落語のひととせ 5 夏の部2

   夏祭り その1                         (百川)
 どこの土地にも祭り好きの人はいますが、江戸っ子も祭り好きでした。そこに目立ちたがりが加わって、ついつい派手が度を超すこともあったようです。いよいお祭りが近くなったある日、日本橋浮世小路の百川という料理屋の二階に、魚河岸の若い者が集まりました。彼らは昨年の祭りの当番に当たった町内の若い者で、祭りの費用がかかり過ぎ、しかもその納めとして吉原に繰り出したもので勘定が足りなくなり、やむを得ず山車の上に立てる四神剣(しじんけん)を質屋に入れてしまったのです。なお、四神剣とは、天の四方を司る、北・玄武、東・青竜、南・朱雀、西・白虎が描かれている旗で、上に剣が付いていることからこう呼ばれますが、正式には四神旗と言います。祭りの山車には欠かせない物ですから、質屋も流す気遣いはないと安心して受けたのでしょう。祭りが近くなって、隣町に引き継がなくてはいけないので、どうやって四神剣を請け出そうかと相談をするための集まりですが、まだいい案は浮かびません。
 そんな祭りを前にした百川へ、地方出身の百兵衛さんが、現代のハローワーク、当時の口入れ屋の紹介で現れました。お目見え当日で、羽織を着ての盛装です。二階の若い者は妙案も出ず、ただ集まっていても仕方がないので、常磐津の女師匠を呼んでわっと騒ごうということになり、使いに行かせようと店の者を呼びます。間の悪いことに、この時座敷に出られる形の者が百兵衛さんしかいませんでした。
 百兵衛さんは呼ばれて、「うんひぇっ」と返事をしながら階段を上がりました。それが、座敷の人には「ぴぃー」としか聞こえません。客の前にかしこまって、精一杯丁寧に「おら、はぁ、しじんけのかきゃあにんでござりやして、しじんけの申されるには、ご一統様お揃いで、ご挨拶(ええさつ)をぶっていただきてえとうかがったわけで、ひえぇ」と挨拶をしました。すると、江戸っ子の早飲み込みで、「へぇ、へぇ、まことにごもっとなことで」と受け、「あっしゃぁ、この中の兄貴分で、あの四神剣についちゃぁ、まことに申し訳ないことで、もう少し人が集まりましたら、きちんとご挨拶をさせていただきますから、決してあなた様のお顔をつぶすようなことはございません」「こうだなつまらねぇ顔でも、どうかつぶさねぇようにお願ぇ申し上げます」「ご承知をいただいたのでしたら、敵(かたき)の家に来て口を濡らさずに帰るのもなんですから」と、甘党の者が食べていた慈姑(くわい)のきんとんを小分けして出しました。「こりゃぁ、何(あん)ですかな」「へ、餡でがす」「いや、何(あん)ちゅうもんかね」「こりゃ慈姑(くええ)のきんとんで、飲み込みにくいところでしょうが、今日のところはこの具合(ぐええ)をぐっと飲み込んでいただいて」と、百兵衛さんは、慈姑のきんとんを無理矢理丸飲みにさせられてしまいました。
 百兵衛さんは下に降りて柱に寄りかかり、喉の痛みに涙しています。二階は大騒ぎ、あまりの馬鹿馬鹿しさに、いったいあれは何者だと笑う者もありますが、応対をした兄貴分は、あれは隣町から四神剣の掛け合いに来た者で、実の姿は、何の何がしという名のあるやつに違いない、こうだな顔でもつぶさねえようにと、ぐっと胸ぐらをとられているし、最後に具合(ぐええ)と慈姑(くええ)を掛けてぐっと飲み込んでくれと言ったら、目を白黒して飲み込んで皆を笑わせて何も言わずに帰ったのは大した役者だと、しきりに感心しています。それにしてもこの店は、案内なしで客を上がらせるとは気がきかない、文句を言ってやろうと手を叩きます。
 手を叩いてみれば、来たのは百兵衛さんです。「おや、何かお忘れ物でも」と改めて聞けば、前の口上の「しじんけ」は四神剣ではなく「主人家」つまりこの家のこと、「かきゃあにん」は「抱え人」で奉公人のことだとわかりました。地方出身の振りをしていたのは、地のままでありました。
