浮世絵漫歩 11 絵師の号2ー広重 

浮世絵師の号について 2
歌川広重」の場合 
 まず、いきさつを年譜形式で示します。
  1858 初世歌川広重没。
  1859 師の広重に特に目を掛けられていた歌川重宣が、14歳年下の広重の養女お辰
     に入夫し、二世広重を名乗る。
  1865 二世広重、広重号を返上し、婚家を出て、立祥を名乗る。
     重宣(二世広重)の弟弟子の歌川重政、広重の養女お辰に入夫し、二世広重を
     名乗る。実際は三世である。
  今回もまた、『浮世絵師歌川列伝』を引用して紹介します。豊国の項に書いた通り、同書は、明治20年代に成立した飯島虚心著の稿本を、昭和16年玉林晴朗が校訂して、畝傍書房から刊行されました。引用文は、畝傍書房版をもとにして表記を改めた中公文庫版を読みやすくしました。この文中の一女が後妻の子とありますが、この一女すなわちお辰は、初代広重の実子ではありません。また、二代広重が喜斎立祥と称するのは、広重号を返上して広重家を退去した後のことです。
「広重の先妻の名詳らかならず。早く死す。後妻その名また詳らかならず。一女を儲く。広重の没するや、門人重宣をこの女にあわせて家を継がしむ。これを二世広重とす。立祥といい、喜斎と号す。山水花鳥を描くをなし、よく一世の筆意を守りて失わず。その落款一世と異なることなし。ゆえに人おおくは一世二世を弁ずる能わざるなり。落合氏(芳幾)いわく、『二世広重は好人物なり。予はしばしば彼に出逢いしが、性正直にして事に処する甚だ謹慎なりし。あるは世事に疎き所なきにあらざれども、画道におきてはすこぶる妙所あるがごとし。惜しむべし』と。後に故あり家を出で横浜に赴き、再び重宣と号し、絵画を業とせしが、いくばくならずして没せしという。
 二世の家を出づるや、同門重政代わりて家を継ぐ。これを三世広重とす。またよく山水を描く。かつて伊勢、大和、大阪、京都を廻り、また常陸、下総に遊び、行々山水を写し、その志一世の工に出でんを欲せしが、不幸にして病に罹り、明治二十七年三月二十八日没す。惜しむべし。友人清水氏後事をおさむ。
 按ずるに、三世広重、自ら二世と称す。何の故を知らず。けだし理由ありしならん。過ぐる日これを聞かんとて、広重(引用者注:三世)のもとに至りしに、既に病にかかり言語不通、聞くに由なく、やむを得ずして帰る。遺憾なり。
 無名氏いわく、広重(引用者注:初世)の山水錦絵は、一家の画風にして、古人のいまだ嘗て描かざるところを描く。絶妙と称すべし。けだしその画法は豊春、豊広の浮絵を本となし、四条および南宋の画に拠りたるものにして、その彩色はみずから発明するところおおきがごとし。およそ山水の景を写すには、まずその位置のよろしきを撰ぶこと、もっとも肝要なり。広重はよくこの位置を撰ぶことに妙を得たり。これ他人の及ばざるところなり。二世広重画法を伝えてよく描きしが、家を出でて没し、三世広重継ぎて描きしが行われずして止む。ここに至り広重が山水の画法を伝うるもの、全く絶えたるがごとし。実に惜しむべきなり。近ごろ広重の山水画、大いに欧米に行われ、輸出日に多し。ゆえをもて現今我が国に存するもの、はなはだ乏しきにいたれり。横絵の東海道五十三次、および魚づくしの絵等、もっとも行わる。これ広重が腕力実に超凡なるをもってにあらずや。」
 三世広重の没後、三世の未亡人(辰女の没後の後添い八重)と「清水氏」すなわち清水晴風とが相談して、安藤家と親しいゆえをもって、菊池貴一郎に四世を継がせました。さらに貴一郎の息寅三が五世を継いでいます。
 以上、豊国の号、広重の号ともに、師の号の重さを弟子が感じている話であります。いずれもが、三世が先代である二世の存在を抹殺して二世を名乗るのは、その間の事情や人間関係について多くの憶測を可能にしてしまいます。
 なお、国芳は、俺の名を継ぐ奴がいたら化けて出てやるといったせいかどうか、名を継ぐ者はいませんでした。弟子も多く、跡目争いがなかったゆえか、その画系は、月岡(大蘇)芳年―水野年方―鏑木清方伊東深水川瀬巴水へと続いています。また、薫陶を受けた一人に河鍋暁斎がいて、さらにその弟子には暁英こと建築家のジョサイア・コンドルがいます。
 下に、初代広重の「六十余州名所図会」と二代広重の「諸国名所百景」から同じ尾張の天王祭を付けておきます。

 

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