浮世絵漫歩 27 豊原国周のこと

 森銑三という碩学の著作集の中に、豊原国周についての読売新聞からの記事が転載されています。豊原国周は三代歌川豊国の弟子で、一時押絵の道にも入っていて、後に豊国の弟子として役者絵の第一人者と言って差し支えがない、幕末から明治期に活躍した絵師です。生まれは1835年(天保6年)、没年は1900年(明治33年)です。
 ここに森銑三著作集続編第8巻の「飯島虚心の浮世絵雑談」から、「故国周の性行」という部分を、表記を現代仮名遣いに改めて引用させて戴くことにします。飯島虚心は、『葛飾北斎伝』など、浮世絵関係の著作が多いことで知られています。この文は、国周が亡くなって半年後に掲載されました。 
 
   故国周の性行                局外閑人(飯島虚心)
                      (読売新聞・明治33年7月20日)
 余(局外閑人)は国周を知ることが久しい。嘗てその居を訪うたら、国周は頻りに得意の似顔絵を描いていた。一体誰の似顔です。何の狂言をしているのです。私がそう問うたら、誰だよ、という。その狂言は、もう見たのですか、と重ねて聞いたら、国周は微笑して、この芝居は、まだ始まっちゃいない。けれども顔には、こう隈を取るんだ、体のこなしはこうで、衣裳の模様はこうに極まっている。国周は、そういって筆を運ばせた。ほんとうなのかどうか、些か疑わしくも思われるので、その芝居の始まるのを待って行って見たら、果たして国周のいった通りであった。その描くところと実際とは、違っていなかった。
 また一日、芸妓の肖像を描くことを頼まれたところへ行き合わせたが、まずその顔付きを聞いて描き、次には髪の飾りを聞いた。ただそれだけで、その外のことは一切聞かず、流行のこの櫛やこの簪を使うからには、着物の上着は流行の何々だろう。下着は何々で、帯は必ず何々だろう。この帯を締めるとしたら、下駄は必ずこれを履くだろうといって、すべてを描いた。ただ髪飾りだけを聞いて、その外は皆推量して、こうだという。私は国周の頭の働くのに驚いた。
 彩色は、国周の最も得意としたところで、よく歌川派の正伝を守って失わなかった。時としては、二三種の絵の具を配合しただけで、よく六七種の色を使ったかと思われるようなものを描いた。絵の具の数を減らして、却って妍麗なものとした。絵草紙問屋が来て、絵の註文をする時、画料を出すことが意の如くだった場合には、そうした効果的なものを作ったが、画料をはずまないで描かそうなどという問屋には、わざと色数を多くして、費用のかさむようにする。それには問屋達も恐れをなし、国周の意にさからわないようにと、びくびくしていたものだった。これらは皆多年の習練から来ているので、他の画家達の企て及ばぬところであった。国周を以て、近頃の浮世絵師中の一大家と称しても、決して誉め過ぎにはならない。
 明治に入ってから、写真術が盛んになり、役者の写真が大いに行われるようになった。その影響を受けて、似顔絵は忽ちにすたれ、国周以外には、これを描く者が殆どなくなってしまっていたのであるが、今やその国周も死んで、似顔絵はいよいよ滅びることになってしまった。惜しいことだといわねばならぬ。
 国周は、性質が正直だった。それで一途に師匠から受けた画法を守って、他を顧みぬ。風韻雅致などということは、預かり知らぬかのようだった。頗る酒を嗜んで、酔いが廻ると、歌い且つ舞って余念のないこと、恰も小児の如くだった。家計はいつも苦しくて、書画会などもしばしば催したけれども、そうして得たところも、数日中に尽くしてしまう。信越地方へ、しばしば遊歴に出かけたが、帰宅には、懐はもう空だった。
 転居の癖があって、下谷、浅草、神田、本所と移り住むことが、何十回か、数え切れぬほどだった。ところが近年本所に家を定めてから、ひと所にじっとしていることが殆ど三年に及んだものだから、或る人がそれに対して、国周が引っ越しをしなくなったのはおかしい。ひょっとしたら死ぬのではないか、といったのだったが、果たしてその如くになってしまった。(引用了)
 
 この文の中に、国周がまだ上演されていない狂言について役者の姿を推理して描くという記述がありますが、他の絵師でもこれができるとすると、作品の成立について考える時にも影響するのではないかと、専門家の先生に対して、余計な心配をしてしまいます。
 また、明治31年の読売新聞に、「明治の江戸児」という題で、「豊原国周は、歌川豊国の遺髪を継ぎて、似顔絵師の巨擘なり。通称荒川八十八(やそはち)とて、本年六十四歳、三代相伝の江戸ッ子にて、気象面白く、一世の経歴は東錦絵と共に花やかなれども、自体金銀を物の数とも思わねば、今は本所表町の片隅に引き込みて、いといと貧乏に浮世を送れり。彼の家は、熊谷稲荷の東二町ほどの北裏にて、棟割長屋の真中なれども、ちょっと瀟洒の格子を立てて、名札と来状箱を掲げ、一間三尺の靴ぬぎの向こうは、垢つきたる畳の一間なり。いかがの長火鉢を据えて、仏壇をも飾る。奥なるいぶせき二畳は、机取り散らして、斯流の名画がこの所に成れりとも思われず。頭からこれが大画人の住まいと心づくは稀なるべし。彼は炯々たる目にあたりを見廻し、ようよう六七寸に伸びたる白き顎鬚搔い撫でて、江戸ッ子の全盛を語り」という前文から始まる文が掲載されていて、これも森銑三著作集続編第6巻に「国周とその生活」という題で収録されているのですが、全文転載ははばかりがありますので、その存在だけお知らせしておきます。