 誤解が解けた若い者たちは、百兵衛さんに長谷川町の常磐津の師匠亀文字(歌女文字・かめもじ)を呼びに行かせますが、わからなければ長谷川町でかの字の付く名高い人と言えば良いと言ったため、同じ町内の名医の鴨池玄林(かもじげんりん)を呼んできます。「この抜け作」「どれくらい抜けてます」「みんな抜けてるよ」「かめもじ、かもじ、たった一字だ」。
 江戸っ子の早飲み込みと早口に対するに、地方出身ののんびりさと、そして双方の言葉の訛りの食い違いです。百兵衛さんの言葉は、特定の地方を思わせない言葉になっています。聞き手に不快感を与えない心遣いです。
 百川で実際にあった話だいうことです。この百川は日本橋三越に近い浮世小路にあった実在の店で、ペリー一行を現代の価格で2億円ほどの料理でもてなした記録が残っています。明治の初年に姿を消しました。
 この咄の中では、どこの神社のお祭りと示されていませんが、河岸の人々というところから、赤坂日枝神社山王祭と推定します。

   夏祭り その2                (永代橋、梅の春、氏子中)
 文化四年、西暦で一八〇七年のこと、深川富岡八幡の祭礼が雨で四日延びたことがありました。富岡八幡の祭礼は、例年八月十五日、満月の日に行われます。八幡祭は、山王祭神田祭と並んでの大きなお祭りで、江戸中から多くの人が祭り見物に繰り出します。それが、四日も日延べになったので、人々の期待がふくらみ、より多くの人が詰めかけました。深川に行くには、大川を渡らなければなりません。そこに架かっていたのは永代橋、あまりの人出に落ちてしまいました。橋が途中から無くなっているのに、後から後から人が押し寄せてきて、制止することができませんから、次々と川へ落ちて流されて行きます。そこで一人の武士がとっさの機転で、刀を抜いて頭上で振り回しました。刀は遠くからもぴかぴか光るのが見え、それ抜いたと人々が尻込みして人波が鎮まり、多くの人が助かったと言います。この時の死者は四百八十余名、行方不明者二千名と伝えています。
 長屋の武兵衛がこの日八幡祭を見に行きました。ところが、帰ってきません。橋が落ちて人死にが出ているという噂が広まってきます。そこで多兵衛が様子を見に行くと、水死人の中に武兵衛そっくりの着物を着た男が置かれていました。これは武兵衛だと引き取って長屋へ運び、葬式の準備をしていると、ひょっこり武兵衛が帰ってきました。人が楽しんで帰ってきたのに縁起の悪いことをしやがってと武兵衛は怒ります。そこを大家がなだめて、「まあ、そう言いなさんな。どうやってもお前が分が悪い。よく考えてみろ、多兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわない」。
 永代橋が落ちたという事件から間もない時に作られた時事ネタという咄でしょう。この時に、「落っこち」という語が流行りました。だんだんに元の意味から離れて、お楽しみに落っこちる意味になりました。「旦那、どちらへ」「ちょいと浅草まで」「いよ、落っこちですね」というのは良いのですが、「棟梁、どちらへ」「建前だよ」「落っこちだね」「何を言いやがる」と、建前で落っこちてはいけません。川柳にも「落っこちができて私(渡し)が嫌になり」とあります。
 ついでに、「多勢に無勢はかなわない」という落ちの咄はもう一つあります。
 あるお屋敷に清元太兵衛が招かれ、同時に別の催しで絵描きの喜多武清(きたぶせい)も呼ばれました。清元太兵衛が座敷の若い女中衆に大人気なのに比べ、武清は控えの間を覗かれて笑われるばかりです。武清が腹を立てて帰ろうとすると、屋敷の主が、とりなして、「そう怒るな、昔から申すではないか、それ、太兵衛(多勢)に武清(無勢)はかなわない」。
 こちらの咄の中で清元「梅の春」に触れられていて、この曲の作られたのは永代橋事件より前なので、こちらの咄が先に出来たのではないかと思われますが、確証はありません。
 山王祭・八幡祭とくると、神田祭を並べたいのですが、咄が見つかりませんので、神田明神にちなむ咄を一つ紹介しましょう。
