浮世絵漫歩 26 喜多川歌麿略年譜

喜多川歌麿略年譜
1753 この年生まれるか(一説に1754年)。
   北川氏、幼名市太郎、俗称勇助、勇記。出生地には江戸、川越、栃木など数説あ
   り。
-- 狩野派から浮世絵に転じた鳥山石燕に入門、北川豊章と名乗る。なお、鳥山石燕
   には、栄松斎長喜も入門している。
1775 富本節浄瑠璃正本「四十八手恋所訳」下巻表紙絵を描く。
1776 一枚摺「市川五粒名残り惣役者ほつくしう」「市川八百蔵の五郎時宗」板行。
1777 細判錦絵「芳沢いろはのすしや娘おさと」板行。
1778 黄表紙挿絵の最初作『善光寺/御利生 通鳬寝子の美女』板行。
1779 黄表紙『東都見物左衛門』、洒落本『女鬼産』、噺本『寿々葉羅井』板行。
1780 黄表紙『芸/者/呼子鳥』『振/袖/近江八景』『きつい武左ヱ門』『仇競夢浮橋』
   板行。
1781 黄表紙『身貌大通神略縁起』を蔦屋から板行、本書で初めて「忍岡哥麿」と号
   す。蔦屋重三郎との交流が始まる。上野忍ヶ岡数寄屋町に住す。
1782 秋、歌麿の改名披露の摺物板行か。
1783 この年の序をもつ『狂歌知足振』に筆綾丸(ふでのあやまる)として名を連ねる。
   黄表紙『右通/慥而/啌多雁取帳』『源平総勘定』、洒落本『通神/孔釈/三教色』
   『契情知恵鑑』板行。
   この頃通油町の蔦屋重三郎宅に寄寓か。のち神田弁慶橋久右衛門町、馬喰町三丁
   目に住み、晩年は伝馬町大丸新道に住むか。
1784 『古湊道中記』に初めて「喜多川哥麿」と名乗る。
   黄表紙『従夫以来記』『亀遊書草帋』『他不知思染井』『新田通戦記』、噺本
   『炉開噺口切』、艶本『床   善草』板行。
1785 狂歌双六絵『四六/春興/夷歌連中双六』、黄表紙『蛸入道佃沖』、噺本『百福物
   語』板行。
1786 蔦屋より狂歌絵本『絵本江戸爵』板行。「石燕七十五祝寄書」に勇助名で作画。
1787 狂歌絵本『絵本詞の花』『麦生子』、黄表紙『あの子/どこの子/長者の飯食』、
   洒落本『不二野夫鑑』板行。
   寛政の改革始まる(1793年まで)。
1788 狂歌絵本『画本虫撰』、艶本『歌まくら』、黄表紙『首尾松/見越松/雪女廓八
   朔』『扇蟹目/傘轆轤/狂言末広栄』、洒落本『曾我糖袋』『一向/不通 替善運』
   板行。
   狂歌絵本『潮干のつと』この年か。
   8月3日、鳥山石燕没(77歳)
1789 狂歌絵本『絵本譬喩節』奥付に「自成一家」の印を使用。狂歌絵本『和歌夷』
   『狂歌坊』、黄表紙『冠言葉七目十二支記』『淀屋宝物/東都名物/嗚呼奇々羅金
   鶏』板行。
1790 8月26日、理清信女(母または妻りよ)を浅草専光寺に葬る。
   狂歌絵本『銀世界』『普賢像』『絵本吾妻遊』『絵本駿河舞』『絵本よもぎ
   島』、黄表紙『雄長老寿話』『太平記/吾妻鑑/玉麿青砥銭』『忠孝遊仕事』板
   行。
   狂歌絵本『百千鳥』もこの年か。
   この頃より、栃木の素封家善野喜兵衛との交流始まるか(栃木訪問は少なくとも3
   回)。(「吉原の花」「品川の月」「深川の雪」が順次制作されるきっかけ。)
1791 この頃から美人の半身大首絵を蔦屋から板行する。
   山東京伝『娼妓絹籭』『錦之裏』『仕懸文庫』の三作で筆禍を受け手鎖五十日、
   版元蔦屋は身上半減に処せられる。
1792 美人画の「婦女人相十品」「婦人相学十躰」「姿見七人化粧」など、この頃か。
1794 「当時全盛似顔揃」この頃か。
   東洲斎写楽、この年から翌年にかけて役者絵を発表。
1795 「青楼十二時」「娘日時計」この頃か。
1796 この頃、歌麿美人のもみ上げの毛割が複雑になる。
   狂歌絵本『狂歌晴天闘歌集』を仁義道守と分担執筆。
   8月、一枚絵の中に女芸者・茶屋女などの名を入れることを禁ずる町触れ出る。
1797 5月6日、蔦屋重三郎没(46歳)。
1798 狂歌絵本『男踏歌』、洒落本『石場/妓談/辰巳婦言』板行。
1799 狂歌絵本『似顔/絵本/俳優楽室通』に一図作画。
1800 8月、美人大首絵禁止。
1801 狂歌絵本『絵本四季の花』板行。
1802 黄表紙『延命/長尺/御誂染長寿小紋』『明/花/春為化』『聞/風/耳学問』。
1803 「婦人相学拾躰」「教訓親の目鑑」「咲分言葉花」などこの頃か。
1804 狂歌絵本『吉原/青楼/年中行事』板行。
   この年、『絵本太閤記』に取材した錦絵「太閤五妻洛東遊観之図」が幕府の忌諱
   に触れ入牢三日、手鎖五十日に処せられる。
1806 9月20日死す。浅草専光寺(世田谷区北烏山に移転)に葬る。法名は秋円了教居
   士。