浮世絵漫歩 2 序文2

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富士三十六景 序文
 歌川広重没後に出版された富士三十六景の序文を紹介します。この文から、富士三十六景が広重没後に出版されたことが判ります。色の指定は、二代広重によるかと言われています。
 上段の文は原文のままの改行です。

初代広重翁(しよだいひろしげをう)は齢(よはひ)と倶(とも)に業(わざ)
の老(おひ)ゆかざる間(ま)に疾(とく)筆(ふで)を絶(たち)
て世(よ)の塵(ちり)を払(はら)はんといはれし
ことしばしばなりしが終(つひ)に筆(ふで)の
余波(なごり)生前(しやうぜん)の思ひ出(で)にと一世(いつせ)の
筆意(ひつゐ)を揮(ふる)はれたる冨士三十六景(ふじさんじふろくけい)
の写本(はんした)を持(も)て来(き)て是(これ)彫(ほり)て
よと授与(あたへ)給ひしは過(いぬ)る秋(あき)のはじ
めになん有(あり)けるそが言(こと)の葉(は)の
末(すへ)の秋(あき)長月(ながづき)上旬(はじめ)其(それ)の日(ひ)に行年(ゆくとし)
つもりて六十(ろくじふ)に二(ふた)つ余(あま)れば草津(くさつ)
といふ宿(しゆく)の号(な)ならで筆艸(ふでぐさ)の
露(汁)を現世(このよ)へ置土産(おきみやげ)行(ゆき)てかへらぬ
ながながしき黄泉(よみぢ)の旅(たび)を双六(すごろく)の
乞目(こひめ)にあらで六道(ろくどう)の闇路(やみぢ)を独(ひとり)
ゆかれしは実(げに)や往事(わうじ)は夢(ゆめ)の
ごとし今(いま)将(はた)思(おも)ひ合(あは)すれば過(いぬ)
る日(ひ)言(いは)れしことの葉(は)は世(よ)の諺(ことはざ)に
謂(いへ)る如(ごと)く虫(むし)が知(し)らしゝものなる
べしされば妙(たえ)なる筆(ふで)のあと
そを追福(つひふく)のこゝろにて彫(ほり)摺(すり)な
んども上品(じやうぼん)に製(もの)し侍(はん)べる紅英堂(はんもと)
の主人(あるじ)の意中(ゐちう)を告(つげ)まつるは
  楓川(もみぢかは)の辺(ほとり)ちかき市中(しちう)に栖(すむ)
         三亭春馬 印

初代広重翁は、齢と倶に業の老ゆかざる間に疾く筆を絶ちて、世の塵を払はんと言はれしことしばしばなりしが、終に筆の余波、生前の思ひ出にと一世の意を揮はれたる「冨士三十六景」の写本を持て来て、「是彫りてよ」と授け給ひしは、過ぐる秋のはじめになん有ける。そが言の葉の末の秋、長月上旬其の日に行年つもりて六十に二つ余れば、草津といふ宿の号ならで、筆艸の露を現世へ置土産、行きてかへらぬ長々しき黄泉の旅を、双六の乞目にあらで、六道の闇路を独りゆかれしは、実や往事は夢のごとし。今将思ひ合はすれば、過る日言はれし言の葉は、世の諺に謂へる如く、虫が知らしゝものなるべし。されば妙なる筆のあと、そを追福のこゝろにて彫摺なんども上品に製し侍る紅英堂の主人の意中を告げまつるは、
   楓川の辺ちかき市中に栖む
            三亭春馬 印

<要旨> 初代広重翁は、年と共に筆力が落ちる前に絵筆を捨ててしまおうと何度も仰せになっておられましたが、一生の思い出にと一世一代の筆を振るった富士三十六景の版下をお持ちになって、この作品を出版してほしいと渡されたのは去年の秋の初め七月のことでありました。その末の秋、九月のその日(六日)、その作品を置き土産として六十二歳で黄泉路の旅に発たれたまして、誠にそれまでのことが夢のように思われます。今思い返せば、翁の言葉は虫が知らせたものなのでしょう。そこで、翁の遺された版下を、冥福を祈る気持ちで彫・摺を入念に行った版元・紅英堂の気持ちを代弁して記したのは、楓川のほとりに住む、三亭春馬です。

三亭春馬(さんていしゅんば)  江戸時代後期の狂歌師、戯作者。生家は江戸吉原の妓楼三浦屋。大文字屋村田市兵衛の養子となるが離縁となり、山谷で質屋を営んだといわれる。黒川春村に狂歌を、十返舎一九式亭三馬に戯作をまなんだ。嘉永4年12月18日死去。姓は磯部、三浦、村田。通称は源兵衛。別号に九返舎一八、三代十返舎一九、三代加保茶元成など。作品に「多気競(たけくらべ)」「御狂言楽屋本説(おきょうげんがくやのほんせつ)」など。?-1852(デジタル版 日本人名大辞典+Plus・講談社)