 越後へ商用で出掛けた与太郎が帰宅すると、女房が妊娠しています。女房は、留守中に子供がほしいと神田明神に日参したので出来たと言います。親分に相談すると、子が生まれたら皆を呼んで一杯飲ませて、そこで生まれた子の胞衣(えな)を荒神様のお神酒で洗うと相手の家紋が出るから、そいつに女房子を引き取らせろと知恵を付けてくれました。さていよいよ出産して、胞衣を洗うとありありと神田明神の紋が顕れました。女房は、「ほらご覧、明神様のお子じゃないか」「まだ何か出てくる」「何だえ」「そばに氏子中としてある」。
 狛犬などを神社に仲間で奉納すると、一人一人の名を連ねずに、「氏子中」と表記する場合があります。この子は、氏子一同の協力によるものだったのです。ついでに、こういう浮気な女を、「枇杷葉湯(びわようとう)」と言いました。これは、枇杷の葉を煎じたものに肉桂などを混ぜ、宣伝のために路上で通行の人々に無料で振る舞った薬湯の名になぞらえて、誰にでも振る舞う尻軽女ということです。

   夏祭り その3                 (佃祭、[佃島のお囲い])
 佃島は江戸ではありますが、もともと徳川家康が江戸に入植したときに、摂津の佃村の住人が移植したという、少し雰囲気の違う土地です。この島に住民が移植した時、佃村の住吉神社が分霊されて祀られました。この住吉神社のお祭りが佃祭で、島全体の気持ちがまとまるので盛り上がり、見物の人でたいそう賑わいました。佃祭を見るのに、昭和三十九年に佃大橋が架けられて簡単に行けるようになりましたが、それまでは渡し船で渡るしか行く方法がありませんでした。
 さて、その祭りの当日、祭り好きの次郎兵衛さんは、やきもち焼きの奥さんに嫌みを言われながら祭り見物に出掛けました。いよいよ日暮れ、渡し船は暮れ六つ限りということで、終い船は超満員になりました。次郎兵衛さんがその船にやっとのことで乗り込めたと思った途端、若いお神さんに袖を引かれて、とうとう乗り損ねました。家のことを考えると気が気ではありませんが、もう渡し船はなく、次郎兵衛さんは、「人違いでしょう」とお神さんに向き合いました。
 お神さんは、三年前に向島で三両の金を落とした娘の身投げを助けたことはないかと訊き、次郎兵衛さんは記憶をたどって、確かに助けたことを思い出しました。お神さんはその時の身を投げようとした娘で、その当時は動転して相手の名前も所も聞かないで別れてしまったため、「向島の旦那様」と書いた紙を神棚に貼り、長年探していたと言います。佃島の船頭に嫁いだので、自由に船で送ることができるとの話で、次郎兵衛さんは安心して歓待に与ることになりました。しばらく話していると、表で、終い船が沈んだという人声です。全く泳げない次郎兵衛さんは真っ青になりました。船頭の夫も帰って来ました。次郎兵衛さんはすぐに帰りたかったのですが、沈んだ直後に船を出すわけにはいかないということで、夫婦と話をして、翌朝まで待つことになりました。
 一方、次郎兵衛さんの家では、日が暮れても帰ってこないのでやきもきしていると、船が沈んだという知らせが届きました。町内の者が葬儀の支度をして、遺体を引き取りに行こうと準備をしているところに、次郎兵衛さんが無事に帰ってきて、三年前に身投げの娘を助け、そのお蔭で命拾いをしたことを話しました。お神さんは嬉しさ半分、やきもち半分ですが、とにかく良かったと町内一同喜びました。
 これも、身投げを助けた次郎兵衛さんの陰徳と評判が高くなりましたが、この話を聞いた与太郎が、身投げを助けると良いことがあると一筋に思い込み、三両の金を用意して日々身投げを探し始めました。ある夜、やっと、橋の上で涙を一杯溜めた女が一人、橋の上で手を合わせているのを見つけました。与太郎はしめたと、「金を落として死ぬのだろう」と抱きつくと、「何をするんんです。私ゃ身投げじゃありませんよ」「だって袖に石が入っている」「これは戸隠様に納める梨でございます」。
