました。十二支の動物を擬人化し、諺や慣用句を土台にした作品です。江戸の洒落言葉や諺は今日ではわからないものも多く、また、絵だけで説明文が付いていませんので、様々な解釈ができるのが面白くも、もどかしいのです。
 国芳作品では、細部まで洒落がありますから、子細に見る必要があります。本作では、染物屋の悴らしく、着物の柄が凝っています。鼠に餅、牛に牛車の輪と天神様の注連縄、虎に竹、兎に波と芒、馬の絵に登場の狐に稲荷の宝珠と狸に茶釜、羊に紙、鶏に竹籠、犬に椀といったところが見てとれます。こういう細かい機知には、「よ、ご趣向(江戸訛りで、ごしこう)」という褒め言葉を使ったものです。           右、甲子の鼠
 甲子(きのえね)の日に集まり、子の刻(深夜0時)まで起きていて、大豆・黒豆・二股大根を食膳に供えて大黒天を祀り、商売繁盛を祈る行事を甲子待ちと言います。大黒天のお使いの鼠たちの甲子の宴の場に、なんと天敵の猫が来て、上を下への大騒動の場面です。甲子は十二支と十干の始まりですので、物事の始まりとして重んじられました。
左、からしきゝの牛 
 今日では使われない「牛と辛子は願いから鼻を通す」という諺が絵になりました。牛が鼻輪を通されて苦しむのは自らの天性ゆえ、辛子を食べて苦しむのは自分で口にしたゆえであるということで、責めすべて自分で負うのです。現代では自己責任という情の無い言葉になりました。牛が酒の肴に付けた辛子が利いて、鼻を押さえています。江戸では鰹を食べるときに辛子を付けて食べますから、鰹で一杯の光景でしょうか。

 

 

浮世絵漫歩 3 彫師競演 

彫の極致                                   三代歌川豊国(天明6年<1786>ー元治元年<1864>、天保14年<1844>初代国貞から三代豊国を襲名)の「役者見立東海道五十三次」(嘉永5年<1852>以降成立)の京、右が「真柴久吉」、左が「志川五右衛門」で、歌舞伎『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の二段目「南禅寺山門の場」での両者を見立てています。              真柴久吉を彫ったのは「彫竹」こと横川竹二郎(嘉永元年<1848>から元治元年<1864>ころ活躍)、石川五右衛門を彫ったのは「彫巳の」こと小泉巳之吉(天保4年<1833>ー明治39年<1906>)です。「彫巳の」はこの連作の白須賀を18歳で彫り、その毛彫の細かさにその才を見せました。京は、二人の名手が対峙した見事な作品です。

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浮世絵漫歩 2 序文2

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富士三十六景 序文
 歌川広重没後に出版された富士三十六景の序文を紹介します。この文から、富士三十六景が広重没後に出版されたことが判ります。色の指定は、二代広重によるかと言われています。
 上段の文は原文のままの改行です。

