浮世絵漫歩 10 絵師の号1ー豊国

浮世絵師の号について 1
 葛飾北斎は生涯に30以上の号を使っています。改号の理由の一説として、弟子に号を売り渡して収入に充てたといいます。この話は、浮世絵の価値を、絵自体の巧拙ではなく、号という看板だけで判断する買い手がいたということを示しているのではないでしょうか。
 定評を得た人気絵師が亡くなると、利潤を追求する版元は、絵師の記憶が薄れないうちに、その弟子のうちから衣鉢を継ぐ者を選ぶこともあります。また、弟子の中で跡目争いになることもあります。いずれも絵師の名跡が版元と絵師それぞれの利潤につながるからでなのです。ここでは、2回に分けて、歌川豊春から始まる歌川派の二つの名跡となった豊国号と広重号について取り上げます。
①「歌川豊国」の場合
 浮世絵研究の基礎資料として、『浮世絵師歌川列伝』を引用して紹介します。同書は、明治20年代に成立した飯島虚心著の稿本を、昭和16年玉林晴朗が校訂して、畝傍書房から刊行されました。引用文は、畝傍書房版をもとにして表記を改めた中公文庫版を読みやすくしました。
①「歌川豊国」の場合を年譜形式にします。
  1825 初世歌川豊国没。
  1825 歌川豊重、二世豊国を名乗る。
     この襲名は「同門不承知」となり、豊重は後に絵師を廃業する。
  1844 初世歌川国貞、二世豊国を名乗る。
     世間から三世であるとの非難を受ける。
  1846 三世豊国が、弟子の二世歌川国政に、二世国貞を名乗らせる。
  1864 二世豊国を称した三世豊国(初世国貞)没。
  1870 二世国貞、三世豊国を名乗る。(実際は四世)。
『歌川列伝』を引用してみましょう。なお、通常は「初代」のように「代」を使うことが多いのですが、最後に引用する狂歌との対応もあり、『列伝』の文に従って「世」に統一しました。「按ずるに」以下の文は、『列伝』の著者の飯島虚心の意見です。
「弘化元年(1844)の夏、国貞師名を継ぎ、二世豊国と称す。実は三世なり。
 按ずるに三世豊国、何の故に二世を称せしにや、詳らかならず。彼は自ら二世と称すといえども、既に二世豊国あれば、三世にあらずや。かの柳島妙見にある一世豊国が筆塚の裏面に、『二代目豊国社中、国富、国朝、国久云々。国貞社中、貞虎、貞房、貞秀云々』と刻しあることは、世人のよく知るところにして、蔽(おお)うべからざる明証なり。しかるに二世というをもて、当時世評はなはだ騒がしかりしなり。ある人の狂歌に、『歌川をうたがはしくも名のり得て、二世の豊国にせのとよくに』。
 一説に国貞かつて、二世豊国の妻と通じて、二世を追い出せりというは妄説(引用者注:根拠のない説)なり。国貞は生来謹慎(引用者注:身を慎んで)にして、かくのごとき悪行をなす人にあらず。しかしてその師名を継ぎしは、実に師恩を思うの真心に出でたるものにして、けだし師家の既に絶えなんとするを悲しみ、永く師の墳墓を弔わんためなるべし。されば己の墳墓は、亀戸にあれど遺言によりて、己の法名を三田功運寺なる一世豊国の墓に刻ましめ、寄付金などして懇ろに後弔いてあり。
 弘化三年板『戯作花赤本世界』の巻頭に小三馬および豊国その門人等の肖像を載せて口上書あり。『当年の新板何がなと、蔦吉主人の註文にはござりますれど、私こともこの両三年俗用に追われ相休みおり、拙きうえに猶筆も回らず、新工夫などなかなか及ばぬ事と、たって辞退いたしましたるところ、画工豊国ぬしの度々の勧め、(略)さてわけて申し上げまするは、おなじみ歌川国貞ぬし、おととしの夏豊国と改名致されました。当人先師の名を汚し候ことを厭い、種々辞退致されたるところ、先師の画名、名もなき末弟などに継がれんより、高弟なり、名跡相続あらば、先師へ孝養ともなり、かたがた然るべき道なりと、歌川社中豊国一族寄り合い、たって勧めに、豊国と改名致されました。高名の自身、名を改め、ほど古りし先師の名を継ぐこと、実に師を敬う真心と感じ入り、当人のためのみにはなく候えども、その実義を感心のあまり、ついでながらこの段申し上げ奉ります。また後ろに控えおりまするは、二代(引用者注:実際は三代)豊国門人、国政、国麿、国道、国明にござります。この所にて御目見得いたさせまする。絵双紙初舞台の節は、ご評判よろしく』とあり、この口上書は、実に国貞が師名を継ぎし顚末を知るに足るものなり。
 一説に、国貞師名を継ぎしが、世評甚だよろしからず、よりて小三馬をして、この双紙を作らしめ、巻頭に口上書を掲げて、世評を消滅せんとす、拙き手段というべしと、鑿説(さくせつ)(引用者注:真実性の薄い説)なるべし。
 按ずるに、三世豊国が二世と称せしことは、けだし別に深き意味あるにあらず。ただ二世の下に立つことを厭いたるものの如し。おのれの技術もとより二世の上に出づるをもて、強いて二世と称せしなり。しかして流系相続の変換すべからざるを知らざるなり。当時識者のこれを笑うまた宜(むべ)ならずや。
 弘化三年門人国政に、一女をあわせて国貞の名を与え、亀戸の宅を譲りて家をつがしめ、己は隠居して柳島に地を買い移住せり。
 按ずるに、国政が国貞の名を譲られし年月詳らかならざれども、かの『赤本世界』に「門人国政」云々とありて、国貞の名なきをもて考うれば、弘化三年より以前にあらざること明らかなり。よりて今豊国が柳島移住の時とするなり。猶後考を俟つ。
 四世豊国は、もと国政と称し、また国貞と称す。亀戸辺の農家の子なり。幼より豊国に就きて浮世絵を学び、ついに国貞の名を譲られ、家を継ぐ。豊国の没するや、三世豊国と称す。実は四世なり。錦絵および絵双紙など描きたれど行われず。」
 豊重が二世を称したのに対して、なぜ「同門不承知」となったのでしょうか。豊重は、三世豊国となる国貞よりも入門が遅く、すなわち、国貞の弟弟子でありました。加えて、現在遺っている作品を比べると、画才でも国貞が豊重に勝っていたのです。長幼の序と画才、そのあたりが、天下の豊国の雅号を継ぐに当たっての同門不承知の原因でしょうか。なお、豊重は国貞より年下であったという説がありますが、現在のところ豊重の生年が確定できないので、この説の採否は保留しておきます。三世没後に、娘婿が
豊国を継いで、三世と称しましたが、実際は四世です。
 さて、四世没後、二世の弟子筋に当たるという者が豊国を継いで、現在も七世を名乗る者がいますが、裁判沙汰になって実際に浮世絵制作に携わった者ではないという判決が出ていて、豊国名は四世で途絶えたとするのが正確です。
 

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二世豊国                  四世豊国