 歯が痛む時は、梨を食べるのを断って、梨に痛む歯の場所を書いて橋の上から戸隠様を祈って梨を川へ投げ込むと治るという民間療法があったのです。梨の実には、歯を溶かす物質があるということで、効き目があったそうです。
 この咄は、佃島渡し船が沈んだ記録はなく、永代橋が落ちたのを渡し船に置き換えたということです。永代橋から佃島はすぐ、目と鼻の先で、浮世絵に一緒に描かれています。
 佃祭のお神輿は、天保年間に八角神輿が奉納され、ますます豪華になりました。その神輿渡御の様子は、歌川広重の「名所江戸百景」に「佃しま住吉の祭」という題で、幟に布目摺りが施された豪華な摺りの絵に描かれています。
 佃島が江戸から離れているというのは「お囲い者、三月の節句佃島」の題で作られた三題咄にうかがえます。「お神さん、旦那がまたお囲い者をしましたよ」「どこへ」「お神さんが船に乗れないのを良いことに、今度は佃島ですよ」「いいよ、三月のお節句になれば大潮で潮が引くから歩いていくよ」「歩いちゃあ行けませんよ、旦那様でも首ったけですもの」。

   物売り                 (苗売り、百姓娘、朝顔、甘酒屋)
 江戸の町には、いろいろな物を売る行商人がいました。夏になると、苗売りがやってきます。「朝顔の苗に、夕顔の苗」「ちょいと、苗屋さん、おしろい(花)の苗はないかい」「えぇ、今日は持ってこない(ねぇ、苗)」、また鯉の洒落にあった「え」と「い」の落ちで、これは、五代目古今亭志ん生がやった小咄です。
 朝顔つながりで進めます。朝顔といえば、七月六日から八日にかけての入谷鬼子母神朝顔市が有名です。江戸時代、朝顔栽培が盛んになり、交配や突然変異によって、いろいろな朝顔が生まれました。葛飾北斎の「朝顔に蛙」という浮世絵に、そのいくつかが描き留められています。
 根岸の里というと、江戸時代は閑静な土地で、町家の保養所を兼ねた別荘と在の農家とが混在した土地でした。その閑静さを表すのに、上五字に適当な季語を入れれば俳句が出来る「○○や根岸の里の侘び住まい」という便利な句があります。この根岸は現在の鶯谷駅近くで、当時の様子は全く想像できません。それはともかく、ある男、隣の家で朝顔が見事に咲いているのでそっと見ていると、美しい娘が出て来て、これも朝顔の花を見ています。風情があるなと感心していると、娘は花をねじって取って、チーンと音高く洟ををかんで捨てました。平安時代の『伊勢物語』に始まり、王朝物語では必ずと言って良いほど出てくるお定まりの「垣覗き」の場面で、ここで男が娘を見初めて恋が始まるという、まさに古典的な場面なのですが、そうはならないというのが、物語の世界と咄の世界の違うところです。
 もう一つ、ある寝坊な男、朝顔の花がきれいだと話には聞いていますが、実際に見たことがありません。そこで一念発起して、早起きをして庭に出ると、朝顔が見る見るしぼんでゆきます。「これ、まだ朝早いのにしぼむとはどうしたことだ」と朝顔に訊くと、「あなたが起きたから、もう昼過ぎかと思いました」。
 話を朝顔から物売りに戻しましょう。
 暑い中の物売りは大変です。昔も今も暑気あたりには気を付けました。「笠の下に青菜を一枚入れといてやんな、暑さに当たらない呪いだ」と行商に出る甥を気遣う叔父さんの言葉が「唐茄子屋政談」の中にあります。
 定斎屋(じょさいや)という、豊臣秀吉の頃に中国から製法が伝えられた煎じ薬を小さな簞笥に入れて売って歩く夏だけの薬売りの商売があります。簞笥の鐶をカタンカタンと鳴らして歩きます。「じょうさいや」とうのが正しいのでしょうが、江戸では「じょさいや」と言っています。炎天下、薬の効能を強調するためか、笠も被らずに鐶の音高く売り歩きます。「『定斎屋さんは元気だね』とみんな言うんですが、、なに、病気の時は売りに来ないんで」と五代目古今亭志ん生が言っていました。