初代広重翁(しよだいひろしげをう)は齢(よはひ)と倶(とも)に業(わざ)
の老(おひ)ゆかざる間(ま)に疾(とく)筆(ふで)を絶(たち)
て世(よ)の塵(ちり)を払(はら)はんといはれし
ことしばしばなりしが終(つひ)に筆(ふで)の
余波(なごり)生前(しやうぜん)の思ひ出(で)にと一世(いつせ)の
筆意(ひつゐ)を揮(ふる)はれたる冨士三十六景(ふじさんじふろくけい)
の写本(はんした)を持(も)て来(き)て是(これ)彫(ほり)て
よと授与(あたへ)給ひしは過(いぬ)る秋(あき)のはじ
めになん有(あり)けるそが言(こと)の葉(は)の
末(すへ)の秋(あき)長月(ながづき)上旬(はじめ)其(それ)の日(ひ)に行年(ゆくとし)
つもりて六十(ろくじふ)に二(ふた)つ余(あま)れば草津(くさつ)
といふ宿(しゆく)の号(な)ならで筆艸(ふでぐさ)の
露(汁)を現世(このよ)へ置土産(おきみやげ)行(ゆき)てかへらぬ
ながながしき黄泉(よみぢ)の旅(たび)を双六(すごろく)の
乞目(こひめ)にあらで六道(ろくどう)の闇路(やみぢ)を独(ひとり)
ゆかれしは実(げに)や往事(わうじ)は夢(ゆめ)の
ごとし今(いま)将(はた)思(おも)ひ合(あは)すれば過(いぬ)
る日(ひ)言(いは)れしことの葉(は)は世(よ)の諺(ことはざ)に
謂(いへ)る如(ごと)く虫(むし)が知(し)らしゝものなる
べしされば妙(たえ)なる筆(ふで)のあと
そを追福(つひふく)のこゝろにて彫(ほり)摺(すり)な
んども上品(じやうぼん)に製(もの)し侍(はん)べる紅英堂(はんもと)
の主人(あるじ)の意中(ゐちう)を告(つげ)まつるは
  楓川(もみぢかは)の辺(ほとり)ちかき市中(しちう)に栖(すむ)
         三亭春馬 印

初代広重翁は、齢と倶に業の老ゆかざる間に疾く筆を絶ちて、世の塵を払はんと言はれしことしばしばなりしが、終に筆の余波、生前の思ひ出にと一世の意を揮はれたる「冨士三十六景」の写本を持て来て、「是彫りてよ」と授け給ひしは、過ぐる秋のはじめになん有ける。そが言の葉の末の秋、長月上旬其の日に行年つもりて六十に二つ余れば、草津といふ宿の号ならで、筆艸の露を現世へ置土産、行きてかへらぬ長々しき黄泉の旅を、双六の乞目にあらで、六道の闇路を独りゆかれしは、実や往事は夢のごとし。今将思ひ合はすれば、過る日言はれし言の葉は、世の諺に謂へる如く、虫が知らしゝものなるべし。されば妙なる筆のあと、そを追福のこゝろにて彫摺なんども上品に製し侍る紅英堂の主人の意中を告げまつるは、
   楓川の辺ちかき市中に栖む
            三亭春馬 印

<要旨> 初代広重翁は、年と共に筆力が落ちる前に絵筆を捨ててしまおうと何度も仰せになっておられましたが、一生の思い出にと一世一代の筆を振るった富士三十六景の版下をお持ちになって、この作品を出版してほしいと渡されたのは去年の秋の初め七月のことでありました。その末の秋、九月のその日(六日)、その作品を置き土産として六十二歳で黄泉路の旅に発たれたまして、誠にそれまでのことが夢のように思われます。今思い返せば、翁の言葉は虫が知らせたものなのでしょう。そこで、翁の遺された版下を、冥福を祈る気持ちで彫・摺を入念に行った版元・紅英堂の気持ちを代弁して記したのは、楓川のほとりに住む、三亭春馬です。

三亭春馬(さんていしゅんば)  江戸時代後期の狂歌師、戯作者。生家は江戸吉原の妓楼三浦屋。大文字屋村田市兵衛の養子となるが離縁となり、山谷で質屋を営んだといわれる。黒川春村に狂歌を、十返舎一九式亭三馬に戯作をまなんだ。嘉永4年12月18日死去。姓は磯部、三浦、村田。通称は源兵衛。別号に九返舎一八、三代十返舎一九、三代加保茶元成など。作品に「多気競(たけくらべ)」「御狂言楽屋本説(おきょうげんがくやのほんせつ)」など。?-1852(デジタル版 日本人名大辞典+Plus・講談社)

浮世絵漫歩 1 序文1

保永堂版 東海道五十三次之内の序文
 浮世絵を続き絵として刊行して完結後、組にして販売する時に目録と序文を付けることがあります。個々の絵を見ることはあっても、なかなか序文には出会えませんので、ここに、保永堂版東海道五十三次の序文をご紹介します。改行は原文のままです。