 また、飲み物として、「夏祭り その2」の項で隠語として触れた、枇杷の葉を煎じたものに肉桂などを混ぜた飲み物を宣伝として誰にでも無料で飲ませ、正式な名を「本家烏丸枇杷葉湯(ほんけからすまびわようとう)」という薬湯や、「冷やっこい、冷やっこい」と呼び歩いて、白玉を一つ浮かせた砂糖水を売る水屋がありました。この水屋、水質の悪い地域に水道の水を毎日届ける商売も水屋と言いましたので、まぎらわしく、清涼飲料水の方を「水売り」として区別する人もいます。「富札 その3」に書いた「水屋の富」は、生活用水を運んで売る方の水屋です。
 暑いときに熱いものを口にするとかえって涼しくなるということで、甘酒売りが出ました。甘酒売りが炎天を歩いていると、「甘ーい、甘酒」「おーい、甘酒屋、あついかい」「へえ」「暑けりゃ日陰歩きねぇ」。これを聞いていたのが、うめえこと言いやがる、俺も一つやってみよう、なんてんで、「甘ーい、甘酒」「おーい、甘酒屋、あついかい」「へ、飲みごろで」「うーん、一杯くんねぇ」。一杯買わされたという咄です。もともと甘酒は陰暦六月に宮中で用いられたもので、夏の季語になっています。江戸時代に冬にも売るようになり、幕末には一年を通して売るようになりました。

  夏の青物 1                   (馬のす、大仏餅、青菜)
   枝豆                         (馬のす、大仏餅)
 夏の食べ物の咄を拾います。ある日、近々釣りに出ようと思って、久々に釣り道具を引っ張り出しました。その時、馬子が戸口に馬を連れてきてつないで行ってしまいます。現代で言えば違法駐車と言ったところです。表に出て見ましたが、馬子の姿は見えません。仕方なく家に戻って、釣り道具の点検を始めると、天蚕糸(てぐす)に虫が入っていて使い物になりません。これでは釣りに行けない、困ったと思いましたが、目に入ったのは馬の尻尾です。これぞ天の恵み、誰も見ていないのを幸いに、一本ずつ抜いて天蚕糸の代用にしました。
 そこへ友達がやって来て、何をしているのかと聞かれたので、天蚕糸の代用として馬の尻尾を抜いたことを話すと、友達の顔色が変わりました。「お前、知らないのかい、俺が馬の尻尾を抜いていたら、親切な人が、『馬の尻尾を抜くとこれこれこういうことがあるから、やっちゃいけませんよ』と教えてくれた。俺ぁそれを聞いてびっくりしたんだ」と言います。さあ、馬の尻尾を抜くとどういうことになるか知りたくなり、教えてほしいというと、友達は、ただでは教えられないと言います。一杯飲ますということで教えて貰うことになりましたら、ちょうど枝豆が良い色に茹だってきました。友達は酒を飲み、枝豆を口に運び、いくら聞いてもはぐらかして世間話にして、なかなか教えてくれません。やがて、「お酒もおしまい、枝豆もおしまい」と枝豆の殻を両手で掬って片付けました。もう待ちきれませんので、「馬の尻尾を抜くとどうなるんだい」「馬の尻尾を抜くと、……馬が痛がるんだ」。
 八代目桂文楽がやり、その酒を含み、枝豆を口に持って行って、すっすっと吸う仕草が何とも言えないものでした。世間話の中に、何の脈絡も無く、「電車混むね」と入り、いつも笑ったものでした。文楽は、この咄を落ちを言って終えた後に、初代三遊亭圓朝作の「大仏餅、袴着の祝い、新米の盲乞食」という題による三題咄の「大仏餅」を付けたものでした。「大仏餅」の筋を記しましょう。神谷幸右衛門という商人が没落し、目が見えなくなって物乞いに来ます。それでも幸右衛門は、朝鮮砂張の水こぼしだけは大切に持っています。物乞いの先で、この水こぼしによって幸右衛門の身元が知れ、座敷に上げられて大仏餅を食べると、餅が詰まります。背中を叩くと、目が開いて鼻がふがふがになります。「食べたのが大仏餅、目から鼻に抜けた」ということで、奈良の大仏の目が傾き、修理する者が目の裏に入って直し、目から鼻に抜け出てきたという咄を仕込んでおかないと通じない咄なのですが、文楽はその仕込みをせずに話していました。昭和四十三年八月三十一日、国立小劇場の第四十二回落語研究会の高座で、文楽は朝鮮砂張の水こぼしの名称が出ず、ようやく立て直したかに思えましたが、神谷幸右衛門の名が出ず、とうとう、「申し訳ございません、家で稽古をしてまいります」と切れ切れにしか聞こえない声で挨拶し、以後、二度と高座に上がることはありませんでした。客席は静まり返り、昭和の名人の思いがけない退場を見送りました。当日、台風のために交通機関が乱れ、半分程度の入りであったのは、文楽にとって幸運だったのかもしれません。筆者はその数少ない目撃者の一人です。放送局は、記録用の録画をしていなかったようで、当日の録画を見たことがありません。
   青菜                              (青菜)
 植木屋が一服していると、この家の主が植木屋の仕事ぶりを褒め、「柳蔭」を貰ったから一杯お上がりなさいと勧めてくれました。「柳蔭」というのは、味醂に焼酎を加えた酒で、夏場に冷やして飲むとほどよい甘口になるという酒です。肴として出されたのが鯉の洗い、喜んで飲んでいると、主から、「植木屋さん、あなた菜はお上がりか」と聞かれました。遠慮は失礼とお願いすると、主は「これよ、これよ」と奥さんを呼び、青菜を持ってくるように言います。台所に言った奥さんが戻って来て、「旦那様、鞍馬から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官」「では、義経にしておけ」ということで、菜はないと告げられました。誰か来たのかと思ってこの言葉の意味を聞いた植木屋に、主は、このやり取りは隠し言葉で、「名は菜、九郎で食らう、つまり菜は食べてしまってない、それなら義経、止しにしておけ」ということで、お客様の前ではっきり言うとおかしいのでああ言ったと教えてくれました。
 この絶妙な隠し言葉に感心した植木屋、これで友達を驚かしてやろうと、家へ帰って神さんに教え込みます。次の間がないので神さんを押し入れに入れ、鯉の洗いはないので鰯の塩焼き、「柳蔭」ももちろん無く、いつもの安酒を並べて、通りかかった友達を呼び入れました。飲ませて、「菜をお上がりか」「嫌いだ」「そう言わずに」と無理矢理承諾させて、神さんを呼びます。押し入れから汗びっしょりで出て来た神さんに菜を言いつけると、「鞍馬から牛若丸がいでましてその名を九郎判官義経」「うーん、弁慶にしておけ」。
 この咄、柳蔭という上方の優雅な呼び方があるので、上方出来の咄のようです。柳蔭について、『日本国語大辞典』では、「味醂と焼酎とを混合し、味醂のもろみが完全に熟成する前に焼酎を加えて圧搾濾過して造った酒。夏季、冷やして飲む。なおし」とあります。「直し」を引くと、「直し酒」の項へ行き、「下等な酒、腐敗しかけた酒を加工して、普通の酒と同じような香味に直した酒」とあります。両者はだいぶ違いますが、ここは咄の世界、鷹揚においしい飲み物としておきましょう。青菜という題で始めたこの咄、青菜は食べてしまってないのです。
 また、『落語事典』(青蛙房)の青菜の項に「上方の通言で、人のおごりでふるまわれるのを弁慶という」と余分な解説が書かれています。これは「船遊び」の項で取り上げた「船弁慶」用の解説で、ここの弁慶にはそういう意味はないでしょう。

  夏の青物 その2              (夏の医者、茗荷宿、千両蜜柑)
   萵苣(ちしゃ)                        (夏の医者)
 ある農家の父親が、体の調子が悪くなり、飯の量が減ってしまいました。このまま放っておくわけにもいかないので、山一つ向こうの玄伯さんというお医者さんを呼びに行くことになりました。「上手にも下手にも村の一人医者」という川柳がありますが、とにかく頼りにするだけです。
 山を回ってようやく玄伯さんの家に着くと、種蒔きのさなか、途中で止めるとどこまでやったか判らなくなるということで、終わるまで待たされ、今度は道はきついけれど近道だということで、山越しで戻ることになりました。汗みずくになったので、山頂で一服したところ、急にあたりは真っ暗になりました。生臭い臭いがして、地面が揺れます。落ち着いて考えると、この山に古くから住む蟒蛇(うわばみ)に呑まれたらしいのです。このままここに長居をすれば、やがて溶けてしまいます。玄伯先生は薬籠を開けて粉薬を撒き始めました。しばらくすると大地が振動、二人は遥か彼方の小さな光めがけて流され、明るい地上に放り出されました。先生の下し薬が効いたのです。二人は転がるように山を下りました。