空かそふ大江戸のまちの真中にう
ちわたして我大御国の名をおほせ
たる橋のもとより内日刺都にのほる
東の海つ路五十ち余り三つのうまや
ちは年ことの春の始に子等かもて
遊ひくさにすなる道中すく六と
いふものにかの橋より宿々の絵かきて
ゆくみちのほとをもはかりしるしたるは
世の人のよくしれる所也しかはあれとそは
たゝ時の間のたはれ物にしあれは猶委
しうせむとて絵師広重ぬし其宿々は
さらなり名高う聞えたる家ゐあるは
海山野川草木旅ゆく人のさまなと
何くれと残る隈なく写しとられたるか
まのあたりそこに行たらむこゝちせ
られてあかぬ所なけれは後の世にも
伝へまくいそしみてこたひ竹内のあるし
板にゑられたるはしつかたに白き帋の
一ひらあなれはおのれに其ゆゑよしかい
つけてよとこはるゝまにまにつかみし
かき筆とりていさゝかをこなるたふれ
ことかきしるすにこそ
  天保五とせに    俳諧歌房
   あたるむつき    四方瀧水
   

空数ふ大江戸の町の真中に打ち渡して、我が大御国の名を負ほせたる橋の元より、うちひさす都に上る東の海つ路五十(いそぢ)余り三つの駅路(うまやぢ)は、年ごとの春の始めに、子等が持て遊びぐさにすなる道中双六といふものに、かの橋より宿々の絵描きて、行く道のほどをもはかり記したるは、世の人のよく知れる所なり。しかはあれど、そはただ時の時の間の戯(たは)れ物にしあれば、猶委(くは)しうせむとて、絵師広重ぬしその宿々はさらなり、名高う聞えたる家居、あるは海山野川草木、旅行く人のさまなど何くれと、残る隈なく写しとられたるが、目の辺りそこに行きたらむ心地せられて、飽かぬ所なければ、後の世にも伝へまく勤しみて、此(こ)度(たび)竹内(たけのうち)の主(あるじ)、板に彫(ゑ)られたる端つかたに白き帋(かみ)の一枚(ひとひら)あなれば、己に(おのれ)その故由(ゆゑよし)書い付けてよと、乞はるるまにまに柄(つか)短き筆執りて、いささか烏滸(をこ)なる戯(たふ)れごと書き記すにこそ
  天保五年に当たる睦月
         俳諧歌房 四方瀧水(よものたきすい)

〈要旨〉江戸の日本橋から京までの五十三の宿駅については、毎年正月に子供達が遊ぶ道中双六に描かれているが、このたび広重師がそれをさらに詳しく、住居景色、旅人の様子まで描き尽くしたので、まるでその場所に行くような気持ちにもなり、これを後世に伝えたいと思ったところ、竹内孫八氏がこれを板行し、その余白にこのいきさつを書くようにと私に命じたので、至らぬ筆でこのようにに書いたものです。
 天保五年(1834)正月  四方滝水

 四方滝水(よものたきすい) 江戸後期の狂歌師。通称は榎本治兵衛、のち三右衛門、別号を狂歌房・吾友軒。晩年、四方滝水・滝水楼と改めた。大田蜀山人門下。版本挿絵や狂歌摺物などを手がけた後、晩年は本絵師として肉筆の美人風俗画を描く。和文にも巧みで、蜀山人主催の「和文の会」の一員となった。その著『観難誌』は天明・寛政期の狂歌界を知る貴重な資料である。生没年不詳。(WEBの美術人名辞典・思文閣
 滝水は江戸時代の酒の名で、義士銘々伝のうち「赤垣源蔵徳利の別れ」に、赤垣源蔵が兄に別れを告げに来た時に、兄と酌み交わそうと下げて来た酒が滝水二升で、「うまい、酒は滝水にとどめ刺す」と言っています。