 さて、診察してみれば、暑気あたりのところに、御飯をたらふく食べただけでなく、萵苣の胡麻和えもたくさん食べたもので下痢気味になったと判りました。「夏の萵苣は腹に障る、腹も身の内」といさめても遅いので、とにかく薬を調合しようとしたら、薬籠は蟒蛇の腹の中に置き忘れたことを思い出し、先生は再び山に戻ります。山を登れば蟒蛇は、生まれて初めて下剤を掛けられたためにげっそりして、木にぶら下がっています。「お前の腹の中に薬籠を忘れてきた。もう一度呑んでおくれ」「嫌だ、夏の医者は腹に障る」。
 この咄の萵苣は、唐萵苣(とうぢさ)のことでしょう。料理法は、萵苣汁、生食、和えもの、なますです。一年中食べられるところから不断草の名が付いていますが、夏場になると虫が付き、食べ過ぎると体を壊すことがあるので、要注意です。山本周五郎の『日本婦道記』の中に、不断草の和え物で、盲目になった姑が不縁にした嫁が自分の世話をしてくれているのに気づいて心の交流をするというすてきな作品があります。
   茗荷                             (茗荷宿)
 茗荷は、夏に花穂が出て、これを食べます。伝説として、インドに周利槃特(しゅりはんどく)というお釈迦様の弟子がいました。自らの名前も忘れるくらい愚鈍でしたが、お釈迦様は決して見捨てませんでした。名前を書いた旗を背負わせ、箒を与えて掃除をさせていました。ある日、槃特は豁然として大悟したということです。その人のお墓に生えたのが茗荷で、名を荷うところからこの名が付いたと言われます。その話から、茗荷を食べると物忘れをすると言われるようになりました。
 旅人が宿に泊まり、物騒だからと大枚の金を亭主に預けます。これを忘れさせようとして、宿の夫婦は茗荷づくしの膳を出しました。翌朝、目論見通りに旅人は金を忘れて旅立ちます。しめしめと思った夫婦、ところが、やがて旅人が血相を変えて金を取りに来ました。夫婦はがっかりして旅人を見送りました。旅人が遠くへ行ったころ、亭主が「しまった、宿賃を貰うのを忘れた」。
 自分たちも茗荷を食べてしまった夫婦、という民話にもある咄です。
   蜜柑                            (千両蜜柑)
 蜜柑は冬場の果物、なぜここに書くのかと疑問を持たれるでしょう。実は、夏場に、江戸の昔には手に入るはずのない蜜柑を食べたいと思い込んだ商店の若旦那がいたからです。ある夏、若旦那が原因不明、当時で言うぶらぶら病(やまい)になりました。これはきっと「夏痩せと答へてあとは涙かな」で、恋患いだろうと思いましたが、番頭が聞いてみると、蜜柑が食べたいとのことでした。蜜柑ならいくらでも手に入ると安請け合いをした番頭、よく考えたら今は夏のさなか、蜜柑がない時です。
 旦那は、もし蜜柑が手に入らなかったら、番頭を息子殺しで訴えると言います。もう後戻りができなくなった番頭は店を飛び出し、尋ね尋ねて神田多町(たちょう)の青物問屋を軒並みにあたりますと、一軒であるという返事を貰いました。その蔵には蜜柑の箱がぎっしりとあります。片端から開けて、たった一個ありました。代を聞くと千両とのこと、収穫期に、いつほしいと言われても応えられるように蔵にしまい込んでおいたものだからという理由です。蜜柑の季節なら一両で蔵一杯買えるのにと店に帰った番頭に、旦那は、息子の命が千両で買えるなら安いと千両出します。買って帰ると息子は嬉しそうに皮をむくと十袋ありました。七袋まで食べた息子は、残りを両親と番頭にと渡します。考えてみると一袋百両になります。このまま辛抱しても暖簾分けの時に三百両は貰えないと思った番頭、蜜柑三袋を持って消えました。